本文へスキップ

高齢者・子どもたちの笑顔あふれる街 四條畷市立教育文化センターは

四條畷市立教育文化センター
お問い合わせはTEL.072-878-0020

〒575-0021 大阪府四條畷市南野5丁目2-16

 

過去のイベント紹介

四條畷楠正行の会 第39回例会

日時 平成30年2月13日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
極寒にも関わらず全員出席 新たに仲間も。
 今月の例会は、「観阿弥と正行」がテーマで、観阿弥伊賀説に立つと観阿弥の母は正成の姉(もしくは妹)で、観阿弥は正成の甥という事になるので、正行と観阿弥は従兄弟同士という事になる
 ところが、観阿弥には大和説も有力で、観阿弥と正成の関係を否定する研究者もいる。
 今回は、この伊賀説の急先鋒者梅原猛と、伊賀説を昭和の創作と言いきり大和説に立つ表章の論争を取り上げ、「果たして観阿弥は楠正成の甥か」とタイトルをつけてリポートした。
 そのため、関係書籍も多くなり、手荷物いっぱいに、教育文化センター2階ホールの入り口に立つと、まだ1時を過ぎたばかりというのに、既に5人の会員が座っている。より正確に言えば、4人と新しい会員一人だったのだが。
 寒い日が続き、インフルエンザも流行していることから、欠席者も多いのではないかと思っていたが、この日は何と会員全員が集まった
 加えて、新しい仲間が一人加わり、休会を除く16人での例会となった。


↑例会の様子(久々の会員全員出席)

↑例会の様子(最近は、座る位置もほぼ決まってきた)
例会の
内容
1月例会のおさらい
楠正行通信第62号/山鹿素行と正行
・軍法とは士法に在り、と断じた山鹿素行
・兵法はわが心を治め、家を整え、国を平らかにする
・素行学に一貫する特質は、実学的傾向である
・楠木父子万世忠孝の鑑
・孝道は百行の本 忠孝は武士の励む最たる徳
・建武中興・楠木正成を真似るな~反駁的尊王を戒めるが故

*楠正行通信第63号/楠正行正四位下に叙されていた
・文化6年、小楠公墓所敷地内に正行顕彰碑建立
・正四位下検非違使兼河内の守楠公碑
・公諱は正行、帯刀左衛門尉と称せり
・正四位下の事、1967四條畷町勢要覧に載る
 大阪府全志、四條畷市史にも
・今も、小楠公墓地樟樹の南に静かに立つ
・京都大学ネット公開の拓本は四條畷神社の提供

●観阿弥と正行
□産経新聞「戦後72年楠木正成考」第14
  『楠公さんを生んだ兵庫・神戸』


 ― 以下、新聞記事より
 神能殿(湊川神社)で紹介されている系譜は、観阿弥の父方の実家、伊賀の上島家の古文書から発見された『観世福田系図』と兵庫県揖保川町の豪農、永富家の古文書で裏付けられた。
<楠家と観世家の関係略図>


 正成には妹がおり、伊賀の服部家に嫁いで能の始祖・観阿弥を生んだことを示すものだ
 観阿弥は服部家に連なる永富家から嫁をもらい、世阿弥、そして観世家へとつながる家系となった。
 永富家は現在のゼネコン「鹿島」の創業家へとつながる。
 この縁で、神能殿は鹿島が建てた。

□果たして観阿弥は楠正成の甥か
 上島家文書の評価をめぐり真っ向から意見対立 梅原対表
☆上島家文書を評価し、伊賀説を主張する梅原猛/「観阿弥と正成」
 この伊賀説に立てば、観阿弥の母は、楠正成と姉弟で、観阿弥は正成の甥
 文学界への影響は大きく、吉川英治を筆頭に、伊賀説採用の小説多数輩出
☆上島家文書を昭和の創作と伊賀説否定する表章/「昭和の創作『伊賀観世系譜』梅原猛の挑発に応えて」
 伊賀説観世系譜は明治42年刊「世阿弥十六部集」からの引用明らかで、少なくとも同年以降の編纂。
 昭和13年刊「能楽源流考」等の影響は確実で、昭和20年直前の編纂である可能性も


       果たして観阿弥は楠正成の甥か
    上島家文書の評価をめぐり真っ向から意見対立

「観阿弥と正成」で伊賀説を主張した梅原猛

 能楽研究者の「上嶋家文書」に対する拒否と沈黙は、このような「上嶋家文書」に記載された衝撃の事実をどう受け止めてよいのか唖然としている状態から生じたことであるとみてよかろう。
 私は、この二つの事実を認めたら、観阿弥・世阿弥解釈ひいては能楽解釈のコペルニクス的転回を行わざるを得ないと思う。
 私は全面的に表氏に論争を仕掛けたいと思う。表氏の伊賀説の否定は、観阿弥・世阿弥を正しく捉える道を閉ざしてしまうものである。
 明治42年、吉田東伍氏「世阿弥十六部集」以来この伊賀説は疑われ、能勢朝次氏の「能楽源流考」において、観阿弥の本拠を伊賀ではなく大和とする説が定着した。そして昭和49年、香西精氏の「観阿弥生国論再検」と表氏のその説の全面的支持によって、伊賀説は完全に息の根を止められてしまったのである。
 私はここで、じっくり香西氏、そしてこの香西氏の論を支持する表氏に反論したいと思う。


    表章「昭和の創作・伊賀観世系譜」で伊賀説否定

 観阿弥が故郷を奪われたというのは、香西精や私が観阿弥伊賀出身説や伊賀創座説を否定したことを意味しており、それを批判して観阿弥伊賀出身説を蘇生させることが本書(「観阿弥と正成」梅原著)の主眼であることを暗示している。
 あからさまな挑発を受けながら何の返答もしないのでは、梅原の意見に表が屈したかのように感じる人が出ないとは限らない。能楽研究者全体への侮辱とも聞こえる発言が含まれているのを放置するのも、仲間内では屈指の古株となった身として無責任のように思われる。何らかの形で「観阿弥と正成」の梅原説が空論に過ぎないことを明らかにしておく方がいいだろうと、考えを改めた。
 伊賀観世系譜が後代作成のいわば偽文書であることを明らかにすれば、そんな文書を信用し、最重視し、誇大評価して話を展開している「観阿弥と正成」の内容がいかに空疎であるか、梅原の「画期的芸能論」なるものの実質の詭弱さがおのずと暴露されると考えたからである。
 伊賀観世系譜が創作されたのは、のちに本論で論述する事ながら、昭和10年代になってからの可能性が高い。
 楠正成が観阿弥と叔父・甥の関係であるとする楠・観世縁戚説や、鹿島守之助氏の生家たる播磨永富家と観世家が縁戚だとの説、が、これまた近年の創作に過ぎないことにも詳しく論究するであろう。

◆梅原猛の伊賀説/「観阿弥と正成」より
上野市浅宇田(あそうだ)地区の旧家、上嶋家所蔵の文書
出典 「観阿弥出生に関する一考察」(昭和3211月 国語国文に発表)
「『観世福田系図』をめぐる諸問題―伊賀国浅宇田村上嶋家文書」
(昭和355月 国語と国文学に発表)
いずれも久保文雄氏論文
「観世系図」と「観世福田系図」の発見
<今までの能楽論に根本的に改変を迫る情報>
 世阿弥が愛した息子、観世元雅は足利義教の家臣である斯波兵衛三郎というものによって殺された。
 この元雅の死について、世阿弥は自分の能の道は終わったというほど深く嘆いているが、元雅が殺されたという事は口にしていないし、今までの世阿弥の研究者で元雅が殺されたと考えた人もいなかった。

② 世阿弥の父、観阿弥の母は、楠正成と姉弟で、観阿弥は正成の甥にあたる。
 観阿弥が、戦前には無二の忠臣とされ、戦後には悪党とされた正成と縁戚関係にあるとは、今までの能楽研究者にとっては想像もできない説である。
③ 伊賀上野市八幡町の上島良久家において、播磨国揖保庄永富家についての記載ある系図文書、すなわち観世福田系図が発見され、世阿弥の長子・元次の子に元国がおり、その元国の子に元定とう者があって、その元定について「播磨国揖保庄永富播磨入道の預かり人、母世良田木興介信貞の女」という記述があって、更にその子清隆は「永富氏 六郎左衛門」とある。播磨の永富氏(鹿島守之助の生家)は世阿弥の長子の系譜に在り、伊賀の服部、河内の楠、播磨の永富、以上三つの家には結縁が深かった。


<小説家の直感―文学の中の真実 ~ 上島家文書の文学界等への影響>
 □杉本苑子 「華の碑文」昭和39
 □白洲正子 「世阿弥の歩いた道」(エッセイ)
 □林家辰三郎「南北朝」(創元歴史選書)昭和32
 □平泉澄  「楠公 その忠烈と余香」昭和48
         ~ 正遠は正成の父ではなく、正成の一門の人物
 □吉川英治 「私本太平記」昭和34
         ~ 観阿弥伊賀説採用の最初の小説

◆表章の大和説/「昭和の創作『伊賀観世系譜』より

「世阿弥の生涯をめぐる諸問題」(「文学」昭和381月号)
 上島家文書はほとんど文化・文政以後の作成筆写であり、事に系図は、上嶋家やその縁者を観世大夫家と関連付けようとする意図のもとに、「申楽談儀」の観世祖先に関する記事や、世阿弥伝書の歴史関係の記事、後世の観世家伝説、金春家系図等を参照しながら、巧みに組み立てられたものとみなさざるを得ない。
*少なくとも明治42年以降の創作である。
 伊賀観世系譜両系図は、「申楽談儀」第23条に現れる多くの固有名詞を共有している。

 出版された最初の「申楽談儀」は、明治41年、吉田東伍校注の『世子六十以後申楽談儀』だが、会員用に少部数刷られただけで、一般には入手困難だった。
 一般人が入手可能なものは、翌明治42年に同じ吉田・池内が発行した「世阿弥十六部集」に含まれる「申楽談儀」だった。
 固有名詞の共有を詳細に見ていくと、伊賀観世系譜は吉田本を参照し、それも取り入れて系図を編んだもので、その時期はどんなに早くても明治42年以後であると主張できよう。
*伊賀観世系譜は昭和以降の編纂
・四座役者目録の利用
 観世大夫の四・五世の名を正盛・祐賢の形に並べる奇異な形が観世大夫家系譜としては「四座役者目録」独特であり、それを伊賀観世系譜は継承しているのである。
 さて、この「四座役者目録」はむかしから著名な能楽史料ではなく、重要な本で、能役者の間で珍重はされたものの、能界以外ではほとんど知られていなかった。
 この本の片山家本が、『観世』昭和510月から69月号に翻刻されて能楽研究家が注目するようになった史料で、それ以前に「四座役者目録」を利用した研究は皆無のはずである。
・能楽源流考の利用
 伊賀観世系譜は、室生家系譜からの借用の可能性が高い。
 この室生家系譜は孤立性の強い江戸期編纂の資料で、昭和4年の雑誌「室生」を読むか、昭和13年発行の「能楽源流考」(能勢浅次博士著)を読むかして、その翻印を使用する以外に利用するすべはないはずである。198

・世阿弥・元雅父子は、南朝と縁を持っていたとする野々村戒三の影響
 「世阿弥父子の失脚」(「文学」昭和114月号)~最初の論考
 「世阿弥父子の晩年」(「能楽史話」所収・昭和19年刊)~広く流布
 ― 戦後、能や世阿弥を題材とした文学作品には、世阿弥父子を南朝寄りの立場に設定したものが少なくなかったが、その源は野々村氏の推測説だった。
(結論)
 伊賀観世系譜は、明治42年発行の吉田東伍校注「世阿弥十六部集」を利用していることが確実であり、どんなに早くとも同年以降の編纂である。また、昭和初期に学会に紹介された「四座役者目録」を利用している上に、昭和13年発行の能勢朝次博士著「能楽源流考」やそれに前後する頃の野々村戒三氏の著書の影響を被っていることの確実な記事を含んでいるから、昭和20年ごろまで近接した時期になっての編纂である可能性が極めて高い

その他の資料から
☆名張市役所ホームページ
 

 観阿弥は妻の出生地である名張市小波田で初めて猿楽座(後の観世座)を建てました。
 観阿弥は田楽や猿楽という歌舞が唯一の娯楽であった時代に生きた猿楽師の一人で、元弘3年(1333)伊賀の国に生まれました。(但し、大和盆地南部を本拠とする山田猿楽の出身との説もあります
 幼名は観世丸、本名は清次といいます。伊賀の人という説ですが、伊賀のどこで生まれたかははっきりしません。
 学界でも問題になっている、上野の上島家の文書によれば、観阿弥は伊賀国阿蘇田(現在は名阪国道、上のインターチエンジ付近)の豪族、服部元成という人の三男として生まれ、母は河内国玉櫛庄楠正成の兄姉という事です。父の元成は上嶋家に生まれ、服部家を継いだので、観阿弥の本名は、服部三郎清次になっています。
☆人物叢書「世阿弥」(今泉淑夫著)
 
観阿弥の出身については「申楽談儀」第
22条の、能面と面作者について記した部分に、「翁は日光打、弥勒、打手也、この座の翁は弥勒打也、伊賀小波多にて、座を建て始められし時、伊賀にて尋ね出だしたてまつし面也」という記事がある。ここから、観世は伊賀において座を建立し、貞治2年(1363)の頃に観阿弥が伊賀から大和に進出して、結崎に一座を建てたとする説が成立したことがある。
 これに対して、香西精『伊賀小波多』は、その説は史料の誤読で、「伊賀小波多にて」は観世座の名手弥勒の打った翁面を伊賀小波多で探し出したことを指していて、伊賀に座を創設したことを示す傍証がないこと、興福寺・春日神社などの猿楽座の有力な本所のある大和ではなくて伊賀の僻地に座を創設するのは考えられないことを挙げて、伊賀説を否定した。
 室町中期の禅僧景徐周麟の「観世小次郎信光画像賛」に観世が伊賀服部氏の出自であるとするのは誤りとされ、観世の伊賀生国説を支持する「観世福田系図」等の史料についても、香西精「観阿弥国再検」は、旧説に伊賀国山田とするのは誤りで、大和国山田(奈良県桜井市山田)であると訂正して、これが通説となっている。


●この日の例会の他の議題は以下の通り。
□大阪電気通信大学2018社会プロジェクト実習
 「楠正行カルタ」の制作について
 四條畷市・四條畷市教育委員会の後援正式決定!
□現地学習/上北山村・楠正行を祀る四位殿神社を訪ねて

 日時 323日(金)、24日(土)の12
 この日、参加のしおりを配布し、2日間の行程確認、そして出欠を確認
 10名の参加
319日開催「楠正行シンポジウム」について

 タイムスケジュールの確認/以下の通り
 *日時 319日(月)
      1230分 開場
      1300分 開会あいさつ/四條畷市長
      1310分 第1部/東儀秀樹特別公演
      1350分 第2部/活動報告/扇谷、木子、絵本贈呈式
      1450分 休憩
      1505分 第3部/パネルディスカッション
           「小楠公と四條畷市~正行公の生き方と魅力」

           登壇者/東、寺井、扇谷:安本記者
      1615分 閉会あいさつ/産経新聞社齋藤副社長
 *場所 大阪電気通信大学コナミホール950人収容(850人募集)
     忍ケ丘駅とグリーンホール田原から無料シャトルバス運行

正行シンポジウム成功に向けて

 四條畷市サポート寄附(ふるさと納税)お礼品
 楠正行をたずねる特別バスツアー
 四條畷市と四條畷楠正行の会の共催で実施! ほぼ決定!
 424日(火)、26日(木)の2回実施予定
 ふるさと納税いただいた方を、限定20名様日帰りバスツアーにご招待!
 詳細は、四條畷市から近日中に発表予定。乞う、ご期待!
□教育文化センター児童学習講座に協力
 小学生とその保護者<祖父母含む>を対象に、郷土ゆかりの人物楠正行について、絵本読み聞かせや映像スクリーン紙芝居等を通じて、楽しき学ぶ講座を開講。52回開講予定。近日発表。
 扇谷は講師として協力。
□ふるさと納税お礼品「正行像賛扇子」について
 10月に1本/大東市
 11月に1本/東京都
526日開催、湊川神社・楠公武者行列について
 現地学習として観覧することに決定
421日開催、湊川神社「明治維新と楠公崇系」シンポジウム

 会として希望者出席

その他
連絡等
次回例会 
 日時 3月13日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 3.19楠正行シンポジウムについて
    3月現地学習・上北山村について
    電通大学正行カルタプロジェクトについて、他


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信62号・63号はコチラからも(PDF)




教文「第二十三回 新春ミニ・コンサート」

日時 平成30年1月21日(日) 午後1時より3時30分
場所 教育文化センター 全館 
イベント内容 教文ホールでは恒例の音楽会が行われ、女声四重唱、二重唱、フルート演奏、バイオリン演奏、ピアノ演奏、ひまわりコーラスなど、早春にふさわしい楽曲が奏でられ、癒されました。






四條畷楠正行の会 第38回例会

日時 平成30年1月9日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
久しぶりの田中さん交えて和やかに例会
 この日は雨交じりの天候となりましたが、教育文化センターに着くと、奥田所長から、開口一番「本年もよろしくお願いします。正行像賛扇子の申し込みがありました。」との嬉しい知らせでのスタートとなりました。
 会員が次々と集まる中、少し体調を崩し休会中であった田中さんのお顔が見え、うれしい新年最初の例会となりました。
 今回も盛りだくさんの内容となりましたが、和やかな雰囲気の中、国府幹事が準備してくれたコーヒーとケーキをいただく“コーヒータイム”もあり、新年らしい例会となりました。


↑例会の様子(インフルエンザ等で3名欠席)

↑例会の様子(なぜか、今月も女性は一方に集中?!)
例会の
内容
12月例会のおさらい
楠正行通信第60号/佐々木道誉と正行
78歳という、当時ではずば抜けた長寿の佐々木道誉
・南北朝動乱時代、文武両道に通じたバサラ大名
・四條畷の戦い、楠正行に甚大な被害与える
・単なるバサラ大名ではなかった
・後醍醐帝の隠岐配流を警固
・元弘33月には尊氏と密約
・妙法院焼き打ち事件は計算の内
・義詮の信任を得て、権力獲得
・幕府の危機にこつ然と登場する真骨頂
☆勝楽寺に眠る佐々木道誉

3月現地学習現地下見報告
日時 1214日(木)/扇谷・国府
行先 白川八幡神社、恩智のさと、林泉寺、木和田の里、四位殿神社、
   木和田墓地、龍泉寺、道の駅、熊野路荘、教育委員会、村役場
上北山村でお会いした方々
   中岡孝之氏(元教育長)、中垣内壽美教育長、
   村教委東職員他、山村潔村長(表敬訪問)

*楠正行通信第61号/上北山村現地学習下見報告
・楠氏ゆかりの地、上北山村を訪ねて
・正行を祀る四位殿神社が建つ木和田の里
・白川・お宮様の祭りには恩地左近の幟ばたが立つ
・現地学習の下見で北山村へ
・白川、八幡神社とお宮様
・天誅組の悲哀伝える林泉寺
・墓石に彫られた菊水紋
・北山宮による皇位要求運動の地

□現地学習について
 近鉄特急で大和上市駅まで行き、貸切バスで上北山村に入り、1泊する
 決定日時 323日(金)~324日(土)
  行程等詳細は、上北山村と打ち合わせの上、2月例会で報告

●山鹿素行と正行
 □山鹿素行、楠正成一巻の書序文を読む

 楠正成一巻の書序
「身を立て、道を行い、後世に於て名を挙げ、以って父母を顕すは孝の(つい)なり。終とは、孝道を全くするを云えり。孝は百行(ひゃくぎょう)(もと)にして、未だ父母に孝にして君に忠ならず、君に忠にして父母に孝ならざる者はあらじ。忠孝に(みち)なくその徳(いつ)なり。嗚呼忠孝は士の(こころがけ)て励むべき所なり。然れども其の(じつ)()み、その全きをあらわす、これ(かた)し。(ひと)楠公父子万世(ばんせい)忠孝の(かがみ)として、その徳、古今に貫徹す。()れ君に忠を致さんと欲する者は、治世に(らん)を忘れず。亂を忘れざるは、功を(たつ)る。忠の大いなるものにして兵学の勤むべき所なり。

 此の書、楠公の遺訓、兵家の亀鑑、忠孝に志す士は、拳々(けんけん)服膺(ふくよう)注①して読まずんばあるべからず。これ身を立て、名を挙げるの韜略(とうりゃく)注②なり。
 久しく余が家に(おさ)むいえども、忠孝は天下の(たつ)(とう)注③、楠公は万世の明鑑(めいかん)注④なるを以って、敢えてこれを秘せず、ここに梓注⑤に壽して、四方に達し、後世に照らさん。これを庶幾(しょき)す。故に謹んで此の(こと)を序とす。
 貞応三歳甲午十一月既望
                  後學  山鹿甚五左衛門平貞直


注① 拳々服膺 常に心中に銘記し、忘れないこと
注② 韜略 兵法の書である「六韜」と「三略」の略
       兵法、兵略、戦略

注③ 達道 いかなる場合もにも行われるべき人間の道
       古今東西を通じて一般に行われるべき道徳
       君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の5つの道

注④ 明鑑 曇りのない鏡
       物の姿を明らかに移す鏡
       物の真実を見通す力

注⑤ 梓  古くアズサの木を用いたことから、印刷用の版木

(解説)
         素行32歳の時の書
 この序は貞応3年(1654)に書かれたもので、元和8年(1622)生まれの山鹿素行、32歳の時の書である。
 また山鹿素行は、21歳の時に書いた杏庵の序文には「その門葉に姓は藤、氏は山鹿、名は義(もち)(あざな)()(けい)なるものあり」と藤姓が用いられ、35歳の時に書いた「部教全書」の自序には平姓を用い、54歳の時の「家譜」にはまた藤姓が用いられている。素行の時代に、山鹿家の系譜はもう分からなくなっていたということではないか。
 素行は、名はしばしば改めて貞直、義(もち)、義(もち)高興(たかおき)、高(すけ)、義(のり)などと称し、字は子敬、通称は甚五左衛門、号は初め(じゃく)(せつ)(さい)(るい)(くう)(さい)(にょ)(うん)と称し、21歳ごろから素行を主用したとある。


(文意)
               孝道は百行の本
           忠孝は武士の励む最たる徳

 素行は、「終とは、孝道を全くするを云えり」と、孝を尽くすことは百行のもとと云う。
 忠孝は武士の励む最たる徳で、非常に難しいが、歴史上もっとも忠孝を尽くしたのは楠正成・正行親子しかいない。
 この書は楠公の遺訓であり、兵家が目指す鏡である。心して、常に心中に銘記し、忘れなければ、立身出世は間違いない。
 山鹿家に秘伝として伝わってきたが、忠孝を尽くすことは人の道として当然の事であれば、楠正成は歴史上最たる模範の鑑であることから、書物にして後世に残すことにした。


残る二つの肖像画
 山鹿素行の肖像画には、平戸・津軽の両系統がある。
 写真上は、平戸系で、写真下は、津軽系のもの。
 山鹿素行は、平戸藩第4代藩主、松浦重信と親しかった。また、弘前藩第4代藩主、津軽政信に「大星伝」を授け、同じく弘前藩家老、津軽玄播にも「大星伝」を授けている。そして、山鹿素行の子、雅実は弘前藩・津軽政信に仕え、のちに家老職を務めている。
 

山鹿素行の武士道論は、実践的兵学

 日本近世史専門の早稲田大学教授、谷口眞子は、「武士道と士道~山鹿素行の武士道論をめぐって」(論文)の中で、山鹿素行の武士道論を次のように述べている。

 ――― 素行は「武教全書」第一巻上で、優れた人材を   登用し適材適所に配置する方法、軍令・軍法などに触れた後、第一巻下からは具体的な戦争を想定して斥候の使い方、行軍や駐留の方法、築城術、攻城戦・籠城戦や相手の軍勢と数に開きがある時の戦法、騎馬戦・徒歩戦、水軍による戦法など、様々な戦争の形態について解説している。
 まさに実践的兵学である。
 その視点は、軍隊を掌握する総大将・総司令官としての立場から書かれており、想定している対象は大名クラスと考えられる。
 対照的に「武教小学」は、ここの武士は如何に生きるべきかを説いたもので、日常生活で実践すべき事柄を分かりやすく説明している。
 ・・・序文では、武士が三民(農・工・商)の長たりうるのは「能く身を修め心を正し、しこうして国を治め天下を平らぐ」からであり、おどろ髪で肘をいからして剣を振り回すかぶき者や、長衣を着て詩文を読み暗誦するだけで満足している中国風の士大夫風情の者を批判している。
 ・・・
 山鹿素行は、「書斎の学問」は認めず、修身にはじまり、人としての道を尽くし、世界を治めるための学問は、実践性を具えている実学でなければならない、と考えていた。
 したがって、朱子学をはじめ老荘思想や仏教を、実用や実社会への影響力という観点から批判することになる。中国と異なる本朝(日本)としてのアイデンティティーを支えるのが、日本独自の「武」「武士」であると論じた『中朝事実』は、吉田松陰、乃木希典が称賛するところとなった。
 ・・・
 さて「山鹿語類」「士道篇」の冒頭では、武士は文武の徳を兼ね備え、三民の上に立つ人倫の模範たることが職分であると述べられている。素行の士道論の根本をなす考え方を表現したもので、よく知られた部分である。この職分論は、当時確立しつつあった身分制社会における、武士の存在理由を明確に述べている。
 素行は、近世の武士は単なる軍人でも役人でもないと考えていた。一事一物に至るまですべては天地の法則によっており、「聖人の道」を日常の生活で実践することが、君子・大丈夫たる者の職分であると明言したのである。
 素行は「士道篇」を前半と後半に分け、前半部分では内面的自覚に関する事柄を、後半部分では外面的威儀に関わる事柄を取り上げているが、この双方を武士一人一人が実践することを求めた。
 ・・・
 素行にとって武士とは、官僚的・役人的存在ではない。
 「武」国の礎として、武力を担っていることを自覚して武芸にいそしむとともに、主君を支えて自らも道徳を身に着け、人としての模範たるべき職分をもった人間である。


素行学の意義
 人物叢書「山鹿素行」堀勇雄著は、素行の思想的成長発展段階は六つに分けられるとするなど、素行が自らの思想的な行きづまりに対して絶えず全力を以ってぶつかり、生涯を通して、学問的進歩に精進したことが分かる。
 非常に難しい山鹿素行の思想について、人物叢書「山鹿素行」は、素行学の本質・特徴として、以下六点に分けて述べているので、その骨子を紹介する。
①実学的傾向

 素行学に一貫する特質で、日用事物の上に役立たぬという実践的要求を以って、国学・歌学・老荘・仏教・陽明学・朱子学等を次々に批判し、揚棄した。
②武士道理論の樹立
 実学的傾向の帰結であり、武士として日常役立つべき教養知識を体系化すること、現実の武士生活における規範を立てることが素行学の目的であった。
 素行の士道論
*君臣関係を天地自然の儀則で不滅のものと考え、封建的主従関係を絶対視して人倫の大綱、道徳の基本とし、この上に士道論を構成し、士農工商の身分制度の固定化に努めた。
*封建的主従関係を絶対視し、武教主義を強調する結果、徳川幕府の礼讃となり、王朝政治〔王政復古〕を否定し、反駁的尊王論に反対した。
*奉公と恩賞との交換関係であった戦国武士道を、義の精神を中核として純化し(義利の弁によって奉公と恩賞との、連携を打破し)、近世武士道を確立した。
*素行の婦人論は、封建家父長制的・女大学式的隷属を強制するもので、男女・夫婦の別は、君臣の別に準ずべきとした。子孫断絶を防ぐためには、妾も必要と説いた。
武士は道徳的に優れているから、三民(農工商)の上に立つのだと説いた。
*農民を商工の下に置き、あらゆる拘束・収取を加え、食うや食わずの境涯に置くことを以って、民を愛する所以であると強説した。
素行学は、あまりに武士階級本位の武断主義を強調して、人民大衆の真の幸福、或は権利・自由を認めず、経済的には消費者・遊民であった武士階級の、生産階級たる農工商に対する搾取・抑圧を合理化するものであった。
③山鹿流兵学を完成
 素行学は本質的に兵学である。しかし、素行以後、ほとんど見るべき発展はなく、特に経学の領域においては停滞のみならず、退歩さえ感じられる状態であった。
 山鹿流兵学の最も優れた継承者は吉田松陰である。しかし、松陰は山鹿流をもって任じながら、客観的には山鹿流を超脱していた。
④古学唱導の先駆
 古学唱導の先駆者として、日本儒学史上重要な地位を占めるが、中国古典学の研究家としては仁斎・徂徠に及ばない。
⑤日本中朝主義

 中国ではなく日本を以って中華・中朝とする日本中朝主義は、素行によってはじめて主張された。しかし、先駆的意義はあっても、素行学としての独自性はない。
⑥武教主義

 日本国体の優越性を強調し、尊王の必要を説きながらも、公家政治の道に違えるを難じ、武家政治の撥乱反正の功を讃えて、覇道を認め徳川幕府の政治を正当視し、王朝復古論・反駁的尊王論に反対した。
 『中朝事実』には、「夫れ天下の本は国家に在り。国家の本は民にあり。民の本は君にあり。」とあり、「民の本は君に在り」は素行の創見である。
 素行の国体観念は武教主義を本質とするもので、「皇室(天皇)中心主義」ではない。
建武中興・楠木正成を真似るな
 「山鹿語類」巻第十五、臣道に、「士の出処・去就」に関し、以下の通り記述があり、反駁的尊王を厳に戒めている
 朝廷を重んじて武家を軽んずるは、往古の式、君臣の礼たり。
 然れども末世に及んで、朝廷は名のみにして武家のはからひに任す。
 ここを以って食録・官位に至るまで、皆武家の心に任せれば、往古に相かなわずといえども、世々皆是れを例とす。
 今又改むべきに便りなし。
 あるべきことにあらざれども、当時(楠木)正成が依頼の如くならんことありとも、更に正成を以って準拠すべからざる也


電通大学・木子香講師との社会プロジェクト実習2018プロジェクト
「市民・自治体・大学(産官学)連携による
 カルタ『くすのきまさつら』の制作」に決定!
  制作 大阪電気通信大学
  依頼 四條畷楠正行の会(字札、絵札の指導・監修)
  後援 四條畷市・四條畷市教育委員会
  スケジュール 4月~11
         講義・現地学習・演習・プレゼン・制作・発表


●四條畷市・産経新聞社共催『楠正行考シンポジウム』について
 16日付産経新聞朝刊1面に社告掲載


その他
連絡等
次回例会 
 日時 2月13日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 楠正行と観阿弥・世阿弥
    3.19楠正行シンポジウムについて3.19楠正行シンポジウムについて
    3月現地学習・上北山村について、他


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信60号・61号はコチラからも(PDF)



四條畷楠正行の会 第37回例会

日時 平成29年12月12日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
菊水の流れ、「左から右」と「右から左」の二流に驚きの声!
 今年一番の寒波襲来で、大阪でも最高気温が10度を切る寒さの中、会員13人が出席しての例会開催となった。
 今月は、国府会計幹事の計らいで、飲み物(お茶・コーヒー)とお菓子を準備していただき、リラックスムードの中での開催となった。真木副代表は、療養中のため、マイ茶持参だが、飲み物を口にすると、話し方も滑らかになり、会話が弾む。
 絵本は、製本化が決定したことに、異口同音に喜びの声が。それも、4セットも寄贈していただける事になり、市内2つの図書館に2巻づつ常置できることになる。
 如意輪寺の本堂内陣の柱に刻まれる菊水は、右から左に流れているとのこと。そして、楠妣庵観音寺の家紋、菊水も、同じく右から左に。
 菊水の家紋と云えば、通常、左から右に流れているが、二つの流れがあることにびっくり! 「皆さん、このことをご存知でしたか?」と尋ねると、楠野さんだけが手を挙げられた。楠野さんは観察力が鋭く、しっかりと、見ておられたようである。富田林や千早赤阪では、知る人が多く、ほとんど常識のようだと報告すると、これまた全員が驚き!


↑例会の様子(この後、遅れて参加した人も)3周年事業のDVD視聴のためテレビも

↑例会の様子(なぜか、女性は一方に集中?!)

↑楠正行資料室にかかった標示看板

↑楠正行資料室の中の様子(正行通信の掲示と、例会資料等を常置)
例会の
内容
楠正行絵本6分冊1巻本完成~楠正行通信第59号
・楠正行絵本制作プロジェクト
・6分冊1巻本 絵本「楠正行」完成
・制作 大阪電気通信大学 監修 四條畷楠正行の会
    製本は四條畷市立図書館に寄贈
・第1分冊 正行の学び まさつらくん
・第2分冊 正行の友  まさつらとけんしゅう
・第3分冊 正行の大志 たみもりのぶし 正行
・第4分冊 正行の恋  正行 恋物語
・第5分冊 正行の情け 渡辺橋の美談
・第6分冊 正行の最期 正行最期の戦い
 大阪電気通信大学総合情報学部デジタルゲーム学科・木子香講師と19人の学生の皆様 お疲れ様でした。ありがとうございました。
朗報! 大阪電気通信大学、製本化決定
    製本本4セットの寄贈を受け、四條畷図書館・田原図書館に常置
四條畷市広報誌12月号に掲載予定

●菊水の家紋、水流に二流~楠正行通信第58号
・正行ゆかりの如意輪寺、楠妣庵観音寺は「右から左」へ
  千早赤阪や富田林ではほぼ認知されている!
・建水分神社、湊川神社等は、「左から右」
・如意輪寺本堂内陣の柱に残る菊水紋は、すべて右から左へ
 しかし、日常は、左から右へを使用
・寺社略記で違いは明確に
 ~ 久子の方の強い思い~楠木の木を取り、水流も変えたか
・11月17日、談山神社の例大祭に扇谷出席

佐々木道誉と楠正行
 単なるバサラ大名ではなかった道誉
 文武両道に通じ、室町幕府の重鎮として、尊氏・義詮二代に貢献
  ~ 四條畷の合戦での位置取りに、道誉の本領発揮が見て取れる

 以下のリポートは、吉川弘文館・人物叢書「佐々木導誉」森茂暁より。

佐々木道誉のキーワード
・南北朝動乱時代に生きた個性派武将「バサラ大名」

78歳という、当時ではずば抜けた長寿
・近江の国を本拠とする豪族
・比叡山は宿敵
・佐々木氏庶流の京極家の出身(嫡流は六角家)
・室町幕府の重鎮として幕府政治の確立に貢献
文武両道に通じた中世人
佐々木氏は約4世紀にわたって近江守護職を継承

(写真:林家辰三郎著「佐々木道誉」表紙より転載)

佐々木道誉の事績
笠置寺陥落後、天皇らは京都に送還
           佐々木道誉、千草忠顕あずかる
 この時、佐々木道誉は蔵人頭の千草忠顕を預かり、四条隆量(たかかず)(高資の子)、一宮(たか)(よし)親王も佐々木一門があずかっていることから、佐々木氏が元弘の変の鎮圧と事後処理に重要な役割を果たしたことが伺える。また、幕府軍が京の都から離れた後の京都警備にあたった武将の一人に佐々木佐渡大夫判官入道道誉の名が残る。
後醍醐帝、37日、隠岐に向け出発。
          佐々木道誉、後醍醐帝を警固 北畠具行を処刑

警護の武将は、千葉介貞胤、小山五郎左衛門尉、佐々木道誉がその任にあたった。
 京に戻った佐々木道誉は、北畠具行(親房の従兄弟)を関東に護送するが、途中、幕府の命を受け、近江の国柏原で処刑をする。「太平記」「増鏡」は、”この間の儀は後世まで忘れがたくこそ候へ”と、道誉に対する具行の感謝の言葉を述べさせ、道誉の情誼に厚い性格を強調している。
道誉と尊氏の連携
            鎌倉出発時、道誉、尊氏と北条討伐謀議
 佐々木京極家記録の讃岐丸亀京極家譜には、北条討伐を前提とした道誉と尊氏の連携が元弘3年(1333)の3月、鎌倉出発の時点で出来上がっていたことが記されている。また北条仲時らが自害して果てた地、近江番場は道誉の所領であるとも。
 道誉が六波羅攻撃に参加した記録・形跡がないことから、京都と鎌倉の通路遮断の目的で、本貫地近江柏原辺りに待機した可能性が大きい。神器の接収も道誉のもとで行われた可能性が高く、倒幕戦の輝かしい功績と尊氏との緊密な関係があり、建武新政府で雑祖決断所の職員に登用されたものと見たい。
尊氏の東下に随った道誉
                道誉、尊氏と主従関係明らか
 (かま)()文書(常陸の国大掾(だいじょう)氏の庶流)に残る軍忠状に道誉の証判。道誉の証判を与えた軍忠状は9点ほど残るが、道誉が足利軍の一方面軍の大将であったことをうかがわせる。
 建武2年(13359月、尊氏は袖判下し文を初めて道誉に下し、中先代の乱での勲功に対する恩賞給付として、上総(かずさ)(くに)畔蒜(あひるの)(しょう)(千葉県)と伊豆の国土肥・戸田(静岡県)を与えている。この事は尊氏と道誉の間に主従関係が形成されていたことを示しており、道誉は、歴史の転換期に当たり、後醍醐帝との関係を絶ち、武家社会の興望を担う尊氏にかけて、新しい時代の歴史舞台に登場するための足掛かりを築こうとしていたのである。
妙法院焼き打ち事件と道誉
                幕府暗黙の了解のもとの襲撃か
 暦応3年(134010月、道誉、秀綱父子による天台宗の門跡白川妙法院焼き打ち事件が起こる。道誉の一族若党が「例のばさらに風流を尽くして」紅葉狩りの帰途、妙法院の紅葉の枝を折る。妙法院の山法師等は折った枝を奪い返し、佐々木一党を門外に追い出す。怒った道誉は、300余騎で押し寄せ、火をかけ乱暴の限りを尽くした。
 山門の嗷訴を受け、幕府は遠流・配流と決め、道誉は上総の国に配流となるが、その配流には多くの若党が付き従い、道々で酒宴を催し、遊女をもてあそんだ。果たして道誉が配流先に着いたかどうかは定かでないが、翌年後半期には、確実に幕府に復帰している。
 道誉は、幕府の暗黙の了解のもと、父祖以来の宿敵である山門の重要な一角を占める妙法院に被害を与えたとも思われ、のちの旺盛な活動ぶりを見ると、つまずきどころか飛躍台の役割を果たしたともみえる。
 美濃の守護土岐頼遠は、光源上皇の行列に対する狼藉行為によって処刑をされる。山門に対する狼藉と時の治天下光源上皇に対するそれとでは幕府の受け取り方は違う。道誉は頼遠よりはるかに賢い武将だったといえる。
四條畷の合戦、吉野攻撃と道誉
            自らも負傷、次男をなくす
 道誉は子息秀綱、秀宗、一族郎党を率い、四條畷の戦いに従軍した。
 四條畷の戦いで、高師直のもとに出陣した足利方の武将の中で、唯一といってもいいぐらい、しっかりとした位置取りをしたのが佐々木道誉。飯盛山の山腹に陣取りし、衝突第2期の北条あたりの戦いでは、正行の後背をついて飯盛山を掛け下り、大塚惟正隊をほぼ全滅させるという武功を挙げている。個性派武将として足利幕府を支えた武将としての面目躍如といったところか。正行に大きな痛手を与えた武将、佐々木道誉であった。
 この戦いの道誉の活躍の様子は太平記に描かれているが、道誉は、最終段階で大きな犠牲を払うことになる。四條畷で楠正行を倒し、吉野を陥落させて得意の幕府軍が、兵を収めて平田荘に帰ったところ、南軍はこれに奇襲をかけ、幕府軍は多くの被害者を出した。道誉と嫡子秀綱は数カ所に傷を負ったし、道誉の子息左衛門秀宗は大和水越で討死した。
 道誉が戦で子息を亡くした最初で、正平4年(13492月、幕府軍は京都に凱旋するが、道誉にとっては傷心の帰還だったに違いない。
道誉の権勢と細川頼之の登場
    二代将軍義詮の信任を得て権力獲得、細川頼之登場の立役者
 道誉の幕府重鎮としての活動が本格化するのは、正平の一統(1351)の破たん後である。
 道誉は、正平の一統で廃止された北朝を再興し、守護大名間の利害を調整するなど、将軍権力の強化と幕府政治の確立に貢献するなど、将軍足利義詮の絶大な信頼を得て、幕府内に大きな権力を獲得していく。
 正平23年(13689月、道誉子息高秀が出雲守護職として登場していることから、20年以上にわたって維持してきた出雲守護を譲って引退したものとみられる。
 道誉の引退する頃、歴史の表舞台にはなばなしく登場するのが幕府管領の細川頼之である。細川頼之の管領選任にあたって、道誉が深くかかわった可能性は高い
 正行が戦った道誉は、細川頼之に後事を託し、その細川頼之に誼を通じて北朝に投降した正行の弟、正儀。日本歴史の上で、唯一、二つの朝廷が存在したこの時期、正統な吉野朝復権、言い換えれば一つの朝廷を目指した正行・正儀兄弟が、如何に、政治とのかかわりで苦労したかがうかがい知れる人間模様ではないか。

道誉の真骨頂
             幕府重大な危機にこつ然と登場
 道誉はいったいどうして権勢を極めたのか。
 幕府重職の歴任についてみると、山門造営奉行として比叡山延暦寺の末社化していた祇園社や興福寺等とのつながりを持ったことであり、政所執事として将軍家の台所を預かり、経済行為の結果生じる訴訟を所轄したこと、引付頭人・(くばり)奉行として幕府の訴訟機関である引付方の運営を采配するなど重要なポストを占めるとともに、幕府の最高議決機関たる評定のメンバー(評定衆)でもあった。

 そして、道誉の真骨頂は、幕府が重大な危機に陥るとこつ然と登場し、問題の解決に乗り出し、幕府の運営を主導したことである。後光源天皇の擁立を成功させたこと、そして有力守護大名たちの抗争の仲裁にも入っている。
摂津守護職を巡る争奪の中で正儀との関係
         正儀を出し抜く道誉の老獪ぶり
 細川清氏の管領就任に関わった道誉であるが、3年後には排除に動いている。
 道誉に陰謀を暴かれ没落した清氏は、正平16年(136112月、正儀とともに京都に打ち入った。この時、道誉の屋敷に踏み込んだ正儀が、あたかも貴賓を招くように酒肴の準備をして退散した道誉の心根に感銘して、火をかけるどころか道誉に増した酒肴を提供し、秘蔵の鎧と白太刀一振を置き土産にして退散した、との太平記の有名なくだりがある。
 ここで太平記が褒めているのは、正儀の心の広さではなく、正儀を出し抜いてまんまと太刀をせしめた道誉の老獪ぶりである。

 佐々木道誉とバサラ/林家辰三郎「佐々木道誉」平凡社より

<バサラ>の流行
 南北朝時代には、<バサラ(婆紗羅)>ということが、この時期の美意識となった。
 <バサラ>とは、身分不相応に派手で、遠慮のない振る舞いのことである。
 当時、その<バサラ>男と言えば、まず佐々木道誉、次には土岐頼遠、更には高師直の三人が、三傑と云うべき存在である。

2018.3.19「シンポジウム楠正行考」決定!

2018319日(月)、
電通大・四條畷学舎「コナミホール」で

 *名称 「明治150年記念」「産経新聞85周年記念」
       第6回楠正行シンポジウム
       『楠正行考』
        小楠公と四條畷市~正行公の生き方と魅力
 *主催  四條畷市・産経新聞社
 *協力  四條畷神社、大阪電気通信大学他
 *日時  平成30319日(月)
 *場所  大阪電気通信大学 四條畷キャンパス コナミホール
 *参加  事前申込制・参加費無料
 *内容  <1部> 特別講演
      <2部> 活動報告
      <3部> パネルディション


 開催実施要領は、近日発表予定!
 乞う、ご期待!

その他
連絡等
次回例会 
 日時 1月9日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 楠正行と山鹿素行
    その他


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信58号・59号はコチラからも(PDF)




教文「クリスマス会」

日時 平成29年12月8日(金) 午前10時より11時30分
場所 教育文化センター 2階ホール 
イベント内容 クリスマスツリーへの飾りつけや人形劇の上演を行ない、たのしいクリスマス会でした。子どもたちは、サンタさんからプレゼントをもらったり、いっしょに写真を撮ったりしました。






四條畷楠正行の会 第36回例会

日時 平成29年11月14日(火) 午後1時30分~午後3時45分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
パワーポイントによる絵本「楠正行」6分冊1巻本の上映
 この日は当初予定の現地学習「上北山村、楠正行を祀る四位殿神社を訪ねて」の急きょの中止に伴う例会となったが、雨の中、ほぼ会員がそろっての開催となった。
 この日、1028日、本会発足3周年記念事業で発表された大阪電気通信大学総合情報学部デジタルゲーム学科(木子香講師と19人の学生)制作による絵本「楠正行」のスクリーン上映会を行った。
 各会員が出来上がった絵本をじっくりと見る機会のないまま例会を迎えることとなったので、扇谷が、絵本の全頁をスキャンし、パワーポイントに落とし込んで、その画面を写しながらの「絵本読み聞かせ」を実演した。
 「正行の学び」「正行の友」「正行の大志」「正行の恋」「正行の情け」「正行の最期」の6分冊1巻本であるが、6グループの個性や考え方、絵のタッチの違い、文章表現の違い、見開きページのコマの使い方の違い、等々はあるものの、楠正行の人間像、生涯、考え方を子どもたちに伝えようとする意欲的な作品となった。
 この絵本は、当初、直ちに四條畷図書館に寄贈の予定であったが、キット本を、新たに本格製本し、3月に予定される四條畷市・産経新聞社共催のシンポジウムの中で贈呈することで、スケジュール調整をしている。
 この絵本完成によって、四條畷市では、4年前に始まった副読本を使った四條畷の合戦と楠正行についての郷土学習(小学校3年生、4年生対象)に続いて、就学前の子ども達には親等の読み聞かせによって、また小学校低学年の子ども達には自らこの絵本を読むことによって、郷土ゆかりの人物、楠正行を知る契機となるもので、郷土の偉人を知り、郷土を誇りとする子ども達が多く輩出するものと、大いに期待している。
 この絵本制作にあたった大阪電気通信大学の学生たちに、大いに感謝をしたい。
 そして、この絵本が、図書館等を通して、いつまでも四條畷の地で読みつがれることを願っている。(扇谷)
(写真上:映し出される絵本を見入る会員、写真下:絵本に合わせ読み聞かせをする扇谷(手前の列右端))


例会の
内容
現地学習、上北山村延期の件
 先の台風の影響で、国道169号(大和上市~宮滝)で土砂崩れのため通行禁止。迂回路はあるが、狭隘な山道。四條畷から往復6時間近い行程を考慮し、「安全」「安心」の観点から、延期に決定!
 上北山村の中岡さん、中垣内教育長とも連絡の上、了解をいただいた。
 また、東京から参加予定の広木さん(東京支部長)にも連絡し、前泊のキャンセルを依頼。
 時期を選んで実施することを確認。


完成! 絵本「楠正行」6分冊1巻本
◎パワーポイントによる絵本「楠正行」6分冊1巻本の上映
 6分冊全頁を映し出しながら、扇谷が音読。
 その後、全員が、絵本に対する感想を書いて提出。
 この感想の内容は、後日、扇谷から大阪電気通信大学木子香講師に伝えることに。


発足3周年記念事業に、大阪府内16市町村、兵庫県、京都府、奈良県、広島県、東京都からも出席
 ・楠正行通信57号
  近畿各地から200名を超す参加者
  四條畷の誇り、楠正行を全国に発信
  1028 四條畷楠正行の会発足3周年記念事業開く!
  大阪府下16市町村、広島、東京からも参加
  正行ゆかりの地、観心寺名誉住職、如意輪寺副住職も
  東市長、湊川神社、四條畷神社も
  基調講演、産経新聞特別記者編集委員の安本氏の「楠木考」取材秘話
  楠正行絵本6分冊1巻本、完成プレゼンテーション
  詩吟、歌、踊りに会場から多くの拍手
  扇谷/朱舜水作、楠正行像賛発見の物語を報告
  反省! もっと、正行への理解が進む企画・取り組みを

 ・受付名簿・記帳者分析
  四條畷市/103 大東市/14 寝屋川市/8 大阪市/4
  河内長野市/3 千早赤阪村/3 堺市/2 岸和田市/2
  枚方市、交野市、東大阪市、八尾市、豊中市、富田林市、河南町、羽曳野
  市/以上1 大阪府計/147
  八幡市2 京都市1 京田辺市1 京都府計/4
  大和高田市、平群町、吉野町/以上1 奈良県/3
  神戸市、明石市、川西市/以上1 兵庫県/3
  広島市1 東京都1 その他12 大阪府外/23 総計/170

★マスコミ、ミニコミでも報道
 この日の様子は、翌日、産経新聞の府下版・市内版で報道された。(楠正行通信第57号に紙面掲載)
 また、地域情報誌月刊「アゴラ」の111日号でも、1面トップで「楠正行の生きざまを描いた絵本が完成」との見出しで報道された。
 なお、河北新聞の111日号では、シリーズ「北河内文化人紀行」で、四條畷楠正行の会が取り上げられ、楠正行顕彰の一助となった。
 我々の会の活動が、このように、各報道で取り上げられることはうれしい限りである。ますます楠正行顕彰が進めばと願っている。
 
(写真左:月刊アゴラ11月1日号1面   写真右:河北新聞11月1日号4面)

●吟道摂楠流創立70周年記念「全国吟剣詩舞道大会」に出席
 扇谷は、招待を受け、1029日(日)、神戸文化ホールで開催された標記大会に参加。
 1日いっぱいの企画満載の大会で、全国各地から集まった摂楠流の指導者・会員等が、 会員吟詠・競吟・構成吟・宗家他役員吟詠を披露した。
 中でも圧巻は、<構成吟>で、「楠木正成 ~かくて神となりぬ 武人をたずねて~」と題して行われたが、ナレーションに合わせて舞台が映し出され、その舞台ごとに吟じられた吟詠は素晴らしく、感動した。
 吟題は以下の通り。
 「楠公を詠ず/日柳燕石」「金剛山を望む/杉浦重剛」「楠木正成千剣破城を築きここに據る/大槻磐渓」「辞世/日野資朝」「藤房卿命を多聞に伝うるの図/大槻磐渓」「和歌二題/後醍醐天皇・藤原藤房」「児島高徳桜樹に書するの図に題す/斎藤監物」「金剛山/山岡鉄舟」「楠河洲/柴野碧海」「楠公の図に題す/西郷南洲」「楠公子に訣るるの図に題す/頼山陽」「楠河洲の墳に謁して作有り/頼山陽」「楠公墓前の作/吉田松陰」「湊川神社/高橋白山」「大楠公/徳川斉昭」


●龍谷大学第46回学術文化祭に出席
 扇谷は、招待を受け、11月5日(日)、龍谷大学深草学舎で開催された標記学術文化祭の龍吟会発表に出席。
 この日は、龍吟会のメンバーに加え、指導者、同会OB、大学関係者、保護者らに加え、地元深草地区周辺の市民が多数参加しており、非常に心温まる雰囲気の中での教室が一体となった発表となった。
 吟詠発表の柱は、構成吟で、「親子の絆」と題して、楠木正成親子の生涯を吟じるものであった。
 構成吟編集のベースは、湊川神社発行の「大楠公御一代記」で、資料の一つに、扇谷の歴史小説「楠正行」も取り上げていただいた。地域の皆さんの吟詠もあり、また、青葉茂れる桜井の合唱も入り、扇谷も、ここでは大きな声で詠った。
 吟題は、以下の通り。
 「吉野に遊ぶ」藤井竹外、「大楠公」河野天頼、「楠公の歌」(青葉茂れる桜井の)、「桜井訣別」頼 山陽、「楠河洲の墳に謁して作あり」頼 山陽、「小楠公の母を詠ず」本宮三香、「楠帯刀の歌」元田永孚、「和歌~かゑらじと」楠 正行、「小楠公の墓を弔う」杉孫七郎、「嗚呼忠臣楠氏の墓」生田鐵石、「大楠公」徳川斉昭、「河内路上」菊池溪琴

その他
連絡等
次回例会 
 日時 1212日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 楠正行と佐々木道誉
    その他


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信57号はコチラからも(PDF)




教文 第4期 親子体操「さとやまへ遠足に行きました」

日時 平成29年11月2日(木) 午前10時より12時
場所 四條畷市修景施設 [さとやま」 
イベント内容 教文親子体操では、秋の遠足として里山に上りました。
良いお天気に恵まれ、みなさん頑張りました。




四條畷楠正行の会発足3周年記念事業

日時 平成29年10月28日(土) 午後2時~午後4時
場所 四條畷神社 神社会館 2階ホール
事業 四條畷楠正行の会発足3周年記念事業
「武士道の人、楠正行 今、蘇る!」開催
対象 記念事業を伝える産経新聞(10月29日付朝刊)



●四條畷神社会館に200人の参加者
 全国、27の区市町村から参加

 10月28日(土)、私たちは準備を重ねてきた、四條畷楠正行の会発足3周年記念事業「武士道の人、楠正行 今、蘇る!」を開催しました。
 台風が日本列島に接近し、朝から雨交じりの悪天候でしたが、12時前には一組のご夫婦がお見えになり、私たちと一緒に食事をともにしながら、「今日の催しを楽しみにしていましたので、早く出てきました。」と語られる様子から、手ごたえを感じる壱日のスタートとなりました。
 午後1時の開場とともに、一人、二人と集まり始め、定刻30分前には、ほぼ会場(座席105席準備)の半分が埋まる状況でした。その後、続々と集まっていただき、開会の2時には、会場は約200名の人でいっぱいとなり、立見席で入り口が埋まる盛況となりました。
 受付時に記帳いただいた方の地区を見てみると、大阪府16市町村(大阪市、大東市、寝屋川市、河内長野市、千早赤阪村、堺市、岸和田市、枚方市、交野市、東大阪市、八尾市、豊中市、富田林市、河南町、羽曳野市そして四條畷市)、京都府3市(八幡市、京都市、京田辺市)、奈良県1市2町(大和高田市、平群町、吉野町)、兵庫県3市(神戸市、明石市、川西市)、広島県広島市、東京都江戸川区、以上近畿を中心に27区市町村からお集まりいただきました。

●来賓には、観心寺、如意輪寺、湊川神社、四條畷神社からも出席
 来賓には、東市長をはじめ、森田教育長、大阪電気通信大学デジタルゲーム学科渡部学科主任、観心寺永島名誉住職、如意輪寺加島副住職、湊川神社教化渉外課の鈴木さま、四條畷神社南井権禰宜、楠公会山下会長をお迎えし、ご協力いただいた御妣会三牧会長、小楠公偲ぶ会坂本会長、またご後援頂いた四條畷市立教育文化センター指定管理者阪奈エンタープライズ㈱奥田社長、四條畷市立教育文化センター奥田所長、なわて学実行委員会藤岡事務局長らのご出席を得ての開催となりました。

 基調講演は、産経新聞特別記者編集委員の安本寿久氏による「今、何故 楠氏一族を取り上げるのか」と題して、産経新聞の超ロングランの特集記事の取材秘話をお話しいただきました。


会場受付


開会前の会場内


開会あいさつする真木副代表


東市長のご挨拶


産経新聞特別記者編集委員 安本様の基調講演



大阪産業大学・学生による正行絵本完成発表



学生代表から絵本を受け取る真木副代表



四條畷市詩吟連盟による吟詠



ひまわりコーラスによる歌


さくら会による踊り


扇谷の正行像賛発見感動物語


国府世話人による閉会挨拶


木子香講師(前列左から4人目)と、19人の学生

●楠正行絵本6分冊1巻本、完成品を受け取る
 大阪電気通信大学の学生の皆様による楠正行絵本の制作発表は、スクリーンに映し出される6分冊の主な頁を説明しながらの発表となりましたが、会場からは、驚きと感嘆の声をいただきました。
 そして、成果品として、「正行の学び」「正行の友」「正行の大志」「正行の恋」「正行の情け」「正行の最期」6分冊一巻本を、私どもの会に頂きました。
 また、特別出演いただいた、四條畷市詩吟連盟の吟詠、「零丁洋を過ぐ」「楠公 子に訣るるの図に題す」「小楠公の母を詠ず」「小楠公の墓を弔う」「楠公を詠ず」、ひまわりコーラスの歌、「青葉茂れる桜井の」「四條畷」「ふるさと」、さくら会の踊り、「河内音頭」「河内酒」「楠公まつり」は、それぞれ、静と動が交錯する中で、会場を一つにして盛り上がり、多くの拍手をいただきました。
  最後を締めくくった、扇谷の「朱舜水作 楠正行像賛発見の感動物語」は、極めて史料の少ない楠正行顕彰に、何か新たな史料がないかと探し求めた結果、埋もれていた朱舜水作の楠正行像賛発見に至った経過をお話しました。また、今後、この正行像賛の普及による正行顕彰にご協力を、と呼びかけました。

●四條畷市民は勿論、広く近畿各地からご来場
 今回の事業は、四條畷市の広報誌に掲載頂き、また一部地区での回覧、チラシやポスターを公共施設等に掲示することで市内への周知をしました。また、後援していただいた産経新聞の大阪府下版に掲載頂きました。
 結果、四條畷市民の皆様のほか、北河内地区は勿論のこと、冒頭に書きましたように、富田林市、千早赤阪村、河内長野市、堺市など父、楠木正成関わりの地を含め、広く近畿一円からもお集まりいただきました。
 ご参会いただきました皆様、足元の悪い中、ご出席いただきありがとうございました。

●反省! もっと、正行の理解が進む取組みを
 しかし、反省材料も多々あります。
 四條畷市ゆかりの楠正行の生きざまや人物像について、十分、情報をご提供できたとは言えませんでした。集まった多くの人たちから、「もっと、正行自身のことが知りたかった」との声をいただきました。
 楠正行の実像を知っていただくことで、今回制作した絵本の意図や朱舜水作の正行像賛の発見の価値が、より深くご理解いただけたのではないか、と大いに反省しています。
 大阪電気通信大学総合情報学部デジタルゲーム学科の皆さんによって制作いただきました「楠正行絵本」につきましては、改めてご紹介をいたします。また、若干の監修を加えて、四條畷市を通じ、四條畷市図書館に寄贈の予定です。
 今後、私たち四條畷楠正行の会は、新たに5周年を目指して、更なる取り組みを進めてまいります。ご支援よろしくお願いします。

 その他
連絡等
次回例会 
 11月の例会(14日)は、現地学習をいたします。
 教育文化センターでの例会はお休みとなりますので、お知らせいたします。




教文 第4期 親子体操「お芋掘りとハロウィン工作」

日時 平成29年10月26日(木) 午前10時より11時30分
場所 四條畷市立教育文化センター 
イベント内容 教文親子体操では、5月に植えたサツマ芋の苗が大きくなり、収穫の時期を迎えました沢山のお芋が出てきました。
また、上手にハロウィンも作りました。




 

 
    

四條畷楠正行の会 第35回例会

日時 平成29年10月10日(火) 午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 14人出席
 この日の例会は、目前に迫った発足3周年記念事業の打ち合わせが中心となりました。その他の内容は、以下の通りです。
◆楠正行絵本プロジェクトについて
 大阪電気通信大学木子香教室の学生さんの絵本完成に向けた最後の仕上げに拍車がかかっています。
 1028日の発足3周年記念事業で、初めて公開されますが、ワクワクしながら楽しみにして待つことにします。
◆正行像賛扇子が四條畷市ふるさと納税のお礼品に登録

 101日より、正行像賛扇子が四條畷市ふるさと納税のお礼品に登録され、取り扱いが始まりました。
 四條畷市に1万円以上寄付した方のお礼品の一つとしてチョイスしていただくことが可能です。
 全国の楠氏フアン、正行フアンの皆様! 四條畷市にふるさと納税して、この「正行像賛扇子」をゲットしてください。
 四條畷市公式ホームページ、ふるさと納税コーナーへは、下記アドレスからリンクしてください。
http://www.city.shijonawate.lg.jp/gyosei/shijyonawateshinotorikumi/
furusatonouzei/1506476669693.html


◆扇谷、後醍醐天皇塔尾陵正辰祭に出席
 927日、後醍醐天皇陵のある如意輪寺では、後醍醐天皇塔尾陵正辰祭に合わせて、後醍醐天皇忌法要が営まれ、扇谷は、ご招待をいただき出席してきました。
 詳しくは、正行通信56号に掲載しています。
 正辰祭は、午前10時、皇居での天皇の拝礼に合わせて、宮内庁職員の先導のもと厳粛に正辰祭拝礼の儀式が執り行われました。
 また法要は、如意輪寺本堂で加島公信住職の読経が流れる中、しめやかに執り行われました。
 この日は、多くの吉野朝関係者が出席しておられ、有意義な意見交換、情報交換を交わすことができました。楠正儀末裔の楠瀬さんや、四條畷楠正行の会東京支部長の広木さんらとの再会にも感謝し、吉野山如意輪寺を後にしました。


↓10月例会の様子
 
↓出来上がった1028日記念事業の街頭案内版








●第34回例会のおさらい
・楠正行通信56号
  四條畷楠正行の会発足3周年記念事業
  「武士道の人、楠正行 今、蘇る!」
  1028日(土)午後2時~ 四條畷神社・神社会館で開催 入場無料

  基調講演 「今、何故 楠氏一族を取り上げるのか」
       ~産経新聞特別記者編集委員 安本寿久氏

  正行絵本「6分冊1巻本」完成プレゼンテーション
       ~大阪電気通信大学 木子香講師と19人の学生
  特別出演  四條畷市詩吟連盟・ひまわりコーラス・さくら会
  正行の会  朱舜水作・楠正行像賛発見の感動物語!


●発足周年記念事業について
 
と き 平成291028日(土)

      午後2時から(午後130分開場)
      入場無料

ところ 四條畷神社・神社会館
      JR学研都市線「四条畷」駅下車・東へ徒歩10

詳しいプログラムはこちらから(PDF)



●正行像賛扇子!
 私たちが制作した「正行像賛扇子」が、産経新聞の104日付朝刊(北河内版)」に紹介されました。
 大好評! 発売中です
 1本 2500円。

(創業享保31718 白竹堂製)
仕様>
75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
表面4色フルカラー 正行像と辞世の歌
裏面1色 正行像賛148文字と釈文(ひらがな)
親骨レーザー彫「四條畷楠正行の会」と刻印
紙箱入り


↓正行像賛扇子(表面)正行像と辞世の歌



↓正行像賛扇子(裏面)正行像賛148文字と釈文(ひらがな)



 その他
連絡等
次回例会 
 日時 1114日(火)
 現地学習の予定ですが、行き先は未定です。1028日の記念事業終了時に決定します。


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信56号はコチラからも(PDF)




教文で”スナッグゴルフ”をしよう!

日時 平成29年10月1日(日) 午前10時~午前11時30分
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生広場
対象 市民
イベント内容 教文芝生広場でスナッグゴルフを楽しみました。



教文 ”みんなの運動会”

日時 平成29年9月21日(木) 午前10時より11時50分
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生広場
イベント内容 この秋一番の青空のもと運動会を行いました。









 
 
 


教文 親子体操「初めてのお絵かき」

日時 平成29年9月14日(木) 午前10時より11時45分
場所 四條畷市立教育文化センター 
イベント内容 教文親子体操では、真っ白な画用紙に沢山の彩りで、楽しくお絵かきをしました。。




 
    

四條畷楠正行の会 第34回例会

日時 平成29年9月12日(火) 午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 12人出席
 この例会は、会はじまって以来、テーマに沿った勉強は無く、10月に迫った発足3周年記念事業に向けての相談が中心となりました。
↓9月例会の様子










●第33回例会のおさらい
・楠正行通信54号
   15歳で従三位に叙され、奥州に下向した顕家
   正行、辞世の歌に比される血涙の上奏文
   若くして散った北畠顕家と正行
   北畠顕家21年の短い生涯
   顕家、血涙の上奏文送る
   顕家と正行に出自の違い
   花将軍、北畠顕家の誕生
・楠正行通信55号
   地方分権・法令順守を説き、質素倹約を奨励
   正成の献策に通じる帝への諫言
   
奥州将軍府を構築した顕家の上奏文(全文掲載)


●楠正行絵本プロジェクト
 824日、集中講義にて、最終プレゼンテーション。この日、観光大使(絵本作家)の谷口友則氏も2回目の参加。行政からは、政策企画部長、市民生活部長と二人の部長と地域教育課長、産業観光課長が出席し、私たちの会からは6人が出席しました。
 この日は、谷口友則氏からの指摘を受け、6グループのプロット・ストーリーに対する四條畷楠正行の会からの修正要望を提出しました。
*当面の予定
  104   最終本描き
  10/28   完成品プレゼン(3周年イベント)
 なお、この取り組みについては、マスコミでも大きく報道されました。
 829日には、ラジオ大阪のNews Tonaight 「明日誰かに話したくなるニュース解説」のコーナーで、産経新聞編集委員の安本寿久さんから詳しく紹介されました。
 また、99日付産経新聞夕刊にも「楠正行 知られざる恋」と題して、絵本プロジェクトの取り組みが大きく紹介されました。


●発足3周年記念事業について
 
と き 平成291028日(土)

      午後2時から(午後130分開場)
      入場無料

ところ 四條畷神社・神社会館
      JR学研都市線「四条畷」駅下車・東へ徒歩10

詳しくはこちらから(PDF)

 この日は、この事業の案内状やチラシ、ポスター等の配布、掲示依頼を決めるとともに、会員の役割分担、タイムスケジュールと当日のシナリオの確認、そして必要備品等の準備と担当など、盛りだくさんのことを確認、取り決めまし

基調講演は産経新聞「楠木正成考」取材裏話です
 基調講演では、「今、何故 楠氏一族を取り上げるのか」と題して、ロングランで続く産経新聞の「戦後7172年、楠木正成考」特集の取材チームのヘッドとして各地を取材されている特別記者編集委員の安本寿久氏に、取材の裏話、紙面に載らなかった話などをしていただきます。
 乞う、ご期待です。

正行の絵本、はじめて世に出ます
 また、第2部では、大阪電気通信大学総合情報学部デジタルゲーム学科と四條畷楠正行の会共同で進めてきた「楠正行絵本プロジェクト」の完成絵本、「くすのきまさつら」6分冊1巻本(正行の学び・正行の友・正行の恋・正行の情け・正行の大志・正行の最期)のプレゼンテーション・発表があります。
 今の学生の感性で、半年かけて制作してきた絵本が、はじめて世に出る事になります。
 いったいどのようなタッチで、どのようなストーリーが展開されるのか。興味津々です。この絵本が完成し、四條畷市図書館に寄贈されることで、大人から子どもまで、正行の生涯を知っていただくことになります。
 6分冊を読む、または読み聞かせる事で、四條畷神社に祀られ、小楠公墓所にねむる楠正行が、果たしてどのような人物であったか、またどのような生きざまをしたのか、おぼろげなく分かる仕掛けとなっています。
 ぜひ、会場に足をお運びください。
 楠フアン、待望の企画です。


●正行像賛扇子!
 順調に販売続く!
 全国の正行フアンの皆様。正行像賛扇子が、四條畷市ふるさと納税の景品に採用されました。101日から適用され、1万円以上の御寄付で、この正行像賛扇子が景品として受け取っていただけるようになります。四條畷市に御寄付をしていただき、朱舜水作・楠正行像賛の発信にご協力ください
なお、お買い求めの場合は、四條畷楠正行の会にご連絡をください。

 1本 2500円。(創業享保31718 白竹堂製)  

 仕様>
  75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
  表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
  裏面 1色      正行像賛148文字と釈文(ひらがな)
  親骨 レーザー彫   「四條畷楠正行の会」と刻印
  紙箱入り

↓正行像賛扇子(表面)正行像と辞世の歌



↓正行像賛扇子(裏面)正行像賛148文字と釈文(ひらがな)



 その他
連絡等
次回例会 
  日時 1010日(火)、午後130分~
  場所 教育文化センター2階 ホール
  内容 3周年記念事業について
     その他


傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております。

正行通信54号・55号はコチラからも(PDF)





「教文 夏の集い ”Last Summer Festival”」

日時 平成29年8月26日(土) 午後3時より午後8時
場所 四條畷市立教育文化センター 全館
イベント内容 今年は開催日を7月中旬より8月の後半に替え、プログラムを一新し、より楽しんでもらえるよう企画しました。
芝生広場ではオープニングダンスから始まり、ウォータータイムで全身クールダウン。
総勢十数組のダンスチームが日頃の成果を発表しました。
また、エルバートミュージックさんと井上恵一さんのライブでは、大変な盛り上がりを見せ、Lastは花火大会を実施しました。
模擬店に於いては、スクイ―ズ・動力トンボや段ボール迷路・フェイスペインティング・似顔絵・ネイルアート・100本糸引きなどが出店しました。


高校生ダンス

高校生ダンス

ミニクラスダンス
 

小学生ダンス
 
キッズダンス
  
段ボール迷路
 
スクイーズ・動力トンボ
 
ウォータータイム
 
スーパーボールすくい
 
千本引き


「教文 親子体操でうちわ工作をしました。」

日時 平成29年8月10日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 マイうちわを作って涼をとりましょう。
上手に出来ました。

 
 

四條畷楠正行の会 第33回例会

日時 平成29年8月8日(火) 午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 14人出席
 相変わらず猛暑日が続く中での8月例会でしたが、新たな仲間が一人加わり、少し新鮮な気持ちでのスタートとなりました。
↓8月例会の様子










●第32回例会のおさらい
・楠正行通信53号
   正行の後見役、恩智左近は延元213376月急死
   しかし、八尾市史には正平315日、四條畷の戦いで戦死と
   猛暑の中、16人の会員出席
   史料がほとんどない恩智左近
   南北両朝争奪の巷となった八尾
   後醍醐帝の吉野還幸に随った恩智左近
   敵地の摂津に出向き一日一夜の稲刈り
   延元213376月、戦乱の中、病死


北畠顕家と正行
 (参考文献)
 「花将軍 北畠顕家」横山高治
 「日本中世史を見直す」佐藤進一・網野善彦・笠松宏至
 「北畠顕家~足利尊氏が最も恐れた人物」桑原敏真
 「南朝の若武者 北畠顕家」大島延次郎
 今月のメインテーマは、北畠顕家と正行です。まずは、顕家の生涯から見ておきましょう。なお、掲載内容の出典は、上記参考文献に基づいています。
・北畠顕家の生涯

 北畠顕家~尊氏が怖れた南朝の若き武将
 図書館員の文献紹介:岡崎嘉彦より
 北畠顕家 13181338 親房の長男
  元弘3年1333 従三位に叙され陸奥の守として奥州に父ともども下向
 当時、遠国へ任官された地方官は、自ら赴かず目代を派遣して国務にあたらせた。
 そこで、天皇は、顕家を御前に召し、勅語を下し、御衣・御馬を与えて、下向を申しつけた。この頃、御衣を賜るのは陸奥の守だけで、御衣・御馬を下されるのは太宰司や太宰大弐だけで、特別の待遇であった。加えて義良親王も同行したことを合わせ考えると、この行がいかに重視されていたか分かる。
 建武21335 尊氏が反旗したため、顕家は鎮守府将軍に任じられ、尊氏を征伐
 3月、権中納言に任官し、奥州に帰還
 尊氏の東征に対し、後醍醐は顕家に再三再四の出兵を求めるも、奥州を動けず
 建武51338 勅命を受け、ついに義良親王を奉じ霊山を発し西上。鎌倉制圧後、美濃青野ヶ原の戦いで多くの兵を失う。伊勢、奈良、河内、天王寺、摂津、阿倍野と激戦を繰り広げるも、522日、堺浦石津の戦いで討死する。
 討死7日前の515日、天皇に政治意見書を奉呈する。

 霊山城の築かれた霊山は、福嶋氏から東北へ約22キロ。険しい阿武隈山地の北端にそびえる標高805メートルの峻嶺で、全山が奇岩怪石と絶壁からなり、岩城、岩代の国境をなしている。
 山頂からの眺めは雄大で、東は岩城・陸前の東海岸からはるか牡鹿半島、西は福島市、二本松市、郡山市に至る福島盆地を一望に見晴らす景勝地である。今も、おびただしい史跡が散在し、四季を通じ人々が訪れる。

・花将軍 北畠顕家の誕生
 元弘元年133134日、京都の西園寺公宗の北山第で、天皇臨幸の基に花の宴が催された。
 この時、わずか14歳の貴公子、顕家は紅梅の上衣をかざして陵王の舞を舞い、その息をのむような美しい光景を天皇、居並ぶ公卿たちは見守った。(増鏡、舞御覧記)

 武略のみならず、学問、舞踊、芸術等にも精通していたことが伺える。
 疾如風除如林 侵椋如火動如山
 延元213378月、霊山城を発った顕家率いる奥州官軍の先頭には、北畠親房が孫子の兵法に学んでつくらせ、はるばる送りとどけた「風林火山」の旗頭が風にはためいた、という。
 兵法書「孫子」にある「疾きこと風の如く 徐かなること林の如し 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し」。この軍旗は戦国の武将、武田信玄が甲州軍団の先頭に掲げたと伝えられているが、実は、その30年も前に、軍略家としても名高い親房が北畠軍団の陣頭に掲げたものである。これに倣って諸将が、色とりどりの旗や幟を掲げ、勇壮な行軍絵巻を描き出した。
 

・顕家、血涙の上奏
 未来の展望なき戦いの中で、515日、顕家は後醍醐天皇に上奏文を書き吉野に送った。
 忠誠を尽くし、悲憤さえ感じさせる上奏文。
 顕家戦死後、父親房は東国、常陸で苦戦中、血をはく思い出したためた「神皇正統記」執筆のきっかけとなったといわれているが、父子ともに南朝を基にした国家の在り様、政治的信念、理想を表明している。
 後に四條畷の戦いを前に、楠正行は辞世の歌、文章を残しているが、顕家の奏上文とは好一対のものであった。
 南北朝以降、昭和に至るまで、武将や兵士が出陣にあたり、遺書を書く慣わしは、この顕家の上奏文と正行の辞世の歌が大きな教訓とさえなった、と云われている。


・北畠顕家の上奏文
 別紙「北畠顕家奏状」参照
上奏文を読み解く
*二度までも奥羽54郡の兵士を率い、雪、風の中を、数百里の山河を戦い続け、その忠誠なる部下やその留守を耐え忍んだ家族の心中を思い、血をはく思いで訴えたもの
*丹心の蓄懐を述べさせた自信の裏付けは、足掛け5年にわたる、陸奥の国での労苦に満ちた政治的・軍事的経験を置いてほかにない。
*地方分権制の確立を説く第1条は、自己の成功の上に立っていることは明らかである。
*奥州という辺境での苦しい体験、そこで育まれた激しい感情が、顕家の書いた、あるべき政権論に高い説得力を与えている。
*「功あるものと雖も、これを賞するには土地を与えるべきで、みだりに高位高官を授けることは慎まなければならない」とする考え方は、親房も同様で、親房同様恵まれた公家名家として、公家優越武家蔑視を感じさせる。
*名門村上源氏の末裔北畠の嫡男として生まれ天皇が頼みとする中で奥州を舞台に戦い続けた顕家。一方、河内の豪族楠氏の嫡男として生まれ、公家優越武家蔑視の中で黙々と吉野の宮を支え続けた正行。大きくは同じ運命ともみえるが、如何ともしがたがった出自の違いが。正行の悲哀!
*顕家が「花の将軍」なら、正行は「雑草の大将」とでも言うべきか。似て非なる二人。
*自慢の息子を若くして亡くした親房は、顕家を十分補佐しなかった正行を恨んだのではないか。親房の主戦論と正行の和睦論の確執が四條畷の戦いの序章となっていくが、石津で顕家をなくした親房は、「生き残った正行よ。何をぐずぐずしているのか。顕家を死に追いやった責任はお前にもある。」と、檄を飛ばしたのではないだろうか。


(別紙)
北畠顕家奏状
 原典 日本思想大系「中世政治社会思想」下(岩波書店)
 出典 「日本中世史を見直す」佐藤進一・網野善彦・笠松宏至(悠思社)
第一条
(前欠)
鎮将、各々その分域を領知し、政令の出ずるや、五方に在り。因准(いんじゅん)のところ、故実を(わきま)うるに似たり。元弘一統の後、この法いまだ周備せず。東奥の境、(わずか)に皇化に(なび)く。これすなわち最初鎮を置くの(しるし)なり。西府に於ては、更にその人なし。逆徒敗走の日、(ほしいまま)にかの地を()み、諸軍を押領して、再び帝都を(おとしい)る。利害の間、これを以って観るべし。およそ諸方(かなえ)のごとくに立ちて、なお聴断に(とどこお)りあり。もし一所に於て四方を決断せば、万機紛紜(ふんうん)ていかでか患難を救わんや。分かち出して侯に封ずるは、三代以往の良策なり。鎮を置きて民を治るは、隋唐以還(いかん)の権機なり。本朝の昔、八人の観察使を補し、諸道の節度使を定む。承前の例、漢家と(こと)ならず。方今乱後の天下、民の心(たやす)く和しがたし。(すみや)かにその人を撰びて、西府および東関に発遣せよ。もし遅留あらば、必ず(せい)(せい)の悔あらんか。兼て山陽・北陸等に各一人の藩鎮を置きて、便近の国を領せしめ、よろしく非常の(おそれ)に備うべし。当時の急にすべきこと、これより先はなし。

第二条

諸国の租税を免じ、倹約を専らにせらるべき事
 右、連年の兵革、諸国の(ろう)(ろう)(いや)しくも大聖の至仁にあらざれば、(れい)(みん)()(そく)を致しがたし。今より以後三年は、偏えに租税を免じて、民肩を(いこ)わしめよ。没官領新補の地頭等の所課、同じく蠲免(けんめん)に従い、その祭祀(さいし)および服御(ふくぎょ)等の用途は、別に豊富の地を撰び、以て供奉の数に充てよ。三ヵ年の間は万事興作を止め、一切に奢侈(しゃし)を断ち、しかる後、宮室を(ひく)くし以て民を(ゆた)かにして、仁徳天皇の余風を追い、礼儀を節し俗を(あつ)うして、延喜聖主の旧格22に帰せば、(ただむき)を垂れて海内子のごとくに来り、征せずして遠方賓服(ひんふく)せん。

第三条
官爵の登用を重んぜらるべき事
 右、高き功あれば、不次(ふじ)の賞を以てするは、和漢の通例なり。その才なきに至りては、功ありといえども、多く田園を与えて名器を与えず。なんぞ況んや徳行なく勲功なくして、(みだ)りに高官高位を(けが)さんや。維月の位は朝端(ちょうたん)の重んずるところ、青雲の(まじわり)象外(しょうがい)の撰ぶところなり。その仁にあらずして僥倖の者、近年踵を継ぐ。しかのみならず或いは起家の族、或いは武勇の士、先祖経歴の名を軽んじ、文官要劇の職を望む。各々登用の志を存し、(ほしいまま)に不次の恩に(あずか)る。向後の弊いかんぞ休むことを得ん。およそ名器は(みだ)りに人に()さず、名器の(みだ)りなるは僭上の(きざはし)なり。しかればすなわち、任官登用はすべからく才地を撰ぶべし。その功ありといえどもその器に足らざれば、厚く功禄を加え田園を与うべし。士卒および起家奉公の輩に至りては、且は烈祖昇進の跡を逐い、且は随分優異の恩に浴さば、なんの恨かこれあらん。

第四条
月卿・雲客・僧侶等の朝恩を定めらるべき事
 右、朝廷に拝趨(はいすう)し、帷幄(いあく)(じっ)(こん)し、朝々暮々竜顔に咫尺(しせき)し、年々歳々鴻慈(こうじ)戴仰(たいぎょう)するの輩、たといその身を尽くすとも、いかでか皇恩を報ぜんや。ここに国家(らん)(げき)して、宸襟(たやす)からず。或いは乗輿を海外に移し、或いは行宮(あんぐう)を山中に構う。人臣と()て、忠義(つく)さんはこの時なり。しかれども、忠を存じ義を守る幾許(いくばく)ぞや。無事の日は大禄を貪婪(たんらん)し、艱難(かんなん)の時は逆徒に屈伏す。乱心賊子にあらずして何ぞや。罪死して余りあり。かくのごときの族、何を以て新恩を荷負(かふ)せんや。僧侶護持の人、また多くこの類なり。辺域の士卒に(およ)びては、いまだ王化に染まずといえども、君臣の礼を正し、忠を懐き、節に死するの者、勝計すべからず。恵沢いまだ(あまね)からざるは政道の一失なり。しかれば功なき諸人の新恩の跡を以て、士卒に分ち賜うべきか。およそ元弘以来没官の地頭職を以ては、他用を(さしお)かれて有功の士に配分し、国領および庄公等の本所領を以ては、宦官(かんがん)道俗の恩に擬せられば、朝礼(すた)れず勲功空しからざるものか。そもそもまた累葉の家々不忠の科は、(にく)むべしといえども、偏えにその人を廃黜(はいちゅつ)せば、誰かまた朝廷の故実を(わきま)え、冠帯の威儀を(つくろ)わんや。近年士卒の競望により、多く相伝の庄園を収公す。理の推すところ、(こと)善政にあらず。しかれば累家(るいけ)の私領においては、すべからくその家に返され、公務の忠否に随い、追つて黜陟(ちゅっちょく)あるべきなり。今度陪従(べいじゅう)の輩ならびに向後朝要の仁に至りては、尤も計略の分限を定め、拝趨の羽翼を計い行わるべきか。

第五条
臨時の行幸および宴飲(えいいん)(さしお)かるべき事
 右、帝王の(いた)るところ、(けい)(こう)せずということなし。風俗を移し、艱難を救うの故なり。世澆季に(のぞ)み、民塗炭(とたん)()つ。遊幸・宴飲まことにこれ乱国の基なり。一人(いちにん)の出ずるときは、百僚威儀に(そつ)(じゅう)し、過差の(ついえ)、万を以て数う。況んやまた、宴飲は鴆毒(ちんどく)なり。故に先聖これを禁じ、古典これを誡む。伯禹(はくう)酒味を歎きて儀狄(ぎてき)を罰し、周公酒誥(しゅこう)を制して武王を諫む。草創これを守るといえども、(しゅ)(ぶん)なおこれを(おこた)る。今洛都に還り、再び魏闕(ぎけつ)に幸さば、臨時の遊幸、長夜の宴飲、堅くこれを止め、深くこれを禁ぜよ。明らかに前車の(くつがえ)るを知りて、すべからく後乗の師となすべし。万人の企望するところ、けだしここにあり。

第六条
法令を厳にせらるべき事
 右、法は国を(おさ)むるの権衡(けんこう)、民を(ぎょ)するの(べん)()なり。近ごろ朝に令して夕に改む。民以て手足を()くところなし。今出て行わざれば、法なきにしかず。しかれば則ち、約三の章を定めて、堅石の(まろ)ばしがたきがごとし、画一の教を(ほどこ)して、流汗の(かえ)らざるごとくせば、王事(もろき)こと()く、民心(おのずか)ら服せん。

第七条
政道の益なき(ぐう)(ちょく)の輩を除かれるべき事
 右、政のためその得あらば、芻蕘(すうじょう)の民といえどもこれを用いるべし。政のためその失あらば、(ばつ)(えつ)の士といえどもこれを捨つべし。(とし)(ごろ)以来、卿士・官女および僧侶のうち、多く機務の蠧害(とがい)をなし、ややもすれば朝廷の政事を(けが)す。道路目を以てし、衆人口を(ふさ)ぐ。これ臣鎮に在るの日、耳に聞きて心に痛むところなり。それ直を挙げて枉に()くは、聖人の格言なり。賞を正して罰を明らかにするは、明王の至治なり。かくのごときの類早く除くにしかず。すべからく黜陟(ちゅっちょく)の法を明らかにし、耳目の聴を(ひら)くべし。陛下諫に従わざれば、泰平期するなからん。もし諫に従わば、(せい)(しゅく)日あるものか。小臣、もと書巻を執りて軍旅の事を知らず。(かたじけな)くも (ふつ)(しょう)を承り、艱難の中に跋渉(ばっしょう)す。再び大軍を挙げて命を鴻毛に(ひとし)うす。幾度か挑み戦いて身を虎口に(のが)れし、私を忘れて君を思い、悪を却け正に帰せんと欲するの故なり。もしそれ先非改めず太平致しがたくば、符節を辞して范蠡(はんれい)の跡を逐い、山林に入りて以て伯夷の行を学ばん。

 以前条々、(もう)すところ私にあらず。およそそれ政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれを精練したまい、賢臣各々これを潤飾(じゅんしょく)す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せんや。しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の(ちく)(かい)をのぶ。書は言を尽くさず。言は意を尽くさず。伏して(ねがわ)くば、上聖の(げん)(かん)(てら)して、下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す。

 延元三年五月十五日

 従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍臣源朝臣顕家上る


●楠正行絵本プロジェクト

 824日、集中講義にて、最終プレゼンテーション。
 6グループのプロット・ストーリーに対する修正要望を提出。

*当面の予定
  8/24  11時~1240分 集中講義にて最終プレゼン
  104
   最終本描き
  10/28   完成品プレゼン(3周年イベント)


●発足3周年記念事業について
 
と き 平成291028日(土)

      午後2時から(午後130分開場)
      入場無料

ところ 四條畷神社・神社会館
      JR学研都市線「四条畷」駅下車・東へ徒歩10

詳しくはこちらから(PDF)


●正行像賛扇子!
 順調に販売続く!
 全国の正行フアンの皆様。ぜひお買い求めいただき、朱舜水作・楠正行像賛の発信にご協力ください。

 1本 2500円。(創業享保31718 白竹堂製)  

 仕様>
  75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
  表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
  裏面 1色      正行像賛148文字と釈文(ひらがな)
  親骨 レーザー彫   「四條畷楠正行の会」と刻印
  紙箱入り

↓正行像賛扇子(表面)正行像と辞世の歌



↓正行像賛扇子(裏面)正行像賛148文字と釈文(ひらがな)



 その他
連絡等
次回例会 
  日時 912日(火)、午後130分~
  場所 教育文化センター2階 ホール
  内容 3周年記念事業について
     「くすのきまさつら」絵本プロジェクトについて


傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております。

正行通信53号はコチラからも(PDF)





「教文 親子体操で水遊びをしました。」

日時 平成29年7月20日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 教文親子体操では、ホールでの体操を終え、プール遊びを行いました。
梅雨も明けたこの日の外気は32度ですが、芝生広場では、マイナス2度の約30度となりました。

 

四條畷楠正行の会 第32回例会

日時 平成29年7月11日(火) 午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 16人出席
 この日は、この夏一番の猛暑日となり、全国の60カ所を超える観測地点で35度以上を記録する中、会員が一人、二人と集まり、休会中を除くほぼ全員が顔をそろえた。
↓7月例会の様子








●第31回例会のおさらい
・楠正行通信51号
   久子の方、出身は甘南備か、京都か
   最後の地、墓も、甘南備(富田林)と伊自良(岐阜県山県市)に
   正行の末裔、藤田力弥さんとの出会い
   南江正忠妹説(甘南備誕生説)と万里小路藤房妹説(京都誕生説)
   久子の墓は、甘南備そして伊自良にも
   笠置山之城 元弘戦全圖

   総大将、足助次郎重徳の名前がくっきり

・楠正行通信52号
   楠正行に遺腹の子がいた
   池田(のり)(まさ)と名乗り、池田家を継ぐ
   野瀬庄の内藤満幸の娘を妻に
   岡山市操山に残る三勲神社址
   正行遺腹の子、池田教正、幼名は多聞丸
   地域文化誌まんだ第80号、岡沢新吾論文 様々な史料から引用


●恩智左近と正行
尾の豪族、楠氏八臣の一人といわれる恩智左近を取り上げた。
 しかし、残念なことに、恩智左近に関する資料は極めて少なく、出版物もほとんどなく、研究論文も見当たらない状況で、わずか八尾市史と恩智城址跡や恩智左近の墓に建つ現地説明版を基にレジュメを作成するにとどまった。
 以下、その内容である。


◆南北朝時代の八尾

八尾市史「南北朝時代の八尾」より抜粋
河内地方の状勢

 この頃、近畿における各領主たちは、鎌倉幕府の大きな豪族を基にした所の御家人中心制度に対して、新しく起ってきた所の村落を単位とする一類一党の団結による郷村制の上に立つ在地武士の組織をもって対抗するの形勢となり、こうした力が新しい制度を望んで、幕府を倒そうとする朝廷との結びつきを、より一層容易に、かつ密接にしたものということができる。
 延元元年、525日、楠木正成は湊川に戦い、自害をしたが、この時、橋本太郎正員、神宮寺太郎兵衛正師、矢尾新介正春ら、宗徒の一族28人がこれに殉じたと伝えられている。
 この頃、矢尾の地域は、赤坂をはじめとして南朝方の拠地であった吉野や観心寺、金剛寺の地と、北朝の拠点である京都との中間要地として、常にその前線基地となり、八幡、飯盛、萱振、八尾、四天王寺といずれも両者争奪の巷となって激戦の渦の中におかれることとなったのである。

 殊に東高野街道によって飯盛が河内の入り口となり、八尾が南朝方の第一線基地となって、ここに当地域は或は南朝軍の有となり、或はまた北朝方の手に占められて、文字通りの修羅の巷となった。

八尾城と八尾別当賢幸
正成が赤坂に勤王の旗揚げをしたとき、八尾に八尾別当賢幸、恩智に恩智左近満一、神宮寺に神宮寺小太郎があった。
 八尾別当賢幸は、早く正成の父、正玄と常に領地の事に関して争いの事あり、ある時は八尾氏が領有し、またある時は楠氏がこれを奪い返すという有様であった。
 元弘2年1332、正成は八尾の地を支配下に置くべく画策、後醍醐天皇の命を受け八尾別当賢幸に権僧正の位を賜り、楠方に帰するように計った。別当賢幸は南朝方に属し、河内一円は正成の支配の中に統一されることとなった。
 湊川の戦のあった延元元年1336、末に後醍醐天皇は吉野に還幸されたが、この時、八尾別当賢幸は恩智左近とともにこれに随って吉野に至り、吉野の守護にあたることとなった。

 しかし延元2年の頃には、いつしか八尾の地域は北朝方の占拠する所と為っていて、北朝方はこれを前線基地として南朝の吉野に対して備えを張るようになった。城を修復し、防備を厳にし、堀構えもいかめしく備え、ここに伊香賀の土屋氏、秋山彦三郎、同彦小五郎らが立てこもった。
 八尾別当賢幸は、終始南朝方として吉野の守護にあたっていたようであるが、延元3年7月、疫病のため67歳をして病死した。
 正平2年、正行は、和田助氏をして秋山彦六の立てこもる八尾城を攻めるが、策をもって細川顕氏の軍を打ち破っている。

恩智左近と神宮寺小太郎
恩智左近満一は、俗に楠公八臣の一人と云われ、古く恩智神社の社家恩智貞吉の名が見え、その子孫と云われ、恩智神社の神主として恩智における豪族として権勢を有し、信貴山への登り口を扼し、ここに恩智城を築いて東高野街道を抑えて、早くから楠方に属して活躍し、元弘年間、楠木正成の千早籠城の際には、志貴右衛門らと共に千早城に立てこもり、敵の通路を断ち切り、所々の敵陣を夜襲しては、敵の術策を探ってこれを城内に通報し、奔走したのであった。
 建武元年1334、飯盛城を攻撃の際には、八尾別当賢幸とともに、第一線の軍として活躍したが、延元元年1336、湊川に楠木正成の戦死した後は、一時、八幡に出向して足利尊氏の軍に挑戦したこともあった。
  そして、この年7月、高師直が京都における兵糧が少なくなったため、飯盛の城を取り囲み、河内半国に押し寄せて、その田畑の稲を刈りとって引き上げた。このため恩智左近は、これが報復のために、和田氏とともに渡辺から舟で淀川を下り、摂津方面へ出向いて一日一夜その地の稲を刈り取って持ち帰ったのであった。
  後、楠正行に従って四條畷に出陣し、正行と共に正平31348、正月5日、戦死したと伝えられる。(扇谷注:   この部分は誤りと思われる。恩智左近は延元213376月、熱病のため急死とある。「恩智左近の墓」の項参照)

(おん)()城址(じょうし)
〒581-0883 八尾市恩智中町
近鉄大阪線恩智駅下車徒歩約20分
 恩智城址公園には、高さ約二メートルの自然石碑「恩地城址」が建つ。
 現地説明板は、「恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で、高安連峰との間に堀を廻らせ前方に大阪平野を一望のもとに収めた。堀の中にかつては小島があったがそれは昔の一の丸で現在の城址は二の丸跡という。正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠正行が戦死し恩智城も落ちた。学制領布の時ここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られる。」とある。
 恩智城址公園には、「南高安小学校(旧恩智小学)発祥の地」の石碑もたち、公園正面には旧小学校の門柱が左右に残る。

(おん)()左近(さこん)(はか)
〒581-0883 八尾市恩智中町
近鉄大阪線恩智駅下車徒歩約20
 恩智城址の西に恩智左近の墓が建っている。
 案内板に「恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成方に味方した八臣の一人である。湊川の戦の後はその子正行を助けて南朝方を守ったが、不幸にして延元二年(一三三七)六月熱病のため急死した。」と記されている。
 墓石前の自然石(高さ約1.2メートル)に、「贈従四位 恩地左近満一之墓」と記される。

●楠正行絵本プロジェクト

  期待の高まる絵本「くすのきまさつら」6分冊1巻本の制作が順調に進んでいる。
 予定している6分冊は、以下の通り。
 ①正行の学び~正行が受けた教育
 ②正行の情け~大川におぼれる敵兵を救う渡辺橋の美談
 ③正行の恋~大切な人が故、結婚を断る
 ④正行の大志~父の教えを守り、自ら立てた志一筋に生きる
 ⑤正行の友~やさしい正行、その最愛の友は武勇に優れた従兄弟の賢秀
 ⑥正行の最期~吉野詣でと四條畷の合戦
 この6分冊を、就学前の子ども達には読み聞かせによって、小学校低学年の子ども達は自ら読むことによって、楠正行の育った時代背景やその様子、そして生きざまがおぼろげなくわかる、という仕掛けの絵本である。
 いよいよ、絵本作家、谷口智則氏(四條畷市観光大使)にも登場いただき、第2回目のプレゼンテーションが行われ、絵本制作は佳境に入っていく。
*当面の予定
 72日、現地学習(希望者のみ)実施済み
      学生4人と扇谷で、吉野山・如意輪寺へ
*今後の予定
  7/12  1640分~1820分 第2回プレゼン
       (谷口観光大使・市職員も出席)
  8/24  11時~1240分 集中講義にて最終プレゼン
  104
   最終本描き
  10/28   完成品プレゼン(3周年イベント)


●発足3周年記念事業について
 早くから取り組んできた発足3周年記念事業については、この日、チラシづくりが始まった。
「武士道の人、楠正行 今、蘇る!」と銘打ち、“郷土、四條畷の誇り ロマンチックで、気持ちの真っ直ぐな人 楠正行を知り、語り継ごう!”と、呼びかけることに。
 基調講演は、産経新聞の特別記者・編集委員の安本寿久氏に、超ロングランの産経新聞「楠木正成考」特集の秘話を語っていただく。
 そして、絵本完成プレゼンテーションと題して、大阪電気通信大学木子香教室による6分冊1巻本「くすのきまさつら」の発表を予定。
 会からは、扇谷が、朱舜水作の楠正行像賛を発見した感動物語を報告する予定で、このほか、四條畷市詩吟連盟による吟詠、ひまわりコーラスによる歌、さくら会による踊りも予定。
 また、会で制作した正行像賛扇子の販売もする。
 一人でも多くの市民の皆様のご参加を待っています。

と き 平成291028日(土)

      午後2時から(午後130分開場)
      入場無料

ところ 四條畷神社・神社会館
      JR学研都市線「四条畷」駅下車・東へ徒歩10


●正行像賛扇子の追加発注決定!
 正行像賛扇子は、一部、関係者に贈呈するとともに、会員の手によって販売を進めている。
 100本制作の内、20本を贈呈用とし、80本を販売用とした。
 会員一人一人が購入したことはもちろん、楠氏や楠正行に関心を持つ人々の間に密かに広まり、在庫が30数本になった。
 今後、贈呈した楠氏ゆかりの神社、仏閣等の反応も大変好評で、正行顕彰の一つの武器として、朱舜水作の楠正行像賛の存在を広く知らしめ、結果として正行ゆかりのまちとして、この四條畷を全国に発信するツールとして、更に広めることとし、追加発注することとなった。
 全国の楠氏フアン、正行フアンの皆様、是非、お買い求めください。
 1本 2500円。(創業享保31718 白竹堂製)  

 仕様>
  75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
  表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
  裏面 1色      正行像賛148文字と釈文(ひらがな)
  親骨 レーザー彫   「四條畷楠正行の会」と刻印
  紙箱入り

↓正行像賛扇子(表面)正行像と辞世の歌



↓正行像賛扇子(裏面)正行像賛148文字と釈文(ひらがな)



 その他
連絡等
次回例会 
  日時 88日(火)、午後130分~
  場所 教育文化センター2階 ホール
  内容 北畠顕家と正行
     3周年記念事業について
     「くすのきまさつら」絵本プロジェクトについて


傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております。

正行通信51号・52号はコチラからも(PDF)





「四條畷市立東小学校より施設見学」

日時 平成29年7月7日(金)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 東小学校の三年生31名が施設見学に訪れ、質疑応答を行いました。


施設見学にきました


「教文 親子体操教室で笹飾りをつくりました。」

日時 平成29年7月6日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 親子体操のみんなで七夕さんの笹飾りをつくりました。
上手にできました。◎

 

四條畷楠正行の会 第31回例会

日時 平成29613日(火)午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 16人出席

 この日は、会員は会場のホールに入ると、黒板に張り出された「元弘戦図」の写しの前に集まってきた。
 張り出した元弘戦図の写しは、笠置在住の方が、笠置寺所蔵の元弘戦図を模写されたものを撮影させていただき、プリントしたもので、天地約120㌢、左右約75㌢のもので、描かれている文字がはっきりと読める。
 後醍醐天皇が笠置山に行在所を置き、幕府軍とたたかった時の、合戦配置図で、戦いに参加した武将の名前が一人一人、陣した位置に書かれている。
 当寺の様子が想像できる絵図に、食い入るように見入った。


↓元弘戦図の写し


イベント内容 ●第30回例会のおさらい
楠正行通信48号(PDF)
  
春日社国民の大和武士、越智氏
  興福寺の権威の下の衆徒との「身分・制約」の戦い
  一条院に属し南朝を支持した越智氏
  衆徒筒井氏より下位、国民越智氏
  足利直義を南朝に仲介した越智邦澄
  越智家栄の勢力拡大と私反銭
楠正行通信49号(PDF)
  
大和武士を支配した興福寺と春日社
  興福寺別当による大和国検断権の行使
  例会での質疑
   外従五位下という位階はあったのか?
   国民という言葉は使われていたのか?
楠正行通信50号(PDF)
  「楠正行絵本」制作プロジェクト始動!
  大阪電気通信大学<社会プロジェクト実習>に依頼
  6分冊・1巻本の完成予定~武将・楠正行を後世に伝える
  「正行の学び」「正行の情け」「正行の恋」「正行の大志」「正行の友」
  「正行の最期」
  正行絵本 講義と現地学習を終え、いよいよ制作段階に

●久子の方と正行
<久子の方の出自>
 楠妣庵観音寺略記によると、久子は甘南備の豪族、南江正忠の妹で、20歳のとき正成に嫁いだ、とある。
 そして、正成、正行戦死の後、生まれ故郷の甘南備に隠棲し、今も楠妣庵観音寺の境内の一角に久子の墓が残る。
 一方、「楠公夫人精説」(藤田力也弥著)によると、万里小路藤房が、畿内に勢力を持っていた正成を天皇に味方させるために、妹の滋子を家臣の養女にしたうえで、久子と名乗らせ正成に降嫁させたものではないか、とする。
 また、久子の晩年についても、戦果に包まれた河内を抜け出し、甘南備という地を訪ねて伊自良(岐阜県山県市長滝)に辿りついた、とする。
 伊自良には、楠公夫人の墓と伝わる八王子宮がある。

<正行、遺腹の子>

  地域文化誌「まんだ」2004年春夏第80
  「楠木正行遺腹の子」岡沢新吾より

 正行は摂州野瀬庄の野間城主・内藤満幸の娘を妻に向かえた。
 子どもをもうけたが、2年余りで早世した。
 正行戦死後、正儀は内藤満幸の足利方寝返りを怒り、子を宿していた兄嫁を実家に帰した。
 実家に帰った正行夫人を、妊娠承知で妻に向かえたのが池田城主九郎教依(のりより)で、生まれた子は池田六郎教正(のりまさ)と命名され、その末裔が代々池田家を継いだ。摂州池田氏、備前池田氏、鳥取池田氏は、すべて正行に連なる縁を持つ。
*備前に、正行を祀る神社があった
 岡山操山の山腹には、かつて三勲神社があった。
 和気清麻呂、児島高徳そして楠正行が祀られていたが、備前池田氏が正行の末裔という事であればうなずける。現在は、礎石の石畳だけが残っており、三勲神社跡地と記した看板が立つのみという。


●楠正行絵本プロジェクト
 場所 大阪電気通信大学四條畷学舎 10号館(1階)102教室
 時間 1650分~1820分(第5限)
 進捗について
  講義と学外学習が終了
  第1回プレゼンテーションを終え、いよいよ制作段階に入る
 今後の予定
  712 第2回プレゼン(谷口観光大使出席)
  8/? 集中講義
  104 最終本描き
  1028 最終完成品プレゼン

3周年記念事業について

 1028の本番当日のタイムスケジュールと役割分担(案)を確認
・タイトル
 「武士道の人、楠正行 今、蘇る!」
・ポスター・チラシ 7月中に作成
・広報  9月四條畷広報誌掲載or地区回覧の依頼(815日〆切)
・来賓(予定) 市長・教育長・議長・四條畷神社
・みおやの会・小楠公偲ぶ会
・四條畷詩吟連盟 吟題決まる!

  「零丁洋を過ぐ」「楠公 子に映るの図に題す」「小楠公の母を詠ず」
  「小楠公の墓を弔う」「楠公を詠ず」

●正行像賛扇子の制作と販売について
 ・㈱山岡白竹堂から納品
 本日より、販売開始! 頒布価格2500円
仕様>
 75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
 表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
 裏面 1色      正行像賛148文字と釈文(ひらがな)
 親骨 レーザー彫   「四條畷楠正行の会」と刻印


↓正行像賛扇子(表面)正行像と辞世の歌


↓正行像賛扇子(裏面)正行像賛148文字と釈文(ひらがな)


↓親骨のレーザー彫「四條畷楠正行の会」



その他

 □如意輪寺、後醍醐天皇御忌に 過去帳再現プロジェクト始動!
  毎年927日法要(平成28年に復活)
  143名の名を記した過去帳の再現プロジェクト始動!
  今後、毎年判明した武将の法要も併せて勤める。
  143名の武将解明に協力要請有り。

 □戦後72年楠木正成考<第15部>

  523日~
  千早赤阪村が伝える「楠公さん」

 □なわて学29年度前期講座・第3

  7月8日(土)14001530
  湊川神社 垣田宗彦宮司

  テーマ  「日本人の心の礎 大楠公」
    ~ 日本人が誇るべき礼節や信義を重んじる心は
      楠公精神そのもの。
    
  幕末の志士たちが心のよりどころとした楠公精神について語って
      いただきます。
  申し込んでない人も、飛び入り大歓迎です。
  総合センター3階 会議室
  (扇谷昭は、四條畷楠正行の会代表として、なわて学実行委員会の委員を
  務めています。)


 □奥吉野に中世から伝わる「後南朝の秘儀」を特別公開
  安井さん提供
  ビジュアル版~逆説の日本史[]中世編 より

 □週刊朝日 新連載小説
  「星と龍」葉室麟 2017.4.14連載開始
  楠木正成と後醍醐天皇を取り上げた歴史小説

 □笠置山之城元弘戦全圖について
  平成1911月 治郎(81) 原図より写し
  治郎氏(笠置在住)の弟、船本氏提供(上田原在住)
  国府さんによって撮影・印刷(本コーナートップに写真掲載)


 □鉄斎-人物画の魅力- 618日まで開催中
  鉄斎美術館 特別展 月曜日休館
   〒665-0837 宝塚市米谷清シ一番地 清荒神清澄寺山内

  鉄斎は、幕末の京都で、勤王の志を抱き国事に奔走していた。
  鉄斎は、楠木正成を仰ぎ、時代に先駆けて顕彰に努め、河内金剛山の楠公
 旧跡の踏査を重ね、信貴山で正成の旗や兜などを拝観・模写している。因み
 に、千早城址入口に立つ「楠公誕生地」碑の揮毫は鉄斎である。
  鉄斎は、以下の楠公に関連する作品を残している。

   楠公像・楠公画像・楠公誕生地碑・正成朝臣像・楠妣庵図・楠公訓子図
   ・楠公忠戦図



 
その他
連絡事等


●次回例会
 日時 7月11日(火)午後130分~
 場所 教育文化センター
 内容 恩智左近と正行
    絵本プロジェクト・進捗について
    その他
    

●傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。
 お待ちしております。
 
 楠正行通信48号・49号・50号はコチラ(PDF)




「教文 親子体操教室 お弁当会」

日時 平成29年5月25日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 親子体操を頑張ったあと、お弁当を食べました。
みんなで食べると楽しいですね。

 


「教文 親子体操教室でサツマ芋を植えました。」

日時 平成29年5月11日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 親子体操のみんなで、教文の畑に鳴門金時の苗を植えました。
大きなお芋が出来るかな?!

 


「教文 子ども広場」

日時 平成29年5月10日(水) 午前10時より12時
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 教育文化センターでは子ども読書週間に因み、絵本の読み聞かせとエプロンシアター、手作りおもちゃ遊びを行いました。
講師は、おもちゃライブラリーさんにご協力を頂きました。

 

四條畷楠正行の会 第30回例会

日時 平成2959日(火)午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 14人出席 オブザーバー出席1人 計15人

 今月も新しい仲間を迎えた。
 一人は、安井さんの友人で、中村さん(大東市在住)が入会。今一人は、辻さんの友人で田窪さん(大阪市内在住)で、今回はオブザーバー参加となった。
 また、体調を崩しておられた真木副代表も、久々の出席となり、全員和やかな中にも笑顔いっぱいの例会となった。

↓例会の様子(2階ホールにて)




イベント内容 ●第29回例会のおさらい
・楠正行通信47号
  時代の風を読み、先を見通していた播磨の豪族・赤松円心
  
範資(長男)と貞範(次男)の二人を尼崎に、則祐(三男)を比叡山に置く布
  石

  播磨を一つにまとめ上げ、播磨の地政学的優位性の発見と活用を実践
  正成の一途さ・精神性に比べ、円心はより現実主義者ではなかったか
  <速報> 教文1階に、「楠正行資料館」オープン!


大和武士、越智氏と楠正行
(資料) 中世身分制社会の中で頭角を現した越智氏

       奈良県史11 大和武士より

 中世大和の国の、南部の豪族
 春日社の神人である国民に組織され、一条院に属し、南朝を支持。
 
永享11年(1439)、越智維通が敗死して、越智氏は一旦断絶するが、越智家栄が応仁の乱後、南大和をほぼ統一して全盛時代を現出する。
 国民は春日社の権威に頼り、神主職を獲得して発生。
 衆徒は、興福寺の権威の下、官符衆徒となり、奈良中雑務検断職を有する等、他の大和国人に比べて優越的な権力を持つことができた。

 大和の越智氏にとって、河内では見られなかった、衆徒:国人、身分差との戦い抜きに考えることはできない。
 越智氏は、軍事力を背景に、官符衆徒を同盟者という形で従属的な位置に据えることで、国民に付きまとう身分上の正当性の欠落部分を補おうとしたと考えられるが、それは取りも直さず、衆徒を上に認めることの裏返しでもあり、自らを不安定な立場に追い込むことでもあった。

 越智家栄の勢力拡大と私反銭
 越智氏には賦課権がなかったので、大規模な私反銭賦課を生み出していく。

 中世社会の根幹にある「身分」という大きな壁に直面した越智氏
 ~正行が、北畠親房や四条隆資を前に、身分との戦いを強いられたことと同じでは

 大和武士の制約
 「国中」=興福寺、そして春日社の存在
        興福寺の春日社支配の確立
 如何ともしがたい中世身分制社会の「身分」との戦いに翻弄された越智氏の歴史

 
その他
連絡事等


・楠正行絵本制作プロジェクト

 場所 大阪電気通信大学四條畷学舎 10号館(1階)102教室
 時間 1650分~1820分(第5限)
 *スケジュールと出欠確認
   ※四條畷楠正行の会集合場所と時刻
    集合場所  市民総合センター・正面バス停
    時刻    1620分(時間厳守)
         バスの場合 コミバス 田原①
         
四条畷駅発1620 電通大前着1635

 いよいよ正行絵本プロジェクトが始動します!
 
楠正行の物語を、4~5分冊1巻本で製作の予定です。
 10月完成予定です。
 乞う、ご期待ください!
  


3周年記念事業について
 ・小楠公偲ぶ会 412日の例会に出席(協力要請)
 ・詩吟連盟   513日(土)、役員会に出席:協力要請(事前了解ok

正行像賛扇子の制作について

 ・㈱山岡白竹堂 創業享保2年(1718)に発注
 ・65日納品予定
 ・仕様
   75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
   表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
   裏面 1色      正行像賛と釈文
   親骨 レーザー彫   四條畷楠正行の会
   紙箱入り

 正行像賛扇子は、6月、販売開始予定です!

正行関連インフォメーション
 □フジサンケイグループによる楠公映画化の動き
  422日(土)
  田中光敏監督、フジグループ役員、東市長を案内
  歴史民俗資料館☛四條畷神社(正式参拝)☛和田賢秀墓☛野崎観音
  ☛十念寺☛川崎公民館☛西中野交差点☛四條畷高校前☛小楠公墓所
  ☛ハラキリ字地
  田中光敏監督 58歳 2003 精霊流し/2009 火天の城/2014
  サクラサク/2015 海難1890

 □321日(火)

  東京明治神宮会館でシンポジウム「楠木正成考」開催・産経新聞社主催
  資料 331日付産経新聞

  広木さん、藤原さん出席

 425日(火)
  楠公研究会(山下弘枝会長)発足記念式典 於いて、湊川神社

   1000 月次祭に参列
   1100 湊川神社正式参拝
   1200 設立記念総会
        ここでも、広木氏と同席

 □戦後72年楠木正成考<第14部>
   425日~29
   「楠公さん」を生んだ兵庫(神戸)
 
 □なわて学「平成29年度・前期講座」
  5月~9月 毎月5回連続講座 @500円/1回

   申込状況 4月末 38
  <7月8日(土) 第3回 14001530
  湊川神社 垣田宗彦宮司
  テーマ  「日本人の心の礎 大楠公」

        ~ 日本人が誇るべき礼節や信義を重んじる心は楠公
          精神そのもの。
          幕末の志士たちが心のよりどころとした楠公精神
          について語っていただきます。


 □教育文化センター主催市民講座
  「バスで訪ねる正行ゆかりの世界 第3弾!」

    5月、6月、7月、9月、10月 の5回シリーズ

 □その他
 ・日本遺産 「楠公父子の物語」は登録申請、認定ならず。

  平成29年度 全国から79件の申請
  (大阪府関係)
 ・「大阪池田 ものづくりの機運に育まれた事始めのまち」
   ~ 池田市
 
・巨大古墳のあるまち“ふじいでら”-土師氏の知恵と技術が遣わし
  た風景- ~ 藤井寺市

 ・「大坂夏の陣」に語り継がれる現代大阪 ~ 大阪市・堺市・交野
  市・八尾市・柏原市・東大阪市・松原市・羽曳野市・藤井寺市・泉
  佐野市
 ・「摂津・河内に生き続ける楠公さん 中世のサムライヒーローが遣
  わした聖地を巡る旅」 ~ 河内長野市・四條畷市・島本町・千早
  赤阪村・富田林市・神戸市

 ・「1400年にわたる悠久の歴史を伝える『最古の国道』~竹ノ内海道
  ・横大路(大道)」 ~ 大阪市・堺市・松原市・羽曳野市・太子
  町 ・葛城市・大和高田市・橿原市・桜井市・明日香村


     ※平成29年度日本遺産登録認定!

 ・「太子道にたどる”日本のスーパースター”聖徳太子の風景」
   ~ 太子町・明日香村・橿原市・田原本町・三宅町・川西町・安
   堵町・斑鳩町・王寺町・香芝市


●次回例会
 日時 6月13日(火)午後130分~
 場所 教育文化センター
 内容 久子の方と正行
    大阪電気通信大学プロジェクトについて
    その他
    

●傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。
 お待ちしております。
 
 楠正行通信47号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)




「教文 親子広場」

日時 平成29年5月4日(木) 午前11時15分より12時
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 教文 親子体操終了後、絵本の読み聞かせを行いました。

 


「教文 親子体操教室」で大きな鯉のぼりをつくりました。

日時 平成29年4月27日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 大きな目をつけて、お空へあげました。

 
 

四條畷楠正行の会 第29回例会

日時 平成29411日(火)
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 15人出席
 前日から、突風が吹き、大粒の雨が降っており、足元の悪い中、お昼前には小降りになったものの天候不順で出席率も悪いのではないかと思っていたところ、15人が出席しての例会となった。 新年度から、1階の会議室から、 2階のホールに会場が変更となったので、両面ガラス窓で明るく、しかも広いため解放感も重なり、ゆったりした気分での例会となった。
 また、1回には、「楠正行資料館」が開設され、正行通信が創刊号から本日発行の号まで掲示され、関係書籍や正行関連の写真等が並べられており、会員一同、喜びの入館となった。

↓例会の様子(2階ホールにて)


↓1階に開設された楠正行資料館を例会後、全員で見学



イベント内容 ●第28回例会のおさらい
・楠正行通信45号
  弁の内侍、吉野西蓮華台院に入り、正行の菩提弔う
  四條畷の悲歌、正行と弁の内侍
  吉野拾遺に載る、師直弁の内侍襲撃の件
・楠正行通信46号
  郷土、四條畷の誇り 楠正行
  第5回楠正行シンポジウム(四條畷市等主催)に200
  扇谷、講師を務める
  正行の教養や生きざま、四條畷の合戦、そして死後、後世に与えた影響に
  ついて
・配布資料
  ロマン拡がる河内へようこそ(一般社団法人河内観光局発行)
  パワーポイント資料(311日開催 楠正行シンポジウム配布資料)
  正行像賛(同上)

赤松円心と楠正行
◆赤松氏略年表
 人物叢書「赤松円心・満祐」掲載「赤松氏略年表」より抜粋・一部扇谷補注吉野拾ある。
                          2017.04.11 四條畷楠正行の会・資料
和暦 西暦 年齢 事項
弘安2年 1279 赤松則村(円心)、赤松茂則の子として生まれる。幼名次郎
嘉暦元年 1326 大学寺起請文書に、執行範資、惣追捕使貞範の名前。
摂津の長洲庄(長洲御厨)は魚類を淀の地に運ぶ「市」が立ち、流通・運輸の要衝であった。ここに、赤松円心は長男と次男を居住させていたことが読み取れる
元徳元年 1329 51 12月、護良親王、天台座主に。
則村の三男則祐、小寺相模の守頼季と共に宮の叡山に随侍
元弘元年 1331 53 8月、則祐、小寺頼季は護良親王に従い、比叡山から奈良、吉野におちる
   3 1333 55 1月21日、円心、護良親王の令旨を奉じ、播磨で挙兵、備前三石城を破る
2月15日、円心、摂津に進み、麻耶山に城を構え、六波羅軍と戦う
3月12日、円心、摂津瀬川で幕府軍に大勝し、一気に京都に入る
4月、八幡の戦いで、円心の武将佐用範家が名越高家を討ち取り、次いで六波羅を攻略す
5月28日、円心、後醍醐天皇を兵庫福巌寺に迎える
8月、円心、播磨守護職に任じられる
播磨の守は園基隆=後醍醐天皇の寵臣(公家)、播磨の介は新田義貞、その下に円心
~ この時、円心に、公家の指揮下という救いが

9月、安積守氏に命じ内裏造営の用材を播磨三方山に伐らしむ
11月10日、新田義貞、播磨の守に ~ 円心、名実ともに新田義貞の配下に
公家の配下という精神的拠り所を外された円心
新田義貞、三方西庄を大徳寺に寄進 ⇒安積氏の用材伐り中止に
建武元年 1334 56 6月、この頃、円心、播磨守護職を解任される
~ 護良親王に最も近い赤松の勢力を削ぐ狙いからか
10月、藤原藤房、天皇に直諫して円心を弁護し、次いで出世遁世する
護良親王、捕縛される ⇒ 護良親王の失脚とともに、勢力を失った赤松円心
   2 1335 57 ☛ 尊氏への強力を明らかに!
12月、箱根竹の下の戦いで、貞範、勇戦して新田義貞の軍を破る

   3 1336 58 2月、円心、兵を率いて兵庫に来たり、敗走の尊氏を援く
円心、尊氏に対して光源院の院宣を受けんことを進言する
円心、白旗城を築く
3月、義貞、播磨に入り、範資を破る
4月、則祐、大宰府に赴き尊氏の東上を促す
5月、湊川の戦後、尊氏、円心を播磨守護職に任じる
正平元年 1346 68 貞範、姫路城築城に着手
   2 1347 69 9月、範資、楠正行と天王寺に戦う(藤井寺の戦い)
   4 1349 71 貞範、姫路城完成
   5 1350 72 728日、円心、京都七条邸に没し、建仁寺大龍庵にて葬儀営まれる

◆赤松円心、関東御家人説? はたまた播磨の豪族(悪党)説
高坂説 人物叢書「赤松円心・満祐」著者
 ① 則祐(三男)が、比叡山延暦寺に入った護良親王に仕えた時点で、円心
  の志は定まった

 ② 範資(長男)と貞範(次男)を、尼崎(長洲御厨)に住まわせ、播磨の
  流通を抑えるとともに、京の都の動静を探る拠点とし、新しい政治台頭の
  布石とした。
 ③ 赤松円心の祖、季房(村上天皇、第七皇子具平親王六代の苗裔、従三位
  三河の守)は、播磨、佐用に配流され、その末裔、赤松氏は田舎武士の頭
  領として仰がれるようになった。


渡邉説 大阪観光大学客員研究員
 「赤松氏関東御家人説」
 ・佐用荘は、関東御領で、一部が預かり所として、関東武士に与えられたこ
  と

 ・六波羅探題は播磨の国守護を兼ねていたが、佐用荘は、配下の被官に与え
  らた
 ・赤松氏は鎌倉初期に関東御家人某が佐用荘に入り、「赤松」を名字とした
 ・赤松円心は、播磨の国守護常葉範貞と被官関係を結んだ

関東御家人説の立場に立つと、

範資と貞範は、海賊対策として、六波羅探題から尼崎に送り込まれた、と見ることができる  ~ 悪党説の180度転換!

中元説 播磨研究所所長・兵庫県立大学特任教授
 赤松氏は、播磨の豪族で、流人となった季房の子孫
  ~ 関東御家人説の伝承が全くない

 地域で作ったモノを大半、京にもっていかれる矛盾(荘園制度の弊害)
 流通経済を制し、経済集団が軍事集団化
 円心が建武政治と対立したのは、「歴史を前に進める」(荘園制度を壊す)ため
 『時代の風を読む』…二人の息子を尼崎に、一人の息子を京に
 赤松氏とは
 ・播磨を一つにまとめ上げた一族
 ・播磨の地政学的優位性の発見と活用
  畿内から見れば辺境の地、西国から見れば畿内に一番近い国
 ・先進思想の展開
   古代から播磨に蓄積された宗教的雰囲気をまとめ上げた

    一族から大澄国師を生み、法雲寺を創建、則祐は宝林寺を創建
   荘園制度の矛盾を指摘

 扇谷まとめ
 高坂説・中元説によれば、赤松円心は単なる悪党というよりも、しっかりと時代の風を読み、布石を打つ、先を見通した武将像が浮かび上がる。
 正成の一途さ・精神性に比べ、円心は、より現実主義者ではなかったか。


 
その他
連絡事等


楠正行絵本制作プロジェクト
  大阪電気通信大学木子教室での講義、学外学習等について
*教育文化センター「正行資料室」の開設について
*産経新聞「戦後72年楠木正成考」第13部について 

●次回例会
 日時 5月9日(火)午後130分~
 場所 教育文化センター
 内容 大和の越智氏と正行
    大阪電気通信大学プロジェクトについて
    現地学習について
    
その他

●傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。
 お待ちしております。
 
 楠正行通信45号・46号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



平成28年度 教文 親子体操修了式

日時 平成29年3月23日(木) 午前10時~12時
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 親子体操終了後、修了式を行いました。
平成28年4月から平成29年3月までの受講者のみなさまに、修了証書の授与を行い、
該当者には皆勤賞と努力賞をお渡ししました。
また、オリジナル卒業制作を完成しました。
おめでとうございます。

 


四條畷楠正行の会 第28回例会

日時 平成29314日(火)
場所 教育文化センター 1階 第2会議室
対象 会員 13人出席
 先月は二人の女性会員を迎えましたが、今月も男性一人の入会がありました。
 市内在住の方で、詩吟をされるそうで、吟題の多い南朝関係(正成、正行)の知識を得たいと、以前から入会を考えておられたとのこと。
 このように、一人、二人と、新しい会員を迎える喜びを感じながらの3月例会となりました。
 なお、例会終了後、「遅れてしまいました。」と、更にお一人の女性の方の入会がありました。
 お生まれが湊川神社のすぐ近くという事で、神社境内で鳩と遊んで育たれたとのこと。縁あって、四條畷、今度は子ども、正行ゆかりの地に引っ越してこられ、しっかり学びたいと入会されました。


↓例会の様子(第2会議室にて)


↓例会の様子



イベント内容 ●第27回例会のおさらい
・楠正行通信43号
  高山右近、国外追放直前に「日本訣別の書状」おくる
  其の書状本文中に、正行時勢の歌の引用!
  正行の事績が、江戸のはじめ、広く知れ渡っていた貴重な史料
 
・楠正行通信44号
  四国の伊予得能山・常石城を本拠とした得能氏
  後醍醐天皇の還幸を、兵庫沖、洋上から出迎える
  正成に呼応して立ち上がり、南朝一筋、新田義貞に従い、金ケ崎で壮絶な最後

●吉野拾遺に載る弁の内侍
 弁の内侍と正行の話については、確たる史料はない。吉野拾遺に載る弁の内侍関わりの部分を見てみよう。
◆吉野拾遺について
 吉野拾遺は、南朝(吉野朝廷)関係の説話を収録した室町時代の説話集で、二巻本と三巻本とがある。
 後醍醐・後村上天皇代の南朝廷臣の逸事・歌話を基礎とし、『徒然草』や『神皇正統記』『太平記』等から取材してこれを改変したものや、虚構の創作説話が混在する。二巻本で注目すべき説話としては、高師直が弁内侍の強奪を図った話(上巻9話)、楠木正儀への復讐を果たそうとした熊王の話(下巻16話)等がある。

証校日本文学大系 第18巻 (国民図書㈱ 大正14年刊より)
 〈吉野拾遺現代語訳〉
 弁の内侍の件を転載する。


高の師直内侍を奪ひ取る事 一
 さて、弁内侍はたいそう美貌でありました。それを武蔵守高師直がいかなる折にか、恋してしまって、気にかけるようになりました。先帝崩御の後、ひそかに手紙を送って、「ひそかにお出でなさい。迎えをよこしますぞ」と度々言って寄こします。
 内侍はその返事をせずにおいたところ、師直は憎らしく思って、行氏卿をよく知っている女を探し出してきて、「北の方(行氏卿の妻)に頼みごとがあるのだ。二人で相談してくれ。願いがかなったら、見当もつかないほどの礼をしよう。三位殿の官位も進めて差し上げよう」などと北の方に言って寄こしました。
 ただでさえ世の人の恐れない者はない師直の言うことであるし、たいそう期待もしましたので、手紙を準備して、内侍にお仕えしていた梅が枝という女に持たせて、「この女と相談してください」と申し上げました。師直はたいそう喜んで、生命をかけた主従の契りを結んだ武者20人ほどを選んで、梅が枝とともに吉野へ行かせました。
 内侍に、梅が枝が「北の方の手紙を持って参りました」と言って、その住まいに入ります。内侍は「なつかしく思って暮らしていました。こちらへ」と招かれました。梅が枝はその手紙を差し上げます。
 「はるか遠くに行ってしまわれて、山里にお住まいなのは、さぞやご不便なことでありましょう、と思えば、なつかしさがこみ上げてきて、涙が止まりません。住吉詣でをしようと思っておりますが、道もわかりますので、どうかお会いしたいものです。河内の国の高安のあたりに知人がおります。どうかそこへお越しください。心細い世の中で、まして乱れているので、こんな旅でもないとどうして会えましょうか」
 などと書いてあって、
 
相みんと 思ふ心を さきだてゝ 袖にしられぬ 道しばの露
 お使いの梅が枝も、手紙の趣旨をくどくど繰り返して言うので、「実の母が出家されてからは、その母にもまさる思いやりが忘れられません。朝夕なつかしく思っております」と帝に休暇を願い出て、すぐにお発ちになられました。女房2人、青侍3人がお供についていきます。

高の師直内侍を奪ひ取る事 二
 途中、武者に出くわし、「『高安で待っておりますが、人目が多くてわずらわしいことになっています。住吉までお行きください。お行きになるのであれば、おまえたち、お供いたせ』と言い付かっております」と言います。そして突然多くの武者たちが出て来て輿を取り囲みます。
 内侍は「なんとも合点がいきません。住吉までどうしてわざわざ行かないといけないのでしょう。輿を帰しなさい」とおっしゃったので、青侍どもは輿を帰そうとします。武者たちは「どうか住吉までお急ぎください」と無理に連れて行こうとします。
 これはかなわないと立ち止まるところへ、武者たちは輿を帰させるかと3人とも打ち殺してしまいました。内侍は大変恐ろしく、鬼に捕らえられてしまった気がしてただ泣きじゃくるばかりです。荒武者どもは、思いやりもなく「今宵のうちに住吉まで急げ。殿もそれまでには住吉にお着きであろう」などと、大声で騒ぎ立てます。
 そうして石川というところまで来ると、楠木正行が吉野へ呼ばれて参上するのに出くわしました。正行一行をやり過ごそうと傍らの木陰に潜んでいるのを、正行は不思議に思って、立ち止まって、何事かと尋ねます。
 「ある局さまが住吉詣でをなさるのです」と言うので、「そうですか」と通り過ぎようとします。
 ところが内侍が泣く声を聞きつけ、強引に輿のそばに立って尋ねますと、「こうこうなのでございます」と内侍がおっしゃったので、「これは、おかしい。こやつ等を皆捕まえよ!」と言って、残らず捕えます。縄目の恥を思った者が3,4人いて、刀を抜いて戦いましたが、ついに打ち殺してしまいました。
 正行は吉野へ参上して事の次第を奏上します。梅が絵を問い詰めますと、内侍をだましたことを白状しましたので、武者どもは皆斬られて、梅が枝は尼にして、この次第を北の方へよくよく言上するように、と京へ帰したのでした。
 「正行がいなければ、大変なことになるところであった。よくやってくれた」とおっしゃって、内侍を正行に与えるとの詔があったのですが、正行はお礼を申し上げて、
 とても世に ながらふべくも あらぬ身の かりの契りを いかで結ばむ
 と奏上して辞退したのです。そのときは理解できなかったのですが、後に思い当たることがあって、皆正行のことを残念に思ったのでした。

楠正行弁の内侍を救う図
(国立国会図書館・武者无類外二三枚続き画帖 1帖 本別7-93 より転載)



●発足3周年記念事業について 
 発足3周年記念事業実施要綱
 ~ 「楠木父子物語」日本遺産登録認定協賛 ~
◆今までの歩み
*平成2611月、発足
 本会は、平成26年、教育文化センター主催で開かれました市民講座「楠正行の人間像に迫る!」受講生の声を受けて、同年11月に発足し、今年103周年を迎えます。
目的 正行研究と顕彰

 郷土、四條畷ゆかりの歴史上の人物、四條畷神社に祀られる楠正行について学び、そして顕彰し、次代を担う子ども達等を通じ、後世に長く広く語り継ぐことを目的に、勉強会を通じて楠正行に関する様々な史料を検証し、伝承等を繙き、また、楠正行ゆかりの史跡、名勝等を訪れ現地調査などして、その生き様や人物像を掘り起こし、明らかにする活動を続けています。
例会&現地学習と会報誌「正行通信」発行・ホームページアップ
 毎月1回の例会では、正行ゆかりの人物を取り上げ検証する中で、極めて史料の少ない正行の生きざまや人物像をあぶりだす活動を続けています。現地学習は、湊川神社、金剛寺、如意輪寺を訪れ、『四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く』と題し、四條畷の合戦・正行の一日の行動を、2回に分けて歩き、体感しました。
 会報誌「楠正行通信」を発行し、2月現在、42号を数えています。教文のサークル展では、カラー映像スクリーン紙芝居「正成、正行の生涯」を上演しました。活動は、教文のホームページに逐一アップをしております。

◆記念事業実施要綱(決定)
 日時 平成291028日(土)午後2時~午後4
 場所 四條畷神社「神社会館」
 内容 ①基調講演 「正成、正行の事績について」
     ~戦後71年正成考の特集を終えて~
     産経新聞社編集委員 安本 寿久氏
    ②絵本「武士道の人、正行」完成プレゼンテーション

      大阪電気通信大学・社会プロジェクト実習
       デジタルゲーム学科 木子香教室
    ③コーラス 青葉茂れる桜井の 四條畷 ふるさと
    ④詩吟   楠帯刀の歌 小楠公の墓を弔う 他
    
⑤舞踊   河内音頭 楠公まつり 他
    ⑥会員発表 朱舜水作「正行像賛」の発見物語
    
⑦展示   朱舜水作「正行像賛」
          楠正行通信 1号~ 四條畷の合戦図
    その他

 定員 100名(入場無料)
 主催 四條畷楠正行の会
 協力 四條畷神社・御妣会・小楠公を偲ぶ会・ひまわりコーラス・さくら会・
    大阪
電気通信大学木子教室・四條畷市詩吟連盟
 後援 四條畷市(予定)・四條畷市教育委員会(予定)・
    四條畷市教育文化センター・産経新聞社(内定)

●5月現地学習について
 日時 59日(火)
 行先 観心寺(河内長野市)
 詳細 4月例会で発表

●小冊子「小楠公一代記」について