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高齢者・子どもたちの笑顔あふれる街 四條畷市立教育文化センターは

四條畷市立教育文化センター
お問い合わせはTEL.072-878-0020

〒575-0021 大阪府四條畷市南野5丁目2-16

 

過去のイベント紹介


「教文 親子体操でうちわ工作をしました。」

日時 平成29年8月10日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 マイうちわを作って涼をとりましょう。
上手に出来ました。

 
 

四條畷楠正行の会 第33回例会

日時 平成29年8月8日(火) 午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 14人出席
 相変わらず猛暑日が続く中での8月例会でしたが、新たな仲間が一人加わり、少し新鮮な気持ちでのスタートとなりました。
↓8月例会の様子










●第32回例会のおさらい
・楠正行通信53号
   正行の後見役、恩智左近は延元213376月急死
   しかし、八尾市史には正平315日、四條畷の戦いで戦死と
   猛暑の中、16人の会員出席
   史料がほとんどない恩智左近
   南北両朝争奪の巷となった八尾
   後醍醐帝の吉野還幸に随った恩智左近
   敵地の摂津に出向き一日一夜の稲刈り
   延元213376月、戦乱の中、病死


北畠顕家と正行
 (参考文献)
 「花将軍 北畠顕家」横山高治
 「日本中世史を見直す」佐藤進一・網野善彦・笠松宏至
 「北畠顕家~足利尊氏が最も恐れた人物」桑原敏真
 「南朝の若武者 北畠顕家」大島延次郎
 今月のメインテーマは、北畠顕家と正行です。まずは、顕家の生涯から見ておきましょう。なお、掲載内容の出典は、上記参考文献に基づいています。
・北畠顕家の生涯

 北畠顕家~尊氏が怖れた南朝の若き武将
 図書館員の文献紹介:岡崎嘉彦より
 北畠顕家 13181338 親房の長男
  元弘3年1333 従三位に叙され陸奥の守として奥州に父ともども下向
 当時、遠国へ任官された地方官は、自ら赴かず目代を派遣して国務にあたらせた。
 そこで、天皇は、顕家を御前に召し、勅語を下し、御衣・御馬を与えて、下向を申しつけた。この頃、御衣を賜るのは陸奥の守だけで、御衣・御馬を下されるのは太宰司や太宰大弐だけで、特別の待遇であった。加えて義良親王も同行したことを合わせ考えると、この行がいかに重視されていたか分かる。
 建武21335 尊氏が反旗したため、顕家は鎮守府将軍に任じられ、尊氏を征伐
 3月、権中納言に任官し、奥州に帰還
 尊氏の東征に対し、後醍醐は顕家に再三再四の出兵を求めるも、奥州を動けず
 建武51338 勅命を受け、ついに義良親王を奉じ霊山を発し西上。鎌倉制圧後、美濃青野ヶ原の戦いで多くの兵を失う。伊勢、奈良、河内、天王寺、摂津、阿倍野と激戦を繰り広げるも、522日、堺浦石津の戦いで討死する。
 討死7日前の515日、天皇に政治意見書を奉呈する。

 霊山城の築かれた霊山は、福嶋氏から東北へ約22キロ。険しい阿武隈山地の北端にそびえる標高805メートルの峻嶺で、全山が奇岩怪石と絶壁からなり、岩城、岩代の国境をなしている。
 山頂からの眺めは雄大で、東は岩城・陸前の東海岸からはるか牡鹿半島、西は福島市、二本松市、郡山市に至る福島盆地を一望に見晴らす景勝地である。今も、おびただしい史跡が散在し、四季を通じ人々が訪れる。

・花将軍 北畠顕家の誕生
 元弘元年133134日、京都の西園寺公宗の北山第で、天皇臨幸の基に花の宴が催された。
 この時、わずか14歳の貴公子、顕家は紅梅の上衣をかざして陵王の舞を舞い、その息をのむような美しい光景を天皇、居並ぶ公卿たちは見守った。(増鏡、舞御覧記)

 武略のみならず、学問、舞踊、芸術等にも精通していたことが伺える。
 疾如風除如林 侵椋如火動如山
 延元213378月、霊山城を発った顕家率いる奥州官軍の先頭には、北畠親房が孫子の兵法に学んでつくらせ、はるばる送りとどけた「風林火山」の旗頭が風にはためいた、という。
 兵法書「孫子」にある「疾きこと風の如く 徐かなること林の如し 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し」。この軍旗は戦国の武将、武田信玄が甲州軍団の先頭に掲げたと伝えられているが、実は、その30年も前に、軍略家としても名高い親房が北畠軍団の陣頭に掲げたものである。これに倣って諸将が、色とりどりの旗や幟を掲げ、勇壮な行軍絵巻を描き出した。
 

・顕家、血涙の上奏
 未来の展望なき戦いの中で、515日、顕家は後醍醐天皇に上奏文を書き吉野に送った。
 忠誠を尽くし、悲憤さえ感じさせる上奏文。
 顕家戦死後、父親房は東国、常陸で苦戦中、血をはく思い出したためた「神皇正統記」執筆のきっかけとなったといわれているが、父子ともに南朝を基にした国家の在り様、政治的信念、理想を表明している。
 後に四條畷の戦いを前に、楠正行は辞世の歌、文章を残しているが、顕家の奏上文とは好一対のものであった。
 南北朝以降、昭和に至るまで、武将や兵士が出陣にあたり、遺書を書く慣わしは、この顕家の上奏文と正行の辞世の歌が大きな教訓とさえなった、と云われている。


・北畠顕家の上奏文
 別紙「北畠顕家奏状」参照
上奏文を読み解く
*二度までも奥羽54郡の兵士を率い、雪、風の中を、数百里の山河を戦い続け、その忠誠なる部下やその留守を耐え忍んだ家族の心中を思い、血をはく思いで訴えたもの
*丹心の蓄懐を述べさせた自信の裏付けは、足掛け5年にわたる、陸奥の国での労苦に満ちた政治的・軍事的経験を置いてほかにない。
*地方分権制の確立を説く第1条は、自己の成功の上に立っていることは明らかである。
*奥州という辺境での苦しい体験、そこで育まれた激しい感情が、顕家の書いた、あるべき政権論に高い説得力を与えている。
*「功あるものと雖も、これを賞するには土地を与えるべきで、みだりに高位高官を授けることは慎まなければならない」とする考え方は、親房も同様で、親房同様恵まれた公家名家として、公家優越武家蔑視を感じさせる。
*名門村上源氏の末裔北畠の嫡男として生まれ天皇が頼みとする中で奥州を舞台に戦い続けた顕家。一方、河内の豪族楠氏の嫡男として生まれ、公家優越武家蔑視の中で黙々と吉野の宮を支え続けた正行。大きくは同じ運命ともみえるが、如何ともしがたがった出自の違いが。正行の悲哀!
*顕家が「花の将軍」なら、正行は「雑草の大将」とでも言うべきか。似て非なる二人。
*自慢の息子を若くして亡くした親房は、顕家を十分補佐しなかった正行を恨んだのではないか。親房の主戦論と正行の和睦論の確執が四條畷の戦いの序章となっていくが、石津で顕家をなくした親房は、「生き残った正行よ。何をぐずぐずしているのか。顕家を死に追いやった責任はお前にもある。」と、檄を飛ばしたのではないだろうか。


(別紙)
北畠顕家奏状
 原典 日本思想大系「中世政治社会思想」下(岩波書店)
 出典 「日本中世史を見直す」佐藤進一・網野善彦・笠松宏至(悠思社)
第一条
(前欠)
鎮将、各々その分域を領知し、政令の出ずるや、五方に在り。因准(いんじゅん)のところ、故実を(わきま)うるに似たり。元弘一統の後、この法いまだ周備せず。東奥の境、(わずか)に皇化に(なび)く。これすなわち最初鎮を置くの(しるし)なり。西府に於ては、更にその人なし。逆徒敗走の日、(ほしいまま)にかの地を()み、諸軍を押領して、再び帝都を(おとしい)る。利害の間、これを以って観るべし。およそ諸方(かなえ)のごとくに立ちて、なお聴断に(とどこお)りあり。もし一所に於て四方を決断せば、万機紛紜(ふんうん)ていかでか患難を救わんや。分かち出して侯に封ずるは、三代以往の良策なり。鎮を置きて民を治るは、隋唐以還(いかん)の権機なり。本朝の昔、八人の観察使を補し、諸道の節度使を定む。承前の例、漢家と(こと)ならず。方今乱後の天下、民の心(たやす)く和しがたし。(すみや)かにその人を撰びて、西府および東関に発遣せよ。もし遅留あらば、必ず(せい)(せい)の悔あらんか。兼て山陽・北陸等に各一人の藩鎮を置きて、便近の国を領せしめ、よろしく非常の(おそれ)に備うべし。当時の急にすべきこと、これより先はなし。

第二条

諸国の租税を免じ、倹約を専らにせらるべき事
 右、連年の兵革、諸国の(ろう)(ろう)(いや)しくも大聖の至仁にあらざれば、(れい)(みん)()(そく)を致しがたし。今より以後三年は、偏えに租税を免じて、民肩を(いこ)わしめよ。没官領新補の地頭等の所課、同じく蠲免(けんめん)に従い、その祭祀(さいし)および服御(ふくぎょ)等の用途は、別に豊富の地を撰び、以て供奉の数に充てよ。三ヵ年の間は万事興作を止め、一切に奢侈(しゃし)を断ち、しかる後、宮室を(ひく)くし以て民を(ゆた)かにして、仁徳天皇の余風を追い、礼儀を節し俗を(あつ)うして、延喜聖主の旧格22に帰せば、(ただむき)を垂れて海内子のごとくに来り、征せずして遠方賓服(ひんふく)せん。

第三条
官爵の登用を重んぜらるべき事
 右、高き功あれば、不次(ふじ)の賞を以てするは、和漢の通例なり。その才なきに至りては、功ありといえども、多く田園を与えて名器を与えず。なんぞ況んや徳行なく勲功なくして、(みだ)りに高官高位を(けが)さんや。維月の位は朝端(ちょうたん)の重んずるところ、青雲の(まじわり)象外(しょうがい)の撰ぶところなり。その仁にあらずして僥倖の者、近年踵を継ぐ。しかのみならず或いは起家の族、或いは武勇の士、先祖経歴の名を軽んじ、文官要劇の職を望む。各々登用の志を存し、(ほしいまま)に不次の恩に(あずか)る。向後の弊いかんぞ休むことを得ん。およそ名器は(みだ)りに人に()さず、名器の(みだ)りなるは僭上の(きざはし)なり。しかればすなわち、任官登用はすべからく才地を撰ぶべし。その功ありといえどもその器に足らざれば、厚く功禄を加え田園を与うべし。士卒および起家奉公の輩に至りては、且は烈祖昇進の跡を逐い、且は随分優異の恩に浴さば、なんの恨かこれあらん。

第四条
月卿・雲客・僧侶等の朝恩を定めらるべき事
 右、朝廷に拝趨(はいすう)し、帷幄(いあく)(じっ)(こん)し、朝々暮々竜顔に咫尺(しせき)し、年々歳々鴻慈(こうじ)戴仰(たいぎょう)するの輩、たといその身を尽くすとも、いかでか皇恩を報ぜんや。ここに国家(らん)(げき)して、宸襟(たやす)からず。或いは乗輿を海外に移し、或いは行宮(あんぐう)を山中に構う。人臣と()て、忠義(つく)さんはこの時なり。しかれども、忠を存じ義を守る幾許(いくばく)ぞや。無事の日は大禄を貪婪(たんらん)し、艱難(かんなん)の時は逆徒に屈伏す。乱心賊子にあらずして何ぞや。罪死して余りあり。かくのごときの族、何を以て新恩を荷負(かふ)せんや。僧侶護持の人、また多くこの類なり。辺域の士卒に(およ)びては、いまだ王化に染まずといえども、君臣の礼を正し、忠を懐き、節に死するの者、勝計すべからず。恵沢いまだ(あまね)からざるは政道の一失なり。しかれば功なき諸人の新恩の跡を以て、士卒に分ち賜うべきか。およそ元弘以来没官の地頭職を以ては、他用を(さしお)かれて有功の士に配分し、国領および庄公等の本所領を以ては、宦官(かんがん)道俗の恩に擬せられば、朝礼(すた)れず勲功空しからざるものか。そもそもまた累葉の家々不忠の科は、(にく)むべしといえども、偏えにその人を廃黜(はいちゅつ)せば、誰かまた朝廷の故実を(わきま)え、冠帯の威儀を(つくろ)わんや。近年士卒の競望により、多く相伝の庄園を収公す。理の推すところ、(こと)善政にあらず。しかれば累家(るいけ)の私領においては、すべからくその家に返され、公務の忠否に随い、追つて黜陟(ちゅっちょく)あるべきなり。今度陪従(べいじゅう)の輩ならびに向後朝要の仁に至りては、尤も計略の分限を定め、拝趨の羽翼を計い行わるべきか。

第五条
臨時の行幸および宴飲(えいいん)(さしお)かるべき事
 右、帝王の(いた)るところ、(けい)(こう)せずということなし。風俗を移し、艱難を救うの故なり。世澆季に(のぞ)み、民塗炭(とたん)()つ。遊幸・宴飲まことにこれ乱国の基なり。一人(いちにん)の出ずるときは、百僚威儀に(そつ)(じゅう)し、過差の(ついえ)、万を以て数う。況んやまた、宴飲は鴆毒(ちんどく)なり。故に先聖これを禁じ、古典これを誡む。伯禹(はくう)酒味を歎きて儀狄(ぎてき)を罰し、周公酒誥(しゅこう)を制して武王を諫む。草創これを守るといえども、(しゅ)(ぶん)なおこれを(おこた)る。今洛都に還り、再び魏闕(ぎけつ)に幸さば、臨時の遊幸、長夜の宴飲、堅くこれを止め、深くこれを禁ぜよ。明らかに前車の(くつがえ)るを知りて、すべからく後乗の師となすべし。万人の企望するところ、けだしここにあり。

第六条
法令を厳にせらるべき事
 右、法は国を(おさ)むるの権衡(けんこう)、民を(ぎょ)するの(べん)()なり。近ごろ朝に令して夕に改む。民以て手足を()くところなし。今出て行わざれば、法なきにしかず。しかれば則ち、約三の章を定めて、堅石の(まろ)ばしがたきがごとし、画一の教を(ほどこ)して、流汗の(かえ)らざるごとくせば、王事(もろき)こと()く、民心(おのずか)ら服せん。

第七条
政道の益なき(ぐう)(ちょく)の輩を除かれるべき事
 右、政のためその得あらば、芻蕘(すうじょう)の民といえどもこれを用いるべし。政のためその失あらば、(ばつ)(えつ)の士といえどもこれを捨つべし。(とし)(ごろ)以来、卿士・官女および僧侶のうち、多く機務の蠧害(とがい)をなし、ややもすれば朝廷の政事を(けが)す。道路目を以てし、衆人口を(ふさ)ぐ。これ臣鎮に在るの日、耳に聞きて心に痛むところなり。それ直を挙げて枉に()くは、聖人の格言なり。賞を正して罰を明らかにするは、明王の至治なり。かくのごときの類早く除くにしかず。すべからく黜陟(ちゅっちょく)の法を明らかにし、耳目の聴を(ひら)くべし。陛下諫に従わざれば、泰平期するなからん。もし諫に従わば、(せい)(しゅく)日あるものか。小臣、もと書巻を執りて軍旅の事を知らず。(かたじけな)くも (ふつ)(しょう)を承り、艱難の中に跋渉(ばっしょう)す。再び大軍を挙げて命を鴻毛に(ひとし)うす。幾度か挑み戦いて身を虎口に(のが)れし、私を忘れて君を思い、悪を却け正に帰せんと欲するの故なり。もしそれ先非改めず太平致しがたくば、符節を辞して范蠡(はんれい)の跡を逐い、山林に入りて以て伯夷の行を学ばん。

 以前条々、(もう)すところ私にあらず。およそそれ政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれを精練したまい、賢臣各々これを潤飾(じゅんしょく)す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せんや。しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の(ちく)(かい)をのぶ。書は言を尽くさず。言は意を尽くさず。伏して(ねがわ)くば、上聖の(げん)(かん)(てら)して、下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す。

 延元三年五月十五日

 従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍臣源朝臣顕家上る


●楠正行絵本プロジェクト

 824日、集中講義にて、最終プレゼンテーション。
 6グループのプロット・ストーリーに対する修正要望を提出。

*当面の予定
  8/24  11時~1240分 集中講義にて最終プレゼン
  104
   最終本描き
  10/28   完成品プレゼン(3周年イベント)


●発足3周年記念事業について
 
と き 平成291028日(土)

      午後2時から(午後130分開場)
      入場無料

ところ 四條畷神社・神社会館
      JR学研都市線「四条畷」駅下車・東へ徒歩10

詳しくはこちらから(PDF)


●正行像賛扇子!
 順調に販売続く!
 全国の正行フアンの皆様。ぜひお買い求めいただき、朱舜水作・楠正行像賛の発信にご協力ください。

 1本 2500円。(創業享保31718 白竹堂製)  

 仕様>
  75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
  表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
  裏面 1色      正行像賛148文字と釈文(ひらがな)
  親骨 レーザー彫   「四條畷楠正行の会」と刻印
  紙箱入り

↓正行像賛扇子(表面)正行像と辞世の歌



↓正行像賛扇子(裏面)正行像賛148文字と釈文(ひらがな)



 その他
連絡等
次回例会 
  日時 912日(火)、午後130分~
  場所 教育文化センター2階 ホール
  内容 3周年記念事業について
     「くすのきまさつら」絵本プロジェクトについて


傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております。

正行通信53号はコチラからも(PDF)





「教文 親子体操で水遊びをしました。」

日時 平成29年7月20日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 教文親子体操では、ホールでの体操を終え、プール遊びを行いました。
梅雨も明けたこの日の外気は32度ですが、芝生広場では、マイナス2度の約30度となりました。

 

四條畷楠正行の会 第32回例会

日時 平成29年7月11日(火) 午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 16人出席
 この日は、この夏一番の猛暑日となり、全国の60カ所を超える観測地点で35度以上を記録する中、会員が一人、二人と集まり、休会中を除くほぼ全員が顔をそろえた。
↓7月例会の様子








●第31回例会のおさらい
・楠正行通信51号
   久子の方、出身は甘南備か、京都か
   最後の地、墓も、甘南備(富田林)と伊自良(岐阜県山県市)に
   正行の末裔、藤田力弥さんとの出会い
   南江正忠妹説(甘南備誕生説)と万里小路藤房妹説(京都誕生説)
   久子の墓は、甘南備そして伊自良にも
   笠置山之城 元弘戦全圖

   総大将、足助次郎重徳の名前がくっきり

・楠正行通信52号
   楠正行に遺腹の子がいた
   池田(のり)(まさ)と名乗り、池田家を継ぐ
   野瀬庄の内藤満幸の娘を妻に
   岡山市操山に残る三勲神社址
   正行遺腹の子、池田教正、幼名は多聞丸
   地域文化誌まんだ第80号、岡沢新吾論文 様々な史料から引用


●恩智左近と正行
尾の豪族、楠氏八臣の一人といわれる恩智左近を取り上げた。
 しかし、残念なことに、恩智左近に関する資料は極めて少なく、出版物もほとんどなく、研究論文も見当たらない状況で、わずか八尾市史と恩智城址跡や恩智左近の墓に建つ現地説明版を基にレジュメを作成するにとどまった。
 以下、その内容である。


◆南北朝時代の八尾

八尾市史「南北朝時代の八尾」より抜粋
河内地方の状勢

 この頃、近畿における各領主たちは、鎌倉幕府の大きな豪族を基にした所の御家人中心制度に対して、新しく起ってきた所の村落を単位とする一類一党の団結による郷村制の上に立つ在地武士の組織をもって対抗するの形勢となり、こうした力が新しい制度を望んで、幕府を倒そうとする朝廷との結びつきを、より一層容易に、かつ密接にしたものということができる。
 延元元年、525日、楠木正成は湊川に戦い、自害をしたが、この時、橋本太郎正員、神宮寺太郎兵衛正師、矢尾新介正春ら、宗徒の一族28人がこれに殉じたと伝えられている。
 この頃、矢尾の地域は、赤坂をはじめとして南朝方の拠地であった吉野や観心寺、金剛寺の地と、北朝の拠点である京都との中間要地として、常にその前線基地となり、八幡、飯盛、萱振、八尾、四天王寺といずれも両者争奪の巷となって激戦の渦の中におかれることとなったのである。

 殊に東高野街道によって飯盛が河内の入り口となり、八尾が南朝方の第一線基地となって、ここに当地域は或は南朝軍の有となり、或はまた北朝方の手に占められて、文字通りの修羅の巷となった。

八尾城と八尾別当賢幸
正成が赤坂に勤王の旗揚げをしたとき、八尾に八尾別当賢幸、恩智に恩智左近満一、神宮寺に神宮寺小太郎があった。
 八尾別当賢幸は、早く正成の父、正玄と常に領地の事に関して争いの事あり、ある時は八尾氏が領有し、またある時は楠氏がこれを奪い返すという有様であった。
 元弘2年1332、正成は八尾の地を支配下に置くべく画策、後醍醐天皇の命を受け八尾別当賢幸に権僧正の位を賜り、楠方に帰するように計った。別当賢幸は南朝方に属し、河内一円は正成の支配の中に統一されることとなった。
 湊川の戦のあった延元元年1336、末に後醍醐天皇は吉野に還幸されたが、この時、八尾別当賢幸は恩智左近とともにこれに随って吉野に至り、吉野の守護にあたることとなった。

 しかし延元2年の頃には、いつしか八尾の地域は北朝方の占拠する所と為っていて、北朝方はこれを前線基地として南朝の吉野に対して備えを張るようになった。城を修復し、防備を厳にし、堀構えもいかめしく備え、ここに伊香賀の土屋氏、秋山彦三郎、同彦小五郎らが立てこもった。
 八尾別当賢幸は、終始南朝方として吉野の守護にあたっていたようであるが、延元3年7月、疫病のため67歳をして病死した。
 正平2年、正行は、和田助氏をして秋山彦六の立てこもる八尾城を攻めるが、策をもって細川顕氏の軍を打ち破っている。

恩智左近と神宮寺小太郎
恩智左近満一は、俗に楠公八臣の一人と云われ、古く恩智神社の社家恩智貞吉の名が見え、その子孫と云われ、恩智神社の神主として恩智における豪族として権勢を有し、信貴山への登り口を扼し、ここに恩智城を築いて東高野街道を抑えて、早くから楠方に属して活躍し、元弘年間、楠木正成の千早籠城の際には、志貴右衛門らと共に千早城に立てこもり、敵の通路を断ち切り、所々の敵陣を夜襲しては、敵の術策を探ってこれを城内に通報し、奔走したのであった。
 建武元年1334、飯盛城を攻撃の際には、八尾別当賢幸とともに、第一線の軍として活躍したが、延元元年1336、湊川に楠木正成の戦死した後は、一時、八幡に出向して足利尊氏の軍に挑戦したこともあった。
  そして、この年7月、高師直が京都における兵糧が少なくなったため、飯盛の城を取り囲み、河内半国に押し寄せて、その田畑の稲を刈りとって引き上げた。このため恩智左近は、これが報復のために、和田氏とともに渡辺から舟で淀川を下り、摂津方面へ出向いて一日一夜その地の稲を刈り取って持ち帰ったのであった。
  後、楠正行に従って四條畷に出陣し、正行と共に正平31348、正月5日、戦死したと伝えられる。(扇谷注:   この部分は誤りと思われる。恩智左近は延元213376月、熱病のため急死とある。「恩智左近の墓」の項参照)

(おん)()城址(じょうし)
〒581-0883 八尾市恩智中町
近鉄大阪線恩智駅下車徒歩約20分
 恩智城址公園には、高さ約二メートルの自然石碑「恩地城址」が建つ。
 現地説明板は、「恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で、高安連峰との間に堀を廻らせ前方に大阪平野を一望のもとに収めた。堀の中にかつては小島があったがそれは昔の一の丸で現在の城址は二の丸跡という。正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠正行が戦死し恩智城も落ちた。学制領布の時ここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られる。」とある。
 恩智城址公園には、「南高安小学校(旧恩智小学)発祥の地」の石碑もたち、公園正面には旧小学校の門柱が左右に残る。

(おん)()左近(さこん)(はか)
〒581-0883 八尾市恩智中町
近鉄大阪線恩智駅下車徒歩約20
 恩智城址の西に恩智左近の墓が建っている。
 案内板に「恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成方に味方した八臣の一人である。湊川の戦の後はその子正行を助けて南朝方を守ったが、不幸にして延元二年(一三三七)六月熱病のため急死した。」と記されている。
 墓石前の自然石(高さ約1.2メートル)に、「贈従四位 恩地左近満一之墓」と記される。

●楠正行絵本プロジェクト

  期待の高まる絵本「くすのきまさつら」6分冊1巻本の制作が順調に進んでいる。
 予定している6分冊は、以下の通り。
 ①正行の学び~正行が受けた教育
 ②正行の情け~大川におぼれる敵兵を救う渡辺橋の美談
 ③正行の恋~大切な人が故、結婚を断る
 ④正行の大志~父の教えを守り、自ら立てた志一筋に生きる
 ⑤正行の友~やさしい正行、その最愛の友は武勇に優れた従兄弟の賢秀
 ⑥正行の最期~吉野詣でと四條畷の合戦
 この6分冊を、就学前の子ども達には読み聞かせによって、小学校低学年の子ども達は自ら読むことによって、楠正行の育った時代背景やその様子、そして生きざまがおぼろげなくわかる、という仕掛けの絵本である。
 いよいよ、絵本作家、谷口智則氏(四條畷市観光大使)にも登場いただき、第2回目のプレゼンテーションが行われ、絵本制作は佳境に入っていく。
*当面の予定
 72日、現地学習(希望者のみ)実施済み
      学生4人と扇谷で、吉野山・如意輪寺へ
*今後の予定
  7/12  1640分~1820分 第2回プレゼン
       (谷口観光大使・市職員も出席)
  8/24  11時~1240分 集中講義にて最終プレゼン
  104
   最終本描き
  10/28   完成品プレゼン(3周年イベント)


●発足3周年記念事業について
 早くから取り組んできた発足3周年記念事業については、この日、チラシづくりが始まった。
「武士道の人、楠正行 今、蘇る!」と銘打ち、“郷土、四條畷の誇り ロマンチックで、気持ちの真っ直ぐな人 楠正行を知り、語り継ごう!”と、呼びかけることに。
 基調講演は、産経新聞の特別記者・編集委員の安本寿久氏に、超ロングランの産経新聞「楠木正成考」特集の秘話を語っていただく。
 そして、絵本完成プレゼンテーションと題して、大阪電気通信大学木子香教室による6分冊1巻本「くすのきまさつら」の発表を予定。
 会からは、扇谷が、朱舜水作の楠正行像賛を発見した感動物語を報告する予定で、このほか、四條畷市詩吟連盟による吟詠、ひまわりコーラスによる歌、さくら会による踊りも予定。
 また、会で制作した正行像賛扇子の販売もする。
 一人でも多くの市民の皆様のご参加を待っています。

と き 平成291028日(土)

      午後2時から(午後130分開場)
      入場無料

ところ 四條畷神社・神社会館
      JR学研都市線「四条畷」駅下車・東へ徒歩10


●正行像賛扇子の追加発注決定!
 正行像賛扇子は、一部、関係者に贈呈するとともに、会員の手によって販売を進めている。
 100本制作の内、20本を贈呈用とし、80本を販売用とした。
 会員一人一人が購入したことはもちろん、楠氏や楠正行に関心を持つ人々の間に密かに広まり、在庫が30数本になった。
 今後、贈呈した楠氏ゆかりの神社、仏閣等の反応も大変好評で、正行顕彰の一つの武器として、朱舜水作の楠正行像賛の存在を広く知らしめ、結果として正行ゆかりのまちとして、この四條畷を全国に発信するツールとして、更に広めることとし、追加発注することとなった。
 全国の楠氏フアン、正行フアンの皆様、是非、お買い求めください。
 1本 2500円。(創業享保31718 白竹堂製)  

 仕様>
  75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
  表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
  裏面 1色      正行像賛148文字と釈文(ひらがな)
  親骨 レーザー彫   「四條畷楠正行の会」と刻印
  紙箱入り

↓正行像賛扇子(表面)正行像と辞世の歌



↓正行像賛扇子(裏面)正行像賛148文字と釈文(ひらがな)



 その他
連絡等
次回例会 
  日時 88日(火)、午後130分~
  場所 教育文化センター2階 ホール
  内容 北畠顕家と正行
     3周年記念事業について
     「くすのきまさつら」絵本プロジェクトについて


傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております。

正行通信51号・52号はコチラからも(PDF)





「四條畷市立東小学校より施設見学」

日時 平成29年7月7日(金)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 東小学校の三年生31名が施設見学に訪れ、質疑応答を行いました。


施設見学にきました


「教文 親子体操教室で笹飾りをつくりました。」

日時 平成29年7月6日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 親子体操のみんなで七夕さんの笹飾りをつくりました。
上手にできました。◎

 

四條畷楠正行の会 第31回例会

日時 平成29613日(火)午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 16人出席

 この日は、会員は会場のホールに入ると、黒板に張り出された「元弘戦図」の写しの前に集まってきた。
 張り出した元弘戦図の写しは、笠置在住の方が、笠置寺所蔵の元弘戦図を模写されたものを撮影させていただき、プリントしたもので、天地約120㌢、左右約75㌢のもので、描かれている文字がはっきりと読める。
 後醍醐天皇が笠置山に行在所を置き、幕府軍とたたかった時の、合戦配置図で、戦いに参加した武将の名前が一人一人、陣した位置に書かれている。
 当寺の様子が想像できる絵図に、食い入るように見入った。


↓元弘戦図の写し


イベント内容 ●第30回例会のおさらい
楠正行通信48号(PDF)
  
春日社国民の大和武士、越智氏
  興福寺の権威の下の衆徒との「身分・制約」の戦い
  一条院に属し南朝を支持した越智氏
  衆徒筒井氏より下位、国民越智氏
  足利直義を南朝に仲介した越智邦澄
  越智家栄の勢力拡大と私反銭
楠正行通信49号(PDF)
  
大和武士を支配した興福寺と春日社
  興福寺別当による大和国検断権の行使
  例会での質疑
   外従五位下という位階はあったのか?
   国民という言葉は使われていたのか?
楠正行通信50号(PDF)
  「楠正行絵本」制作プロジェクト始動!
  大阪電気通信大学<社会プロジェクト実習>に依頼
  6分冊・1巻本の完成予定~武将・楠正行を後世に伝える
  「正行の学び」「正行の情け」「正行の恋」「正行の大志」「正行の友」
  「正行の最期」
  正行絵本 講義と現地学習を終え、いよいよ制作段階に

●久子の方と正行
<久子の方の出自>
 楠妣庵観音寺略記によると、久子は甘南備の豪族、南江正忠の妹で、20歳のとき正成に嫁いだ、とある。
 そして、正成、正行戦死の後、生まれ故郷の甘南備に隠棲し、今も楠妣庵観音寺の境内の一角に久子の墓が残る。
 一方、「楠公夫人精説」(藤田力也弥著)によると、万里小路藤房が、畿内に勢力を持っていた正成を天皇に味方させるために、妹の滋子を家臣の養女にしたうえで、久子と名乗らせ正成に降嫁させたものではないか、とする。
 また、久子の晩年についても、戦果に包まれた河内を抜け出し、甘南備という地を訪ねて伊自良(岐阜県山県市長滝)に辿りついた、とする。
 伊自良には、楠公夫人の墓と伝わる八王子宮がある。

<正行、遺腹の子>

  地域文化誌「まんだ」2004年春夏第80
  「楠木正行遺腹の子」岡沢新吾より

 正行は摂州野瀬庄の野間城主・内藤満幸の娘を妻に向かえた。
 子どもをもうけたが、2年余りで早世した。
 正行戦死後、正儀は内藤満幸の足利方寝返りを怒り、子を宿していた兄嫁を実家に帰した。
 実家に帰った正行夫人を、妊娠承知で妻に向かえたのが池田城主九郎教依(のりより)で、生まれた子は池田六郎教正(のりまさ)と命名され、その末裔が代々池田家を継いだ。摂州池田氏、備前池田氏、鳥取池田氏は、すべて正行に連なる縁を持つ。
*備前に、正行を祀る神社があった
 岡山操山の山腹には、かつて三勲神社があった。
 和気清麻呂、児島高徳そして楠正行が祀られていたが、備前池田氏が正行の末裔という事であればうなずける。現在は、礎石の石畳だけが残っており、三勲神社跡地と記した看板が立つのみという。


●楠正行絵本プロジェクト
 場所 大阪電気通信大学四條畷学舎 10号館(1階)102教室
 時間 1650分~1820分(第5限)
 進捗について
  講義と学外学習が終了
  第1回プレゼンテーションを終え、いよいよ制作段階に入る
 今後の予定
  712 第2回プレゼン(谷口観光大使出席)
  8/? 集中講義
  104 最終本描き
  1028 最終完成品プレゼン

3周年記念事業について

 1028の本番当日のタイムスケジュールと役割分担(案)を確認
・タイトル
 「武士道の人、楠正行 今、蘇る!」
・ポスター・チラシ 7月中に作成
・広報  9月四條畷広報誌掲載or地区回覧の依頼(815日〆切)
・来賓(予定) 市長・教育長・議長・四條畷神社
・みおやの会・小楠公偲ぶ会
・四條畷詩吟連盟 吟題決まる!

  「零丁洋を過ぐ」「楠公 子に映るの図に題す」「小楠公の母を詠ず」
  「小楠公の墓を弔う」「楠公を詠ず」

●正行像賛扇子の制作と販売について
 ・㈱山岡白竹堂から納品
 本日より、販売開始! 頒布価格2500円
仕様>
 75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
 表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
 裏面 1色      正行像賛148文字と釈文(ひらがな)
 親骨 レーザー彫   「四條畷楠正行の会」と刻印


↓正行像賛扇子(表面)正行像と辞世の歌


↓正行像賛扇子(裏面)正行像賛148文字と釈文(ひらがな)


↓親骨のレーザー彫「四條畷楠正行の会」



その他

 □如意輪寺、後醍醐天皇御忌に 過去帳再現プロジェクト始動!
  毎年927日法要(平成28年に復活)
  143名の名を記した過去帳の再現プロジェクト始動!
  今後、毎年判明した武将の法要も併せて勤める。
  143名の武将解明に協力要請有り。

 □戦後72年楠木正成考<第15部>

  523日~
  千早赤阪村が伝える「楠公さん」

 □なわて学29年度前期講座・第3

  7月8日(土)14001530
  湊川神社 垣田宗彦宮司

  テーマ  「日本人の心の礎 大楠公」
    ~ 日本人が誇るべき礼節や信義を重んじる心は
      楠公精神そのもの。
    
  幕末の志士たちが心のよりどころとした楠公精神について語って
      いただきます。
  申し込んでない人も、飛び入り大歓迎です。
  総合センター3階 会議室
  (扇谷昭は、四條畷楠正行の会代表として、なわて学実行委員会の委員を
  務めています。)


 □奥吉野に中世から伝わる「後南朝の秘儀」を特別公開
  安井さん提供
  ビジュアル版~逆説の日本史[]中世編 より

 □週刊朝日 新連載小説
  「星と龍」葉室麟 2017.4.14連載開始
  楠木正成と後醍醐天皇を取り上げた歴史小説

 □笠置山之城元弘戦全圖について
  平成1911月 治郎(81) 原図より写し
  治郎氏(笠置在住)の弟、船本氏提供(上田原在住)
  国府さんによって撮影・印刷(本コーナートップに写真掲載)


 □鉄斎-人物画の魅力- 618日まで開催中
  鉄斎美術館 特別展 月曜日休館
   〒665-0837 宝塚市米谷清シ一番地 清荒神清澄寺山内

  鉄斎は、幕末の京都で、勤王の志を抱き国事に奔走していた。
  鉄斎は、楠木正成を仰ぎ、時代に先駆けて顕彰に努め、河内金剛山の楠公
 旧跡の踏査を重ね、信貴山で正成の旗や兜などを拝観・模写している。因み
 に、千早城址入口に立つ「楠公誕生地」碑の揮毫は鉄斎である。
  鉄斎は、以下の楠公に関連する作品を残している。

   楠公像・楠公画像・楠公誕生地碑・正成朝臣像・楠妣庵図・楠公訓子図
   ・楠公忠戦図



 
その他
連絡事等


●次回例会
 日時 7月11日(火)午後130分~
 場所 教育文化センター
 内容 恩智左近と正行
    絵本プロジェクト・進捗について
    その他
    

●傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。
 お待ちしております。
 
 楠正行通信48号・49号・50号はコチラ(PDF)




「教文 親子体操教室 お弁当会」

日時 平成29年5月25日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 親子体操を頑張ったあと、お弁当を食べました。
みんなで食べると楽しいですね。

 


「教文 親子体操教室でサツマ芋を植えました。」

日時 平成29年5月11日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 親子体操のみんなで、教文の畑に鳴門金時の苗を植えました。
大きなお芋が出来るかな?!

 


「教文 子ども広場」

日時 平成29年5月10日(水) 午前10時より12時
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 教育文化センターでは子ども読書週間に因み、絵本の読み聞かせとエプロンシアター、手作りおもちゃ遊びを行いました。
講師は、おもちゃライブラリーさんにご協力を頂きました。

 

四條畷楠正行の会 第30回例会

日時 平成2959日(火)午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 14人出席 オブザーバー出席1人 計15人

 今月も新しい仲間を迎えた。
 一人は、安井さんの友人で、中村さん(大東市在住)が入会。今一人は、辻さんの友人で田窪さん(大阪市内在住)で、今回はオブザーバー参加となった。
 また、体調を崩しておられた真木副代表も、久々の出席となり、全員和やかな中にも笑顔いっぱいの例会となった。

↓例会の様子(2階ホールにて)




イベント内容 ●第29回例会のおさらい
・楠正行通信47号
  時代の風を読み、先を見通していた播磨の豪族・赤松円心
  
範資(長男)と貞範(次男)の二人を尼崎に、則祐(三男)を比叡山に置く布
  石

  播磨を一つにまとめ上げ、播磨の地政学的優位性の発見と活用を実践
  正成の一途さ・精神性に比べ、円心はより現実主義者ではなかったか
  <速報> 教文1階に、「楠正行資料館」オープン!


大和武士、越智氏と楠正行
(資料) 中世身分制社会の中で頭角を現した越智氏

       奈良県史11 大和武士より

 中世大和の国の、南部の豪族
 春日社の神人である国民に組織され、一条院に属し、南朝を支持。
 
永享11年(1439)、越智維通が敗死して、越智氏は一旦断絶するが、越智家栄が応仁の乱後、南大和をほぼ統一して全盛時代を現出する。
 国民は春日社の権威に頼り、神主職を獲得して発生。
 衆徒は、興福寺の権威の下、官符衆徒となり、奈良中雑務検断職を有する等、他の大和国人に比べて優越的な権力を持つことができた。

 大和の越智氏にとって、河内では見られなかった、衆徒:国人、身分差との戦い抜きに考えることはできない。
 越智氏は、軍事力を背景に、官符衆徒を同盟者という形で従属的な位置に据えることで、国民に付きまとう身分上の正当性の欠落部分を補おうとしたと考えられるが、それは取りも直さず、衆徒を上に認めることの裏返しでもあり、自らを不安定な立場に追い込むことでもあった。

 越智家栄の勢力拡大と私反銭
 越智氏には賦課権がなかったので、大規模な私反銭賦課を生み出していく。

 中世社会の根幹にある「身分」という大きな壁に直面した越智氏
 ~正行が、北畠親房や四条隆資を前に、身分との戦いを強いられたことと同じでは

 大和武士の制約
 「国中」=興福寺、そして春日社の存在
        興福寺の春日社支配の確立
 如何ともしがたい中世身分制社会の「身分」との戦いに翻弄された越智氏の歴史

 
その他
連絡事等


・楠正行絵本制作プロジェクト

 場所 大阪電気通信大学四條畷学舎 10号館(1階)102教室
 時間 1650分~1820分(第5限)
 *スケジュールと出欠確認
   ※四條畷楠正行の会集合場所と時刻
    集合場所  市民総合センター・正面バス停
    時刻    1620分(時間厳守)
         バスの場合 コミバス 田原①
         
四条畷駅発1620 電通大前着1635

 いよいよ正行絵本プロジェクトが始動します!
 
楠正行の物語を、4~5分冊1巻本で製作の予定です。
 10月完成予定です。
 乞う、ご期待ください!
  


3周年記念事業について
 ・小楠公偲ぶ会 412日の例会に出席(協力要請)
 ・詩吟連盟   513日(土)、役員会に出席:協力要請(事前了解ok

正行像賛扇子の制作について

 ・㈱山岡白竹堂 創業享保2年(1718)に発注
 ・65日納品予定
 ・仕様
   75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
   表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
   裏面 1色      正行像賛と釈文
   親骨 レーザー彫   四條畷楠正行の会
   紙箱入り

 正行像賛扇子は、6月、販売開始予定です!

正行関連インフォメーション
 □フジサンケイグループによる楠公映画化の動き
  422日(土)
  田中光敏監督、フジグループ役員、東市長を案内
  歴史民俗資料館☛四條畷神社(正式参拝)☛和田賢秀墓☛野崎観音
  ☛十念寺☛川崎公民館☛西中野交差点☛四條畷高校前☛小楠公墓所
  ☛ハラキリ字地
  田中光敏監督 58歳 2003 精霊流し/2009 火天の城/2014
  サクラサク/2015 海難1890

 □321日(火)

  東京明治神宮会館でシンポジウム「楠木正成考」開催・産経新聞社主催
  資料 331日付産経新聞

  広木さん、藤原さん出席

 425日(火)
  楠公研究会(山下弘枝会長)発足記念式典 於いて、湊川神社

   1000 月次祭に参列
   1100 湊川神社正式参拝
   1200 設立記念総会
        ここでも、広木氏と同席

 □戦後72年楠木正成考<第14部>
   425日~29
   「楠公さん」を生んだ兵庫(神戸)
 
 □なわて学「平成29年度・前期講座」
  5月~9月 毎月5回連続講座 @500円/1回

   申込状況 4月末 38
  <7月8日(土) 第3回 14001530
  湊川神社 垣田宗彦宮司
  テーマ  「日本人の心の礎 大楠公」

        ~ 日本人が誇るべき礼節や信義を重んじる心は楠公
          精神そのもの。
          幕末の志士たちが心のよりどころとした楠公精神
          について語っていただきます。


 □教育文化センター主催市民講座
  「バスで訪ねる正行ゆかりの世界 第3弾!」

    5月、6月、7月、9月、10月 の5回シリーズ

 □その他
 ・日本遺産 「楠公父子の物語」は登録申請、認定ならず。

  平成29年度 全国から79件の申請
  (大阪府関係)
 ・「大阪池田 ものづくりの機運に育まれた事始めのまち」
   ~ 池田市
 
・巨大古墳のあるまち“ふじいでら”-土師氏の知恵と技術が遣わし
  た風景- ~ 藤井寺市

 ・「大坂夏の陣」に語り継がれる現代大阪 ~ 大阪市・堺市・交野
  市・八尾市・柏原市・東大阪市・松原市・羽曳野市・藤井寺市・泉
  佐野市
 ・「摂津・河内に生き続ける楠公さん 中世のサムライヒーローが遣
  わした聖地を巡る旅」 ~ 河内長野市・四條畷市・島本町・千早
  赤阪村・富田林市・神戸市

 ・「1400年にわたる悠久の歴史を伝える『最古の国道』~竹ノ内海道
  ・横大路(大道)」 ~ 大阪市・堺市・松原市・羽曳野市・太子
  町 ・葛城市・大和高田市・橿原市・桜井市・明日香村


     ※平成29年度日本遺産登録認定!

 ・「太子道にたどる”日本のスーパースター”聖徳太子の風景」
   ~ 太子町・明日香村・橿原市・田原本町・三宅町・川西町・安
   堵町・斑鳩町・王寺町・香芝市


●次回例会
 日時 6月13日(火)午後130分~
 場所 教育文化センター
 内容 久子の方と正行
    大阪電気通信大学プロジェクトについて
    その他
    

●傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。
 お待ちしております。
 
 楠正行通信47号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)




「教文 親子広場」

日時 平成29年5月4日(木) 午前11時15分より12時
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 教文 親子体操終了後、絵本の読み聞かせを行いました。

 


「教文 親子体操教室」で大きな鯉のぼりをつくりました。

日時 平成29年4月27日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 大きな目をつけて、お空へあげました。

 
 

四條畷楠正行の会 第29回例会

日時 平成29411日(火)
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 15人出席
 前日から、突風が吹き、大粒の雨が降っており、足元の悪い中、お昼前には小降りになったものの天候不順で出席率も悪いのではないかと思っていたところ、15人が出席しての例会となった。 新年度から、1階の会議室から、 2階のホールに会場が変更となったので、両面ガラス窓で明るく、しかも広いため解放感も重なり、ゆったりした気分での例会となった。
 また、1回には、「楠正行資料館」が開設され、正行通信が創刊号から本日発行の号まで掲示され、関係書籍や正行関連の写真等が並べられており、会員一同、喜びの入館となった。

↓例会の様子(2階ホールにて)


↓1階に開設された楠正行資料館を例会後、全員で見学



イベント内容 ●第28回例会のおさらい
・楠正行通信45号
  弁の内侍、吉野西蓮華台院に入り、正行の菩提弔う
  四條畷の悲歌、正行と弁の内侍
  吉野拾遺に載る、師直弁の内侍襲撃の件
・楠正行通信46号
  郷土、四條畷の誇り 楠正行
  第5回楠正行シンポジウム(四條畷市等主催)に200
  扇谷、講師を務める
  正行の教養や生きざま、四條畷の合戦、そして死後、後世に与えた影響に
  ついて
・配布資料
  ロマン拡がる河内へようこそ(一般社団法人河内観光局発行)
  パワーポイント資料(311日開催 楠正行シンポジウム配布資料)
  正行像賛(同上)

赤松円心と楠正行
◆赤松氏略年表
 人物叢書「赤松円心・満祐」掲載「赤松氏略年表」より抜粋・一部扇谷補注吉野拾ある。
                          2017.04.11 四條畷楠正行の会・資料
和暦 西暦 年齢 事項
弘安2年 1279 赤松則村(円心)、赤松茂則の子として生まれる。幼名次郎
嘉暦元年 1326 大学寺起請文書に、執行範資、惣追捕使貞範の名前。
摂津の長洲庄(長洲御厨)は魚類を淀の地に運ぶ「市」が立ち、流通・運輸の要衝であった。ここに、赤松円心は長男と次男を居住させていたことが読み取れる
元徳元年 1329 51 12月、護良親王、天台座主に。
則村の三男則祐、小寺相模の守頼季と共に宮の叡山に随侍
元弘元年 1331 53 8月、則祐、小寺頼季は護良親王に従い、比叡山から奈良、吉野におちる
   3 1333 55 1月21日、円心、護良親王の令旨を奉じ、播磨で挙兵、備前三石城を破る
2月15日、円心、摂津に進み、麻耶山に城を構え、六波羅軍と戦う
3月12日、円心、摂津瀬川で幕府軍に大勝し、一気に京都に入る
4月、八幡の戦いで、円心の武将佐用範家が名越高家を討ち取り、次いで六波羅を攻略す
5月28日、円心、後醍醐天皇を兵庫福巌寺に迎える
8月、円心、播磨守護職に任じられる
播磨の守は園基隆=後醍醐天皇の寵臣(公家)、播磨の介は新田義貞、その下に円心
~ この時、円心に、公家の指揮下という救いが

9月、安積守氏に命じ内裏造営の用材を播磨三方山に伐らしむ
11月10日、新田義貞、播磨の守に ~ 円心、名実ともに新田義貞の配下に
公家の配下という精神的拠り所を外された円心
新田義貞、三方西庄を大徳寺に寄進 ⇒安積氏の用材伐り中止に
建武元年 1334 56 6月、この頃、円心、播磨守護職を解任される
~ 護良親王に最も近い赤松の勢力を削ぐ狙いからか
10月、藤原藤房、天皇に直諫して円心を弁護し、次いで出世遁世する
護良親王、捕縛される ⇒ 護良親王の失脚とともに、勢力を失った赤松円心
   2 1335 57 ☛ 尊氏への強力を明らかに!
12月、箱根竹の下の戦いで、貞範、勇戦して新田義貞の軍を破る

   3 1336 58 2月、円心、兵を率いて兵庫に来たり、敗走の尊氏を援く
円心、尊氏に対して光源院の院宣を受けんことを進言する
円心、白旗城を築く
3月、義貞、播磨に入り、範資を破る
4月、則祐、大宰府に赴き尊氏の東上を促す
5月、湊川の戦後、尊氏、円心を播磨守護職に任じる
正平元年 1346 68 貞範、姫路城築城に着手
   2 1347 69 9月、範資、楠正行と天王寺に戦う(藤井寺の戦い)
   4 1349 71 貞範、姫路城完成
   5 1350 72 728日、円心、京都七条邸に没し、建仁寺大龍庵にて葬儀営まれる

◆赤松円心、関東御家人説? はたまた播磨の豪族(悪党)説
高坂説 人物叢書「赤松円心・満祐」著者
 ① 則祐(三男)が、比叡山延暦寺に入った護良親王に仕えた時点で、円心
  の志は定まった

 ② 範資(長男)と貞範(次男)を、尼崎(長洲御厨)に住まわせ、播磨の
  流通を抑えるとともに、京の都の動静を探る拠点とし、新しい政治台頭の
  布石とした。
 ③ 赤松円心の祖、季房(村上天皇、第七皇子具平親王六代の苗裔、従三位
  三河の守)は、播磨、佐用に配流され、その末裔、赤松氏は田舎武士の頭
  領として仰がれるようになった。


渡邉説 大阪観光大学客員研究員
 「赤松氏関東御家人説」
 ・佐用荘は、関東御領で、一部が預かり所として、関東武士に与えられたこ
  と

 ・六波羅探題は播磨の国守護を兼ねていたが、佐用荘は、配下の被官に与え
  らた
 ・赤松氏は鎌倉初期に関東御家人某が佐用荘に入り、「赤松」を名字とした
 ・赤松円心は、播磨の国守護常葉範貞と被官関係を結んだ

関東御家人説の立場に立つと、

範資と貞範は、海賊対策として、六波羅探題から尼崎に送り込まれた、と見ることができる  ~ 悪党説の180度転換!

中元説 播磨研究所所長・兵庫県立大学特任教授
 赤松氏は、播磨の豪族で、流人となった季房の子孫
  ~ 関東御家人説の伝承が全くない

 地域で作ったモノを大半、京にもっていかれる矛盾(荘園制度の弊害)
 流通経済を制し、経済集団が軍事集団化
 円心が建武政治と対立したのは、「歴史を前に進める」(荘園制度を壊す)ため
 『時代の風を読む』…二人の息子を尼崎に、一人の息子を京に
 赤松氏とは
 ・播磨を一つにまとめ上げた一族
 ・播磨の地政学的優位性の発見と活用
  畿内から見れば辺境の地、西国から見れば畿内に一番近い国
 ・先進思想の展開
   古代から播磨に蓄積された宗教的雰囲気をまとめ上げた

    一族から大澄国師を生み、法雲寺を創建、則祐は宝林寺を創建
   荘園制度の矛盾を指摘

 扇谷まとめ
 高坂説・中元説によれば、赤松円心は単なる悪党というよりも、しっかりと時代の風を読み、布石を打つ、先を見通した武将像が浮かび上がる。
 正成の一途さ・精神性に比べ、円心は、より現実主義者ではなかったか。


 
その他
連絡事等


楠正行絵本制作プロジェクト
  大阪電気通信大学木子教室での講義、学外学習等について
*教育文化センター「正行資料室」の開設について
*産経新聞「戦後72年楠木正成考」第13部について 

●次回例会
 日時 5月9日(火)午後130分~
 場所 教育文化センター
 内容 大和の越智氏と正行
    大阪電気通信大学プロジェクトについて
    現地学習について
    
その他

●傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。
 お待ちしております。
 
 楠正行通信45号・46号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



平成28年度 教文 親子体操修了式

日時 平成29年3月23日(木) 午前10時~12時
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 親子体操終了後、修了式を行いました。
平成28年4月から平成29年3月までの受講者のみなさまに、修了証書の授与を行い、
該当者には皆勤賞と努力賞をお渡ししました。
また、オリジナル卒業制作を完成しました。
おめでとうございます。

 


四條畷楠正行の会 第28回例会

日時 平成29314日(火)
場所 教育文化センター 1階 第2会議室
対象 会員 13人出席
 先月は二人の女性会員を迎えましたが、今月も男性一人の入会がありました。
 市内在住の方で、詩吟をされるそうで、吟題の多い南朝関係(正成、正行)の知識を得たいと、以前から入会を考えておられたとのこと。
 このように、一人、二人と、新しい会員を迎える喜びを感じながらの3月例会となりました。
 なお、例会終了後、「遅れてしまいました。」と、更にお一人の女性の方の入会がありました。
 お生まれが湊川神社のすぐ近くという事で、神社境内で鳩と遊んで育たれたとのこと。縁あって、四條畷、今度は子ども、正行ゆかりの地に引っ越してこられ、しっかり学びたいと入会されました。


↓例会の様子(第2会議室にて)


↓例会の様子



イベント内容 ●第27回例会のおさらい
・楠正行通信43号
  高山右近、国外追放直前に「日本訣別の書状」おくる
  其の書状本文中に、正行時勢の歌の引用!
  正行の事績が、江戸のはじめ、広く知れ渡っていた貴重な史料
 
・楠正行通信44号
  四国の伊予得能山・常石城を本拠とした得能氏
  後醍醐天皇の還幸を、兵庫沖、洋上から出迎える
  正成に呼応して立ち上がり、南朝一筋、新田義貞に従い、金ケ崎で壮絶な最後

●吉野拾遺に載る弁の内侍
 弁の内侍と正行の話については、確たる史料はない。吉野拾遺に載る弁の内侍関わりの部分を見てみよう。
◆吉野拾遺について
 吉野拾遺は、南朝(吉野朝廷)関係の説話を収録した室町時代の説話集で、二巻本と三巻本とがある。
 後醍醐・後村上天皇代の南朝廷臣の逸事・歌話を基礎とし、『徒然草』や『神皇正統記』『太平記』等から取材してこれを改変したものや、虚構の創作説話が混在する。二巻本で注目すべき説話としては、高師直が弁内侍の強奪を図った話(上巻9話)、楠木正儀への復讐を果たそうとした熊王の話(下巻16話)等がある。

証校日本文学大系 第18巻 (国民図書㈱ 大正14年刊より)
 〈吉野拾遺現代語訳〉
 弁の内侍の件を転載する。


高の師直内侍を奪ひ取る事 一
 さて、弁内侍はたいそう美貌でありました。それを武蔵守高師直がいかなる折にか、恋してしまって、気にかけるようになりました。先帝崩御の後、ひそかに手紙を送って、「ひそかにお出でなさい。迎えをよこしますぞ」と度々言って寄こします。
 内侍はその返事をせずにおいたところ、師直は憎らしく思って、行氏卿をよく知っている女を探し出してきて、「北の方(行氏卿の妻)に頼みごとがあるのだ。二人で相談してくれ。願いがかなったら、見当もつかないほどの礼をしよう。三位殿の官位も進めて差し上げよう」などと北の方に言って寄こしました。
 ただでさえ世の人の恐れない者はない師直の言うことであるし、たいそう期待もしましたので、手紙を準備して、内侍にお仕えしていた梅が枝という女に持たせて、「この女と相談してください」と申し上げました。師直はたいそう喜んで、生命をかけた主従の契りを結んだ武者20人ほどを選んで、梅が枝とともに吉野へ行かせました。
 内侍に、梅が枝が「北の方の手紙を持って参りました」と言って、その住まいに入ります。内侍は「なつかしく思って暮らしていました。こちらへ」と招かれました。梅が枝はその手紙を差し上げます。
 「はるか遠くに行ってしまわれて、山里にお住まいなのは、さぞやご不便なことでありましょう、と思えば、なつかしさがこみ上げてきて、涙が止まりません。住吉詣でをしようと思っておりますが、道もわかりますので、どうかお会いしたいものです。河内の国の高安のあたりに知人がおります。どうかそこへお越しください。心細い世の中で、まして乱れているので、こんな旅でもないとどうして会えましょうか」
 などと書いてあって、
 
相みんと 思ふ心を さきだてゝ 袖にしられぬ 道しばの露
 お使いの梅が枝も、手紙の趣旨をくどくど繰り返して言うので、「実の母が出家されてからは、その母にもまさる思いやりが忘れられません。朝夕なつかしく思っております」と帝に休暇を願い出て、すぐにお発ちになられました。女房2人、青侍3人がお供についていきます。

高の師直内侍を奪ひ取る事 二
 途中、武者に出くわし、「『高安で待っておりますが、人目が多くてわずらわしいことになっています。住吉までお行きください。お行きになるのであれば、おまえたち、お供いたせ』と言い付かっております」と言います。そして突然多くの武者たちが出て来て輿を取り囲みます。
 内侍は「なんとも合点がいきません。住吉までどうしてわざわざ行かないといけないのでしょう。輿を帰しなさい」とおっしゃったので、青侍どもは輿を帰そうとします。武者たちは「どうか住吉までお急ぎください」と無理に連れて行こうとします。
 これはかなわないと立ち止まるところへ、武者たちは輿を帰させるかと3人とも打ち殺してしまいました。内侍は大変恐ろしく、鬼に捕らえられてしまった気がしてただ泣きじゃくるばかりです。荒武者どもは、思いやりもなく「今宵のうちに住吉まで急げ。殿もそれまでには住吉にお着きであろう」などと、大声で騒ぎ立てます。
 そうして石川というところまで来ると、楠木正行が吉野へ呼ばれて参上するのに出くわしました。正行一行をやり過ごそうと傍らの木陰に潜んでいるのを、正行は不思議に思って、立ち止まって、何事かと尋ねます。
 「ある局さまが住吉詣でをなさるのです」と言うので、「そうですか」と通り過ぎようとします。
 ところが内侍が泣く声を聞きつけ、強引に輿のそばに立って尋ねますと、「こうこうなのでございます」と内侍がおっしゃったので、「これは、おかしい。こやつ等を皆捕まえよ!」と言って、残らず捕えます。縄目の恥を思った者が3,4人いて、刀を抜いて戦いましたが、ついに打ち殺してしまいました。
 正行は吉野へ参上して事の次第を奏上します。梅が絵を問い詰めますと、内侍をだましたことを白状しましたので、武者どもは皆斬られて、梅が枝は尼にして、この次第を北の方へよくよく言上するように、と京へ帰したのでした。
 「正行がいなければ、大変なことになるところであった。よくやってくれた」とおっしゃって、内侍を正行に与えるとの詔があったのですが、正行はお礼を申し上げて、
 とても世に ながらふべくも あらぬ身の かりの契りを いかで結ばむ
 と奏上して辞退したのです。そのときは理解できなかったのですが、後に思い当たることがあって、皆正行のことを残念に思ったのでした。

楠正行弁の内侍を救う図
(国立国会図書館・武者无類外二三枚続き画帖 1帖 本別7-93 より転載)



●発足3周年記念事業について 
 発足3周年記念事業実施要綱
 ~ 「楠木父子物語」日本遺産登録認定協賛 ~
◆今までの歩み
*平成2611月、発足
 本会は、平成26年、教育文化センター主催で開かれました市民講座「楠正行の人間像に迫る!」受講生の声を受けて、同年11月に発足し、今年103周年を迎えます。
目的 正行研究と顕彰

 郷土、四條畷ゆかりの歴史上の人物、四條畷神社に祀られる楠正行について学び、そして顕彰し、次代を担う子ども達等を通じ、後世に長く広く語り継ぐことを目的に、勉強会を通じて楠正行に関する様々な史料を検証し、伝承等を繙き、また、楠正行ゆかりの史跡、名勝等を訪れ現地調査などして、その生き様や人物像を掘り起こし、明らかにする活動を続けています。
例会&現地学習と会報誌「正行通信」発行・ホームページアップ
 毎月1回の例会では、正行ゆかりの人物を取り上げ検証する中で、極めて史料の少ない正行の生きざまや人物像をあぶりだす活動を続けています。現地学習は、湊川神社、金剛寺、如意輪寺を訪れ、『四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く』と題し、四條畷の合戦・正行の一日の行動を、2回に分けて歩き、体感しました。
 会報誌「楠正行通信」を発行し、2月現在、42号を数えています。教文のサークル展では、カラー映像スクリーン紙芝居「正成、正行の生涯」を上演しました。活動は、教文のホームページに逐一アップをしております。

◆記念事業実施要綱(決定)
 日時 平成291028日(土)午後2時~午後4
 場所 四條畷神社「神社会館」
 内容 ①基調講演 「正成、正行の事績について」
     ~戦後71年正成考の特集を終えて~
     産経新聞社編集委員 安本 寿久氏
    ②絵本「武士道の人、正行」完成プレゼンテーション

      大阪電気通信大学・社会プロジェクト実習
       デジタルゲーム学科 木子香教室
    ③コーラス 青葉茂れる桜井の 四條畷 ふるさと
    ④詩吟   楠帯刀の歌 小楠公の墓を弔う 他
    
⑤舞踊   河内音頭 楠公まつり 他
    ⑥会員発表 朱舜水作「正行像賛」の発見物語
    
⑦展示   朱舜水作「正行像賛」
          楠正行通信 1号~ 四條畷の合戦図
    その他

 定員 100名(入場無料)
 主催 四條畷楠正行の会
 協力 四條畷神社・御妣会・小楠公を偲ぶ会・ひまわりコーラス・さくら会・
    大阪
電気通信大学木子教室・四條畷市詩吟連盟
 後援 四條畷市(予定)・四條畷市教育委員会(予定)・
    四條畷市教育文化センター・産経新聞社(内定)

●5月現地学習について
 日時 59日(火)
 行先 観心寺(河内長野市)
 詳細 4月例会で発表

●小冊子「小楠公一代記」について
 A5版 1620ページ
 四條畷神社、如意輪寺にご相談の上、多くの人に広く正行のことを知っていただく親しみやすい冊子の製作を考えています。
 日本遺産登録認定も踏まえ、英語版、ハングル版なども、との議論になりました。


 
その他
連絡事等


●次回例会
 日時 4月11日(火)午後130分~
 場所 教育文化センター
 内容 赤松円心と正行
    大阪電気通信大学プロジェクトについて
    5月現地学習について
    
教文主催事業「バスツアー第3弾」について

●傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に覗いてください。
 お待ちしております。

 
 楠正行通信43号・44号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)




教文市民講座「親子で楽しむコンサート」

日時 平成29年3月3日(金) 午前10時15分~11時
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 普段見る機会の少ないLIVE演奏を、Mama's Wind Orchestra Largo さんの協力で開催しました。お子様に馴染みの曲を中心に、打楽器体験などがあり、大変盛り上がりました。


「第22回新春ミニ・コンサートのテレビ取材の映像を上映しました。」

日時 平成29年2月22日(水)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 平成22年1月22日(日)に開催した”第22回新春ミニコンサート”のテレビ放映された映像を上映しました。




四條畷楠正行の会 第27回例会

日時 平成29214日(火)
場所 教育文化センター 1階 第2会議室
対象 会員 13人出席
 この日、お二人の女性が入会されました。
 出席予定の方が定刻前に集まりましたので、少し早めに始めました。

↓例会の様子(第2会議室にて)


↓例会の様子



イベント内容 ●第26回例会のおさらい
・楠正行通信41号
 如意輪寺を再興した鉄牛上人は長宗我部元親の六男、文親
 楠正儀の孫、正盛、土佐に入り、楠瀬名乗る
 文親の母は正盛の孫、正宣の娘か孫か?
 鉄牛上人=長宗我部文親は、楠氏末裔
 幕府の弾圧を受け、土佐へ
 長宗我部元親、四国を統一
 遠流の国、遠国、土佐
 楠瀬正宣、元親の居城近くに移住
 吉野・西蓮寺に残る住職系譜
・楠正行通信41号
 弁の内侍、西蓮寺華台院に入り、正行の菩提弔う
 文誉鉄牛上人、西蓮華台院跡に西蓮寺開く
 四條畷の悲歌~西蓮寺と弁の内侍
 西蓮寺、大きな本尊に圧倒される
 従兄弟の嫁ぎ先も長宗我部末裔


●辨の内侍ゆかりの西蓮寺
 以下のリポートは、吉野西蓮寺発行小冊子「累徳山円成院西蓮寺」を下に、扇谷が編集したものである。
◆竜門の郷と竜門寺
 吉野山を下った吉野川の北方に広がる竜門の郷。
 竜門岳と津風呂湖に挟まれた自然と古跡の郷。
 竜門岳の麓に竜門寺跡が残っており、高さ約15メートルの竜門滝の脚下に七堂伽藍配置があったといわれ、古風な礎石や古瓦、埋蔵物が今も残り、当時の面影をしのぶことができる。
 奈良時代前期に建てられたと伝わる竜門寺は天台密教系の寺であったと推定されており、中世に入り寺領庄園として竜門庄が設けられ、平地仏教的な展開を遂げる。この竜門寺の支院に仏師院・竜華台院・西蓮華台院などが建立されるようになる。
◆四條畷の悲歌と弁の内侍
 今を去る六百数十年前、吉野朝史の陰に咲いたうるわしの花、弁の内侍は才色ひときわすぐれていた。弁の内侍は、元弘の乱に戦死した右少将俊基の側女であった。
 ここに名花の噂の高い弁の内侍を、我がものにせんと勝手に思いを寄せ、いかにしても野望を遂げようとたくらむ一匹の狼、高師直がおり、偽手紙で誘い出し、拉致しようと企てる。ところが、偶然か奇策か、はたまた神明の加護であったか、正行に助けられるのである。
 後村上帝は弁の内侍を正行の妻にと勧められるが、父・正成の遺志に殉ぜんとする正行は、とても世にながらうべくもあらぬ身の 仮の契りをいかで結ばんと一首に託し、これを辞するのであった。
 失望する弁の内侍であったが、南北朝史の悲歌、四條畷の決戦場に移り、正行の壮烈な最期を知り、はじめて正行の真意を悟り深い悲しみに打ち沈むのであった。
 弁の内侍は、「大君に仕えまつるも今日よりは 心にそむる墨染めの袖」と出家の詠草を残し、吉野山を下り、竜門の西蓮華台院に入り、草庵「聖尼庵」を結び、そこで寂滅するまで正行の菩提を弔い、念仏の生活によって正行への貞節を守ったといわれている。


文誉鉄牛、西蓮寺を開く
 西蓮寺が開かれたのは江戸時代の初期、文誉鉄牛上人で、四国、長宗我部氏末裔で、元親の六男、文親と称した。
 元親の四男、盛親が大坂の陣で敗れ、六条河原で斬首されると、子孫の絶滅を憂い、我が子二人を弟の文親に託し、土佐から逃れることを命じ、四国を脱した文親は大和へ入り、吉野への逃避行を続けるのである。
 四国路の吉野川をば下り来て 大和路のぼる美吉野の川
 うちこして讃岐刈田の豊田をば かりの名とせん忍ぶわが家の
 追われて来て象(キサ)の谷間にかかりけり 夢路むさぼるうたた寝の橋
 武具をすててみやまにすみぞめの 衣にかかるみよしのの花
 (象谷「喜佐谷」、「うたた寝橋」等吉野町中荘地区に現存する地名)
 四国に栄えた長宗我部一門の滅亡の危機に一点の種火となった文親が、うらぶれて吉野の喜佐谷へ忍び入った心情を、この歌詞の中に汲み取ることができる。
 吉野山に入った文親は、文誉鉄牛と号し、名刹如意輪寺の荒廃に心を傷め、諸堂を営繕改修して復興し、中興の租と仰がれる。
 そして、徳川四代将軍家綱の頃、西蓮華台院の跡に累徳山円成院西蓮寺を開き、弁の内侍を顕彰した。
 鉄牛上人の高徳は、吉野各地に広がり、川上村、吉野町、東吉野村に14ケ寺が建ち、それぞれ後に西蓮寺と本末の関係を持つようになり、今に至っている。
 隠棲した鉄牛上人は、豊田儀右衛門と名乗り、代々豊田氏を称し、その末裔は今も大阪市内に15代目(元親から数えて)を数える。喜佐谷には、豊田氏の墓碑が今も建っている。
(写真 西蓮寺全景・弁の内侍図:西蓮寺発行小冊子より・豊田氏の墓 扇谷撮影)

●伊予の国 河野氏と得能氏
 以下のリポートは、愛媛県史を下に、扇谷がまとめたものである。
◆幕府方を貫いた河野氏宗家
 河野氏は、平安末期には清盛率いる平氏の傘下にあったが、源平合戦において河野通信は頼朝に従い鎌倉幕府の御家人となって西国に在りながら大きな力をつけた。
 元寇の時には通有が活躍して武名を馳せ、最盛期を築いたが、死後、家督をめぐる内紛が勃発、元弘の変では、一族の大半が倒幕に立ちあがったものの、惣領である河野通盛は幕府に従い、建武政権後、衰退した。
 南北朝時代になり、伊予へ侵攻した細川氏と争い、通盛は伊予守護職を手にするが、通朝は細川に攻められ討死、九州に逃れた通蕘は懐良親王に従うが、細川頼之の失脚で再び幕府に帰服し、頼之追討令を受けて細川方と戦い、この時奇襲を受け戦死する。
 室町時代、戦国時代と内紛と有力国人との抗争をくりかえし、国内支配を強固にすることができず、加えて家督争いも絶えなかった。
 国内に河野氏に属さない勢力が存在し、土佐一条氏、豊後大友氏、讃岐三好氏等との抗争が続き、安芸毛利氏の支援を受けた。長宗我部氏の侵攻などが続く中、天正13年(1585)秀吉による四国征伐において通直は降伏し、大名としての道を絶たれ、2年後、通直の死を以って河野氏は滅亡した。

◆一貫して南朝に与した得能氏
*得能山に常石城を築き本拠に
 伊予の国で南朝に与したのは、土居氏、得能氏、忽那氏、祝氏等である。
 得能氏は、鎌倉時代初期に活躍した河野通信の子、通俊を祖とする河野氏の支族で、伊予の国桑村郡得能荘(現周桑郡丹原町)を領有し、得能山上に常石城を築いて本拠とした。
 通純の後、得能氏は弟の通村が継承し、南北朝期に南朝方として活躍する通綱へと続く。一方、通純の子に通景がおり、その子通宗が重見の姓を称した。
 得能氏の南朝との関係を示す史料として、旧温泉郡南吉井村野田の得能家に伝わる「善功録」があり、得能通宗は大塔の宮護良親王から幕府討伐の令旨を受けた、との記載がある。
 宗家の河野氏が幕府の信任を受けて隆盛であったため、得能氏や土居氏は対抗できなかったと思われるが、全国的に惣領制の崩れる時期であったことから、比較的自由な態度を取り得たと思われる。特に、得能氏の始祖、通俊は承久の乱で後鳥羽上皇側に味方し、風早郡高縄山城で戦死していることから、北条氏に反意を懷いていたと想像される。
 太平記や楠木合戦注文等によると、得能、土居氏は、楠木正成が千早籠城戦を戦っていた元弘3年(1333)の正月から2月にかけて、挙兵・出動していたものと思われる。

*石井浜の戦い

 この年2月、反幕府勢力討伐のため長門探題北条時直は伊予に向けて越智郡石井浜(現今治市)に上陸しようとするが、土居、祝、忽那、得能氏らの奮戦によって敗走させられている(石井浜の戦い)。(三島家文書・550
 そしてこれら反幕府軍は、喜多郡に入り、宇都宮貞泰を根来城に攻撃、31日から11日に及ぶ戦闘で陥落させる。(忽那一族軍忠次第・三島家文書)

星岡の戦い

 北条時直は、再度の襲撃を試み、土居氏の本拠石井郷(現松山市)に軍を進めた。星岡を中心に広い範囲にわたる大規模な戦闘を繰り返し、時直の軍は得能、土居氏等反幕府軍の精鋭のために撃退され、逃走、越智郡に落ち延び、便船を得て長府へ逃れ去った(星岡の戦い)。(忽那一族軍忠次第・三島家文書・楠木合戦注文・土居氏系図等)
 57日には、得能、土居、忽那、祝氏等連合軍は、讃岐国鳥坂(香川県三豊郡三野町と善通寺市の境)まで遠征し、幕府軍を粉砕した。(忽那一族軍忠次第・三島家文書)
 523日、六波羅探題陥落の報を聞き、伯耆の国船上山を発した後醍醐天皇は、530日、兵庫の国福巌寺に入っているが、この時、得能・土居氏等は軍船を兵庫の沖に回漕して後醍醐天皇を向かえている。(太平記巻七・天正本太平記)

得能通網、従五位下備後の守に
 建武政権が発足すると、得能通網は従五位下備後の守に、また土居通増は従五位下伊予権介、後に備中の守にそれぞれ任官された。(得能累世一覧・善功録・土居氏系図)
 幕府方・反幕府方による一大決戦となった湊川の戦では、得能・土居両氏の軍は新田義貞の陣営にあって、足利直義、吉良・石堂の大軍を奮戦した。この時、尊氏の水軍の中に河野通盛部下の水軍が加わっていた。(太平記巻十六・新田殿湊川合戦の事、同・経島合戦) 「梅松論」「神田本太平記」によると、この湊川の戦いにおいて、河野氏勢の中に武将大森盛長(彦七)がいて、正成の陣営に突入し、ついで正成を自殺させるに至った旨の記載がある。

新田義貞に従い、金ヶ崎城で戦死
 建武新政以来、得能通網・土居通増は近畿にいて、新田義貞の配下に属し活動していた。が、宮方の形勢次第に不利となり、後醍醐天皇は比叡山に難を避け、延元元年12月、南朝勢力の再建を期して新田義貞は北国に赴くこととなり、脇屋義助、子義顕と共に得能通網・土居通増も従い出発した
 途中、越前の国に差し掛かったところで、武家方の足利高経の襲撃を受け、後陣にあった得能通網・土居通増は集中攻撃を受け悪戦苦闘し、土居通増は一族とともに壮烈な戦死を遂げた。(梅松論)一方、得能通網は無事越前の国金ヶ崎城に入った。
 金ヶ崎城は防戦に死力を尽くしたが、武家方の足利高経は高師直の支援を受け、攻撃を仕掛けたため、翌年36日、得能通網は餓死寸前のところ槍を杖にして起き上がり、搦め手門に突入した敵陣と相まみえたが衆寡敵せず、戦死を遂げた。(太平記巻十八 金ヶ崎落城の事)

●高山右近、日本訣別の書に正行辞世の歌引用の歴史的背景を探る
◆高山右近略年譜
 天文21? 1552 高山飛騨の守の長子として摂津高山に生まれる
 永禄07  1564 受洗
 天正01  1573 高山右近、高槻城主となる 2万石
   06  1578 村重の叛に際し、高槻城開城 信長に従い4万石に
   10  1582 本能寺の変勃発 山崎合戦に先陣 4千石加増
   13  1585 根来・四国(長宗我部)征伐に参加、功有り
          明石6万石に移封
   
16  1588 前田利家、右近を加賀に引き取る
           ~ 客将 1500040000石諸説
 慶長19  1614 家康(=秀忠)、禁教令 高山右近に国外追放を命ず
          マニラ追放
   20  1615 18日、マニラで病没
 

◆高山右近、日本訣別の書

↑写真:毎日新聞石川県版 2016130日付朝刊掲載
<毎日新聞より>
 高山右近は、加賀藩祖・前田利家の招きで、天正161588能登に移り、国外追放までの26年間、本行寺(七尾)に滞在した。本行寺は、能登に茶の湯を紹介したことで知られる茶人の円山梅雪が15世紀に開いたもの。
 この本行寺に、追放直前に前田利家の正室・まつに宛てたとみられる直筆の書状「日本訣別の書」(写真 縦16.5センチ 横45センチ)が残る。
 
 
 追放を控えた心境と感謝の思いがしたためられている。

■書状本文
 近日出舟仕候
 仍此呈一軸進上候
 誠誰ニカト存候志耳
  帰ラシト思ヘハ兼テ

  梓弓ナキ數ニイル
  名ヲソ留ル
 彼ハ向戦場命堕
 名ヲ天下ニ挙是ハ
 南海ニ趣命懸天命ヲ
 流如何六十年之
 苦忽別申候此中之御
 礼ハ中々不申上候々々
 恐惶敬白
     南坊
 九月十日  等伯(花押)

■書状訳文
 
近々出航いたすこととなりました。
 つきましては、この度一軸の掛物を差し上げます。
 どなたに差し上げようかと思案しましたが、私の志ばかりでございます。
  帰らじと思えば兼ねて梓弓 なき数にいる名をぞとどむる
 彼(正行公)は戦場に向かい、命を落して、天下に名を挙げました。
 是(私)は、今異国の南海に赴き、命を天に任せて、名を流すばかりです。
 人生60年来の苦もなんのその、いよいよ、お別れの時がやってまいりました。
 この間賜った心づくしのお礼は、筆舌に尽くすことはできません。
 怖れながら申し上げます。
  九月十日   南坊等伯

◆高山右近は、何故、正行辞世の歌の事を知っていたのか、その歴史的背景を探る
 太平記読みや楠兵法書が世に続々と出てくるのは1600年代の中ごろ。
 しかし、高山右近が生きたのは、1500年代中ごろから1615年まで。楠公事績がまだ世に出る前の時代、何故、高山右近は四條畷の合戦に臨んだ正行の事績を知っていたのか。
 秀吉のキリシタン弾圧を逃れて、高山右近は加賀前田家に客分として26年の長きにわたって流浪生活を送っている。このあたりにそのきっかけがあるのではないだろうか。
 まず、時代背景を確認しておこう。
*高山右近
 信長時代 1570年ごろ~1582 キリシタン大名として、2万石から4万石になり、
      信長とは良好な関係が続く

 秀吉時代 本能寺の変では山崎合戦で先陣をつとめ、4千石の加増を得る
      また秀吉を悩ませた根来衆、四国の長宗我部追討に参加し、功をなす
      明石6万石に移封され、大名として栄達の道を歩む

      しかしこの後、天下統一・中央集権を目指した秀吉との確執が始まる
      キリシタンに理解を持っていた前田利家、右近を加賀に引き取る
      右近は、利家、利長に仕えること26
 家康時代 家康が江戸幕府を開き、中央集権体制確立に向けてキリシタン弾圧を
      強化
      秀忠(実質は家康)の禁教令発令
      キリシタンの叛乱を恐れた家康、右近に死を与えず、国外追放

*加賀前田藩
 
利家 15391599
 利長 15991614
 利常 16141639 47歳で隠居
 光高 16391645 29歳で若死に
 綱紀 16451724 3歳で藩主に
          祖父・利常 1658まで13年間綱紀を後見

*太平記読み・理尽鈔の伝授・流布
 
名和正三  名和長年末裔説? 1560年ころ 大運院陽翁に伝授
 大運院陽翁 唐津藩主寺沢広高に3年かけ伝授
       晩年、前田利常の招聘を受け加賀へ 1622 63歳で没
       免許皆伝を授けたのは6
        本多政重(加賀藩家老・5万石)~家康腹心本多正信の二男
         大橋全可=陽翁陪席の下、本多政重が免許皆伝を授ける
          京都所司代、板倉重宗に伝授
          幕府老中、因幡正儀に伝授
        浅井一政(加賀藩家老・1万石)
        水野内匠(加賀藩士・3千石)
        伊藤外記(加賀藩士・足軽頭)
        寺沢広高(唐津藩主)
        横井養玄(備前藩主池田光正家臣)
 以上、明らかになった「理尽鈔」講釈の伝授・受講者の広がり(一部に過ぎない)を見てくると、1500年代末期から1600年代中期にかけて、加賀前田藩を中心に太平記読みに繋がる世界が日本国内に広がりを見せていたことが分かる。
 そして、加賀前田藩の当時の立場がその背景にある。
 織田信長に仕えた前田利家は、信長亡き後、秀吉に仕え地位を安定させ、秀吉亡きあとは、関ヶ原の合戦で徳川方の旗色を鮮明にし、三代利常は大阪の陣で戦功をあげた。
 利常は、2代将軍秀忠の娘(珠姫)を妻にし、二人の間にできた光高は、3代将軍家光の娘(大姫)を妻にし、そしてその二人の間にできたのが綱紀である。また綱紀は、家光の弟、幕府の重鎮保科正之の娘(摩須姫)を妻に迎えている。
 このように、加賀に入った右近ではあったが、決して田舎での隠遁生活とは言えない、加賀前田藩による江戸中央との太いパイプを通じた情報や太平記読みの広がりに通じる日本各地の動きとは無縁でなかったことが分かる。

◆高山右近と正行辞世の歌
 高山右近は、当時、稀有なキリシタン大名(12歳で受洗)として、信長時代という混乱期を生き抜く。
 そして、秀吉とも、当初良好な関係を築き、根来衆の征伐や四国・長宗我部征伐において功を挙げ、天正13158533歳)には、高槻城主4万石から明石城主6万石に移封されている。
 しかし、その後、天下統一を目指して中央集権体制を確立させるためキリシタン弾圧に動くようになった秀吉との対立は避けられず、宗教を捨てなかった右近に対し、秀吉は、領地を没収し、追放の処置をとることになった。
 一時、小西行長に匿われ、淡路島から小豆島に移り、その後肥後に下る。
 そして、天正161588、キリシタンに好意的であった前田利家に預けられる形で、事実上は、客将として加賀に入った。
 右近は、36歳の時に加賀に入り、利家と11年、利長と15年、合わせて26年間、加賀生活を送り、慶長191614、右近62歳の時、秀忠(実質、家康)の発した禁教令によって、国外追放となる。
 秀吉、家康とも、キリシタン弾圧をくわえながらも、天下統一の名の下、全国的な叛乱の導火線ともなりうる右近の存在を恐れ、右近に死という武士の名誉を与えることはなかった。また、右近もキリシタンとして自らの命を絶つことは許されなかった。
 右近は、追放の命を受け、加賀を急きょ出ることになるが、その時、前田利家の正妻、まつに宛てたとみられる書状をしたためる。そして、この書状の中で、吉野如意輪寺に残る正行辞世の歌が引用されているのである。
 高山右近は、270年前の正行の事績を何故、知っていたのか。そして又、言い換えれば、戦国末期から江戸初期にかけた頃の一大名が、正行の事績を知っているということは、この頃広く天下に知れ渡っていたことを示す証左でもある。

 特に、高山右近が正行の事績を知ることとなった背景を繙いてみよう。
 右近が預けの身として入った加賀、前田家には太平記読みの世界が色濃く浸透していたと思われる。太平記読みのバイブル書と言われる「太平記評判秘伝理尽鈔」は、17世紀中ごろの寛永から元禄にかけて出版され、飛躍的に広がったとされるが、慶長(15961615)から元和(16151624)にかけて、既に流行し始めていたことが明らかになっている。
 名和家伝来の「理尽鈔」を伝授されたといわれる大運院陽翁は、各地各大名に歴仕した後、その晩年は、前田利常の招聘を受けて加賀に入り、この地で没している。
 江戸徳川家と太いパイプを築いていた前田家では、太平記読みの流行を受け入れる十分な素地が備わっており、利家、利長の時代に、大運院陽翁を招聘する下地が出来上がっていたものと思われる。
 だとすれば、右近の過ごした26年間に、楠流兵法の秘伝書としての側面を色濃く持っていた太平記読みの世界、すなわち正成、正行の事績を知ることとなったものと思われる。
 太平記読みを通じて資料に残る正成の事績は多くあり、知りえても、正行の事績までうかがい知ることは難しかったのではないか。とすれば、こういった太平記読みの世界以外のルートによっても、楠公の事績が広く流布していたことも考えられる。
 いずれにしても、右近が日本を去るにあたって、後世に思いを伝えるために、正行の辞世の歌が引用されていることに驚くほかない。そして、この事実によって、正行の事績は広く知れ渡っていたともいえる。
  正行は死を覚悟して吉野を発ち、その思いのままにその名を後世に残すこととなったが、右近は、正行同様に国や民を思いながら日本を去るにあたって、自らの命を自らの手で生かすことも殺すこともできず、運を天に任せてその名を流すしかないことへの痛恨の念を禁じ得ない。


◆高山右近と四條畷の関わり
 なお、高山右近と四條畷のかかわりにおいて触れておきたい。天正111583、秀吉が大坂城を築城するが、この地に大坂協会の建設を提案したのが高山右近といわれる。
 右近は、当時、五畿内で最も美しいと謳われた四條畷岡山教会を、結城氏の三箇移封に合わせ、大坂城への移転を提案している。そして、自らが岡山教会の移転事業に専念し、同年、大坂協会で最初のミサが開かれている。

●第5回「楠正行シンポジウム」について
  日時 311日(土)、午後2時~
  場所 四條畷学園短期大学・80周年記念ホール
  講師 扇谷昭
  内容 郷土、四條畷の誇り 楠正行

      - その生涯と後世に与えた影響 -
  申込 往復はがきで四條畷市産業観光課へ 31日消印有効

●その他連絡事項
 *四條畷高校「畷高歴史講座」について(218日、開催)
 *楠正行の会発足3周年事業について
   1028日(土)、午後2時~
   四條畷神社・神社会館で開催決定
 *産経新聞「戦後72年楠木正成考」第11部について/資料提供
 *楠公父子物語日本遺産登録の動きについて/情報提供
 *河内長野市講演会「中世の侍ヒーロー楠公さん」について/情報提供
 *南朝と幕末~志士たちの聖地・吉野講座/情報提供
 *3月以降の体制/役員について


 
その他
連絡事等


●次回例会について
 日時 314日(火)、午後130分~
 場所 教育文化センター1階 会議室
 内容 弁の内侍と正行
    第5回楠正行シンポジウムについて
    その他
 
 楠正行通信41号・42号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)


「第22回新春ミニ・コンサート」

日時 平成29年1月22日(日) 午後1時より
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 教育文化センターの恒例行事”新春ミニコンサート”を開催しました。
空模様は曇りのち晴れのち雨、みぞれと目まぐるしく変化する中、会場は大勢の観客で埋め尽くされ、大変盛り上がりました。
第1部は、女声四重唱から始まり、コーラスやピアノ演奏などを、
第2部では、二重唱やヴァイオリン二重唱、みんなで歌おうなどを含め、合計二十数曲を奏でました。


四條畷楠正行の会 第26回例会

日時 平成291月10日(火)
場所 教育文化センター 1階 第2会議室
対象 会員10人出席
イベント内容
↓例会の様子(第2会議室にて)




●第25回例会のおさらい
 ・楠正行通信40
   和束町木屋に残る駒返岩
   笠置山行宮、後醍醐帝の急に駆けつけた正成、
   笠置山炎上を目の当たりに引き返したとされる岩が、今も残る


長宗我部元親と正行
 ・楠氏と長宗我部元親氏の接点を探る
◆楠氏が四国に入った背景について
応永6年1399 正成の孫、正秀が足利義満と戦う大内義弘に与する
      この時、土佐国安芸城主・安芸元信、正秀の武将務める
       安芸元信の嫡子元康、この戦で討死し、正秀、次男元信を養子にやる
       元信、元房と名乗り、安芸氏を継ぐ

永享3年1431 足利義満の子、義教は南朝殲滅を図り、楠一族に大弾圧を加える
       正秀の長男、正盛は弟の元房を頼り、土佐の国安芸郡土居村玉作に移住
 
       正盛は、楠瀬を名乗り、土佐楠家の始祖となる



別紙「長宗我部元親・楠氏関係地図」参照

◆楠氏と長宗我部氏の関わり
 本山氏~長岡郡本山を本拠とし、土佐郡、吾川郡を支配下に置き、広大な地域を領有
 兼序(元親の祖父)の時代、岡豊城を落とされている
弘治21556 長宗我部国親(元親の父)は、本山氏の配下、秦泉寺(じんぜんじ)掃部を
       破り、配下に加える
       掃部の子、豊後(ぶんご)は元親の兵法指南役となる

       この戦いにおいて
       楠左衛門佐正憲は流れ矢で戦死の記録有り
       ~ 正成6代、成晴の子?
       「土佐国編年記事略」より ・・・ この説誤り?
永禄31560 長浜戸の本合戦で、本山氏を破り、元親、土佐中央部の支配権奪う
       元親の初陣

◆長宗我部元親の動き
1560 元親、長浜の戦いで本山氏破る~初陣
   国親、この年病死
1568 本山氏降伏
1569 安芸氏降伏
1574 一条氏、大津城に移る~ 1581 一条氏滅亡
1575 
中村 渡川の合戦~一条氏との攻防戦
   この年、元親、土佐統一15年を費やす) 四国統一に乗り出す

15751579 阿波(西部)に侵入 対:三好氏
15781580 讃岐に侵入 対:三好氏
15771581 伊予に侵入 対:河野氏 背後に毛利氏の援軍
15801582 阿波全域を抑える 中富川の戦いで、三好氏を撃破
1584 十河落城 虎丸城落城 ~ 伊予を平定
1585 
土佐統一後、10年にして、元親四国全土を統一
   6月 豊臣秀吉、四国征伐の軍令発す

   7月 元親、苦戦を強いられ、秀吉の参謀、秀長と講和に動く
   8月 土佐一国安堵で、秀吉の軍門に降る
1586 元親、年賀のため大坂に入る
1588 秀吉、元親に羽柴の姓を許し、土佐の守と称しめる
1590 元親、小田原攻めに参加
1592 元親父子、朝鮮の役に従軍
1597 元親、検地をおこなう
      22カ条の発布

      百カ条の掟を発布
      この年、朝鮮に再出兵
1598 8月 秀吉死亡
   11月 元親、伏見の家康邸を訪ねる

1599 4月 秀頼(大坂城)に謁見
   5月 元親、伏見の邸で死去

◆遠流の国、遠国、土佐
 四国そのものが本州から見ると遠い異国の地であった上、険しい山々の連なる四国の中でも、土佐の国に入る事は至難の業で、古の時代から落人・配流者の住む地としてその歴史を刻んできた
 即ち、土佐の国は、南海僻陬(へきすう)の土地で、遠国(おんごく)として流刑の制が古代からこの地に布かれてきた。佐渡や隠岐とともに遠流(おんる)の国として、重罪人配流の地であった。遠く天平の頃(729743)に始まり、平安期に入ると、菅原道真の子や藤原頼長の子、鎌倉に入ると、源頼朝の弟、法然上人、尊良親王らが記録されている。
 また土佐は、落ち武者の流れ来り隠れ住む永住の地となした土地柄であった。源平の合戦より、関が原、大坂の陣に至るまで、落人や敗残の武将が逃れ来て、隠れ里として子孫を残している。
 源平合戦で敗れた兵士の一部は、屋島や壇ノ浦から、土佐の国安芸郡、香美郡の山奥や海辺に逃れ、その末裔は長宗我部の家臣になったと伝えられる。


◆楠正盛、1431年、安芸郡玉作に入り、楠瀬名乗る
 楠正儀の子孫も、孫の元信が安芸氏に養子に入り安芸氏を継ぎ、元信の兄、正盛は、足利幕府の追討を逃れんがため、永享31431その安芸氏(弟)を頼り土佐の国安芸郡玉作に入り、土佐楠氏(楠瀬)の始祖となっている
 そして、別紙「長宗我部元親・楠氏関係地図」記載の通り、土佐の国に入った楠正儀の末裔たちは、安芸郡玉作を皮切りに、その後、代を重ねるごとに、香美郡、長岡郡、土佐郡、吾川郡、高岡郡、幡多郡と拡がり、土佐全域に散らばり移り住むこととなった。
 一方、長宗我部元親は、天正31575、渡川の合戦を経て、土佐一国を支配下に置く。
 元親が、土佐を統一する過程で、楠氏末裔との様々なかかわりがあったであろうことは、敵、味方を問わず、容易に想像できるところである。
 特に、元親の全盛時代(15601585)、正盛の孫、正宣は玉作から元親の居城、岡豊城により近い香美郡香我美に移り住んでいることから、元親との間に良好な関係を築いていたことが容易に想像できる。
 とすれば、元親と楠瀬氏の娘との間にできた6男、文親の母は、正宣の娘か、孫辺りではないかと思われるが…。

◆吉野、西蓮寺に残る住職系譜
 元親が、楠正儀の末裔、楠瀬氏の娘との間にもうけた子どもが文親であるとの資料等の確認はとれなかった。しかし、一部、側め?との間に6男をもうけたとの記述は残っている。
 また、吉野、西蓮寺発行の冊子「吉野路に輝く法灯西蓮寺」は、長宗我部氏系譜を掲載し、元親の子、文親が文誉鉄牛を名乗り、西蓮寺を開山したこと、また、隠棲後は豊田儀右衛門を名乗り、その末裔が今日に至るとある。
 如意輪寺に伝わる伝承、西蓮寺の記録等から見て、文親=鉄牛上人の存在は間違いのないところであろう。そして、先に記した通り、文親の母が楠氏の娘との伝承を裏付ける背景は十分にあることが分かった。

<参考文献> 「長宗我部元親」(人物叢書・吉川弘文館)
       「長宗我部元親」(新紀元社)
       「長宗我部元親」(歴史群像・学研)
       「楠瀬八生氏資料」


  
<資料> 別紙 長宗我部元親・楠気氏関係地図はコチラ(PDF)

●産経新聞 戦後71年「楠木正成考 公を忘れた日本人」第10部
 ・「私」で生きる武将たち
   恩賞で離反 赤松円心の計算
   婆娑羅大名 道誉の名門意識
   高師直の傲り 幕府に内紛
   尊氏兄弟何故対立したか
   巧みに生きた畠山国清の末路


●産経新聞 楠木正成考 「楠公さん」を日本遺産に 元旦紙面
 ・楠公さんゆかりの史跡
   慕われ続ける河内のヒーロー
   321日、東京・明治神宮会館でシンポ開催


●2017年の活動予定と3周年企画について
・活動予定
  2月 高山右近「日本訣別の書」と正行
  3月 弁の内侍と正行
  4月 赤松円心と正行
  5月 現地学習 「国史跡・桜井の駅」
  6月 久子の方と正行
  7月 恩智左近と正行
  8月 北畠顕家と正行
  9月 現地学習 「渡辺橋・小楠公義戦の跡碑」
  10月 発足3周年記念イベント・懇親会
  11月 現地学習 「宝筐院&天竜寺」
  12月 楠氏八臣と正行

3周年記念行事(案)について
  10月開催で、企画を進める


 
その他
連絡事等



◆次回例会について
 日時 2月14日(火)、午後1時30分~
 場所 教育文化センター1階 会議室
 内容 高山右近「日本訣別の書」と正行
    四條畷市主催第5回楠正行シンポジウムについて

 楠正行通信40号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)

◆飛び入り大歓迎!
 四條畷楠正行の会は、活動3年目に入りました。今年の活動予定(例会内容)は、上記記載の通りです。
 史料の少ない正行を浮き彫りにするため、正行周辺の歴史上の関わりある人物について学ぶことから、正行像及び当時の状況を学んでいます。
 毎回、扇谷のリポートを柱に、楽しく談笑しながらのフリートークが中心です。また、年に数回の現地学習も行っています。
 四條畷の歴史、とりわけ楠正行にご関心のある方、気軽に覗いてみてください。
 例会は、毎月第2火曜日の午後130分です。飛び入り大歓迎です。会費は、例会ごとに100円(資料費等)です。


 


四條畷楠正行の会 2016年12月忘年会

日時 平成2812月13日(火)
場所 和食「さと」
対象 会員(11人参加)
イベント内容 ◆2年間の例会で重ねて来た正行研究の軌跡
 私たちの会は、平成2611月に発足しましたので、今年10月満2年を迎えました。
 この間、毎月の例会で、史料の少ない楠正行という人間像を浮き彫りにすることを目的に、楠木氏一族周辺の人物像及び楠木氏との関係を分析することとし、以下の通り学んできました。
 平成2611月 後醍醐天皇と正行
 平成
2612月 後村上天皇と正行
 平成
2701月 北畠親房と正行
 平成
2702月 四条隆資と正行
 平成
2703月 護良親王と正行
 平成
2704月 観心寺龍覚坊と正行
 平成
2705月 朱舜水の正行賛文を読み解く
 平成
2706月 湊川神社現地学習(正式参拝と学芸員講話)
 平成
2707月 朱舜水の正行像賛解釈
 平成
2708月 お休み・通信のみ発行
 平成
2709月 黙庵禅師と正行
 平成
2710月 足利尊氏と正行
 平成
2711月 細川顕氏と正行
 平成
2712月 後醍醐天皇の目指した延喜天暦の治について学ぶ
 平成
2801月 金剛寺・摩尼院現地学習(元学芸員解説)
 平成
2802月 楠正儀と正行
 平成
2803月 高師直・師泰と正行
 平成
2804月 正行の受けた教育について学ぶ
 平成
2805月 四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く(1)
 平成2806月 新田義貞と正行
 平成
2807月 九州、菊池一族と正行
 平成
2808月 奥州、白河結城氏と正行
 平成
2809月 山陰、名和長年と正行
 平成
2810月 四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く(2)
 平成
2811月 如意輪寺現地学習(住職の講話)

楠正行の会発足後、初めての懇親会
 今月の例会は、2年の節目を終えて、一休みをして、新しい年を迎えましょうと、会発足以来初めての懇親会をしました。
 一休みと云いながら、でも、話題は尽きることがありません。
 主な話題を拾ってみましょう。

① 産経新聞の特集 第9部 嫡子正行

 1122日 久子の方 楠妣庵観音寺
 1123日 藤井寺の合戦 誉田八幡宮
 1124日 住吉天王寺の合戦 渡辺橋の美談
 1125日 正行辞世の歌 如意輪寺
 1126日 四條畷の合戦 四條畷神社~四條畷の誇り
- 産経新聞の3月から始まったこの特集は、楠公ブーム創出に一石を投じてくれました。年明けには東京でも特集が集約された形で紙面化され、3月ごろには東京でシンポジウムを開くとの情報があります。
 1126日の産経新聞朝刊1面に、大見出しで、『四條畷の誇り』との文字が掲載されましたが、1面に四條畷が載るのはまれなことで、大いに宣伝になったのではないでしょうか。

② 楠公父子を日本遺産に登録!
 1案 元祖、サムライ親子物語
 2案 サムライと僧侶が作った中世世界
 3案 楠木親子の軌跡をめぐる物語
 構成自治体
 神戸市(湊川神社)、島本町(国史跡桜井の駅跡)、四條畷市(四條畷神社)、富田林市(楠妣庵観音寺)、千早赤阪村(国史跡千早城址)、河内長野市(観心寺) 河内長野市主導で、6自治体による楠公父子の日本遺産登録が進んでいます。懇親会でも、実現を期待する声が全員から出されました。
 文化庁との協議では、ストーリー性が重視され、「目に見える観光資源」との報道があります。
 四條畷市は、「観光可視化戦略」に基づく観光行政を展開しています。同戦略に基づいて、平成25年に始まった「楠正行シンポジウム」は来年3月第5回目を迎えますが、東京や名古屋を含め、広く市内外からの参加を得ています。また、数年前から、郷土教育の充実を図る観点から、小学校3年生用の副読本が作られ、四條畷の合戦や、この戦いで活躍した郷土の誇り、楠正行を子どもたちは学んでいます。
 これらは、すべて「目に見える資源」といえるのではないでしょうか。
 もっと言えば、目には見えませんが、私たちの市名「四條畷市」は、楠正行を祀る四條畷神社が創建されたことを契機に、元々甲可村であった村名を四條畷村に変えたという由来があります。目には見えませんが、私たちの日常生活にどっぷりと生きている楠正行の象徴が、私たちの市名であるともいえます。
 いずれにしましても、楠木父子の日本遺産登録に向け、四條畷市関係者の踏ん張りに大いに期待します。
 さて、疑問が一つ。
 ~ 楠公父子と強いかかわりのある吉野町(如意輪寺に残る正行辞世の歌を刻んだ板塀、吉水神社等)、笠置町(元弘の戦い、笠置山笠置寺、後醍醐天皇と正成出会いの地であり、正成の名が世に出た初めてといえる場所でもある)は、何故入っていないのか?

③ 高山右近、日本訣別の害
 石川県、本行寺に残る書に、正行、辞世の歌の引用
 ~ 正行没後約250年、名だたる大名に知られていた事績という事の証左
 高山右近は、国外追放の命を受け、日本を去るにあたって、楠正行が、吉野に詣で四條畷に向かった時の心情を重ねて記したものと思われます。
 江戸の初め、正行のこの事績は、大名クラスにも知られていたのです。楠公父子の事績は、室町、江戸と脈々と生きていたことが伺えます。


④ 弁の内侍、尼となって龍門、今の西蓮寺のある場所に入る
 正行亡き後、弁の内侍は吉野山から北方にあたる龍門の里、「聖尼庵」で菩提を弔いました。
 江戸初期、長宗我部元親の6男、文親、改め鉄牛上人がこの地に入り、西蓮寺を開祖しています。
 そして、西蓮寺は、弁の内侍ゆかりの寺として、この周辺の多くの末寺を持つ浄土宗の本山となっています。
 扇谷にとって、末寺の一つがある志賀は母の里であり、末寺のあった津風呂(今は津風呂湖の湖底に沈む)は生地という縁があります。


⑤ 正行アニメーション、正行ゲームの制作を企画
 大阪電気通信大学とコラボし、アニメやゲーム、絵本の制作等を検討しています。
 「楠正行」(まさつら)と読めない若い人が増える中で、若い世代への正行顕彰を図るツール開発が目的です。
 一人でも多くの学生さんに協力を呼び掛け、実現に向けて取り組みます。

⑥ 和束町?に残る「駒返しの岩」
 元弘の変で、笠置山に籠城した後醍醐天皇の最期、笠置落城の急を聞きつけ、千早赤阪から急ぎ楠木正成は笠置に向かってきましたが、この地まで来て笠置山の炎上を見て駒を返した、と伝わる岩が残っているとのことです。
 国道163号と木津川が並走して走る場所、その河原敷きの竹やぶの中に残るこの岩(花崗岩)には、約1メートルの石仏が彫りこまれているようです。
 参加者全員がその存在を知りませんでした。このことは、扇谷が、ある日、タクシー乗車中、同乗者と楠談義をしていたところ、降車時に、タクシーの運転手さんから、「今日は大変貴重な話を聞かせていただきました。私は笠置町の出身ですが、加茂にある駒返しの岩のことはご存知ですか?」と教えられたのがきっかけでした。
 運転手さん、貴重な情報をありがとうございました。

 この日、その他、「正行談議」で大いに盛り上がりました。

 
 

 
その他
連絡事等



◆1月例会は、1月10日、長宗我部元親と正行
 なお、平成29年、新年1月の例会は、第2火曜日の10日、午後130分から、教育文化センターで開催します。
 長宗我部元親と楠正儀の末裔と云われる楠瀬氏の娘との間にできたといわれる6男、文親のことがあり、1月は「長宗我部元親と正行」をテーマに討論予定です。
 2月は、懇親会でも話題になった高山右近を取り上げる予定です。
 正行にご関心のある方、郷土の歴史にご関心のある方、大歓迎です。
 気軽に覗いてください。会費は、例会参加費100円です。

 
 
 
 楠正行通信37号・38号・39号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



「教文 クリスマス会」

日時 平成28年12月9日(金) 午前10時より
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 教文の大きなツリーに飾りつけをして、楽しい人形劇を見ました。そして、みんなで声を合わせてサンタさんを呼びました。するとサンタさんが二人来て、みんなにお菓子をプレゼントしてくれました。



四條畷楠正行の会 第24回例会(現地学習会)

日時 平成28118日(火)
場所 吉野町吉野山 如意輪寺 現地学習会
対象 会員(8人参加) 特別参加1人 計9人
イベント内容 ◆近鉄阿倍野橋から近鉄特急で向かった如意輪寺
 突然の体調不良やご家族の急病、更には業務の都合等で、残念ながら参加できない会員が4人出て、JR四条畷駅に集合したのは会員7人と特別参加の奥田さん(教育文化センター指定管理者・阪奈エンタープライズ株式会社社長)の8人。
 JR四条畷駅から、京橋経由で、天王寺、そして近鉄阿倍野橋駅に到着。
 阿倍野橋から吉野までは、近鉄特急に乗車
 列車内で、扇谷が準備した例会資料を基に、短時間の例会を開催して、あとは和やかな談笑の中で、一路、吉野に向かいました。
 吉野駅に着いた一行は、小雨の中、如意輪寺を目指して「ささやきの小道」を歩き始めましたが、途中、一匹の犬が私たちを出迎えるように現れ、その後、如意輪寺に到着するまで、前に行ったり、後ろに行ったり、休憩場所では一緒に休むなど、まるで如意輪寺から道先案内に来てくれたのではないかと見まがうばかり。
 約45分かかって、如意輪寺に到着しました。会員には70代後半の人もおり、いささか厳しかったようで、特に、最後の石段は相当こたえた様子でした。

 
如意輪堂(本堂)で加島ご住職の講話を聴く
 如意輪寺に到着すると、ご住職夫妻、そして御子息の副住職が出迎えてくださり、早速、本堂にご案内いただき、ご住職の講話を聴かせていただきました。
 また、東京から参加の広木さんも、ほぼ同じ時刻に到着、再会を喜び合いながら合流しました。
 ご住職は、如意輪寺の沿革、そして長宗我部元親と楠木正儀の末裔にあた
る楠瀬家の娘との間に生まれた六男、文親が鉄牛上人として吉野に入り中興の租として再建に取り組んだこと。また、如意輪寺再建の折に、如意輪堂から板塀が外され、今その板塀は宝物殿に展示していること。などなど、ご説明をお聞きしていると、お目当ての「ピザが焼きあがりましたよ」と、奥様からお声がかかり、寺務所の中で昼食をいただきました。
 ピザは、後醍醐天皇が好んで食したといわれているチーズをふんだんに使ったものと、トマトやピーマンなど野菜を主にした小僧ピザの二種類。
 ご住職と副住職のお二人が焼いて下さったピザをほおばりながら、奥様が入れてくださったコーヒーやお茶などをいただきました。

特別公開中の御霊殿、そして宝物殿の辞世の扉に感激
 楽しい食事タイムの後は、境内、そして宝物殿の見学へと移りました。 この日、ラッキーなことに、後醍醐天皇御霊殿の年一回の特別公開と重なり、後醍醐天皇自作と云われる木像を拝見し、宝物殿に向かいました。
 宝物殿では、会員一人一人が、それぞれ関心を持つ展示物の前に立ち、じっくりと鑑賞することができました。
 しかし、何と言っても、正平2年12月27日、四條畷の戦いを前に訪れた如意輪堂の板塀に鏃で刻んだといわれる辞世の歌、「かゑらじとかねて思えハ梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」を刻んだ板塀に、多くの人がくぎ付けとなりました。
 そして、宝物殿での鑑賞を楽しんだ後、裏山の塔尾山の石段約60段を上がり、後醍醐天皇陵に参りました。
 ここでは、会員の真木さんに藤井竹外の芳野懐古を吟じていただきました。突然のリクエストにもかかわらず気持ちよく受けていただき、静寂の中で、後醍醐天皇陵を前にした放吟に、会員一同聞き入りながら、南朝への思いを一層熱くしたことと思います。

小楠公髻塚の碑の拓本を広く販売して欲しい、とお願い

 今回の現地学習は、如意輪寺に残る史跡の中でも、特に、「正行公の髻塚」「小楠公髻塚の碑」「弁の内侍詩情塚」「芭蕉の句碑」「尾山篤次郎歌碑」などの句碑・歌碑等にこだわっての学習でした。
 小楠公髻塚の碑は、森田雪斎の撰文ですが、正行公を讃えた内容が刻まれています。しかし、現在は石の風化と時間の流れとともに、表面の文字がほとん
ど読み取れなくなっています。
 そこで、扇谷から、ご住職に対し、「ぜひ、拓本を取っていただき、その拓本を展示いただくとともに、印刷して販売し、広く求める人に伝わるようにしていただけないか」と、お願いしました。


広木さん、東京支部長として我々の仲間に
 アッという間に、予定の滞在時間が終わってしまいました。
 広木さんは、この日、吉野山に宿泊の予定という事で、如意輪寺でお別れしましたが、四條畷楠正行の会の会員として入会いただき、この日、東京支部長になっていただきました。
 私たちの会としては、一人でも多くの人に楠正行の生涯や生き様を伝えていきたいとの強い思いを持っており、遠く、東京にも仲間ができ、会員全員で喜び合いました。
 帰途は、滞在時間を少しでも長くしたいという思いからタクシーを呼んでいただき、吉野駅に向かいました。
 ご住職夫妻と副住職にお見送りをいただきながら、お土産にと頂いた正行辞世の歌を描いたハンカチ、そしてお菓子を手に、タクシーに乗り込みました。

 
その他
連絡事等


 次回、12月の例会は、座学を休み、13日(火)、会発足以来初めてとなる懇親会(忘年会)とします。
 楠正行にご関心のある方は、来年1月10日(火)午後1時30分、教育文化センターにお越しください。大歓迎です。
 
 
 楠正行通信36号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)


「教文親子体操で秋の遠足に出掛けました。」

日時 平成28年10月27日(木) 午前10時~12時
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 「教育文化センター親子体操」で修景施設さとやまへ遠足に行きました。
さとやまは、教育文化センターより約800mの上りに位置しており、皆さん頑張って辿り着き、お弁当を食べました。

修景地さとやま 修景地さとやま
修景地さとやま みんなでお弁当を食べてます。

「教文親子体操でお芋掘りをしました。」

日時 平成28年10月13日(木) 午前10時~11時30分
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 教文のさつま芋畑で、「はじめての芋掘り」を体験しました。
大きなお芋は出てきましたか?

芋掘りの様子 芋掘りの様子


四條畷楠正行の会 第23回例会(現地学習)

日時 平成28年10月11日(火) 午前9時20分~午後4時30分
場所 現地学習(四条畷駅…近鉄バス…瓢箪山駅~六万寺往生院(正行墓・本陣跡他)~水走氏館跡~枚岡神社・首洗いの井戸~枚岡駅…瓢箪山駅…近鉄バス…四条畷駅~反省会・解散
対象 会員 10人出席
特別参加 6
 広木双葉(東京都在住)
 山下弘枝(湊川神社・楠木同族会)
 久野 潤(名城大学非常勤講師)
 藤原摂鵬(吟道摂楠流宗家補佐)
 西尾佳岐(四條畷市市民生活部長)
 奥田 優(指定管理者・阪奈エンタープライズ株式会社・代表取締役社長)

イベント内容 ◆現地学習「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く第二弾」
●JR四条畷駅に全員集合
 今月の例会は、現地学習「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く第二弾」を実施しました。JR学研都市線「四条畷」駅、午前9時20分集合でしたが、今回はハプニングが起こりました。明石から参加の藤原さんは、JRの遅延で、バス発車に間に合うかどうか大変心配しましたが、何とか間に合い安堵。しかし、八幡から参加の山下さんと久野さんは、バス発車に間に合わないという事で、急きょ予定を変更して近鉄・瓢箪山駅で合流することに。また、西尾部長は、急に公務が入り、午前中は参加できないこととなり、急きょ午後からの合流となりました。
 最も遠い、東京から参加の広木さんは、午前600分発の新幹線で来阪され、集合時間前に到着、奥田社長も交え、近鉄バスに乗車しての出発となりました。

近鉄瓢箪山駅から徒歩で出発
 一同は、瓢箪山駅から往生院に向かいますが、この行程はのぼりばかりで、四條畷の合戦で正行が本陣を構えた河内往生院に辿りつくまでに一苦労といったところでした。


 ↑川口住職の話に聞き入る

 今回の現地学習は、正平315日、四條畷の合戦の折、正行が本陣を構えた河内往生院から枚岡神社までの戦跡を訪ねて歩きます。
 往生院に到着した我々一行を、ご住職の川口哲秀氏と副住職の川口泰弘氏が出迎えてくださり、瓦葺の金堂が建てられた鎌倉時代前期の甍と軒周りの一部の実物大での復元物を前に、陳列されている出土した丸瓦、平瓦を前に、往時の金堂の壮大さを実感していただきたい、と説明をいただいた。
 そして、河内往生院は四天王寺のほぼ真東にあたっており、往生院から見る彼岸の太陽は四天王寺に向かって落ちていき、この地が極楽浄土の東門にあたる事から極楽往生を達するためにふさわしい場所ですと、往生院から写した四天王寺に夕陽の落ちる写真を示しながら、説明いただきました。
 次に、往生院の西約300メートルの地にある岩滝山遺跡から出土した舟形の石組を移築した場所に移り、この石組のあった園地の底から鎌倉時代の「菊花双鳥文」の銅鏡が出土したと、そのレプリカをお示しいただき説明いただいた。
 川口住職は、この岩滝山遺跡辺りに寺の関係者の住まいがあったものと思われるとし、そのことは、出土した銅鏡が当時寺院や有力武士、豪族しか持てない貴重品であったことから推察されるとお話されました。
 その後、民具館を見学させていただき、昼食休憩を取りました。