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高齢者・子どもたちの笑顔あふれる街 四條畷市立教育文化センターは

四條畷市立教育文化センター
お問い合わせはTEL.072-878-0020

〒575-0021 大阪府四條畷市南野5丁目2-16
 

過去のイベント紹介

        教文 親子体操教室で新ジャガ体験 !

日時 令和元年5月30日(木) 午前10時
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 今日は、汗ばむまでに晴れ渡り、体操の後みんなでじゃが芋掘りをしました。
たくさん出て来ましたか~⁈
きれいに洗って熱を加え、美味しく頂きました。
   


        教育文化センター市民教養講座
   郷土、四條畷ゆかりの人物シリーズ(第2回)をお届けします
       太平記を読み解き、楠氏徹底検証!

      ~ 正成、正行を伝える原典に触れる ~

日時 令和元年5月17日(金) 午後2時より3時半
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容  第1回市民教養講座では、楠正行を取り上げ、人間像に迫りました。
今回は楠氏に関する原典ともいえる「太平記」を読み解きながら、太平記が伝えようとした正成・正行の人物像に迫りたいと思います。
 初回は、「太平記とは?何か?」から丁寧な解説が加わり、質問等も含め、アッという間の1時間半でした。
この講座は月1回、5回行います。
講師は四條畷 楠正行の会代表の扇谷昭さん。
ご近所、お友達お誘い合わせの上ご参加下さい。

四條畷楠正行の会 第52回例会 

日時 ■第52回例会 現地学習
■令和元年514日(火)午前9時~午後5
場所 ■建水分神社正式参拝と扁額閲覧・千早赤阪散策
<例会の様子>
●下赤坂城址に至る道が通行止めで、思わぬ“散策”に
 今月の例会は、現地学習「建水分神社正式参拝と千早赤阪散策」で、集合地の総合センター・駐車場に三々五々集まり、都合11人で出発。
 午前9時ちょうどに出発し、順調に進み、午前1030分目的地の建水分神社に到着。 岡山禰宜の出迎えを受け、この日の一日がスタートした。
 「扇谷さん。この後どこに行かれるのですか?」と岡山禰宜に問われ、「楠公誕生地、郷土資料館を訪ねた後、下赤坂城址、寄せ手塚・身方塚に向かう予定です。」とお答えすると、「下赤坂城址への道路は通行止めになっていますので、消防署まで行かれて、横の公園に駐車して、徒歩で向かわれるとよいです。」とアドバイスを受けた。
 以前から、下赤坂城址には何度も訪ねているが、中学校の敷地の中を通っていくことに、いささか驚きと疑問・危険を感じていたので、今の時代、子どもたちの安全確保の観点から一般車両の構内通行を規制されたのであろうと、勝手に納得。

 お蔭で、消防署から下赤坂城址まで、約1キロメートルの路を散策することとなったが、千早の村並みや金剛山の麓を一望しながら千早赤阪の広がる棚田風景を楽しみ、歩くことができた。高齢者?の多い会ではあるが、90歳を超えた人も、ほぼ平らな村道を踏みしめながらの散策となり、落伍者も出ることなく目的地にたどり着き、下赤坂城址跡の碑の位置からは、ほぼ千早赤阪村360度の遠望を堪能し、それぞれ満足の様子。途中小雨にあったが、暑くもなく、たのしい現地学習となった。
*楠正行通信 第87号(514日発行)
・リポート『足利義満と楠正行』川口敦子
●*楠正行通信 第88号(514日発行)

・王権簒奪計画は本当にあったのか/肯定説と否定説、真っ向対立
・公武に君臨した室町将軍、足利義満~若くして昇進し、太政大臣に上り詰める・足利義満の公家化/贅を極めた拝賀・行幸を演出

現地学習・建水分神社正式参拝と扁額閲覧・千早赤阪散策
●建水分神社で正行直筆・扁額裏書に対面

 この日、午前850分、参加予定の会員が次々と集まり、国府号・山添号・土井号の3台の車に分乗して出発。
 目的地の建水分神社に到着した一行は、岡山博美禰宜の講話をお聞きした後、本殿で正式参拝。

 そして、普段非公開の本殿に上がり、岡山禰宜から説明を受ける。
 その後、社務所に入り、念願の木額扁額の裏書を一人一人拝見。
 岡山禰宜は、見やすいようにと社務所入口に扁額を移し、照明を当てて下さるという配慮に、一同大感激。680年前の木額という事で、摩耗が激しく、一部虫食いも進んでいる。しかし、漆文字で書かれた正行の直筆は、照明を当てることで、何とか判読可能で、その老成した達筆ぶりは想像通り。
 これが正行最古の文字かと思いつつ、あたかも楠正行本人に合ったかのごとき錯覚に陥る。
 何度見ても、身震いがする。

●楠公誕生地・村立郷土資料館見学
建水分神社を後にして楠公誕生地に移動。
千早赤阪村のほぼ中心に位置するこの地には、郷土資料館の外に、同村の教育委員会、大阪最古最小の「道の駅」等がある。
 楠氏ゆかりの展示や戦前使われた教科書に載る楠正成や正行を堪能。

●下赤坂城址・棚田と寄せ手塚・身方塚
 下赤坂城址は、過去何度も訪れているが、今までは千早赤阪中学校の敷地内を通って下赤坂城址に着いていた。

 この城は籠城するには、あまりにも平城に近い地勢にあることがすぐわかり、正成が笠置に赴き、とんぼ返りで帰ってきて準備不足で兵をあげたことも重なり、赤坂挙兵は1カ月もたずに投げ出すことになった。
 眼下に広がる棚田は、日本棚田100選にも選ばれ素晴らしい光景が広がる。
かつて、この地に正成そして正行も、立ったと思うと万感迫るものがある。
 一行は下赤坂城址を後に、森屋惣墓の寄せ手塚・身方塚に向かう

 日本のどこにもある地域の墓の、しかも多くの墓石と同じように立つ2基の墓は、特に説明がなければ分からない状態で立っている。
 敵も味方も死ねば同じという思いに加え、楠氏が民と共に生き、戦った証が、この在り様にも見て取れるのではないか。
ことさら区画を分けるとか、村人の墓と区別するというような思いは微塵も見せない。
 我々も、千早赤坂の戦いで亡くなった楠軍の兵士はもちろん、押し寄せ亡くなった幕府軍の兵士の墓にもお参りし、手を合わせた。
 今まで何度も訪れており、寄せ手塚が総高さ182センチの大型の石像五輪塔であることは分かっていたが、五輪塔の下に石組みの井戸のような穴が開いていることには気づかなかった。
数メートルはあろうかと思われる石組の穴の上に寄せ手塚が建っているが、
千早赤阪村発行「千早赤阪村の文化遺産」冊子の説明では、「用途は不明」とのことである。
五輪塔の下に、まるで井戸のような深い石組の穴、これはいったい何を意味するのだろうか。

(写真:上から、建水分神社休憩所で岡山博美禰宜の講話を受ける/普段非公開の本殿前で岡山博美禰宜の説明を聞く会員/木額扁額の裏書/森屋惣墓身方塚/森屋惣墓寄せ手塚・五輪塔の下には石組の大穴が数メートル掘り込まれている)


■消防署横公園の休憩所で例会
8回楠正行シンポジウムについて
日時 令和237日(土)、午後2時~4時
場所 四條畷市立総合センター・展示ホール
内容 
絵本作家(観光大使)谷口智則さんによるライブペインティング
   『楠正行』

 絵本作家・谷口智則さんが、四條畷の合戦で討死し、四條畷神社に祀られ、小楠公墓所に眠る武将、楠正行に思いをはせ、大きなキャンパスに正行ワールドを描く。
 来場者は、どのような場面が、どのように描かれるか、わくわく、ドキドキしながら時間を楽しむ。果たして、どのような正行が描かれるか、興味津々。
 ライブペインティングは90分を予定。
 完成した楠正行巨大キャンパスは市役所含む公共施設で掲示予定。
※四條畷市制施行50周年記念協力事業(申請済み)、「楠公さん」大河ドラマ誘 致協議会協賛事業として開催。
定員 120名(先着申込制:窓口&電話)/氏名・住所・〒・年齢・電話番号

 就学前及び小学校低学年児童は保護者同伴。
申込 120日受付開始
   四條畷市立公民館(市民総合センター内)
   〒575-0021 四條畷市中野3丁目525号 電話 072-879-3939
参加 無料
主催 四條畷楠正行の会
共催 なわて学実行委員会
後援 四條畷市・四條畷市教育委員会・四條畷神社・楠公ツーリズム推進協議会   ・産経新聞社
協力 御妣会・小楠公偲ぶ会
  (後援・協力団体は一部予定。追加もあり。)


●令和元年度大阪電気通信大学連携事業「ポスターセッション」について
*実施済み
58日 クライアント紹介(扇谷・国府・土井)
     市:安田・中村・鈴木

511日 学外学習
     /渡辺橋・小楠公墓所・四條畷神社・和田賢秀

    (扇谷・国府・土井・山添)
     市:青田/産業振興 銭谷/魅力創造
🔶学外学習リポート

5月11日(土)、午後1時、天満橋のキャッスルホテル前バス停に、電通大学生16名と木子先生、市職員2名、楠正行の会4名が集合。
小楠公義戦之跡碑の前では、扇谷の説明をくいるように聞き入る学生が印象的。
 説明が終わるとスマホやデジカメで、同碑を撮る学生の動きに意欲を感じる。
 八軒や浜の船乗り場に降り、正行時代の大川・渡辺橋に思いをはせる。
 四条畷駅に戻った一行は、改札口横にある正行銅像を鑑賞。
 この銅像は、正行が吉野を訪れ如意輪寺本堂の扉に辞世の歌を記した光景を描いたもので、左手には矢立を、右手には筆を持っている姿が描かれている。刀を持たず、筆を持つ姿に、正行の博愛精神・平和主義が読み取れるのではないかとの扇谷の説明に、多くの学生は納得の様子。
 小楠公墓所では、樹齢600年近くなった楠木の言われ、正四位下検非違使兼河内の守楠公碑の説明に続いて、「増従三位楠正行朝臣之墓」と大久保利通が揮毫した7㍍50㌢の巨石碑について説明。
 阪神淡路大震災や大阪北部地震でもびくともしなかった巨石碑の基礎に注がれた当時の人々の思いを説明。5メートル近く掘り込み、250本の松の杭を打ち込み、その上に松の生板を敷き詰め、砂礫や石灰で打ち固めた基礎のお陰で、この7㍍50㌢もの巨石碑がびくともしないのである。
 湊川神社境内の正成墓『嗚呼忠臣楠子之墓』に寄せられた人々の思い(使われた医師が、御影・白川・和泉と正成の活躍した場所から産出したものを使い、贔屓の上に乗る姿。しかも、土台の石には免震構造まで)にも触れながら、正成・正行が如何に後世、多くの人々から慕われたかを物語るエピソードとして紹介。
 四條畷神社では、櫻井訣別の父子像、久子の方訓戒の母子像、御妣神社創建の話等をした後、休憩所に移り、扇谷作詞「楠正行」を扇谷が熱唱?! このサプライズに、多くの学生は、何が始まったのか、と半信半疑で聞き入った。
 最期は、和田賢秀墓に移り、「歯神さん」の謂れや、和田賢秀の最期の場面を説明し、この日の学外学習は無事終了した。


※今後、当面の予定
 529日(水)16501820 第1回講義「正行概論」
 68日(土)930分四条畷駅集合 944分発に乗車
      湊川神社/正式参拝と学芸員講義・弁当持参
 612日(水)16501820
      第2回講義「スクリーン映像楠正行2本立て
(写真:上から 渡辺橋・小楠公義戦の跡碑前で/JR四条畷駅の小楠公像の前で/小楠公墓所で/四條畷神社で櫻井訣別父子像を説明する扇谷と聞き入る学生/和田賢秀墓で)

●親孝行の町/楠三兄弟物語 四條畷のお酒プロジェクト

歴史を繙き奈良吉野の蔵で造る四條畷のお酒
正が無い(しようがない)酒「行」「時」「儀」
※販売 ㈱ハジメフーズ はじめ酒店
    〒575-0003 四條畷市岡山東2-2-12 ℡ 072-879-1344 
 また、小193月、紙芝居刊行会発行の紙芝居「小楠公の母」は、20枚セット注文専用メール order@hajimefoods.com
リーフレット及び楠三兄弟物語の監修 扇谷協力
525日 四條畷神社奉納/扇谷参加予定

田原図書館主催「まさつらかるた大会」の開催
 日時 629日(土) 午後1時~3時 スタッフ1230集合
 場所 田原図書館

 定員 低学年・高学年それぞれ16名まで
 内容 低学年の部 1300予選 1330決選
    高学年の部 1400予選 1430決選
 協力 読み手派遣、かるた4セット、景品(絵札大判)


●産経新聞・オピニオン/日本人の心『楠木正成を読み解く』
取材協力 422日 安本記者/5月掲載予定
内容 「正成・正行の文化力」
ポイント ①辞世の文章~宗教・文化に深い造詣
     ②木額の裏書~老成した達筆ぶり・年齢論争
     ③老覚坊の出自

~頼朝政権の武者所別当を務めた坂東武者・和田義盛の末裔
 当時、一流の坂東武者と楠氏を繋ぐ太いパイプが、楠氏の政治力・文化力の背景になったのではないか

●東京奈良まほろば館講演会について/9月、扇谷講演
 全国南朝の歴史資産等所在市町村活性化協議会の事業として実施
 事務局:吉野町 四條畷市も参画
 ・開催場所 東京日本橋 奈良まほろば館
 ・開催日時 6月~94回連続講座 各回午後5時~6時の約1時間
 ・定員   70
 【講演日程・講師・演題】

 622日(土)田中岳良(吉野町)
       「宮方(南朝)は何故吉野を選ばれたのか」
 720日(土)西住欣一郎(菊池市)
       「九州南朝と菊池一族の忠勤
 831日(土)五條元滋(八女市)
       「九州南朝の息吹を今に伝える奥八女、そして五條家」
 922日(日)扇谷昭(四條畷市)

       「今、四條畷で蘇る楠正行ワールド」

●次回例会について
日時 611日(火)午後130分~3時
場所 教育文化センター2階ホール
内容 「和田義盛と楠正行」~大きな発見!
   ①正行文化力の背景に、鎌倉中央・坂東武者和田氏の影響
   ②承久の乱・藤原秀康(田原)と龍覚坊(赤坂)に和田氏繋がりの縁

傍聴、入会大歓迎!

郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか

例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。お待ちしております。
正行通信87・88号はコチラからも(PDF)

  


教文 「親子ひろば」

日時 令和元年5月2日(木) 午前11時15分より
場所 教育文化センター ホール・会議室1・会議室2 
イベント内容 絵本の読み聞かせの後では、体育遊びやボーリングゲーム、スナッグゴルフを楽しく行いました。

教文 親子体操教室で「鯉のぼり工作」

日時 平成31年4月25日(木) 午前10時より
場所 教育文化センター ホール・会議室 
イベント内容 みんなで鯉のぼりを作って広場で泳がせました。

教文「子ども ひろば」

日時 平成31年4月22日(月) 午前10時30分より
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 4月23日(火)は「子ども読書の日」です。読書週間に因み、絵本の読み聞かせとエプロンシアター、手作りおもちゃ遊びを行いました。

四條畷楠正行の会 第51回例会 

日時 平成31年4月9日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター2階 ホール
<例会の様子>
●会員からもリポート、川口さんから報告

 今月の例会は、『楠正行と足利義満』がテーマでしたが、扇谷以外に、川口さんからもリポートしていただきました。
 A4用紙四枚にびっしりと、「義満の時代を検証することが正行の夢を考える事に繋がるのではないか」との問題意識から、足利義満の業績を分析、その上で「義満と正行の直接的な接点は見つけられなかったものの、義満の時には、日本の将来を考えた上でも(正儀が)変節を犯したことも、勝ち目のない戦争は一刻も早く終わらせた方がよいという、正行の平和主義につながっている」のではないかとリポートしていただきました。
 また、義満と正行の共通点をあえて挙げるならと、「情報の収集」「分析の重要性」を熟知していること、そして現実的であること、合理性を追求していること、ではないかと結んでいます。義満の政治を理解するうえで重要な情報と云える、「守護大名と国人一揆」や『室町幕府の構造』等のデータも準備してくれました。
 久しぶりの会員のリポートに、出席会員から、大きな拍手が送られました。川口さん、ありがとうございました。


●桜井の別れカレンダーと紙芝居「小楠公の母」の掲示に、首ったけの会員
 今月は、それぞれ寄贈いただいた、「櫻井訣別をデザイン化した三光丸の2018年度カレンダー」と昭和19年作の紙芝居「小楠公の母」を黒板に掲示しました。
 奈良県高取町の㈱三光丸の「三光丸」は、後醍醐天皇が身体の具合を損ねたときに大和武士・越智氏が献じた秘伝薬によって瞬く間に快癒した時、後醍醐天皇は、その霊験に驚き、「日(太陽)の神、月の神、星(金星)の神が与えたもうた薬」と讃え、以後「三光丸」と名乗るようにと詔されたと伝わる薬です。

 また、小193月、紙芝居刊行会発行の紙芝居「小楠公の母」は、20枚セットで、大きく2場面、桜井の駅と母久子の方の訓戒と、吉野詣でと四條畷の合戦で、正行11歳から一挙に23歳になった物語展開です。この紙芝居は、産業振興課の鈴木課長が入手されたもので、私たちの会に寄贈を受けました。行政と市民協働のまちづくりとは、こういう心遣いがあっての事ではないか、と教室は非常に和やかな雰囲気に包まれました。
㈱三光丸のカレンダーは、近々、教育文化センターの「楠正行資料室」に展示予定です。
CD「大楠公」のプレゼントも!

 なわて音楽サロンを主宰される西口さんから、松原インターネット放送局の「アナログ横丁」で、今年223日に放送された「なわて音楽サロンでの10曲」の入ったCDを頂きました。このCDには、西口さんのご自宅に保存されてきたレコード「大楠公」が入っています。
 穴倉正信と西六郷少年少女合唱団が唄う「大楠公」で、子どもたちのさわやかな声で、歌い上げています。大楠公の曲は、どちらかというと軍歌調のアップテンポの曲が多い中で、このレコードは、ゆったりと聞くことができました。

 西口さんは、この日、例会のほぼ最後まで出席くださいました。ありがとうございました。そして、松原インターネット放送局のパーソナリティ「もっかのおっちゃん」さん、CDにして頂きありがとうございました。

    写真① 
    写真②  


*楠正行通信第86号(49日発行)

1011月 四條畷神社・湊川神社で「くすのきまさつらポスター・セッション 」を企画
・大阪電気通信大学と四條畷楠正行の会のコラボ第3弾
A1ポスター20枚に、正行を描
・第7回楠正行シンポの採録集刊行 A432ページ・モノクロ 頒価200円
・楠公まつり武者行列事前説明会で「正行の生涯」紙芝居上演


●楠正行と足利義満


足利義満(延文31358 ~ 応永151408 51歳没)
  ~ 公武の境界を超えて権力を掌握
    義満は廟堂の階段を駆け上がり、摂関や治天の君の如く振る舞うように    なった

    この時代の政治は文化の支えを必要とした
    義満の感性は、公家的教養が土台となっている
(人物叢書『足利義満』より)

新井白石が義満の功績と掲げる5か条

① 南北朝を統一して後代ながくその武威を誇ったこと

② 極官に昇り太上天皇の尊号を受けたこと
③ 武権を確立したこと
④ 武家が対外的に日本国王と認められるようになったこと

⑤ 義満時代の幕府の礼式・職制がながく武家政権の先例となったこと

(中公新書『足利義満』より)

 
義満の経歴(PDFで開きます)

多彩極まる事跡
・官位の昇進のたびに公武を挙げて拝賀や大饗、牛車始などの大掛かりな昇進儀 礼を行う
・壮麗広大な邸宅を建造し、そこに二度の行幸を迎える
・巨大な禅宗寺院を造営し、顕(天台)・密(真言)をも統合させ、自身のため の宗教空間化
・権勢の象徴として360尺(109㍍)にも達する七重の高層タワーを屹立
・伊勢・南都・山門・高野山など主要寺社に何度も参詣。随員は奇抜なファッシ ョン
・九州から東海まで、全国各地に遊覧。
・外国の使者を迎接

右近衛大将となる
*源頼朝の拝賀の隊列
 猪飼4人、御厩舎人4人、将曹・将監・府生・庁長官各一人で4人、前駈笠持・ 前駈各10人、番長、頼朝の車(車副2人、白張、牛童)、近衛舎人5人、雑色7 人、雨皮笠持10人、布衣侍7人、扈従の公卿・殿上人計3人、御調度懸1人、隋 兵7人 計70余人
-このそれぞれが複数の従者を随え、内裏・仙洞・摂関家へと威儀を正して進む
*義満の拝賀
・周到な練習
室町第の造営
・拝賀の日
 隊列=前駈笠持10人、居飼4人、御厩舎人4人、一員3人、殿上前駈37人、地下 前駈10人、番頭8人、帯刀24人、番長1人、義満の車(車副2人、牛童、雨皮持 、仮御随身、笠持各1人)、下臈御随身5人、雑色10人、御後官人3人、衛府侍 10人、扈従公卿21人、布衣馬打13人 計169


-侍所の山名義幸が率いる100余騎が先導。頼朝の例によるも、数倍する規模
公卿・殿上人がこぞって従ったことは頼朝の拝賀には見られない

室町第行幸
・後円融天皇の行幸
・義満が右大将として先導する行粧
 移馬の居飼、御厩舎人、番頭10人、太刀帯の侍20 人が前行
 義満は5尺に余る雲雀(ひばり)毛の馬に跨り、
 随身・副舎人が馬の口を取り、馬副・仮随身・侍 ら数十人が従う堂々たるもの

・経路
 
土御門内裏から室町第へ直行するのではなく、東 の洞院を南行、中御門を西行、室町を北行、一条 を東行、今出川を北行、北小路を西行、再び室町 を北行。

 申の刻(午後4時ごろ)から深夜に及んだ
311日から316日まで続いた酒宴
 舞御覧・和歌・蹴鞠・三船等の遊び

皇位簒奪説をめぐって

・中世社会において、武家はもとより臣下が天皇を自称する可能性は皆無で ある。
・持明院統-北朝がいかに衰頽していたとはいえ、それは現在の皇統の衰頽 であって、いわゆる男系による万世一系というドグマはほとんど関係ない 。

・「皇位簒奪計画」の影響はなおあちこちに見受けられるが、いずれも新た な史料や知見に基づくとは言い難い。
別紙資料『足利義満の王権簒奪計画は本当にあったのか。』(下記掲載)
足利義満の王権簒奪計画は、本当にあったのか。
今谷明は、義満の王権簒奪計画を断定的に説き、小川剛生は、義満は天皇制を損ずるようなことは一切していない、と説く。

*今谷明著「室町の王権」より
                義満    子・義持 ~将軍に
                弟・義嗣 ~天皇に

義満の真意 170
- 義満の簒奪計画の最終局面は未遂に終わったので、具体的様相については推測の域を出ない。簒奪の意図そのものを疑問視する学者もあるが、”叙任権闘争”以来数々の義満の、いわゆる「僭上㊟1」行為、ことに百王説の流布㊟2などはこれを簒奪意図と結び付けずしては、到底、理解不可能な事象である。
 あえて、ここで大胆な臆説を披露すれば、義持の将軍職は、そのまま温存して幕府機構を総括せしめ、弟(㊟ 次男)の義嗣を天皇に据えて足利氏で将軍と天皇を独占し、その政権を盤石の安泰に置くというのが義満の構想だったと思われる。義嗣の行為は、後小松に強要して禅譲に誘導するか、あるいは気長に後小松の病死を待つか、ともかく後小松から皇位を義嗣に移すというのが義満の目論見であったことはほぼ間違いあるまい。

㊟1  僭上
       ~身分を超えた、差し出がましい出すぎた行為。
㊟2  百王説の流布
       ~義満はまさに「百王の流れつき」た段階に、自らの政治的立場を置いていたわけで、「百王の墜緒を尋ね」とは、百王の後を襲うのは自分以外にありえないこと(たまたま義満は戌年生まれでもある)という確乎とした信念のもとに、(王権の)簒奪を強く示唆した言葉であったと思われる


*小川剛生著「足利義満」より
皇位簒奪説をめぐって 207

 義満が明らかに「治天の君」(この場合は鳳凰)を意識して行動し、かつ周囲も法王に準じて待遇したことは、史家が種々の微証を挙げている。そこで義満が皇位を奪わんとする野望を抱いたとする論がある。そのもっとも代表的かつ淵源にあるものが田中義成の説で、義満は「皇位窺覦(きゆ)㊟3」、すなわち後小松天皇を退位させて鍾愛するわが子義嗣を即位させる腹積もりであったとし、「彼が最終の目的は愛子義嗣を天子と為し、己自らは太上天皇たらんとするにありし事疑うべからず」と述べた。(『足利時代史』)。臼井信義『足利義満』もこの説に少しく好意的に触れており、更に近年、今谷明氏『室町の王権』が、義満に「皇位簒奪計画」があったと断言して話題を呼んだ。
 「窺覦」「簒奪」といった刺激的な言葉は、客観的な考察を妨げるが、義満に数々の「僭上」の振る舞いがあり、あるいは現実に太上天皇の尊号宣下があったとしても、そうした野望を云々することの謬(あやま)りはすでに明らかにされている。
 天皇は子であっても君主、上皇は父であっても臣下である。太上天皇の尊号とは天皇が臣下に贈る身位であり、義満がたとえ如何なる破格の待遇を受けようと、それは後小松天皇との関係に基づく。義満は後円融とは対立したが、天皇を頂点とする体制を損ずることは一切していない。

 従って、「義満の上皇待遇」と「義嗣の即位」とは全く次元の違う事柄で、この学説への批判は、櫻井栄治氏の「そもそも皇統は天皇(の血)から発生するものであって上皇(の号)から発生するものではない。この最も基本的な理解を忘れた点に「義満の皇位簒奪計画」説の誤りがあったといえよう」(『室町人の精神』〕という言に尽きている。
中世社会において、武家はもとより臣下が天皇を自称する可能性は皆無である。
 ㊟3 窺覦

       ~身分不相応なことを伺い臨むこと

*臼井信義『足利義満』(人物叢書)より
義満の家族 257pより
- 義満は義嗣をどうしようとしたものであろうか。
果たして義持に代わって足利将軍としようとしたのか、またはこれを公家として取り立てんとしたものか、あるいはまた一部の説のように義満に果たして皇室を傾けんとする考えがあったか否か、それらはすべて推測の域を出ない。

- 新井白石は「読史余論」の中でその功績と称せられる五箇条を掲げる。
南北朝を統一して後代ながくその武威を称せられ、極官に昇り太上天皇の尊号を受け、これが武家の光栄と称せられた。すなわちここに武権を確立したこと。またこの時から武家が対外的に日本国王と認められたこと。及び義満時代の幕府の礼式・職制がながく武家政権の先例と仰がれたこと。これらの事こそ義満の歴史上の位置を物語るものであって、国体上・道徳上の批判をはなれて認識すべき事柄である。

令和元年度大阪電気通信大学連携事業について


企画=武将・楠正行を後世に伝えるポスターセッションと紙芝居上演
 令和元年度、木子香教室では、過去2年間に制作した「絵本」「カルタ」をベースに、「楠公父子物語」NHK大河ドラマ誘致協賛事業として、くすのきまさつらポスターを制作し、正行ゆかりの四條畷神社・正成ゆかりの湊川神社でポスターセッションを行う。
ポスターの大きさはA1サイズで、20枚制作の計画。
制作したポスターは、市の事業や関連事業等で掲示するなど、積極的に活用を図る。同時に、四條畷楠正行の会が制作した絵札22枚を使った映像スクリーン紙芝居「正行の生涯」を、学生の手によって市の内外で上演する。

令和元年度社会プロジェクト実習授業・スケジュール表


日程 内 容 備 考
4   テーマごとに班分け

過去2年の制作物紹介
410 全体ガイダンス

417 テーマごとに班分け
5 8日(水)

11日(土)

29日(水)
クライアント紹介

学外学習(渡辺橋、四條畷神社他)

楠正行の会による講義
かるた大会

 

歴史年表を使った正行概論
6 8or15日(土)

12
学外学習(湊川神社)

楠正行の会による講義

演習
正成ゆかりの地

正行の生涯スクリーン映像・詩吟

ポスター企画案
7  

24日(水)
演習

対外(正行の会)プレゼン
企画案発表・ポスター制作

PPTによるプレゼン
9   制作 確認・制作
10  

未定
作品完成品提出

湊川神社
102 発表予稿

1回ポスターセッション
11 10日(日) 四條畷神社 2回ポスターセッション
1   全体まとめ

全体報告発表
最終報告書提出

115 木子班学生一人発表

制作〕 大阪電気通信大学 社会プロジェクト実習 木子香教室
〔依頼〕 四條畷楠正行の会(指導・監修)
〔後援〕 四條畷市・四條畷市教育委員会


□ 第7回楠正行シンポジウム「採録集」発行
 A432ページ・モノクロ
 頒価200円/取扱い・申し込みは、教育文化センター

□ 正行3兄弟のお酒造り
 
親孝行の町 四條畷のお酒/協力要請あり
 
発売元 ㈱ハジメフーズ はじめ酒店/大東市北楠の里町
 
歴史を繙き奈良吉野の蔵で造る四條畷のお酒/「Tura toki時 nori儀」
 
純米 七割磨き 山廃四段仕込み
 
パンフレット・リーフレット&冊子
 
~ 楠三兄弟物語:父の遺志を受け継いだ親孝行な息子たち

□ 大阪市立中央図書館で、楠一族に関する蔵書・資料等の展示
  327日(水) 木村・国府・国府文・土井・扇谷
 
□ 教育文化センター利用サークル連絡協議会・総会報告/土井企画委員よ  り
  
総会 323日(土)

□ ㈱三光丸・歴史講演会

 324日(日)、「大和の中世史は面白い! 越智氏と応仁の乱・松永久秀   と柳生氏」
 講師:天野忠幸(天理大学准教授);講演内容の一部は通信86号参照
 後醍醐天皇が名づけた「三光丸」
 吉野に入った後醍醐天皇が身体の具合を損ねたとき、越智氏が秘伝薬を献じ瞬 く間に快癒その時、後醍醐天皇は、霊験に驚き、

 「日(太陽)の神、月の神、星(金星 )の神が与えたもうた薬」と讃え、以 後、「三光丸」と名乗るようにと詔された、と伝わる。
 ㈱三光丸を承継する米田家は、越智一党。
 江戸時代「置き薬」が始まり、三光丸は大和売薬の看板商品のひとつになる。

□ 国中神社・入江宮司からの資料提供
 「楠公精神の歴史」松浦光修(皇学館大学教授):湊川神社婦人会講演録
  正成・正季最後のやり取り

  七生滅敵 ~ 七生まで、ただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさや
      地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩

                    六道
               迷いの世界
                      解脱
                      宗教的な救いの世界=極楽往生
 正成・正季=罪業の深い悪念
 私たちは、宗教的な救いを拒否するとの宣言
         ~七生滅敵
 七生滅敵が「七生報告」に変わったのは何時 か
 =廣瀬武夫の漢詩(明治)


□ 河内観光局のご当地検定第2
 大阪府立富田林中学・高校の探究活動「地域研究」と連携
 南河内ゆかりの楠氏研究とタイアップし、検定試験実施(予定

 提案=「楠公多言語音声ガイドサービス網の構築」富士ゼロックス㈱とタイア ップ

□ 楠公ツーリズム推進協議会
 大阪樟蔭女子大学の学生インターンシップ制度を活用し、楠公さんの魅力発信 企画立案
 2019.052020.021年間 429日、プレゼンテーション実施⇒申し込み  あれば実施
 プロジェクトチームに参画の予定

□ 紙芝居「小楠公の母」昭和193月 紙芝居刊行会発行
 産業振興課・鈴木課長から寄贈

次回5月例会は現地学習

日時 514日(火)現地学習
場所 建水分神社正式参拝と扁額閲覧・千早赤阪散策
集合 総合センター午前850分 900分出発 午後430分帰着(予定)
行程 四條畷 → 建水分神社(正式参拝・扁額閲覧) → 楠公誕生地・村立郷土資料館(昼食)→ 寄手塚・身方塚 → 下赤坂城跡・棚田 → 四條畷


傍聴、入会大歓迎!
郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。お待ちしております。

正行通信86号はコチラからも(PDF)



教文親子体操教室「修了式」

日時 平成31年3月21日(木)午前10時より
場所 教育文化センター ホール・会議室 
イベント内容 親子体操教室で修了式を行い、修了証の授与をしました。皆さま大変お疲れ様でした。

教文親子体操で「思い出制作」

日時 平成31年3月14日(木)午前10時より
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 親子体操も第6期に入り「卒業制作」として壁掛け小物入れを作りました。
とても可愛く出来ました◎



 
 

四條畷楠正行の会 第50回例会 

日時 平成31年3月12日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター2階 ホール
<例会の様子>
興奮冷めやらない雰囲気で、例会開催
 この日は、第7回楠正行シンポジウムから3日目という事もあり、興奮冷めやらない雰囲気で、例会が始まりました。
 まず、最初に、39日(土)に開催しました第7回楠正行シンポジウムに近畿各地から大勢の皆様にお集まりいただき、盛会の内に開催できましたこと、ありがたく厚くお礼申し上げます。
 なお、同シンポジウムの様子は、楠正行通信第85号に掲載しておりますので、ご覧下さい。
 ご協力いただきました関係各位にお礼申し上げます。

●第8回楠正行シンポジウムは、来年37日(土)に開催! 乞う、ご期待!
 
この日の反省会では、様々な意見が出ました。
 この反省を活かして、第8回楠正行シンポジウムを企画していきます。来年は、37日(土)の開催を予定しています。
 以下、この日の反省・感想です。
 *回を重ね、楠正行の理解が徐々に進むようになってよかった。
 *初めて参加の人には難しかったのではないか。
 *今まで無料だったので、500円負担して来ていただけるか心配だった。
 *大成功に終わりほっとし、びっくりし、すごく良かった。
 *楠木検定の試験問題を頂けないか、との問い合わせがあった。

 *田原の大きな行事と重なり、友人が誘えなかった。
 *1コイン(500円)の参加費を頂いたことはよかった。しっかりと聞いていただ  けるから。
 *代表の歌がよかった。シンポジウムは続けることが一番の課題と思う。
 *友人に声をかけたが、会場のアクセスが悪く、来てもらえなかった。
 *回を重ねるごとに盛り上がってきていると感じる。
 *シンポジウムの中で、会員も一コマ持てればいいな、と思っています。
 *スタッフが一丸となって取り組むことができて、本当に良かった。
 *四條畷神社の参加がなかったことが寂しい。
 
*若い人に来てもらってよかった。また、有料の500円もよかったのでは。
 *思っていたよりも若い人が多かった。
 *駐車場は、別途確保していただき、145台止まっていた。

 *マイクはリハーサルではうまく行ったのに、触らない方がよかった。
 *関われて幸せだ。映像スクリーン紙芝居を入れてもよかったのではないか。
 *加島副住職の話が面白かった。
 *司会の小向さん(電通大学学生)、よかった。
 *友人から、ボランティア活動(ガイド)に主体的にかかわりたいとエールを送ら  れた



↑ 例会の様子


↑ 例会の様子

<第49回例会の内容>
楠正行通信
◇楠正行通信84号(3月12日発行)
 ・第二夢丸工房のかるた大会、大いに盛り上がる
 ・大河ドラマ楠公父子物語、NHKに誘致陳情
 ・正行カルタの絵札22枚で、映像スクリーン紙芝居「正行の生涯」完成
 ・正行遺児、池田教正と同姓同名の池田丹後の守教正/キリシタン大名・池田  シメアン丹後


◇楠正行通信85号(3月12日発行)
 7回楠正行シンポジウムに100名を超える参加者
 ・加島副住職、143名の過去帳再現プロジェクト発表
 ・
木子准教授、正行と重ねる岳飛の話に感動
 ・内侍クイーンと正行キングに認定証と記念品贈呈
 ・「正四位下検非違使結果和知の守楠公碑拓本掛軸」「楠公父子真筆集」等展  示

(1)第7回楠正行シンポジウムの結果と反省
 *入場者 111
   ご来場ありがとうございました。
 *アンケート選択結果
  問① このシンポジウムはどのようにしてお知りになりましたか

     市広報誌ホームページ   29.0%   
     市チラシ         16.1
     ポスター         3.2
     口コミ          22.6
     その他          29.0

  問② 第1部基調講演への評価
     良い    67.9
     普通    28.6
     不満    3.6

  問③ 第2部対談への評価
     良い    85.7
     普通    14.3
     不満    0.0

  問④ シンポジウム全体にご満足いただけましたでしょうか。
     良い    92.9
     普通    10.7
     不満    0.0


 *アンケート・コメント一覧
○3.9楠正行シンポジウム コメント
 マイク係の大エラーが残念でした。
 熱ある熱い思いが伝わりました。岳飛、宝塚、小林幸子、よかった
 観心寺住職等のお話を(第1回の掘り下げたお話)
 大河ドラマ万歳
 是非大河ドラマ誘致してほしいものです
 時代背景は 楠公祭りが広がれば…
 正行とは直接関係ありませんが、大東市の民話を調べている中で、野崎詣りで有名な「お染久松」の久松の実家は豊中市の浄行寺です。この寺は楠正成の子、正儀の流れの開創です。こんなところでつながっている楠一族が嬉しいです。熱すぎる思いが逆に重くて和やかさが無くなりました。
 「楠正行」名前しか知らなかったので、今日は、たくさん学ぶことができました。大河、ぜひとも実現してほしいです!ありがとうございました。
 四條畷市に住んで10年たちますが、知らないことも多かったです。正行公の生涯ももっと知りたいなあと思いました。
 マイクの調子が悪いので声が聞き取りにくい。話の内容が分からない。
 扇谷様の歌に感動しました。
 絵本、かるた、素晴らしいですね。次は動画〔アニメーション〕くすのきまさつらものがたりを制作していただきたい。お金がかかりそうですが。昔「まさつらくん」というユルキャラがあったはずですが・・・。今こそ「まさつらくん」に復活してもらいたいですね。
 細く長く続いてほしい。継続されることが文化になって行く一番だと思います。
 対談が非常に興味深かったです。深く研究されていてすごいと思いました。
 「ゆずりは」を通して発信していきたいと思います。
 本日はありがとうございました。今後とも期待しています。
 大河ドラマ楽しみにしています。頑張ってください!
 扇谷様より直接お聞きして参加しました。有縁千里来相会という言葉がすごく良いと思った。岳飛のお話も感動した。お話を聞いてかるたを買おうと思った。扇谷さんのお歌が素晴らしかった。楠木検定に通りました。「1級」があまり生かす場がないです。何かしたいと思っています。
 場所、時代が具体的で面白かった。
 楠正行の会をはじめ、多くの方々の正行への熱い想いを感じることができました。ありがとうございました。
 櫻井の別れ前後の正成、正行について
 かるたの活動により人間の真意。活動を続ける、継続の大切さを学ぶ。最後まであきらめない。目標はある。情熱どこかで奇跡生まれる。

 □楠正行かるた在庫状況/311日現在
   寄贈 132セット
   販売 187セット(委託90セット含む)
   委託 230セット
   在庫 561セット

桜井の駅で楠公の宿となった清水太座衛門家子孫:倉田美春さん/富田林で
  櫻井駅跡にあった石標
  「楠公焼 楠公宿陣之家 西一丁余 清水枡太郎」
  清水家に残る掛軸 暦応元年(1338)寅十一月 北朝元号?
  明治341月 桜井の駅康光第19世清水枡太郎所蔵の画を複写
  珍しい、正成、正行ともう一人(恩智左近か)3人の図コピー提供受ける
楠公まつり実行委員会・稚児行列事前説明会でスクリーン紙芝居「正行の生涯」上演
310日(日)、市役所東別館201会議室
100名の子ども・保護者出席
数人の子どもに取材:殆ど正行を知らず出席している
/知っていたのは一人(親に教えてもらった)
楠公まつりインフォメーション
323日(土)16時~ 春宮~心躍る~ タイムズ四條畷駅東/ダンスコンテスト他
324日(日)11時~ 四條畷神社
大阪市立中央図書館で、楠一族に関する蔵書・資料等の展示/3月末日まで
アクセス 四条畷駅→海老江駅 徒歩3分 野田阪神→西長堀 約40
327日 午前10時 四条畷駅集合

田中佳昭さんより情報提供
産経新聞 「親と子の日本史」第1回 楠木正成と正行/上・中・下
平成12821日~23日連載 産経新聞朝刊

産経新聞取材班「親と子の日本史」平成13330日発刊
楠木正成と正行/和泉式部と小式部/親鸞と善鸞/伊達正宗と秀宗/藤原為時と紫式部/観阿弥と世阿弥/荒木村重と岩佐又兵衛/野口英世と母・シカ/永井久一郎と荷風/岸壁の母と息子/吉田茂と健一/豊田佐吉と喜一郎/真田正行と信幸・幸村/野中兼山と婉/幸田露伴と文/与謝野晶子と子どもたち/円谷幸吉と父・幸七/平清盛と重盛/湯川秀樹と父・小川琢治/鉄砲鍛冶:八板金兵衛と若狭/5代目・6代目笑福亭松鶴/花岡青洲と母・於継/一休と後小松天皇/マキノ省三と雅広/北条雅子と大姫/武田信虎と信玄/長谷川等伯と久蔵/特攻の母・鳥浜トメ/江馬蘭斎と細香/藤原俊成と定家/島安二郎と秀雄/「隅田川」の母と子/松方正義と幸次郎・三郎/正岡子規と忠三郎/大石内蔵助と主税/美空ひばりと母・喜美枝 以上36組の親子

次回4月例会 
 49日(火)午後130分に開催します。
 内容 ①足利義満と楠正行
    ②平成31年度大阪電気通信大学連携プロジェクトについて
    ③514日、現地学習 「建水分神社正式参拝と千早赤阪村散策」
    ④その他

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。
 お待ちしております

 
正行通信84号・85号はコチラからも(PDF)


「教文 親子で楽しむコンサート

日時 平成31年3月8日(金) 午前10時30分より
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 ライブ演奏に合わせ、歌って踊れる音楽会を開催しました。
楽曲は以下のとおり
ドラえもん、楽曲紹介、アンパンマンのマーチ、踊るポンポコリン、エビカニクス、YMCA、アンコールまで、みなさんノリノリで終了しました。



 
 

「教文親子体操教室」でお絵描き

日時 平成31年3月7日(木) 午前11時より
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 四條畷市市民総合センターのホワイエ市民ギャラリーの展示に向けて、お絵描きをしました。
大変上手に出来ました。◎



 
 


四條畷楠正行の会 第49回例会 第7回楠正行シンポジウム打ち合わせ

日時 平成31年2月12日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター2階 ホール
<例会の様子>
「楠正行カルタ」映像スクリーン紙芝居の上演に大いに盛り上がる!
 今月の例会は第7回楠正行シンポジウムの打ち合わせが中心議題だったので、毎月の人物シリーズの勉強会は無く、扇谷からの報告と打ち合わせのみという事で、普段より少しくつろいだ様子で会員が次々と集まってきた
 しかし、始まってみると、扇谷からの報告事項が多く、あっという間に1時間が過ぎてしまい、肝心のシンポジウムの打ち合わせは30分足らずという事になってしまった。
 特に、くすのきまさつらカルタを基に制作した映像スクリーン紙芝居「楠正行の生涯」を上演したところ、予想を超える好反応で、ほぼ全員から、「素晴らしい!」「絵札がよく理解できた。」「子どもたちにも十分伝わるのではないか。」と称賛の声が上がり、今後、会員の誰もがこの映像スクリーン紙芝居を上演できるようによろしく、とお願いする場面も。

NHK大河ドラマ「楠公父子物語」誘致に向けてNHK大阪放送局に陳情
 
楠公ツーリズム推進協議会のメンバーの一員となった四條畷楠正行の会代表、扇谷は、
28日(金)、河内長野市島田市長、高石市阪口市長、島本町山田町長、千早赤阪村松本村長らの首長、そして、観心寺永島住職、如意輪寺加島副住職、湊川神社鈴木女史、住吉大社逸見・小出権禰宜らとともに、NHK大阪放送局を訪ね、角英夫NHK大阪放送局長、半沢、熊谷両副局長、城谷制作部専任部長に大河ドラマ『楠公父子物語』の実現を陳情した。
 この日、扇谷は、絵本(平成29年度制作・6分冊一巻本「楠正行」絵本)、かるた(平成30年度制作・「楠正行くすのきまさつらかるた」、正行像賛扇子、小説「楠正行」を持参してプレゼンテーションを行うとともに、角局長にカルタ・扇子・小説をプレゼントした。
 角局長からは、「この楠公父子物語の大河ドラマ化について、誘致の機運が急速にまとまってきていると感じています。正成については、現代性のあるキャラクターとして認識しています。」等と、非常に前向きのお話を頂いた。
 しかし、他にも全国で50を超える地域から誘致活動があるなど、確約を頂いたものでは決してなく、今後の取り組みの強化と一層の盛り上がりが大切と感じた。


↑ 例会の様子


↑ 例会の様子

<第49回例会の内容>
楠正行通信
◇楠正行通信83号(212日発行)
 大発見! シーボルトが正成を知っており、評価していた!
 ・文政9年(1826)シーボルト著「江戸参府紀行」に残る正成像
 ・嗚呼忠臣楠子之墓に詣で「かの有名な戦士」と正成称賛
 ・正成を、神に崇められた武将とも記す

会則改正・新役員と会計報告
 1月例会で会則の一部改正を行いました。今までの世話人を事務局長に、幹事(会計担当)を会計に変更し、そして企画委員を新たに設け、役員体制を強化しました。また、空席だった会計監査も選任しました。
 新しい役員は、以下の通りです。
 ・代表   扇谷昭
 ・副代表  真木修
 ・事務局長 国府良三
 ・会計   国府文江
 ・会計監査 木村素子
 ・企画委員 楠野国光、土井利勝

●楠正行かるた
 くすのきまさつらかるたの寄贈、並びに販売委託・普及啓発活動を進めています。
 ◆この間寄贈した団体・個人等は以下の通りです。
 四條畷市長、四條畷市教育長、電通大学准教授木子香、島本町長、同市教育長、吉野町長、同市教育長、如意輪寺、四條畷市内学校・教育施設・福祉施設等計73か所、ゆずりは、楠公まつり実行委員会、文化観光協議会、河北病院、御妣会、小楠公偲ぶ会、アイアイランド、四條畷神社、河内往生院、観心寺、河内長野市長、同市教育委員会、千早赤阪村長、同村教育長、建水分神社、楠妣庵観音寺、四條畷図書館、田原図書館、湊川神社、笠置寺、光雲禅寺、NHK大阪放送局

 ◆また、現在、くすのきまさつらカルタを販売している書店・団体・施設は以下の通りです。ご希望の方は、お近くの取り扱い施設にお申し込みください。
 《販売委託先》
 四條畷市立教育文化センター、福助堂、くるみ書店、宮脇書店、アイアイランド
 河内往生院、建水分神社、湊川神社、観心寺、如意輪寺

 各地で楠正行カルタ大会開催!
 寄贈団体や個人から多くの反応を頂いております。
 一部紹介します。
 四條畷南小学校図書室で6年生1クラスで開催
  123日(水)に開催されました。先生からお便りをいただき、以下の通り書かれて
  いました。

 「子どもたちも大喜びで、読む前は、手を頭の上で組み、真剣かつ楽しそうでした。
  先生も参加してくださいました。本当にありがとうございました。」
 第二夢丸工房で開催 質問続出で、1時間30分で14枚の字札しか進まなかった!

  24日(月)、市民活動センター2階で活動する第二夢丸工房を訪ね、かるた会を開
  催しました。利用者約10名でカルタ取りをしましたが、1時間30分で、たった14枚の
  字札しか読めませんでした。何故かというと、私が絵札に解説を加えると、質問が
  続出したのです!
  歴史好きの利用者が多く、活発で、楽しいかるた会になりました。
  また、箱のデザインの花は何の花でしょうかとの問いに、「楠」と初めて正答が出
  ました!

 河内長野市立川上小学校
  観心寺のある地域の小学校です。
  サークル活動の一環で、かるた会が開かれました。
  なお、かるたは観心寺から提供された、とのことです。


くすのきまさつらかるた映像スクリーン紙芝居制作
 絵札をそのまま使い、紙芝居仕立てで「楠正行の生涯」を映像スクリーン化しまし
 た。
 字札と解説を基に語り、絵札が順番に流れる仕掛けです。各学校・施設等に持ち込み、上映会が可能となります!
 保育園や幼稚園でも、かるた取りは難しくても、この映像スクリーンは十分楽しんでいただけると思います。
 この日、試写しました! 結果は、好反応で、ピアノ伴奏等も検討し、本格的に取り組むこととしました。
 ◆上演希望、求む!

 上演希望の団体やグループはご連絡ください。もちろんことですが、かるた大会開催ご希望の場合もご連絡ください。

●楠公ツーリズム推進協議会の取り組みについて
 NHK大河ドラマ『楠公父子物語』誘致に向け、官と民の2つの団体が立ち上がっています。
 「官」は、「楠公さん」大河ドラマ誘致協議会(河内長野市島田市長会長)で、河内長野市、四條畷市、島本町、千早赤阪村、吉野町、大阪市、神戸市、京都市など36自治体が参加しています。
 「民」は「楠公ツーリズム推進協議会」(観心寺永島住職会長)で、住吉大社、石清水八幡宮、四條畷神社、湊川神社、笠置寺、葛井寺、信貴山朝護孫子寺、如意輪寺、建水分神社、観心寺、天野山金剛寺、神戸観光局、大阪観光局、四條畷楠正行の会等の寺社仏閣を中心に約30の団体で構成しています。
 四條畷楠正行の会は楠公ツーリズム推進協議会の一員として、今後、イベント開催や署名活動等、積極的に誘致活動に取り組んでいく計画です。


7回楠正行シンポジウムについて
 この日の打ち合わせでは、39日(土)午後2時~午後4、当日の進行、予算、役割分担、準備物等とその担当等について打ち合わせをしました。
 212日現在、まだ空席があります。
 一人でも多くの皆さんのご来場(四條畷市立教育文化センター)をお待ちしています。
 シンポジウム当日は、楠公碑拓本掛軸(釈文と略解も)、四條畷市小字全図、くすのきまさつらカルタ(掲示額入りと解説)、楠公父子真筆集(湊川神社所蔵データ提供・正行直筆7筆)の展示も行います。
 普段見られない貴重な史料の展示ですので、乞う、ご期待です!
 もちろんの事、第1部、大阪電気通信大学の木子香准教授の基調講演では、くすのきまさつらカルタ制作プロジェクトに参加した学生の制作現場での苦労話や裏話、学生の成長など、若い世代への正行顕彰の取り組みの成果報告があります。
 また、第2部の加島裕和副住職(如意輪寺)と扇谷の対談では、今、正行研究や顕彰の活動がどのように展開されているのか、今後どのような取り組みが企画・準備されているのか、楠正行ワールドの先進事例をご紹介します。乞う、ご期待!


次回3月例会 
 312日(火)午後130分に開催します。
 案件は、39日のシンポジウムの反省と、大阪電気通信大学とのコラボ第3弾(平成31年度事業)の内容打ち合わせ等です。5月は現地学習です。千早赤阪村を訪れ、建水分神社で正式参拝の後、本殿拝観、扁額閲覧、そして村内のゆかりの地、大楠公生誕地、村立歴史資料館、楠公産湯の井戸、奉献塔等を歩きます。


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。
 お待ちしております

 
正行通信83号はコチラからも(PDF)




「第24回 新春ミニ・コンサート」

日時 平成31年1月27日(日) 午後1時より3時
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 新春恒例のミニ・コンサートを開催しました。
第1部では女声四重唱、ひまわりコーラスに続き、バイオリン演奏が奏でられ、休憩をはさんだ第2部では二重唱、オーボエ演奏、ピアノ演奏、みんなで歌おう、女声四重唱と続き、大変盛り上がりました。



四條畷楠正行の会 新年懇親会

日時 平成31年1月8日(火) 午後12時30分~午後3時00分
場所 巣本「かごの屋」
シーボルトの記した「かの有名な戦士楠正成」記述に大いに盛り上がる新年会
 1月、1年の始まりという事で、親睦を兼ね交流を深める目的で懇親会となった。
 昼食を取りながらの正行談議に花が咲くこととなったが、この間の楠正行かるたに関する動きや、3月に迫った第7回楠正行シンポジウム、新たに楠公ツーリズム推進協議会に入り「楠公父子物語」NHK大河ドラマ誘致に向けて招致活動に取り組むこととなった話や、新しい元号となる新年度の大阪電気通信大学との産学連携第3弾企画などをめぐって、矢継ぎ早に喋り捲った扇谷。
 そして、楠正行顕彰に、有名な外国人が「私は楠正成、正行を知っている。」とか「楠正成、正行はこんな武将だった。」などと発言していないか、と調べた結果の一つ、江戸時代の末期にドイツから来日し、日本に大きな影響を残したシーボルトの著作の中に、当時の湊川の嗚呼忠臣楠子之墓を訪れた記録が載るとわかり、取り寄せた書物の一節を紹介した。
 何と、吉田松陰や勝海舟、坂本竜馬などが訪れる30年以上も前の文政9年(1826)に、嗚呼忠臣楠子之墓を訪れたシーボルトは、「かの有名な戦士楠木正成」「神と崇められた武将」と記しているではないか。
 以下にその件を紹介する。出典は、平凡社・東洋文庫87「江戸参府紀行」シーボルト著・齋藤信訳。

<シーボルト著・江戸参府紀行・文政9312日の件>
 朝8時に立ち、たいへん住民が多いように見える町を徒歩で通った。住民はほとんど教養のない様子で、案内人は時々杖を挙げねばならぬほどであった。町筋には普通の小売店ばかり軒を並べ、住まいはみすぼらしい外観をしている。
 兵庫の近くで我々はある長い村を通り過ぎた。歯医者やニセ医者がいるので評判が悪く、歯を抜いた頭蓋が誇大広告と一緒に窓の前に出してあった。
 近くにかの有名な戦士楠木正成の墓がある。
 彼は歯痛の守護神であるから、墓は歯の痛む人人を引き付ける。この名将の墓は、蔭の深い森の中にあり、花崗岩で作られた記念碑が墓所に美しさを添え、その上に神社の形をした小さい建物が立ち、前方に格子がついていて、たくさんの小さい絵馬がかかっている。
 またヒノキを用いて作った小さい三方に、ぶっつりと切り、よく手入れしたマゲをのせ、髪を切った人の名をそれに添えてあるのが、私の注意を引いた。
 楠木正成は船乗りの守護神でもあったから、暴風雨とか難破のおりには船人は祈願を行い、神と崇められた武将に最も大切な自分の髷を供えるのである。

●我々の想像以上に、正成や正行の事績は知られていた証左か
 シーボルトは、文政6年(1823811日、長崎の出島商館医員に任じられ長崎に入り、文政12年(18291230日に日本を去るまでの間、文政9年(1826215日に長崎を立ち410日に江戸到着、そして518日まで滞在し、77日に長崎に帰るまでの旅日記を「江戸参府紀行」として綴っている。
 その中の往路、312日の件にこの一文が入っているのである。
 シーボルトは、何故、楠正成を「かの有名な戦死」と形容したのであろうか。
 幕末の尊王思想や尊王攘夷の運動が激しさを増す以前の江戸時代、遠く異国、ドイツから訪れたシーボルトでさえもが、楠正成のことを「かの有名な戦死」と形容し、かつ『神とあがめられた武将』と形容している事実に、一同驚愕と感動を覚えた。我々が想像する以上に、瓦版や演劇、講談、講釈などの世界を通して広く世間に楠氏(正成や正行のこと)が知られ、認知されていたことの証しではないだろうか、との結論に至った。
 楠正成は、シーボルトをして、「かの有名な戦死」と言わしめた人物・武将であったのである。
 なお、シーボルトは、国家機密ともいえる日本地図を母国に持ち去ろうとして国外追放の身となり母国に帰国することになるが、その後再び日本を訪れ、江戸幕府の顧問として、当時日本を訪れた諸外国との交渉等に助言等を与える大きな役割を果たしている。
 また、日本滞在中に日本人の女性と結ばれているが、その人の名は、「楠本滝」という。ここにも、正成、正行との因縁を感じさせる“姓”が登場する。


48回例会のおさらい
 楠正行通信第82号(1月8日発行)
 正行は顕氏との戦いに終始し、正儀は頼之に利用された
 ・管領細川頼之、宮方を弱体化し義満政権を不動に
 ・楠氏の生き方に汚点を残したか、正儀
 ・後村上天皇の崩御で、立場失い吉野朝で苦境に立った正儀
 ・頼之、中国管領そして四国管領、そしてついに幕府管領に
 ・将軍義詮は、汝のために一子を与えん、と頼之に義満を託す


「楠正行くすのきまさつらかるた」の店頭販売はじまる
 まさつらカルタは、四條畷市立教育文化センターで取り扱っています。
 そして、四條畷市内等の以下の本屋さんにも置いています。
 ■福助堂書店(楠公通り商店街 電話 072-878-1277
 ■くるみ書店(JR忍ケ丘駅前 電話 072-876-5322
 ■宮脇書店生駒北店(山口川バス停前 電話 0743-72-6655

  
↑写真左から、福助堂書店、くるみ書店、宮脇書店生駒北店

次回2月例会 
 212日(火)午後130分に開催します。
 案件は、3月9日に迫る第7回楠正行シンポジウムの詳細な打ち合わせとなります。
 ご関心のある方、手伝ってみようかと思われる方は、ぜひご参加ください。 

 
傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。
 お待ちしております


正行通信82号はコチラからも(PDF)




四條畷楠正行の会 第48回例会 細川頼之と楠正行

日時 平成30年12月11日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター2階 ホール
<例会の様子>
まさつらカルタの話題で持ちきり/室町幕府管領、細川頼之に利用されたか楠正儀
 今月の例会は、お孫さんご誕生で大忙しの2名と業務多忙と体調不良による欠席が重なり、9名での開催となった
 それでも、128日の「市民かるた大会」の興奮冷めやらないのか、教室(2階ホール)に入ってくる会員が異口同音に、「代表、今日、かるたは頂けるんですか?」「わたし、友人にも配りたいので、5セット欲しい。」と、楠正行かるたの話題でもちきり。
 ホール内のボードに、「絵札」「字札」「解説」を“あ行”から順番にカラー・プリントしたA3用紙を張り出していたが、それぞれ思い思いに覗き込み、改めてかるたの出来栄えの良さを喜んでいる様子。
 人数は少ないが、活気にあふれた、和やかな例会となった。
 今月は、楠正儀北朝降下に大きくかかわった室町幕管領の細川頼之を取り上げたが、頼之の視点から吉野朝・正儀を見ると、頼之にとって正儀は一つのコマにしかすぎず、頼之は南北合一よりも幕府の基礎構築が第一で、正儀の北朝降下は失敗であった、そして正儀は結果として楠氏の生き方に一つの汚点を残した、といえるのではないかと思う。


↑ 今月は細川頼之について学ぶ


↑ 黒板にまさつらカルタの絵札・字札・解説文の一覧を張り出す

<第48回例会の内容>
47回例会のおさらい
 ◇楠正行通信80号(1211日発行)
 現地学習 池田氏菩提寺・大廣寺と池田城址公園
 ・正行、遺腹の子 池田教正ゆかりの地を訪ねて
 ・池田城はいつ、どこにできたのか
 ・山裾、まちなかに接する池田城の謎

 ◇楠正行通信81号(1211日発行)
 12.511絵札原画展開催
 ・12.8 市民かるた大会開催
 ・
楠正行くすのきまさつらかるた販売開始!


●細川頼之と正行
・「細川氏略系図に見る頼之の位置」(下図参照)
 正行と全面対決した細川顕氏、一方、正儀を誘降させた細川頼之
 父、頼春は足利尊氏旗揚げ時からの側近
 頼之は、義満を補佐し、将軍の権威を高め、室町幕府の基礎を構築
 一旦政争に敗れ四国に退去するも、分国経営に専念し、一族繁栄の基盤構築

 南北朝内乱と共に生き、南北和合を見ずして生涯を閉じる
 頼之は、正儀を利用し、宮方を弱体化し、義満政権を不動に




・「細川頼之略年表」(下表参照)
 貞治061367 義詮の枕元に呼ばれ、義満後見を託され、管領に
         ~ この後ほぼ10年、管領の座に
         後村上天皇崩御を受け、講和主義の正儀、宮方で苦境に

         正儀、秘かに幕府に誼を通じる
 応安021369 頼之、正儀に帰参を認める義満の御教書を与える
         ~ 頼之の権勢強まる
           ↸ 正儀降下に、南軍(宮方)の反発 北軍、頼之への反発、強
           まる

         ~ 北軍内で、頼之支持派と反頼之派の軋轢激化
 永和041378 宮方、橋本正督に幕府軍破れる
         ↸ 将軍、義満怒り 和泉の守楠正儀、紀伊の守細川業秀を罷免
 康暦元年1379  康暦の政変 京極高秀、土岐直氏ら、義満に頼之追放を強要
         ↸ 義満、頼之に京都退出を命令
           ⇒ 頼之、失脚し、四国に下る
             ~ 一族こぞって四国に 四国の軍事的支配を拡大強化
               赦免の運動/河野氏と和解、政界復帰への道を開く
 暦応元年1389 将軍、義満厳島参詣 頼之、100余艇の船を提供
 明徳021391 頼之、入京し復権する
         将軍、義満 頼元(頼之の弟)に管領を命じ、頼之に後見を託す
         明徳の乱(山名清氏挙兵)、頼之、鎮定 ⇒ 将軍、義満の権威発揚
 明徳031392 32日、頼之死去(64歳)
         10月、南北和議成立 南北朝合一





(3)平成31年活動予定
  例会&現地学習 電通大  その他
1 新年会 木子班、全学発表
会で報告
 
各地で、カルタ大会 
2 第7回正行シンポ準備    各地で、カルタ大会 
3 7回正行シンポ反省     3/9 第7
楠正行シンポ
 
4 足利義満と楠氏  3期、産学連携
事業スタート 
 
5 現地学習/建水分神社
正式参拝と千早赤阪村の
楠氏史跡を訪ねて
 
  5月以降、 
近畿かるた大会
6 長慶天皇と楠氏     
7 後亀山天皇と楠氏     
8 お休み/通信のみ発行     
9 藤氏一揆と楠正行    9/27 如意輪寺・
後醍醐天皇正辰祭
 
10 現地学習/吉野朝行在所、
賀名生旧皇居(堀家住宅)
を訪ねて
 
   
11 興良親王と楠正行     
12 楠正家と楠正行     

●第7回楠正行シンポジウムについて
 39日、開催!
 以下、チラシ参照
 お申し込みは、四條畷市立教育文化センターまで
 多くの皆様のご参加をお待ちしております。
 楠正行の新しい情報満載です。

 →第7回楠正行シンポジウムチラシ(PDF) 

●くすのきまさつらカルタ
・四條畷市、学校・各施設に寄贈!
・入荷次第、順次、販売します。¥1,500円(税込)
 販売委託先
 □教育文化センター □福助堂書店(楠公通り商店街) □くるみ書店(忍ケ丘駅前)

 □宮脇書店生駒北店(山口川バス停前) □楠公ツーリズム推進協議会加盟寺社に販売協力要請
・楠氏ゆかり自治体でのカルタ大会について
 四條畷市教育委員会を通じて、協力要請中
  13月にかけて、現地小学校3年生対象に、正行かるた大会の開催協力をお願いし、
  楠氏・楠正行を次世代に継承する取り組みを展開する。

  □河内長野市 1128 島田課長に協力依頼済み 日程調整中
  □千早赤阪村 1207 矢倉教育長・吉光学芸員に協力依頼済み、
              松本村長表敬訪問
  □島本町   1218 生涯学習課長 南田氏訪問予定
  □吉野町   1220 教育委員会 山本氏訪問予定


 →くすのきまさつらかるた(PDF)

楠公ツーリズム推進協議会 入会要請を受け、1025日付入会
会員
観心寺・天野山金剛寺・四條畷神社・葛井寺・湊川神社・如意輪寺・石清水八幡宮・南海電気鉄道・産業経済新聞社・ジエイコムウエスト・河内長野市観光協会・社団法人大阪観光局・社団法人神戸観光局・河内長野青葉台郵便局・大阪南農業協同組合・楠公さん大河ドラマ誘致協議会・朝護孫子寺・建水分神社・葛木神社・笠置寺・観音寺・千早神社・久米田寺・四條畷楠正行の会・アドバンスワードサポート・廣田勇介写真事務所 以上26団体

平成30.31年度事業計画
・楠公さんの認知拡大を通じてその魅力を広め、NHK大河ドラマ化を目指して地域の活性化を図るために、観光庁の補助金事業として、観光による地方誘客事業実施に向けて取り組む。
 ・基本方針:楠公認知の拡大
 ・楠公ネットワークを繋ぐSMS〔フェースブック〕を立ち上げる
 ・楠公イベント〔冠事業〕の実施
 ・マーケティング調査の実施(大阪観光局)
 ・1028 楠公ダンボール 子ども甲冑武者行列 in 高野街道祭


次回1月例会/新年懇親会のため、教室での例会はお休みします。 

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。
 お待ちしております

 2月例会は、212日(火)に開催します。内容は、39日に予定している「第7回楠正行シンポジウム」の打ち合わせ・準備作業です。

正行通信80・81号はコチラからも(PDF)




「教文 クリスマス会」

日時 平成30年12月7日(金) 午前10時より11時30分
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 今日は、ちょっと早めのクリスマス会を行いました。
クリスマスツリーへの飾り付けから始まり、楽しいフルート演奏があり、人形劇を上演しました。そして2人のサンタさんからお菓子のプレゼントがあり、一緒に写真を撮りました。






「教文親子体操教室」で石焼き芋!

日時 平成30年11月15日(木) 午前11時30分より
場所 教育文化センター 
イベント内容 最初にお芋を洗い、アルミホイールに包んで名前を書きました。
大きな窯に並べて、色々な石を入れ、蓋をしました。
さあ、美味しく出来上がりました。





四條畷楠正行の会 第47回例会 現地学習・大広寺

日時 平成30年11月13日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 現地学習
「楠正行、遺腹の子、池田教正ゆかりの地を訪ねて」
 大広寺・池田城址公園(池田市)
<例会の様子>
●第2代池田城主は、正行、遺腹の子、池田教正
 今日は、現地学習で池田市を訪れるので、午前9時、総合センターに集合して、3台の車に分乗して向かうことに
 近畿道を使う予定であったが、交通事故のため渋滞が発生しているとの情報があり、一般道を使う事になり、出発したが、思いのほか渋滞もなく、午前1030分に、目的地の池田市、大広寺に到着した。
 塩増山大広寺略記には、以下記されている。
- 池田城は大広寺山下の細い杉ヶ谷川の谷を隔てた丘陵の上に、建武の昔、池田教依が築き北朝の足利氏に属していた。二代目の城主は南朝の楠正行遺腹の子、池田教正である。
 これは正行が河内四條畷で討ち死に後、その妻の父、能勢の野間城主、内藤伊賀の守満幸が足利方に変節したので、正行の妻は当寺懐妊していたが離縁され、教依に再婚して子が無く、教依は正行の子、教正を養うて池田城を継がしめた。
 しかし、教正は後年その子、佐正に城を譲り、遠く安芸の五日市へ去って彼の地で城を築き、南朝方に属したのである。
 なお、序でに述べるが、池田筑後の守充正(第5代城主)の弟、池田恒元の子、恒利が池田城を出て、その子孫代々備前岡山の藩主となった。即ち備前の池田氏は池田城主池田氏の分家にあたる。(扇谷:言い換えれば、備前の池田氏は、楠正行の末裔にあたる、といえる。)


●大広寺に残る血天井
 楠正行の史料はほとんどないといってよい。
 正行ゆかりの施設も、また数少ない。
 私たちは、四條畷ゆかりの楠正行を学び、顕彰することを目的に活動しているので、正行本人ではないものの、正行の遺児が生まれ、育った地に足を踏み入れただけでも、肌に感じ、ワクワク感が漂う。
 大広寺には多くの歴史的遺産が残るが、なかでも正行ゆかりの地ならではの遺物が残る。それは「血天井」である。
 塩増山大広寺のチラシ「当山境内と故事」に、以下記されている。
- 血天井
 永正5年(1508)、管領細川澄元を細川高国が攻めた時、近畿の多くの城はすべて高国に降伏したが、池田城主池田筑後の守貞正はただ一人、澄元のため高国の大軍を恐れず戦い、ついに力尽きて城に火を放ち、腹を切って自害した。
 当時の人々は池田城主の忠義と武勇を称え、その美談を後世に伝えるため、血の付いた板を天上に使用し供養したのである。

 この血天井は、大広寺境内中央にある本堂の玄関の天井に今も残っている。下からこの天井を見上げると、血らしき跡が、何枚かの板に飛び散った様子を思わせる跡が見える。
 自刃したときの地が天井にまで、このように広く飛びちるものかと疑問を持ったが、元々廊下の板を天井板に使ったものと分かり、一同、納得。
 楠氏は吉野朝一筋、正統な天皇を支え続けた一族で、利害得失では決して動かなかったが、池田貞正もまた同じく忠義と武勇の人であったことを示す痕跡が今も残ることに感慨ひとしおである。

●山門に円形の額、白龍の摩訶不思議
 今一つ、全員が釘付けになった場所がある。
 それは、山門の内側の上に掲げられている、直径120センチメートルほどの円形の額で、とぐろを巻いて白く小さい龍が描かれている「白龍」である。
 これも塩増山大広寺のチラシ「当山境内と故事」に、以下記されている。
- 白龍(山門裏側上の白い額)
 この白龍が本堂西側の弁天池の水を毎晩飲みに行くので、時の住職が眼の玉を白く塗りつぶすと、龍は水を飲みに行かなくなったという。
 またこの弁天池はどんな旱魃にも涸れることはない。
 直下の六角石に龍の爪の痕というのが今も残っている。

 この白い龍は、今にも天に向かって飛び立とうとする姿が立体的に浮き彫りにされているもので、恐らく漆喰で塗り上げられたものと思われるが、めったに見られない逸品である。
 また、山門直下に六角の石があり、無造作にえぐられたような跡があり、これはいったいどういう意味があるのかと疑問に思ったが、この説明書きを読み、「ああ、そうなんだ。でも、本当に・・・。」と、納得半分、不思議半分だった。

●今の池田城跡に建っていた池田城は、何時つくられたものか
 大広寺を後に、池田城址公園に向かったが、入り口に、「火曜日休園」の案内とともに、門は閉じられている。
 せっかく来たのに残念と、暫く入り口付近で躊躇しながら、引き返そうとした所、公園管理の池田市の職員の方が来園され、訪問の主旨をお話したところ「四條畷市からせっかくお見えでしたら、どうぞ、ご覧下さい。」と、中に入れていただくことになった。全員、ラッキー!と大喜び。
 この池田城址公園は、櫓を中心に、日本庭園、枯山水、空堀散策路、花菖蒲園、茶室、管理棟等が整備された素晴らしい公園で、遠く池田の町も遠望でき、眺めも素晴らしいものである。
 「扇谷さん。この城は何時つくられたのでしょうね。」と、楠野さんに尋ねられ、私は調べていなかったので、「四條畷の合戦の後すぐの時代のことですから、1300年代には建っていたのではないでしょうか。」と答えた。
 このことについて、池田城址公園のリーフレットが以下、触れているので紹介する。関連部分のみ抜粋。
・池田城の名が登場する最古の史料は、建武3年(1336)「平国茂軍忠状」で、南北朝時代に池田城が存在していたのではないか、と言われている。
・この場合、果たして、現在、城山町の台地上にある池田城跡を指しているのか、以下の点で疑問がある。
・南北朝時代の城は、山深い、しかも山頂や尾根伝いに築かれるものが多く、街道や集落に接し、簡単にその存在が認識できる場所に築かれる例はほとんど見られない。
・平国茂軍忠状に載る、軍勢が夜詰をしたというのであれば、ある程度の面積と防御機能が必要となるが、池田城の城域が拡大され、防御機能が高められたのは発掘調査によって1500年代になってからと推定されていること。
・結果、建武3年の軍忠状に載る池田城は、この池田城跡ではなく、五月山山頂のどこかに城が築かれていたのではないか。
・池田氏は、勝尾寺(箕面市)蔵「勝尾寺文書」によれば1200年代前半に檀家衆土豪30数人の一人として現れ、勝尾寺文書の永享8年(1436)「歳末巻数賦日記」では10人程度に固定化され、池田氏も国人として成長しその一人に残っていることから、1400年代の前半には、現在の池田城跡の場所に館を築いたのではないかと推定される。


●南北朝時代の城なのに、山麓のまちに接して建つ疑問
 楠野さんは、「扇谷さん。この城は、この狭間(さま:防御用の穴や窓。銃眼、砲門とも。)の形から見て、間違いなく鉄砲伝来前の城ですよ。」と指摘されたが、リーフレットに載っている結論と一致した。すごい!
 狭間の形も、弓の時代から鉄砲の時代、大砲の時代に代わり、大きさも形も変化をしたとのこと。
 しかし、南北朝時代の城址を見てきたものにとって、この池田城の位置はどうしても疑問が残る。
 大広寺の裏には五月山があるにもかかわらず、その菩提寺である大広寺よりも下の、それも平地に近いまちなかに接する場所に城が建っていることの疑問である。
 リーフレットにも触れているが、後方からは丸見えの城であり、こもって戦う城とは到底思えない。
 楠氏については史料も少なく、分からないことが多くあるが、この池田城についても同様のようである。
 櫓の前で記念撮影をし、職員の方に声をかけて池田城址公園を後にした。
 この後、食事をとり、阪急電鉄グループの創始者、小林一三記念館を訪れ、帰途に就いた。
 (写真:いずれも「大広寺」リーフレットと小冊子(逸話編)、並びに池田城跡公園のリーフレットからの転載)

<第47回例会の内容>
46回例会のおさらい
 ◇楠正行通信第77
 ・明治維新の青写真を描いた男、横井小楠
 ・幕末の英傑たちに絶大な影響
 ・正成、正行そして水戸学を篤く信奉した小楠
 ◇楠正行通信第78
 ・「正四位下検非違使兼河内守楠公碑」拓本掛軸
 ・明治36年以前に制作された貴重な資料
 ・四條畷楠正行の会に寄贈いただきました!

 ◇楠正行通信第79
 ・「カルタ大会は楽しかったから、もっと正行のことを知ろうと思った。」
 ・楠正行くすのきまさつらかるた 完成!
 ・大阪電気通信大学制作 絵札・字札・栞・地図・箱

 ・10/26 くすのき小学校でカルタ大会

(↑ 10月27日付産経新聞夕刊より)

 次回例会 
 日時 1211日(火)午後130分~午後3
 場所 四條畷市立教育文化センター2階ホール
 案件 細川頼之と楠正行
    楠正行くすのきまさつらかるたの制作・販売について
    3.97回楠正行シンポジウムについて


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信77・78・79号はコチラからも(PDF)




「教文親子体操教室」で落ち葉遊びをしました。

日時 平成30年11月8日(木) 午前10時より
場所 教育文化センター 
イベント内容 紅葉した桜の葉っぱを集め、カンムリを作りました。







「教文親子体操教室」で遠足に行きました。

日時 平成30年11月1日(木) 午前10時より
場所 教育文化センター 
イベント内容 秋の遠足は「里山」へ登りました。
皆さん頑張りましたね-






「教文 親子体操教室でお芋掘り!!」

日時 平成30年10月25日(木) 午前12時より
場所 教育文化センター 
イベント内容 春先に植え付けた苗がこんなに大~きく育ちました。
お芋さんは出てくるかな-






「教文 みんなの運動会」

日時 平成30年10月18日(木) 午前10時より12時
場所 教育文化センター 芝生広場 
イベント内容 順延により、待ちに待った運動会を開催しました。
プログラムは以下のとおり
1・入場行進 2・♪一等賞体操 3・駆けっこ よーいドン 4・お母さんお父さんと♪あひるのダンス 5・たまいれ 6・サーキット遊び 7・ダンス♪バナナくん体操 8・台風の目 9・つなひき 10・パラバルーンで遊びましょう 11・全員リレー 12♪わ~お     以上
皆さん大変上手に出来ました。









「教文 親子体操教室」

日時 平成30年10月11日(木) 午前10時より12時
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 今日は雨により「みんなの運動会」が順延になりました。
来週に向けての予行演習とテルテル坊主を作りました。





四條畷楠正行の会 第46回例会

日時 平成30年10月9日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
<例会の様子>
●待望「正四位下検非違使兼河内守楠公碑」拓本掛け軸に歓喜!
 今日の例会は、別途緊急の会議が入り、扇谷は開会5分前に会場に入りました
 すでに、多くの会員が集まり、「代表が遅い。」と語り合っているところでしたが、入室すると、国府さんが待ち構えていたように語りかけてきました。
「扇谷さん。これで良いでしょうか。みてください。」と、手づくりの「軸箱」のふたを開けて中を見せてくれるではありませんか。
 期待はしていましたが、まさか出来上がっているとは思わず、びっくり仰天の例会スタートとなりました。
 この日の超目玉として、私たちの会に寄贈いただいた「正四位下検非違使兼河内守楠公碑」拓本掛け軸の披露を予定していましたが、長年元の所有者の自宅の床の間にかけられていたため、いただいた時に軸箱がなかったのです。
 貴重な掛け軸で、保存や持ち出しの関係上、軸箱の制作をお願いしていたところ、国府さんが超特急で作ってくれました。本当にうれしい思いいっぱいで例会が始まりました。
 また、この日からは川口さんが復帰されました。


「正四位下検非違使兼河内守楠公碑」拓本掛け軸を前に


拓本掛け軸を前に、扇谷の説明を熱心に聞き入る会員


<第46回例会の内容>
45回例会のおさらい
 ◇楠正行通信第76
 ・楠正虎、楠正成11代末裔を名乗る/血統上は無縁の北伊勢・楠(クス)氏
 ・永禄21559 正親町天皇から楠氏赦免の綸旨を受ける
 ・近世、楠氏復活の大立役者=楠正虎

●横井小楠と正行
 *楠公、小楠公そして水戸学を厚く信奉した小楠
  「国是三論」 富国論/強兵論/士道論
  「国是七条」 春嶽を通じて提出した幕政改革の切り札
  「国是十二条」 福井藩に提出した建策
  ~ これらの主張・建策は、龍馬の船中八策、由利公正の五か条のご誓文等に影響
    を及ぼし、小楠こそ「維新の青写真を描いた男」と呼ぶべき人物であった。

             明治維新の青写真を描いた男
           - 幕末の英傑たちに絶大な影響 -

<「横井小楠~維新の青写真を描いた男」徳永洋著・新潮社より>
横井小楠とは
 文化6年1809~明治2年1869
 幕末維新期の思想家・政治家。熊本藩士。藩校『時習館』に学び、藩命で江戸に遊学。藤田東湖や川路聖謨(としあきら)らと交わり、帰国して実学党を結成、藩政改革を試みるが、藩内主流派の反撃を受け失敗。私塾「小楠堂」を開く。酒の失敗などもあり熊本藩では用いられず、二十余藩を遊歴。吉田松陰、橋本佐内らと交わり、福井藩の藩主・松平春嶽(慶永)に招かれ政治顧問となる。
 万延元年1860、「国是三論」を著わし、開国通商・殖産興業による富国強兵を提唱。春嶽が幕府の政治総裁職に就くと、そのブレーンとして幕政改革や公武合体の推進に手腕を発揮した。後に失脚し、熊本での閑居を余儀なくされるが、その間も坂本龍馬らの訪問を受けるなど、多くの志士たちに影響を与えた。維新後には新政府の参与となるが、共和制論者、キリスト教主義者と誤解され、明治2年1869、京都で暗殺された。
 要は、「熊本では認められず、福井藩主・松平春嶽の参謀として公武合体推進期に活躍した開国論者」という事なのだが、小楠はその見識の高さと交友の広さで、勝海舟などの幕臣から薩長の討幕派に至るまで、幅広く影響を与えた。
 小楠の主張は、「今の徳川幕府の政治は、徳川家ご一家の便利私営のための政治であるから、これを止めさせ、まず公武合体を実現して、更に諸大名、諸藩士の有能な人物を登用し、それを朝廷で統治する。政治は朝廷から出て日本国中共和一致の平和な国家にしなければならない」というもの。
 ここでいう「共和一致」とは、いわゆる「共和制」ではなく、議会主義といった意味であり、平たく言えば『天皇の下に国家を統一し、人材を広く登用し、議会政治を実現する」というものであった。

●交流のあったものの横井感
○勝海舟
 「俺は、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ」
 「横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配していたに、果たして西郷は出てきたわい」
○西郷隆盛
 「小楠が諸国遊歴した際、人材であるといった人で、その後、名を挙げなかった者はいなかった。」
 「一度この策(横井の策)を用いたら、いつまでも共和政治をやり通さなければならない」(大久保利通にあてた手紙の中で)
○坂本竜馬
 「西郷や大久保たちがする芝居を見物されるとよいでしょう。大久保たちが行き詰ったりしたら、その時、ちょっと指示してやってください」
○吉田松陰
 「先生の東遊の節は、是非萩に立ち寄って藩の君臣を指導してほしい」
○高杉晋作
 「小楠を長州藩の学頭兼兵制相談役に招きたい」(久坂玄瑞に相談)

国是七条 → 国是十二条 → 薩摩・福井藩への提言 → 船中八策(龍馬) → 新政府綱領八策(龍馬) → 新政について春嶽に提言 → 五箇条のご誓文(公正)


 このように、幕末維新の英傑たちが、こぞって小楠に一目置き、龍馬、松陰、高杉に至っては師と仰いでいたのである。
 実際、龍馬が作成した有名な「船中八策」と「新政府綱領八策」は、小楠が幕府に提出した「国是七条」と福井藩に提出した「国是十二条」をそれぞれ下書きにしているし、また、由利公正が起草した「五か条のご誓文」にも、小楠の「国是十二条」の影響が色濃い。
 華々しい”革命家”たちの陰に隠れて目立たないが、その構想力、影響力から言えば、小楠こそ、まさしく「維新の青写真を描いた男」と呼ぶべき人物だったのである。

●「小楠」という号の由来
 小楠は、実名は時在、通称平四郎、号は小楠。
 号の由来は、楠正行、小楠公の人となりを慕ってつけたものである。
 小楠が江戸遊学のため熊本を出発したのは天保10年1839、3月であった。
 鶴崎から出船して、周防灘、播磨灘を過ぎて天保山より大坂に上陸するまでに、小楠は「舟中雑詩」十首を作っている。
 その中に、兵庫の湊川を過ぎるときに読んだ、江戸初期に水戸藩の徳川光圀が建立した楠公の碑を拝する詩があった。この事から小楠が楠公や水戸学を厚く信奉していたことが伺い知ることができる。

国是三論

①富国論
 立派な政治を行っている西洋諸国が日本にやって来て、公共の道をもって日本の鎖国を開こうとするとき、日本がなお鎖国を固守し続け、徳川ご一家や各大名一家のための私営の政治を求めて、「交易」の原理を知らないとすれば愚と云うべきである。
 したがって天徳にのっとり、聖教に拠って、世界各国の実情を知り、大いに利用厚生の道を開き、国内の政治や教育を一新して、富国強兵の成果を上げ、外国の侮りを受けないように努力しなければならない。
②強兵論

 今日のように航海が大いに開けて、海外の諸国をも相手にしなければならない時勢では、孤島の日本を守るには海軍を強くするほかに道はない。
 その軍制を定め国威を示せば、外国を恐れる必要がないだけでなく、機会を見て日本から海外諸国に渡航して、我が義勇をもって諸国の争いを仲裁してやれば、数年もたたないうちに諸外国が反って我が国の仁義の風を慕ってくるようになるだろう。

③士道論
 忠孝の道をつくそうとする天性を、特性に基づき道理に従って正しく導くのが文の道であり、その心を治め胆を練り、これを武術や政治で試してみるのが武の道である。
 したがって、君臣共に文武の道を二つに分けずに文武の教えを政治組織によって実行していけば、本当の文武の治教を達成することが出来て、風俗は淳厚質実となり、人材もここから生まれるであろうことは疑いない。

●「国是七条」
 春嶽が幕政改革の切り札として提出した小楠の建策(原文は漢文)
①将軍は上洛して、朝廷にこれまでの無礼を詫びる
②大名の参勤を止めて述職とする
③大名の妻を国元に帰す
④外様、譜代の区別なく有能な人物を登用する
⑤大いに言論の道を開いて天下とともに公共の政を行う
⑥海軍を起こし兵威を強くする
⑦相対(自由)貿易を止めて官貿易とする

●「国是十二条」
 慶応3年1867、正月11日起草。小楠が福井藩に提出した建策(原文は漢文)
①天下の治乱に関わらず、一国(一藩)の独立を基となせ
②天朝を尊び、幕府を敬え
③風俗を正せ
④賢才を挙げ、不肖を退けよ
⑤言路を開き、上下の情を通ぜよ
⑥学校を興せ
⑦士民をいつくしめ
⑧信賞必罰
⑨富国
⑩強兵
⑪列藩に親しめ
⑫外国と交われ

●『楠』か『楠木』か
  兵藤裕巳著「後醍醐天皇」(岩波新書)より
  太平記を筆頭に、多くの小説・記録・文書に残る「楠」
  明治期、大日本史見直し過程で出された川田の「楠木」説~学界公認に

  ~ 両説が混在することに
    兵藤は、「楠」説に軍配、そして採用
楠説 楠木説 
太平記 巻第三の1
後醍醐天皇の夢の事、付けたり楠正成のこと
〈帝〉

「木に南と書けば楠だ。この辺りに楠と云う武士はいないか。」
〈律〉
「河内の金剛山の西に楠多門兵衛正成という武芸において名高いものがおります。」

臨川寺領等目録(天龍寺文書)
 正慶元年1332 「楠兵衛尉」の記載
玉英 一条経通の日記
園大暦 洞院公賢の日記
梅松論

大日本史 水戸藩編纂
日本外史 頼山陽

明治10年代
修史館における「大日本史」見直しによる国史の編纂作業が行われる
 
川田剛(かわだたけし)
「正成の家号に必ず木の字を加うべき」


 ~約20種の「旧記古文書」を根拠に「楠」略表記と主張
 この考えは、修史館の後身である帝国大学史料編纂掛(現在の東京大学史料編纂所)に受け継がれ、学界公認の説となる。
 結果、学校教科書や一般書の類も楠木と表記されるようになる。

増鏡





著者・兵藤の結論
 『楠』説を採用!
・川田が「楠木」説の根拠として挙げた「旧記古文書」の多くは、鎌倉幕府側の記録文書で、クスと呼ばれるのを避けて、「楠木」と表記した可能性も考えられ、実証はされていない。
・川田説よりも以前に『楠』説は流布していた。
・「太平記」の圧倒的な影響下にかかれた近世の史書・史論の類は、すべて『楠』である。
 

●楠公碑、拓本掛軸の寄贈を受けて
 918日 掛軸の寄贈を受ける
 寄贈者 岩﨑清人氏 宇都宮共和大学非常勤講師
 京都大学付属図書館
  品川弥二郎が創設した尊攘堂旧蔵の維新資料コレクションの一つ
  明治366月寄贈の軸物約300点の一品/昭和469月 所蔵品として正式登録。旧所有者では、少なくとも昭和30年代には手許にあった
   ~ 明治36年前に制作されていたことが分かる
 ・「村瀬栲亭撰 正四位下検非違使兼河内の守楠公碑」銘
   原文 200文字/2000文字超のうち、約1800字は長文の序
◇村瀬栲亭撰
《碑》
正四位下検非違使兼河内守楠公碑
《銘》

哉楠公 克世厥勲 奉若遺訓 乃義乃仁 社稷安危 依頼一人
人倫大節 負荷一身 延元已降 天歩滋艱 車駕南巡 皇統如線
豺虎猖獗 海宇麻乱 劇賊漫淫 釁寇邊 維公出奇 神化鬼變
挫鋭誉田 逐北瓜生 虜軍土崩 棄兵霧散 江北震驚 悉衆來攻
公據孤城 抗節彌堅 發誓宗社 致命王廷 精貫白日 氣烈秋霜
三千一心 敗八萬衆 電發龍驤 斬獲如菅 賊酋頽靡 殆授其元
甲血淋漓 馬斃兵殫 豈戰之罪 天耶其命 昆弟伏劍 不辱其名
史策所記 炳然猶新 誠忠至孝 孰如公全 千載之下 日月爭光

爰以堅石 于甲可南 以諗来者 弔古於焉

(略解~扇谷文責)
嗚呼良くも、正しいかな大楠公。国家、王室のため世に尽くした功績は極めて大きい。
遺訓を残す。義を尊び、仁を尽くせと。
朝廷の興亡、一人嫡子正行公に託す。
人としての道、それは国家、主君に対する大きな節操と、正行公、父の遺訓を継いでその任に応える。
湊川で正成が倒れた後、天下の形勢は非常に困難な状況にある。
後醍醐天皇は吉野に入ったが、皇統は岩穴から一筋湧き出るいずみのようなひとすじのように衰えている。
尊氏ら賊軍は激しく暴れ回り、海、山、天、空などしびれるほど乱れてしまった。
勢いの激しい尊氏ら賊軍は、ほしいままに巷にあふれ、争いの糸口を探しながら辺境を奪い取ろうとしている。
しかし、正行公は優れており、まるで神のように不思議な変化、策を繰り出す。
藤井寺の戦い教興寺に細川顕氏の精鋭を夜襲で破り、住吉天王寺の戦いでは山名時氏、細川顕氏の大軍を瓜生野から火を放ち大川・渡辺橋に潰走させた。
敵の軍は土が崩れ落ちるように一挙に崩れ、大川に溺れる兵を見捨て都に向けて一目散に敗走した。
尊氏ら足利勢は連戦連敗に震え驚き、全国からことごとく兵を集め京の都を発進した。
正行公は河内東条に全軍を集め、皇統のために尽くすという志を固く守って変えずに、ますますその志を高々と掲げた。
その誓いを宗廟と社稷、すなわち国家に示し、乃ち死を覚悟して正統な皇統に尽くすと。
正行公らの誠心は輝く太陽をも貫き、その覚悟のほどは厳しい秋の霜をも凌駕する程である。
正行軍3千の精兵は心・思いを一つにして戦いに臨み、八万の敵の軍を次々と撃破した。
その勇敢な戦いぶりは、龍が天に上る如く威勢に優れ、稲妻のように電光石火出撃し、敵兵がまるで原野に咲く茅の如く、ことごとく討ち取った。
敵将、高師直は正行公の勢いに怖れ逃げ隠れ、討ち漏らしはしたものの、賊軍の頭はいただいたのも同然である。
鎧を付けた兵士は誰もが血滴り、多くの兵馬は倒れ、悉く尽きてしまった。
戦のもたらす罪は大きい。しかし、天下のため、命を捧げたものである。
正行公、正時の兄弟は、刀折れ、矢尽き破れたが、その名声を決して汚してはいない。
歴史上の記録によれば、明らかに新しい時代の先駆けとなった。
正行公の示した天子への忠義、父、正成公への孝行、いったい他に誰がこの忠孝両全を成し遂げることが出来た者がいたか。
正行公は、千年の歴史を経てもなお今、太陽そして月とその光を競う輝かしい誇らしい存在である。
ここにおいて正行公をしのび、銘を刻み石柱を建てる。その地は甲可村、雁屋の地である。
四條畷を訪れ、正行公の事績を顕彰し、弔おうとする者は、ここ、小楠公墓所に参られよ。


●くすのきまさつらカルタ
 10月26日(金)
 くすのき小学校カルタ大会
 時間 1330分~1435
 場所 体育館
 参加 3年生児童72名と保護者72名 計144
    学生約20名 正行の会 教育委員会4名 市役所3
    2回に分けて10組づつカルタ取り。
    各班トップ1名の中から上位5名を、12月総合センターに招待
 12月5日(水)~11日(火)  総合センターで原画展
 12月8日(土)午後1時~4  総合センターでカルタ大会
 □最終データ受け取り、業者発注 1000セット

●第7回楠正行シンポジウム

 以下のとおり決定。開催に向け、関係機関等調整に入る。
 事業実施要綱(案)

 □日時 平成3139日(土)午後2時~午後4
 □場所 四條畷市立教育文化センター・2階ホール
      〒575-0021 四條畷市南野5丁目216

             電話&FAX 072-878-0020
 □内容 1部 基調講演
       「くすのきまさつらカルタの制作意義と果たす役割」
         木子 香(大阪電気通信大学総合情報学部・准教授)

     2部 対談
       「今、蘇る楠正行ワールドをあつく語る

        加島裕和(如意輪寺副住職)×扇谷 昭

      NHK大河ドラマ誘致実現に向け楠氏をあつく語る
     如意輪寺、143名の過去帳再現プロジェクト始動!
      史実と伝承を基に、次々と蘇る確かなストーリー

 電通大・社会プロジェクト実習と四條畷楠正行の会コラボ第2弾、「くすのきまさつらカルタ」が完成しました。基調講演は、電通大木子香准教授を迎え、カルタ制作の意義と、今後、カルタが次世代への楠正行顕彰に果たす役割について講演頂きます。
 正平21227日、吉野山如意輪寺を訪れた楠正行は、後村上天皇に別れの挨拶をし、後醍醐天皇塔尾陵に詣った後、本堂に詣で、付き従う143名の武将の名前と辞世の文章を過去帳に記し、板塀に「かゑらじとかねて思えハ梓弓 なき数にいる名をぞとどむる」と辞世の歌を鏃で刻み、決死の覚悟で吉野を出で、四條畷へと向かいます。

 翌正平315日、本陣を構える河内往生院を早朝に発した楠正行千騎は、途中枚岡神社で身を浄め戦勝祈願をした上、巳の刻、野崎で戦端を開くことに。
 この時、正行に従った143名の武将、果たしてそれはいったい誰等であったのか。また、どのような場所でどのような戦いをしたのか。

 如意輪寺では、この過去帳再現プロジェクトを立ち上げ、始動しています。
 また、四條畷楠正行の会は、平成2611月発足以来、楠正行が生きた時代、そして楠正行の生涯に影響を与えた人物や正行の影響を受けた人物等の検証を通じ、楠正行の事績を掘り下げ、繙いてきました。朱舜水作楠正行像賛の発見はその最大の成果です。そして、大人は勿論の事、次代を担う若い世代への継承を目的に、スクリーン映像紙芝居の制作、正行像賛扇子の制作、絵本制作、カルタ制作、構成吟の発表等の事業を続けています。
 そして、今年、思いがけず「正四位下楠公碑」の拓本掛け軸の寄贈を受けました。碑文は江戸末期の儒学者村瀬栲亭の撰で、1800余文字の長文の序と、銘200字が綴られています。会場にはこの掛軸を展示するとともに、銘の略解も発表します。
 143名の過去帳再現プロジェクトの仕掛け人、如意輪寺加島裕和副住職を迎え、四條畷楠正行の会代表扇谷との対談で、今蘇る新たな楠正行ワールドを熱く語り合います。乞う、ご期待!


 展示 正四位下楠公碑拓本掛軸、楠公碑銘略解、四條畷市の小字一覧図他
 定員 100名(先着申込制:電話・FAXEメール・はがき)
              /氏名・住所・〒・年齢・電話番号
 会費 500
 広報 ・ポスター、チラシと関係者等案内状発送

    ・教育文化センターHP、四條畷市HP、四條畷市広報誌2月号
 販売 正行像賛扇子・楠正行カルタ・小説「楠正行」・楠正行CD
 主催 四條畷楠正行の会
 後援 四條畷市・四條畷市教育委員会
    四條畷市立教育文化センター・四條畷神社・産経新聞社
 協力 御妣会・小楠公偲ぶ会

 (お断り:後援、協力の団体名につきましては、現段階ですべてご承諾をいただいているものではありません。)

□「なにわ大坂を作った100人」出版
 古代~15世紀編 1800円+税
 楠木正成・楠正行
 継体天皇、行基、菅原道真、法然、後鳥羽上皇、北畠顕家、一休宗純他
 ・楠正行の項
   四條畷神社の主神 忠義・孝行共に全うした若き武将
   フイールドノート
    今も各地に残る小楠公の足跡
     ~ 教育文化センター・楠正行資料室の紹介記事も 写真と共に
    渡辺橋、河内往生院、四條畷神社、如意輪寺
    正行の墓所/額田首塚・宝筐院首塚・正行寺・小楠公墓所・甑島・
    往生院胴塚
    東高野街道、四条畷駅、楠妣庵観音寺
   参考文献/太平記、田中俊資「楠正行」、扇谷昭「楠正行」他


□楠木検定解答解説会
 日時 107日(日)午後1時~午後230
 場所 産経新聞大阪本社
 内容 1部 特級・1級表彰式
    2部 解答解説会
       講師 安本寿久(産経新聞編集委員)・扇谷昭
 結果 最高得点 90点/1人 特級認定
    1級    80点以上/15
    2級    70点以上/19
    平均点  67.9点/扇谷出題22問 正答率55.0

□後醍醐天皇塔尾陵正辰祭と如意輪寺御忌法要
 日時 927
 参加 扇谷、国府、木村、広木
 内容 正辰祭 塔尾陵に参拝し、陵内で拝礼
    御忌  本堂で法要 散花之儀、献楽之儀、厳修、焼香
        後醍醐天皇座像・玉座・地下衆装束等 新調
 出席 五條元滋(五條頼元24世末裔)、永島全教(観心寺住職)等


 次回例会/現地学習のため教室での例会はお休みします。 
 日時 1113日(火)
 集合 総合センター駐車場 午前900分集合・出発
 行先 大廣寺(池田市)
     正行の遺児を迎えた池田家城主の菩提寺


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信76号はコチラからも(PDF)




「教文でスナッグゴルフ」

日時 平成30年10月8日(月) 午前10時より12時
場所 教育文化センター 芝生広場 
イベント内容 スポーツの秋、ぬける様な好天のもと、スナッグゴルフを楽しみました。



第25回「教育文化センター利用サークル合同サークル展」

日時 平成30年9月16日(日) 午前10時より午後4時
場所 教育文化センター 全館 
イベント内容  教育文化センターを利用するサークルが、日頃の活動成果を存分に発表しました。

楠正行資料室

楠正行資料室





初めてのお絵かき





四條畷楠正行の会 第45回例会

日時 平成30年9月11日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
<例会の様子>
●四條畷市小字図で「古戦田」字地を確認
 今日の例会は、多くの会員で色々な用事が重なり、7人での、やや寂しい開催となりました。しかし、8月傍聴された内藤さんが正式に入会され、また一人新しい仲間を迎えました。
 国府さんから、21号台風による近隣の被災について報告を受けると、安井さんから「四條畷神社境内の木が倒れた」と、扇谷からも「田原住吉神社の直径70センチほどの大木2本が根元から倒れた」等、四條畷の歴史的遺産にも大きな被害が出たとの話題で始まりました
 全国、多くの被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、北海道地震で亡くなられた方々と被災にあわれた方々にもお悔みとお見舞いを申し上げます。


↑村田正志著作集「楠氏の研究」を読み込む


↑ホワイトボードに四條畷市小字図を張り出し、「古戦田」字地を確認



<第45回例会の内容>
楠正行通信第73号(87日発行)
・頼山陽、日本外史で正行の正四位下記す
・楠氏の大節は山河と並び存し、と称賛/日本外史は名分論の武士歴史書
・渡辺橋~袖を断って首をつつみ/足利氏、源氏より罪が重い


楠正行通信第74号(87日発行)
 ・電通大『まさつらカルタ』制作、いよいよ佳境
 ・企画運営・記録班 四條畷市に協力求め表敬訪問
 ・絵札・字札等の制作始まる/21人の学生6班で/講義・現地学習/四條畷市4人の課長、協力約束/くすのき小学校も訪問/記録班・通信発行


楠正行通信第75
 ・823 電通大「まさつらカルタ」集中講義でプレゼン!
 ・「絵札」「字札」「箱」「しおり」の試作発表
 ・正行の会、市職員ら16名参加/くすのき小と総合センターでカルタ大会開催/字札の裏に「逆菊水家紋」/45枚の絵札に大きな拍手/字札・解説文にもルビを打つ/箱のデザインに楠木の花/まさつらカルタ通信第2号発行
 ・学生に、史実との過誤に最大の注意を、と要請!

●楠正虎と正行
 楠(大饗)正虎 永正171520~慶長元年1596

           正成と無縁の正虎、
    正親町天皇から楠氏に対する朝敵赦免の綸旨得る

 元中91392、南北朝が統一され、室町幕府が本格始動すると、楠氏は逆賊として暗黒時代を迎え、その末裔たちは全国へ散ることになる。
 永正17年、血統上は楠氏と全く無縁の楠(クス)正虎が誕生する。
 楠(クス)氏は流浪して河内の大饗に土着したことから大饗と名乗るが、正虎に至り楠(クス)の本姓に帰る。
 楠(クス)は楠(クスノキ)に通じることから、太平記を発信源とする当時の世相=楠正成に対する尊敬心が生まれ、次いで崇拝の念が起き、正成の誠忠が世人に認められる世相を敏感に察知し、正虎は自らを楠(クスノキ)正成の11代末裔を名乗る。
 正虎は筆蹟に巧みであったので、松永久秀に取り入って朝廷に近づき、正親町天皇の皇子皇孫に書道を授け、天文221533、信貴山に、正成の修羅闘争の苦慮と自分の武運増長を、所願するに至る。
 そして遂に、永禄215591120日、正親町天皇から楠氏に対する朝敵赦免の綸旨を得る。更に同年1219日、河内の守に任じられ、永禄61563、従四位下に叙される。

(綸旨)


 建武の頃、先祖正成朝敵たるにより、勅勘せられ、一流己に沈滞し訖(おわん)ぬ。然れども今其の苗裔(びょうえい)として先非を悔い、恩免の事歎(なげ)き申入るるの旨聞こし食さるるものなり。弥奉公の忠功を柚(ぬき)んづべきの由、天気かくの如し。これを悉(つ)くせ、以て状す。
  永禄21120
                   右中弁(花押)万里小路輔房


 楠河内守殿

 これらの文書は香川県の楠家に伝来するといわれる。村田正志によると、疑うべからざる当時の原本とのこと。
 ここに驚くべき時代変化の反映が読み取れる。近世正親町天皇の代に至って、初めて正成以来の楠家一門の朝敵たることが勅免となった。
 楠正虎は、楠氏復活の大立役者といえる。

        近世、楠氏復活の大立役者、正虎
 楠正虎は、松永久秀の祐筆として仕え、久秀没後、織田信長に祐筆として仕える。天正315758月ごろから長諳筆による信長の発給文書が多数みられるという。
 天正101582519日、安土摠見寺で行われた信長による家康もてなしの宴に参列した記録も残る。
 本能寺の変後は、豊臣秀吉に従い祐筆を務める。秀吉時代は文書を筆記することは少なく、和歌や記録の清書を主任務としていたといわれる。
 このように、巧みな処世術と卓越した才能によって、楠正虎は松永久秀、織田信長、豊臣秀吉に仕え、また徳川家康とも交誼を持ったことが分かる。
 このように天下人や有力武将に仕えた楠正虎の存在が、楠氏復活に道を開き、太平記流布等に影響を及ぼし、いわば太平記読みの時代到来に点火をする役割を果たしたものと思われる。
 楠正虎は、慶長元年1596111日に77歳で没するが、世は徳川家康の時代を迎え、太平記読みの世界が広がると、楠公精神の高揚が高まり、万治31660、加賀藩主前田綱紀の命によって狩野探幽が「楠公父子訣別図」を描くことになり、天和元年1681、安東省菴は南朝を正統とする「日本史畧」を著わし、元禄51692、徳川光圀が神戸湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立、同年室鳩巣が理想的な指導者像は楠正成と「明君家訓」を記すなど、一挙に、楠公精神は表舞台に頭角を現してくるのである。
 そして、明治元年1868、明治維新によって日本近代化の幕が切って落とされ、その中心に楠公精神は大きく開花した。
 このように考えると、近世、楠公精神復活の大立役者は、正親町天皇から赦免の綸旨を得た楠正虎によるところ、誠に大と言わざるを得ない。

  江戸期の楠公顕彰を可能にした楠正虎の事績、今再評価を
 後醍醐天皇の目指した天皇親政は、公家社会にほころびが見え、武家社会が台頭する中で時期尚早であった。
 しかし、後醍醐天皇が仕掛け、まいた種は、楠公精神として一君万民国家形成に向けた潜在能力として生き続け、やがて幕末、西欧に学んだ多くの若き獅子たちによって明治維新として開花する。
 南北朝以降、室町、戦国の世を経て、織豊期から江戸初期、楠公精神が復活し、顕在化することになる。
 この顕在化の契機を考えるとき、当時賊軍であった楠氏であったが、楠正虎によって、正親町天皇の赦免の綸旨を得、かつ従四位下の官位、そして河内の守の官職を得た事績は、楠氏復活の一大出発点になったことを、今、再評価すべきではないか。

↓当日の配布資料(扇谷作成)


●楠正行カルタプロジェクト
<今後の予定>
9月広報誌掲載
103日 最終確認(扇谷)~史実との過誤チエック
1010日 電通大学学内大会
       販売用カルタ発注
1026日 くすのき小学校3年生によるカルタ大会
125日~9日 原画展(総合センター)
 128日 総合センターでのカルタ発表とカルタ大会
       販売用カルタ納品・配布・販売開始
 311月 図書館のカルタ大会に出品
311月以降 正行ゆかりの地でのカルタ大会(予定)

●第7回楠正行シンポジウムの開催について
 来年3月、教育文化センターで開催!
 詳細は、10月例会後に発表! 乞う、ご期待!


 <今後の予定>
  09月 実施要項(案)検討
  10月 実施要項決定
  11月 関係者、後援・協力要請
  01月 広報誌原稿・ポスター・チラシ作成
  02月 広報掲載・ポスター・チラシ掲示
  0309日(予定) シンポジウム開催

●門真納税協会会報誌「税と繁栄」8月号に紹介記事載る
 四條畷楠正行の会代表、扇谷が見開き2ページの特集ページで紹介されました。

●各地で「楠公さん」NHK大河ドラマ誘致、署名活動始まる
 四條畷市や河内長野市、千早赤阪村等で組織された誘致協議会の呼びかけで始まった署名活動が広がっています。
 東大阪市では、すべての自治会参加のもと、積極的に署名活動が進められています。
 多くの人々の参加のもと、「楠公父子物語」大河ドラマの実現に期待が高まっています。

●南朝ゆかりの自治体による日本遺産登録を目指す協議会事業に協力
 ワーキンググループに参加要請!

 現在、吉野町が呼びかけ自治体となって、南朝ゆかりの事績、特に各地に残る山城城塞群や数々の南朝文化遺産の日本遺産登録を目指す活動が展開されています。
 この協議会には、全国、九州から東北まで20を超える南朝ゆかりの自治体が集まり、日本遺産登録によるネットワークの構築と観光客誘致で町おこしを図ろうとするものです。
 この協議会では、日本遺産登録後の実行部隊の立ち上げを企画しており、各自治体で参加する団体をワーキンググループとして募っており、四條畷市から四條畷楠正行の会にも参加要請を受けました。

●小字地図で四條畷の合戦の地「古戦田」字地を確認

 山口博氏が作成された四條畷市全域の小字を書き込んだ手書き地図の複写を入手することができました。
 この小字地図には、四條畷の合戦が行われたと推定できる「古戦田」字地が2か所(四條畷保健所から旧法務局跡地にかけた中野一帯、小楠公墓所の前辺り)記されています。
 この日は、参加者全員で、しっかりとその場所を確認しました。
 なお、この小字図には、貝原益軒が南遊紀行に記した「城ムラ」や「茶屋」が、南野から川崎にかけて「城」「茶屋前」小字としてはっきり残っていることが分かります。そして、上田原には、何故か「死人川」の字地が見えます。扇谷は、この地は上田原山中であることから、田原キリシタン弾圧との関係ではないか、と推察しています。
 小字は、まさに地域の歴史そのものを感じさせてくれます。また、なぞをも感じさせてくれます。

 次回例会 
 日時 10月9日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 横井小楠と正行
    電通大学正行カルタプロジェクトについて
    7回楠正行シンポジウムについて

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信73号・74号・75号はコチラからも(PDF)




教文「夏祭り」

日時 平成30年8月25日(土) 午後3時より午後8時
場所 教育文化センター 全館 
イベント内容  芝生広場では、ウォータータイムとダンスチームの発表に加え、井上恵一さんのライブ演奏を行い大変盛り上がりました。その後に花火を行い、本館2階では段ボール迷路や模擬店が並び、楽しく過ごせました。














四條畷楠正行の会 (平成30年8月8日)




       残暑お見舞い申し上げます。
                 



 8月の例会はお休みです。

 7月最初からの猛暑・酷暑に悩まされ、疲れる日々が続きます。8月例会は、このように猛暑という事もあり、またお盆と重なることから休会としました。

 但し、楠正行通信は発行しましたのでどうぞご覧下さい。




●くすのきまさつらカルタ制作、順調に進む
 大阪電気通信大学とのコラボで制作中の「くすのきまさつらカルタ」は順調に取り組みが進んでいます。725日、試作段階の絵札4枚と字札10数枚等を見ましたが、予想以上の仕上がりと喜んでいます。
 823日の集中講義の授業で、私たちの会と四條畷市関係部署の職員に対し、各班から試作のプレゼンテーションを受ける予定です。
 ここでの意見集約を受けて、学生は最終制作に取り掛かります。
 完成は9月いっぱいを予定しています。
 乞う、お楽しみ!


●産経新聞社主催「楠木検定」、大阪、東京で100人挑戦!
 85日(日)、産経新聞社主催の楠木検定が、大阪と東京の会場で行われ、約100人の受験性が挑戦したとのこと。
 新聞報道によると、受験生の一人は、「成行」さんという方で、「名前が成行なので、正成公・正行公に親近感がある。70点はいくかも」と話された、とある。
 全国で100名の受験とは少しさびしい気持ちもあるが、このような機会が増え、更に楠氏、そして正行公の顕彰の取り組みが進むことを願っている。
 受験生の皆様、お疲れ様でした。


❖❖❖❖❖ 楠正行通信 ❖❖❖❖❖

*楠正行通信第73号
 ・頼山陽、日本外史で正行の「正四位下」記す
 ・楠氏の大節は山河と並び存し、と頼山陽称賛
 ・渡辺橋の美談~正行、袖を断って首を包み

*楠正行通信第74号
 ・電通大「くすのきまさつらカルタ」制作、いよいよ佳境
 ・企画運営と記録両班、四條畷市に協力求め表敬訪問
 ・76日付産経新聞朝刊紙面で大きく取り上げられる


❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖


次回例会 
 日時 9月11日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 大饗正虎と正行
    電通大学正行カルタプロジェクトについて
    その他

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信73・74号はコチラからも(PDF)




四條畷楠正行の会 第44回例会

日時 平成30年7月10日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
嬉しい3名の傍聴者の参加
 今日の例会は、3名の傍聴を迎え、急きょ机を1台追加しての例会となりました
 国府世話人から、この度の西日本各地を襲った大雨による災害で被災された方へのお見舞いの言葉で例会は始まりましたが、改めて、被災し亡くなられた方にお悔やみ申し上げますとともに、安否不明の方の捜索が一日も早く進むことを願っています。
 また、建物倒壊や浸水被害にあわれました皆様にお見舞い申し上げます。


うれしい傍聴3人が加わり、机1台増えた例会

↑頼山陽の関係図書を手に説明する扇谷
例会の
内容
*楠正行通信第72号
構成吟 楠正行~志貫き通し義に生きた なわての誇り楠正行

・明治維新150年/小楠公登場/この母ありて/楠正行6時間の激闘/四條畷神社 創建/芳野山に残る正行の足跡/平和主義者楠正行

■頼山陽と正行
頼山陽
 安永91780~天保31832
 江戸初期の歴史家、書家、詩人
 「日本外史」
  ~ 幕末から戦時中までのベストセラー
    武家時代の政治の歴史 漢文体の通史
    朱子学的名分論


●日本外史
*巻の五 新田氏前記 楠氏
〔吉野の行宮〕
 正四位下
 …帝、正成の王事に死せしを思ひ、正三位左近衛中将を追贈し、正行を正四位下に叙して、帯刀となし遂に父の官を襲(つ)ぎ、検非違使・左衛門尉に任じ、河内の守を兼ねしむ。
〔正行の北撃〕
 渡辺橋の美談
 …顕氏の軍乱れ走り、渡辺を過ぎて、溺るる者無数なり。京畿(けいき)震駭(しんがい)す。正行、溺卒五百人を援(すく)ひ、衣甲を与へ、礼してこれを遣(や)る。留まり仕えんと願ふ者多し。
〔四條畷の戦い〕
 偽首の件
 …「嗚呼、汝もまた無双の国賊なり」と。己にして曰く、「その勇は嘉(よみ)すべきなり」と。自ら袖を断って首(こうべ)をつつみ、隴上(ろうじょう)に置き、復た進んで師直を索(もと)む。
〔楠氏論賛〕
 頼山陽、楠氏無ければ建武の新政はなかった、と楠氏絶賛!
 …楠氏あらずんば、三器ありと雖も、将(は)た安(いず)くに託して、以って四方の望みを繋がんや。
 …而してその大節は毅然として山河と並び存し、以って世道人心を万古の下に維持するに足る。これを姦雄迭(互い)に起こり、僅かに数百年に伝ふる者に比すれば、その得失果たして如何ぞや。

*巻の九 足利氏正記 足利氏
〔足利氏論賛〕
 頼山陽、足利氏は源氏よりも罪が重い、と酷評!
 …源氏は王土を偸(ぬす)み、以って王臣を捿(ひ)く者なり。足利氏は王土を奪ひ、以って王臣を役する者なり。故に足利氏の罪を論ずれば、源氏に浮(す)ぐ。



頼山陽の漢詩より
*桜井訣別
*謁楠河洲讃有作

●正行カルタプロジェクトについて
613
  講義③  字札の句発表
629
 企画運営部会・記録部会メンバーと市関係部門課長との顔合わせ
 出席:産業振興課長・生涯学習課長・魅力創造室課長・公民館長
76
 企画運営部会・記録部会メンバーとくすのき小学校香村校長顔合わせ


(今後の予定)
725日 各部進捗の確認と調整(扇谷授業出席)
823日 集中講義
      楠正行の会へのプレゼンと質疑応答
      注意 当初予定の824日から変更
      午前10時~正午/講義終了後、学食で学生と昼食会
      出席12
10月以降 くすのき小学校でのカルタ大会
      総合センターでのカルタ発表会・原画点とカルタ大会

311月以降 正行ゆかりの地でのカルタ大会の開催

●小原君絵本、四條畷市教育委員会教育長に贈呈
●産経新聞取材班「教科書が教えない楠木正成」出版!
 楠木正成考「公」を忘れた日本人へ 第1部~第19部 総集編
□楠木検定
 ・『楠木検定』実行委員会主催
 ・開催日 85日(日) 13001500

 ・受験料 ¥3,500
 ・会場 四條畷市/神戸市/河内長野市/大阪市/千早赤阪村/東京都千代田区
 ・50100問/80点以上2級 90点以上1級 上位3人マイスター
 ・9月 解答解説会・表彰式開催
●内藤さんからの情報提供

 四條畷高校卒業生
 昭和16年 大阪府立四條畷中学校発行「太平記鈔・日本外史鈔」
  ~ 正四位下検非違使兼河内の守楠公碑 全文掲載
  ~ 正行奮戦之図 別紙
●小説に四條畷の合戦登場!
 小説「昭和時代にタイムスリップ 原風景 北條」
 推敲に協力依頼有/近々、発行予定
  ~ 四條畷の合戦場所等に見解求められる
●「楠公碑」掛け軸拓本の寄贈申し出
 立川市在住/ご主人が四條畷にご縁
 「正四位下検非違使兼河内の守楠公碑」掛軸拓本を所蔵
 寄贈の申し出を受ける
●隅田城址を訪れる

 ・日時 6月17日
 ・参加 如意輪寺加島住職夫人、広木双葉東京支部長


■隅田八幡神社
 貞観元年859 欽明天皇により八幡宮勧請
 後に石清水八幡宮の社領となり、「隅田の別宮」と称した
 鎌倉時代、隅田党が社務を司る俗別当職、隅田荘の荘官である公文職を務め、隅田党の氏神となる
 永禄31560 松永弾正によって焼かれるが、慶長年間15961614に再建
 江戸時代に入ると隅田荘16か村の産土神として繁栄
 社殿は文政21819に焼失するが、同5年再建されたもの
《文化財》
 国宝「人物画象鏡(じんぶつがぞうきょう)」
■隅田城址

(出典 2015.06.16 橋本市教育委員会 大岡氏取材)
隅田城址≒岩倉城址
 史実の上からは隅田城は特定されていない
 少なくとも南北朝期にはなかったのではないか
 周辺の岩倉城や霜山城などの全体を指すのではないか
②隅田氏
 隅田氏という一族が続いていたものではない
 岩倉氏、葛原氏、霜山氏、山内氏などの一族を総称して、隅田党を組織したものと思われる
 天文年間(15321555
  伝三郎という人物、垂井村に移る→(あたらし)倶氏 同一人物
  「新伝三郎倶氏之碑」
  裏面:永禄三年庚申二月 松永弾正兵火のため隅田八幡宮並岩倉城焼亡際討死
 新倶氏の子、市兵衛 隅田の一老となり、隅田氏を名乗る
 近世の初めに、隅田を名乗ったもの

隅田の西に銭坂城
 坂上田村麻呂の末裔
 伊澄 伊都郡司となり楠木正成の妹を妻にする
    この縁にて正成の旗下に属して軍功を立てる
    この頃、生地と名乗る
    「銭坂城は、生地氏の城跡なり」
 隅田一党はそう簡単には楠攻めに動けない状況
正行、正平2810日の隅田城攻め
・後顧の憂いを絶つというよりも
・生地氏助力の意味から動いたものではないかとの推測も成り立つ(大岡氏)
■利生護国寺~隅田一党の菩提寺

 聖武天皇が行基に創建させたお寺
 鎌倉時代に再興
 本堂は国の重要文化財に指定されている
 史料は全く残っていない 墓は移したもので、特定できる石碑はない
■五条散策

・五條市民俗資料館~天誅組の歴史
・桜井寺~天誅組本陣跡/石手水鉢・刀傷の残る柱(住職説明受ける)
・共同墓地~五條代官墓所・森田文庵の墓(森田節斎の父)
・まちなみ伝承館
・赤屋根半七宅跡

□広木情報
・大廣寺~池田家菩提寺 略記より
 5代池田城主 池田筑後の守充正が帰依、伽藍諸堂を再建

 池田城~大廣寺の下に、池田教依が築城 北朝、足利氏に属していた
 2代目城主は、楠正行遺腹の子、教正
 教正は、後年、子佐正に城を譲り、安芸の五日市に築城、南朝に従った
 充正の弟、恒元の子、恒利が池田城を出て備前岡山の藩主となった。
菊池契月画
 小楠公弟兄
 描かれた二人は楠木正成の長男・正行と次男・正時である。
 本作は、色違いの衣装を身にまとい、溌剌とし精気みなぎる若き兄弟の姿を描いている。
CD楠木正成・楠正行・嗚呼大楠公

 75日 四條畷神社米村宮司表敬訪問
         炭谷(作曲)、扇谷(作詞)

       吉野町・如意輪寺表敬訪問
         炭谷
 ・キャラバンカー
  ボディ3面に全面ペインティング
  建水分神社秋祭り、南河内地区各地区盆踊り等に出演決定!
□インフォーメーション
 ・平成30年度「なわて学」前期講座
  第4回 818日(土)午後2時~ 総合センター
       「小字名で繙く四條畷の地勢とその歴史」

        講師 野島稔・扇谷昭
  第5回 915日(土)午後2時~ 総合センター
       「四條畷ゆかりの人物を繙くパネルディスカッション」
        講師 河井秀夫・藤岡巧一・毎田佑佳

その他
連絡等
次回例会/8月例会はお休み 
 日時 9月11日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 大饗正虎と正行
    電通大学正行カルタプロジェクトについて
    その他

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信72号はコチラからも(PDF)



四條畷楠正行の会 第43回例会

日時 平成30年6月12日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
●アクシデントに見舞われた6/9現地学習
 そして、いよいよ正行カルタ字札44句の決定!

 69日に実施した大阪電気通信大学・正行カルタプロジェクトの現地学習(渡辺橋・四條畷神社・小楠公墓所・和田賢秀墓)は、JR学研都市線の野崎駅付近で起こった人身事故の影響をまともに受け、集合地の天満橋駅に向かえない中、出発地の四条畷駅に参加予定者全員が集合してきた。
 JRの発表では、午後3時までの回復は難しいとのアナウンスがあり、急きょ、予定を変更して、天満橋に集合をかけていた学生たちに京阪電車(天満橋~大和田)とバス(大和田駅~四条畷駅)を使って四条畷駅に戻ってもらうこととし、それまでの間、正行の会のメンバーは臨時ミーティングをすることに。
 市役所から参加の魅力創造室と産業振興課の女性職員を含め、8人で、正行談議に花を咲かせ、四條畷高校の前に移動して、四條畷の合戦の行われた地を示す「古戦田」字地について再確認をした。
 しかし、早めの判断が功を奏し、午後248分に四条畷駅で合流でき、若干遅れはしたものの予定通り、四條畷神社、和田賢秀墓、小楠公墓所と現地学習をすることができた。
 この日の例会は、アクシデントに見舞われた現地学習の話題もちきりといった中で始まった。


↑総勢14人の参加で行われた6月例会

↑扇谷が発表する正行カルタ44句の原案に目を通す会員
例会の
内容
*楠正行通信第70号
古武士的武将型、乃木希典は楠精神の信奉者

・楠兵法・山鹿流兵学の師範、玉木文之進(吉田松陰の叔父)に師事
・乃木が座右の書とした山鹿素行の『中朝事実』
 ~万世一系の皇統と、日本の歴史・武士道精神の意義を説く~
*楠正行通信第71号
大阪電気通信大学正行カルタプロジェクト
 613日、字札44枚の句を発表

正行カルタ、第2回講義(523日)で構成吟を披露
真木さん、辻さん、迫力たっぷりに吟じる
 構成吟『楠正行』
  ~志貫き通し義に生きた なわての誇り楠正行~

   〔7場面構成と吟題〕
    明治維新150年    :楠公詠史   藤田東湖
    小楠公、登場      :桜井訣別   頼山陽
    この母ありて      :詠小楠公母  本宮三香
    楠正行、6時間の激闘  :十念寺    宮崎東明
    四條畷神社創建     :河内路上   菊池溪琴
    芳野山に残る正行の足跡 :芳野懐古   梁川星巌
    平和主義者、楠正行   :楠帯刀の歌  元田永孚


正行カルタ44句について
 この日、大阪電気通信大学とのコラボで制作を進めている正行カルタの字句(案)を発表した。
 字句案は、多くの会員から215件が寄せられた。
 この字句案は、楠正行の生涯について、幼少期から四條畷の合戦で討死する23歳までの事績を、字札セレクションとして55場面設定し、それぞれの場面ごとに字句案を考え、提出していただいたもの。
 字札セレクションの例を上げると、「桜井の訣別」「正成の首級、届く」「龍覚坊に学ぶ」「渡辺橋の美談」「板塀に辞世の歌」「津野辺、ハラキリ字地で自刃」「宝筐院に並ぶ二つの墓」「高山右近、日本訣別の書」「千騎対四万、四條畷の戦い」「朱舜水の正行像賛」など。
 当初の55場面になかった、「明治の正行」と「平成の正行」の2場面を追加し、57場面=字札セレクションから、44句を決定することにした。
 扇谷が配布した一覧を見ながら、「あ」から順次字札の句(案)を読み上げ、発表したが、ほぼ会員の思いに叶ったのか、頷いたり、どよめいたりと、和やかな雰囲気の中での意見交換・検討となった。
 検討の結果、「還幸」を「還る」に、「奉納」を「納める」に改めるなど、より子ども達にも理解が進むように数句について修正を加えた。
 また、楠の姓の表記について、「楠木」と「楠」が混在する中、私たちが正成には「楠木」の二文字を使い、正行には「楠」の一文字を使っていることをしっかり伝えてはどうかとの楠野さんの意見が出され、急きょ、「ん」の札を作ることに満場一致決定した。
 「ん 正成は楠木 正行は楠?」
 正行カルタ字札 最終45句 決定!
 最後に、これら45句を、6月13日、大阪電気通信大学の学生(正行カルタプロジェクト)に提案することとした。

如意輪寺過去帳再現プロジェクトスタート
 楠正行は、四條畷の合戦に向かう前、同寺を訪れて正行とともに143名の武将の名を過去帳にしたため、その過去帳を如意輪堂本堂に奉納したと伝わる。
 しかし、現在、その過去帳は如意輪寺には残っていない。
 如意輪寺では、この過去帳の再現プロジェクトを始動した。
 正行ゆかりの地の関係機関や研究者等の支援を受け、四條畷の合戦に従った143名の武将の名前を明らかにしようという壮大なプロジェクトである。
 加島裕和副住職は、「毎年、一人、二人でもよい。何年かけても、143名の武将の名前を明らかにし、過去帳を再現したい。」と、熱く語る。
 5月22日(火)、過去帳再現プロジェクトの始動ともいえる加島裕和副住職の四條畷訪問があり、扇谷代表がご案内した。
 この日、加島副住職は、扇谷の案内で、<四条畷駅~教育文化センター(楠
 正行資料室見学)~市役所(市長・教育長等表敬訪問)~福寿司(昼食)~
 小楠公墓所~四條畷神社(米村宮司表敬訪問)~和田賢秀墓~田原図書館
 (職員懇談・まさつら絵本閲覧)~飯盛山の小楠公像~四条畷駅>と、精力
 的に回った。
 この日、加島副住職は、如意輪寺に残る26名の位牌に記された名簿を持参し、扇谷に調査を依頼。今後、四條畷神社や関係者の皆さんの協力を得て、調査を進める予定。
 扇谷があずかった如意輪寺の位牌に残る26名の名簿と、四條畷市史に記されている24名の名簿との照合作業を開始。


如意輪寺の位牌に残る26名と、四條畷市史に載る24名の武将
如意輪寺の位牌  四條畷市史 
楠次郎正時
楠左将監正家
同人子息
和田新発意賢秀
和田新兵衛
和田紀六左衛門
同人子息二人
野田四郎
同人子息二人
橘五郎兵衛義親
金岸某
同人舎弟
良圓
同人子息
三輪西阿
同人子息
河邉石掬丸
譽田某
阿間了願
大塚掃介惟久
畠山與三職俊
畠山
青屋刑部
西河父子
 
楠次郎正時
楠左将監正家
同人子息
和田新発意賢秀
和田新兵衛
和田紀六左衛門
同人子息二人
野田四郎
同人子息二人

金岸某
同人舎弟一人
良圓
同人子息
三輪西阿
同人子息
河邉石掬丸
譽田某
阿間了願
大塚掃介惟久
畠山與三職俊
畠山
青屋刑部

 

教育文化センター子ども学習講座「まさつらくん」
 5月19日、6月2日の2回にわたって教育文化センター主催・子ども学習講座「まさつらくん」が開催され、扇谷・川口が講師として出席した。
 19日には、5名の小学生と保護者が、また、62日(土)には、 4名の小学生と3名の就学前児童とその保護者が参加した。
 第1部の絵本読み聞かせは、大阪電気通信大学が制作した6巻本の「楠正行」をスクリーンに映し出し、朗読ボランティア「あけぼの」の方の読み聞かせで行われた。
 大きいスクリーンに映し出される絵本の映像を見ながら、楠正行という人物の生涯や人となりなどが少しは想像できたのではないだろうか。
 第2部、19日は、映像紙芝居を大きなスクリーンに映して、子どもバージョンに吹き替えた脚本を使っての扇谷のナレーションと、川口さんのピアノ演奏(桜井訣別や四條畷などの歌)で実施。
 また2日は、如意輪寺や湊川神社等発行の絵ハガキ・小冊子等の映像をスクリーンに映し出し、これも子どもバージョンに吹き替えた脚本を使って正行絵物語を、扇谷のナレーションと川口さんのピアノ演奏で届けた。
 場面場面に合わせたピアノ演奏が非常に効果的で、「目」と「耳」から入ってくる情報に、子どもたちも食い入るようにスクリーンを見つめていた。
 2日の講座終了後、扇谷が1年生の男の子に声をかけると、「楽しかった。」の一言が返ってきた。
 少なくとも、退屈はしなかったようである。
 また、小学4年生の女の子は、「3年生の時、楠正行を習った。」と、四條畷市の郷土学習で副読本を使った教育がしっかりと行われていることも分かった。郷土ゆかりの偉人、楠正行の顕彰が一歩一歩ではあるが、着実に進んでいるようだ。
 なお、この日のサプライズとして、扇谷から、正行の肖像画と絵本の一コマをデザインした、手作りの名刺型修了証をプレゼントした。

楠岩五郎-河内のすもんとり-
 出典:「大阪春秋」平成26年秋号(NO.156)≪木村さん提供≫
・谷風、小野川、雷電が活躍した18世紀末の江戸期に活躍した河内力士がいた
・その河内力士の名前は、二本松岩之助改め楠岩五郎/小野川部屋所属
・天明5年(1785)、21歳、大阪本場所幕下35枚目で登場
・寛政元年(1789)、江戸11月場所、横綱小野川の土俵入りで太刀持ちを務める
・寛政3年(1791)、江戸春場所で、楠岩五郎と改名
 ~江戸城吹上苑での上覧相撲で、中入り前の29番目に登場し、江戸の荒馬に
  押し切りで勝利。楠岩五郎として初名乗りを受ける。
  『楠』の名乗りは、出身地・讃良郡深野村の近くの「楠正行墓」に因むと
  いう。
・慈眼寺旧墓地に「楠岩五郎」の墓がある。

四條畷市ふるさと納税楠正行特別バスツアー『講話集』発行
 四條畷市と四條畷楠正行の会が共催して、424日、26日と2回にわたって実施した楠正行特別バスツアー。
 講話いただいたのは以下の5名の方々。
 建水分神社/岡山禰宜、観心寺/永島名誉住職、如意輪寺/加島住職、
 宝筐院/吹田住職、正行寺/和田住職

 以上5人の方の講話を扇谷が採録し、楠妣庵観音寺・桜井の駅跡・東寺の
 グラビアページを加えて、講話集冊子を発行した。
 523日発行
 5月中に、参加者に郵送を終えた。

64日、お一人からお礼状届く〉
 大切な宝の冊子となりました
・講話集お送りくださりありがとうございました。大切な宝の冊子となりました。いろいろ楽しい素晴らしい思い出が出来まして幸せです。

小津安二郎監督作品「彼岸花」1958年公開で、笠智衆の詩吟登場!
 映画の一場面、同窓会の宿で、独吟を披露する笠智衆
 吟題は
  楠正行如意輪堂の壁板に辞世を書するの図に題す
 ~ 吟を聞き、「いいなあ。」「やっぱりいいなあ。」と頷く
   出演者一同
   そして、この後「桜井の訣別」を誰ともなく合唱する場面に
 ≪DVDは真木さん提供≫

小原君の作品「くすのきまさつらものがたり」製本完成!
 大阪電気通信大学在学時に小原君が卒業制作した「くすのきまさつらものがたり」の製本化を、扇谷が出版者となって進めてきたが、このほど完成。
 この日、四條畷楠正行の会でのお披露目の後、四條畷市教育委員会を通じ、「四條畷図書館」と「田原図書館」2つの図書館に寄贈の予定。
 この絵本は、1冊1巻本で、正行の生涯をしっかりしたタッチで描いていている。
 是非、2つの図書館でご覧ください。

その他
連絡等
次回例会 
 日時 7月10日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 頼山陽と正行
    電通大学正行カルタプロジェクトについて
    その他

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信70号・71号はコチラからも(PDF)




教文児童学習講座「親子で学ぶ!くすのきまさつら くん」

日時 平成30年6月2日(土) 午後1時30分~午後2時15分
場所 教育文化センター 2階 ホール
イベントの
様子
スクリーン投影による絵本読み聞かせと紙芝居・絵物語
 教育文化センターでは、四條畷の合戦で若くして討死し、四條畷神社に祀られ、小楠公墓所に葬られている楠正行について、広く子ども達にも学んでもらおうと、「教文児童学習講座―親子で学ぶ!『くすのきまさつらくん』」を企画・開催しました
 この企画は、この度、四條畷楠正行の会が大阪電気通信大学総合情報学部に制作を依頼して完成した絵本「くすのきまさつら」6分冊1巻本を使って、この絵本データを大型スクリーンに映しながら、読み聞かせを行うものです。
 また、今一つは、四條畷楠正行の会が過去に作られた紙芝居を補作・補正・カラー映像化して制作した映像スクリーン「正成、正行の生涯」と、湊川神社(神戸市)・楠妣庵観音寺(富田林市)・如意輪寺(吉野町)がそれぞれ発行している小冊子・絵葉書の映像スクリーンを使って楠正行の生涯を、映像を通じて学ぶものです。
 519日(土)/第1回と62日(土)/第2回の2回にわたって実施したもので、第1回には5人の小学生と保護者が、また第2回には4人の小学生と3人の就学前児童と保護者が、それぞれ参加しました。
(写真宇:上/開会であいさつする奥田所長、下/つじのさんによる絵本読み聞かせ)

6冊の絵本を読むと正行の人間像が子ども達におぼろげなく分かる
 講師として、絵本朗読では「ボランティアあけぼの」のつじのさん、映像スクリーンでは四條畷楠正行の会の扇谷代表と川口敦子さん(ピアノ演奏)の3人を迎えました。
 絵本は、「正行の学び「正行の友」「正行の大志」「正行の恋」「正行の情け」「正行の最期」の6分冊で、子ども達が、正行の成長の様子を身近に感じられるようになっています。
 正行の学びでは、立派な武将になるためには、剣術や読み書きだけではなく、裁縫もできなければならないと、全人格的教育を受けた様子を盛り込んでいます。また、正行の友では、従兄弟の和田賢秀と相撲やコマ回し、竹馬などを通じてケンカしながらも立派に成長し、友情を深めていった様子が分かるようになっています。
 正行の情けでは、住吉・天王寺の戦いで敵兵が大川に落ち、おぼれた時「戦いを止め!溺れる兵を助けよ。」と、敵の兵を助けるという、優しい平和主義者であった正行の側面が分かるようになっています。
 両日とも、ボランティアあけぼののつじのさんの読みかせを、子ども達は、スクリーンを見ながら熱心に聞き入っていました。
(写真:スクリーンに移された映像に合わせて読み聞かせるつじのさん)

スクリーンに写した絵葉書等に合わせて正行のことをわかりやすく伝える
 2部のスクリーン映像は、大人向けの紙芝居や学生向けの絵葉書を使った絵物語を子どもバージョンに脚本を書き換え、ピアノ演奏を交えて上演しました。
 「桜井の駅」や「四條畷」のピアノ演奏を担当する川口さんは、扇谷代表のナレーションに合わせて巧みに演奏し、会場全体が、一つになって正行の世界に浸りました。
 62日の映像スクリーンの最後には、ピアノ演奏に合わせた川口さんの独唱も披露され、子ども達も余韻を楽しんだ様子でした。
 2回の講座に出席した子ども達には修了証と記念品を授与しました。
 講師の扇谷代表からも、正行の肖像画(佐野喜美作)と絵本の一こまをデザインした名刺型の修了証がプレゼントされるというサプライズがあり、子どもたちも大喜びの様子でした。
 終了後、参加した小学1年生の男の子は、「今日は楽しかった。」と満足げに語ってくれました。
 教育文化センターでは、この児童学習講座を継続して企画・開催の予定です
(写真:ナレーションを担当する扇谷代表とピアノ演奏をする川口さん)




教文児童学習講座「親子で学ぶ!くすのきまさつら くん」

日時 平成30年5月19日(土) 午後1時30分より2時15分
場所 教育文化センター 2階ホール 
イベント内容 教文では小学3~4年生を対象にした歴史学習会を行いました。
第1部では新しく制作された楠正行の絵本6冊をスクリーンに映し出し、楽しく解り易い読み聞かせ会を開催しました。
第2部では楠正行のマンガ映像をピアノ演奏と共に上映しました。
次回は6月2日(土)午後1時30分より開催します。





「教文 親子体操教室」でお芋を植えました。

日時 平成30年5月10日(木) 午前11時より
場所 教育文化センター 
イベント内容 今日は「なると金時」の苗をみんなで植え付け、お水をあげました。
大きく育ちますように。






四條畷楠正行の会 第42回例会

日時 平成30年5月8日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
関西・大阪21世紀協会、「なにわ大坂を作った100人」に楠正行!
 今日は、例会に先立ち、午後1時から来客があった
 公益財団法人「関西・大阪21世紀協会」アドバイザーの江並さんという方で、現在、同財団の公式ホームページにアップしている「なにわ大坂を作った100人~足跡を訪ねて~」の73話、74話で楠木正成・正行を取り上げるため、取材を受けた。
 このシリーズは、取り上げた人物の本論と、ゆかりの地や史跡を訪ねたフイールドノートの2部構成で、拝見すると、時間をかけてゆかりの地を回っておられることが分かる。
 嬉しいことに、既に私たちの会の事務局を置いている四條畷市立教育文化センターの「楠正行資料室」にもお越しいただいていた。そして、この「なにわ大坂を作った100人」シリーズは、順次、書籍化され刊行が進んでおり、この73話・74話は、直近発刊の第2刷に収録されるとのこと。
 このように、正成・正行の顕彰が様々な方面・方々によって広がりを見せていることはうれしい限りである。
●例会は、国府世話人の「ふるさと納税楠正行特別バスツー」の報告で始まる

 例会は、会員13人と、関西・大阪21世紀協会の江並さんが出席しての開会となった。
 冒頭、国府世話人から424日、26日の2日間にわたって行われた四條畷市ふるさと納税『楠正行特別バスツアー』の様子が報告された
 行く先々で、施設関係者の皆さんの歓待を受け、普段見られないところにご案内いただいたり、バスツアーのために「楠正行公670年忌法要」を営んで頂いたりと、特別観満載のツアーであったことを興奮気味に報告。
 扇谷からは、現在、このバスツアーで講話いただいた皆さんの講話集の採録中で、連休に文字起しを終え、この後パソコン入力の上、仕上げに入るとのアナウンスをした。
 この特別バスツアーは、四條畷市主催事業を、四條畷楠正行の会が協力要請を受けて共催実施したもので、企画・コーディネート・講師派遣を行った。とりまとめ予定の講話集は、招待者等関係者に配布の予定。


↑乃木希典と正行について語る扇谷


昭和40年、小林幸子が湊川神社楠公武者行列で小楠公にふんしたこと、合わせて、古賀政男作曲・西沢爽作詞「小楠公」を披露したことを扇谷から伝え、小林幸子8歳の武者姿のカラー写真に見入る会員

↑昭和40年、武者行列で小楠公にふんした小林幸子(神戸市湊川神社提供)

例会の
内容
*楠正行通信第68号
90歳の長寿を生き、9代の南北両朝に仕えた父、宣房

後醍醐帝に諫言するも聞き入れられず出家した子、藤房
・太平記『駿馬献上のこと』に藤房の人物像
*楠正行通信第69号
楠正行絵本6巻本、二つの図書館で閲覧はじまる
読後感想ノートに綴られた嬉しい反応~「正行の事に興味がわいてきた」
ふるさと納税~特別バスツアー、2日にわたって開催
電通大学、社会プロジェクト実習第二弾は、「正行カルタ」
談山神社、春のけまり祭に招待受ける

乃木希典と楠正行
乃木はどうして国民の記憶に残る武将になったのか
 人物叢書「乃木希典」の中で、松下芳男は乃木希典について以下の通り記している。
― 明治建軍から昭和解隊までの75年間において、陸軍大将の高官に登ったものは、実に134名の多数であるが、このうちの幾たりが、今日なお国民の記憶に残っているであろうか。・・・著名な大将でも、大部分は国民の記憶から泡沫のように消え失せて、わずかに残る者は、西郷隆盛、大山巌、それに乃木希典ぐらいではあるまいか。
 西郷・大山はしばらく置き、乃木希典はどうしてかくも国民の記憶に残る武将になっているのであろうか。
 近代日本史にエポックを画した日露戦争において、世界戦史に特筆される旅順攻略戦に首将であったという事にもあろうが、しかしそれよりも、国民の古武士的武将型の理想像を、彼においてみたからではあるまいか。
 忠節・忠恕(ちゅうじょ)廉恥(れんち)廉潔(れんけつ)・誠実・質素・仁慈(じんじ)克己(こっき)という徳を備え、崇高な人格の輝く古武士的武将であったからではあるまいか。

●乃木は楠精神の信奉者であった

 この乃木が、楠精神の信奉者であったことが、「乃木希典 高貴なる明治」の中で岡田幹彦が綴っている。
― 乃木は楠木正成を深く崇敬した。乃木の一家をあげての尽忠報国は楠公を見習ったものである。
 乃木は楠公に関する書物をできる限り集め、極力これを考究し、その忠烈をしのび、その言行を学んだ。 乃木は楠公に関する書物をできる限り集め、極力これを考究し、その忠烈をしのび、その言行を学んだ。
 楠公が正行と別れた桜井の駅には、今日、乃木の筆になる「楠公父子訣別之所」という大石碑が建っている。この石碑が建てられる時、関係者より、乃木は碑文の文字を書くべき最適の人物として依頼を受けた。
 はじめ乃木はこれを固辞していった。
 「楠公は我が国無双の忠臣なり。かかる(たっと)き遺蹟に私が揮毫するは僭越の謗りを(おそ)る」
 だが、乃木以外に頼むべき人物はいないとする関係者の懇請を断りきれず、これに応じた。乃木は楠公につき次の歌を詠んでいる。

いたずらに立ち茂りなば楠の木も いかでかほりを世にとどむべき
根も幹も枝ものこらず朽ち果てし (くす)の薫りの高くもあるかな


写真:旅順陥落後、水師営で乃木とステッセルの歴史的会見が行われた。この時、乃木はあえてステッセルに帯剣のままでの降伏調印を許し、広く世界にその「武士道精神」を讃えられたことは有名な話。

●乃木希典、玉木文之進門下、山鹿流兵学=楠兵法
 「嗚呼至誠の人 乃木希典将軍」を書いた吉河寅二郎は、同書の中で、玉木文之進と吉田松陰と乃木希典はともに姻戚関係にあたり、一本の縦糸のようなものである、と以下綴っている。
― まず、玉木文之進は、吉田松陰の叔父にあたる。すなわち、松陰の実父は、杉百合之助(杉家の長男)、その弟が吉田大助であり、大助の弟が玉木文之進である。
 松陰は、5歳の時に、子どものなかった吉田家の養子となった。松陰は、兄の杉梅太郎と一緒に叔父の玉木文之進に訓育され、松陰は、13歳の時に、文之進の家学(山鹿流兵学)の後見者となる。
 山鹿流兵学は江戸初期の山鹿素行によって始まり、山鹿家を本流とし、松陰の養家先の吉田家にも受け継がれた。吉田大助は、吉田家の第七代にあたり、松陰は第八代目に当たる。吉田家としては、山鹿流兵学の指南役として、どうしても血統を絶つことはできなかったので、松陰を養子にとったものと思われる。この時代の山鹿流兵学の免許皆伝は、玉木文之進のほかに林真人、石津兵七等、錚々たる人がいた。
 玉木文之進と妻達子との間に実子彦助が生まれたが、若くして亡くなったため乃木希典の弟正誼が玉木家の養子となった。
 希典と正誼の間に妹のキネ、正誼と周作との間にイネという妹があり、それぞれ小笠原家と長谷川家に嫁いでいる。
 玉木家を継いだ正誼は、後に松陰の兄、杉良太郎の長女豊子と結婚している。
 このように玉木家、杉家、吉田家、乃木家は、互いに深い姻戚関係にあった。


乃木希典と山鹿素行著『中朝事実』
 乃木希典は、山鹿素行の著『中朝事実』を座右の書としていた。
 乃木希典は、明治天皇の大喪を目前に、910日、皇太子殿下(昭和天皇)の下を訪れ、自費で出版した『中朝事実』に自ら要点に朱を入れ、献上し、「将来、天皇につかれた時のご参考になりましょう」と言ったと伝えられる。
 「山鹿素行 中朝実を読む」の著者、新井桂は、現代に通じる『中朝事実』の教えと称し、”中朝事実の核となる部分は端的に申し上げれば、日本書紀などの歴史書や多くの古典を基にして万世一系の皇統と、それを基盤にした日本の歴史、武士道精神の意義を説いたことにある”と記しています。
 そして、山鹿素行の思いは、中朝事実の自序に総括されてのべられているとも記しています。
 すなわち、山鹿素行は、自分は若いころ、外朝と言われた支那の国の人物を敬慕してきた。今はそのことを後悔し、最後には「最も素晴らしいのは日本だ」と民族的な自覚に回帰していった―――そういう素行の心の変遷がよく分かります、と。
 学問によって日本人としての自覚と誇りを呼び覚まされ、日本に生まれたことに無上の喜びを感じたことがこの著述となっていったのでしょう、と。

 (大意)
 常に大海原の極まりなく広いのを見ているものは、その広大なことに気付かず、常にあれ野原の限りなく広い中に住む者は、その拡がりを意識しない。
 それは長い間にすっかり慣れ親しんでしまったからである。
 このことは、海や野原について言えるだけではない。
 私もまた、中華文明の日本に生まれていながら、その優美なことに気付かず、もっぱら外来の経典を好み、得意になってその聖賢を慕ってきた。
  何と心をほしいままにしたことか、何と志を失ってしまったことか。まるで奇を好み、異を尚(とうと)ぶようである。
 そもそも、中華文明の日本の海も国土も、万国に優れ、国民は世界の中の精秀といえる。
 それゆえに、その精神も洋々としており、聖天子の優れた統治も永続している。その文化も輝くばかりである。武徳も勢い盛んであって、天地の偉大さにも匹敵すると云えよう。
 冬1124日、皇統の小冊子を編纂して、青少年に読ませ、この国の本を忘れないようにした。
(「山鹿素行『中朝事実』を読む」荒井桂著より転載)

☆正行カルタプロジェクトについて
*今後の日程
 原則:水曜日の第5限 450分~620
    場所 10号館1階 103教室
 (前回より変更有)
 512日 学外学習① 吉野山如意輪寺
 523日 講義①   楠正行年表を使って正行の事績をたどる/扇谷
 530日 講義②   太平記に見る正行の生涯をスクリーン映像
            詩吟/変更!
 609日 学外学習② 渡辺橋、四條畷神社、小楠公墓所、和田賢秀墓
 613日 講義③   字札発表/
 824日 集中講義  楠正行の会へのプレゼンと質疑応答(時間未定)
*字札の句(案)の提出につい/進捗報告

☆報告事項、その他

CD/「楠木正成・楠正行・嗚呼大楠公」について
 推薦 河内長野市長、千早赤阪村長、四條畷市長、島本町長、富田林市長
    吉野町長 決定!
    観心寺、建水分神社、金剛寺、四條畷神社、湊川神社、如意輪寺、
    千早神社 楠妣庵観音寺 決定!


□教育文化センター子ども学習講座「まさつらくん」
 519日(土) 1330分~1415
 62日(土)  1330分~1415

 ・絵本読み聞かせ   ~ 図書館職員
 ・正行映像スクリーン/子どもバージョンに吹き替え
   ~扇谷、川口(ピアノ演奏)

5月現地学習
 526日(土)湊川神社・楠公祭~武者行列観覧
 815分 四条畷駅:改札口集合
 823分発 新三田行乗車 尼崎乗り換え 神戸駅着 924
 940  湊川神社「発輿祭」
      高速神戸駅から湊川駅へ地下鉄で移動
 1100  湊川公園「御旅所祭」~舞楽『湊川』奉納
      神戸駅に地下鉄で移動
 1315  神戸駅周辺で昼食
 1600頃 四条畷駅着:解散

□小林幸子、小楠公について新たな情報!
 小林幸子の「小楠公」は、昭和40年、湊川神社楠公祭で3000人の前で披露された!
 この年、湊川神社楠公まつり武者行列に小楠公に小林幸子登場!
 昭和41年の楠公祭にも、2年連続で、小林幸子「小楠公」歌謡


◆湊川神社社報「湊川」より(湊川神社提供)
↓昭和40年、小楠公にふんした小林幸子にファン殺到の様子を伝える社報記事


3000人の聴衆の中には多くの子ども達も参加


↓昭和41年、2年続けて出演し、「小楠公」を歌唱した小林幸子を伝える社報


その他
連絡等
次回例会 
 日時 6月12日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 北條一族と正行
    電通大学正行カルタプロジェクト/字句について
    その他

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信68号・69号はコチラからも(PDF)



教文「親子広場」

日時 平成30年5月3日(木) 午前11時15分より正午
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 子ども読書週間にちなみ、絵本の読み聞かせと体育遊び、ゲーム等を行いました。
また、スタンプラリーのスタンプも貯まりました。








教文「子ども広場」

日時 平成30年4月25日(水) 午前10時30分より11時45分
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 子ども読書週間にちなみ、絵本の読み聞かせとエプロンシアター、手作りおもちゃ遊びを行いました。






四條畷楠正行の会 第41回例会

日時 平成30年4月10日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
 今月は、いつもの例会とは異なる、若い力を感じる例会となった。
 「こんにちは。見学させていただいてもよろしいですか。」と入ってきたのは、何と20代の若者で、私たちの会にとっては初めての若い世代の参加となり、会場には一気に活気がみなぎる事に。
 今月は体調不良等で欠席者が多く、淋しい例会となるところ、飛び入り参加で元気をいただき、加えて、国府さんが準備してくれた「お菓子」と「コーヒー」が出され、和やかな雰囲気の中で例会は始まった。


↑正面黒板、3.19正行考シンポジウムを伝える329日付産経新聞を掲示

例会には若い人が加わり活気が
例会の
内容
3月例会のおさらい
楠正行通信第66号
3.19楠正行シンポジウム、盛大に開催
扇谷、正行顕彰の取り組み、魅力を発信
・東儀さんの特別講演でスタート、続いて四條畷楠正行の会の活動報告
・パネルディスカッション、扇谷、正行は平和主義者・教養人と伝える
*楠正行通信第67号
32324 上北山村・四位殿神社を訪ねる現地学習
四條畷・金剛山・吉野山・上北山村をつなぐ正行
如意輪寺の加島副住職、東京から広木支部長も参加
龍川寺の後、四位殿神社では中岡神職の祝詞奏上と全員の拝礼
白川の里お宮様の十一面観音に対面、公民館で歴史講座
龍川寺、林泉寺そして熊野路荘で温かいおもてなしを受ける

3.19楠正行シンポジウムについて
329日付産経新聞朝刊見開き2面の特集記事参照
 展示・販売

 扇谷/小説「楠正行」21冊、正行像賛扇子6本、cd楠正行14

現地学習/上北山村、楠正行を祀る四位殿神社他を訪ねて
*参加 扇谷、国府、国府文、木村、森山、土井、加島副住職、広木
*会計報告 別紙
*お礼状発送 中垣内教育長、中岡さん、熊野路荘
 5月 上北山村から四條畷訪問予定とのこと


●正行と藤原宣房&藤房について
資料① 藤原氏(萬里小路家)略系図


資料② 萬里小路宣房について
人物叢書「金沢貞顕」(永井晋著)より 萬里小路宣房に付いて
金沢貞顕とは…
 鎌倉時代の末期、北条高時政権を支えた有能な保守本流の政治家。
 霜月騒動に連座して不遇の幼少期を送るが、得宗家の信頼を得て六波羅探題・連署となり、病弱な執権北条高時を支えた。15代執権に就任するが、政争の激化により辞任、幕府の滅亡に殉じた。膨大な貞顕書状から、高時政権を再評価し、称名寺造営や金沢文庫本の充実から、鎌倉の武家文化に足跡を残した権力者。
正中の変
 919日、後醍醐天皇の討幕計画が露見した。

 六波羅探題北条範貞は、関東(もうし)(つぎ)西園寺実衝の北山邸に小田時知と二階堂行兼を派遣して民部卿日野資朝と少納言日野俊基の引き渡しを求め、また小串範行と山本時綱を派遣して討幕計画に与した土岐頼員(よりかず)と多治見国長を討った。六波羅探題の使者が鎌倉に到着したのは、923日の事である。
 101日、六波羅の訊問に、日野資朝が白状したことが伝えられた。
 この事態を受けて、後醍醐天皇は105日に萬里小路宣房(までのこうじのぶふさ)を弁明の使者として鎌倉に派遣した。京都の人々は宣房の鎌倉下向を忠臣として褒めそやしたが、鎌倉では安達時顕・長崎高綱の訊問に困惑することも多く、安達時顕を恐れる様は嘲弄を招いたという(「花園天皇宸記」)。
後醍醐挙兵


 814日、後醍醐天皇は「疫疾(えきしつ)」を理由に「元徳」を改元して「元弘」と改めた。
 その10日後の824日、六波羅探題北方北条仲時は後醍醐天皇が御所を脱出したことを察知し、関東申次西園寺公宗(きんむね)にそのことを申し入れた。25日、六波羅探題は萬里小路宣房をはじめとした後醍醐天皇の側近を捕縛した。

 827日、後醍醐天皇は笠置寺に入ったが、六波羅探題は後醍醐天皇が延暦寺に登ったとの風聞から在京人佐々木時信以下の軍勢を差し向けた。この軍勢は唐崎で比叡山の僧兵と合戦し、海東左近将監忠元が討死した。持明院統の後伏見・花園両上皇、東宮(かず)(ひと)親王は、この合戦で六波羅方が破れたことにより、六波羅北殿に潜幸した。
 その後、比叡山に登った後醍醐天皇が替え玉であることが分かると、上林房阿闍梨(ごう)()は大塔の宮護良親王の側近、(ちょう)(しゅん)を捕えて六波羅探題に渡した。
 829日、後醍醐天皇挙兵を伝える六波羅の使者が鎌倉に到着した。91日、六波羅探題南北の検断頭人糟屋宗秋・隅田(すだ)通治率いる軍勢が、後醍醐天皇のこもった笠置寺に向かって進発した。

資料③ 萬里小路藤房について
萬里小路藤房とは
 藤房は、後醍醐帝の政治に諫言・苦言を呈するも聞き入れられず、突然出家する。
 以下太平記の件のその主張、出家の様子が載る。


太平記巻第十三 駿馬献上の事より
 首までの高さが43寸ある月毛の駿馬が佐々木塩谷判官高貞から帝に献上された。
 洞院公賢は、「何にも勝る瑞祥でございます。この駿馬が現れたことは、仏法と帝の政治や法が栄え、皇位は長久であるとの喜ばしい前兆でございましょう。」と、吉兆と答えた。
 しかし、萬里小路藤房は、
 「これは決して吉事ではありません。
 今は、大乱の後で民は貧窮し、誰もが苦しんでおり、天下はまだ平穏ではありません。
 「史記」に言うように、政治に携わる者はたとえ食事中で口の中に食べものがあろうと、それを吐き出してでも先に人の訴えを聞き、帝に誤りがある時、臣下は帝に文書をたてまつってそれをお諫めすべきです。しかし、諸役人は楽しみにふけるばかりです。
 世の中が静まった今、手柄を立て、恩賞を望む武者たちが幾千万ともしれず存在するのです。ところが、公家や官職にある人以外はまだ恩賞を賜った者はいません。
 まず武士たちの勲功に報いてその恨みを解消すべき所を、何よりも大内裏の造営が必要だとして、諸国の地頭から収益の二十分の一を徴収なさったりすれば、戦乱で出費が大きかった上にこの課税で、さぞや嘆いておりましょう。
 また、諸国では守護が威力を失い、国司が権力を強めています。官職もない、身分の低い代官などが荘園を横領し、度を超えた勢力を持つようになっています。
 長年にわたって定着している武家の名称である諸国の御家人の称号を廃止なさいましたので、早くも大名や高家といった名門までもが平民同様です。
 恩賞を与えるのなら皆に等しく与え、官位も同じにすべきを、赤松円心だけはわずかにもとからの所領一か所の存続をお認めになったのみで、恩賞として守護に任じてお与えになった国を召し返されたとは、その咎はいったい何なのでございますか。
 手柄にふさわしい恩賞が与えられれば、忠義の志あるものが増え、罪にふさわしい跋を与えれば、罪を犯す者は減ると申します。嘆かわしいことです。

 ・・・今はただ珍しいものをもてあそぶのはおやめになって、仁政の恩恵を世に広められるのが何よりでございます。」と、凶兆と答えた。

 藤房はその後も諫言し続けたが、遂に後醍醐天皇はそれを聞き入れようとせず、大内裏造営の計画を中止することもなかった。
 藤房は、「わたしとしては臣下たる者の道を尽くした。今となっては身を退けるに越したことはない」と、意を決した(出家する)。
 後醍醐帝の命(藤房を呼び戻せ)を受け、宣房は藤房の下を泣きながら訪ねた。
 宣房が悲嘆の涙を押こらえて藤房が泊まっていた庵室へ行ってみると、誰に読ませようと思って書き残したのか、破れた障子の上に歌を一首残してあった。
住み捨つる 山を憂き世の 人問わば 嵐や庭の 松にこたえん

(私が立ち去ろうとしているこの僧坊を憂き世の人が訪ねてくれば、吹き渡る風が庭の松を鳴らして答えるばかりでしょう。)
 また、()恩人(おんにん)無為(むい)真実(しんじつ)報恩者(ほうおんしゃ)五山文学の詩人義堂周信編纂の『貞和類聚祖苑聯(じょうわるいじゅうそえんれん)(ぽう)集』にある()文で、恩ある人を見捨てて出家するという事は、真実を以って恩に報いるという事だ、の意)という文の下に、

 白 頭ニシテミ 断 万 重 山     白頭にして望み絶つ(ばん)(ちょう)の山

 曠 劫ノ  恩 波 尽シテヲ     曠劫(こうごう)の音波底を尽くして乾く

 三 是 胸 中ニ スニアラ五 逆  これ胸中に五逆を(かく)すにあらず

 出 家 端 的ニ ズルコト ニ    出家端的に親に報ずること難し

(白髪頭の年になって、宮中での望みは絶った。底の地面まであらわにして波が引いていくように、広大無辺の親の恩を顧みることなく去っていく。これは胸中に主人や親に対する反逆臣を隠し持っているからではない。しかし、出家するこの気持ちを明確に親に告げることは難しい。)
 と、唐の黄檗禅寺が、あとを追う母親が川でおぼれているのを見捨てて出家した、という大義の渡りと題する、仏を讃えた古い詩の一節を書いてあった。
 宣房はそれを読んで、これではたとえどこの山に居ようと、藤房に生きて再会するすることはできまいと、息子を失った悲しみの涙にむせんで、空しく京へ帰って行ったのだった。

●ふるさと納税~正行特別バスツアーへのご招待事業について
*実施 424日(火)、26日(木)の2回 845出発
 (スタッフ 815集合)
  四條畷市委託事業として実施
*参加 講師/扇谷 世話人/国府
*下見 南ルート 418日 藤岡、鈴木
    北ルート 420日 山本、中西
    参加のしおり、昼食手配、最終参加者について ~ 行政で対応
    配布資料、保険加入等について ~ 扇谷
●正行カルタプロジェクトについて
*授業スケジュール
 原則:水曜日の第5限 450分~620
    場所 10号館1階 103教室
 425日 クライアント紹介~カルタ大会/四條畷郷土史かるた
 512日 学外学習① 吉野山如意輪寺
 523日 講義①   楠正行年表を使って正行の事績をたどる
 530日 講義②   太平記に見る正行の生涯スクリーン映像絵物語
 609日 学外学習② 渡辺橋、四條畷神社、小楠公墓所、和田賢秀墓
 613日 講義③   詩吟の世界で正行堪能
 620日 字札発表  /この後、役割分担に基づきカルタ制作にかかる
 824日 集中講義  楠正行の会へのプレゼンと質疑応答
 926日 確認    楠正行の会による確認
 10月17日 カルタ学内発表
 10月   カルタ学外発表/くすのき小学校と日程等調整
 1021日 カルタ正式発表/市民の集い:カルタ大会の開催と原画展
*字札について
  530日〆切 ☛ 620日発表!

●報告事項、その他
 □産経新聞『楠木正成考特集』第20部≪正行の忠孝両全≫
  以下に掲載







 □CD/「楠木正成・楠正行・嗚呼大楠公」について

 □談山神社「春のけまり祭」のご案内
  429日 午前11時~
       雨天決行・直会:多武峰観光ホテル

 □楠公研究会発足1周年記念総会祝賀会のご案内
  425日 湊川神社にて

 □『楠公さん』大河ドラマ誘致協議会について
  410日 誘致協議会発足 事務局:河内長野市
   構成団体  観心寺、四條畷神社等17団体
   構成自治体 河内長野市、千早赤阪村、四條畷市、島本町など23
  411日 NHK(東京)に陳情のため上京/絵本持参:データも提供
  520日 楠公ツーリズム推進協議会発足 代表団体:観心寺
       呼びかけを受け、四條畷楠正行の会として加盟予定

 電通大・小原君の絵本製本化について
  3冊発注!
  四條畷図書館、田原図書館、電通大学に寄贈

 □教育文化センター子ども学習講座「まさつらくん」
  519日(土) 1330分~1415
  62日(土)  1330分~1415
  ・絵本読み聞かせ   ~ 図書館職員
  ・正行映像スクリーン ~ 扇谷、川口(ピアノ演奏)

 □5月現地学習
  詳細については5月例会で確認
  526日(土)湊川神社・楠公祭~武者行列観覧

  815分 四条畷駅:改札口集合
        会費 交通費920円×2 & 昼食 =約4000
  823分発 新三田行乗車 尼崎乗り換え 神戸駅着 924
  940  湊川神社「発輿祭」
       高速神戸駅から湊川駅へ地下鉄で移動
  1100  湊川公園「御旅所祭」~舞楽『湊川』奉納
       神戸駅に地下鉄で移動
  1315  神戸駅周辺で昼食
  1600頃 四条畷駅着:解散

その他
連絡等
次回例会 
 日時 5月8日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 乃木希典と正行
    電通大学正行カルタプロジェクトについて
    5月現地学習「湊川神社楠公まつり」について

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信66号・67号はコチラからも(PDF)




教文市民講座「子ども体験教室 親子体操」修了式

日時 平成30年3月22日(木) 午前11時より11時45分
場所 教育文化センター ホール・会議室1 
イベント内容 教育文化センター主催の市民講座「子ども体験教室 親子体操」では第6期を終え、修了式を行いました。
皆様、おめでとうございます。






四條畷楠正行の会 第40回例会

日時 平成30年3月13日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
 今月の例会は、32日に、産経新聞に見開き2ページで大きく楠正行が取り上げられたことや、319に迫った楠正行シンポジウム、323日と24日と実施する現地学習(吉野郡上北山村)の話題等で大いに盛り上がりを見せた。
 また、扇谷が作詞した「楠正行」のCDが完成し、この日、初のお披露目となった。パソコンを持ち込み、例会のはじまる前に流したが、意外とシックなメロディーにおおむね好評の反応があった。
 楠木正成と楠正行2曲の構成で、1番から3番までが父、正成、そして4番から6番が子、正行を詠ったもの。このCDは、今後、楠氏ゆかりの地を中心に、正成・正行の顕彰を目的に、販売していく。(頒布価格1000円)


正面右、扇谷代表 左、国府世話人

今月の出席は14
例会の
内容
2月例会のおさらい
楠正行通信第64号
四條畷市ふるさと納税で、限定20名様をご招待
42426 楠正行を訪ねる特別バスツアー/四條畷市委託事業
・建水分神社正式参拝、観心寺中院で講話と昼食、如意輪寺正行公670年忌法要、宝筐院義詮墓・正行墳の前で講話、正行寺本堂で講話他
・扇谷、講師としてバスに同乗/39日、受け付け締め切り
・電通大・小原君、絵本「楠正行物語」制作・発表/会員から「素晴らしい!」と称賛の声

*楠正行通信第65号
伊賀説を主張する梅原、昭和の創作と言い切る表
果たして観阿弥は楠正成の甥か/正行と観阿弥
上島家文書の評価をめぐり真っ向から対立する意見
「観阿弥と正成」で伊賀説を主張した梅原猛
表章「昭和の創作・伊賀観世系譜」で伊賀説否定
上島家文書、文学界に大きな影響

(1)3.19楠正行シンポジウムについて
*申し込み状況/35日締め切り
 応募総数1450

 公募一般席 850
 招待者席  100 計950(1階800 2階150
*シャトルバス・ダイヤ
 ○忍ケ丘駅前発 → コナミホール行
  1130,33,37,41,45,50,55

  1200,05,08,10,12,16,20,24,28,32,36,40,50
 ○グリーンホール田原発 → コナミホール行

  1100,30
  1200,30
 ○講演終了後は、バスが満席になり次第、随時運行
*会場
 1階 受け付け、楠公祭募金、生き物王国、正行絵本展示
 2階 展示・販売ブース:産経、扇谷、東儀、商工、文化観光協議会
     販売 商工会/お土産コーナー
        四條畷郷土史かるた
        産経新聞社冊子関係/ヤマトタケル冊子、楠正成考他
        東儀氏cd/日本の歌、世界の歌他
        扇谷/小説「楠正行」、正行像賛扇子、cd楠正行
*プログラム
 1230 開場/開場前に来場者があれば、前倒しで受付開始
 1300 開会・挨拶・来賓紹介
 1310 第1部 東儀氏講演と演奏
 1350 第2部 扇谷活動報告・木子絵本報告・学生発表・絵本贈呈式
 1450 休憩
 1505 第3部 パネルディスカッション/東・寺井・扇谷:安本
 1620 閉会


(2)電通大2018プロジェクト『楠正行カルタ』の制作
*詳細スケジュール等は、4月例会で

*字札(案)の提出/第1回
      二人から提出有。

(3)現地学習/上北山村、楠正行祀る四位殿神社を訪ねて
*日時 323日(金)~24日(土)の12
*集合 JR四条畷駅・改札口前 午前820
*出欠 最終確認 8人参加。


(4)ふるさと納税~正行特別バスツアーへのご招待事業について
*実施 424日(火)、26日(木)の2回 845出発
 (スタッフ 815集合)

 四條畷市委託事業として実施
参加 講師/扇谷 世話人/国府
 速報! 申し込み少なし。
     313日、ラジオ大阪の放送で、産経新聞安本編集委員、「素晴らしい企画です。ぜひ、多くの方ご参加ください。」と呼びかけ!

(5)
報告、その他
□教文児童学習講座について
  「親子で学ぶ! くすのき まさつらくん」
  ~ まさつらくんて知ってる!?
開催日時 519日(土)、62日(土) 午後130分より45
スタンプラリーを実施し、賞状と景品「正行像賛扇子」をプレゼント
  ピアノ演奏/川口
CD/「楠木正成・楠正行・嗚呼大楠公」の制作・販売について

  ・制作・販売
   瀬戸木和男音楽事務所瀬戸木和男音楽事務所
  ・扇谷    楠正行 作詞

  楠正行
   作詞 扇谷 昭

   作曲 瀬戸木和夫
 
 一 西国街道 櫻井の駅
    汝は帰れと 残した遺訓

    父と共にと はやる心に
    湊川河内へと 父子の訣別

 二 吉野の山に 後村上天皇
    汝は股肱の臣 決して死ぬな

   父の命今こそ その時二十三
    百四十三名と 楠正行

    如意輪堂の板塀に 鏃で残した和歌一首
    かえらじとかねて思えば梓弓
    なき数に入る名をぞとどむる

 三 河内街道 決死の行軍
    正平三年一月 ここ四條畷

    師直四万めがけて 馬懸ける千騎
    覚悟の自刃 小楠公


□産経新聞正行特集
32日、見開き2ページ特集
 「正成は後世に何を引き継いだか」
  楠三代~正成、正行、正儀
☆産経新聞/戦後73年『楠木正成考』第20
 「正行絵本とその生涯」5回シリーズ
 319日から5日連続掲載(予定)/乞う、ご期待!


電通大・小原君の絵本製本化について
 安価な業者(例えば、ヨドバシカメラ等)を探し、検討する

その他
連絡等
次回例会 
 日時 4月10日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 藤原宣房・藤房と正行
    電通大学正行カルタプロジェクトについて
    3.19正行シンポジウム(感想)
    3.23-24現地学習(上北山村)を振り返って、他


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信64号・65号はコチラからも(PDF)




「芝生広場の更新作業」

日時 平成30年3月12日(月) 午前8時45分より11時30分
場所 教育文化センター 芝生広場 
イベント内容 教育文化センターでは、より勢いのある芝生に育つ様、春の芝生更新作業を行いました。
《手順紹介》
1.芝地に無数のコア抜き(穴開け)を施し、通気を良くし、古い根を取り除きます。
2.次に地中から出た土を綺麗に取り除きます。
3.そして新たに用意した目砂を均等に散布し、丹念に埋め戻します。
4.次に粒子の細やかな肥料を施肥、仕上げの灌水で完成です。
(施行:株式会社ガーデン・ナビ)







教文市民講座「親子で楽しむコンサート」

日時 平成30年3月2日(金) 午前10時30分より11時15分
場所 教育文化センター 全館 
イベント内容 教文では、Largoさん演奏の軽快な曲に合わせ、歌って踊れる楽しいコンサートを開催しました。
また、お子様には打楽器体験なども有り大変盛り上がりました。
プログラムは以下のとおり

さんぽ・楽器紹介・アンパンマンマーチ・崖の上のポニョ・エビカニクス・ゆうきりんりん・夢をかなえてドラえもん・童謡メドレー・アンコール

出演:Mama’S Wind Orchestra Largo さん








四條畷楠正行の会 第39回例会

日時 平成30年2月13日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
極寒にも関わらず全員出席 新たに仲間も。
 今月の例会は、「観阿弥と正行」がテーマで、観阿弥伊賀説に立つと観阿弥の母は正成の姉(もしくは妹)で、観阿弥は正成の甥という事になるので、正行と観阿弥は従兄弟同士という事になる
 ところが、観阿弥には大和説も有力で、観阿弥と正成の関係を否定する研究者もいる。
 今回は、この伊賀説の急先鋒者梅原猛と、伊賀説を昭和の創作と言いきり大和説に立つ表章の論争を取り上げ、「果たして観阿弥は楠正成の甥か」とタイトルをつけてリポートした。
 そのため、関係書籍も多くなり、手荷物いっぱいに、教育文化センター2階ホールの入り口に立つと、まだ1時を過ぎたばかりというのに、既に5人の会員が座っている。より正確に言えば、4人と新しい会員一人だったのだが。
 寒い日が続き、インフルエンザも流行していることから、欠席者も多いのではないかと思っていたが、この日は何と会員全員が集まった
 加えて、新しい仲間が一人加わり、休会を除く16人での例会となった。


↑例会の様子(久々の会員全員出席)

↑例会の様子(最近は、座る位置もほぼ決まってきた)
例会の
内容
1月例会のおさらい
楠正行通信第62号/山鹿素行と正行
・軍法とは士法に在り、と断じた山鹿素行
・兵法はわが心を治め、家を整え、国を平らかにする
・素行学に一貫する特質は、実学的傾向である
・楠木父子万世忠孝の鑑
・孝道は百行の本 忠孝は武士の励む最たる徳
・建武中興・楠木正成を真似るな~反駁的尊王を戒めるが故

*楠正行通信第63号/楠正行正四位下に叙されていた
・文化6年、小楠公墓所敷地内に正行顕彰碑建立
・正四位下検非違使兼河内の守楠公碑
・公諱は正行、帯刀左衛門尉と称せり
・正四位下の事、1967四條畷町勢要覧に載る
 大阪府全志、四條畷市史にも
・今も、小楠公墓地樟樹の南に静かに立つ
・京都大学ネット公開の拓本は四條畷神社の提供



●観阿弥と正行
□産経新聞「戦後72年楠木正成考」第14
  『楠公さんを生んだ兵庫・神戸』


 ― 以下、新聞記事より
 神能殿(湊川神社)で紹介されている系譜は、観阿弥の父方の実家、伊賀の上島家の古文書から発見された『観世福田系図』と兵庫県揖保川町の豪農、永富家の古文書で裏付けられた。
<楠家と観世家の関係略図>


 正成には妹がおり、伊賀の服部家に嫁いで能の始祖・観阿弥を生んだことを示すものだ
 観阿弥は服部家に連なる永富家から嫁をもらい、世阿弥、そして観世家へとつながる家系となった。
 永富家は現在のゼネコン「鹿島」の創業家へとつながる。
 この縁で、神能殿は鹿島が建てた。

□果たして観阿弥は楠正成の甥か
 上島家文書の評価をめぐり真っ向から意見対立 梅原対表
☆上島家文書を評価し、伊賀説を主張する梅原猛/「観阿弥と正成」
 この伊賀説に立てば、観阿弥の母は、楠正成と姉弟で、観阿弥は正成の甥
 文学界への影響は大きく、吉川英治を筆頭に、伊賀説採用の小説多数輩出
☆上島家文書を昭和の創作と伊賀説否定する表章/「昭和の創作『伊賀観世系譜』梅原猛の挑発に応えて」
 伊賀説観世系譜は明治42年刊「世阿弥十六部集」からの引用明らかで、少なくとも同年以降の編纂。
 昭和13年刊「能楽源流考」等の影響は確実で、昭和20年直前の編纂である可能性も


       果たして観阿弥は楠正成の甥か
    上島家文書の評価をめぐり真っ向から意見対立

「観阿弥と正成」で伊賀説を主張した梅原猛

 能楽研究者の「上嶋家文書」に対する拒否と沈黙は、このような「上嶋家文書」に記載された衝撃の事実をどう受け止めてよいのか唖然としている状態から生じたことであるとみてよかろう。
 私は、この二つの事実を認めたら、観阿弥・世阿弥解釈ひいては能楽解釈のコペルニクス的転回を行わざるを得ないと思う。
 私は全面的に表氏に論争を仕掛けたいと思う。表氏の伊賀説の否定は、観阿弥・世阿弥を正しく捉える道を閉ざしてしまうものである。
 明治42年、吉田東伍氏「世阿弥十六部集」以来この伊賀説は疑われ、能勢朝次氏の「能楽源流考」において、観阿弥の本拠を伊賀ではなく大和とする説が定着した。そして昭和49年、香西精氏の「観阿弥生国論再検」と表氏のその説の全面的支持によって、伊賀説は完全に息の根を止められてしまったのである。
 私はここで、じっくり香西氏、そしてこの香西氏の論を支持する表氏に反論したいと思う。


    表章「昭和の創作・伊賀観世系譜」で伊賀説否定

 観阿弥が故郷を奪われたというのは、香西精や私が観阿弥伊賀出身説や伊賀創座説を否定したことを意味しており、それを批判して観阿弥伊賀出身説を蘇生させることが本書(「観阿弥と正成」梅原著)の主眼であることを暗示している。
 あからさまな挑発を受けながら何の返答もしないのでは、梅原の意見に表が屈したかのように感じる人が出ないとは限らない。能楽研究者全体への侮辱とも聞こえる発言が含まれているのを放置するのも、仲間内では屈指の古株となった身として無責任のように思われる。何らかの形で「観阿弥と正成」の梅原説が空論に過ぎないことを明らかにしておく方がいいだろうと、考えを改めた。
 伊賀観世系譜が後代作成のいわば偽文書であることを明らかにすれば、そんな文書を信用し、最重視し、誇大評価して話を展開している「観阿弥と正成」の内容がいかに空疎であるか、梅原の「画期的芸能論」なるものの実質の詭弱さがおのずと暴露されると考えたからである。
 伊賀観世系譜が創作されたのは、のちに本論で論述する事ながら、昭和10年代になってからの可能性が高い。
 楠正成が観阿弥と叔父・甥の関係であるとする楠・観世縁戚説や、鹿島守之助氏の生家たる播磨永富家と観世家が縁戚だとの説、が、これまた近年の創作に過ぎないことにも詳しく論究するであろう。

◆梅原猛の伊賀説/「観阿弥と正成」より
上野市浅宇田(あそうだ)地区の旧家、上嶋家所蔵の文書
出典 「観阿弥出生に関する一考察」(昭和3211月 国語国文に発表)
「『観世福田系図』をめぐる諸問題―伊賀国浅宇田村上嶋家文書」
(昭和355月 国語と国文学に発表)
いずれも久保文雄氏論文
「観世系図」と「観世福田系図」の発見
<今までの能楽論に根本的に改変を迫る情報>
 世阿弥が愛した息子、観世元雅は足利義教の家臣である斯波兵衛三郎というものによって殺された。
 この元雅の死について、世阿弥は自分の能の道は終わったというほど深く嘆いているが、元雅が殺されたという事は口にしていないし、今までの世阿弥の研究者で元雅が殺されたと考えた人もいなかった。

② 世阿弥の父、観阿弥の母は、楠正成と姉弟で、観阿弥は正成の甥にあたる。
 観阿弥が、戦前には無二の忠臣とされ、戦後には悪党とされた正成と縁戚関係にあるとは、今までの能楽研究者にとっては想像もできない説である。
③ 伊賀上野市八幡町の上島良久家において、播磨国揖保庄永富家についての記載ある系図文書、すなわち観世福田系図が発見され、世阿弥の長子・元次の子に元国がおり、その元国の子に元定とう者があって、その元定について「播磨国揖保庄永富播磨入道の預かり人、母世良田木興介信貞の女」という記述があって、更にその子清隆は「永富氏 六郎左衛門」とある。播磨の永富氏(鹿島守之助の生家)は世阿弥の長子の系譜に在り、伊賀の服部、河内の楠、播磨の永富、以上三つの家には結縁が深かった。


<小説家の直感―文学の中の真実 ~ 上島家文書の文学界等への影響>
 □杉本苑子 「華の碑文」昭和39
 □白洲正子 「世阿弥の歩いた道」(エッセイ)
 □林家辰三郎「南北朝」(創元歴史選書)昭和32
 □平泉澄  「楠公 その忠烈と余香」昭和48
         ~ 正遠は正成の父ではなく、正成の一門の人物
 □吉川英治 「私本太平記」昭和34
         ~ 観阿弥伊賀説採用の最初の小説

◆表章の大和説/「昭和の創作『伊賀観世系譜』より

「世阿弥の生涯をめぐる諸問題」(「文学」昭和381月号)
 上島家文書はほとんど文化・文政以後の作成筆写であり、事に系図は、上嶋家やその縁者を観世大夫家と関連付けようとする意図のもとに、「申楽談儀」の観世祖先に関する記事や、世阿弥伝書の歴史関係の記事、後世の観世家伝説、金春家系図等を参照しながら、巧みに組み立てられたものとみなさざるを得ない。
*少なくとも明治42年以降の創作である。
 伊賀観世系譜両系図は、「申楽談儀」第23条に現れる多くの固有名詞を共有している。

 出版された最初の「申楽談儀」は、明治41年、吉田東伍校注の『世子六十以後申楽談儀』だが、会員用に少部数刷られただけで、一般には入手困難だった。
 一般人が入手可能なものは、翌明治42年に同じ吉田・池内が発行した「世阿弥十六部集」に含まれる「申楽談儀」だった。
 固有名詞の共有を詳細に見ていくと、伊賀観世系譜は吉田本を参照し、それも取り入れて系図を編んだもので、その時期はどんなに早くても明治42年以後であると主張できよう。
*伊賀観世系譜は昭和以降の編纂
・四座役者目録の利用
 観世大夫の四・五世の名を正盛・祐賢の形に並べる奇異な形が観世大夫家系譜としては「四座役者目録」独特であり、それを伊賀観世系譜は継承しているのである。
 さて、この「四座役者目録」はむかしから著名な能楽史料ではなく、重要な本で、能役者の間で珍重はされたものの、能界以外ではほとんど知られていなかった。
 この本の片山家本が、『観世』昭和510月から69月号に翻刻されて能楽研究家が注目するようになった史料で、それ以前に「四座役者目録」を利用した研究は皆無のはずである。
・能楽源流考の利用
 伊賀観世系譜は、室生家系譜からの借用の可能性が高い。
 この室生家系譜は孤立性の強い江戸期編纂の資料で、昭和4年の雑誌「室生」を読むか、昭和13年発行の「能楽源流考」(能勢浅次博士著)を読むかして、その翻印を使用する以外に利用するすべはないはずである。198

・世阿弥・元雅父子は、南朝と縁を持っていたとする野々村戒三の影響
 「世阿弥父子の失脚」(「文学」昭和114月号)~最初の論考
 「世阿弥父子の晩年」(「能楽史話」所収・昭和19年刊)~広く流布
 ― 戦後、能や世阿弥を題材とした文学作品には、世阿弥父子を南朝寄りの立場に設定したものが少なくなかったが、その源は野々村氏の推測説だった。
(結論)
 伊賀観世系譜は、明治42年発行の吉田東伍校注「世阿弥十六部集」を利用していることが確実であり、どんなに早くとも同年以降の編纂である。また、昭和初期に学会に紹介された「四座役者目録」を利用している上に、昭和13年発行の能勢朝次博士著「能楽源流考」やそれに前後する頃の野々村戒三氏の著書の影響を被っていることの確実な記事を含んでいるから、昭和20年ごろまで近接した時期になっての編纂である可能性が極めて高い

その他の資料から
☆名張市役所ホームページ
 

 観阿弥は妻の出生地である名張市小波田で初めて猿楽座(後の観世座)を建てました。
 観阿弥は田楽や猿楽という歌舞が唯一の娯楽であった時代に生きた猿楽師の一人で、元弘3年(1333)伊賀の国に生まれました。(但し、大和盆地南部を本拠とする山田猿楽の出身との説もあります
 幼名は観世丸、本名は清次といいます。伊賀の人という説ですが、伊賀のどこで生まれたかははっきりしません。
 学界でも問題になっている、上野の上島家の文書によれば、観阿弥は伊賀国阿蘇田(現在は名阪国道、上のインターチエンジ付近)の豪族、服部元成という人の三男として生まれ、母は河内国玉櫛庄楠正成の兄姉という事です。父の元成は上嶋家に生まれ、服部家を継いだので、観阿弥の本名は、服部三郎清次になっています。
☆人物叢書「世阿弥」(今泉淑夫著)
 
観阿弥の出身については「申楽談儀」第
22条の、能面と面作者について記した部分に、「翁は日光打、弥勒、打手也、この座の翁は弥勒打也、伊賀小波多にて、座を建て始められし時、伊賀にて尋ね出だしたてまつし面也」という記事がある。ここから、観世は伊賀において座を建立し、貞治2年(1363)の頃に観阿弥が伊賀から大和に進出して、結崎に一座を建てたとする説が成立したことがある。
 これに対して、香西精『伊賀小波多』は、その説は史料の誤読で、「伊賀小波多にて」は観世座の名手弥勒の打った翁面を伊賀小波多で探し出したことを指していて、伊賀に座を創設したことを示す傍証がないこと、興福寺・春日神社などの猿楽座の有力な本所のある大和ではなくて伊賀の僻地に座を創設するのは考えられないことを挙げて、伊賀説を否定した。
 室町中期の禅僧景徐周麟の「観世小次郎信光画像賛」に観世が伊賀服部氏の出自であるとするのは誤りとされ、観世の伊賀生国説を支持する「観世福田系図」等の史料についても、香西精「観阿弥国再検」は、旧説に伊賀国山田とするのは誤りで、大和国山田(奈良県桜井市山田)であると訂正して、これが通説となっている。


●この日の例会の他の議題は以下の通り。
□大阪電気通信大学2018社会プロジェクト実習
 「楠正行カルタ」の制作について
 四條畷市・四條畷市教育委員会の後援正式決定!
□現地学習/上北山村・楠正行を祀る四位殿神社を訪ねて

 日時 323日(金)、24日(土)の12
 この日、参加のしおりを配布し、2日間の行程確認、そして出欠を確認
 10名の参加
319日開催「楠正行シンポジウム」について

 タイムスケジュールの確認/以下の通り
 *日時 319日(月)
      1230分 開場
      1300分 開会あいさつ/四條畷市長
      1310分 第1部/東儀秀樹特別公演
      1350分 第2部/活動報告/扇谷、木子、絵本贈呈式
      1450分 休憩
      1505分 第3部/パネルディスカッション
           「小楠公と四條畷市~正行公の生き方と魅力」

           登壇者/東、寺井、扇谷:安本記者
      1615分 閉会あいさつ/産経新聞社齋藤副社長
 *場所 大阪電気通信大学コナミホール950人収容(850人募集)
     忍ケ丘駅とグリーンホール田原から無料シャトルバス運行

正行シンポジウム成功に向けて

 四條畷市サポート寄附(ふるさと納税)お礼品
 楠正行をたずねる特別バスツアー
 四條畷市と四條畷楠正行の会の共催で実施! ほぼ決定!
 424日(火)、26日(木)の2回実施予定
 ふるさと納税いただいた方を、限定20名様日帰りバスツアーにご招待!
 詳細は、四條畷市から近日中に発表予定。乞う、ご期待!
□教育文化センター児童学習講座に協力
 小学生とその保護者<祖父母含む>を対象に、郷土ゆかりの人物楠正行について、絵本読み聞かせや映像スクリーン紙芝居等を通じて、楽しく学ぶ講座を開講。52回開講予定。近日発表。
 扇谷は講師として協力。
□ふるさと納税お礼品「正行像賛扇子」について
 10月に1本/大東市
 11月に1本/東京都
526日開催、湊川神社・楠公武者行列について
 現地学習として観覧することに決定
421日開催、湊川神社「明治維新と楠公崇系」シンポジウム

 会として希望者出席
その他
連絡等
次回例会 
 日時 3月13日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 3.19楠正行シンポジウムについて
    3月現地学習・上北山村について
    電通大学正行カルタプロジェクトについて、他


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信62号・63号はコチラからも(PDF)




教文「第二十三回 新春ミニ・コンサート」

日時 平成30年1月21日(日) 午後1時より3時30分
場所 教育文化センター 全館 
イベント内容 教文ホールでは恒例の音楽会が行われ、女声四重唱、二重唱、フルート演奏、バイオリン演奏、ピアノ演奏、ひまわりコーラスなど、早春にふさわしい楽曲が奏でられ、癒されました。






四條畷楠正行の会 第38回例会

日時 平成30年1月9日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
久しぶりの田中さん交えて和やかに例会
 この日は雨交じりの天候となりましたが、教育文化センターに着くと、奥田所長から、開口一番「本年もよろしくお願いします。正行像賛扇子の申し込みがありました。」との嬉しい知らせでのスタートとなりました。
 会員が次々と集まる中、少し体調を崩し休会中であった田中さんのお顔が見え、うれしい新年最初の例会となりました。
 今回も盛りだくさんの内容となりましたが、和やかな雰囲気の中、国府幹事が準備してくれたコーヒーとケーキをいただく“コーヒータイム”もあり、新年らしい例会となりました。


↑例会の様子(インフルエンザ等で3名欠席)

↑例会の様子(なぜか、今月も女性は一方に集中?!)
例会の
内容
12月例会のおさらい
楠正行通信第60号/佐々木道誉と正行
78歳という、当時ではずば抜けた長寿の佐々木道誉
・南北朝動乱時代、文武両道に通じたバサラ大名
・四條畷の戦い、楠正行に甚大な被害与える
・単なるバサラ大名ではなかった
・後醍醐帝の隠岐配流を警固
・元弘33月には尊氏と密約
・妙法院焼き打ち事件は計算の内
・義詮の信任を得て、権力獲得
・幕府の危機にこつ然と登場する真骨頂
☆勝楽寺に眠る佐々木道誉

3月現地学習現地下見報告
日時 1214日(木)/扇谷・国府
行先 白川八幡神社、恩智のさと、林泉寺、木和田の里、四位殿神社、
   木和田墓地、龍泉寺、道の駅、熊野路荘、教育委員会、村役場
上北山村でお会いした方々
   中岡孝之氏(元教育長)、中垣内壽美教育長、
   村教委東職員他、山村潔村長(表敬訪問)

*楠正行通信第61号/上北山村現地学習下見報告
・楠氏ゆかりの地、上北山村を訪ねて
・正行を祀る四位殿神社が建つ木和田の里
・白川・お宮様の祭りには恩地左近の幟ばたが立つ
・現地学習の下見で北山村へ
・白川、八幡神社とお宮様
・天誅組の悲哀伝える林泉寺
・墓石に彫られた菊水紋
・北山宮による皇位要求運動の地

□現地学習について
 近鉄特急で大和上市駅まで行き、貸切バスで上北山村に入り、1泊する
 決定日時 323日(金)~324日(土)
  行程等詳細は、上北山村と打ち合わせの上、2月例会で報告

●山鹿素行と正行
 □山鹿素行、楠正成一巻の書序文を読む

 楠正成一巻の書序
「身を立て、道を行い、後世に於て名を挙げ、以って父母を顕すは孝の(つい)なり。終とは、孝道を全くするを云えり。孝は百行(ひゃくぎょう)(もと)にして、未だ父母に孝にして君に忠ならず、君に忠にして父母に孝ならざる者はあらじ。忠孝に(みち)なくその徳(いつ)なり。嗚呼忠孝は士の(こころがけ)て励むべき所なり。然れども其の(じつ)()み、その全きをあらわす、これ(かた)し。(ひと)楠公父子万世(ばんせい)忠孝の(かがみ)として、その徳、古今に貫徹す。()れ君に忠を致さんと欲する者は、治世に(らん)を忘れず。亂を忘れざるは、功を(たつ)る。忠の大いなるものにして兵学の勤むべき所なり。

 此の書、楠公の遺訓、兵家の亀鑑、忠孝に志す士は、拳々(けんけん)服膺(ふくよう)注①して読まずんばあるべからず。これ身を立て、名を挙げるの韜略(とうりゃく)注②なり。
 久しく余が家に(おさ)むいえども、忠孝は天下の(たつ)(とう)注③、楠公は万世の明鑑(めいかん)注④なるを以って、敢えてこれを秘せず、ここに梓注⑤に壽して、四方に達し、後世に照らさん。これを庶幾(しょき)す。故に謹んで此の(こと)を序とす。
 貞応三歳甲午十一月既望
                  後學  山鹿甚五左衛門平貞直


注① 拳々服膺 常に心中に銘記し、忘れないこと
注② 韜略 兵法の書である「六韜」と「三略」の略
       兵法、兵略、戦略

注③ 達道 いかなる場合もにも行われるべき人間の道
       古今東西を通じて一般に行われるべき道徳
       君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の5つの道

注④ 明鑑 曇りのない鏡
       物の姿を明らかに移す鏡
       物の真実を見通す力

注⑤ 梓  古くアズサの木を用いたことから、印刷用の版木

(解説)
         素行32歳の時の書
 この序は貞応3年(1654)に書かれたもので、元和8年(1622)生まれの山鹿素行、32歳の時の書である。
 また山鹿素行は、21歳の時に書いた杏庵の序文には「その門葉に姓は藤、氏は山鹿、名は義(もち)(あざな)()(けい)なるものあり」と藤姓が用いられ、35歳の時に書いた「部教全書」の自序には平姓を用い、54歳の時の「家譜」にはまた藤姓が用いられている。素行の時代に、山鹿家の系譜はもう分からなくなっていたということではないか。
 素行は、名はしばしば改めて貞直、義(もち)、義(もち)高興(たかおき)、高(すけ)、義(のり)などと称し、字は子敬、通称は甚五左衛門、号は初め(じゃく)(せつ)(さい)(るい)(くう)(さい)(にょ)(うん)と称し、21歳ごろから素行を主用したとある。


(文意)
               孝道は百行の本
           忠孝は武士の励む最たる徳

 素行は、「終とは、孝道を全くするを云えり」と、孝を尽くすことは百行のもとと云う。
 忠孝は武士の励む最たる徳で、非常に難しいが、歴史上もっとも忠孝を尽くしたのは楠正成・正行親子しかいない。
 この書は楠公の遺訓であり、兵家が目指す鏡である。心して、常に心中に銘記し、忘れなければ、立身出世は間違いない。
 山鹿家に秘伝として伝わってきたが、忠孝を尽くすことは人の道として当然の事であれば、楠正成は歴史上最たる模範の鑑であることから、書物にして後世に残すことにした。


残る二つの肖像画
 山鹿素行の肖像画には、平戸・津軽の両系統がある。
 写真上は、平戸系で、写真下は、津軽系のもの。
 山鹿素行は、平戸藩第4代藩主、松浦重信と親しかった。また、弘前藩第4代藩主、津軽政信に「大星伝」を授け、同じく弘前藩家老、津軽玄播にも「大星伝」を授けている。そして、山鹿素行の子、雅実は弘前藩・津軽政信に仕え、のちに家老職を務めている。
 

山鹿素行の武士道論は、実践的兵学

 日本近世史専門の早稲田大学教授、谷口眞子は、「武士道と士道~山鹿素行の武士道論をめぐって」(論文)の中で、山鹿素行の武士道論を次のように述べている。

 ――― 素行は「武教全書」第一巻上で、優れた人材を   登用し適材適所に配置する方法、軍令・軍法などに触れた後、第一巻下からは具体的な戦争を想定して斥候の使い方、行軍や駐留の方法、築城術、攻城戦・籠城戦や相手の軍勢と数に開きがある時の戦法、騎馬戦・徒歩戦、水軍による戦法など、様々な戦争の形態について解説している。
 まさに実践的兵学である。
 その視点は、軍隊を掌握する総大将・総司令官としての立場から書かれており、想定している対象は大名クラスと考えられる。
 対照的に「武教小学」は、ここの武士は如何に生きるべきかを説いたもので、日常生活で実践すべき事柄を分かりやすく説明している。
 ・・・序文では、武士が三民(農・工・商)の長たりうるのは「能く身を修め心を正し、しこうして国を治め天下を平らぐ」からであり、おどろ髪で肘をいからして剣を振り回すかぶき者や、長衣を着て詩文を読み暗誦するだけで満足している中国風の士大夫風情の者を批判している。
 ・・・
 山鹿素行は、「書斎の学問」は認めず、修身にはじまり、人としての道を尽くし、世界を治めるための学問は、実践性を具えている実学でなければならない、と考えていた。
 したがって、朱子学をはじめ老荘思想や仏教を、実用や実社会への影響力という観点から批判することになる。中国と異なる本朝(日本)としてのアイデンティティーを支えるのが、日本独自の「武」「武士」であると論じた『中朝事実』は、吉田松陰、乃木希典が称賛するところとなった。
 ・・・
 さて「山鹿語類」「士道篇」の冒頭では、武士は文武の徳を兼ね備え、三民の上に立つ人倫の模範たることが職分であると述べられている。素行の士道論の根本をなす考え方を表現したもので、よく知られた部分である。この職分論は、当時確立しつつあった身分制社会における、武士の存在理由を明確に述べている。
 素行は、近世の武士は単なる軍人でも役人でもないと考えていた。一事一物に至るまですべては天地の法則によっており、「聖人の道」を日常の生活で実践することが、君子・大丈夫たる者の職分であると明言したのである。
 素行は「士道篇」を前半と後半に分け、前半部分では内面的自覚に関する事柄を、後半部分では外面的威儀に関わる事柄を取り上げているが、この双方を武士一人一人が実践することを求めた。
 ・・・
 素行にとって武士とは、官僚的・役人的存在ではない。
 「武」国の礎として、武力を担っていることを自覚して武芸にいそしむとともに、主君を支えて自らも道徳を身に着け、人としての模範たるべき職分をもった人間である。


素行学の意義
 人物叢書「山鹿素行」堀勇雄著は、素行の思想的成長発展段階は六つに分けられるとするなど、素行が自らの思想的な行きづまりに対して絶えず全力を以ってぶつかり、生涯を通して、学問的進歩に精進したことが分かる。
 非常に難しい山鹿素行の思想について、人物叢書「山鹿素行」は、素行学の本質・特徴として、以下六点に分けて述べているので、その骨子を紹介する。
①実学的傾向

 素行学に一貫する特質で、日用事物の上に役立たぬという実践的要求を以って、国学・歌学・老荘・仏教・陽明学・朱子学等を次々に批判し、揚棄した。
②武士道理論の樹立
 実学的傾向の帰結であり、武士として日常役立つべき教養知識を体系化すること、現実の武士生活における規範を立てることが素行学の目的であった。
 素行の士道論
*君臣関係を天地自然の儀則で不滅のものと考え、封建的主従関係を絶対視して人倫の大綱、道徳の基本とし、この上に士道論を構成し、士農工商の身分制度の固定化に努めた。
*封建的主従関係を絶対視し、武教主義を強調する結果、徳川幕府の礼讃となり、王朝政治〔王政復古〕を否定し、反駁的尊王論に反対した。
*奉公と恩賞との交換関係であった戦国武士道を、義の精神を中核として純化し(義利の弁によって奉公と恩賞との、連携を打破し)、近世武士道を確立した。
*素行の婦人論は、封建家父長制的・女大学式的隷属を強制するもので、男女・夫婦の別は、君臣の別に準ずべきとした。子孫断絶を防ぐためには、妾も必要と説いた。
武士は道徳的に優れているから、三民(農工商)の上に立つのだと説いた。
*農民を商工の下に置き、あらゆる拘束・収取を加え、食うや食わずの境涯に置くことを以って、民を愛する所以であると強説した。
素行学は、あまりに武士階級本位の武断主義を強調して、人民大衆の真の幸福、或は権利・自由を認めず、経済的には消費者・遊民であった武士階級の、生産階級たる農工商に対する搾取・抑圧を合理化するものであった。
③山鹿流兵学を完成
 素行学は本質的に兵学である。しかし、素行以後、ほとんど見るべき発展はなく、特に経学の領域においては停滞のみならず、退歩さえ感じられる状態であった。
 山鹿流兵学の最も優れた継承者は吉田松陰である。しかし、松陰は山鹿流をもって任じながら、客観的には山鹿流を超脱していた。
④古学唱導の先駆
 古学唱導の先駆者として、日本儒学史上重要な地位を占めるが、中国古典学の研究家としては仁斎・徂徠に及ばない。
⑤日本中朝主義

 中国ではなく日本を以って中華・中朝とする日本中朝主義は、素行によってはじめて主張された。しかし、先駆的意義はあっても、素行学としての独自性はない。
⑥武教主義

 日本国体の優越性を強調し、尊王の必要を説きながらも、公家政治の道に違えるを難じ、武家政治の撥乱反正の功を讃えて、覇道を認め徳川幕府の政治を正当視し、王朝復古論・反駁的尊王論に反対した。
 『中朝事実』には、「夫れ天下の本は国家に在り。国家の本は民にあり。民の本は君にあり。」とあり、「民の本は君に在り」は素行の創見である。
 素行の国体観念は武教主義を本質とするもので、「皇室(天皇)中心主義」ではない。
建武中興・楠木正成を真似るな
 「山鹿語類」巻第十五、臣道に、「士の出処・去就」に関し、以下の通り記述があり、反駁的尊王を厳に戒めている
 朝廷を重んじて武家を軽んずるは、往古の式、君臣の礼たり。
 然れども末世に及んで、朝廷は名のみにして武家のはからひに任す。
 ここを以って食録・官位に至るまで、皆武家の心に任せれば、往古に相かなわずといえども、世々皆是れを例とす。
 今又改むべきに便りなし。
 あるべきことにあらざれども、当時(楠木)正成が依頼の如くならんことありとも、更に正成を以って準拠すべからざる也


電通大学・木子香講師との社会プロジェクト実習2018プロジェクト
「市民・自治体・大学(産官学)連携による
 カルタ『くすのきまさつら』の制作」に決定!
  制作 大阪電気通信大学
  依頼 四條畷楠正行の会(字札、絵札の指導・監修)
  後援 四條畷市・四條畷市教育委員会
  スケジュール 4月~11
         講義・現地学習・演習・プレゼン・制作・発表


●四條畷市・産経新聞社共催『楠正行考シンポジウム』について
 16日付産経新聞朝刊1面に社告掲載


その他
連絡等
次回例会 
 日時 2月13日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 楠正行と観阿弥・世阿弥
    3.19楠正行シンポジウムについて3.19楠正行シンポジウムについて
    3月現地学習・上北山村について、他


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信60号・61号はコチラからも(PDF)



四條畷楠正行の会 第37回例会

日時 平成29年12月12日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
菊水の流れ、「左から右」と「右から左」の二流に驚きの声!
 今年一番の寒波襲来で、大阪でも最高気温が10度を切る寒さの中、会員13人が出席しての例会開催となった。
 今月は、国府会計幹事の計らいで、飲み物(お茶・コーヒー)とお菓子を準備していただき、リラックスムードの中での開催となった。真木副代表は、療養中のため、マイ茶持参だが、飲み物を口にすると、話し方も滑らかになり、会話が弾む。
 絵本は、製本化が決定したことに、異口同音に喜びの声が。それも、4セットも寄贈していただける事になり、市内2つの図書館に2巻づつ常置できることになる。
 如意輪寺の本堂内陣の柱に刻まれる菊水は、右から左に流れているとのこと。そして、楠妣庵観音寺の家紋、菊水も、同じく右から左に。
 菊水の家紋と云えば、通常、左から右に流れているが、二つの流れがあることにびっくり! 「皆さん、このことをご存知でしたか?」と尋ねると、楠野さんだけが手を挙げられた。楠野さんは観察力が鋭く、しっかりと、見ておられたようである。富田林や千早赤阪では、知る人が多く、ほとんど常識のようだと報告すると、これまた全員が驚き!


↑例会の様子(この後、遅れて参加した人も)3周年事業のDVD視聴のためテレビも

↑例会の様子(なぜか、女性は一方に集中?!)

↑楠正行資料室にかかった標示看板

↑楠正行資料室の中の様子(正行通信の掲示と、例会資料等を常置)
例会の
内容
楠正行絵本6分冊1巻本完成~楠正行通信第59号
・楠正行絵本制作プロジェクト
・6分冊1巻本 絵本「楠正行」完成
・制作 大阪電気通信大学 監修 四條畷楠正行の会
    製本は四條畷市立図書館に寄贈
・第1分冊 正行の学び まさつらくん
・第2分冊 正行の友  まさつらとけんしゅう
・第3分冊 正行の大志 たみもりのぶし 正行
・第4分冊 正行の恋  正行 恋物語
・第5分冊 正行の情け 渡辺橋の美談
・第6分冊 正行の最期 正行最期の戦い
 大阪電気通信大学総合情報学部デジタルゲーム学科・木子香講師と19人の学生の皆様 お疲れ様でした。ありがとうございました。
朗報! 大阪電気通信大学、製本化決定
    製本本4セットの寄贈を受け、四條畷図書館・田原図書館に常置
四條畷市広報誌12月号に掲載予定

●菊水の家紋、水流に二流~楠正行通信第58号
・正行ゆかりの如意輪寺、楠妣庵観音寺は「右から左」へ
  千早赤阪や富田林ではほぼ認知されている!
・建水分神社、湊川神社等は、「左から右」
・如意輪寺本堂内陣の柱に残る菊水紋は、すべて右から左へ
 しかし、日常は、左から右へを使用
・寺社略記で違いは明確に
 ~ 久子の方の強い思い~楠木の木を取り、水流も変えたか
・11月17日、談山神社の例大祭に扇谷出席

佐々木道誉と楠正行
 単なるバサラ大名ではなかった道誉
 文武両道に通じ、室町幕府の重鎮として、尊氏・義詮二代に貢献
  ~ 四條畷の合戦での位置取りに、道誉の本領発揮が見て取れる

 以下のリポートは、吉川弘文館・人物叢書「佐々木導誉」森茂暁より。

佐々木道誉のキーワード
・南北朝動乱時代に生きた個性派武将「バサラ大名」

78歳という、当時ではずば抜けた長寿
・近江の国を本拠とする豪族
・比叡山は宿敵
・佐々木氏庶流の京極家の出身(嫡流は六角家)
・室町幕府の重鎮として幕府政治の確立に貢献
文武両道に通じた中世人
佐々木氏は約4世紀にわたって近江守護職を継承

(写真:林家辰三郎著「佐々木道誉」表紙より転載)

佐々木道誉の事績
笠置寺陥落後、天皇らは京都に送還
           佐々木道誉、千草忠顕あずかる
 この時、佐々木道誉は蔵人頭の千草忠顕を預かり、四条隆量(たかかず)(高資の子)、一宮(たか)(よし)親王も佐々木一門があずかっていることから、佐々木氏が元弘の変の鎮圧と事後処理に重要な役割を果たしたことが伺える。また、幕府軍が京の都から離れた後の京都警備にあたった武将の一人に佐々木佐渡大夫判官入道道誉の名が残る。
後醍醐帝、37日、隠岐に向け出発。
          佐々木道誉、後醍醐帝を警固 北畠具行を処刑

警護の武将は、千葉介貞胤、小山五郎左衛門尉、佐々木道誉がその任にあたった。
 京に戻った佐々木道誉は、北畠具行(親房の従兄弟)を関東に護送するが、途中、幕府の命を受け、近江の国柏原で処刑をする。「太平記」「増鏡」は、”この間の儀は後世まで忘れがたくこそ候へ”と、道誉に対する具行の感謝の言葉を述べさせ、道誉の情誼に厚い性格を強調している。
道誉と尊氏の連携
            鎌倉出発時、道誉、尊氏と北条討伐謀議
 佐々木京極家記録の讃岐丸亀京極家譜には、北条討伐を前提とした道誉と尊氏の連携が元弘3年(1333)の3月、鎌倉出発の時点で出来上がっていたことが記されている。また北条仲時らが自害して果てた地、近江番場は道誉の所領であるとも。
 道誉が六波羅攻撃に参加した記録・形跡がないことから、京都と鎌倉の通路遮断の目的で、本貫地近江柏原辺りに待機した可能性が大きい。神器の接収も道誉のもとで行われた可能性が高く、倒幕戦の輝かしい功績と尊氏との緊密な関係があり、建武新政府で雑祖決断所の職員に登用されたものと見たい。
尊氏の東下に随った道誉
                道誉、尊氏と主従関係明らか
 (かま)()文書(常陸の国大掾(だいじょう)氏の庶流)に残る軍忠状に道誉の証判。道誉の証判を与えた軍忠状は9点ほど残るが、道誉が足利軍の一方面軍の大将であったことをうかがわせる。
 建武2年(13359月、尊氏は袖判下し文を初めて道誉に下し、中先代の乱での勲功に対する恩賞給付として、上総(かずさ)(くに)畔蒜(あひるの)(しょう)(千葉県)と伊豆の国土肥・戸田(静岡県)を与えている。この事は尊氏と道誉の間に主従関係が形成されていたことを示しており、道誉は、歴史の転換期に当たり、後醍醐帝との関係を絶ち、武家社会の興望を担う尊氏にかけて、新しい時代の歴史舞台に登場するための足掛かりを築こうとしていたのである。
妙法院焼き打ち事件と道誉
                幕府暗黙の了解のもとの襲撃か
 暦応3年(134010月、道誉、秀綱父子による天台宗の門跡白川妙法院焼き打ち事件が起こる。道誉の一族若党が「例のばさらに風流を尽くして」紅葉狩りの帰途、妙法院の紅葉の枝を折る。妙法院の山法師等は折った枝を奪い返し、佐々木一党を門外に追い出す。怒った道誉は、300余騎で押し寄せ、火をかけ乱暴の限りを尽くした。
 山門の嗷訴を受け、幕府は遠流・配流と決め、道誉は上総の国に配流となるが、その配流には多くの若党が付き従い、道々で酒宴を催し、遊女をもてあそんだ。果たして道誉が配流先に着いたかどうかは定かでないが、翌年後半期には、確実に幕府に復帰している。
 道誉は、幕府の暗黙の了解のもと、父祖以来の宿敵である山門の重要な一角を占める妙法院に被害を与えたとも思われ、のちの旺盛な活動ぶりを見ると、つまずきどころか飛躍台の役割を果たしたともみえる。
 美濃の守護土岐頼遠は、光源上皇の行列に対する狼藉行為によって処刑をされる。山門に対する狼藉と時の治天下光源上皇に対するそれとでは幕府の受け取り方は違う。道誉は頼遠よりはるかに賢い武将だったといえる。
四條畷の合戦、吉野攻撃と道誉
            自らも負傷、次男をなくす
 道誉は子息秀綱、秀宗、一族郎党を率い、四條畷の戦いに従軍した。
 四條畷の戦いで、高師直のもとに出陣した足利方の武将の中で、唯一といってもいいぐらい、しっかりとした位置取りをしたのが佐々木道誉。飯盛山の山腹に陣取りし、衝突第2期の北条あたりの戦いでは、正行の後背をついて飯盛山を掛け下り、大塚惟正隊をほぼ全滅させるという武功を挙げている。個性派武将として足利幕府を支えた武将としての面目躍如といったところか。正行に大きな痛手を与えた武将、佐々木道誉であった。
 この戦いの道誉の活躍の様子は太平記に描かれているが、道誉は、最終段階で大きな犠牲を払うことになる。四條畷で楠正行を倒し、吉野を陥落させて得意の幕府軍が、兵を収めて平田荘に帰ったところ、南軍はこれに奇襲をかけ、幕府軍は多くの被害者を出した。道誉と嫡子秀綱は数カ所に傷を負ったし、道誉の子息左衛門秀宗は大和水越で討死した。
 道誉が戦で子息を亡くした最初で、正平4年(13492月、幕府軍は京都に凱旋するが、道誉にとっては傷心の帰還だったに違いない。
道誉の権勢と細川頼之の登場
    二代将軍義詮の信任を得て権力獲得、細川頼之登場の立役者
 道誉の幕府重鎮としての活動が本格化するのは、正平の一統(
1351)の破たん後である。
 道誉は、正平の一統で廃止された北朝を再興し、守護大名間の利害を調整するなど、将軍権力の強化と幕府政治の確立に貢献するなど、将軍足利義詮の絶大な信頼を得て、幕府内に大きな権力を獲得していく。
 正平23年(13689月、道誉子息高秀が出雲守護職として登場していることから、20年以上にわたって維持してきた出雲守護を譲って引退したものとみられる。
 道誉の引退する頃、歴史の表舞台にはなばなしく登場するのが幕府管領の細川頼之である。細川頼之の管領選任にあたって、道誉が深くかかわった可能性は高い
 正行が戦った道誉は、細川頼之に後事を託し、その細川頼之に誼を通じて北朝に投降した正行の弟、正儀。日本歴史の上で、唯一、二つの朝廷が存在したこの時期、正統な吉野朝復権、言い換えれば一つの朝廷を目指した正行・正儀兄弟が、如何に、政治とのかかわりで苦労したかがうかがい知れる人間模様ではないか。

道誉の真骨頂
             幕府重大な危機にこつ然と登場
 道誉はいったいどうして権勢を極めたのか。
 幕府重職の歴任についてみると、山門造営奉行として比叡山延暦寺の末社化していた祇園社や興福寺等とのつながりを持ったことであり、政所執事として将軍家の台所を預かり、経済行為の結果生じる訴訟を所轄したこと、引付頭人・(くばり)奉行として幕府の訴訟機関である引付方の運営を采配するなど重要なポストを占めるとともに、幕府の最高議決機関たる評定のメンバー(評定衆)でもあった。

 そして、道誉の真骨頂は、幕府が重大な危機に陥るとこつ然と登場し、問題の解決に乗り出し、幕府の運営を主導したことである。後光源天皇の擁立を成功させたこと、そして有力守護大名たちの抗争の仲裁にも入っている。
摂津守護職を巡る争奪の中で正儀との関係
         正儀を出し抜く道誉の老獪ぶり
 細川清氏の管領就任に関わった道誉であるが、3年後には排除に動いている。
 道誉に陰謀を暴かれ没落した清氏は、正平16年(136112月、正儀とともに京都に打ち入った。この時、道誉の屋敷に踏み込んだ正儀が、あたかも貴賓を招くように酒肴の準備をして退散した道誉の心根に感銘して、火をかけるどころか道誉に増した酒肴を提供し、秘蔵の鎧と白太刀一振を置き土産にして退散した、との太平記の有名なくだりがある。
 ここで太平記が褒めているのは、正儀の心の広さではなく、正儀を出し抜いてまんまと太刀をせしめた道誉の老獪ぶりである。

 佐々木道誉とバサラ/林家辰三郎「佐々木道誉」平凡社より

<バサラ>の流行
 南北朝時代には、<バサラ(婆紗羅)>ということが、この時期の美意識となった。
 <バサラ>とは、身分不相応に派手で、遠慮のない振る舞いのことである。
 当時、その<バサラ>男と言えば、まず佐々木道誉、次には土岐頼遠、更には高師直の三人が、三傑と云うべき存在である。

2018.3.19「シンポジウム楠正行考」決定!

2018319日(月)、
電通大・四條畷学舎「コナミホール」で

 *名称 「明治150年記念」「産経新聞85周年記念」
       第6回楠正行シンポジウム
       『楠正行考』
        小楠公と四條畷市~正行公の生き方と魅力
 *主催  四條畷市・産経新聞社
 *協力  四條畷神社、大阪電気通信大学他
 *日時  平成30319日(月)
 *場所  大阪電気通信大学 四條畷キャンパス コナミホール
 *参加  事前申込制・参加費無料
 *内容  <1部> 特別講演
      <2部> 活動報告
      <3部> パネルディション


 開催実施要領は、近日発表予定!
 乞う、ご期待!

その他
連絡等
次回例会 
 日時 1月9日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 楠正行と山鹿素行
    その他


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信58号・59号はコチラからも(PDF)




教文「クリスマス会」

日時 平成29年12月8日(金) 午前10時より11時30分
場所 教育文化センター 2階ホール 
イベント内容 クリスマスツリーへの飾りつけや人形劇の上演を行ない、たのしいクリスマス会でした。子どもたちは、サンタさんからプレゼントをもらったり、いっしょに写真を撮ったりしました。






四條畷楠正行の会 第36回例会

日時 平成29年11月14日(火) 午後1時30分~午後3時45分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
パワーポイントによる絵本「楠正行」6分冊1巻本の上映
 この日は当初予定の現地学習「上北山村、楠正行を祀る四位殿神社を訪ねて」の急きょの中止に伴う例会となったが、雨の中、ほぼ会員がそろっての開催となった。
 この日、1028日、本会発足3周年記念事業で発表された大阪電気通信大学総合情報学部デジタルゲーム学科(木子香講師と19人の学生)制作による絵本「楠正行」のスクリーン上映会を行った。
 各会員が出来上がった絵本をじっくりと見る機会のないまま例会を迎えることとなったので、扇谷が、絵本の全頁をスキャンし、パワーポイントに落とし込んで、その画面を写しながらの「絵本読み聞かせ」を実演した。
 「正行の学び」「正行の友」「正行の大志」「正行の恋」「正行の情け」「正行の最期」の6分冊1巻本であるが、6グループの個性や考え方、絵のタッチの違い、文章表現の違い、見開きページのコマの使い方の違い、等々はあるものの、楠正行の人間像、生涯、考え方を子どもたちに伝えようとする意欲的な作品となった。
 この絵本は、当初、直ちに四條畷図書館に寄贈の予定であったが、キット本を、新たに本格製本し、3月に予定される四條畷市・産経新聞社共催のシンポジウムの中で贈呈することで、スケジュール調整をしている。
 この絵本完成によって、四條畷市では、4年前に始まった副読本を使った四條畷の合戦と楠正行についての郷土学習(小学校3年生、4年生対象)に続いて、就学前の子ども達には親等の読み聞かせによって、また小学校低学年の子ども達には自らこの絵本を読むことによって、郷土ゆかりの人物、楠正行を知る契機となるもので、郷土の偉人を知り、郷土を誇りとする子ども達が多く輩出するものと、大いに期待している。
 この絵本制作にあたった大阪電気通信大学の学生たちに、大いに感謝をしたい。
 そして、この絵本が、図書館等を通して、いつまでも四條畷の地で読みつがれることを願っている。(扇谷)
(写真上:映し出される絵本を見入る会員、写真下:絵本に合わせ読み聞かせをする扇谷(手前の列右端))


例会の
内容
現地学習、上北山村延期の件
 先の台風の影響で、国道169号(大和上市~宮滝)で土砂崩れのため通行禁止。迂回路はあるが、狭隘な山道。四條畷から往復6時間近い行程を考慮し、「安全」「安心」の観点から、延期に決定!
 上北山村の中岡さん、中垣内教育長とも連絡の上、了解をいただいた。
 また、東京から参加予定の広木さん(東京支部長)にも連絡し、前泊のキャンセルを依頼。
 時期を選んで実施することを確認。


完成! 絵本「楠正行」6分冊1巻本
◎パワーポイントによる絵本「楠正行」6分冊1巻本の上映
 6分冊全頁を映し出しながら、扇谷が音読。
 その後、全員が、絵本に対する感想を書いて提出。
 この感想の内容は、後日、扇谷から大阪電気通信大学木子香講師に伝えることに。


発足3周年記念事業に、大阪府内16市町村、兵庫県、京都府、奈良県、広島県、東京都からも出席
 ・楠正行通信57号
  近畿各地から200名を超す参加者
  四條畷の誇り、楠正行を全国に発信
  1028 四條畷楠正行の会発足3周年記念事業開く!
  大阪府下16市町村、広島、東京からも参加
  正行ゆかりの地、観心寺名誉住職、如意輪寺副住職も
  東市長、湊川神社、四條畷神社も
  基調講演、産経新聞特別記者編集委員の安本氏の「楠木考」取材秘話
  楠正行絵本6分冊1巻本、完成プレゼンテーション
  詩吟、歌、踊りに会場から多くの拍手
  扇谷/朱舜水作、楠正行像賛発見の物語を報告
  反省! もっと、正行への理解が進む企画・取り組みを

 ・受付名簿・記帳者分析
  四條畷市/103 大東市/14 寝屋川市/8 大阪市/4
  河内長野市/3 千早赤阪村/3 堺市/2 岸和田市/2
  枚方市、交野市、東大阪市、八尾市、豊中市、富田林市、河南町、羽曳野
  市/以上1 大阪府計/147
  八幡市2 京都市1 京田辺市1 京都府計/4
  大和高田市、平群町、吉野町/以上1 奈良県/3
  神戸市、明石市、川西市/以上1 兵庫県/3
  広島市1 東京都1 その他12 大阪府外/23 総計/170

★マスコミ、ミニコミでも報道
 この日の様子は、翌日、産経新聞の府下版・市内版で報道された。(楠正行通信第57号に紙面掲載)
 また、地域情報誌月刊「アゴラ」の111日号でも、1面トップで「楠正行の生きざまを描いた絵本が完成」との見出しで報道された。
 なお、河北新聞の111日号では、シリーズ「北河内文化人紀行」で、四條畷楠正行の会が取り上げられ、楠正行顕彰の一助となった。
 我々の会の活動が、このように、各報道で取り上げられることはうれしい限りである。ますます楠正行顕彰が進めばと願っている。
 
(写真左:月刊アゴラ11月1日号1面   写真右:河北新聞11月1日号4面)

●吟道摂楠流創立70周年記念「全国吟剣詩舞道大会」に出席
 扇谷は、招待を受け、1029日(日)、神戸文化ホールで開催された標記大会に参加。
 1日いっぱいの企画満載の大会で、全国各地から集まった摂楠流の指導者・会員等が、 会員吟詠・競吟・構成吟・宗家他役員吟詠を披露した。
 中でも圧巻は、<構成吟>で、「楠木正成 ~かくて神となりぬ 武人をたずねて~」と題して行われたが、ナレーションに合わせて舞台が映し出され、その舞台ごとに吟じられた吟詠は素晴らしく、感動した。
 吟題は以下の通り。
 「楠公を詠ず/日柳燕石」「金剛山を望む/杉浦重剛」「楠木正成千剣破城を築きここに據る/大槻磐渓」「辞世/日野資朝」「藤房卿命を多聞に伝うるの図/大槻磐渓」「和歌二題/後醍醐天皇・藤原藤房」「児島高徳桜樹に書するの図に題す/斎藤監物」「金剛山/山岡鉄舟」「楠河洲/柴野碧海」「楠公の図に題す/西郷南洲」「楠公子に訣るるの図に題す/頼山陽」「楠河洲の墳に謁して作有り/頼山陽」「楠公墓前の作/吉田松陰」「湊川神社/高橋白山」「大楠公/徳川斉昭」


●龍谷大学第46回学術文化祭に出席
 扇谷は、招待を受け、11月5日(日)、龍谷大学深草学舎で開催された標記学術文化祭の龍吟会発表に出席。
 この日は、龍吟会のメンバーに加え、指導者、同会OB、大学関係者、保護者らに加え、地元深草地区周辺の市民が多数参加しており、非常に心温まる雰囲気の中での教室が一体となった発表となった。
 吟詠発表の柱は、構成吟で、「親子の絆」と題して、楠木正成親子の生涯を吟じるものであった。
 構成吟編集のベースは、湊川神社発行の「大楠公御一代記」で、資料の一つに、扇谷の歴史小説「楠正行」も取り上げていただいた。地域の皆さんの吟詠もあり、また、青葉茂れる桜井の合唱も入り、扇谷も、ここでは大きな声で詠った。
 吟題は、以下の通り。
 「吉野に遊ぶ」藤井竹外、「大楠公」河野天頼、「楠公の歌」(青葉茂れる桜井の)、「桜井訣別」頼 山陽、「楠河洲の墳に謁して作あり」頼 山陽、「小楠公の母を詠ず」本宮三香、「楠帯刀の歌」元田永孚、「和歌~かゑらじと」楠 正行、「小楠公の墓を弔う」杉孫七郎、「嗚呼忠臣楠氏の墓」生田鐵石、「大楠公」徳川斉昭、「河内路上」菊池溪琴

その他
連絡等
次回例会 
 日時 1212日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 楠正行と佐々木道誉
    その他


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信57号はコチラからも(PDF)




教文 第4期 親子体操「さとやまへ遠足に行きました」

日時 平成29年11月2日(木) 午前10時より12時
場所 四條畷市修景施設 [さとやま」 
イベント内容 教文親子体操では、秋の遠足として里山に上りました。
良いお天気に恵まれ、みなさん頑張りました。




四條畷楠正行の会発足3周年記念事業

日時 平成29年10月28日(土) 午後2時~午後4時
場所 四條畷神社 神社会館 2階ホール
事業 四條畷楠正行の会発足3周年記念事業
「武士道の人、楠正行 今、蘇る!」開催
対象 記念事業を伝える産経新聞(10月29日付朝刊)



●四條畷神社会館に200人の参加者
 全国、27の区市町村から参加

 10月28日(土)、私たちは準備を重ねてきた、四條畷楠正行の会発足3周年記念事業「武士道の人、楠正行 今、蘇る!」を開催しました。
 台風が日本列島に接近し、朝から雨交じりの悪天候でしたが、12時前には一組のご夫婦がお見えになり、私たちと一緒に食事をともにしながら、「今日の催しを楽しみにしていましたので、早く出てきました。」と語られる様子から、手ごたえを感じる壱日のスタートとなりました。
 午後1時の開場とともに、一人、二人と集まり始め、定刻30分前には、ほぼ会場(座席105席準備)の半分が埋まる状況でした。その後、続々と集まっていただき、開会の2時には、会場は約200名の人でいっぱいとなり、立見席で入り口が埋まる盛況となりました。
 受付時に記帳いただいた方の地区を見てみると、大阪府16市町村(大阪市、大東市、寝屋川市、河内長野市、千早赤阪村、堺市、岸和田市、枚方市、交野市、東大阪市、八尾市、豊中市、富田林市、河南町、羽曳野市そして四條畷市)、京都府3市(八幡市、京都市、京田辺市)、奈良県1市2町(大和高田市、平群町、吉野町)、兵庫県3市(神戸市、明石市、川西市)、広島県広島市、東京都江戸川区、以上近畿を中心に27区市町村からお集まりいただきました。

●来賓には、観心寺、如意輪寺、湊川神社、四條畷神社からも出席
 来賓には、東市長をはじめ、森田教育長、大阪電気通信大学デジタルゲーム学科渡部学科主任、観心寺永島名誉住職、如意輪寺加島副住職、湊川神社教化渉外課の鈴木さま、四條畷神社南井権禰宜、楠公会山下会長をお迎えし、ご協力いただいた御妣会三牧会長、小楠公偲ぶ会坂本会長、またご後援頂いた四條畷市立教育文化センター指定管理者阪奈エンタープライズ㈱奥田社長、四條畷市立教育文化センター奥田所長、なわて学実行委員会藤岡事務局長らのご出席を得ての開催となりました。

 基調講演は、産経新聞特別記者編集委員の安本寿久氏による「今、何故 楠氏一族を取り上げるのか」と題して、産経新聞の超ロングランの特集記事の取材秘話をお話しいただきました。


会場受付


開会前の会場内


開会あいさつする真木副代表


東市長のご挨拶


産経新聞特別記者編集委員 安本様の基調講演



大阪産業大学・学生による正行絵本完成発表



学生代表から絵本を受け取る真木副代表



四條畷市詩吟連盟による吟詠



ひまわりコーラスによる歌


さくら会による踊り


扇谷の正行像賛発見感動物語


国府世話人による閉会挨拶


木子香講師(前列左から4人目)と、19人の学生

●楠正行絵本6分冊1巻本、完成品を受け取る
 大阪電気通信大学の学生の皆様による楠正行絵本の制作発表は、スクリーンに映し出される6分冊の主な頁を説明しながらの発表となりましたが、会場からは、驚きと感嘆の声をいただきました。
 そして、成果品として、「正行の学び」「正行の友」「正行の大志」「正行の恋」「正行の情け」「正行の最期」6分冊一巻本を、私どもの会に頂きました。
 また、特別出演いただいた、四條畷市詩吟連盟の吟詠、「零丁洋を過ぐ」「楠公 子に訣るるの図に題す」「小楠公の母を詠ず」「小楠公の墓を弔う」「楠公を詠ず」、ひまわりコーラスの歌、「青葉茂れる桜井の」「四條畷」「ふるさと」、さくら会の踊り、「河内音頭」「河内酒」「楠公まつり」は、それぞれ、静と動が交錯する中で、会場を一つにして盛り上がり、多くの拍手をいただきました。
  最後を締めくくった、扇谷の「朱舜水作 楠正行像賛発見の感動物語」は、極めて史料の少ない楠正行顕彰に、何か新たな史料がないかと探し求めた結果、埋もれていた朱舜水作の楠正行像賛発見に至った経過をお話しました。また、今後、この正行像賛の普及による正行顕彰にご協力を、と呼びかけました。

●四條畷市民は勿論、広く近畿各地からご来場
 今回の事業は、四條畷市の広報誌に掲載頂き、また一部地区での回覧、チラシやポスターを公共施設等に掲示することで市内への周知をしました。また、後援していただいた産経新聞の大阪府下版に掲載頂きました。
 結果、四條畷市民の皆様のほか、北河内地区は勿論のこと、冒頭に書きましたように、富田林市、千早赤阪村、河内長野市、堺市など父、楠木正成関わりの地を含め、広く近畿一円からもお集まりいただきました。
 ご参会いただきました皆様、足元の悪い中、ご出席いただきありがとうございました。

●反省! もっと、正行の理解が進む取組みを
 しかし、反省材料も多々あります。
 四條畷市ゆかりの楠正行の生きざまや人物像について、十分、情報をご提供できたとは言えませんでした。集まった多くの人たちから、「もっと、正行自身のことが知りたかった」との声をいただきました。
 楠正行の実像を知っていただくことで、今回制作した絵本の意図や朱舜水作の正行像賛の発見の価値が、より深くご理解いただけたのではないか、と大いに反省しています。
 大阪電気通信大学総合情報学部デジタルゲーム学科の皆さんによって制作いただきました「楠正行絵本」につきましては、改めてご紹介をいたします。また、若干の監修を加えて、四條畷市を通じ、四條畷市図書館に寄贈の予定です。
 今後、私たち四條畷楠正行の会は、新たに5周年を目指して、更なる取り組みを進めてまいります。ご支援よろしくお願いします。

 その他
連絡等
次回例会 
 11月の例会(14日)は、現地学習をいたします。
 教育文化センターでの例会はお休みとなりますので、お知らせいたします。




教文 第4期 親子体操「お芋掘りとハロウィン工作」

日時 平成29年10月26日(木) 午前10時より11時30分
場所 四條畷市立教育文化センター 
イベント内容 教文親子体操では、5月に植えたサツマ芋の苗が大きくなり、収穫の時期を迎えました沢山のお芋が出てきました。
また、上手にハロウィンも作りました。




 

 
    

四條畷楠正行の会 第35回例会

日時 平成29年10月10日(火) 午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 14人出席
 この日の例会は、目前に迫った発足3周年記念事業の打ち合わせが中心となりました。その他の内容は、以下の通りです。
◆楠正行絵本プロジェクトについて
 大阪電気通信大学木子香教室の学生さんの絵本完成に向けた最後の仕上げに拍車がかかっています。
 1028日の発足3周年記念事業で、初めて公開されますが、ワクワクしながら楽しみにして待つことにします。
◆正行像賛扇子が四條畷市ふるさと納税のお礼品に登録

 101日より、正行像賛扇子が四條畷市ふるさと納税のお礼品に登録され、取り扱いが始まりました。
 四條畷市に1万円以上寄付した方のお礼品の一つとしてチョイスしていただくことが可能です。
 全国の楠氏フアン、正行フアンの皆様! 四條畷市にふるさと納税して、この「正行像賛扇子」をゲットしてください。
 四條畷市公式ホームページ、ふるさと納税コーナーへは、下記アドレスからリンクしてください。
http://www.city.shijonawate.lg.jp/gyosei/shijyonawateshinotorikumi/
furusatonouzei/1506476669693.html


◆扇谷、後醍醐天皇塔尾陵正辰祭に出席
 927日、後醍醐天皇陵のある如意輪寺では、後醍醐天皇塔尾陵正辰祭に合わせて、後醍醐天皇忌法要が営まれ、扇谷は、ご招待をいただき出席してきました。
 詳しくは、正行通信56号に掲載しています。
 正辰祭は、午前10時、皇居での天皇の拝礼に合わせて、宮内庁職員の先導のもと厳粛に正辰祭拝礼の儀式が執り行われました。
 また法要は、如意輪寺本堂で加島公信住職の読経が流れる中、しめやかに執り行われました。
 この日は、多くの吉野朝関係者が出席しておられ、有意義な意見交換、情報交換を交わすことができました。楠正儀末裔の楠瀬さんや、四條畷楠正行の会東京支部長の広木さんらとの再会にも感謝し、吉野山如意輪寺を後にしました。


↓10月例会の様子
 
↓出来上がった1028日記念事業の街頭案内版








●第34回例会のおさらい
・楠正行通信56号
  四條畷楠正行の会発足3周年記念事業
  「武士道の人、楠正行 今、蘇る!」
  1028日(土)午後2時~ 四條畷神社・神社会館で開催 入場無料

  基調講演 「今、何故 楠氏一族を取り上げるのか」
       ~産経新聞特別記者編集委員 安本寿久氏

  正行絵本「6分冊1巻本」完成プレゼンテーション
       ~大阪電気通信大学 木子香講師と19人の学生
  特別出演  四條畷市詩吟連盟・ひまわりコーラス・さくら会
  正行の会  朱舜水作・楠正行像賛発見の感動物語!


●発足周年記念事業について
 
と き 平成291028日(土)

      午後2時から(午後130分開場)
      入場無料

ところ 四條畷神社・神社会館
      JR学研都市線「四条畷」駅下車・東へ徒歩10

詳しいプログラムはこちらから(PDF)



●正行像賛扇子!
 私たちが制作した「正行像賛扇子」が、産経新聞の104日付朝刊(北河内版)」に紹介されました。
 大好評! 発売中です
 1本 2500円。

(創業享保31718 白竹堂製)
仕様>
75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
表面4色フルカラー 正行像と辞世の歌
裏面1色 正行像賛148文字と釈文(ひらがな)
親骨レーザー彫「四條畷楠正行の会」と刻印
紙箱入り


↓正行像賛扇子(表面)正行像と辞世の歌



↓正行像賛扇子(裏面)正行像賛148文字と釈文(ひらがな)



 その他
連絡等
次回例会 
 日時 1114日(火)
 現地学習の予定ですが、行き先は未定です。1028日の記念事業終了時に決定します。


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信56号はコチラからも(PDF)




教文で”スナッグゴルフ”をしよう!

日時 平成29年10月1日(日) 午前10時~午前11時30分
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生広場
対象 市民
イベント内容 教文芝生広場でスナッグゴルフを楽しみました。



教文 ”みんなの運動会”

日時 平成29年9月21日(木) 午前10時より11時50分
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生広場
イベント内容 この秋一番の青空のもと運動会を行いました。









 
 
 


教文 親子体操「初めてのお絵かき」

日時 平成29年9月14日(木) 午前10時より11時45分
場所 四條畷市立教育文化センター 
イベント内容 教文親子体操では、真っ白な画用紙に沢山の彩りで、楽しくお絵かきをしました。。




 
    

四條畷楠正行の会 第34回例会

日時 平成29年9月12日(火) 午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 12人出席
 この例会は、会はじまって以来、テーマに沿った勉強は無く、10月に迫った発足3周年記念事業に向けての相談が中心となりました。
↓9月例会の様子










●第33回例会のおさらい
・楠正行通信54号
   15歳で従三位に叙され、奥州に下向した顕家
   正行、辞世の歌に比される血涙の上奏文
   若くして散った北畠顕家と正行
   北畠顕家21年の短い生涯
   顕家、血涙の上奏文送る
   顕家と正行に出自の違い
   花将軍、北畠顕家の誕生
・楠正行通信55号
   地方分権・法令順守を説き、質素倹約を奨励
   正成の献策に通じる帝への諫言
   
奥州将軍府を構築した顕家の上奏文(全文掲載)


●楠正行絵本プロジェクト
 824日、集中講義にて、最終プレゼンテーション。この日、観光大使(絵本作家)の谷口友則氏も2回目の参加。行政からは、政策企画部長、市民生活部長と二人の部長と地域教育課長、産業観光課長が出席し、私たちの会からは6人が出席しました。
 この日は、谷口友則氏からの指摘を受け、6グループのプロット・ストーリーに対する四條畷楠正行の会からの修正要望を提出しました。
*当面の予定
  104   最終本描き
  10/28   完成品プレゼン(3周年イベント)
 なお、この取り組みについては、マスコミでも大きく報道されました。
 829日には、ラジオ大阪のNews Tonaight 「明日誰かに話したくなるニュース解説」のコーナーで、産経新聞編集委員の安本寿久さんから詳しく紹介されました。
 また、99日付産経新聞夕刊にも「楠正行 知られざる恋」と題して、絵本プロジェクトの取り組みが大きく紹介されました。


●発足3周年記念事業について
 
と き 平成291028日(土)

      午後2時から(午後130分開場)
      入場無料

ところ 四條畷神社・神社会館
      JR学研都市線「四条畷」駅下車・東へ徒歩10

詳しくはこちらから(PDF)

 この日は、この事業の案内状やチラシ、ポスター等の配布、掲示依頼を決めるとともに、会員の役割分担、タイムスケジュールと当日のシナリオの確認、そして必要備品等の準備と担当など、盛りだくさんのことを確認、取り決めまし

基調講演は産経新聞「楠木正成考」取材裏話です
 基調講演では、「今、何故 楠氏一族を取り上げるのか」と題して、ロングランで続く産経新聞の「戦後7172年、楠木正成考」特集の取材チームのヘッドとして各地を取材されている特別記者編集委員の安本寿久氏に、取材の裏話、紙面に載らなかった話などをしていただきます。
 乞う、ご期待です。

正行の絵本、はじめて世に出ます
 また、第2部では、大阪電気通信大学総合情報学部デジタルゲーム学科と四條畷楠正行の会共同で進めてきた「楠正行絵本プロジェクト」の完成絵本、「くすのきまさつら」6分冊1巻本(正行の学び・正行の友・正行の恋・正行の情け・正行の大志・正行の最期)のプレゼンテーション・発表があります。
 今の学生の感性で、半年かけて制作してきた絵本が、はじめて世に出る事になります。
 いったいどのようなタッチで、どのようなストーリーが展開されるのか。興味津々です。この絵本が完成し、四條畷市図書館に寄贈されることで、大人から子どもまで、正行の生涯を知っていただくことになります。
 6分冊を読む、または読み聞かせる事で、四條畷神社に祀られ、小楠公墓所にねむる楠正行が、果たしてどのような人物であったか、またどのような生きざまをしたのか、おぼろげなく分かる仕掛けとなっています。
 ぜひ、会場に足をお運びください。
 楠フアン、待望の企画です。


●正行像賛扇子!
 順調に販売続く!
 全国の正行フアンの皆様。正行像賛扇子が、四條畷市ふるさと納税の景品に採用されました。101日から適用され、1万円以上の御寄付で、この正行像賛扇子が景品として受け取っていただけるようになります。四條畷市に御寄付をしていただき、朱舜水作・楠正行像賛の発信にご協力ください
なお、お買い求めの場合は、四條畷楠正行の会にご連絡をください。

 1本 2500円。(創業享保31718 白竹堂製)  

 仕様>
  75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
  表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
  裏面 1色      正行像賛148文字と釈文(ひらがな)
  親骨 レーザー彫   「四條畷楠正行の会」と刻印
  紙箱入り

↓正行像賛扇子(表面)正行像と辞世の歌



↓正行像賛扇子(裏面)正行像賛148文字と釈文(ひらがな)



 その他
連絡等
次回例会 
  日時 1010日(火)、午後130分~
  場所 教育文化センター2階 ホール
  内容 3周年記念事業について
     その他


傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております。

正行通信54号・55号はコチラからも(PDF)





「教文 夏の集い ”Last Summer Festival”」

日時 平成29年8月26日(土) 午後3時より午後8時
場所 四條畷市立教育文化センター 全館
イベント内容 今年は開催日を7月中旬より8月の後半に替え、プログラムを一新し、より楽しんでもらえるよう企画しました。
芝生広場ではオープニングダンスから始まり、ウォータータイムで全身クールダウン。
総勢十数組のダンスチームが日頃の成果を発表しました。
また、エルバートミュージックさんと井上恵一さんのライブでは、大変な盛り上がりを見せ、Lastは花火大会を実施しました。
模擬店に於いては、スクイ―ズ・動力トンボや段ボール迷路・フェイスペインティング・似顔絵・ネイルアート・100本糸引きなどが出店しました。


高校生ダンス

高校生ダンス

ミニクラスダンス
 

小学生ダンス
 
キッズダンス
  
段ボール迷路
 
スクイーズ・動力トンボ
 
ウォータータイム
 
スーパーボールすくい
 
千本引き


「教文 親子体操でうちわ工作をしました。」

日時 平成29年8月10日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 マイうちわを作って涼をとりましょう。
上手に出来ました。

 
 

四條畷楠正行の会 第33回例会

日時 平成29年8月8日(火) 午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 14人出席
 相変わらず猛暑日が続く中での8月例会でしたが、新たな仲間が一人加わり、少し新鮮な気持ちでのスタートとなりました。
↓8月例会の様子










●第32回例会のおさらい
・楠正行通信53号
   正行の後見役、恩智左近は延元213376月急死
   しかし、八尾市史には正平315日、四條畷の戦いで戦死と
   猛暑の中、16人の会員出席
   史料がほとんどない恩智左近
   南北両朝争奪の巷となった八尾
   後醍醐帝の吉野還幸に随った恩智左近
   敵地の摂津に出向き一日一夜の稲刈り
   延元213376月、戦乱の中、病死


●北畠顕家と正行
 (参考文献)
 「花将軍 北畠顕家」横山高治
 「日本中世史を見直す」佐藤進一・網野善彦・笠松宏至
 「北畠顕家~足利尊氏が最も恐れた人物」桑原敏真
 「南朝の若武者 北畠顕家」大島延次郎
 今月のメインテーマは、北畠顕家と正行です。まずは、顕家の生涯から見ておきましょう。なお、掲載内容の出典は、上記参考文献に基づいています。
・北畠顕家の生涯

 北畠顕家~尊氏が怖れた南朝の若き武将
 図書館員の文献紹介:岡崎嘉彦より
 北畠顕家 13181338 親房の長男
  元弘3年1333 従三位に叙され陸奥の守として奥州に父ともども下向
 当時、遠国へ任官された地方官は、自ら赴かず目代を派遣して国務にあたらせた。
 そこで、天皇は、顕家を御前に召し、勅語を下し、御衣・御馬を与えて、下向を申しつけた。この頃、御衣を賜るのは陸奥の守だけで、御衣・御馬を下されるのは太宰司や太宰大弐だけで、特別の待遇であった。加えて義良親王も同行したことを合わせ考えると、この行がいかに重視されていたか分かる。
 建武21335 尊氏が反旗したため、顕家は鎮守府将軍に任じられ、尊氏を征伐
 3月、権中納言に任官し、奥州に帰還
 尊氏の東征に対し、後醍醐は顕家に再三再四の出兵を求めるも、奥州を動けず
 建武51338 勅命を受け、ついに義良親王を奉じ霊山を発し西上。鎌倉制圧後、美濃青野ヶ原の戦いで多くの兵を失う。伊勢、奈良、河内、天王寺、摂津、阿倍野と激戦を繰り広げるも、522日、堺浦石津の戦いで討死する。
 討死7日前の515日、天皇に政治意見書を奉呈する。

 霊山城の築かれた霊山は、福嶋氏から東北へ約22キロ。険しい阿武隈山地の北端にそびえる標高805メートルの峻嶺で、全山が奇岩怪石と絶壁からなり、岩城、岩代の国境をなしている。
 山頂からの眺めは雄大で、東は岩城・陸前の東海岸からはるか牡鹿半島、西は福島市、二本松市、郡山市に至る福島盆地を一望に見晴らす景勝地である。今も、おびただしい史跡が散在し、四季を通じ人々が訪れる。

・花将軍 北畠顕家の誕生
 元弘元年133134日、京都の西園寺公宗の北山第で、天皇臨幸の基に花の宴が催された。
 この時、わずか14歳の貴公子、顕家は紅梅の上衣をかざして陵王の舞を舞い、その息をのむような美しい光景を天皇、居並ぶ公卿たちは見守った。(増鏡、舞御覧記)

 武略のみならず、学問、舞踊、芸術等にも精通していたことが伺える。
 疾如風除如林 侵椋如火動如山
 延元213378月、霊山城を発った顕家率いる奥州官軍の先頭には、北畠親房が孫子の兵法に学んでつくらせ、はるばる送りとどけた「風林火山」の旗頭が風にはためいた、という。
 兵法書「孫子」にある「疾きこと風の如く 徐かなること林の如し 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し」。この軍旗は戦国の武将、武田信玄が甲州軍団の先頭に掲げたと伝えられているが、実は、その30年も前に、軍略家としても名高い親房が北畠軍団の陣頭に掲げたものである。これに倣って諸将が、色とりどりの旗や幟を掲げ、勇壮な行軍絵巻を描き出した。
 

・顕家、血涙の上奏
 未来の展望なき戦いの中で、515日、顕家は後醍醐天皇に上奏文を書き吉野に送った。
 忠誠を尽くし、悲憤さえ感じさせる上奏文。
 顕家戦死後、父親房は東国、常陸で苦戦中、血をはく思い出したためた「神皇正統記」執筆のきっかけとなったといわれているが、父子ともに南朝を基にした国家の在り様、政治的信念、理想を表明している。
 後に四條畷の戦いを前に、楠正行は辞世の歌、文章を残しているが、顕家の奏上文とは好一対のものであった。
 南北朝以降、昭和に至るまで、武将や兵士が出陣にあたり、遺書を書く慣わしは、この顕家の上奏文と正行の辞世の歌が大きな教訓とさえなった、と云われている。


・北畠顕家の上奏文
 別紙「北畠顕家奏状」参照
上奏文を読み解く
*二度までも奥羽54郡の兵士を率い、雪、風の中を、数百里の山河を戦い続け、その忠誠なる部下やその留守を耐え忍んだ家族の心中を思い、血をはく思いで訴えたもの
*丹心の蓄懐を述べさせた自信の裏付けは、足掛け5年にわたる、陸奥の国での労苦に満ちた政治的・軍事的経験を置いてほかにない。
*地方分権制の確立を説く第1条は、自己の成功の上に立っていることは明らかである。
*奥州という辺境での苦しい体験、そこで育まれた激しい感情が、顕家の書いた、あるべき政権論に高い説得力を与えている。
*「功あるものと雖も、これを賞するには土地を与えるべきで、みだりに高位高官を授けることは慎まなければならない」とする考え方は、親房も同様で、親房同様恵まれた公家名家として、公家優越武家蔑視を感じさせる。
*名門村上源氏の末裔北畠の嫡男として生まれ天皇が頼みとする中で奥州を舞台に戦い続けた顕家。一方、河内の豪族楠氏の嫡男として生まれ、公家優越武家蔑視の中で黙々と吉野の宮を支え続けた正行。大きくは同じ運命ともみえるが、如何ともしがたがった出自の違いが。正行の悲哀!
*顕家が「花の将軍」なら、正行は「雑草の大将」とでも言うべきか。似て非なる二人。
*自慢の息子を若くして亡くした親房は、顕家を十分補佐しなかった正行を恨んだのではないか。親房の主戦論と正行の和睦論の確執が四條畷の戦いの序章となっていくが、石津で顕家をなくした親房は、「生き残った正行よ。何をぐずぐずしているのか。顕家を死に追いやった責任はお前にもある。」と、檄を飛ばしたのではないだろうか。


(別紙)
北畠顕家奏状
 原典 日本思想大系「中世政治社会思想」下(岩波書店)
 出典 「日本中世史を見直す」佐藤進一・網野善彦・笠松宏至(悠思社)
第一条
(前欠)
鎮将、各々その分域を領知し、政令の出ずるや、五方に在り。因准(いんじゅん)のところ、故実を(わきま)うるに似たり。元弘一統の後、この法いまだ周備せず。東奥の境、(わずか)に皇化に(なび)く。これすなわち最初鎮を置くの(しるし)なり。西府に於ては、更にその人なし。逆徒敗走の日、(ほしいまま)にかの地を()み、諸軍を押領して、再び帝都を(おとしい)る。利害の間、これを以って観るべし。およそ諸方(かなえ)のごとくに立ちて、なお聴断に(とどこお)りあり。もし一所に於て四方を決断せば、万機紛紜(ふんうん)ていかでか患難を救わんや。分かち出して侯に封ずるは、三代以往の良策なり。鎮を置きて民を治るは、隋唐以還(いかん)の権機なり。本朝の昔、八人の観察使を補し、諸道の節度使を定む。承前の例、漢家と(こと)ならず。方今乱後の天下、民の心(たやす)く和しがたし。(すみや)かにその人を撰びて、西府および東関に発遣せよ。もし遅留あらば、必ず(せい)(せい)の悔あらんか。兼て山陽・北陸等に各一人の藩鎮を置きて、便近の国を領せしめ、よろしく非常の(おそれ)に備うべし。当時の急にすべきこと、これより先はなし。

第二条

諸国の租税を免じ、倹約を専らにせらるべき事
 右、連年の兵革、諸国の(ろう)(ろう)(いや)しくも大聖の至仁にあらざれば、(れい)(みん)()(そく)を致しがたし。今より以後三年は、偏えに租税を免じて、民肩を(いこ)わしめよ。没官領新補の地頭等の所課、同じく蠲免(けんめん)に従い、その祭祀(さいし)および服御(ふくぎょ)等の用途は、別に豊富の地を撰び、以て供奉の数に充てよ。三ヵ年の間は万事興作を止め、一切に奢侈(しゃし)を断ち、しかる後、宮室を(ひく)くし以て民を(ゆた)かにして、仁徳天皇の余風を追い、礼儀を節し俗を(あつ)うして、延喜聖主の旧格22に帰せば、(ただむき)を垂れて海内子のごとくに来り、征せずして遠方賓服(ひんふく)せん。

第三条
官爵の登用を重んぜらるべき事
 右、高き功あれば、不次(ふじ)の賞を以てするは、和漢の通例なり。その才なきに至りては、功ありといえども、多く田園を与えて名器を与えず。なんぞ況んや徳行なく勲功なくして、(みだ)りに高官高位を(けが)さんや。維月の位は朝端(ちょうたん)の重んずるところ、青雲の(まじわり)象外(しょうがい)の撰ぶところなり。その仁にあらずして僥倖の者、近年踵を継ぐ。しかのみならず或いは起家の族、或いは武勇の士、先祖経歴の名を軽んじ、文官要劇の職を望む。各々登用の志を存し、(ほしいまま)に不次の恩に(あずか)る。向後の弊いかんぞ休むことを得ん。およそ名器は(みだ)りに人に()さず、名器の(みだ)りなるは僭上の(きざはし)なり。しかればすなわち、任官登用はすべからく才地を撰ぶべし。その功ありといえどもその器に足らざれば、厚く功禄を加え田園を与うべし。士卒および起家奉公の輩に至りては、且は烈祖昇進の跡を逐い、且は随分優異の恩に浴さば、なんの恨かこれあらん。

第四条
月卿・雲客・僧侶等の朝恩を定めらるべき事
 右、朝廷に拝趨(はいすう)し、帷幄(いあく)(じっ)(こん)し、朝々暮々竜顔に咫尺(しせき)し、年々歳々鴻慈(こうじ)戴仰(たいぎょう)するの輩、たといその身を尽くすとも、いかでか皇恩を報ぜんや。ここに国家(らん)(げき)して、宸襟(たやす)からず。或いは乗輿を海外に移し、或いは行宮(あんぐう)を山中に構う。人臣と()て、忠義(つく)さんはこの時なり。しかれども、忠を存じ義を守る幾許(いくばく)ぞや。無事の日は大禄を貪婪(たんらん)し、艱難(かんなん)の時は逆徒に屈伏す。乱心賊子にあらずして何ぞや。罪死して余りあり。かくのごときの族、何を以て新恩を荷負(かふ)せんや。僧侶護持の人、また多くこの類なり。辺域の士卒に(およ)びては、いまだ王化に染まずといえども、君臣の礼を正し、忠を懐き、節に死するの者、勝計すべからず。恵沢いまだ(あまね)からざるは政道の一失なり。しかれば功なき諸人の新恩の跡を以て、士卒に分ち賜うべきか。およそ元弘以来没官の地頭職を以ては、他用を(さしお)かれて有功の士に配分し、国領および庄公等の本所領を以ては、宦官(かんがん)道俗の恩に擬せられば、朝礼(すた)れず勲功空しからざるものか。そもそもまた累葉の家々不忠の科は、(にく)むべしといえども、偏えにその人を廃黜(はいちゅつ)せば、誰かまた朝廷の故実を(わきま)え、冠帯の威儀を(つくろ)わんや。近年士卒の競望により、多く相伝の庄園を収公す。理の推すところ、(こと)善政にあらず。しかれば累家(るいけ)の私領においては、すべからくその家に返され、公務の忠否に随い、追つて黜陟(ちゅっちょく)あるべきなり。今度陪従(べいじゅう)の輩ならびに向後朝要の仁に至りては、尤も計略の分限を定め、拝趨の羽翼を計い行わるべきか。

第五条
臨時の行幸および宴飲(えいいん)(さしお)かるべき事
 右、帝王の(いた)るところ、(けい)(こう)せずということなし。風俗を移し、艱難を救うの故なり。世澆季に(のぞ)み、民塗炭(とたん)()つ。遊幸・宴飲まことにこれ乱国の基なり。一人(いちにん)の出ずるときは、百僚威儀に(そつ)(じゅう)し、過差の(ついえ)、万を以て数う。況んやまた、宴飲は鴆毒(ちんどく)なり。故に先聖これを禁じ、古典これを誡む。伯禹(はくう)酒味を歎きて儀狄(ぎてき)を罰し、周公酒誥(しゅこう)を制して武王を諫む。草創これを守るといえども、(しゅ)(ぶん)なおこれを(おこた)る。今洛都に還り、再び魏闕(ぎけつ)に幸さば、臨時の遊幸、長夜の宴飲、堅くこれを止め、深くこれを禁ぜよ。明らかに前車の(くつがえ)るを知りて、すべからく後乗の師となすべし。万人の企望するところ、けだしここにあり。

第六条
法令を厳にせらるべき事
 右、法は国を(おさ)むるの権衡(けんこう)、民を(ぎょ)するの(べん)()なり。近ごろ朝に令して夕に改む。民以て手足を()くところなし。今出て行わざれば、法なきにしかず。しかれば則ち、約三の章を定めて、堅石の(まろ)ばしがたきがごとし、画一の教を(ほどこ)して、流汗の(かえ)らざるごとくせば、王事(もろき)こと()く、民心(おのずか)ら服せん。

第七条
政道の益なき(ぐう)(ちょく)の輩を除かれるべき事
 右、政のためその得あらば、芻蕘(すうじょう)の民といえどもこれを用いるべし。政のためその失あらば、(ばつ)(えつ)の士といえどもこれを捨つべし。(とし)(ごろ)以来、卿士・官女および僧侶のうち、多く機務の蠧害(とがい)をなし、ややもすれば朝廷の政事を(けが)す。道路目を以てし、衆人口を(ふさ)ぐ。これ臣鎮に在るの日、耳に聞きて心に痛むところなり。それ直を挙げて枉に()くは、聖人の格言なり。賞を正して罰を明らかにするは、明王の至治なり。かくのごときの類早く除くにしかず。すべからく黜陟(ちゅっちょく)の法を明らかにし、耳目の聴を(ひら)くべし。陛下諫に従わざれば、泰平期するなからん。もし諫に従わば、(せい)(しゅく)日あるものか。小臣、もと書巻を執りて軍旅の事を知らず。(かたじけな)くも (ふつ)(しょう)を承り、艱難の中に跋渉(ばっしょう)す。再び大軍を挙げて命を鴻毛に(ひとし)うす。幾度か挑み戦いて身を虎口に(のが)れし、私を忘れて君を思い、悪を却け正に帰せんと欲するの故なり。もしそれ先非改めず太平致しがたくば、符節を辞して范蠡(はんれい)の跡を逐い、山林に入りて以て伯夷の行を学ばん。

 以前条々、(もう)すところ私にあらず。およそそれ政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれを精練したまい、賢臣各々これを潤飾(じゅんしょく)す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せんや。しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の(ちく)(かい)をのぶ。書は言を尽くさず。言は意を尽くさず。伏して(ねがわ)くば、上聖の(げん)(かん)(てら)して、下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す。

 延元三年五月十五日

 従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍臣源朝臣顕家上る


●楠正行絵本プロジェクト

 824日、集中講義にて、最終プレゼンテーション。
 6グループのプロット・ストーリーに対する修正要望を提出。

*当面の予定
  8/24  11時~1240分 集中講義にて最終プレゼン
  104
   最終本描き
  10/28   完成品プレゼン(3周年イベント)


●発足3周年記念事業について
 
と き 平成291028日(土)

      午後2時から(午後130分開場)
      入場無料

ところ 四條畷神社・神社会館
      JR学研都市線「四条畷」駅下車・東へ徒歩10

詳しくはこちらから(PDF)


●正行像賛扇子!
 順調に販売続く!
 全国の正行フアンの皆様。ぜひお買い求めいただき、朱舜水作・楠正行像賛の発信にご協力ください。

 1本 2500円。(創業享保31718 白竹堂製)  

 仕様>
  75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
  表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
  裏面 1色      正行像賛148文字と釈文(ひらがな)
  親骨 レーザー彫   「四條畷楠正行の会」と刻印
  紙箱入り

↓正行像賛扇子(表面)正行像と辞世の歌



↓正行像賛扇子(裏面)正行像賛148文字と釈文(ひらがな)



 その他
連絡等
次回例会 
  日時 912日(火)、午後130分~
  場所 教育文化センター2階 ホール
  内容 3周年記念事業について
     「くすのきまさつら」絵本プロジェクトについて


傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております。

正行通信53号はコチラからも(PDF)





「教文 親子体操で水遊びをしました。」

日時 平成29年7月20日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 教文親子体操では、ホールでの体操を終え、プール遊びを行いました。
梅雨も明けたこの日の外気は32度ですが、芝生広場では、マイナス2度の約30度となりました。

 

四條畷楠正行の会 第32回例会

日時 平成29年7月11日(火) 午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 16人出席
 この日は、この夏一番の猛暑日となり、全国の60カ所を超える観測地点で35度以上を記録する中、会員が一人、二人と集まり、休会中を除くほぼ全員が顔をそろえた。
↓7月例会の様子








●第31回例会のおさらい
・楠正行通信51号
   久子の方、出身は甘南備か、京都か
   最後の地、墓も、甘南備(富田林)と伊自良(岐阜県山県市)に
   正行の末裔、藤田力弥さんとの出会い
   南江正忠妹説(甘南備誕生説)と万里小路藤房妹説(京都誕生説)
   久子の墓は、甘南備そして伊自良にも
   笠置山之城 元弘戦全圖

   総大将、足助次郎重徳の名前がくっきり

・楠正行通信52号
   楠正行に遺腹の子がいた
   池田(のり)(まさ)と名乗り、池田家を継ぐ
   野瀬庄の内藤満幸の娘を妻に
   岡山市操山に残る三勲神社址
   正行遺腹の子、池田教正、幼名は多聞丸
   地域文化誌まんだ第80号、岡沢新吾論文 様々な史料から引用


●恩智左近と正行
尾の豪族、楠氏八臣の一人といわれる恩智左近を取り上げた。
 しかし、残念なことに、恩智左近に関する資料は極めて少なく、出版物もほとんどなく、研究論文も見当たらない状況で、わずか八尾市史と恩智城址跡や恩智左近の墓に建つ現地説明版を基にレジュメを作成するにとどまった。
 以下、その内容である。


◆南北朝時代の八尾


八尾市史「南北朝時代の八尾」より抜粋
河内地方の状勢

 この頃、近畿における各領主たちは、鎌倉幕府の大きな豪族を基にした所の御家人中心制度に対して、新しく起ってきた所の村落を単位とする一類一党の団結による郷村制の上に立つ在地武士の組織をもって対抗するの形勢となり、こうした力が新しい制度を望んで、幕府を倒そうとする朝廷との結びつきを、より一層容易に、かつ密接にしたものということができる。
 延元元年、525日、楠木正成は湊川に戦い、自害をしたが、この時、橋本太郎正員、神宮寺太郎兵衛正師、矢尾新介正春ら、宗徒の一族28人がこれに殉じたと伝えられている。
 この頃、矢尾の地域は、赤坂をはじめとして南朝方の拠地であった吉野や観心寺、金剛寺の地と、北朝の拠点である京都との中間要地として、常にその前線基地となり、八幡、飯盛、萱振、八尾、四天王寺といずれも両者争奪の巷となって激戦の渦の中におかれることとなったのである。

 殊に東高野街道によって飯盛が河内の入り口となり、八尾が南朝方の第一線基地となって、ここに当地域は或は南朝軍の有となり、或はまた北朝方の手に占められて、文字通りの修羅の巷となった。

八尾城と八尾別当賢幸
正成が赤坂に勤王の旗揚げをしたとき、八尾に八尾別当賢幸、恩智に恩智左近満一、神宮寺に神宮寺小太郎があった。
 八尾別当賢幸は、早く正成の父、正玄と常に領地の事に関して争いの事あり、ある時は八尾氏が領有し、またある時は楠氏がこれを奪い返すという有様であった。
 元弘2年1332、正成は八尾の地を支配下に置くべく画策、後醍醐天皇の命を受け八尾別当賢幸に権僧正の位を賜り、楠方に帰するように計った。別当賢幸は南朝方に属し、河内一円は正成の支配の中に統一されることとなった。
 湊川の戦のあった延元元年1336、末に後醍醐天皇は吉野に還幸されたが、この時、八尾別当賢幸は恩智左近とともにこれに随って吉野に至り、吉野の守護にあたることとなった。

 しかし延元2年の頃には、いつしか八尾の地域は北朝方の占拠する所と為っていて、北朝方はこれを前線基地として南朝の吉野に対して備えを張るようになった。城を修復し、防備を厳にし、堀構えもいかめしく備え、ここに伊香賀の土屋氏、秋山彦三郎、同彦小五郎らが立てこもった。
 八尾別当賢幸は、終始南朝方として吉野の守護にあたっていたようであるが、延元3年7月、疫病のため67歳をして病死した。
 正平2年、正行は、和田助氏をして秋山彦六の立てこもる八尾城を攻めるが、策をもって細川顕氏の軍を打ち破っている。

恩智左近と神宮寺小太郎
恩智左近満一は、俗に楠公八臣の一人と云われ、古く恩智神社の社家恩智貞吉の名が見え、その子孫と云われ、恩智神社の神主として恩智における豪族として権勢を有し、信貴山への登り口を扼し、ここに恩智城を築いて東高野街道を抑えて、早くから楠方に属して活躍し、元弘年間、楠木正成の千早籠城の際には、志貴右衛門らと共に千早城に立てこもり、敵の通路を断ち切り、所々の敵陣を夜襲しては、敵の術策を探ってこれを城内に通報し、奔走したのであった。
 建武元年1334、飯盛城を攻撃の際には、八尾別当賢幸とともに、第一線の軍として活躍したが、延元元年1336、湊川に楠木正成の戦死した後は、一時、八幡に出向して足利尊氏の軍に挑戦したこともあった。
  そして、この年7月、高師直が京都における兵糧が少なくなったため、飯盛の城を取り囲み、河内半国に押し寄せて、その田畑の稲を刈りとって引き上げた。このため恩智左近は、これが報復のために、和田氏とともに渡辺から舟で淀川を下り、摂津方面へ出向いて一日一夜その地の稲を刈り取って持ち帰ったのであった。
  後、楠正行に従って四條畷に出陣し、正行と共に正平31348、正月5日、戦死したと伝えられる。(扇谷注:   この部分は誤りと思われる。恩智左近は延元213376月、熱病のため急死とある。「恩智左近の墓」の項参照)

(おん)()城址(じょうし)
〒581-0883 八尾市恩智中町
近鉄大阪線恩智駅下車徒歩約20分
 恩智城址公園には、高さ約二メートルの自然石碑「恩地城址」が建つ。
 現地説明板は、「恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で、高安連峰との間に堀を廻らせ前方に大阪平野を一望のもとに収めた。堀の中にかつては小島があったがそれは昔の一の丸で現在の城址は二の丸跡という。正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠正行が戦死し恩智城も落ちた。学制領布の時ここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られる。」とある。
 恩智城址公園には、「南高安小学校(旧恩智小学)発祥の地」の石碑もたち、公園正面には旧小学校の門柱が左右に残る。

(おん)()左近(さこん)(はか)
〒581-0883 八尾市恩智中町
近鉄大阪線恩智駅下車徒歩約20
 恩智城址の西に恩智左近の墓が建っている。
 案内板に「恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成方に味方した八臣の一人である。湊川の戦の後はその子正行を助けて南朝方を守ったが、不幸にして延元二年(一三三七)六月熱病のため急死した。」と記されている。
 墓石前の自然石(高さ約1.2メートル)に、「贈従四位 恩地左近満一之墓」と記される。

●楠正行絵本プロジェクト

  期待の高まる絵本「くすのきまさつら」6分冊1巻本の制作が順調に進んでいる。
 予定している6分冊は、以下の通り。
 ①正行の学び~正行が受けた教育
 ②正行の情け~大川におぼれる敵兵を救う渡辺橋の美談
 ③正行の恋~大切な人が故、結婚を断る
 ④正行の大志~父の教えを守り、自ら立てた志一筋に生きる
 ⑤正行の友~やさしい正行、その最愛の友は武勇に優れた従兄弟の賢秀
 ⑥正行の最期~吉野詣でと四條畷の合戦
 この6分冊を、就学前の子ども達には読み聞かせによって、小学校低学年の子ども達は自ら読むことによって、楠正行の育った時代背景やその様子、そして生きざまがおぼろげなくわかる、という仕掛けの絵本である。
 いよいよ、絵本作家、谷口智則氏(四條畷市観光大使)にも登場いただき、第2回目のプレゼンテーションが行われ、絵本制作は佳境に入っていく。
*当面の予定
 72日、現地学習(希望者のみ)実施済み
      学生4人と扇谷で、吉野山・如意輪寺へ
*今後の予定
  7/12  1640分~1820分 第2回プレゼン
       (谷口観光大使・市職員も出席)
  8/24  11時~1240分 集中講義にて最終プレゼン
  104
   最終本描き
  10/28   完成品プレゼン(3周年イベント)


●発足3周年記念事業について
 早くから取り組んできた発足3周年記念事業については、この日、チラシづくりが始まった。
「武士道の人、楠正行 今、蘇る!」と銘打ち、“郷土、四條畷の誇り ロマンチックで、気持ちの真っ直ぐな人 楠正行を知り、語り継ごう!”と、呼びかけることに。
 基調講演は、産経新聞の特別記者・編集委員の安本寿久氏に、超ロングランの産経新聞「楠木正成考」特集の秘話を語っていただく。
 そして、絵本完成プレゼンテーションと題して、大阪電気通信大学木子香教室による6分冊1巻本「くすのきまさつら」の発表を予定。
 会からは、扇谷が、朱舜水作の楠正行像賛を発見した感動物語を報告する予定で、このほか、四條畷市詩吟連盟による吟詠、ひまわりコーラスによる歌、さくら会による踊りも予定。
 また、会で制作した正行像賛扇子の販売もする。
 一人でも多くの市民の皆様のご参加を待っています。

と き 平成291028日(土)

      午後2時から(午後130分開場)
      入場無料

ところ 四條畷神社・神社会館
      JR学研都市線「四条畷」駅下車・東へ徒歩10


●正行像賛扇子の追加発注決定!
 正行像賛扇子は、一部、関係者に贈呈するとともに、会員の手によって販売を進めている。
 100本制作の内、20本を贈呈用とし、80本を販売用とした。
 会員一人一人が購入したことはもちろん、楠氏や楠正行に関心を持つ人々の間に密かに広まり、在庫が30数本になった。
 今後、贈呈した楠氏ゆかりの神社、仏閣等の反応も大変好評で、正行顕彰の一つの武器として、朱舜水作の楠正行像賛の存在を広く知らしめ、結果として正行ゆかりのまちとして、この四條畷を全国に発信するツールとして、更に広めることとし、追加発注することとなった。
 全国の楠氏フアン、正行フアンの皆様、是非、お買い求めください。
 1本 2500円。(創業享保31718 白竹堂製)  

 仕様>
  75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
  表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
  裏面 1色      正行像賛148文字と釈文(ひらがな)
  親骨 レーザー彫   「四條畷楠正行の会」と刻印
  紙箱入り

↓正行像賛扇子(表面)正行像と辞世の歌



↓正行像賛扇子(裏面)正行像賛148文字と釈文(ひらがな)



 その他
連絡等
次回例会 
  日時 88日(火)、午後130分~
  場所 教育文化センター2階 ホール
  内容 北畠顕家と正行
     3周年記念事業について
     「くすのきまさつら」絵本プロジェクトについて


傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております。

正行通信51号・52号はコチラからも(PDF)





「四條畷市立東小学校より施設見学」

日時 平成29年7月7日(金)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 東小学校の三年生31名が施設見学に訪れ、質疑応答を行いました。


施設見学にきました


「教文 親子体操教室で笹飾りをつくりました。」

日時 平成29年7月6日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 親子体操のみんなで七夕さんの笹飾りをつくりました。
上手にできました。◎

 

四條畷楠正行の会 第31回例会

日時 平成29613日(火)午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 16人出席


 この日は、会員は会場のホールに入ると、黒板に張り出された「元弘戦図」の写しの前に集まってきた。
 張り出した元弘戦図の写しは、笠置在住の方が、笠置寺所蔵の元弘戦図を模写されたものを撮影させていただき、プリントしたもので、天地約120㌢、左右約75㌢のもので、描かれている文字がはっきりと読める。
 後醍醐天皇が笠置山に行在所を置き、幕府軍とたたかった時の、合戦配置図で、戦いに参加した武将の名前が一人一人、陣した位置に書かれている。
 当寺の様子が想像できる絵図に、食い入るように見入った。


↓元弘戦図の写し


イベント内容 ●第30回例会のおさらい
楠正行通信48号(PDF)
  春日社国民の大和武士、越智氏
  興福寺の権威の下の衆徒との「身分・制約」の戦い
  一条院に属し南朝を支持した越智氏
  衆徒筒井氏より下位、国民越智氏
  足利直義を南朝に仲介した越智邦澄
  越智家栄の勢力拡大と私反銭
楠正行通信49号(PDF)
  大和武士を支配した興福寺と春日社
  興福寺別当による大和国検断権の行使
  例会での質疑
   外従五位下という位階はあったのか?
   国民という言葉は使われていたのか?
楠正行通信50号(PDF)
  「楠正行絵本」制作プロジェクト始動!
  大阪電気通信大学<社会プロジェクト実習>に依頼
  6分冊・1巻本の完成予定~武将・楠正行を後世に伝える
  「正行の学び」「正行の情け」「正行の恋」「正行の大志」「正行の友」
  「正行の最期」
  正行絵本 講義と現地学習を終え、いよいよ制作段階に

●久子の方と正行
<久子の方の出自>
 楠妣庵観音寺略記によると、久子は甘南備の豪族、南江正忠の妹で、20歳のとき正成に嫁いだ、とある。
 そして、正成、正行戦死の後、生まれ故郷の甘南備に隠棲し、今も楠妣庵観音寺の境内の一角に久子の墓が残る。
 一方、「楠公夫人精説」(藤田力也弥著)によると、万里小路藤房が、畿内に勢力を持っていた正成を天皇に味方させるために、妹の滋子を家臣の養女にしたうえで、久子と名乗らせ正成に降嫁させたものではないか、とする。
 また、久子の晩年についても、戦果に包まれた河内を抜け出し、甘南備という地を訪ねて伊自良(岐阜県山県市長滝)に辿りついた、とする。
 伊自良には、楠公夫人の墓と伝わる八王子宮がある。

<正行、遺腹の子>

  地域文化誌「まんだ」2004年春夏第80
  「楠木正行遺腹の子」岡沢新吾より

 正行は摂州野瀬庄の野間城主・内藤満幸の娘を妻に向かえた。
 子どもをもうけたが、2年余りで早世した。
 正行戦死後、正儀は内藤満幸の足利方寝返りを怒り、子を宿していた兄嫁を実家に帰した。
 実家に帰った正行夫人を、妊娠承知で妻に向かえたのが池田城主九郎教依(のりより)で、生まれた子は池田六郎教正(のりまさ)と命名され、その末裔が代々池田家を継いだ。摂州池田氏、備前池田氏、鳥取池田氏は、すべて正行に連なる縁を持つ。
*備前に、正行を祀る神社があった
 岡山操山の山腹には、かつて三勲神社があった。
 和気清麻呂、児島高徳そして楠正行が祀られていたが、備前池田氏が正行の末裔という事であればうなずける。現在は、礎石の石畳だけが残っており、三勲神社跡地と記した看板が立つのみという。


●楠正行絵本プロジェクト
 場所 大阪電気通信大学四條畷学舎 10号館(1階)102教室
 時間 1650分~1820分(第5限)
 進捗について
  講義と学外学習が終了
  第1回プレゼンテーションを終え、いよいよ制作段階に入る
 今後の予定
  712 第2回プレゼン(谷口観光大使出席)
  8/? 集中講義
  104 最終本描き
  1028 最終完成品プレゼン

3周年記念事業について

 1028の本番当日のタイムスケジュールと役割分担(案)を確認
・タイトル
 「武士道の人、楠正行 今、蘇る!」
・ポスター・チラシ 7月中に作成
・広報  9月四條畷広報誌掲載or地区回覧の依頼(815日〆切)
・来賓(予定) 市長・教育長・議長・四條畷神社
・みおやの会・小楠公偲ぶ会
・四條畷詩吟連盟 吟題決まる!

  「零丁洋を過ぐ」「楠公 子に映るの図に題す」「小楠公の母を詠ず」
  「小楠公の墓を弔う」「楠公を詠ず」

●正行像賛扇子の制作と販売について
 ・㈱山岡白竹堂から納品
 本日より、販売開始! 頒布価格2500円
仕様>
 75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
 表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
 裏面 1色      正行像賛148文字と釈文(ひらがな)
 親骨 レーザー彫   「四條畷楠正行の会」と刻印


↓正行像賛扇子(表面)正行像と辞世の歌


↓正行像賛扇子(裏面)正行像賛148文字と釈文(ひらがな)


↓親骨のレーザー彫「四條畷楠正行の会」



その他

 □如意輪寺、後醍醐天皇御忌に 過去帳再現プロジェクト始動!
  毎年927日法要(平成28年に復活)
  143名の名を記した過去帳の再現プロジェクト始動!
  今後、毎年判明した武将の法要も併せて勤める。
  143名の武将解明に協力要請有り。

 □戦後72年楠木正成考<第15部>

  523日~
  千早赤阪村が伝える「楠公さん」

 □なわて学29年度前期講座・第3

  7月8日(土)14001530
  湊川神社 垣田宗彦宮司

  テーマ  「日本人の心の礎 大楠公」
    ~ 日本人が誇るべき礼節や信義を重んじる心は
      楠公精神そのもの。
    
  幕末の志士たちが心のよりどころとした楠公精神について語って
      いただきます。
  申し込んでない人も、飛び入り大歓迎です。
  総合センター3階 会議室
  (扇谷昭は、四條畷楠正行の会代表として、なわて学実行委員会の委員を
  務めています。)


 □奥吉野に中世から伝わる「後南朝の秘儀」を特別公開
  安井さん提供
  ビジュアル版~逆説の日本史[]中世編 より

 □週刊朝日 新連載小説
  「星と龍」葉室麟 2017.4.14連載開始
  楠木正成と後醍醐天皇を取り上げた歴史小説

 □笠置山之城元弘戦全圖について
  平成1911月 治郎(81) 原図より写し
  治郎氏(笠置在住)の弟、船本氏提供(上田原在住)
  国府さんによって撮影・印刷(本コーナートップに写真掲載)


 □鉄斎-人物画の魅力- 618日まで開催中
  鉄斎美術館 特別展 月曜日休館
   〒665-0837 宝塚市米谷清シ一番地 清荒神清澄寺山内

  鉄斎は、幕末の京都で、勤王の志を抱き国事に奔走していた。
  鉄斎は、楠木正成を仰ぎ、時代に先駆けて顕彰に努め、河内金剛山の楠公
 旧跡の踏査を重ね、信貴山で正成の旗や兜などを拝観・模写している。因み
 に、千早城址入口に立つ「楠公誕生地」碑の揮毫は鉄斎である。
  鉄斎は、以下の楠公に関連する作品を残している。

   楠公像・楠公画像・楠公誕生地碑・正成朝臣像・楠妣庵図・楠公訓子図
   ・楠公忠戦図



 
その他
連絡事等


●次回例会
 日時 7月11日(火)午後130分~
 場所 教育文化センター
 内容 恩智左近と正行
    絵本プロジェクト・進捗について
    その他
    

●傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。
 お待ちしております。
 
 楠正行通信48号・49号・50号はコチラ(PDF)




「教文 親子体操教室 お弁当会」

日時 平成29年5月25日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 親子体操を頑張ったあと、お弁当を食べました。
みんなで食べると楽しいですね。

 


「教文 親子体操教室でサツマ芋を植えました。」

日時 平成29年5月11日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 親子体操のみんなで、教文の畑に鳴門金時の苗を植えました。
大きなお芋が出来るかな?!

 


「教文 子ども広場」

日時 平成29年5月10日(水) 午前10時より12時
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 教育文化センターでは子ども読書週間に因み、絵本の読み聞かせとエプロンシアター、手作りおもちゃ遊びを行いました。
講師は、おもちゃライブラリーさんにご協力を頂きました。

 

四條畷楠正行の会 第30回例会

日時 平成2959日(火)午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 14人出席 オブザーバー出席1人 計15人


 今月も新しい仲間を迎えた。
 一人は、安井さんの友人で、中村さん(大東市在住)が入会。今一人は、辻さんの友人で田窪さん(大阪市内在住)で、今回はオブザーバー参加となった。
 また、体調を崩しておられた真木副代表も、久々の出席となり、全員和やかな中にも笑顔いっぱいの例会となった。

↓例会の様子(2階ホールにて)




イベント内容 ●第29回例会のおさらい
・楠正行通信47号
  時代の風を読み、先を見通していた播磨の豪族・赤松円心
  
範資(長男)と貞範(次男)の二人を尼崎に、則祐(三男)を比叡山に置く布
  石

  播磨を一つにまとめ上げ、播磨の地政学的優位性の発見と活用を実践
  正成の一途さ・精神性に比べ、円心はより現実主義者ではなかったか
  <速報> 教文1階に、「楠正行資料館」オープン!


大和武士、越智氏と楠正行
(資料) 中世身分制社会の中で頭角を現した越智氏

       奈良県史11 大和武士より

 中世大和の国の、南部の豪族
 春日社の神人である国民に組織され、一条院に属し、南朝を支持。
 永享11年(1439)、越智維通が敗死して、越智氏は一旦断絶するが、越智家栄が応仁の乱後、南大和をほぼ統一して全盛時代を現出する。

 国民は春日社の権威に頼り、神主職を獲得して発生。
 衆徒は、興福寺の権威の下、官符衆徒となり、奈良中雑務検断職を有する等、他の大和国人に比べて優越的な権力を持つことができた。

 大和の越智氏にとって、河内では見られなかった、衆徒:国人、身分差との戦い抜きに考えることはできない。
 越智氏は、軍事力を背景に、官符衆徒を同盟者という形で従属的な位置に据えることで、国民に付きまとう身分上の正当性の欠落部分を補おうとしたと考えられるが、それは取りも直さず、衆徒を上に認めることの裏返しでもあり、自らを不安定な立場に追い込むことでもあった。

 越智家栄の勢力拡大と私反銭
 越智氏には賦課権がなかったので、大規模な私反銭賦課を生み出していく。

 中世社会の根幹にある「身分」という大きな壁に直面した越智氏
 ~正行が、北畠親房や四条隆資を前に、身分との戦いを強いられたことと同じでは

 大和武士の制約
 「国中」=興福寺、そして春日社の存在
        興福寺の春日社支配の確立
 如何ともしがたい中世身分制社会の「身分」との戦いに翻弄された越智氏の歴史
 
その他
連絡事等


・楠正行絵本制作プロジェクト

 場所 大阪電気通信大学四條畷学舎 10号館(1階)102教室
 時間 1650分~1820分(第5限)
 *スケジュールと出欠確認
   ※四條畷楠正行の会集合場所と時刻
    集合場所  市民総合センター・正面バス停
    時刻    1620分(時間厳守)
         バスの場合 コミバス 田原①
         
四条畷駅発1620 電通大前着1635

 いよいよ正行絵本プロジェクトが始動します!
 
楠正行の物語を、4~5分冊1巻本で製作の予定です。
 10月完成予定です。
 乞う、ご期待ください!
  


3周年記念事業について
 ・小楠公偲ぶ会 412日の例会に出席(協力要請)
 ・詩吟連盟   513日(土)、役員会に出席:協力要請(事前了解ok

正行像賛扇子の制作について

 ・㈱山岡白竹堂 創業享保2年(1718)に発注
 ・65日納品予定
 ・仕様
   75分 25間型 唐木染骨使用 京扇子
   表面 4色フルカラー 正行像と辞世の歌
   裏面 1色      正行像賛と釈文
   親骨 レーザー彫   四條畷楠正行の会
   紙箱入り



 正行像賛扇子は、6月、販売開始予定です!

正行関連インフォメーション
 □フジサンケイグループによる楠公映画化の動き
  422日(土)
  田中光敏監督、フジグループ役員、東市長を案内
  歴史民俗資料館☛四條畷神社(正式参拝)☛和田賢秀墓☛野崎観音
  ☛十念寺☛川崎公民館☛西中野交差点☛四條畷高校前☛小楠公墓所
  ☛ハラキリ字地
  田中光敏監督 58歳 2003 精霊流し/2009 火天の城/2014
  サクラサク/2015 海難1890


 □321日(火)

  東京明治神宮会館でシンポジウム「楠木正成考」開催・産経新聞社主催
  資料 331日付産経新聞

  広木さん、藤原さん出席

 425日(火)
  楠公研究会(山下弘枝会長)発足記念式典 於いて、湊川神社

   1000 月次祭に参列
   1100 湊川神社正式参拝
   1200 設立記念総会
        ここでも、広木氏と同席

 □戦後72年楠木正成考<第14部>
   425日~29
   「楠公さん」を生んだ兵庫(神戸)
 
 □なわて学「平成29年度・前期講座」
  5月~9月 毎月5回連続講座 @500円/1回

   申込状況 4月末 38
  <7月8日(土) 第3回 14001530
  湊川神社 垣田宗彦宮司
  テーマ  「日本人の心の礎 大楠公」

        ~ 日本人が誇るべき礼節や信義を重んじる心は楠公
          精神そのもの。
          幕末の志士たちが心のよりどころとした楠公精神
          について語っていただきます。


 □教育文化センター主催市民講座
  「バスで訪ねる正行ゆかりの世界 第3弾!」

    5月、6月、7月、9月、10月 の5回シリーズ

 □その他
 ・日本遺産 「楠公父子の物語」は登録申請、認定ならず。

  平成29年度 全国から79件の申請
  (大阪府関係)
 ・「大阪池田 ものづくりの機運に育まれた事始めのまち」
   ~ 池田市
 ・巨大古墳のあるまち“ふじいでら”-土師氏の知恵と技術が遣わし
  た風景- ~ 藤井寺市

 ・「大坂夏の陣」に語り継がれる現代大阪 ~ 大阪市・堺市・交野
  市・八尾市・柏原市・東大阪市・松原市・羽曳野市・藤井寺市・泉
  佐野市
 ・「摂津・河内に生き続ける楠公さん 中世のサムライヒーローが遣
  わした聖地を巡る旅」 ~ 河内長野市・四條畷市・島本町・千早
  赤阪村・富田林市・神戸市

 ・「1400年にわたる悠久の歴史を伝える『最古の国道』~竹ノ内海道
  ・横大路(大道)」 ~ 大阪市・堺市・松原市・羽曳野市・太子
  町 ・葛城市・大和高田市・橿原市・桜井市・明日香村


     ※平成29年度日本遺産登録認定!

 ・「太子道にたどる”日本のスーパースター”聖徳太子の風景」
   ~ 太子町・明日香村・橿原市・田原本町・三宅町・川西町・安
   堵町・斑鳩町・王寺町・香芝市


●次回例会
 日時 6月13日(火)午後130分~
 場所 教育文化センター
 内容 久子の方と正行
    大阪電気通信大学プロジェクトについて
    その他
    

●傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。
 お待ちしております。
 
 楠正行通信47号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)




「教文 親子広場」

日時 平成29年5月4日(木) 午前11時15分より12時
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 教文 親子体操終了後、絵本の読み聞かせを行いました。

 


「教文 親子体操教室」で大きな鯉のぼりをつくりました。

日時 平成29年4月27日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター
イベント内容 大きな目をつけて、お空へあげました。

 
 

四條畷楠正行の会 第29回例会

日時 平成29411日(火)
場所 教育文化センター 2階 ホール
対象 会員 15人出席
 前日から、突風が吹き、大粒の雨が降っており、足元の悪い中、お昼前には小降りになったものの天候不順で出席率も悪いのではないかと思っていたところ、15人が出席しての例会となった。 新年度から、1階の会議室から、 2階のホールに会場が変更となったので、両面ガラス窓で明るく、しかも広いため解放感も重なり、ゆったりした気分での例会となった。
 また、1回には、「楠正行資料館」が開設され、正行通信が創刊号から本日発行の号まで掲示され、関係書籍や正行関連の写真等が並べられており、会員一同、喜びの入館となった。

↓例会の様子(2階ホールにて)


↓1階に開設された楠正行資料館を例会後、全員で見学



イベント内容 ●第28回例会のおさらい
・楠正行通信45号
  弁の内侍、吉野西蓮華台院に入り、正行の菩提弔う
  四條畷の悲歌、正行と弁の内侍
  吉野拾遺に載る、師直弁の内侍襲撃の件
・楠正行通信46号
  郷土、四條畷の誇り 楠正行
  第5回楠正行シンポジウム(四條畷市等主催)に200
  扇谷、講師を務める
  正行の教養や生きざま、四條畷の合戦、そして死後、後世に与えた影響に
  ついて
・配布資料
  ロマン拡がる河内へようこそ(一般社団法人河内観光局発行)
  パワーポイント資料(311日開催 楠正行シンポジウム配布資料)
  正行像賛(同上)

赤松円心と楠正行
◆赤松氏略年表
 人物叢書「赤松円心・満祐」掲載「赤松氏略年表」より抜粋・一部扇谷補注吉野拾ある。
                          2017.04.11 四條畷楠正行の会・資料
和暦 西暦 年齢 事項
弘安2年 1279 赤松則村(円心)、赤松茂則の子として生まれる。幼名次郎
嘉暦元年 1326 大学寺起請文書に、執行範資、惣追捕使貞範の名前。
摂津の長洲庄(長洲御厨)は魚類を淀の地に運ぶ「市」が立ち、流通・運輸の要衝であった。ここに、赤松円心は長男と次男を居住させていたことが読み取れる
元徳元年 1329 51 12月、護良親王、天台座主に。
則村の三男則祐、小寺相模の守頼季と共に宮の叡山に随侍
元弘元年 1331 53 8月、則祐、小寺頼季は護良親王に従い、比叡山から奈良、吉野におちる
   3 1333 55 1月21日、円心、護良親王の令旨を奉じ、播磨で挙兵、備前三石城を破る
2月15日、円心、摂津に進み、麻耶山に城を構え、六波羅軍と戦う
3月12日、円心、摂津瀬川で幕府軍に大勝し、一気に京都に入る
4月、八幡の戦いで、円心の武将佐用範家が名越高家を討ち取り、次いで六波羅を攻略す
5月28日、円心、後醍醐天皇を兵庫福巌寺に迎える
8月、円心、播磨守護職に任じられる
播磨の守は園基隆=後醍醐天皇の寵臣(公家)、播磨の介は新田義貞、その下に円心
~ この時、円心に、公家の指揮下という救いが

9月、安積守氏に命じ内裏造営の用材を播磨三方山に伐らしむ
11月10日、新田義貞、播磨の守に ~ 円心、名実ともに新田義貞の配下に
公家の配下という精神的拠り所を外された円心
新田義貞、三方西庄を大徳寺に寄進 ⇒安積氏の用材伐り中止に
建武元年 1334 56 6月、この頃、円心、播磨守護職を解任される
~ 護良親王に最も近い赤松の勢力を削ぐ狙いからか
10月、藤原藤房、天皇に直諫して円心を弁護し、次いで出世遁世する
護良親王、捕縛される ⇒ 護良親王の失脚とともに、勢力を失った赤松円心
   2 1335 57 ☛ 尊氏への強力を明らかに!
12月、箱根竹の下の戦いで、貞範、勇戦して新田義貞の軍を破る

   3 1336 58 2月、円心、兵を率いて兵庫に来たり、敗走の尊氏を援く
円心、尊氏に対して光源院の院宣を受けんことを進言する
円心、白旗城を築く
3月、義貞、播磨に入り、範資を破る
4月、則祐、大宰府に赴き尊氏の東上を促す
5月、湊川の戦後、尊氏、円心を播磨守護職に任じる
正平元年 1346 68 貞範、姫路城築城に着手
   2 1347 69 9月、範資、楠正行と天王寺に戦う(藤井寺の戦い)
   4 1349 71 貞範、姫路城完成
   5 1350 72 728日、円心、京都七条邸に没し、建仁寺大龍庵にて葬儀営まれる

◆赤松円心、関東御家人説? はたまた播磨の豪族(悪党)説
高坂説 人物叢書「赤松円心・満祐」著者
 ① 則祐(三男)が、比叡山延暦寺に入った護良親王に仕えた時点で、円心
  の志は定まった

 ② 範資(長男)と貞範(次男)を、尼崎(長洲御厨)に住まわせ、播磨の
  流通を抑えるとともに、京の都の動静を探る拠点とし、新しい政治台頭の
  布石とした。
 ③ 赤松円心の祖、季房(村上天皇、第七皇子具平親王六代の苗裔、従三位
  三河の守)は、播磨、佐用に配流され、その末裔、赤松氏は田舎武士の頭
  領として仰がれるようになった。


渡邉説 大阪観光大学客員研究員
 「赤松氏関東御家人説」
 ・佐用荘は、関東御領で、一部が預かり所として、関東武士に与えられたこ
  と

 ・六波羅探題は播磨の国守護を兼ねていたが、佐用荘は、配下の被官に与え
  らた
 ・赤松氏は鎌倉初期に関東御家人某が佐用荘に入り、「赤松」を名字とした
 ・赤松円心は、播磨の国守護常葉範貞と被官関係を結んだ

関東御家人説の立場に立つと、

範資と貞範は、海賊対策として、六波羅探題から尼崎に送り込まれた、と見ることができる  ~ 悪党説の180度転換!

中元説 播磨研究所所長・兵庫県立大学特任教授
 赤松氏は、播磨の豪族で、流人となった季房の子孫
  ~ 関東御家人説の伝承が全くない

 地域で作ったモノを大半、京にもっていかれる矛盾(荘園制度の弊害)
 流通経済を制し、経済集団が軍事集団化
 円心が建武政治と対立したのは、「歴史を前に進める」(荘園制度を壊す)ため
 『時代の風を読む』…二人の息子を尼崎に、一人の息子を京に
 赤松氏とは
 ・播磨を一つにまとめ上げた一族
 ・播磨の地政学的優位性の発見と活用
  畿内から見れば辺境の地、西国から見れば畿内に一番近い国
 ・先進思想の展開
   古代から播磨に蓄積された宗教的雰囲気をまとめ上げた

    一族から大澄国師を生み、法雲寺を創建、則祐は宝林寺を創建
   荘園制度の矛盾を指摘

 扇谷まとめ
 高坂説・中元説によれば、赤松円心は単なる悪党というよりも、しっかりと時代の風を読み、布石を打つ、先を見通した武将像が浮かび上がる。
 正成の一途さ・精神性に比べ、円心は、より現実主義者ではなかったか。


 
その他
連絡事等


楠正行絵本制作プロジェクト
  大阪電気通信大学木子教室での講義、学外学習等について
*教育文化センター「正行資料室」の開設について
*産経新聞「戦後72年楠木正成考」第13部について 

●次回例会
 日時 5月9日(火)午後130分~
 場所 教育文化センター
 内容 大和の越智氏と正行
    大阪電気通信大学プロジェクトについて
    現地学習について
    
その他

●傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。
 お待ちしております。
 
 楠正行通信45号・46号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



平成28年度 教文 親子体操修了式

日時 平成29年3月23日(木) 午前10時~12時
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 親子体操終了後、修了式を行いました。
平成28年4月から平成29年3月までの受講者のみなさまに、修了証書の授与を行い、
該当者には皆勤賞と努力賞をお渡ししました。
また、オリジナル卒業制作を完成しました。
おめでとうございます。

 


四條畷楠正行の会 第28回例会

日時 平成29314日(火)
場所 教育文化センター 1階 第2会議室
対象 会員 13人出席
 先月は二人の女性会員を迎えましたが、今月も男性一人の入会がありました。
 市内在住の方で、詩吟をされるそうで、吟題の多い南朝関係(正成、正行)の知識を得たいと、以前から入会を考えておられたとのこと。
 このように、一人、二人と、新しい会員を迎える喜びを感じながらの3月例会となりました。
 なお、例会終了後、「遅れてしまいました。」と、更にお一人の女性の方の入会がありました。
 お生まれが湊川神社のすぐ近くという事で、神社境内で鳩と遊んで育たれたとのこと。縁あって、四條畷、今度は子ども、正行ゆかりの地に引っ越してこられ、しっかり学びたいと入会されました。


↓例会の様子(第2会議室にて)


↓例会の様子



イベント内容 ●第27回例会のおさらい
・楠正行通信43号
  高山右近、国外追放直前に「日本訣別の書状」おくる
  其の書状本文中に、正行時勢の歌の引用!
  正行の事績が、江戸のはじめ、広く知れ渡っていた貴重な史料
 
・楠正行通信44号
  四国の伊予得能山・常石城を本拠とした得能氏
  後醍醐天皇の還幸を、兵庫沖、洋上から出迎える
  正成に呼応して立ち上がり、南朝一筋、新田義貞に従い、金ケ崎で壮絶な最後

●吉野拾遺に載る弁の内侍
 弁の内侍と正行の話については、確たる史料はない。吉野拾遺に載る弁の内侍関わりの部分を見てみよう。
◆吉野拾遺について
 吉野拾遺は、南朝(吉野朝廷)関係の説話を収録した室町時代の説話集で、二巻本と三巻本とがある。
 後醍醐・後村上天皇代の南朝廷臣の逸事・歌話を基礎とし、『徒然草』や『神皇正統記』『太平記』等から取材してこれを改変したものや、虚構の創作説話が混在する。二巻本で注目すべき説話としては、高師直が弁内侍の強奪を図った話(上巻9話)、楠木正儀への復讐を果たそうとした熊王の話(下巻16話)等がある。

証校日本文学大系 第18巻 (国民図書㈱ 大正14年刊より)
 〈吉野拾遺現代語訳〉
 弁の内侍の件を転載する。


高の師直内侍を奪ひ取る事 一
 さて、弁内侍はたいそう美貌でありました。それを武蔵守高師直がいかなる折にか、恋してしまって、気にかけるようになりました。先帝崩御の後、ひそかに手紙を送って、「ひそかにお出でなさい。迎えをよこしますぞ」と度々言って寄こします。
 内侍はその返事をせずにおいたところ、師直は憎らしく思って、行氏卿をよく知っている女を探し出してきて、「北の方(行氏卿の妻)に頼みごとがあるのだ。二人で相談してくれ。願いがかなったら、見当もつかないほどの礼をしよう。三位殿の官位も進めて差し上げよう」などと北の方に言って寄こしました。
 ただでさえ世の人の恐れない者はない師直の言うことであるし、たいそう期待もしましたので、手紙を準備して、内侍にお仕えしていた梅が枝という女に持たせて、「この女と相談してください」と申し上げました。師直はたいそう喜んで、生命をかけた主従の契りを結んだ武者20人ほどを選んで、梅が枝とともに吉野へ行かせました。
 内侍に、梅が枝が「北の方の手紙を持って参りました」と言って、その住まいに入ります。内侍は「なつかしく思って暮らしていました。こちらへ」と招かれました。梅が枝はその手紙を差し上げます。
 「はるか遠くに行ってしまわれて、山里にお住まいなのは、さぞやご不便なことでありましょう、と思えば、なつかしさがこみ上げてきて、涙が止まりません。住吉詣でをしようと思っておりますが、道もわかりますので、どうかお会いしたいものです。河内の国の高安のあたりに知人がおります。どうかそこへお越しください。心細い世の中で、まして乱れているので、こんな旅でもないとどうして会えましょうか」
 などと書いてあって、
 
相みんと 思ふ心を さきだてゝ 袖にしられぬ 道しばの露
 お使いの梅が枝も、手紙の趣旨をくどくど繰り返して言うので、「実の母が出家されてからは、その母にもまさる思いやりが忘れられません。朝夕なつかしく思っております」と帝に休暇を願い出て、すぐにお発ちになられました。女房2人、青侍3人がお供についていきます。

高の師直内侍を奪ひ取る事 二
 途中、武者に出くわし、「『高安で待っておりますが、人目が多くてわずらわしいことになっています。住吉までお行きください。お行きになるのであれば、おまえたち、お供いたせ』と言い付かっております」と言います。そして突然多くの武者たちが出て来て輿を取り囲みます。
 内侍は「なんとも合点がいきません。住吉までどうしてわざわざ行かないといけないのでしょう。輿を帰しなさい」とおっしゃったので、青侍どもは輿を帰そうとします。武者たちは「どうか住吉までお急ぎください」と無理に連れて行こうとします。
 これはかなわないと立ち止まるところへ、武者たちは輿を帰させるかと3人とも打ち殺してしまいました。内侍は大変恐ろしく、鬼に捕らえられてしまった気がしてただ泣きじゃくるばかりです。荒武者どもは、思いやりもなく「今宵のうちに住吉まで急げ。殿もそれまでには住吉にお着きであろう」などと、大声で騒ぎ立てます。
 そうして石川というところまで来ると、楠木正行が吉野へ呼ばれて参上するのに出くわしました。正行一行をやり過ごそうと傍らの木陰に潜んでいるのを、正行は不思議に思って、立ち止まって、何事かと尋ねます。
 「ある局さまが住吉詣でをなさるのです」と言うので、「そうですか」と通り過ぎようとします。
 ところが内侍が泣く声を聞きつけ、強引に輿のそばに立って尋ねますと、「こうこうなのでございます」と内侍がおっしゃったので、「これは、おかしい。こやつ等を皆捕まえよ!」と言って、残らず捕えます。縄目の恥を思った者が3,4人いて、刀を抜いて戦いましたが、ついに打ち殺してしまいました。
 正行は吉野へ参上して事の次第を奏上します。梅が絵を問い詰めますと、内侍をだましたことを白状しましたので、武者どもは皆斬られて、梅が枝は尼にして、この次第を北の方へよくよく言上するように、と京へ帰したのでした。
 「正行がいなければ、大変なことになるところであった。よくやってくれた」とおっしゃって、内侍を正行に与えるとの詔があったのですが、正行はお礼を申し上げて、
 とても世に ながらふべくも あらぬ身の かりの契りを いかで結ばむ
 と奏上して辞退したのです。そのときは理解できなかったのですが、後に思い当たることがあって、皆正行のことを残念に思ったのでした。

楠正行弁の内侍を救う図
(国立国会図書館・武者无類外二三枚続き画帖 1帖 本別7-93 より転載)



●発足3周年記念事業について 
 発足3周年記念事業実施要綱
 ~ 「楠木父子物語」日本遺産登録認定協賛 ~
◆今までの歩み
*平成2611月、発足
 本会は、平成26年、教育文化センター主催で開かれました市民講座「楠正行の人間像に迫る!」受講生の声を受けて、同年11月に発足し、今年103周年を迎えます。
目的 正行研究と顕彰

 郷土、四條畷ゆかりの歴史上の人物、四條畷神社に祀られる楠正行について学び、そして顕彰し、次代を担う子ども達等を通じ、後世に長く広く語り継ぐことを目的に、勉強会を通じて楠正行に関する様々な史料を検証し、伝承等を繙き、また、楠正行ゆかりの史跡、名勝等を訪れ現地調査などして、その生き様や人物像を掘り起こし、明らかにする活動を続けています。
例会&現地学習と会報誌「正行通信」発行・ホームページアップ
 毎月1回の例会では、正行ゆかりの人物を取り上げ検証する中で、極めて史料の少ない正行の生きざまや人物像をあぶりだす活動を続けています。現地学習は、湊川神社、金剛寺、如意輪寺を訪れ、『四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く』と題し、四條畷の合戦・正行の一日の行動を、2回に分けて歩き、体感しました。
 会報誌「楠正行通信」を発行し、2月現在、42号を数えています。教文のサークル展では、カラー映像スクリーン紙芝居「正成、正行の生涯」を上演しました。活動は、教文のホームページに逐一アップをしております。

◆記念事業実施要綱(決定)
 日時 平成291028日(土)午後2時~午後4
 場所 四條畷神社「神社会館」
 内容 ①基調講演 「正成、正行の事績について」
     ~戦後71年正成考の特集を終えて~
     産経新聞社編集委員 安本 寿久氏
    ②絵本「武士道の人、正行」完成プレゼンテーション

      大阪電気通信大学・社会プロジェクト実習
       デジタルゲーム学科 木子香教室
    ③コーラス 青葉茂れる桜井の 四條畷 ふるさと
    ④詩吟   楠帯刀の歌 小楠公の墓を弔う 他
    
⑤舞踊   河内音頭 楠公まつり 他
    ⑥会員発表 朱舜水作「正行像賛」の発見物語
    
⑦展示   朱舜水作「正行像賛」
          楠正行通信 1号~ 四條畷の合戦図
    その他

 定員 100名(入場無料)
 主催 四條畷楠正行の会
 協力 四條畷神社・御妣会・小楠公を偲ぶ会・ひまわりコーラス・さくら会・
    大阪
電気通信大学木子教室・四條畷市詩吟連盟
 後援 四條畷市(予定)・四條畷市教育委員会(予定)・
    四條畷市教育文化センター・産経新聞社(内定)

●5月現地学習について
 日時 59日(火)
 行先 観心寺(河内長野市)
 詳細 4月例会で発表

●小冊子「小楠公一代記」について
 A5版 1620ページ
 四條畷神社、如意輪寺にご相談の上、多くの人に広く正行のことを知っていただく親しみやすい冊子の製作を考えています。
 日本遺産登録認定も踏まえ、英語版、ハングル版なども、との議論になりました。


 
その他
連絡事等


●次回例会
 日時 4月11日(火)午後130分~
 場所 教育文化センター
 内容 赤松円心と正行
    大阪電気通信大学プロジェクトについて
    5月現地学習について
    
教文主催事業「バスツアー第3弾」について

●傍聴、入会大歓迎!
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に覗いてください。
 お待ちしております。

 
 楠正行通信43号・44号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)




教文市民講座「親子で楽しむコンサート」

日時 平成29年3月3日(金) 午前10時15分~11時
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 普段見る機会の少ないLIVE演奏を、Mama's Wind Orchestra Largo さんの協力で開催しました。お子様に馴染みの曲を中心に、打楽器体験などがあり、大変盛り上がりました。


「第22回新春ミニ・コンサートのテレビ取材の映像を上映しました。」

日時 平成29年2月22日(水)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 平成22年1月22日(日)に開催した”第22回新春ミニコンサート”のテレビ放映された映像を上映しました。




四條畷楠正行の会 第27回例会

日時 平成29214日(火)
場所 教育文化センター 1階 第2会議室
対象 会員 13人出席
 この日、お二人の女性が入会されました。
 出席予定の方が定刻前に集まりましたので、少し早めに始めました。

↓例会の様子(第2会議室にて)


↓例会の様子



イベント内容 ●第26回例会のおさらい
・楠正行通信41号
 如意輪寺を再興した鉄牛上人は長宗我部元親の六男、文親
 楠正儀の孫、正盛、土佐に入り、楠瀬名乗る
 文親の母は正盛の孫、正宣の娘か孫か?
 鉄牛上人=長宗我部文親は、楠氏末裔
 幕府の弾圧を受け、土佐へ
 長宗我部元親、四国を統一
 遠流の国、遠国、土佐
 楠瀬正宣、元親の居城近くに移住
 吉野・西蓮寺に残る住職系譜
・楠正行通信41号
 弁の内侍、西蓮寺華台院に入り、正行の菩提弔う
 文誉鉄牛上人、西蓮華台院跡に西蓮寺開く
 四條畷の悲歌~西蓮寺と弁の内侍
 西蓮寺、大きな本尊に圧倒される
 従兄弟の嫁ぎ先も長宗我部末裔


●辨の内侍ゆかりの西蓮寺
 以下のリポートは、吉野西蓮寺発行小冊子「累徳山円成院西蓮寺」を下に、扇谷が編集したものである。
◆竜門の郷と竜門寺
 吉野山を下った吉野川の北方に広がる竜門の郷。
 竜門岳と津風呂湖に挟まれた自然と古跡の郷。
 竜門岳の麓に竜門寺跡が残っており、高さ約15メートルの竜門滝の脚下に七堂伽藍配置があったといわれ、古風な礎石や古瓦、埋蔵物が今も残り、当時の面影をしのぶことができる。
 奈良時代前期に建てられたと伝わる竜門寺は天台密教系の寺であったと推定されており、中世に入り寺領庄園として竜門庄が設けられ、平地仏教的な展開を遂げる。この竜門寺の支院に仏師院・竜華台院・西蓮華台院などが建立されるようになる。
◆四條畷の悲歌と弁の内侍
 今を去る六百数十年前、吉野朝史の陰に咲いたうるわしの花、弁の内侍は才色ひときわすぐれていた。弁の内侍は、元弘の乱に戦死した右少将俊基の側女であった。
 ここに名花の噂の高い弁の内侍を、我がものにせんと勝手に思いを寄せ、いかにしても野望を遂げようとたくらむ一匹の狼、高師直がおり、偽手紙で誘い出し、拉致しようと企てる。ところが、偶然か奇策か、はたまた神明の加護であったか、正行に助けられるのである。
 後村上帝は弁の内侍を正行の妻にと勧められるが、父・正成の遺志に殉ぜんとする正行は、とても世にながらうべくもあらぬ身の 仮の契りをいかで結ばんと一首に託し、これを辞するのであった。
 失望する弁の内侍であったが、南北朝史の悲歌、四條畷の決戦場に移り、正行の壮烈な最期を知り、はじめて正行の真意を悟り深い悲しみに打ち沈むのであった。
 弁の内侍は、「大君に仕えまつるも今日よりは 心にそむる墨染めの袖」と出家の詠草を残し、吉野山を下り、竜門の西蓮華台院に入り、草庵「聖尼庵」を結び、そこで寂滅するまで正行の菩提を弔い、念仏の生活によって正行への貞節を守ったといわれている。


文誉鉄牛、西蓮寺を開く
 西蓮寺が開かれたのは江戸時代の初期、文誉鉄牛上人で、四国、長宗我部氏末裔で、元親の六男、文親と称した。
 元親の四男、盛親が大坂の陣で敗れ、六条河原で斬首されると、子孫の絶滅を憂い、我が子二人を弟の文親に託し、土佐から逃れることを命じ、四国を脱した文親は大和へ入り、吉野への逃避行を続けるのである。
 四国路の吉野川をば下り来て 大和路のぼる美吉野の川
 うちこして讃岐刈田の豊田をば かりの名とせん忍ぶわが家の
 追われて来て象(キサ)の谷間にかかりけり 夢路むさぼるうたた寝の橋
 武具をすててみやまにすみぞめの 衣にかかるみよしのの花
 (象谷「喜佐谷」、「うたた寝橋」等吉野町中荘地区に現存する地名)
 四国に栄えた長宗我部一門の滅亡の危機に一点の種火となった文親が、うらぶれて吉野の喜佐谷へ忍び入った心情を、この歌詞の中に汲み取ることができる。
 吉野山に入った文親は、文誉鉄牛と号し、名刹如意輪寺の荒廃に心を傷め、諸堂を営繕改修して復興し、中興の租と仰がれる。
 そして、徳川四代将軍家綱の頃、西蓮華台院の跡に累徳山円成院西蓮寺を開き、弁の内侍を顕彰した。
 鉄牛上人の高徳は、吉野各地に広がり、川上村、吉野町、東吉野村に14ケ寺が建ち、それぞれ後に西蓮寺と本末の関係を持つようになり、今に至っている。
 隠棲した鉄牛上人は、豊田儀右衛門と名乗り、代々豊田氏を称し、その末裔は今も大阪市内に15代目(元親から数えて)を数える。喜佐谷には、豊田氏の墓碑が今も建っている。
(写真 西蓮寺全景・弁の内侍図:西蓮寺発行小冊子より・豊田氏の墓 扇谷撮影)

●伊予の国 河野氏と得能氏
 以下のリポートは、愛媛県史を下に、扇谷がまとめたものである。
◆幕府方を貫いた河野氏宗家
 河野氏は、平安末期には清盛率いる平氏の傘下にあったが、源平合戦において河野通信は頼朝に従い鎌倉幕府の御家人となって西国に在りながら大きな力をつけた。
 元寇の時には通有が活躍して武名を馳せ、最盛期を築いたが、死後、家督をめぐる内紛が勃発、元弘の変では、一族の大半が倒幕に立ちあがったものの、惣領である河野通盛は幕府に従い、建武政権後、衰退した。
 南北朝時代になり、伊予へ侵攻した細川氏と争い、通盛は伊予守護職を手にするが、通朝は細川に攻められ討死、九州に逃れた通蕘は懐良親王に従うが、細川頼之の失脚で再び幕府に帰服し、頼之追討令を受けて細川方と戦い、この時奇襲を受け戦死する。
 室町時代、戦国時代と内紛と有力国人との抗争をくりかえし、国内支配を強固にすることができず、加えて家督争いも絶えなかった。
 国内に河野氏に属さない勢力が存在し、土佐一条氏、豊後大友氏、讃岐三好氏等との抗争が続き、安芸毛利氏の支援を受けた。長宗我部氏の侵攻などが続く中、天正13年(1585)秀吉による四国征伐において通直は降伏し、大名としての道を絶たれ、2年後、通直の死を以って河野氏は滅亡した。

◆一貫して南朝に与した得能氏
*得能山に常石城を築き本拠に
 伊予の国で南朝に与したのは、土居氏、得能氏、忽那氏、祝氏等である。
 得能氏は、鎌倉時代初期に活躍した河野通信の子、通俊を祖とする河野氏の支族で、伊予の国桑村郡得能荘(現周桑郡丹原町)を領有し、得能山上に常石城を築いて本拠とした。
 通純の後、得能氏は弟の通村が継承し、南北朝期に南朝方として活躍する通綱へと続く。一方、通純の子に通景がおり、その子通宗が重見の姓を称した。
 得能氏の南朝との関係を示す史料として、旧温泉郡南吉井村野田の得能家に伝わる「善功録」があり、得能通宗は大塔の宮護良親王から幕府討伐の令旨を受けた、との記載がある。
 宗家の河野氏が幕府の信任を受けて隆盛であったため、得能氏や土居氏は対抗できなかったと思われるが、全国的に惣領制の崩れる時期であったことから、比較的自由な態度を取り得たと思われる。特に、得能氏の始祖、通俊は承久の乱で後鳥羽上皇側に味方し、風早郡高縄山城で戦死していることから、北条氏に反意を懷いていたと想像される。
 太平記や楠木合戦注文等によると、得能、土居氏は、楠木正成が千早籠城戦を戦っていた元弘3年(1333)の正月から2月にかけて、挙兵・出動していたものと思われる。

*石井浜の戦い

 この年2月、反幕府勢力討伐のため長門探題北条時直は伊予に向けて越智郡石井浜(現今治市)に上陸しようとするが、土居、祝、忽那、得能氏らの奮戦によって敗走させられている(石井浜の戦い)。(三島家文書・550
 そしてこれら反幕府軍は、喜多郡に入り、宇都宮貞泰を根来城に攻撃、31日から11日に及ぶ戦闘で陥落させる。(忽那一族軍忠次第・三島家文書)

星岡の戦い

 北条時直は、再度の襲撃を試み、土居氏の本拠石井郷(現松山市)に軍を進めた。星岡を中心に広い範囲にわたる大規模な戦闘を繰り返し、時直の軍は得能、土居氏等反幕府軍の精鋭のために撃退され、逃走、越智郡に落ち延び、便船を得て長府へ逃れ去った(星岡の戦い)。(忽那一族軍忠次第・三島家文書・楠木合戦注文・土居氏系図等)
 57日には、得能、土居、忽那、祝氏等連合軍は、讃岐国鳥坂(香川県三豊郡三野町と善通寺市の境)まで遠征し、幕府軍を粉砕した。(忽那一族軍忠次第・三島家文書)
 523日、六波羅探題陥落の報を聞き、伯耆の国船上山を発した後醍醐天皇は、530日、兵庫の国福巌寺に入っているが、この時、得能・土居氏等は軍船を兵庫の沖に回漕して後醍醐天皇を向かえている。(太平記巻七・天正本太平記)

得能通網、従五位下備後の守に
 建武政権が発足すると、得能通網は従五位下備後の守に、また土居通増は従五位下伊予権介、後に備中の守にそれぞれ任官された。(得能累世一覧・善功録・土居氏系図)
 幕府方・反幕府方による一大決戦となった湊川の戦では、得能・土居両氏の軍は新田義貞の陣営にあって、足利直義、吉良・石堂の大軍を奮戦した。この時、尊氏の水軍の中に河野通盛部下の水軍が加わっていた。(太平記巻十六・新田殿湊川合戦の事、同・経島合戦) 「梅松論」「神田本太平記」によると、この湊川の戦いにおいて、河野氏勢の中に武将大森盛長(彦七)がいて、正成の陣営に突入し、ついで正成を自殺させるに至った旨の記載がある。

新田義貞に従い、金ヶ崎城で戦死
 建武新政以来、得能通網・土居通増は近畿にいて、新田義貞の配下に属し活動していた。が、宮方の形勢次第に不利となり、後醍醐天皇は比叡山に難を避け、延元元年12月、南朝勢力の再建を期して新田義貞は北国に赴くこととなり、脇屋義助、子義顕と共に得能通網・土居通増も従い出発した
 途中、越前の国に差し掛かったところで、武家方の足利高経の襲撃を受け、後陣にあった得能通網・土居通増は集中攻撃を受け悪戦苦闘し、土居通増は一族とともに壮烈な戦死を遂げた。(梅松論)一方、得能通網は無事越前の国金ヶ崎城に入った。
 金ヶ崎城は防戦に死力を尽くしたが、武家方の足利高経は高師直の支援を受け、攻撃を仕掛けたため、翌年36日、得能通網は餓死寸前のところ槍を杖にして起き上がり、搦め手門に突入した敵陣と相まみえたが衆寡敵せず、戦死を遂げた。(太平記巻十八 金ヶ崎落城の事)

●高山右近、日本訣別の書に正行辞世の歌引用の歴史的背景を探る
◆高山右近略年譜
 天文21? 1552 高山飛騨の守の長子として摂津高山に生まれる
 永禄07  1564 受洗
 天正01  1573 高山右近、高槻城主となる 2万石
   06  1578 村重の叛に際し、高槻城開城 信長に従い4万石に
   10  1582 本能寺の変勃発 山崎合戦に先陣 4千石加増
   13  1585 根来・四国(長宗我部)征伐に参加、功有り
          明石6万石に移封
   
16  1588 前田利家、右近を加賀に引き取る
           ~ 客将 1500040000石諸説
 慶長19  1614 家康(=秀忠)、禁教令 高山右近に国外追放を命ず
          マニラ追放
   20  1615 18日、マニラで病没
 

◆高山右近、日本訣別の書

↑写真:毎日新聞石川県版 2016130日付朝刊掲載
<毎日新聞より>
 高山右近は、加賀藩祖・前田利家の招きで、天正161588能登に移り、国外追放までの26年間、本行寺(七尾)に滞在した。本行寺は、能登に茶の湯を紹介したことで知られる茶人の円山梅雪が15世紀に開いたもの。
 この本行寺に、追放直前に前田利家の正室・まつに宛てたとみられる直筆の書状「日本訣別の書」(写真 縦16.5センチ 横45センチ)が残る。
 
 
 追放を控えた心境と感謝の思いがしたためられている。

■書状本文
 近日出舟仕候
 仍此呈一軸進上候
 誠誰ニカト存候志耳
  帰ラシト思ヘハ兼テ

  梓弓ナキ數ニイル
  名ヲソ留ル
 彼ハ向戦場命堕
 名ヲ天下ニ挙是ハ
 南海ニ趣命懸天命ヲ
 流如何六十年之
 苦忽別申候此中之御
 礼ハ中々不申上候々々
 恐惶敬白
     南坊
 九月十日  等伯(花押)

■書状訳文
 
近々出航いたすこととなりました。
 つきましては、この度一軸の掛物を差し上げます。
 どなたに差し上げようかと思案しましたが、私の志ばかりでございます。
  帰らじと思えば兼ねて梓弓 なき数にいる名をぞとどむる
 彼(正行公)は戦場に向かい、命を落して、天下に名を挙げました。
 是(私)は、今異国の南海に赴き、命を天に任せて、名を流すばかりです。
 人生60年来の苦もなんのその、いよいよ、お別れの時がやってまいりました。
 この間賜った心づくしのお礼は、筆舌に尽くすことはできません。
 怖れながら申し上げます。
  九月十日   南坊等伯

◆高山右近は、何故、正行辞世の歌の事を知っていたのか、その歴史的背景を探る
 太平記読みや楠兵法書が世に続々と出てくるのは1600年代の中ごろ。
 しかし、高山右近が生きたのは、1500年代中ごろから1615年まで。楠公事績がまだ世に出る前の時代、何故、高山右近は四條畷の合戦に臨んだ正行の事績を知っていたのか。
 秀吉のキリシタン弾圧を逃れて、高山右近は加賀前田家に客分として26年の長きにわたって流浪生活を送っている。このあたりにそのきっかけがあるのではないだろうか。
 まず、時代背景を確認しておこう。
*高山右近
 信長時代 1570年ごろ~1582 キリシタン大名として、2万石から4万石になり、
      信長とは良好な関係が続く

 秀吉時代 本能寺の変では山崎合戦で先陣をつとめ、4千石の加増を得る
      また秀吉を悩ませた根来衆、四国の長宗我部追討に参加し、功をなす
      明石6万石に移封され、大名として栄達の道を歩む

      しかしこの後、天下統一・中央集権を目指した秀吉との確執が始まる
      キリシタンに理解を持っていた前田利家、右近を加賀に引き取る
      右近は、利家、利長に仕えること26
 家康時代 家康が江戸幕府を開き、中央集権体制確立に向けてキリシタン弾圧を
      強化
      秀忠(実質は家康)の禁教令発令
      キリシタンの叛乱を恐れた家康、右近に死を与えず、国外追放

*加賀前田藩
 
利家 15391599
 利長 15991614
 利常 16141639 47歳で隠居
 光高 16391645 29歳で若死に
 綱紀 16451724 3歳で藩主に
          祖父・利常 1658まで13年間綱紀を後見

*太平記読み・理尽鈔の伝授・流布
 
名和正三  名和長年末裔説? 1560年ころ 大運院陽翁に伝授
 大運院陽翁 唐津藩主寺沢広高に3年かけ伝授
       晩年、前田利常の招聘を受け加賀へ 1622 63歳で没
       免許皆伝を授けたのは6
        本多政重(加賀藩家老・5万石)~家康腹心本多正信の二男
         大橋全可=陽翁陪席の下、本多政重が免許皆伝を授ける
          京都所司代、板倉重宗に伝授
          幕府老中、因幡正儀に伝授
        浅井一政(加賀藩家老・1万石)
        水野内匠(加賀藩士・3千石)
        伊藤外記(加賀藩士・足軽頭)
        寺沢広高(唐津藩主)
        横井養玄(備前藩主池田光正家臣)
 以上、明らかになった「理尽鈔」講釈の伝授・受講者の広がり(一部に過ぎない)を見てくると、1500年代末期から1600年代中期にかけて、加賀前田藩を中心に太平記読みに繋がる世界が日本国内に広がりを見せていたことが分かる。
 そして、加賀前田藩の当時の立場がその背景にある。
 織田信長に仕えた前田利家は、信長亡き後、秀吉に仕え地位を安定させ、秀吉亡きあとは、関ヶ原の合戦で徳川方の旗色を鮮明にし、三代利常は大阪の陣で戦功をあげた。
 利常は、2代将軍秀忠の娘(珠姫)を妻にし、二人の間にできた光高は、3代将軍家光の娘(大姫)を妻にし、そしてその二人の間にできたのが綱紀である。また綱紀は、家光の弟、幕府の重鎮保科正之の娘(摩須姫)を妻に迎えている。
 このように、加賀に入った右近ではあったが、決して田舎での隠遁生活とは言えない、加賀前田藩による江戸中央との太いパイプを通じた情報や太平記読みの広がりに通じる日本各地の動きとは無縁でなかったことが分かる。

◆高山右近と正行辞世の歌
 高山右近は、当時、稀有なキリシタン大名(12歳で受洗)として、信長時代という混乱期を生き抜く。
 そして、秀吉とも、当初良好な関係を築き、根来衆の征伐や四国・長宗我部征伐において功を挙げ、天正13158533歳)には、高槻城主4万石から明石城主6万石に移封されている。
 しかし、その後、天下統一を目指して中央集権体制を確立させるためキリシタン弾圧に動くようになった秀吉との対立は避けられず、宗教を捨てなかった右近に対し、秀吉は、領地を没収し、追放の処置をとることになった。
 一時、小西行長に匿われ、淡路島から小豆島に移り、その後肥後に下る。
 そして、天正161588、キリシタンに好意的であった前田利家に預けられる形で、事実上は、客将として加賀に入った。
 右近は、36歳の時に加賀に入り、利家と11年、利長と15年、合わせて26年間、加賀生活を送り、慶長191614、右近62歳の時、秀忠(実質、家康)の発した禁教令によって、国外追放となる。
 秀吉、家康とも、キリシタン弾圧をくわえながらも、天下統一の名の下、全国的な叛乱の導火線ともなりうる右近の存在を恐れ、右近に死という武士の名誉を与えることはなかった。また、右近もキリシタンとして自らの命を絶つことは許されなかった。
 右近は、追放の命を受け、加賀を急きょ出ることになるが、その時、前田利家の正妻、まつに宛てたとみられる書状をしたためる。そして、この書状の中で、吉野如意輪寺に残る正行辞世の歌が引用されているのである。
 高山右近は、270年前の正行の事績を何故、知っていたのか。そして又、言い換えれば、戦国末期から江戸初期にかけた頃の一大名が、正行の事績を知っているということは、この頃広く天下に知れ渡っていたことを示す証左でもある。

 特に、高山右近が正行の事績を知ることとなった背景を繙いてみよう。
 右近が預けの身として入った加賀、前田家には太平記読みの世界が色濃く浸透していたと思われる。太平記読みのバイブル書と言われる「太平記評判秘伝理尽鈔」は、17世紀中ごろの寛永から元禄にかけて出版され、飛躍的に広がったとされるが、慶長(15961615)から元和(16151624)にかけて、既に流行し始めていたことが明らかになっている。
 名和家伝来の「理尽鈔」を伝授されたといわれる大運院陽翁は、各地各大名に歴仕した後、その晩年は、前田利常の招聘を受けて加賀に入り、この地で没している。
 江戸徳川家と太いパイプを築いていた前田家では、太平記読みの流行を受け入れる十分な素地が備わっており、利家、利長の時代に、大運院陽翁を招聘する下地が出来上がっていたものと思われる。
 だとすれば、右近の過ごした26年間に、楠流兵法の秘伝書としての側面を色濃く持っていた太平記読みの世界、すなわち正成、正行の事績を知ることとなったものと思われる。
 太平記読みを通じて資料に残る正成の事績は多くあり、知りえても、正行の事績までうかがい知ることは難しかったのではないか。とすれば、こういった太平記読みの世界以外のルートによっても、楠公の事績が広く流布していたことも考えられる。
 いずれにしても、右近が日本を去るにあたって、後世に思いを伝えるために、正行の辞世の歌が引用されていることに驚くほかない。そして、この事実によって、正行の事績は広く知れ渡っていたともいえる。
  正行は死を覚悟して吉野を発ち、その思いのままにその名を後世に残すこととなったが、右近は、正行同様に国や民を思いながら日本を去るにあたって、自らの命を自らの手で生かすことも殺すこともできず、運を天に任せてその名を流すしかないことへの痛恨の念を禁じ得ない。


◆高山右近と四條畷の関わり
 なお、高山右近と四條畷のかかわりにおいて触れておきたい。天正111583、秀吉が大坂城を築城するが、この地に大坂協会の建設を提案したのが高山右近といわれる。
 右近は、当時、五畿内で最も美しいと謳われた四條畷岡山教会を、結城氏の三箇移封に合わせ、大坂城への移転を提案している。そして、自らが岡山教会の移転事業に専念し、同年、大坂協会で最初のミサが開かれている。

●第5回「楠正行シンポジウム」について
  日時 311日(土)、午後2時~
  場所 四條畷学園短期大学・80周年記念ホール
  講師 扇谷昭
  内容 郷土、四條畷の誇り 楠正行

      - その生涯と後世に与えた影響 -
  申込 往復はがきで四條畷市産業観光課へ 31日消印有効

●その他連絡事項
 *四條畷高校「畷高歴史講座」について(218日、開催)
 *楠正行の会発足3周年事業について
   1028日(土)、午後2時~
   四條畷神社・神社会館で開催決定
 *産経新聞「戦後72年楠木正成考」第11部について/資料提供
 *楠公父子物語日本遺産登録の動きについて/情報提供
 *河内長野市講演会「中世の侍ヒーロー楠公さん」について/情報提供
 *南朝と幕末~志士たちの聖地・吉野講座/情報提供
 *3月以降の体制/役員について


 
その他
連絡事等


●次回例会について
 日時 314日(火)、午後130分~
 場所 教育文化センター1階 会議室
 内容 弁の内侍と正行
    第5回楠正行シンポジウムについて
    その他
 
 楠正行通信41号・42号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)


「第22回新春ミニ・コンサート」

日時 平成29年1月22日(日) 午後1時より
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 教育文化センターの恒例行事”新春ミニコンサート”を開催しました。
空模様は曇りのち晴れのち雨、みぞれと目まぐるしく変化する中、会場は大勢の観客で埋め尽くされ、大変盛り上がりました。
第1部は、女声四重唱から始まり、コーラスやピアノ演奏などを、
第2部では、二重唱やヴァイオリン二重唱、みんなで歌おうなどを含め、合計二十数曲を奏でました。


四條畷楠正行の会 第26回例会

日時 平成291月10日(火)
場所 教育文化センター 1階 第2会議室
対象 会員10人出席
イベント内容
↓例会の様子(第2会議室にて)




●第25回例会のおさらい
 ・楠正行通信40
   和束町木屋に残る駒返岩
   笠置山行宮、後醍醐帝の急に駆けつけた正成、
   笠置山炎上を目の当たりに引き返したとされる岩が、今も残る


長宗我部元親と正行
 ・楠氏と長宗我部元親氏の接点を探る
◆楠氏が四国に入った背景について
応永6年1399 正成の孫、正秀が足利義満と戦う大内義弘に与する
      この時、土佐国安芸城主・安芸元信、正秀の武将務める
       安芸元信の嫡子元康、この戦で討死し、正秀、次男元信を養子にやる
       元信、元房と名乗り、安芸氏を継ぐ

永享3年1431 足利義満の子、義教は南朝殲滅を図り、楠一族に大弾圧を加える
       正秀の長男、正盛は弟の元房を頼り、土佐の国安芸郡土居村玉作に移住
 
       正盛は、楠瀬を名乗り、土佐楠家の始祖となる



別紙「長宗我部元親・楠氏関係地図」参照

◆楠氏と長宗我部氏の関わり
 本山氏~長岡郡本山を本拠とし、土佐郡、吾川郡を支配下に置き、広大な地域を領有
 兼序(元親の祖父)の時代、岡豊城を落とされている
弘治21556 長宗我部国親(元親の父)は、本山氏の配下、秦泉寺(じんぜんじ)掃部を
       破り、配下に加える
       掃部の子、豊後(ぶんご)は元親の兵法指南役となる

       この戦いにおいて
       楠左衛門佐正憲は流れ矢で戦死の記録有り
       ~ 正成6代、成晴の子?
       「土佐国編年記事略」より ・・・ この説誤り?
永禄31560 長浜戸の本合戦で、本山氏を破り、元親、土佐中央部の支配権奪う
       元親の初陣

◆長宗我部元親の動き
1560 元親、長浜の戦いで本山氏破る~初陣
   国親、この年病死
1568 本山氏降伏
1569 安芸氏降伏
1574 一条氏、大津城に移る~ 1581 一条氏滅亡
1575 中村 渡川の合戦~一条氏との攻防戦
   この年、元親、土佐統一15年を費やす) 四国統一に乗り出す

15751579 阿波(西部)に侵入 対:三好氏
15781580 讃岐に侵入 対:三好氏
15771581 伊予に侵入 対:河野氏 背後に毛利氏の援軍
15801582 阿波全域を抑える 中富川の戦いで、三好氏を撃破
1584 十河落城 虎丸城落城 ~ 伊予を平定
1585 土佐統一後、10年にして、元親四国全土を統一
   6月 豊臣秀吉、四国征伐の軍令発す

   7月 元親、苦戦を強いられ、秀吉の参謀、秀長と講和に動く
   8月 土佐一国安堵で、秀吉の軍門に降る
1586 元親、年賀のため大坂に入る
1588 秀吉、元親に羽柴の姓を許し、土佐の守と称しめる
1590 元親、小田原攻めに参加
1592 元親父子、朝鮮の役に従軍
1597 元親、検地をおこなう
      22カ条の発布

      百カ条の掟を発布
      この年、朝鮮に再出兵
1598 8月 秀吉死亡
   11月 元親、伏見の家康邸を訪ねる

1599 4月 秀頼(大坂城)に謁見
   5月 元親、伏見の邸で死去

◆遠流の国、遠国、土佐
 四国そのものが本州から見ると遠い異国の地であった上、険しい山々の連なる四国の中でも、土佐の国に入る事は至難の業で、古の時代から落人・配流者の住む地としてその歴史を刻んできた
 即ち、土佐の国は、南海僻陬(へきすう)の土地で、遠国(おんごく)として流刑の制が古代からこの地に布かれてきた。佐渡や隠岐とともに遠流(おんる)の国として、重罪人配流の地であった。遠く天平の頃(729743)に始まり、平安期に入ると、菅原道真の子や藤原頼長の子、鎌倉に入ると、源頼朝の弟、法然上人、尊良親王らが記録されている。
 また土佐は、落ち武者の流れ来り隠れ住む永住の地となした土地柄であった。源平の合戦より、関が原、大坂の陣に至るまで、落人や敗残の武将が逃れ来て、隠れ里として子孫を残している。
 源平合戦で敗れた兵士の一部は、屋島や壇ノ浦から、土佐の国安芸郡、香美郡の山奥や海辺に逃れ、その末裔は長宗我部の家臣になったと伝えられる。


◆楠正盛、1431年、安芸郡玉作に入り、楠瀬名乗る
 楠正儀の子孫も、孫の元信が安芸氏に養子に入り安芸氏を継ぎ、元信の兄、正盛は、足利幕府の追討を逃れんがため、永享31431その安芸氏(弟)を頼り土佐の国安芸郡玉作に入り、土佐楠氏(楠瀬)の始祖となっている
 そして、別紙「長宗我部元親・楠氏関係地図」記載の通り、土佐の国に入った楠正儀の末裔たちは、安芸郡玉作を皮切りに、その後、代を重ねるごとに、香美郡、長岡郡、土佐郡、吾川郡、高岡郡、幡多郡と拡がり、土佐全域に散らばり移り住むこととなった。
 一方、長宗我部元親は、天正31575、渡川の合戦を経て、土佐一国を支配下に置く。
 元親が、土佐を統一する過程で、楠氏末裔との様々なかかわりがあったであろうことは、敵、味方を問わず、容易に想像できるところである。
 特に、元親の全盛時代(15601585)、正盛の孫、正宣は玉作から元親の居城、岡豊城により近い香美郡香我美に移り住んでいることから、元親との間に良好な関係を築いていたことが容易に想像できる。
 とすれば、元親と楠瀬氏の娘との間にできた6男、文親の母は、正宣の娘か、孫辺りではないかと思われるが…。

◆吉野、西蓮寺に残る住職系譜
 元親が、楠正儀の末裔、楠瀬氏の娘との間にもうけた子どもが文親であるとの資料等の確認はとれなかった。しかし、一部、側め?との間に6男をもうけたとの記述は残っている。
 また、吉野、西蓮寺発行の冊子「吉野路に輝く法灯西蓮寺」は、長宗我部氏系譜を掲載し、元親の子、文親が文誉鉄牛を名乗り、西蓮寺を開山したこと、また、隠棲後は豊田儀右衛門を名乗り、その末裔が今日に至るとある。
 如意輪寺に伝わる伝承、西蓮寺の記録等から見て、文親=鉄牛上人の存在は間違いのないところであろう。そして、先に記した通り、文親の母が楠氏の娘との伝承を裏付ける背景は十分にあることが分かった。

<参考文献> 「長宗我部元親」(人物叢書・吉川弘文館)
       「長宗我部元親」(新紀元社)
       「長宗我部元親」(歴史群像・学研)
       「楠瀬八生氏資料」


  
<資料> 別紙 長宗我部元親・楠気氏関係地図はコチラ(PDF)

●産経新聞 戦後71年「楠木正成考 公を忘れた日本人」第10部
 ・「私」で生きる武将たち
   恩賞で離反 赤松円心の計算
   婆娑羅大名 道誉の名門意識
   高師直の傲り 幕府に内紛
   尊氏兄弟何故対立したか
   巧みに生きた畠山国清の末路


●産経新聞 楠木正成考 「楠公さん」を日本遺産に 元旦紙面
 ・楠公さんゆかりの史跡
   慕われ続ける河内のヒーロー
   321日、東京・明治神宮会館でシンポ開催


●2017年の活動予定と3周年企画について
・活動予定
  2月 高山右近「日本訣別の書」と正行
  3月 弁の内侍と正行
  4月 赤松円心と正行
  5月 現地学習 「国史跡・桜井の駅」
  6月 久子の方と正行
  7月 恩智左近と正行
  8月 北畠顕家と正行
  9月 現地学習 「渡辺橋・小楠公義戦の跡碑」
  10月 発足3周年記念イベント・懇親会
  11月 現地学習 「宝筐院&天竜寺」
  12月 楠氏八臣と正行

3周年記念行事(案)について
  10月開催で、企画を進める


 
その他
連絡事等



◆次回例会について
 日時 2月14日(火)、午後1時30分~
 場所 教育文化センター1階 会議室
 内容 高山右近「日本訣別の書」と正行
    四條畷市主催第5回楠正行シンポジウムについて

 楠正行通信40号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)

◆飛び入り大歓迎!
 四條畷楠正行の会は、活動3年目に入りました。今年の活動予定(例会内容)は、上記記載の通りです。
 史料の少ない正行を浮き彫りにするため、正行周辺の歴史上の関わりある人物について学ぶことから、正行像及び当時の状況を学んでいます。
 毎回、扇谷のリポートを柱に、楽しく談笑しながらのフリートークが中心です。また、年に数回の現地学習も行っています。
 四條畷の歴史、とりわけ楠正行にご関心のある方、気軽に覗いてみてください。
 例会は、毎月第2火曜日の午後130分です。飛び入り大歓迎です。会費は、例会ごとに100円(資料費等)です。


 


四條畷楠正行の会 2016年12月忘年会

日時 平成2812月13日(火)
場所 和食「さと」
対象 会員(11人参加)
イベント内容 ◆2年間の例会で重ねて来た正行研究の軌跡
 私たちの会は、平成2611月に発足しましたので、今年10月満2年を迎えました。
 この間、毎月の例会で、史料の少ない楠正行という人間像を浮き彫りにすることを目的に、楠木氏一族周辺の人物像及び楠木氏との関係を分析することとし、以下の通り学んできました。
 平成2611月 後醍醐天皇と正行
 平成
2612月 後村上天皇と正行
 平成
2701月 北畠親房と正行
 平成
2702月 四条隆資と正行
 平成
2703月 護良親王と正行
 平成
2704月 観心寺龍覚坊と正行
 平成
2705月 朱舜水の正行賛文を読み解く
 平成
2706月 湊川神社現地学習(正式参拝と学芸員講話)
 平成
2707月 朱舜水の正行像賛解釈
 平成
2708月 お休み・通信のみ発行
 平成
2709月 黙庵禅師と正行
 平成
2710月 足利尊氏と正行
 平成
2711月 細川顕氏と正行
 平成
2712月 後醍醐天皇の目指した延喜天暦の治について学ぶ
 平成
2801月 金剛寺・摩尼院現地学習(元学芸員解説)
 平成
2802月 楠正儀と正行
 平成
2803月 高師直・師泰と正行
 平成
2804月 正行の受けた教育について学ぶ
 平成
2805月 四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く(1)
 平成2806月 新田義貞と正行
 平成
2807月 九州、菊池一族と正行
 平成
2808月 奥州、白河結城氏と正行
 平成
2809月 山陰、名和長年と正行
 平成
2810月 四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く(2)
 平成
2811月 如意輪寺現地学習(住職の講話)

楠正行の会発足後、初めての懇親会
 今月の例会は、2年の節目を終えて、一休みをして、新しい年を迎えましょうと、会発足以来初めての懇親会をしました。
 一休みと云いながら、でも、話題は尽きることがありません。
 主な話題を拾ってみましょう。

① 産経新聞の特集 第9部 嫡子正行

 1122日 久子の方 楠妣庵観音寺
 1123日 藤井寺の合戦 誉田八幡宮
 1124日 住吉天王寺の合戦 渡辺橋の美談
 1125日 正行辞世の歌 如意輪寺
 1126日 四條畷の合戦 四條畷神社~四條畷の誇り
- 産経新聞の3月から始まったこの特集は、楠公ブーム創出に一石を投じてくれました。年明けには東京でも特集が集約された形で紙面化され、3月ごろには東京でシンポジウムを開くとの情報があります。
 1126日の産経新聞朝刊1面に、大見出しで、『四條畷の誇り』との文字が掲載されましたが、1面に四條畷が載るのはまれなことで、大いに宣伝になったのではないでしょうか。

② 楠公父子を日本遺産に登録!
 1案 元祖、サムライ親子物語
 2案 サムライと僧侶が作った中世世界
 3案 楠木親子の軌跡をめぐる物語
 構成自治体
 神戸市(湊川神社)、島本町(国史跡桜井の駅跡)、四條畷市(四條畷神社)、富田林市(楠妣庵観音寺)、千早赤阪村(国史跡千早城址)、河内長野市(観心寺) 河内長野市主導で、6自治体による楠公父子の日本遺産登録が進んでいます。懇親会でも、実現を期待する声が全員から出されました。
 文化庁との協議では、ストーリー性が重視され、「目に見える観光資源」との報道があります。
 四條畷市は、「観光可視化戦略」に基づく観光行政を展開しています。同戦略に基づいて、平成25年に始まった「楠正行シンポジウム」は来年3月第5回目を迎えますが、東京や名古屋を含め、広く市内外からの参加を得ています。また、数年前から、郷土教育の充実を図る観点から、小学校3年生用の副読本が作られ、四條畷の合戦や、この戦いで活躍した郷土の誇り、楠正行を子どもたちは学んでいます。
 これらは、すべて「目に見える資源」といえるのではないでしょうか。
 もっと言えば、目には見えませんが、私たちの市名「四條畷市」は、楠正行を祀る四條畷神社が創建されたことを契機に、元々甲可村であった村名を四條畷村に変えたという由来があります。目には見えませんが、私たちの日常生活にどっぷりと生きている楠正行の象徴が、私たちの市名であるともいえます。
 いずれにしましても、楠木父子の日本遺産登録に向け、四條畷市関係者の踏ん張りに大いに期待します。
 さて、疑問が一つ。
 ~ 楠公父子と強いかかわりのある吉野町(如意輪寺に残る正行辞世の歌を刻んだ板塀、吉水神社等)、笠置町(元弘の戦い、笠置山笠置寺、後醍醐天皇と正成出会いの地であり、正成の名が世に出た初めてといえる場所でもある)は、何故入っていないのか?

③ 高山右近、日本訣別の害
 石川県、本行寺に残る書に、正行、辞世の歌の引用
 ~ 正行没後約250年、名だたる大名に知られていた事績という事の証左
 高山右近は、国外追放の命を受け、日本を去るにあたって、楠正行が、吉野に詣で四條畷に向かった時の心情を重ねて記したものと思われます。
 江戸の初め、正行のこの事績は、大名クラスにも知られていたのです。楠公父子の事績は、室町、江戸と脈々と生きていたことが伺えます。


④ 弁の内侍、尼となって龍門、今の西蓮寺のある場所に入る
 正行亡き後、弁の内侍は吉野山から北方にあたる龍門の里、「聖尼庵」で菩提を弔いました。
 江戸初期、長宗我部元親の6男、文親、改め鉄牛上人がこの地に入り、西蓮寺を開祖しています。
 そして、西蓮寺は、弁の内侍ゆかりの寺として、この周辺の多くの末寺を持つ浄土宗の本山となっています。
 扇谷にとって、末寺の一つがある志賀は母の里であり、末寺のあった津風呂(今は津風呂湖の湖底に沈む)は生地という縁があります。


⑤ 正行アニメーション、正行ゲームの制作を企画
 大阪電気通信大学とコラボし、アニメやゲーム、絵本の制作等を検討しています。
 「楠正行」(まさつら)と読めない若い人が増える中で、若い世代への正行顕彰を図るツール開発が目的です。
 一人でも多くの学生さんに協力を呼び掛け、実現に向けて取り組みます。

⑥ 和束町?に残る「駒返しの岩」
 元弘の変で、笠置山に籠城した後醍醐天皇の最期、笠置落城の急を聞きつけ、千早赤阪から急ぎ楠木正成は笠置に向かってきましたが、この地まで来て笠置山の炎上を見て駒を返した、と伝わる岩が残っているとのことです。
 国道163号と木津川が並走して走る場所、その河原敷きの竹やぶの中に残るこの岩(花崗岩)には、約1メートルの石仏が彫りこまれているようです。
 参加者全員がその存在を知りませんでした。このことは、扇谷が、ある日、タクシー乗車中、同乗者と楠談義をしていたところ、降車時に、タクシーの運転手さんから、「今日は大変貴重な話を聞かせていただきました。私は笠置町の出身ですが、加茂にある駒返しの岩のことはご存知ですか?」と教えられたのがきっかけでした。
 運転手さん、貴重な情報をありがとうございました。

 この日、その他、「正行談議」で大いに盛り上がりました。

 
 

 
その他
連絡事等



◆1月例会は、1月10日、長宗我部元親と正行
 なお、平成29年、新年1月の例会は、第2火曜日の10日、午後130分から、教育文化センターで開催します。
 長宗我部元親と楠正儀の末裔と云われる楠瀬氏の娘との間にできたといわれる6男、文親のことがあり、1月は「長宗我部元親と正行」をテーマに討論予定です。
 2月は、懇親会でも話題になった高山右近を取り上げる予定です。
 正行にご関心のある方、郷土の歴史にご関心のある方、大歓迎です。
 気軽に覗いてください。会費は、例会参加費100円です。

 
 
 
 楠正行通信37号・38号・39号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



「教文 クリスマス会」

日時 平成28年12月9日(金) 午前10時より
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容 教文の大きなツリーに飾りつけをして、楽しい人形劇を見ました。そして、みんなで声を合わせてサンタさんを呼びました。するとサンタさんが二人来て、みんなにお菓子をプレゼントしてくれました。



四條畷楠正行の会 第24回例会(現地学習会)

日時 平成28118日(火)
場所 吉野町吉野山 如意輪寺 現地学習会
対象 会員(8人参加) 特別参加1人 計9人
イベント内容 ◆近鉄阿倍野橋から近鉄特急で向かった如意輪寺
 突然の体調不良やご家族の急病、更には業務の都合等で、残念ながら参加できない会員が4人出て、JR四条畷駅に集合したのは会員7人と特別参加の奥田さん(教育文化センター指定管理者・阪奈エンタープライズ株式会社社長)の8人。
 JR四条畷駅から、京橋経由で、天王寺、そして近鉄阿倍野橋駅に到着。
 阿倍野橋から吉野までは、近鉄特急に乗車
 列車内で、扇谷が準備した例会資料を基に、短時間の例会を開催して、あとは和やかな談笑の中で、一路、吉野に向かいました。
 吉野駅に着いた一行は、小雨の中、如意輪寺を目指して「ささやきの小道」を歩き始めましたが、途中、一匹の犬が私たちを出迎えるように現れ、その後、如意輪寺に到着するまで、前に行ったり、後ろに行ったり、休憩場所では一緒に休むなど、まるで如意輪寺から道先案内に来てくれたのではないかと見まがうばかり。
 約45分かかって、如意輪寺に到着しました。会員には70代後半の人もおり、いささか厳しかったようで、特に、最後の石段は相当こたえた様子でした。

 
如意輪堂(本堂)で加島ご住職の講話を聴く
 如意輪寺に到着すると、ご住職夫妻、そして御子息の副住職が出迎えてくださり、早速、本堂にご案内いただき、ご住職の講話を聴かせていただきました。
 また、東京から参加の広木さんも、ほぼ同じ時刻に到着、再会を喜び合いながら合流しました。
 ご住職は、如意輪寺の沿革、そして長宗我部元親と楠木正儀の末裔にあたる楠瀬家の娘との間に生まれた六男、文親が鉄牛上人として吉野に入り中興の租として再建に取り組んだこと。また、如意輪寺再建の折に、如意輪堂から板塀が外され、今その板塀は宝物殿に展示していること。などなど、ご説明をお聞きしていると、お目当ての「ピザが焼きあがりましたよ」と、奥様からお声がかかり、寺務所の中で昼食をいただきました。
 ピザは、後醍醐天皇が好んで食したといわれているチーズをふんだんに使ったものと、トマトやピーマンなど野菜を主にした小僧ピザの二種類。
 ご住職と副住職のお二人が焼いて下さったピザをほおばりながら、奥様が入れてくださったコーヒーやお茶などをいただきました。

特別公開中の御霊殿、そして宝物殿の辞世の扉に感激
 楽しい食事タイムの後は、境内、そして宝物殿の見学へと移りました。 この日、ラッキーなことに、後醍醐天皇御霊殿の年一回の特別公開と重なり、後醍醐天皇自作と云われる木像を拝見し、宝物殿に向かいました。
 宝物殿では、会員一人一人が、それぞれ関心を持つ展示物の前に立ち、じっくりと鑑賞することができました。
 しかし、何と言っても、正平2年12月27日、四條畷の戦いを前に訪れた如意輪堂の板塀に鏃で刻んだといわれる辞世の歌、「かゑらじとかねて思えハ梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」を刻んだ板塀に、多くの人がくぎ付けとなりました。
 そして、宝物殿での鑑賞を楽しんだ後、裏山の塔尾山の石段約60段を上がり、後醍醐天皇陵に参りました。
 ここでは、会員の真木さんに藤井竹外の芳野懐古を吟じていただきました。突然のリクエストにもかかわらず気持ちよく受けていただき、静寂の中で、後醍醐天皇陵を前にした放吟に、会員一同聞き入りながら、南朝への思いを一層熱くしたことと思います。

小楠公髻塚の碑の拓本を広く販売して欲しい、とお願い

 今回の現地学習は、如意輪寺に残る史跡の中でも、特に、「正行公の髻塚」「小楠公髻塚の碑」「弁の内侍詩情塚」「芭蕉の句碑」「尾山篤次郎歌碑」などの句碑・歌碑等にこだわっての学習でした。
 小楠公髻塚の碑は、森田雪斎の撰文ですが、正行公を讃えた内容が刻まれています。しかし、現在は石の風化と時間の流れとともに、表面の文字がほとん
ど読み取れなくなっています。
 そこで、扇谷から、ご住職に対し、「ぜひ、拓本を取っていただき、その拓本を展示いただくとともに、印刷して販売し、広く求める人に伝わるようにしていただけないか」と、お願いしました。


広木さん、東京支部長として我々の仲間に
 アッという間に、予定の滞在時間が終わってしまいました。
 広木さんは、この日、吉野山に宿泊の予定という事で、如意輪寺でお別れしましたが、四條畷楠正行の会の会員として入会いただき、この日、東京支部長になっていただきました。
 私たちの会としては、一人でも多くの人に楠正行の生涯や生き様を伝えていきたいとの強い思いを持っており、遠く、東京にも仲間ができ、会員全員で喜び合いました。
 帰途は、滞在時間を少しでも長くしたいという思いからタクシーを呼んでいただき、吉野駅に向かいました。
 ご住職夫妻と副住職にお見送りをいただきながら、お土産にと頂いた正行辞世の歌を描いたハンカチ、そしてお菓子を手に、タクシーに乗り込みました。

 
その他
連絡事等


 次回、12月の例会は、座学を休み、13日(火)、会発足以来初めてとなる懇親会(忘年会)とします。
 楠正行にご関心のある方は、来年1月10日(火)午後1時30分、教育文化センターにお越しください。大歓迎です。
 
 
 楠正行通信36号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)


「教文親子体操で秋の遠足に出掛けました。」

日時 平成28年10月27日(木) 午前10時~12時
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 「教育文化センター親子体操」で修景施設さとやまへ遠足に行きました。
さとやまは、教育文化センターより約800mの上りに位置しており、皆さん頑張って辿り着き、お弁当を食べました。

修景地さとやま 修景地さとやま
修景地さとやま みんなでお弁当を食べてます。

「教文親子体操でお芋掘りをしました。」

日時 平成28年10月13日(木) 午前10時~11時30分
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 教文のさつま芋畑で、「はじめての芋掘り」を体験しました。
大きなお芋は出てきましたか?

芋掘りの様子 芋掘りの様子


四條畷楠正行の会 第23回例会(現地学習)

日時 平成28年10月11日(火) 午前9時20分~午後4時30分
場所 現地学習(四条畷駅…近鉄バス…瓢箪山駅~六万寺往生院(正行墓・本陣跡他)~水走氏館跡~枚岡神社・首洗いの井戸~枚岡駅…瓢箪山駅…近鉄バス…四条畷駅~反省会・解散
対象 会員 10人出席
特別参加 6
 広木双葉(東京都在住)
 山下弘枝(湊川神社・楠木同族会)
 久野 潤(名城大学非常勤講師)
 藤原摂鵬(吟道摂楠流宗家補佐)
 西尾佳岐(四條畷市市民生活部長)
 奥田 優(指定管理者・阪奈エンタープライズ株式会社・代表取締役社長)

イベント内容 ◆現地学習「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く第二弾」
●JR四条畷駅に全員集合
 今月の例会は、現地学習「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く第二弾」を実施しました。JR学研都市線「四条畷」駅、午前9時20分集合でしたが、今回はハプニングが起こりました。明石から参加の藤原さんは、JRの遅延で、バス発車に間に合うかどうか大変心配しましたが、何とか間に合い安堵。しかし、八幡から参加の山下さんと久野さんは、バス発車に間に合わないという事で、急きょ予定を変更して近鉄・瓢箪山駅で合流することに。また、西尾部長は、急に公務が入り、午前中は参加できないこととなり、急きょ午後からの合流となりました。
 最も遠い、東京から参加の広木さんは、午前600分発の新幹線で来阪され、集合時間前に到着、奥田社長も交え、近鉄バスに乗車しての出発となりました。

近鉄瓢箪山駅から徒歩で出発
 一同は、瓢箪山駅から往生院に向かいますが、この行程はのぼりばかりで、四條畷の合戦で正行が本陣を構えた河内往生院に辿りつくまでに一苦労といったところでした。


 ↑川口住職の話に聞き入る

 今回の現地学習は、正平315日、四條畷の合戦の折、正行が本陣を構えた河内往生院から枚岡神社までの戦跡を訪ねて歩きます。
 往生院に到着した我々一行を、ご住職の川口哲秀氏と副住職の川口泰弘氏が出迎えてくださり、瓦葺の金堂が建てられた鎌倉時代前期の甍と軒周りの一部の実物大での復元物を前に、陳列されている出土した丸瓦、平瓦を前に、往時の金堂の壮大さを実感していただきたい、と説明をいただいた。
 そして、河内往生院は四天王寺のほぼ真東にあたっており、往生院から見る彼岸の太陽は四天王寺に向かって落ちていき、この地が極楽浄土の東門にあたる事から極楽往生を達するためにふさわしい場所ですと、往生院から写した四天王寺に夕陽の落ちる写真を示しながら、説明いただきました。
 次に、往生院の西約300メートルの地にある岩滝山遺跡から出土した舟形の石組を移築した場所に移り、この石組のあった園地の底から鎌倉時代の「菊花双鳥文」の銅鏡が出土したと、そのレプリカをお示しいただき説明いただいた。
 川口住職は、この岩滝山遺跡辺りに寺の関係者の住まいがあったものと思われるとし、そのことは、出土した銅鏡が当時寺院や有力武士、豪族しか持てない貴重品であったことから推察されるとお話されました。
 その後、民具館を見学させていただき、昼食休憩を取りました。


●正行墓に墓参
 昼食後、全員で、楠正行墓に墓参しました。楠正行公は、四條畷の合戦に際し本陣を往生院に置き、出陣していきますが、大日本史によればその遺骸を往生院に葬るとあり、左の五輪塔が正行公、右の石碑は正成公の供養塔(江戸期の建立されたもの)が建っています。


 ↑正行墓

 そして、この正行公の墓の前にある石段は、大正4年、初代の中村願治郎が修復されたものでること、そして、近鉄瓢箪山駅にも石の道標を寄贈されたことが紹介されました。この石の道標は、現在、瓢箪山駅奈良方面行のホームの一角に堂々と立っているとのことです。
 
  ↑正行墓に上る石段・初代中村願治郎が修復

 正行墓の墓参の後、往生院の門前で、はるかかなたに大きく見える阿倍野ハルカスと小さくかすかに見える通天閣に挟まれた地にある四天王寺(実際は見えない)を背景に、全員で記念撮影をしました。


 ↑往生院門前で記念撮影(バックに阿倍野ハルカス、通天閣) 

●正行が本陣を構えたであろう本陣跡に感激
 そして、川口住職の計らいで往生院の北東約200メートルの地にある往生院金堂跡に向かいました。
 現在はけもの道になってしまっており、金堂跡の現地まではいけませんでしたが、金堂跡と東高野街道をつなぐ里道に立ち、川口住職の説明をお聞きしましたが、まさに、正行公が出陣をしていったであろうその道筋に立ち、一同全員がその感動と感激をかみしめた瞬間でした。
 金堂跡は、昭和36年、大阪府の史跡に指定され、ここから出土した古瓦の中で最も古い物と思われる物は、平安時代後期から鎌倉時代初期と考えられる軒丸瓦で、中央には梵字「キリーク」(阿弥陀如来の種字)が彫出されているとのことです。
 金堂跡で川口住職、副住職と別れ、枚岡に向けて歩きました。
 金堂跡から東高野街道に向けてはかなりの急こう配で、正行は騎乗していたものと思われますが、相当達者でなければこの坂を馬に乗って降りるのは難しいのではないかと思いました。


●水走氏館跡に立ち寄る
 途中、水走氏の館跡に立ち寄りました。
 今は、開発が進み、周辺はすべて新興住宅が立ち並ぶ一角に、人知れずひっそりと館跡の碑が立っていました。


 ↑水走氏館跡の碑

 水走氏は、枚岡神社の祀官を務め、河内一帯にかけて広大な土地の領有支配権を持った中世の豪族で、水走氏の館は寝殿・廊・惣門・倉等を有するかなり広い屋敷だったことが水走文書に記されています。
 水走氏は、正成に同心して活躍し、正成死後も正行に味方したため、高師直らの攻撃を受けて降伏する憂き目にあっています。しかし、河内守護となった畠山氏の下で既得権益を縮小しながらも維持し、室町時代を生き抜いたようです。

●枚岡神社境内に残る正行公首洗いの井戸を見学
 枚岡神社境内に入った一同は、同神社の権禰宜、枝茂川彰彦さんのご説明で、枚岡神社の由来等をお聞きし、正行公が、四條畷の合戦の折、武運を祈願して馬や武具を奉納されたことも教えていただきました。


 ↑正行公首洗いの井戸(枚岡神社境内)の前で記念撮影

 そして、正行公首洗いの井戸(今は、正行公縁の井戸といわれる)の前に移り、正行公が、四條畷の合戦を前に、“身を清めた”と伝わる首洗いの井戸を見学しました。
 その後、近鉄枚岡駅で流れ解散とし、会員と広木さんはバスで四条畷駅に戻り、駅前の喫茶店で反省会を開きました。


 ↑枚岡神社の鳥居

 この日も、正行公に思いをはせながら、四條畷の合戦の戦跡を訪ねることができ満足感に満たされた一日となりました。

 
その他
連絡事等


 次回は、11月8日(火)です。
 再び現地学習で、吉野如意輪寺を訪れます。
 リポートをお楽しみに!
 

 
 楠正行通信はコチラよりご覧いただけます。(PDF)

「教文でスナッグゴルフをしよう」

日時 平成28年10月2日(日) 午前10時~正午
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生広場
対象 市民
イベント内容 秋晴れの教文芝生広場でスナッグゴルフを楽しみました。
今回は長めの芝生で実施したため、芝生の抵抗で球速が弱まり、コツをつかむまで苦労しました。

スナッググルフの様子 スナッグゴルフの様子
スナッグゴルフの道具

教文「みんなの運動会」

日時 平成28年9月22日(祝日) 午前10時~正午
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生広場
対象 市民
イベント内容 教育文化センター秋の恒例行事「”みんなの運動会”」を開催しました。
入場行進から始まり、1等賞体操やアヒルのダンス、綱引き、玉入れと続き、台風の目、全員リレーと、みんなで楽しくできました。

みんなの運動会
おとうさんと遊ぼう
サーキット遊び
玉入れ
徒競走
集合写真


教文「センター利用サークル合同サークル展」

日時 平成28年9月18日(日) 午前9時30分~午後4時
場所 四條畷市立教育文化センター 全館
対象 市民
イベント内容 四條畷市立教育文化センターで、9月の第3日曜日に行われるサークル展です。
展示部門では、木彫クラブ、華の会、ひまわりぬいぬいクラブ、手芸サークル、体操の会、教文親子体操、健康体操自彊術、四條畷 楠正行の会、スポーツ吹矢同好会の作品展示や活動紹介などがありました。
また舞台発表では、四條畷 楠正行の会から、オープニングスクリーン紙芝居として「楠正成 正行の生涯」の上映があり、ピアノ生演奏と相まってこころ動かされました。
正午より、琴音会、舞ひまわり、四條畷コスモス会、オカリナの会、詩吟を愛する会、商工会よさこいサークル、畷楽の魂こころ、四條畷吟詩会、文の里民踊会、ひまわりコーラス、楊名時健康太極拳、さくら会さんと続き、大変盛り上がりました。
ご参加の皆様、お疲れ様でした。

ひまわりコーラス
 大正琴 琴音会
さくら会
四條畷市商工会 よさこいサークル
華の会
木彫クラブ
ぬいぬいクラブ
ぬいぬいクラブ
四條畷 楠正行の会
初めてのお絵かき


教文「センター利用サークル合同サークル展 四條畷楠正行の会」

日時 平成28年9月18日(日) 午前9時30分~午後4時
場所 四條畷市立教育文化センター 全館
対象 教育文化センターサークル会員及びその家族、四條畷市民等
イベント内容 スクリーン映像紙芝居「正成、正行の生涯」上映、大好評!

 四條畷楠正行の会として、昨年から出展を始めた教育文化センター・サークル展ですが、ことしは、展示に加えて、ホールで行われた発表の部にも特別出演しました。
 特別出演と云うのは、発表の部の参加を決めたのが、発表の部のプログラム締め切り後だったので、展示の部開会の前に30分間をいただき、午前930分から行ったものです。
 内容は、スクリーン映像紙芝居「正成、正行の生涯」の上映です。
 このスクリーン紙芝居、「正成、正行の生涯」は、
 原作 紙芝居「楠公父子」
 脚本 鈴木景山
 絵画 鳥居清言
 製作 日本教育紙芝居協会
 を、
 扇谷昭が補作の上、四條畷楠正行の会が、スクリーン映像として制作したものです。スクリーン映像の読み手は扇谷、そしてバックで流すピアノ演奏は川口が担当しました。
 17日の土曜日にリハーサルをしましたが、準備で集まった多くの方にも聞いていただき、好評をいただくとともに、アドバイスも頂戴しました。お陰様で、本番では、アドバイスに基づき、ピアノ演奏の一部に変更を加えました。
 本番では、スクリーン映像紙芝居上映の前に、ピアノ演奏「桜井の別れ」を演奏、ムードが高まったところで、上映スタートとなりました。
 上映は、約16分間で、前半が正成の生涯、そして後半が正行の生涯で、会場からはすすり泣きが聞こえるほどで、上映は大成功の内に終了しました。

↓上映前にあいさつする扇谷


展示の部「四條畷の合戦要図」と写真を掲示

 展示の部は、昨年の反省を踏まえ、できる限り文字情報を減らし、「図」と「写真」中心に展示をしました。
 大きく二つのゾーンに分け、一つのゾーンには、「四條畷の合戦要図」を掲示し、その周辺に、当時がしのべる写真を配置し、現況とは全く違う四條畷の合戦当寺に、どこで、どのような戦いが行われたのか、来場者に想像していただけるような構成としました。
 お陰様で、写真や図に見入る人が多く、会員から詳しく説明をしました。

●真木書・朱舜水作・楠正行像賛書も掲示

 また、もう一つのゾーンには、会員の真木さんの書による朱舜水作・楠正行像賛文を掲げ、扇谷昭の略解も掲示しました。
 四條畷楠正行の会では、史料の少ない楠正行の顕彰を目的に、この賛文148文字の啓発・普及に努めています。一人でも多くの人に触れていただき、楠正行のことを知っていただくことができれば大変うれしく思います。
 なお、この朱舜水作・正行像賛につきましては、その全文・釈文・略解を楠正行通信に掲載していますので、ぜひ、ご覧下さい。

↓展示場所の前で、開場前に打ち合わせをする会員の様子


四條畷の合戦要図


↓展示会場に掲示した「四條畷の合戦要図」作成:扇谷昭



朱舜水作・楠正行像賛148文字

↓展示会場に掲示した朱舜水作・楠正行賛文 真木書



 
その他
連絡事等


  次回は、10月11日(火)は現地学習です。
 「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く その2」をテーマに、正行が本陣を構えた河内往生院を訪れ、ご住職の講話をお聞きした上で、河内往生院から枚岡神社まで戦跡をたどって歩きます。
リポートをお楽しみに!
 

 
 楠正行通信はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



四條畷楠正行の会 第22回例会

日時 平成28年9月13日(火曜日)午後1時30分~午後3時)
場所 教育文化センター1階 第2会議室
対象 会員(13人出席)

 ↓例会の様子(第2会議室にて)


 ↓例会の様子


イベント内容

第22回例会
21回例会のおさらい

・楠正行通信31号
 藤原氏の血を引く奥州の名門、白河結城氏
 北畠顕家の統治能力と結城宗広の政治力で奥州54郡を統括 

・楠正行通信32号
 828 四條畷市詩吟連盟第54回吟詠大会開く
 扇谷、朱舜水の残した正行賛文について講話


 楠正行が築城した三津屋城
  (資料 1922年刊 大阪府全志 巻の3 519頁写し配布)
  大阪市淀川区三津屋中
  三津屋城跡伝承地 ~ 大阪市顕彰史跡第197
  この地にある光専寺の周辺は、「字 城の前」と呼ばれており、付近には
  「字 馬洗」の地名も存したことから、この一帯が城跡であったと推定で
きる。
  <1922年刊 大阪府全志 巻の3 519頁 該当部分転載>


  ~ 大阪府全志は、三津屋城は正行築城と断定。 ~


後醍醐天皇の親衛隊長、名和長年
伯耆国長田 大山の西北 大山寺から45キロの地 
古代、高地集落の跡 
長田から東北に海より、海岸線沿いに名和荘 古代のタタラ~鉄
 海岸線~海の幸 ウニ・アワビ・サザエ・海藻類
 海の幸を乾燥し、塩漬けにして、各地へ 記録に「鰯売り」の文字が
  ~ 豊かな財政力
文永111274 蒙古襲来
→ 関東から多数の御家人、西国へ下る
  名和氏も、長田から海岸寄りの名和に移り、地名を取って名和を名乗る
  長年、この名和の地で生まれる
弓の家門
 名和川を挟んで東に長者原台地、西に門前台地 この間約500
 長者原台地の堤の上から、名和川付近の的石めがけて弓矢の練習
水田開発
 名和川の水を使って水平を出し、田んぼをつくる
約束の松 : 地元では有名な話
若い頃の長年
 「俺を牛に乗せて送ってくれたら屋敷の木は思いのままに」
 童、後に、屋敷に来りて、大樹を所望
 長年の父、「約束は必ず守らなければならない」と、
 この童に大樹を与える
名和壮の年貢米を京の公家や皇室に運び上げ、帝との接触も…
海岸線の警備
 隠岐や日本海諸港に出入り、そして、交易も=経済力
 加えて、村上水軍との交流始まり、海上権も掌握

後醍醐天皇の隠岐配流
 随行 左中将一條頭大夫行房
    少将六条千種忠顕
帝を支えた村上水軍と山伏
思惑の錯綜と暗躍
 ・大塔の宮による帝救出作戦
 ・山伏による密使の往来
 ・村上水軍の後ろ盾

 ・警護にあたった地方の地頭たちによる番役
 ・「天皇を殺し奉れ」との幕府の急使
 ・天皇みずからの脱出計画
後醍醐天皇と関係者との連絡係
 今もこの地に続く笠置家
  笠置寺の僧の子孫
  帝につき従い隠岐に来て、笠置氏を名乗る

後醍醐天皇隠岐脱出と名和長年
 元弘31333
 2月01日 吉野城落ち、大塔の宮姿を消す
 2月13日 大塔の宮、船上山で頼源に令旨を渡す
   ~ 大塔の宮の下で計画された帝救出作戦
     ① 村上水軍が帝を隠岐から名和港へ運ぶ

     ② 名和長年が帝を名和港から船上山に移す
     ③ 大山寺・鰐淵寺の僧兵が、帝の警護に就く
       この時、大山寺に、南光院・中門院・西明院の3

       中門院の別当は、名和長年の弟、源盛
     ④ 大塔の宮が、帝本人を確認する
  船上山を含む大山の地の利~大山の東西門間40キロ、南北門間30キロ
  総面1200平方キロ
  比叡山の、実に2530倍の面積
  途方もない広大な山地に逃げ込めば、帝の所在をつかむことは困難
 223日 帝、隠岐脱出
   ~ 帝、千種忠顕、成田小三郎の三人が同じ船に乗船
   ~ 帝がどこに立て籠もったかもわからない環境
     名和長年:5000石のコメを船上山に運ぶ 持久戦の準備
     迷路の地~船上山合戦成功の原因
   長年を、左衛門尉に任命
   帝、長高、改め、長年にせよと

    長くて高いのは危険 長年(ながねん)の忠節を賞して、「年」に!


     「忘れめや よるべきも波の あら磯を
     御舟のうへに とめし心を」
             (「新葉和歌集」)
 
  

   ~ 頼る者のいない境遇を、寄る辺もない船にかけて、
     長年の忠節をほめた歌。
 303日 伯耆守に
   帝、千種忠顕に申し付け、長年に帆掛け船の紋を書いて与える
 317日 帝の軍、京都出兵 千種忠顕大将
 523日 帝、京に向け出発
      84日間の行在所:船上山
      この地で、建武の中興の基礎を構築
      長年≒総理大臣&陸軍大将&大蔵大臣
 530日 帝、兵庫、福巌寺に入り、出迎えた正成を引見

 建武の新政始まる
  名和長年 常に後醍醐帝の傍にあって、親衛隊長の役割
  恩賞方、記録所の寄人 雑訴決断所にも

  東市(左京)の長官=東市(ひがしいち)(のかみ)
  
  後醍醐帝が中原氏の家職を取り上げ、
  京都の商工業者を自ら掌握する狙いか
 東福寺に残る日記に、長年は「鰯売り」と記されている。
  ~ 海の幸で経済力を誇示したが故か
 伯耆、因幡の国司、守護に 後に、出雲も
 名和家は、伯耆に始まり、京の都を経て、最後は九州八代の地に移る
  八代~九州南朝、最後の拠点に!
 建武31336 630
  長年、京で、九州・中国の幕府大軍と対峙
  五人張りの強弓をくり、
  一の矢、二の矢、三の矢が、矢継ぎ早に空を飛ぶ~一度に二人を討
ち取る
  「今日を限りと定めたることなれば…
  後ろ口の木戸を閉じて、我が勢、一人も落とすべからず…」
  と、壮絶な討死!
  ~ 結城親光(1月)、楠木正成(5月)、千種忠顕(6月)と三木一草の
    他の三人が、既に相次いで討死しており、いまだ生きながらえている
    長年を揶揄した貴族に対し、「今日敗れれば、死のう」とつぶやいた
    といわれる。
 名和義高
  名和長年の長男
  従五位下左衛門少尉に。この義高に肥後の国八代荘が与えられる
  九州、幕府軍、抑えの地
  延元31338 522
   北畠顕家の軍に参加し、堺浦石津の戦いで討ち死に
 名和顕興 義高の子(基長の子、養子?)長年の孫
  伯耆の守
  吉野南朝、後村上帝の警護にあたった記録残る

 正平131358 山陰と吉野にいた名和一族、九州八代に移る
 正平141359 筑後川の戦いに、名和顕興、顕長の名前が記録に残る
   そして、
   征西府、菊池城落城後、本拠を八代に移し、南北合一まで戦う
   名和一族は、戦国大名へと続き、明治期以降は名和神社の神官となる

その他
連絡事等
◆サークル展の出展
 ・9月18日(日)
   午前9時30分~
    映像スクリーン紙芝居「楠正行の生涯」上映
   午前10時~午後4時
    四條畷の合戦の戦跡案内展示(地図と写真)
    朱舜水の残した正行賛文とその解釈
    正行通信 1号~32号 閲覧
 ・教育文化センターで開催されます合同サークル展に出展します。
  映像紙芝居の上映と写真・オアネル展示をいたします。
  ぜひ、覘いてみてください。
  お待ちしております。

◆10月、現地学習について
  四條畷の合戦の戦跡を訪ねて歩く その②
  正行が本陣を構えた河内往生院から枚岡神社まで歩きます。


 次回は、10月11日(火)は現地学習です。
 「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く その2」をテーマに、正行が本陣を構えた河内往生院を訪れ、ご住職の講話をお聞きした上で、河内往生院から枚岡神社まで戦跡をたどって歩きます。
リポートをお楽しみに!
 

 
 楠正行通信31号、32号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



四條畷楠正行の会 第21回例会

日時 平成28年8月9日(火曜日)午後1時30分~午後3時)
場所 教育文化センター2階 ホール
対象 会員 12人出席
 40度近い猛暑の中、次々と会員が会場に入ってくる中で、久々のメンバーの顔を拝見し、うれしいスタートとなった例会でした。
 また、さみしい知らせもあります。会員の一人が、NPO法人「シニア自然大学校」が開講する「シニアCITYカレッジ 文学・歴史学科Ⅰ」に入学され、10月からの例会とダブるため、暫く休会とのことです。
 しかし、学びのため、喜びでもあります。


 ↓例会の様子(ホールにて)


 ↓「正成、正行の生涯」上映のため、机を三角に


イベント内容

第21回例会
20回例会のおさらい

・楠正行通信29号
 懐良親王を奉じ、大宰府を制圧し、九州統一
 九州南朝の雄、武時、武重、武光の菊池氏三代 

 菊池一族と正行
 懐良親王のもと、一時期、九州統一を成し遂げた菊池一族。
 そして、南北両朝合一後も、代々、肥後守護職に就き、家門繁栄が続く
 吉野から遠く、九州という地方政治の枠に留まったが故に激戦を勝ち抜くことができ、九州統一に大いに貢献した菊池一族。そして、合一後も、その力を認めざるを得なかった北朝。

 正行の悲劇
 延元元年1336から正平31348にかけての正行楠家頭領の時代は
 九州の菊池一族においては、武重から武光への移行期、菊池一族惣領権不安定時代が続いており、九州受難時代で、吉野の宮の要請にこたえられる状況下にはなかった
 奇しくも、正行が最期を迎える正平3年正月5日、
 まさにこの3日前に、
 薩摩谷山城を発した懐良親王は、肥後、菊池武光が待ち受ける宇土港に上陸する ~  四條畷の合戦において正行が討死し、正儀苦難の時代に入った、まさにその時、九州では、宮方による九州統一の幕が切って落とされていたのである。


 そして楠と菊池に相通じる経済力
 楠 ~ 畿内の陸運・水運:運輸流通を仕切り、辰砂等扱い豊富な財力
 菊池~ 日本海で活躍した和寇の主力部隊として経済力の基礎を築く

 桜井の訣別に先立つ3年前、袖ヶ浦の別れ
 元弘31333
  博多に到着した武時は、武重を肥後に帰し、大宰府に攻め込み討死。
 延元21336

  桜井の駅に到着した正成は、正行を河内に帰し、湊川の戦で討ち死に
 ~ まるで、絵に書いたように同じ運命が太平記に描かれる。


・楠正行通信30号
 平和な世界を目指す弥勒信仰の山、笠置山
 笠置寺の小林慶範前住職、宇治市で講演


 後醍醐帝は、何故、笠置に入ったのか
 笠置寺に残る元弘戦陣取り図
 正成は笠置で生まれた?!

 資料 議会制民主主義の原典ともいえる菊池家憲

白河結城氏と正行
 今月のメインテーマです。

 南朝を支えた豪族に共通する財政力
 白河結城氏のおびただしい砂金からなる経済力=軍事力は、
 楠氏の辰砂をはじめとする運輸流通業、
 菊池氏の和寇船による海運流通業に通じる

 藤原氏の血を引く結城氏
 宗家・下総結城氏の広綱の弟、結城祐広、分家して白河結城氏を創設
 二代目、結城宗広、護良親王の令旨を受け、宮軍に転じ、終始一貫南朝を支える
 北畠顕家の統治能力と、宗広の政治力で、奥羽54郡を統治
 藤原氏の血を引く結城氏と、村上名門の北畠氏、家門と云う共通点
  ~ 楠氏との違い!
 最後、北畠顕家とともに制西するが、石津で顕家が戦死。
 義良親王に同道し、伊勢から再び東航作戦を展開するも、伊勢で遭難、そして病没
 三代目は、嫡子、親朝が継ぐが、次男、親光は南朝の雄として、各地で奮戦
 親光は、正成、千種、名和と共に「三木一草」と呼ばれる
 護良親王を召し取る役目も
 延元元年正月、尊氏暗殺を企て、偽って降伏、しかし見破られ刺殺される
 三代目、親朝、南朝方として積極的に動かず
  ~ 北畠親房、神皇正統記を書き、関城書を送り続け、説得を続ける
 当初、親房・顕家を補佐し、支援した親朝、興国48月、北軍に就くと
 同年12月には、親房、大宝城を脱し、吉野に逃げ帰ることに

 宮方、九州、関東そして奥州で小幕府構築
 宮方、親王をトップに地域支配確立
 九州(懐良親王)、関東(成良親王)、奥州(義良親王)がそれぞれ小幕府
 しかし、
 畿内には小幕府は作られなかった
 畿内には、中央組織のみ
 楠氏の立ち位置~地域ではなく中央への関わり
 正行の肩にかかった重責の重さ!
  ~ 菊池氏・結城氏との大きな相違

 正平2年から3年にかけて、正行が、南朝復権の戦いを仕掛けた頃の白河結城氏は親朝の死によって途絶えており、
 と云うよりも、家門繁栄のために北朝に転じており、
 正行への支援は全くなかった
 ここにも、正行の悲劇が!

その他
連絡事等
◆9月、教文センター主催サークル展で映像紙芝居上映
 私たちの活動紹介、そして、楠正行に一人でも多くの人の関心を持ってもらおうと、今年のサークル展に、映像紙芝居「正成、正行の生涯」を上演することになり、この日は、その試写をしましました。
 約20枚の原作・紙芝居に絵付けをして、脚本も一部補作の上、四條畷ゆかりの人物、正行の生涯を描いたものです。苦労の末、白黒の原画に絵付けをして、パワーポイントで作成したものを、スクリーンに映し出します。
 上演は、約20分でしたが、終了と同時に拍手も起き、まずまずの滑り出しでした。
 918日に開催されますサークル展で上演します。
 午前930分からの上演の予定ですので、ぜひ、ご覧下さい。正成と正行の生涯を簡潔に描いています。

◆歴史小説「楠正行」の刊行について
 本会代表の扇谷昭が、文芸社から、歴史小説「楠正行」を刊行することが報告されました。
 915日、全国一斉販売の予定で、四六版・ハードカバー430頁、正行6歳から23歳まで、正行自身の目で見た南北朝時代正行の生涯を描いており、正行、終焉の地四條畷から、今の世にこそ必要な人物像の一人として、改めて楠正行の人物像・生涯を全国に発信するものです。

◆10月に四條畷の合戦の戦跡を訪ねて歩く第2弾を開催
 10月の例会は、現地学習「四條畷の合戦の戦跡を訪ねて歩く第2弾」を行います。
 四條畷の合戦で、正行が本陣を構えた河内往生院から枚岡神社までの間を歩きます。
 往生院では、川口住職の講話をお聞きし、往生院が現在の地に移る前の金堂跡(本陣跡)にお連れ頂き、ご説明いただきます。そして、枚岡神社では、正行が四條畷の合戦の折りに自らの体を洗ったと伝わる「首洗いの井戸」(今は、正行縁の井戸と云う)を見学します。
 四條畷の合戦で、正行は、河内往生院からどのルートを通って野崎に入ったのかに、思いをはせながら歩きます。

 
 次回は、9月13日(火)、午後1時30分です。
 「正行と名和一族」をテーマに学びます。
 関心のある方は、ぜひのぞいてみてください。大歓迎です。

 
 楠正行通信29号、30号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



教文 子ども体験教室「夏休みトールペインティング」

日時 平成28年8月5日(金) 第1部 午前9時~  第2部 午前10時30分~
場所 四條畷市立教育文化センター ホール
対象 幼稚園児(保護者同伴)、小学生
イベント内容 人気のトールペイント教室を開催しました。
木製の教材にデザインを施し、専用の塗料で色づけをします。
乾燥後、専用のニスを塗り完成です。

作品作りの様子
作品作りの様子


教文 「夏の集い~ サマーフェスティバル」

日時 平成28年7月22日(金) 午後4時~8時
場所 四條畷市立教育文化センター 全館
対象 市民
イベント内容 教文で夏祭りを行いました。たくさんの夜店や楽しいアトラクション、かっこいいダンスチーム出演で大変盛り上がりました。

ダンスを披露
芝生広場でダンスチームがダンスを披露
小さな子どももダンス
小さな子どもも上手に踊ってます
ホールでもダンス
ホールにて
ナイアガラ花火
ナイアガラ花火!

教文 「親子体操で水遊びをしました。」

日時 平成28年7月21日(木) 午前11時~
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生広場
対象 市民
イベント内容 親子体操でプール遊びをしました。。

プールで水遊び
気持ちいいね
プールで水遊び
上気温は30度


四條畷楠正行の会 第20回例会

日時 平成28年7月12日(火曜日)午後1時30分~午後3時)
場所 教育文化センター2階 ホール
対象 会員(10人出席)

 ↓例会の様子(ホールにて)


イベント内容

第20回例会
19回例会のおさらい

 義国の長男・義重(新田義貞の先祖)が未開発の別業地・新田荘を継ぎ、次男・義康(足利尊氏の先祖)がすでに立荘されていた足利荘を継いだのは、何故か?
 この疑問は、本来、長男が本貫とする足利荘を継ぎ、次男が未開発地の新田荘に入るのが筋ではないか、というものです。
 扇谷は、以下のように考えました。
1.父、義国自らが別業地(未開発の新田荘)に引きこもり、その父に、長男・
  義重がしたがったためではないか。特に、京の都で屈辱を受けた義国は、新田
  氏が、この戦乱の世を巧みにまた安楽に生き延びていくためには、政治の表舞
  台に出るのではなく、栄達を望まず地方経営にいそしむこと、と家訓を定め、
  惣領たる長男・義重にその任を託したのではないか、と考える。
2.九州の菊池氏や関東・秩父の河越氏に残る次男流相続の例。
  このように次男が宗家を継ぐ例はあり、武家社会において、次男が宗家を継ぐ
  ことは決して例外ではなかった、という社会背景も考えられる。

九州の菊池一族と正行
◆南北朝時代、九州の地で戦い続けた菊池一族
 武時、武重、武光の菊池三代
 九州の菊池一族は、元弘3年の武時、大宰府襲撃と討死に始まる南朝における九州での宮方主力部隊として登場する。
 武時の子、武重は建武の新政と同時に肥後の守に任じられ、重用される。 新田勢とともに、菊池千本槍を引っ提げて箱根竹之下の戦いで足利軍と戦い、武重の弟、武敏は大宰府を攻撃し、少弐軍を破るが、3月、多々良浜の戦いで武敏軍は尊氏軍に敗れ、尊氏の大宰府入城を許す。
 湊川の戦では、弟の武吉が正成・正季自刃に遭遇し、自らも討死する。
 武重は、後醍醐帝に従い、比叡山に入り、新田軍とともに坂本に布陣するも、後醍醐帝が尊氏の甘言に騙され京に戻り、幽閉されると、一緒に囚禁される。武重は、後醍醐帝吉野遷幸に先立ち、囚禁を脱し、河内を経て、九州・菊池に戻る。
 九州に戻った武重の挙兵は、九州の武家方に脅威となる。そして、この後、武重は、恵良惟澄とともに戦うが、延元3年年末、病死する。
 そして、武重死後の菊池一族は、惣領権が不安定な時代に入り、懐良親王が四国から九州・薩摩谷山に入るもその支援がままならないまま時が経過する。
 そして、懐良親王の大宰府入り、九州征西府による九州全域制圧を実現するのが、興国6年、菊池の惣領となった武光である。
 正行が、四條畷の合戦に及ぼうとする、まさにその時、恵良惟澄の支援を受けた菊池武光によって、薩摩谷山城を発った懐良親王を宇土に向かえるのである。

 菊池に入った懐良親王の政治的権能と、和寇による経済力を背景にした菊池の軍事力―軍事的機能が相まって、征西府の伸長へとつながる。
 正平
14年、大原の合戦、筑後川の戦いで、武光は少弐軍を破り、正平16年、懐良親王は悲願の大宰府入りを果たし、九州全域を支配下に置く。この筑後川の戦いは、九州第一の合戦と云われており、今も、大将塚・千人塚・五万騎塚や太刀洗川の名が残る。
 しかし、文中元年
1372、幕府が送り込んだ今川了俊が九州に入り、攻撃を始めると、遂に、大宰府は落城の憂き目にあい、その後、元中91392までの間、今川了俊と菊池武光の後を継いだ菊池一族との壮絶な戦いが長年にわたって続くこととなるが、元中8年、八代城が陥落するに及び、良成親王、名和彰興は降伏し、菊池の惣領、武朝は行方をくらます。
 が、南北朝合一後、武朝は、今川了俊と交渉の末、肥後守護職に就き、その後菊池一族は室町幕府下で代々守護職を務めるのである。


菊池武重が定めた「菊池家憲」
 延元3年7月25日作
 現在、日本に残る血判としては最古のもの
 家の掟としての置文
 今日でいう議会制民主主義の精神
  ~ 明治維新における五箇条のご誓文、明治憲法の参考にされた

・第1条
 菊池氏の政治的去就、乃ち「天下の御大事」については、惣領の武重が決定権を持つこと
・第2条
 菊池の統治権の及ぶ領域内の支配、乃ち「国務の政道」は、菊池の有力庶家で構成する管領以下の内談衆の合議を優先すること
・第3条
 畑や山についての禁制と奨励を規定
 惣領と有力庶家の領内支配に対する権限の分配と均衡を規定したもの
 その均衡は、聖護寺を氏寺として精神的紐帯を堅くし、大智とその相伝の門弟を仏法上の指導者と仰ぎ敬うことにおいて実現する

 起請文の基本的性格
 世俗倫理の確立、正法の護持、正法を体現する宗教者への挙族的敬仰、それらの統一の上に、弓箭をもって「朝家」に仕える菊池氏の使命を達成すること


↑菊池武重の血判起請文・菊池神社蔵 菊池家憲「寄合衆の内談の事」延元3年作

菊池一族と正行
 懐良親王のもと、一時期、九州統一を成し遂げた菊池一族。
 そして、南北両朝合一後も、代々、肥後守護職に就き、家門繁栄が続く。
 吉野から遠く、九州という地方政治の枠に留まったが故に激戦を勝ち抜くことができ、九州統一に大いに貢献した菊池一族。そして、合一後も、その力を認めざるを得なかった幕府。
 正行の悲劇
 延元元年1336から正平31348にかけての正行楠家頭領の時代は
 九州の菊池一族においては、武重から武光への移行期、菊池一族惣領権不安定時代が続いており、九州受難時代で、吉野の宮の要請、すなわち正行と共に立ち上がる状況下にはなかった
 奇しくも、正行が最期を迎える正平3年正月5日、

 まさにこの3日前に、
 薩摩谷山城を発した懐良親王は、肥後、菊池武光が待ち受ける宇土港に上陸する
 ~四條畷の合戦において正行が討死し、正儀苦難の時代に入った、まさにその時、九州では、宮方による九州統一の幕が切って落とされていたのである

菊池一族と楠一族に多くの共通点
 楠と菊池に相通じる経済力
 楠 ~ 畿内の陸運・水運:運輸流通を仕切り、辰砂等扱い豊富な財力
 菊池~ 日本海で活躍した和寇の主力部隊として経済力の基礎を築く

 太平記における「父子別れ」の演出
 桜井の訣別に先立つ3年前、袖ケ浦の別れ
 元弘3年1333
  博多に到着した武時は、武重を肥後に帰し、大宰府に攻め込み討死
 桜井の別れ
 延元2年1336
  桜井の駅に到着した正成は、正行を河内に帰し、湊川の戦で討ち死に
 ~ まるで、絵に書いたように同じ運命が太平記に描かれる

その他
連絡事等
◆会員章製作
 この日の例会では、勉強会終了後、秋の現地学習や9月の教育文化センターサークル発表会等について打ち合わせをしました。
 また、この日は、四條畷楠正行の会の会員章として制作したピンバッジが届きました。
 このピンバッジは、楠正行の名前と事績が、少しでも広がれば、と作ったもの。
↓四條畷楠正行の会会員章(ピンバッジ)実物:左右17ミリ


 そして、最後に、教文コレクション第3集が紹介されました。
 教文コレクション第3集は、平成26年度に実施した楠正行ゆかりの地を訪ねるバスツアーで訪ねた正行ゆかりの地の住職、宮司、禰宜、当主、館長等の皆様の講話を採録したものです。
 A448頁、500円です。必要な方は、四條畷市立教育文化センターにお問い合わせください。

 次回は、8月9日(火)午後1時30分です。
 「正行と結城一族」をテーマに学びます。
 関心のある方は、ぜひのぞいてみてください。大歓迎です。

 
 楠正行通信28号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)




「教文 親子体操教室で笹飾りをつくりました。」

日時 平成28年7月7日 午前10時~11時30分
場所 四條畷市立教育文化センター ホール
対象 市民
イベント内容 大きな笹竹の枝をはらい、笹飾りを作りました。
きれいに飾り付けて、短冊に願いごとを書きました。。
どうぞ、お願いが叶いますように。

たなばたさんの絵
製作の様子
おりひめさんの絵
上手にできました
たなばたさんの絵
背丈より大きいネ


四條畷楠正行の会 第19回例会

日時 平成28年6月14日(火曜日)午後1時30分~午後3時)
場所 教育文化センター1階会議室
対象 会員(13人参加)
 この日、新たに交野市在住の方が入会
 ↓6月例会の風景
6月例会の様子

イベント内容

第19回例会
現地学習「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く」の反省

 この現地学習は、会員から大好評の結果となりました。
 楠正行、終焉の地となったわが町、四條畷ですが、実際に、四條畷の合戦が行われた戦跡を訪ねて歩いたことで、会員一人一人が楠正行をより身近に感じることができたようです。
 また、野崎観音の展望台に上り、昔の河内湾―河内潟―河内湖の変遷と南北朝期に存在した大きな深野池を眼下に想像することによって、飯盛山と深野池の1キロ余りの狭隘な地が戦場となったことの理解が進んだようです。
 扇谷は、この日のために、明治から昭和初期にかけての四條畷の様子を写した写真を多数準備し、また江戸期の旅ガイド版ともいえる河内名所図会などを見ることで、南北朝期、四條畷辺りは民家はまばらにしかなく、すすき野原一面の河内湿原を想像することができたようです。
 以下に、特別参加組の皆さんの感想の一部を紹介します。

○山下弘枝(楠木同族会)
 楠軍と足利軍最初の激突の地から最期の正行公終焉の地まで、実際に自らの足で辿りつつ情景を目の当たりにすることにより、その時々の正行公の決死の思いがひしひしと伝わり、当時と現代とが交錯するかのような、先祖の思いを先祖自身から語りかけられているような非常にリアルな感覚に包まれ、感激至極でございました。

○藤原摂鵬(吟道摂楠流宗家補佐)
 戦跡を歩く今回の企画は大変有難かったです。実感もわき、貴重なお導きを得て、大変感謝しております。天気の加減で最期の場所に寄れなくて残念でした。一番現地としては学びたい場所だったので。(正行の会の)皆さん、歴史等に相当詳しく、熱意を持たれていることにびっくりしました。
・正行が本陣を置いた往生院から野崎までも歩きたい。

○広木双葉(東京都在住)
 四條畷市には何度も参っておりましたが、扇谷様の詳細なご説明を受け、今までになく四條畷の合戦をリアルなものとして感じることができました。会の方、特別参加の皆様も熱心で、素敵な方ばかりで本当に楽しく一日を過ごすことができました。
・東福寺 大阪市住吉区~正行が戦勝祈願したという寺・正成の持仏
・杜本神社 羽曳野市~正行作の正成像

○四條畷市産業観光課職員
 正行兵が戦い進んだ様子が、大河ドラマの合戦シーンのように見えてくるようでした。正行最期の地まで行けなかったのは、とても残念です。説明の際に見せていただいた南遊紀行の挿絵や古い写真などは、往時を想像するのに随分参考になりました。


新田義貞と楠正行
 新田荘の成立
 久安61150 新田氏の祖、源の義国、従三位右近衛大将藤原実能
ふじわらさねよしと路上でトラブル。義国従者、実能邸焼き払い事件勃発、勅勘(天皇からの咎め)によって失脚。下野国足利の別業地(別屋敷)に下る
 当時、このあたりは浅間大噴火1109により、火山灰・軽石・岩による荒廃した大原野。空閑こかんの郷々~開発可能な土地の意、且つ、開発によって耕地化された土地を意味。東西4里、南北5里に広がる扇状地 ~ 新田荘の形成

 義国は、久安6年の失脚を教訓に、「武士の栄達は望まず、地方経営にいそしむことが安楽の道」を家訓として残す
 そして、新田荘の経営を義重に、⇒ 新田家 足利荘を義兼に継がせた ⇒ 足利家 新田荘を継いだ義重は、義国の教えを家訓として代々引き継いだ

鎌倉末期の新田と足利
 新田氏~新田荘とその周辺(八幡荘)を所領とする一豪族
 足利氏~幕府の要職に在り、上総国と三河国の守護職
     加えて、北条得宗家との姻戚関係
 この頃、両氏には勢力・思いとも、雲泥の差!

鎌倉末期の新田一族
 宗家  新田義貞
 岩松家 足利家から婿養子を迎え、幕府の地位は宗家よりも上
     経家は、義貞の鎌倉攻めには参画をし大功を挙げるが、
         その後、足利尊氏に味方して、飛騨国守護職に
         従五位下 兵部大輔
 世良田家 世良田宿 臨済宗・長楽寺の門前町 交通の要衝
   北関東一の商業都市 長楽寺の別当として経済的優位を持って仕切る
 これら両家は、当時、宗家をはるかにしのぐ勢力、財力、地位にあった
 幕府の正成討伐命に窮する新田宗家の事情

*そもそも挙兵当時から、中央・幕府開府を目指すという目的を持っていた尊氏と、家訓を守りながら、鎌倉攻めの功故に、南朝総大将に位置付けられてしまった義貞
 二人の生き方に大きな違いがあった
 

新田義貞の史的評価
 以上の経過を見ると、
 幕府の命を受け、正成討伐軍に参加した義貞は、後醍醐天候から討幕の宣旨を受けて帰国。幕府方の強引な戦費調達に来た徴収使が世良田に入ったのを捕えて公然と幕府に反旗。しかし、この時、義貞に国の政全体の流れは読めておらず父祖の怨念を晴らし、上野の国司を目指す程度のものではなかったか
 鎌倉陥落直後に、盟友であった尊氏と勢力を競う形となり、屈辱的な撤退で、対立激化。義貞、悲劇の選択 北畠顕家との合流ならず。後醍醐天皇の野望に振り回された悲劇の生涯。クライマックス;義貞はずしの尊氏との和睦 その後、帝は花山院幽閉の憂き目。
 ⇒ 義貞は、楠氏のように天下・国家論を持たない実直な東国武士
 新田義貞が目指した最後の望みは、比叡山における後醍醐帝と義貞の妥協の産物として、恒良親王を擁しての北国管領府ではなかったか。
 北国管領府の夢は、義貞が北国に下った後、勢力を盛り返しつつあった中で、藤島城攻防戦の不慮の事故によってあっけなく潰えた。
 が、やがて260年の時が経過して、新田殿と称された家康が幕府をつくり、新田氏復活の物語へと歴史は続くのである。

 次回は、7月12日(火)午後1時30分です。
 「正行と菊池一族」をテーマに学びます。

 
 楠正行通信27号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)




「親子体操でサツマ芋の苗を植えました。」

日時 平成28年5月19日(木曜日)午前11時
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 親子体操参加者
イベント内容 親子体操の時間、教文の畑にサツマ芋の苗を植えました。


芋の苗、たくさん植えたよ
 たくさん植えたよ。
水をあげました
  お水をあげました。
おおきくなあれ
 はやく大きくなーれ。



「四條畷市立教育文化センターに於ける芝生メンテナンス作業手順紹介」

日時 平成28年5月18日(木曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター芝生広場
内容 いきいきとした芝生を維持するために必要な更新作業を行いました。
機械で芝地に穴を明け、古い根っこを除去します。
その後、目砂を散布し、開いた穴を丁寧に埋めて行きます。
肥料を与え、十分な灌水を施し完成です。

エアレーション作業の様子
 エアレーション作業
エアレーション作業の様子
  古い根を取り除き、目砂を散布し
刷り込み後 施肥・灌水
エアレーション作業の様子
 更新作業終了。



「なわてシャンシャン傘踊り」

日時 平成28年5月11日(水曜日)午後1時~午後3時
場所 四條畷市立教育文化センター ホール
対象 市民
イベント内容 鳥取県の伝統芸能 「因幡の傘踊り」を基に、なわてシャンシャン傘踊りと銘打ち、華やかに楽しく踊ります。
講師 谷田 節子氏(宮坂流)

傘踊りの様子
 
傘踊りの様子
  
 


四條畷楠正行の会 第18回例会(現地学習)

日時 平成28年5月11日(火曜日)
場所 現地学習(野崎駅~南野~教育文化センター~中野~雁屋~津野辺~四条畷駅)
対象 会員(11人参加)
特別参加
 広木双葉(東京都在住)
 山下弘枝(湊川神社・楠木同族会)
 久野 潤(名城大学非常勤講師)
 藤原摂鵬(吟道摂楠流宗家補佐)
 西尾佳岐(四條畷市市民生活部長)
 倉永佳寿子(四條畷市産業観光課)
 奥田 優(指定管理者・阪奈エンタープライズ株式会社・代表取締役社長)


イベント内容 現地学習「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く」
JR野崎駅に全員集合


 今月の例会は、現地学習「四條畷の合戦、その戦跡を訪ねて歩く」を実施しました。JR学研都市線「野崎」駅、午前950分集合でしたが、遠くは東京からの広木さんを含め、予定の全員が集まって一日がスタートしました。
 正平3年(134815日の早朝、楠正行は南朝・宮軍の中軍の大将として、1000騎を率い、本陣を構えた六万寺往生院を出陣します。
 そして、この日、足利尊氏が派遣した北朝・高師直の軍は、総勢約4万騎。野崎辺りから飯盛山山麓、中野、岡山にかけて布陣していました。
 今日の現地学習は、四條畷の合戦が行われた正平315日、楠正行がたどった戦跡を訪ねて歩き、当時の様子を少しでも身近に感じようと企画したものです。
 この間、ご縁をいただいた皆様にも呼び掛けたところ、東京(広木)、名古屋(久野)、八幡(山下)、明石(藤原)と各地からご参加いただき、加えて、四條畷市からも市民生活部長(西尾)と産業観光課職員(倉永)の参加を得て野崎駅をスタートしました。


戦端を開いた野崎砦を目指して(第1期)
 野崎駅から真東に歩くこと約5分、野崎観音の下、東高野街道につきました。
 四條畷の合戦は、大きく分けて、5期にわたる衝突を繰り返します。
 その第1期が、この辺りで行われています。
 巳の刻、午前10時ごろ戦端が開かれました。
 東高野街道を北に進んできた正行軍は、野崎砦に待ち構え、山裾に先陣を開いた縣下野の守3200騎と衝突しました。
 この日、野崎観音の展望台に上がり、扇谷は、眼下に河内平野をながめながら、当時の地勢について、資料を片手に説明をしました。
 現在は延々と平野が続いていますが、正平年間の頃は、飯盛山のすそ野約10町(2キロメートル)先に深野池が拡がり、南北が衝突し、激突できる場所は、この飯盛山と深野池の間、狭隘な地を置いて他にはなかったのです。河内平野は、ほぼ全域が河内湿原時代にあって、人馬は自由に移動することができなかったのです。
 2万年前、大陸と陸続きであった河内平野は、縄文時代の縄文海進によって水面が約3メートル上がり、河内湾に変貌を遂げます。その後、淀川(南に流れる)と大和川(1704年の付け替え前、北に流れる)の扇状地として湿地が広がり、上町台地の砂州が偏西風等の影響を受けて北に延び、河内潟となり、河内湖に変貌していきます。
 そして、四條畷の合戦の行われた中世には、新開池と深野池が拡がり、河内は湿原時代の真っただ中でした。
 扇谷は、河内平野の変遷の図を示しながら、河内湾・河内潟・河内湖と9000年の歴史が、楠正行を四條畷の地にいざないました、と語りました。


貞和年中戦死の霊魂、永禄年中に至るも相闘耳に夥し(第2期)
 野崎砦から駆け下りてきた縣下野の守を負傷・敗走させた正行は、東高野街道を北に進みます。
 次に待ち構えていたのは、武田伊豆の守信武1000騎でした。
 太平記には、この時、北条神社下、小松原より、長崎彦九郎ら小旗一揆衆48騎、松木立を掻き分けて駆け下ったとあります。(写真:十念寺手前で)
 加えて、生駒山に布陣していた佐々木道誉3000騎も正行の背後をついてきました。
 この第2期の戦いで、大塚惟正率いる正行の後陣はほぼ全滅させられます。
 現在、十念寺のある場所で、その西に広がる北条2丁目辺りと思います。
 十念寺には版木が残されており、『霊魂永禄年中に至るまで、山野に火を立て、夜な夜な相闘耳(そうとうせいもん)におびただし、・・・』と、この辺りで亡くなった楠兵の霊魂が永禄年中まで残っていたことが記されています。また、北条2丁目辺りは、かつて「古戦田」字地が残る場所です。(写真:十念寺前で撮影する参加者)
 これらのことから、この地で戦端が開かれていたことが分かります。


権現川沿い、南野一帯で繰り広げられた第3期の戦い
 四條畷神社の大鳥居の前を通り、川崎公園に入りました。(写真:川崎公園で貝原益軒の南遊紀行挿絵をさして説明)
 第3期は、この辺り南野周辺に高師直の軍は、3陣に分かれて布陣していました。

 1陣が細川相模の守清氏ら5700騎、第2陣が今川駿河の守範国ら7100騎、第3陣が松田備前の守盛綱ら6100騎、総勢約2万騎です。
 川崎公園で、扇谷は、かつて江戸時代に刊行された貝原益軒の南遊紀行・挿絵を片手に、江戸期、飯盛山方面・東高野街道から見えたものは、深野池(益軒はまんだのいけと記している)、三箇の島、正行の墳、雁屋村で、辺り一面がすすき野原であったと思われると説明しました。

 昭和28年頃の四條畷神社参道の松並木の写真を片手に、四條畷中学校の生徒たちの頭髪とともに、松の木が植えられたことを紹介し、この頃ですら、参道沿いに民家が全く見えないことを説明しました。
 その後、和田賢秀墓に向かいましたが、ここでは、墓石の墓陰に刻まれた歌「昔問えばすすき尾花のあらし吹く」を紹介しながら、四條畷の合戦の頃には、一面にすすき野原が広がっていたことを想像してほしいと説明しました。(写真上:和田賢秀墓の前 写真下:和田賢秀墓の碑陰に刻まれた歌を紹介)
 3期の戦いでは、第三陣の松田次郎左衛門が和田賢秀の薙刀に倒れたこと、また、南次郎左衛門尉が正行の槍隊の前に倒れたことが太平記には記されています。
 この頃になると、正行の本隊は半分を割っていたと思われます。
 正行軍は、権現川沿いのどこか、田のふもとを見つけて、背中を押しあい、兵糧食を摂り、英気を養い、態勢を整えたとあります。高師直が苦虫をつぶす記述が太平記には記されています。


初霜、矢を受け、正行は下馬を決心(第4期)
 この日、教育文化センターで昼食をとりました。(写真:教育文化センターでの昼食前の風景)
 昼食の後、参加者全員が自己紹介をかねて一言づつでしたがそれぞれの楠正行への思いを語りました。
 そして、扇谷から何点かの報告をしました。
 一つは、朱舜水作の楠正行賛148文字を、会員の真木さんが書き下ろしてくれた書の紹介です。1枚の紙に書かれた正行賛文に、一同から、異口同音に「素晴らしい!」の声が上がりました。四條畷楠正行の会の大切な宝にしたいと思います。(写真:真木さんの書いた書を示す扇谷)
 次に、教文コレクションの紹介です。
 教育文化センターでは、扇谷を講師に、楠正行に関わる教養講座を仕掛けていますが、この講演内容を小冊子にまとめ、「教文コレクション」として刊行することになりました。
 そして、第1集として、平成26年度市民教養講座「楠正行の人間像に迫る!」(A4版・48頁・頒布価格500円)を、510日に発刊しました。
 扇谷は、受講者に好評をいただいた内容について、更に広く知っていただくことで、ご批判やご意見をいただき、より内容を高めるとともに、四條畷を市の内外に発信する一つの手段としたい、との思いを伝えました。
 
この日、
11冊を購入いただきました。ありがとうございました。

上山六郎左衛門、師直の偽首に、正行がっくり(第4期)
 午後は、あいにくの雨にたたられスタートしました。
 法務局跡地から四條畷保健所にかけての一帯が、古戦田字地の残る場所です。
 高師直の本陣(約5300騎)は、清滝川を前に、中野この辺に構えていたものと思われます。そして、古戦田字地の地名残るこの辺りで、第4期の衝突があったものと思われます。
 この辺りの様子を理解するため、扇谷が準備した資料は、以下のものでした。
 先ず、かつて総合センターにかかっていた緞帳です。この緞帳には、深野池に浮かぶ船、そして正法寺、雁屋村・南野村が描かれています。東高野街道沿いには一面のすすき野原が広がる様子がうかがえます。
 次は、片山長三画集より、飯盛城と深野池の想像図です。天文年間1736~1741江戸期の三箇・岡山砂教会全盛のころの想像図で、深野池の中に三箇の城、そして飯盛山のふもとに中野の正法寺、雁屋の里、野崎寺が描かれています。この図にも、民家はほとんど描かれていません。
 また、四條畷小学校の校章が菊水であることも紹介しました。
 菊水のマークの中に「畷」の一文字が描かれています。そして、昭和61年(1986)四條畷小学校100周年を記念して、児童全員が校庭で描いた菊水の校章人文字の写真も準備しました。四條畷小学校の校章は、正行ゆかりの地を表すものの一つとして、今も大切に使われています。
 今一つは、河内名所図会の一枚、雁塚です。この辺りは、江戸期には、雁が狩猟できた場所でした。一面に野原・湿地が広がっていたものと思われます。昭和の初め頃まで、雨が降ると舟で往来したと、云われています。この辺り全域に湿地が広がっていたことが想像できます。(写真:河内名所図会の雁塚の写真を片手に説明)
 正行は、高師直本陣に肉薄し、その距離半町(約55メートル)に迫ります。
 この時、高師直の身代わりとなった上山六郎左衛門高元は、高師直の甲冑を身に着け、「武功天下に顕れたる高の武蔵の守師直、此処にあり」と大声で名乗りあげます。賢秀、良円、刑部、行忠、正家ら偽師直を取り囲み落馬させ、正行喉を刺し、「敵将高師直討ち取ったり」と絶叫しますが、偽首と分かり、ぬか喜びする間に後退を余儀なくされます。

正行、強弓を受け、力尽きる(第5期)
 四條畷保健所前を南にくだり、四條畷高校正門につきました。
 ここでは、大正期に撮られた2枚の写真を準備しました。
 1枚は、東側から四條畷高校の正門を撮ったもので、今1枚は大正3年ごろの、当時新しくなった正門から望む飯盛山を撮ったものです。
 四條畷高校の正門から飯盛山ふもとまで、ほとんど民家の建ってない状態であったことが分かります。
 そして、いよいよ第5期に入ります。
 第4期で後退を余儀なくされた正行軍は、この頃、50騎ほどだったと思われます。
 高刑部太夫輔師兼は、「四周に弓矢隊を配置し、正行めがけて一斉に弓を弾く作戦」を献策します。態勢を立て直そうとすすき野原を移動する正行軍を、弓矢隊の中心に据えられた九州の住人、須々木四郎は強弓を射たてます。そして、この時、残兵ことごとく重傷を負うのです。
 正行は、この時、須々木四郎の放った矢で左右の膝頭を三か所、右の頬、左の眼尻を射られます正時も、同じく須々木四郎の放った矢に眉間と喉の脇を射られます
 
ここに、正行、正時、力尽きました。
 現在、小楠公墓所が建つ雁屋の東側に、古戦田字地が残っています。
 おそらく、この辺りが、正行が強弓を受けた場所と思われます。
 扇谷は、この頃強くなった雨の中、小楠公墓所に案内しました。そして、正行が亡くなって約80年後に植えられた2本の若楠が大きく成長し、1本に和して樹齢約600年を迎えたことを紹介しました。
 そして、此処では、河内名所図会の小楠公墓を準備し、説明しました。
 名所図会は、中央、田んぼの真ん中に小楠公墓、そしてその背後に、雁塚、飯盛山が描かれており、江戸期、小楠公墓所の周辺には全く民家がなく、湿地が広がっていた様子を物語っています。(写真右:小楠公墓の楠木の前で 写真中:河内名所図会楠正行墳を手に説明 写真下:参加者全員で記念撮影 本ホームページに使った写真はすべて国府良三さんの作品です)
集合写真 そして、明治11年(1878)、今の石碑が建立されました。
 石碑は、本石4.8m、中台1.2m、下台1.5m、5.4㍍四方で総高さ7.5mもの巨石です。大東市竜間での切り出し・切断に5ヶ月、7キロの運搬に1年5ヶ月を要し、基礎工事(5m四方×深さ4.5m)として、松生杭250本を打ち込み、大石650個と砂礫500駄そして石灰200俵を混ぜ込み固め、建碑に4か月、更に、石碑の書(深さ27ミリ)に4か月と、実に、2年と6か月をかけて、明治11年1月5日~7日、建碑祭が開かれています。
 雨が降る中でしたが、小楠公墓所の前で、集合写真を撮りました。

最期の地、「敵手にかかるな」

 力尽き、矢折れた正行、正時ら楠の兵は、正行の「敵手にかかるな」の叫びとともに、最期の地を求めてさまよったことでしょう。
 その最期の地と言われる場所が大東市に残っています。
 ハラキリ字地の字名残る場所です。
 四條畷神社の祭礼に於いて、この地が御旅所=目的地として巡幸され、神事が行われてきた場所でもあります。御旅所は、地域の人々の心のよりどころとなり、祭神たる正行に親しみを感じる場所でもありました。
 地域の人は「ご休憩所・御旅所」と通称し、明治から昭和20年頃まで、四條畷神社春の大祭4月5日に”御渡りさん”が出御していた土地でもありました。神社を出た一行は、御旅所→楠公墓地→賢秀墓→神社と回ります。昭和35年頃までは、4~5本の樹木に囲まれた場所であったと記録に残っています。今は、開発が進み、その痕跡ははっきりしません。
 なお、この日、雨天のため、現地学習は小楠公墓所から真っすぐ四条畷駅に向かい、この地で解散となりました。

駅前の喫茶店で反省会

 市役所のお二人は、公務の都合、ここで帰られましたが、残る全員が参加しての反省会となりました。
 特別参加の皆さんからも、「現地を歩いて学ぶ機会はめったになく、今日は、大変勉強になりました。また、お誘いください。」等と、お礼の言葉をいただきました。
 会員とも打ち解けてお話しくださり、有意義な現地学習を終えることができました。



 次回は、6月14日(火)午後1時30分です。
 「正行と新田義貞」をテーマに学びます。

 
 楠正行通信26号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



「教文 子ども広場」

日時 平成28年5月5日(木曜日) 10時~12時
場所 四條畷市立教育文化センター ホール・会議室1・会議室2・芝生広場
対象 市民
イベント内容 子ども読書週間にちなみ、絵本の読み聞かせを中心に、体育遊びや工作にゲーム、芝生広場ではスナッグゴルフを楽しみました。


絵本の読み聞かせ
 絵本の読み聞かせと体育遊び
芝生広場でスナッグゴルフを楽しむこどもたち
  芝生広場でスナッグゴルフ
工作の様子
 工作の様子


「教文 おたのしみ会」

日時 平成28年4月27日(水曜日) 10時30分~11時30分
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 子ども読書週間にちなみ、絵本の読み聞かせ3話、エプロンシアター2話と手作りおもちゃ遊びを行いました。


絵本の読み聞かせ
 大型絵本の読み聞かせ
エプロンシアターを見て楽しむ子どもたち
エプロンシアター
手作りおもちゃで遊ぶ子どもたち
 手作りおもちゃ遊び


四條畷楠正行の会 第17回例会

日時 平成28年4月12日(火曜日)午後1時30分~午後3時
場所 教育文化センター1階 会議室






会員 12人出席
今月、新しい会員一人を迎えました。
 今年に入って二人目の方が加わりました。
 桜の季節になり、陽気に誘われて、笑顔で集まった会員が、にこやかな様子で議論できることは大変うれしいものです。(扇谷)

インフォメーション
① 産経新聞朝刊 戦後71年「楠木正成考」特集が始まりました。
  
 第1回 3月28日~4月1日 5回連続シリーズ

② 堺市博物館で企画展「和田一族奮戦記」が開かれています。
   3月12日~5月29日
   4月24日には、学芸員による講座と展示解説があります。
   (予約不要・入場無料。但し、入館料200円必要。)

③ 「人物日本史」渡部正一・育鵬社刊 に楠正成が取り上げられています。





先月のおさらい
 ・楠正行通信25
   
室町新体制の創始者ともいわれる高師直
   足利家執事から幕府の執事へ
   新たに執事施行状の発給で地位確立・実権確保
   ~ 詳しくは楠正行通信25号をご覧ください。
   
今月は、楠正行が受けた教育とはどんな教育であったか、検討しました
正行の師、龍覚坊の教えとは
 久留島武彦著「忠魂と士魂 大楠公と恩師龍覚坊」より
龍覚坊 りゅうかくぼう・ろうかくぼう・ろうがくぼう
俗名和田朝正、和田朝盛の4男 飛騨滝村の生まれ 幼少のころ遍照寺で修業 長じて京都に上がり、比叡山延暦寺で修行ののち、泉涌寺で勉学  その後、観心寺に入り、正成の師に 正成16歳の時、行脚に出、吉野金峯山寺に入山 ここで約10年修行 正中の変の折には、京都大覚寺に入山 再び観心寺に戻り、晩年、正行の師に

袴をたたむことができなければいけないか。たためなくてはならぬ。
 武士に針仕事も必要!
 上手にたためなくてもよい。が、一通り正しい袴のたたみ方はできなくてはならぬ。武士はいついかなる場所へ身を置いても、困らぬ用意が必要なものだ。
 追々に弓矢の道とともに、針仕事も教えるぞ。これも立派な武士になる学問だ。
霜は冷たいか
 冷たいものを冷たいというは自然のこと。
 苦労辛苦はかってでもすべし
 ただ、冷たさに負けるか、負けないかということが問題なのだ。眠たい、食いたい、遊びたい。誰でも皆同じだ。九十九人とともに、眠い時に眠り、食いたい時に食い、遊びたい時に遊んでおれば、九十九人並みの人にしかなれぬ。
 誰でも眠くて眠るときに、我慢して書物を一枚多く読むこと、これが人に将たる人を作るのだ。
 天に雪霜なくば、青松も草に若かず。地に山川なくば、人何ぞ平地を尊ばん。願わくば天に雪霜の多からんことを、願わくば地に山川の繁らんことを。
 雪や霜の降らぬうちは、松も草も一様に青い。だが一度雪霜に遭えば、草は枯れ、松ばかり青々と残り、松の尊さが表れる。山や川があればこそ、人は平地のありがたさを知ることができる、と申す意味だ。
 苦労辛苦はしなければならぬぞ。殊に天は、立派な仕事をさせようと思うものほど、艱難に遭わせて、これを鍛えようとするものだ。
どうすれば、主人の信頼を受けて立派に勤められるか
 人に仕える途とは、人によって違い、場合によっては変わらなければならないときもある。しかし、そこに一本に貫く道があるのだ。それは誠心だ。
一本に貫く道、それは誠心
 誠心によって貫かれていなければ、行いの善い者のまねなど、如何に上手にしたところで猿の技に過ぎない。
 よいか、忘れるでないぞ。
 功名を求めず、利達を願わず、困難に屈せず、誘惑に惑わされず、ただ己の誠心の命ずるままに節義を立てつくすこと、これが真の大丈夫の道だ。
*勅命は絶対のもの。しかし、事実、主上の御為にもならぬ結果を招くと知っていたら、どうするべきか。
 臣道は万代を貫く一本の道だ。その臣道を貫くためならば、生きるもよし、死するもよし。臣道が正成一人の生死によって絶えるとでも思っているのではないか。後に続く者があることを忘れているのではないか。
 死にして生、生にして死、死生一生!
 臣道の大義を貫くためには、死も死にあらず、生も生に非ず、死にして生、生にして死、死生一生じゃ。大義のために死する死は、万代の生に生きる途ではないか。
 我が真言密教の臣道は、弘法大師様の生々世々無限奉公の信念にある。
 ご聖運は、天壌無窮(肉体は必ず亡滅してゆく約束のものであり、心はこれとは正反対に、天壌無窮を約束された永遠なる生命に所属するものだ。)じゃ。
 正成の臣道は、一生限りなのかな。そのようなことはあるまい。

 
正成・正行は龍覚坊から”四恩の教え”を学んだ
 高野山真言宗密門会「四恩の徳を報じる」より
 以下の四恩を、正成・正行の事績と合わせ検証すると、以下のことが言えるのではないか。
 父母の恩は、何よりも正行の冠言葉として使われる「忠孝両全」に現れている。
 国王の恩は、当時の朱子学、言い換えれば、正統な帝=大義名分論に通じるのではないか。
 衆生の恩は、正成が建立した「寄手塚・身方塚」(敵も味方も同じように供養する)、正行の「渡辺橋の美談」(川におぼれる敵兵を救う)にみてとれる。
 三宝の恩は、正成の観心寺建て掛けの塔や建水分神社の移設、正行の訶梨帝母天堂の再建にみてとれる。







 天よりも高く、地よりも厚し。身を粉にし、命を損ずとも、何れの劫にか報ずることを得ん   我々を生み育ててくれるのは父母の恩であり、それは大空よりもなお高く、大地よりもなお厚い。わが身を粉にし、命を失うとも、いつになったらその恩に報いられるか、果ても知れないくらい大なるものである。



父母我を生ずと雖も、若し国王無くんば、強弱相戦い、貴劫奪して身命保ちがたく、財宝何ぞ守らん  しかし、父母が我らを生んでくれたとしても、国王がいなかったら、強者弱者互いに戦い、貴者貧者奪い合って、この身の命は到底保ちがたい。その財宝を守るすべとてないのである。



 衆生我において何の恩徳か有る。吾、是れ無始より以来、死生六道の中に父と為り、子と為る。いずれの生をか受けざらん。いずれの趣にか生ざらん。慧眼を以て之を観れば、一切の衆生は皆是我が親なり。是の故に経にいわく、一切の男子はこれわが父、一切の女人はこれわが母。一切の衆生は皆是我が二親師君なり。所以に衆生の恩もすべからく報酬すべし。  衆生はこの身にとって、なんの恩恵があるか。我々は無始より以来、あらゆる生きとし生けるものが生死を繰り返す業苦の世界において、互いに因縁を結んで父となり、子となる。我々は、これなくして、生を受けることなく、世界にこの身を著わすことはないのである。智慧の眼で之を観るなら、一切の生きとし生けるものは、すべてわが身の親というべきものである。それ故、経典には「すべての男子はわが父、すべての女人はわが母、すべて生あるものはわが両親、師匠、君主であると」
 衆生の恩は、たくさんの人々、生きとし生けるもののお陰であると感謝することである。衆生とは数多の生命ということで、家族はもちろん友人、学友、職場の同僚、その他有縁無縁のたくさんの人々の協力によって仏縁を結び、仏の教えを信じ実践することができた。また人間だけでなく動物・植物・日月星辰等、全宇宙の恵みによって仏に会うことができたと自分を取り巻く森羅万象全体に感謝することである。
 生死の苦しみを抜き、悟りの楽を与えてくれるのは三宝の恩である。この三宝の功徳こそ人知を超えて神秘なるものである。



 
 もし能く生死の苦を断じ、涅槃(ネハン 安楽寂滅の意)の楽を与うるは三宝の徳なり。三宝といえば、一つには仏宝、2つには法宝、3つには僧宝なり。仏宝は則ち一切智智を具して、主上にこの之正路を示す。法宝は則ち難思の功徳を具して、能持者をして世出世の楽を与えしむ。仏と之法とは、是の如きの功徳ありと雖も、もし僧宝なくんば、流通することを得ず。・・・経論を誦伝して、人に智慧を授くる者、皆是僧宝と名づく。   生死の苦しみを抜き、悟りの楽を与えてくれるのは三宝の恩である。この三宝の功徳こそ人知を超えて神秘なるものである。
 仏宝は、すべての智慧の中で最高の智慧を備えていて、生けるものに悟りへの正しい路を示してくれる。法宝は不可思議で神秘的な功徳を具えて、仏宝を守る者に、この世の楽しみ、仏の世界の楽しみを与えさせてくれる。仏と法はこのように多くの功徳あるものであるが、もし僧宝がなかったとしたら、世の中に仏宝が遍(あまね)く流布することはできないのである。経典・論書を講義し、伝えるものを僧宝と名づける。

 次回は、5月10日(火)、現地学習を実施します。
 正平315日、四條畷の合戦は、どのような場所で、どのような戦いを、一日にわたって繰り広げたのか、実際に、戦跡を訪ね歩きます。

 楠正行通信25号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)
 



  ●4月から、活動日を第2火曜日に戻しました。

 教育文化センター市民教養大学「楠正行研究」の開催(第2火曜日)の関係上、例会の開催日を第3火曜日に変更してきましたが、同自主大学が終了しましたので、4月から、例会の開催日を第2火曜日に戻しました。
 なお、開催時間は、午後1時30分から午後3時まで、変更はありません。
 楠正行に関心をお持ちの方、どうぞ、お気軽にお越しください。
 但し、5月例会は、現地学習となりますので、教育文化センターでの例会は開催しません




  ↓ この日の様子


↓ 会員からも活発な意見が続出





教文 親子体操「修了式」

日時 平成28年3月24日 10時
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 親子体操受講者
イベント内容 教文 親子体操最後の日に、卒業製作と修了式を行いました。


工作をするこどもたち
 卒業製作の様子
修了証書を受け取る女の子
修了証書の授与
賞状をもらって記念撮影
 努力賞と皆勤賞をもらったョ

四條畷楠正行の会 第16回例会

日時 平成28年3月15日(火曜日)
場所 教育文化センター1階 会議室
対象 会員
イベント内容 先月のおさらい
 ・楠正行通信23
   南北両朝、五代の天皇に仕え、波瀾万丈の生涯を送った楠正儀
   死んで名を残した正行。生き抜き名を残せなかった正儀。
 ・楠正行通信24
   朱舜水作 楠正行賛文148文字略解文の訂正
   人生自古誰無死 留取丹心照汗靑
   ~ 文天祥の七言律詩「過零丁洋」からの引用
     元に滅ぼされた南宋の状元宰相=義士

文天祥
 21歳の若さで科挙の主席を勝ち取り、南宋時代ずば抜けた能力を持ち官僚宰相に上り詰めた文天祥。

 異民族・征服王朝の元に捕らわれ、屈服そして寝返りを請われるが、頑として聞き入れなかった文天祥。南宋の残兵に降参を呼び掛けるよう説得されるが、その時、断りのために送った詞が「過零丁洋」の七言律詩。
 朱舜水は、南宋の義士文天祥と、南朝の雄、正行を重ね合わせ、この詩の一節を正行賛文に使ったものと思われる。
 詳しくは、正行通信24号をご覧ください。

今月は、高師直について学びました
足利家執事から幕府執事に
 扇谷が準備した資料「高師直・師泰の栄光と没落/楠正行を破った高兄弟の軌跡を追う」(関係年表)と、高氏系図を使って学びました。
 師直の人生は、足利家執事に始まり、建武の政権の中枢にも参画、正成と共に政務にも就き、やがて尊氏の叛旗に従い関東に下る。
 延元元年、九州から西征を開始した尊氏に従い、湊川で正成とも対陣。室町幕府成立とともに、幕府の執事となり、室町新秩序の創始者となって、師直は新しい統治手法『執事執行状』の発給を始める。
 暦応元年、堺浦石津の戦いで北畠顕氏を討ち取った後、石清水八幡宮に総攻撃をかける。この時、師直は、世に悪評高い、八幡宮に火を放つことになるが、実はこの火を放つまでに一か月もの間躊躇する。
 徐々に足利忠義と対立を深める師直。
 特に、南朝との戦時体制から、一定の決着を図り平時体制に入ったこの時期、直義は攻勢をかけ、師直の執事執行状の廃止を通達する。が、師直は従うことなく、発給を続ける。対立はますます先鋭化したものと思われる。
 このような状況下、数年を経て、四條畷の合戦に至る。
 四條畷の合戦の後、師直は大和を経て吉野に攻勢をかけ、師泰は河内・東条で正儀と戦う。
 京都に戻った高兄弟の兄弟の悪行三昧はこの頃の話。
足利直義との対立と確執
 貞和5年、師直は執事職を解任される。そして、足利直義による師直暗殺計画が発覚し、直義邸を訪れていた師直は急ぎ逃げ帰ると、師泰ともども足利将軍御所を取り囲み、直義の引き渡しを要求する。
 尊氏が師直と交渉の結果、直義の引退と関係者の流罪によって和睦。
 師直は、再び執事職に返り咲く。
 観応元年に入り、九州で足利直冬の勢力が猛威を振るうようになり、秋には、尊氏自らが九州に出陣することとなり、師直も従って出陣する。この混乱の間隙をぬって、出家していた直義は京都を脱出、南朝に投下する。
 そして、直義は、その勢いをかって師直・師泰の身柄引き渡しを突き付ける。
 九州に直冬、京都に直義、身の危険を感じた尊氏はその年の年末、急きょ帰京の途に就く。
打出の浜の戦いで直義に敗れ、最期は上杉によって斬殺される
 翌年2月、摂津打出の浜で、尊氏軍と直義軍が激突し、尊氏が敗れる。
 師直、師泰とも、打出の浜の戦いで負傷し、敗れ、降参、出家に決定。
 尊氏は、直義と和睦成立。  尊氏、京都に帰参の途上、兵庫武庫川に差し掛かったところで、師直、師泰を含め一族郎党、上杉能憲によって斬殺される。
 結果、尊氏と直義の二頭政治が復活。同時に、足利幕府の屋台骨を支えてきた『執事職』は廃止される。 
尊氏を軍事力で支え続けた師直と師泰
 足利尊氏とともに生き抜いた高師直と師泰。
 尊氏の戦のほとんどに於いて、その先陣や大将を勤めた二人。
 四條畷の戦いは、南朝の総大将ともいえる楠正行と、足利幕府軍の総大将であった高師直、師泰との一大決戦であった。
 正行が、師直の首を討ち取っておれば、この後の歴史が大きく変わったであろうことは、師直・師泰の立ち位置、戦いぶり、生きざまを見れば容易に想像できる。
 正成、正行の死は、その後、500年を経て、明治維新となって日本の歴史に新たな1ページを切り拓くこととなるが、正行の宿敵、高師直の存在を改めて思い知らされる。 
高一族の守護分国は全国に
 高一族が、いかに勢力を誇っていたか、一族が務めた守護分国を列記してみよう。なお、この出典は、亀田敏和著「高師直」吉川弘文館より。
 師秋―伊勢、師英―山城・佐渡、師冬―伊賀・武蔵、師泰―河内・和泉・尾張・越後・石見・備後・長門、師秀―河内、師直―武蔵・上総、師詮―丹後・但馬、重茂―武蔵、師兼―三河、師秀―因幡・備中
 一時期にすべてを支配下に置いたわけではないが、足利政権基盤をいかに軍事面で支えていたかが伺われる。

 次回は、412日(火)、午後1時30分から「正成・正行が観心寺で学んだ龍覚坊の教えとはいったいどのような教えであったのか」について学ぶ予定です。

 楠正行通信23号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)
 楠正行通信24号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)


 お知らせ   ●4月から、活動日を第2火曜日に戻します

 教育文化センター市民教養大学「楠正行研究」の開催(第2火曜日)の関係上、例会の開催日を第3火曜日に変更してきましたが、同自主大学が終了しましたので、4月から、例会の開催日を第2火曜日に戻します。
 なお、開催時間は、午後1時30分から午後3時まで、変更はありません。
 楠正行に関心をお持ちの方、どうぞ、お気軽にお越しください。
例会の様子   ↓ 資料に基づき説明する扇谷

↓ 楽しい議論が続く



 この例会では数冊の関係書と、資料4点を配布




市民講座「親子で楽しむコンサート

日時 平成27年3月11日(金曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 普段なかなか耳にできない吹奏楽の演奏を、親子で鑑賞しました。
楽曲 ♪ぼくコッシ― ♪アンパンマンたいそう ♪ぼよよん行進曲 ほか
出演はMama’s Wind Orchestra 「LARGO」さん。只今参加メンバー募集中です。

演奏の模様
演奏の様子
生演奏とアンパンマン
    一緒にうたおう~
大観衆
          大観衆!


四條畷楠正行の会 第15回例会

日時 平成28年2月16日(火曜日)
場所 教育文化センター1階 会議室
対象 会員(11人参加)
イベント内容 新しい会員を迎える
 嬉しいことに、久しぶりに新しい仲間を迎えました。
 市内蔀屋本町の女性の方で、「友人と談笑したり、親戚が集まるような機会に、四條畷の歴史を少しでも語れたら、というのが入会の動機です。正行のことはあまり知りませんが…、皆さんよろしくお願いします。」とのことです。
 正行の会としては、正行のことを学ぶと同時に、顕彰もと考えていることから、一人でも多く関心を持って下さることは大歓迎です。
 現在、会員は17名ですが、うち5名の方が休会中ですので、実質12名で活動しています。正行に興味、関心のある方は、ぜひ気軽に覗いてください。毎月第3火曜日の午後1時30分に例会を開いています。飛び込み、冷やかし、大歓迎です。
今月は、正儀について学びました
 扇谷が準備した資料「楠正儀関係年表」を使って学びました。
 この年表のベースは、「楠木氏三代」(井之元春義著・創元社刊)で、その原点となった論文が、同じく井之元春義の奈良文化女子短期大学の紀要、第24号掲載の「史論・楠木正儀(1)‐南北朝期の和睦を中心として-」です。
 扇谷が作成したこの年表をもとに、正儀の生きざま、そして正成・正行との生き方の違い等を学びました。
 四條畷の合戦の後、楠家の棟梁となった正儀は、その後約40年にわたって南北朝の和睦に向けてその生涯を捧げます。
・四條畷の合戦後の東条防衛の戦いの時期
 正行・正時討死後、高師泰は東条に攻めてきます。この時、正儀は楠軍を率いて、約1か月の攻防戦を戦い、東条を守り抜きます。
・和睦への執念

 正儀のその後の仕事は、疲弊しきった南朝軍の立て直しでした。
 正平71352に、南朝方は17年ぶりに京都を回復しますが、それもつかの間、足利義詮に奪い返され、4月には男山八幡の戦いで敗北してしまいます。
 この時の様子を、太平記は「楠(正儀)は父にも似ず兄にも替わりて、少し心延びたる者なりければ、今日より明日と云うばかりにて…」と記していますが、男山に駆けつけかなかった正儀に批判が集中したようです。
 また、正平151360に、正儀は赤坂城を捨て、金剛山に退き、和田正武との間に確執が生まれますが、負け戦には手を出さないという、現実的で、実務家肌の正儀の一面がのぞかれます。
・北朝に下る
 正儀が、後世、正成、正行に比べ評価されなかったのは、おそらくこの一事でしょう。
 和睦を目指す正儀にとって南朝に居場所がなくなるのです。
 正儀を信任していた後村上天皇が崩御し、主戦論の長慶天皇が即位します。また、正儀が足利幕府管領の細川頼之と誼を通じたこと、楠木・和田一族内部の路線対立・正儀の性格と軍略、様々な要因が重なり、正平241369、正儀は北朝に下ります。
 北朝に下った正儀は、その後、数年間にわたって和田正武ら南朝軍に攻められることになります。
 細川頼之は援軍を差し向けようとしますが、北朝軍が動かなかったといわれています。

 そして、管領細川頼之が失脚するに及んで、正儀は、北朝内で孤立を深めていきます。
・再び、南朝に帰参
 弘和21382ごろ、正儀は再び南朝に帰参することになります。
 孤立を深めていた正儀は、足利将軍義満によって和泉国守護職をはく奪され、いよいよ四面楚歌の孤立状態に陥ります。
 一方、南朝では長慶天皇の後亀山天皇への譲位や主戦論の四条隆俊の戦死など、南朝内における和平派優位の状況が生まれます。
 父、正成や兄、正行と同じ血脈と純なる思念を持つ正儀は、南朝衰退が決定的となる中で、その南朝への熱い思いが帰参を促したのではないでしょうか。
・正儀の死?
 しかし、正儀がいつ死んだのかは史料の上から確認はとれません。
 元中3年(13864月に、正儀の活躍を証明する史料が残っています。そして、元中7年(139044日付の二見文書では、正儀の長男、正勝宛てになっていることから、この時点ですでに正儀はこの世にいないものと判断できます。
 おそらく、この数年間の間に亡くなったものと思われます。

五代の天皇に仕え、波乱万丈の生涯をおくった正儀
 40年にわたって、南北両朝、後村上・長慶・後亀山、後光源・後円融の五代の天皇に仕え、波瀾万丈の生涯を送った正儀。
 南朝のため、そして南朝復権と云う義のため、真っすぐに生き、潔く散り、後世に名を残した正成・正行。一方、南朝復権のため、北朝に下ってまで生き抜いたことで、後世に疎んじられた正儀。
 しかし、この親子・兄弟に流れていたのは南朝への熱い思い一筋に流れる血脈と純な思念そのものであった。
 死ぬことで名を残した正行。
 生きぬいたことで名を残せなかった正儀。
 楠木一族に悲哀を思わざるをえません。

※資料提供等

 以下、各資料の提供がありました。
摂楠流開祖 流祖藤原摂楠顕彰碑(写真)真木さんから
②武内涼「吉野太平記」出版案内(新聞記事切抜き)安井さんから
③正成ゆかりの山「金胎寺山」紹介記事(新聞記事切抜き)木村さんから


 次回は、3月15日(火)午後1時30分から、「高師直とその一族と正行」について学ぶ予定です。
 
 楠正行通信22号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



↑ 資料に基づき説明する扇谷


↑ 例会風景


↑ 説明を聞きながら資料に書き込む会員


子ども体験教室 親子体操

日時 平成27年12月3日 ~ 平成28年1月28日
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 おおむね2歳~4歳児と保護者
イベント内容 みんなで跳んだり跳ねたりと、いつも楽しい親子体操です。
ぜひご来場下さい。


ハロウィンの工作をするこどもたち
 ハロウィンの工作
トランポリンで跳ねる子どもたち
みんなでジャンプ!
じょうずに工作できました
 上手にできました。



「実践教室 ヴィーナスフィットネス」

日時 平成27年12月2日 ~ 平成28年1月27日(計7回)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 16歳以上の市民
イベント内容 エアロコリオとコアトレーニング(体幹)、ストレッチを組み合わせたフィットネスでリフレッシュ。良い汗を楽しんでいます。


フィットネスの様子
ストレッチ
フィットネスの様子



「第21回 新春ミニ・コンサート」

日時 平成28年1月24日(日)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 四條畷のコーラスサークルが中心になり、女声四重唱・二重唱・ヴァイオリン演奏ピアノ演奏など楽しいコンサートを行いました。


ヴァイオリン演奏の様子
  ヴァイオリン演奏
二重唱
   二重唱
女声四重唱の様子
  女声四重唱



四條畷楠正行の会 第14回例会

日時 平成28年1月19日(火曜日)
場所 河内長野市 金剛寺&摩尼院 現地学習会
対象 会員(11人参加)
イベント内容 心配された天候だったが、無事出発
 前日からの天気予報では、この冬一番の寒さが報じられ、寒波の到来で近畿地方の中部、南部にも雪情報がもたらされ心配されたが、集合場所のJR四条畷駅には参加予定の全員が顔をそろえ、一同河内長野に向かった
 今回訪れる金剛寺と摩尼院は、南北朝時代、南朝の行在所となった寺院で、金剛寺には、一時、南朝の後村上天皇と北朝の光源・光明・崇光の三上皇が同時に滞在(同座)しており、また、摩尼院は南朝の後村上、長慶、後亀山のそれぞれ天皇が合わせて約20年間、行在所を設けたところ
 南海電車、河内長野駅から光明池行バスに乗って、約20分、天野山バス停で下車すると、眼前に山門がそびえたつ
金剛寺の奥殿は北朝の御座所
 山門をくぐり、金剛寺拝観受付へ。
 天野山金剛寺は、奈良時代に行基が開き、弘法大師が密教の修行をしたと伝わる寺院で、「女人高野・天野行宮」の名で知られ、数多くの国宝・重要文化財がある。
 現在、平成の大修理中で、平成29年に完了予定。
 寺務所の拝観受付で、来訪の主旨を伝え、見学の案内をお願いしたところ、たまたま河内長野市地域文化遺産啓発推進員の尾谷雅比古さんが来ておられ、案内をしていただくこととなった。
 一面の杉苔の中に鶴島、亀島などを配置した枯山水の見事な庭園を右目に見ながら、北朝御座所の「奥殿」に案内いただいた。
 奥殿に掲げられた江戸時代中ごろの金剛寺境内図を前に、金剛寺の伽藍配置や百近い塔頭寺院があった往時の様子を語っていただいたが、これも、この場所が西高野街道、東高野街道等、交通の要衝の位置にあり、京の都と吉野の中間点に位置するため、南北朝期には大変重要な場所であったことが伺えた。
 楠木正成をはじめその一族が、京に向かう起点として、また吉野を守る防波堤として、この金剛寺の防衛に努めたことが想像された。
 しかし、尾谷さんのお話では、南朝の後村上天皇、そして北朝の光源、光明、崇光の三上皇に加え、皇太子直仁親王も同座されたことから、その関係者を含めて金剛寺の守りには相当の労力と経済的負担、更には精神的負担があったのではないか、とのお話だった。
 また、奥殿の廊下奥に、備前焼の大甕(高さ1メートルほど)が陳列されているが、当地方に伝わる天野酒を入れたものとして使われたとか。
 また、奥殿の廊下奥に、備前焼の大甕(高さ1メートルほど)が陳列されているが、当地方に伝わる天野酒を入れたものとして使われたとか。

「宝物殿に残る楠木正成自筆書状
 次に案内されたのが宝物殿。
 宝物殿には、運慶の作と伝わる、重要文化財の「木造大日如来坐像」「木造降三世明王坐像」「木造不動明王坐像」の写真が掲示されていた。本来は金堂に祀られているが、現在、平成の修復中ということもあってか、それぞれ他館に貸し出されているとのこと。特に、大日如来坐像は京都国立博物館で展示されているが、金剛寺に戻ってくるころには「国宝」に指定されるのではないか、とのお話だった。
 宝物殿には、貴重な楠木正成自筆書状(重要文化財)が陳列されている。
 この書状は、後醍醐天皇が隠岐脱出約1か月前に、「関東の凶徒等が金剛寺に乱入する恐れがあるので、しっかり防衛にあたってほしい…。」旨を金剛寺に伝えたもので、その達筆ぶりに、一同感心。

塔頭の一つ、摩尼院は南朝、後村上天皇の行在所
 金剛寺の見学が終わり、昼食をとるころになると、雪が舞い散る事に。
 境内では昼食をとる場所がなく、金剛寺と道路を挟んだ場所に公園があり、その一角で寒さに震えながらの昼食となったが、「こんな寒い日に来て、思い出に残る日となったね。」「貸し切り状態で、ゆっくりと見学できてよかった。」等と、全員が前向きの会話。
 その後、金剛寺の塔頭の一つ、摩尼院を訪れた。
 この摩尼院は、金剛寺中興の祖、阿観上人が伽藍の諸堂を建立した際設けた73の坊舎の一つで、南北朝時代、後村上天皇は大和の賀名生から移り、正平9年から6年間、ここ摩尼院を仮の宮居としたところ。
 そして、足利義詮の時代になって、観心寺に難を避けた後、約20年にわたって長慶、後亀山合わせて三代の天野行宮となった。
 御座所を前に、ストーブを入れて温めていただいた部屋で、庵主さんから摩尼院の歴史等について詳しい説明を受けた後、書院に移動。
 この書院は、慶長年間(15961614)のもので、昭和40年には重要文化財に指定されている。
 庵主さんから、「この書院の棚は、物入れに使うのではなく、膝を曲げて入れ、机代わりに使うものですよ。だから、障子は明かり取りなのです。」との説明に、一同、異口同音に「まあ、知らなかった。」と。

摩尼院の蔵には、子別れの短刀、そして正成の軍旗
 次は、境内奥にある蔵にご案内いただいた。
 蔵の中には、所狭しと多くの寺宝が展示されている。
 しかし、何と言っても、最も目を引いたのが、楠木正成が笠置で後醍醐天皇から賜ったとされる銀鞘龍紋の短刀。
 この短刀は、後、桜井の駅で子別れの際、正成から正行に授けられ、湊川で討ち死にした正成の首級を前に、悲しみのあまり切腹しようとした正行が手にしたと伝わるもの。
 また、私たち四條畷では、正成は「楠木」、正行は「楠」と使い分けているが、摩尼院の太刀の説明書きにも、「楠木正成公」と「楠氏一族」の使い分けを発見。(写真参照)
 安寿さんのお話では、河内長野市教育委員会がこの説明書きを書いたとかで、この使い分けについてはご存じないとのことだった。
 また、壁には、楠木正成が使ったと伝わる軍旗が掲示されている。
 155㎝、横32㎝の旗で、鞣皮に金箔が打たれ、碁盤目の丁寧な縫いとりがなされている。そして、墨痕鮮やかに菊水の紋と、「非理法憲天 正成」の文字が書かれている。
 そして、その横には金剛寺中興の祖、阿観上人の肖像画が掲示されているが、庵主さんの「皆さん。帽子をかぶっているのではないか、と思うぐらい大きな頭でしょう。よっぽど、賢かったのでしょうね。」とのお話に、うなずくことしきりだった。

 こののち、修復中の金堂も見学し、1時間に1本のバスに乗り、帰途についた。
 雪が舞う中での金剛寺、摩尼院の現地学習であったが、それだけに余計感慨も深く、脳裏に刻みこまれる一日となった。
 次回、2月の例会は、16日(火)、楠正儀と正行について学ぶ予定。




 
 楠正行通信21号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)



↑ 金剛寺金堂に通じる楼門


↑ 尾谷さんから、金剛寺の庭の説明を戴く


↑ 慶長年間の書院が残る


↑ 子別れの短刀の説明書きに、「楠木正成」と「楠氏一族」の使い分け


↑ 摩尼院は、庭(左)と廊下一つで御座所の間(右)



↑ 摩尼院の門前で記念撮影


平成27年開催のイベント

「教文 "親子体操でクリスマス工作をしました"」

日時 平成27年12月17日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 親子体操受講の皆さま
イベント内容 楽しいクリスマスを前に、みんなで工作をしました。


クリスマス会の様子
  上手に出来ました


四條畷楠正行の会 第13回例会

日時 平成27年12月15日(火曜日)午後1時30分~午後3時
場所 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室
対象 会員
イベント内容 後醍醐天皇が範とした醍醐天皇、延喜の治とは
 正成、正行父子に大きな影響を与えた後醍醐天皇。
 では、その後醍醐天皇が範とし、目指したとされる醍醐天皇の治、延喜の治とはいったいどのような政治だったのか、勉強しようということになりました。
 まず、文献探しが始まりました。
 後醍醐天皇に関する文献はかなり流布していますが、醍醐天皇に関する文献はほとんど見当たりません。
 そのような中、國史大辞典に載る参考文献の一つ、古代学協会編「延喜天暦時代の研究」(吉川弘文館 昭和
14年刊)を入手しました。
 今月の例会は、この本に載る
3つの論文を読み解きながら、醍醐天皇の治=延喜の治を検証しました

醍醐・村上天皇の時代について
59代 宇多天皇 仁和3887―寛平9897 在位10年 承平元年没    退位後34年の生涯
   寛平の治
   菅原道真の登用
   上皇時代を経て、法王(歴代最初の出家)に
   醍醐天皇に与えた天皇の心得書「寛平御遺誡
(かんぴょうのごゆいかい)
60代 醍醐天皇 寛平9897―延長8930 没 在位33
   延喜の治

   左大臣 藤原時平
   右大臣 菅原道真
   天皇と時平による策謀? 延喜元年901 道真、大宰府遠流
     時平は、関白にはならなかったが・・・
     39歳時平、21歳皇太子、5歳皇太孫~早死に
     → 時平死後 道真を右大臣に復位
            忠平、摂政に
       930年 清涼殿に落雷の大惨事
   延喜の治と云われる国家的事業とは
    *荘園整理令

    法令集「延喜格式」の撰進
    正史「日本三大実録」の編纂
    「古今和歌集」の編纂を紀貫之に命じる
61代 朱雀天皇 延長8930―天慶9946 天暦6952
          仁和寺で没 在位16年(8歳~24歳)
    8歳で即位 宇多法王の影響力残る
    摂政 藤原忠平(時平の弟)
     ~ 摂関政治の基礎を構築≒律令制の解体進む!
     承平5935 関東~平将門の乱
           瀬戸~藤原澄友挙兵
      ~ 承平天慶の乱
     承平7937 富士山噴火他・・・道真の祟り?
62代 村上天皇 天慶9946―康保4967 在位21
   天暦の治
   関白 藤原忠平 天暦3949 没
   → 天皇親政
      左大臣 藤原実頼
      右大臣 藤原師輔909960)~忠平の子
           子供たちの代で摂関家嫡流になる
   *倹約の奨励
   *歌集「後撰集」の編纂を命ず
    男女19人の子
    具平親王の末裔が村上源氏として、後の宮廷政治に台頭
     → この一人に北畠親房がいる
「宇多上皇の院と国政」目崎徳衛論文より
 
寛平期:皇室権力の強化が図られた最後の時期
      → 延喜天暦の治、聖代はその幻想に過ぎない!
 律令体制=天皇の個性を抑制する官僚機構による政
  → 律令体制の弛緩化に宇多上皇の強烈な宮廷主義と文化主義的意欲が加わった政=延喜天暦の政治~いわば体制の枠からはみ出させた
 34年の長きにわたる宇多上皇の生活を徴視的に眺めると
 藤原氏の権門化 そして
 皇室における権門化の兆候 が明らかに認められる。 
 そして、宇多上皇の個性によって著しく促進されることに
 宇多上皇の国政への関与
  ①譲位より道真左遷まで 901 頗る積極的に国政に関与した時期 
   真を筆頭に多くの腹心を置き、彼らは朝廷における上皇の代理人の役割
を演じた
  ②道真左遷から時平死去までの時期 909
    宇多上皇が仁和寺に籠り、ひたすら仏道修行に専念した時期
    国政への影響力はほとんど絶たれた
  ③時平死後より醍醐天皇崩御までの時期
   忠平を媒介者として宇多上皇と朝廷の関係は至極温和であった
   直接間接に上皇自身の信仰や院の経営に関係する発言はあるものの、その効力に限界があるもので、第1期の皇位継承等まで含めて国政全般を遠隔操作しようとした強大な権力とは全く異質であったといえる
   典型的な院宮権門的活動(今風に言えば圧力団体的活動)に他ならなかった
  ④醍醐天皇崩御より宇多上皇崩御までの時期 930931

   醍醐天皇崩御後、10か月間、宇多上皇は頗る活発に国政を指揮した
  1)醍醐天皇葬送に関する指示
  2)斎王入京の指示
  3)除目延引の報告
  4)諸寺別当補任についての報告
  5)府生・土者についての指示 等
  ~ 上皇はしきりに消息を遣して摂政忠平に国政に関する指示を与えた
    そして、忠平は忠実に上皇の意を体した
結論

醍醐天皇と摂政忠平の存在にもかかわらず、これを駆使するより以上の権威として宇多上皇が存在したことが、延喜の治の実態
在位の天皇の権威を解体に導く契機としての太政天皇の存在

~摂関政治の性格を考える際にも想起すべき事である
「所謂『延喜天暦聖代説』の成立」林陸朗論文より
 この二代の治世は、後世、称賛されるほどの顕著な政治の実は挙げていない
具体には、
 ①政治の形式化
 ②政令の不徹底
 ③治安の紊乱(びんらん)
 ④民力の疲弊
 ~ 律令体制の解体・国家統制力の弛緩

延喜天暦の治
 = 儒教的政治思想の観念上の所産
 ある時期の、ある人による 特定の視点による作為的な理想化
 延喜天暦の治は、摂関政治と対立する概念ではない
 延喜天暦聖代説は、学者文人の間に唱えられ始めた
 その文化的事績から、詩文礼楽が重んじられ、文運が興隆した世として理想化されたもの
 → 延喜天暦聖代説は、学者文人層の処世術・昇進術から出た観念
 この事を一層展開したのが大江匡衛(おおえのまさひら)
 大江は、一生、自己の栄達・江家の繁栄を切望し続け、主張し続けた
 延喜天暦聖代説を表現した文人たちの申状
  天禄4973 藤原篤茂の申状 ~ 文人 従五位下
  天元3980 源順(みなもとのしたごう)の申状
         ~倭名類聚抄(日本最初の辞典)の作者

         一流の学者文人 従五位下
  正暦4993 大江匡衛の申状
  長徳2996 大江匡衛の申状
  長徳3997 源為憲の申状 ~ 代表的文人
                 源順とほぼ同様の申状
  長徳3年997 大江匡衛の申状
「延喜・天暦の政治」 戸田秀典論文より
 
5世紀ごろの天皇の統治権
  ①神々に対する祭祀権
  ②国・地方官に対する任命権
  ③栄典の授与
  ④諸氏族に対する租税の賦課権
  ⑤大陸半島との外交大権
  ⑥兵力を動員しうる権限
  ⑦
諸氏族に対する裁判権 etc


 今と違う事=立法措置を欠いていて、その中間の橋渡しをする律令制度
 律令制
 本来、天皇が毎日、大極殿に出御し、「朝政」を本義とした
  しかし、「平座」(天皇が出御せず、宣揚殿で行う)が普通に
   結果、代行政治が進み、天皇中心から朝臣本位に転ずる
   しかし、その官政すら衰えて、「外記政」が盛行する
    → 外記政とは、
    官政の略儀で、大臣以下が外記庁において政を聴く法式
   この外記政すら、平安中期に、等閑
   具体には
  ①構成員の遅参、欠席が多い
  ②公卿等の無届欠勤
  ③大切な行事の遅延 等
 → 延喜天暦の治は、文運の隆盛と朝儀の振作にほかならず、
    本来の政治は弛廃!
  ~ 摂関政治の側から言えば、この間
  藤氏の野望は消滅したのではなく、一層強力な後期摂関政治を準備していた時期と見ることができる

 次回は119日、現地学習を行います。
 行先は、河内長野市の摩尼院と金剛寺です。
 摩尼院は、金剛寺の塔頭の一つで、南北朝時代、賀名生の地から移られた後、村上天皇が6年間、仮の宮を置かれたところです。
 金剛寺は、南北朝の争乱期、後村上天皇が食堂を正殿とされた一方、北朝の光源・光明・崇高の三上皇も御座所とされたため、南北両朝が同座することとなったところです。
 この2寺には、今も、楠家ゆかりの品が多く残ります。
 
 楠正行通信20号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)


「教文 "クリスマス会"」

日時 平成27年12月4日(金)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 教文で少し早めのクリスマス会を開きました。
ツリーへの飾り付けや、人形劇の上演、サンタさんからのプレゼントなど、大変楽しい催しとなりました。

クリスマス会の様子
  お名前呼びますョ はぁーい!
人形劇
   楽しい人形劇
クリスマスツリー
  教文の Big クリスマスツリー


「教文 親子体操で石焼き芋をつくろう!」

日時 平成27年11月19日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生広場
対象 市民
イベント内容 教文の大きな窯で石焼き芋をつくりました。
お芋を洗ってアルミホィールに包んで名前を書きました。
さあ、おいしく出来ました。

焼き芋の様子
 熱いから気をつけてね
焼き芋に名前を書きました
   名前を書きました
焼けたかな
 焼けたかな?


四條畷楠正行の会 第12回例会

日時 平成27年11月17日(火曜日)午後1時30分~午後3時
場所 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室
対象 会員
イベント内容 頼山陽、「日本外史」で足利氏をこき下ろし
 10月例会では、正行と足利尊氏の関わりについて勉強しました。
 
江戸期のベストセラーといわれる頼山陽の「日本外史」。
 鎌倉時代から江戸期に至る武士の歴史を、頼山陽の目線、即ち徹底した「名分論」で一刀両断のもとに切り刻んだ表現で書かれています。そこには、足利氏は源氏よりもタチが悪いし、罪が重い、と書いています。
 建武の中興を横取りした足利尊氏に正義はない、と断罪しています。
 正行はこの尊氏と全面対峙し、正成の遺訓に忠実に生きようとしたもので、正行の悲哀、無念を改めて感じます。
「墓」と「塚」の違い
 
宝筐院に並び立つ正行の首塚と義詮の墓。
 塚と墓はどう違うのか。全員に宿題となっていましたが、数人から報告があり、「塚」は目印で土を盛ったところ、「墓」は遺体や遺骨を葬ってあるところ、どちらかといえば、塚が広義の解釈、墓は狭義の解釈となるのではないか、ということになりました。
 國史大辞典によると、「首塚」は、「戦死者の首や処刑者の首などを埋めた塚」とありました。
 宝筐院に並び立つ二人の墓も、「墓」と「塚」の区別が残されていることに、いまさらながらに正行の置かれた立場を感じさせられます。並び立ってはいても、扱いは、まったく違うのです。

今月のテーマは、「楠正行と細川顕氏」です。
 
細川顕氏は、正平29月、藤井寺の戦いにおいて、また同年11月、住吉天王寺の戦いにおいて、正行に敗れ、河内・和泉の守護を罷免されます。しかし、義に生きた正行は四條畷に散りますが、家名のために生きた顕氏は、その後足利直義に依ったり、足利尊氏に依ったりと処世術を使いながら、正平74月、男山に入った後村上帝攻めでは幕府軍の総大将となって陥れています。忠孝、そして己が信じる義を貫き、23歳の若さで命を絶った正行。一方、その正行に2度も大敗しながら、生きながらえ、逆に家名を挙げる功名も成し遂げた細川顕氏。そして、その末裔は肥後の国熊本藩主として江戸期は外様雄藩として明治維新に至り、平成の世には内閣総理大臣を輩出した細川家です。改めて、楠一族が歴史に果たした役割、刹那に生きた様を思わざるを得ません
 資料 「細川氏」はコチラ。(PDF)
 正平29月、藤井寺の戦いにおいて、また同年11月、住吉天王寺の戦いにおいて、正行に敗れ、河内・和泉の守護を罷免されます。しかし、義に生きた正行は四條畷に散りますが、家名のために生きた顕氏は、その後足利直義に依ったり、足利尊氏に依ったりと処世術を使いながら、正平74月、男山に入った後村上帝攻めでは幕府軍の総大将となって陥れています。忠孝、そして己が信じる義を貫き、23歳の若さで命を絶った正行。一方、その正行に2度も大敗しながら、生きながらえ、逆に家名を挙げる功名も成し遂げた細川顕氏。そして、その末裔は肥後の国熊本藩主として江戸期は外様雄藩として明治維新に至り、平成の世には内閣総理大臣を輩出した細川家です。改めて、楠一族が歴史に果たした役割、刹那に生きた様を思わざるを得ません。
朱舜水先生終焉の地(朱舜水記念碑)訪問報告
 会員の国府さんご夫妻が東京に行かれた折、東京大学農学部構内にある朱舜水先生終焉の地を訪れてこられました。
 朱舜水は、水戸家、江戸中屋敷で
17年余りを過ごしました。江戸中屋敷は現在の東京大学農学部構内の南東側にあったとされています。また、すぐ近くには加賀・前田藩の江戸屋敷もあったようで、朱舜水を中心に水戸藩・加賀藩の儒臣者らが行き交いした光景が浮かんできます。
 ↓「朱舜水先生終焉の地」碑の脇に立つ現地説明版(国府撮影
 朱舜水記念碑、説明版
飯盛山山頂に立つ小楠公像
 会員の安井さんから「飯盛山山頂に立つ小楠公像と黒岩淡哉」の資料を提供いただきました。
 資料によると大要以下の通りです。
 昭和
101935楠正行(小楠公)の銅像建立の機運高まり、小楠公会が設立されます。
 建立の経費は、北河内郡内の小学校児童約
2万人による「1日1銭献金」や北河内郡以外の小学校や中学校の児童・生徒、教員、府民有志ら延べ22万人から総額1596222銭が寄せられます。
 黒岩淡哉に製作が依頼され、銅像の原型が完成したのは、昭和
1219372月でした。銅像は、正行が四條畷の戦いへの出陣に際し、吉野山如意輪寺の板戸に辞世の句を認め、その筆跡を見つめる姿を写したもので、高さ12尺(一説には13尺とも:約360cm~4m)、総重量約600貫(約2250kg)です。
 正行像は、
2台の牛車を使い、毎日30人余りの作業員と郡内の各小学校の児童50人ずつが作業に従事し、ウインチでジリジリと少しずつ引き上げました。
 礎石の下には日蓮宗楠公庵尼僧(伊藤妙信尼)の法華経の写経(八万余文字)の一部が納入され、昭和
12923日、除幕式が行われました。
 しかし、戦争が激化する中、昭和
181943に台座を残して銅像は回収されます。
 現在立っている銅像は、昭和
471972に再建されたものです。
 なお、昭和
581983にはJR四条畷駅にも小楠公像が寄贈されました。また、昭和421967には、小楠公像のミニチュア像が四條畷高校同窓会に寄贈されています。
 ↓第12回例会風景
例会風景

 次回は、12月15日。
「醍醐天皇と村上天皇」について学ぶ予定です。
 

 楠正行通信19号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)


市民教養講座「楠正行研究」第1回講座

日時 平成27年11月10日(火)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
イベント内容
平成27年11月から平成28年3月まで、毎月1回(第2火曜日)開講。
今回は、その第1回目の講座を開講しました。。

詳しい内容は、画面左の 市民教養大学「楠正行研究」ロゴをクリック!

楠正行研究受講の様子
 36名の受講者が出席
講師の扇谷氏
   講師の扇谷氏



「教文 親子体操で芋掘りをしよう」

日時 平成27年10月15日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生広場
対象 市民
イベント内容 教文の裏庭に薩摩芋の苗を植えたのは5月でした。みんなでお水を与え、大きくなるよう育てました。さあ、いよいよ収穫です。


芋掘りの様子
 芋掘りの様子
たくさん出てきました
   たくさん出てきました。
じょうずに掘れました
 じょうずに掘れました。


四條畷楠正行の会 第11回例会

日時 平成27年10月13日(火曜日)午後1時30分~午後3時
場所 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室
対象 会員
イベント内容 9月20日、サークル展に出展(反省) 今月の例会は、9月に出展した教育文化センターサークル展の反省から始まりました。
 
会場には、「楠正行の会」と大書きしたパネルに、過去に発行した「楠正行通信」、「楠木正成賛文」(朱舜水作・嗚呼忠臣楠子之墓碑陰の拓本コピー)、「楠正行賛文」(舜水先生文集・水戸本コピー)、「四條畷の合戦の経過と想定図」「例会風景」「現地学習の様子」等を掲示しました。
 
30名近くの入場者があり、関心を寄せる市民も多くあり、正行通信を配布し、参加を呼びかけました。
 反省では、畳の間(和室)よりも廊下等(土足のまま)の方が見てもらいやすいのではないか、などの意見が出ました。


 会場の展示の様子は、次の写真の通りです。



サークル展

人物研究は足利尊氏
 
夢窓疎石の尊氏論を議論しました。
 夢窓疎石は、足利尊氏の三徳と称して、①畏怖の心がない、②慈悲深く多くの敵を許した、③心が広く物惜しみしない、と評しています。
 このことは、裏返せば、足利尊氏は決断力が乏しく、気が弱くて甘い人、分かりにくい行動が多い、野放図で締まりがなく、包容力のある性格、とでもいえるのでしょうか。
 しかし、建武の新政を横取りしたのが足利尊氏であり、尊氏は生涯にわたって後醍醐帝を代表する建武の新政の立役者に引け目を感じていたのではないでしょうか。
 足利尊氏は、1336817日、幕府樹立後すぐに、自分の後生と弟直義の果報を願って、願文を清水寺に収めています。此の辺の行動にも、分かりにくい一面をのぞかせています。
11月10日開講の「市民教養大学」の案内
 
今回の講座は、江戸期、太平記読みや各藩の儒臣らのネットワークを通じて正成が再評価された歴史的背景を検証し、明治維新の導火線・起爆剤となった流れを明らかにします。
 今まで、楠木正成、正行に焦点を当て、南北朝時代から明治維新につながる歴史を検証する、ということは行われていなかったのではないでしょうか。
 今回の講座の視点そのものが大変新鮮味のある内容となります。
 加賀
藩主前田綱紀が楠公父子訣別図を描かせた背景、更には水戸藩主徳川光圀が嗚呼忠臣楠子之墓を建立した背景を探り、正成、正行の果たした役割を分析します。
 
乞う、ご期待!
例会開催日を11月から第3火曜日に変更します
 
11月から、例会の開催曜日を第2火曜日から第3火曜日に変更します。
 また、年に
2回程度の現地学習を行うことを決め、当面、1月に実施することとなりました。
 候補地は、河内長野金剛寺と摩尼院です。

 ↓10月例会風景
例会の様子
 

 楠正行通信18号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)


「教文でスナッグゴルフをしよう」

日時 平成27年10月4日(日)
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生広場
対象 市民
イベント内容 スポーツの秋。秋晴れの中、芝生広場でスナッグゴルフを楽しみました。


スナッグゴルフ
 さぁアドレス中です
スナッグゴルフ
狙いを定めて~
スナッグゴルフ用具
 用具紹介



教文 第23回教文利用サークル合同サークル展

日時 平成27年9月20日(日曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 全館
対象 市民
イベント内容 教育文化センターで活動されているサークルが、作品展示・舞台発表に分かれ、日頃の成果を発表しました。
コーラスサークルの皆さん
コーラスサークルの発表
木彫りサークルの展示作品
木彫りサークルの展示
水墨画サークルの展示作品
水墨画サークルの展示
絹布絵の展示作品
絹布絵の展示
はじめてのお絵かき
はじめてのお絵かき
天の川にて
天の川にて


教文 みんなの運動会

日時 平成27年9月19日(土曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生ひろば
対象 市民
イベント内容 教文の芝生ひろばで、楽しい運動会を開催しました。
かけっこや、玉入れ、障害物競走など、たのしい1日でした。
芝生広場でたのしい運動会
楽しい運動会
障害物競走
じょうずに渡れました。



四條畷楠正行の会 第10回例会

日時 平成27年9月8日(火曜日)午後1時30分~午後3時
場所 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室
対象 会員
イベント内容 代表、四條畷市詩吟連盟主催吟詠大会に出席、講演
 9月例会では、8月30日の四條畷市詩吟連盟主催第53回吟詠大会に招待を受け、講演を行った扇谷から、詩吟の世界でも小楠公を含む楠関係の吟詩が多くあることなどを紹介しました。そのうち、4題について楠正行通信17号に掲載しました。
 今月取り上げたテーマの「楠正行と黙庵禅師」については、残っている史料が少ない中で、黙庵禅師が京都嵯峨野の宝筐院と東大阪、河内往生院の2か所の正行墓に関わっていることについて検討しました。
 残っている伝承によると、黙庵禅師は、正行から後事を託されていたとして、宝筐院には正行の首級を、また往生院には正行の遺骸(胴)をそれぞれ葬ったとされています。
 後醍醐天皇そして足利尊氏とも深い関係にあった夢窓礎石の高弟であった黙庵禅師と観心寺の龍覚坊を通して交誼をもったと思われる正行は、黙庵禅師を通じて、京の足利方とのパイプを築いたものと思われます。
教育文化センター合同サークル展に出展
 9月20日に開催される同展に四條畷楠正行の会も出展いたします。

 主な展示内容は、楠正行通信(第1号~第17号)、朱舜水作楠正成賛文(湊川神社墓陰拓本のコピー)、朱舜水作楠正行賛文(今年3月に発見・原典コピー)、四條畷の合戦~激闘の6時間、四條畷の合戦想定図、現地学習風景等の予定です。
例会開催日を11月から第3火曜日に変更します
 10月例会は、13日(第2火曜日)、午後1時30分より、「楠正行と足利尊氏」について勉強します。 


 楠正行通信17号はコチラよりご覧いただけます。(PDF)

例会の様子
例会の様子



教文 あそびの広場

日時 平成27年8月29日
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 大学生25名が指導者になり、手遊び・サーキット遊び・ボーリング遊び・水遊び・英語遊び・紙芝居など楽しく遊びました。



芝生でプール遊び
  スプリンクラーとプール遊び

楽しくサーキット遊び
 楽しくサーキット遊び



教文 花火大会

日時 平成27年8月26日
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 教育文化センターの芝生広場で花火大会を行いました。
噴き出し花火を中心に仕掛け花火、おもしろ花火、打ち上げ花火と楽しいひと時でした。



噴き出し花火
盛り上がりました。  

仕掛け花火はナイアガラの滝
  仕掛け花火は、ナイアガラの滝。



四條畷楠正行の会 例会

日時 平成27年8月 例会はお休み
場所
対象
イベント内容  8月の例会はお休みにしました。
 7月の例会では、朱舜水が正行像賛を残した背景を確認しました今月、例会は開いていませんが、扇谷が「楠正行像賛の成立の過程と歴史的背景」をまとめましたので、そのことを踏まえて楠正行通信16号を発行しました。
 九州、柳川の儒学者・安東省菴が誰よりも先に正成を評価したこと、そして、水戸藩徳川光圀、加賀藩前田綱紀と朱舜水、安東省菴、貝原益軒、木下順庵等を結ぶネットワークによって、南朝正統を明確にするとともに、朱舜水が楠公父子賛文を残した経過が見て取れます。

 「楠正行楠正成・正行像賛の成立の過程と歴史的背景」(PDF)


「楠正行通信16号」はコチラ(PDF)



教文 子どもの体験教室 夏休み子どものトールペインティング!

日時 平成27年8月7日
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 木製の小物入れに筆や綿棒、爪楊枝などを使い、ドライヤーで乾かせながら、順番
に着色していきました。



トールペインティング製作中
上手に制作中

きれいに出来ました
きれいに出来上がりました。



教文 親子体操でプールに入ろう!

日時 平成27年7月30日
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 親子体操参加者
イベント内容 暑い時期に水遊びをしました。
青い芝生も喜んでいる様子です。



水遊び
     

水遊び
     



体験教室 ヴィーナスフィットネス

日時 平成27年6月3日 ~ 平成27年7月22日
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 16歳以上の市民
イベント内容 エアロコリオとコアトレーニング(体幹)、ストレッチを組み合わせたフィットネスです。
6月3日~7月22日、計8回開催いたしました。


ビーナスフィットネス
     日頃のストレスを発散し、
        気分もリフレッシュ!




「教文 夏のつどい」

日時 平成27年7月17日(金曜日)午後4時~午後8時
場所 四條畷市立教育文化センター 全館
対象 市民
イベント内容 ダンス発表チーム、ROV・チームS・チームK・TWINK・JJKIDS・サグラブ・PEPINE・Macuryなど多数出演しカッコいいダンスを披露しました。模擬店に於いては、似顔絵、クジ引き、ネイルアート、段ボール迷路など楽しい集いとなりました。




四條畷楠正行の会 第9回例会「朱舜水正行像賛を原典に繙く」

日時 平成27年7月14日(火曜日)午後1時30分~午後3時
場所 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室
対象 会員
イベント内容  四條畷楠正行の会 第9回例会 「朱舜水正行像賛を原典に繙く」
 今月は、会場を1階から2階のホールに移して開きました。広々とした会場で、開放的な気分で始まりました。そして、今回新たな会員が加わりました。欠席者もありますが、会員が一人二人と増えていることはうれしい限りです。
 先月例会のおさらいは、現地学習で訪れた湊川神社に残る墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」裏面の朱舜水作正成公賛文や、太平記に残る正成、正行の件等について再確認しました。正行通信第14号、第15号に掲載しています。
 そして、産経新聞社が平成13年に発刊した「親と子の日本史」は、歴史上有名な親と子が織りなす日本史をまとめたものですが、その最初に「楠木正成と正行」が取り上げられていることを紹介しました。改めて、正成と正行は日本を代表する親子であることを再認識しました。因みに、2番目以降は、「和泉式部と小式部」「親鸞と善鸞」「伊達政宗と秀宗」「藤原為時と紫式部」「観阿弥と世阿弥」…と続いています。

 また、昨年度から副読本として四條畷市内の小学生(3年生全員)に配布された「わたしたちの四條畷」の歴史編に、「楠正行と四條畷の合戦」が掲載されていることも紹介しました。
 現在、小学校の教科書には正行は載っていませんが、これで、四條畷の子ども達も、全員が楠正行の事を知るようになるでしょう。まず、子ども達に教えなければ、何も伝わりません。一歩前進です。
       朱舜水作「楠正行像賛」の発信を申し合わせ
 本日の例会ですが、「朱舜水作、楠正行像賛を原典に繙く」と題し、「稲葉君山編 朱舜水全集」(稲葉本)、「安東省菴 三忠傳」、「徳川光圀輯 舜水先生文集」(水戸本)の3つの原典の比較・検証作業をしました。
 そして、朱舜水が正行像賛を残した背景として、加賀藩主の前田綱紀公が狩野探幽に楠公父子訣別図を書かせるに当たり、その賛文を朱舜水に依頼したことがきっかけで、明から来た朱舜水が安東省菴に楠公の伝を書かせ、それを百読し、自身が楠公父子にほれ込み、正成像賛三首、正行像賛一首を作ったこと、を確認。そのうちの一首が楠公父子訣別図に賛文として載せられ、その賛文を、徳川光圀公が湊川に建立した「嗚呼忠臣楠子之墓」墓碑の裏面に刻んだことで、広く後世に伝わったことを、合わせて確認しました。
 四條畷楠正行の会としては、朱舜水が、世に広く知られる楠正成像賛以外に、正行像賛を残していたことを踏まえ、この正行像賛を広く世に伝えることを申し合わせました。そして合わせて、3つの原典の内、正徳5年(1715)、京兆書舗柳枝軒刊「舜水先生文集」徳川光圀輯、いわゆる水戸本に掲載された楠木正行像賛の148文字からなる文章を、市内外に向けて発信することを確認しました。
          9月の教文センターサークル展に出展決定! 
 その第一弾として、920日に開催される「教育文化センター・サークル展」に、展示コーナーを出展することとし、楠正行像賛も展示予定です。
 このホームページをご覧の方も、ぜひ、920日(日)に四條畷市立教育文化センターで開催される同展にお越しください。私たちの会の活動の紹介、そして湊川神社「嗚呼忠臣楠子之墓」裏面の楠正成像賛の拓本(コピー)と楠正行像賛の水戸本(コピー)を展示予定です。
 「楠正行像賛の原典(コピー)」


楠正行通信14号、15号はコチラ

例会の様子
2階のホールで開いた例会の様子



「教文 親子体操教室」で「おり姫さんと彦星さん」を作りました。

日時 平成27年6月25日
場所 四條畷市立教育文化センター ホール
対象 市民
イベント内容 教文体操の後、七夕にちなんだ作品を作りました。
教文のホールに展示しています。
ご家庭でも楽しんで下さい。

たなばたさんの絵
笹飾りを作りました
おりひめさんの絵
願い事を書きました
たなばたさんの絵
上手にできました○
おりひめさんの絵
天の川にて



四條畷楠正行の会 第8回例会「神戸・湊川神社現地学習」

日時 平成27年6月9日(火曜日)
場所 湊川神社現地学習(神戸市中央区多門通り3-1-1)
対象 会員
イベント内容  今月は、会発足後、初めての現地学習を行いました。訪れる場所は、楠木正成を祀る湊川神社です。
 会員11名は、JR四条畷駅に集合の上、四条畷駅始発の各駅停車で神戸市駅に向かい、車中はさながら遠足気分で話に花が咲きました
 湊川神社につきますと、宝物殿主任専門員・学芸員の岡村光浩権禰宜が出迎えてくださり、正式参拝をさせていただきました

 現在の社殿は、戦災により焼失したものを、昭和27年に復興された権現造に似た新しい神社建築様式(鉄筋コンクリート造り)で建てられたもので、拝殿には全国の著明画家により奉納された花鳥風月の天上絵が描かれています。
 正式参拝は、修祓の儀を受けた後、宮司が祝詞を奏上され、巫女による神楽の舞の奉納に続いて、玉串拝礼、そして最後は直会と、緊張感漂う厳かな雰囲気の中で執り行われました。

 正式参拝後、岡村権禰宜の案内で宝物殿に入りました。
 最初に、ジオラマで見る「大楠公御一代記」の説明を受け、その後、昭和10年、大楠公600年祭にあたって奉納された横山大観の力作「大楠公像」や大楠公真筆で楷書で書かれた「法華経奥書」(重要文化財)、更には大楠公着用と伝わる「段威腹巻」(重要文化財)等、数々の宝物を見学させていただきました。
 続いて、大楠公御墓所(国指定文化財史蹟)にご案内いただきました。

 この碑石は、元禄5年(1692)、徳川光圀が建立したもので、表面には徳川光圀による「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字が描かれ、裏面には、明の遺臣朱舜水による楠木正成像賛文が岡村元春の書によって刻まれています。
 この墓碑は三層からなり、上段の黒っぽい石は和泉石(大阪)、中段の白い石は白川石(京都)、下段の黄色っぽい石は御影石(神戸)と、楠木正成の送った一生(河内に生まれ、建武の新政で京に上り、最後、湊川・神戸に散った)を表したものではないか、との岡村権禰宜の説明に一同感心しきりでした。
 また、上段の碑石の下にある中段の石は、亀に似た贔屓(ひいき)の姿を型どったもので、この贔屓と云う動物は、重たいものを持つのが好きな動物といわれており、上段の碑石を未来永劫ずーっと支え続けてほしいとの願いを込めたものではないか、とのお話でした。

 徳川光圀が建立された楠木正成の墓碑にこれだけの思いが込められていることを知り、楠親子の生きざまに学び、後世に引き継ごうとの強い思いを感じました。
 その後、社務所の一室をお借りして昼食を取らせていただき、例会も開催させていただきました。
 そして、最後に、楠木正成戦没の地「殉節地」(国指定文化財史蹟)を訪れました。
 境内西北隅に位置する殉節の地は、うっそうとした木々に囲まれていました。昔、地域の人が「松」と「梅」の木を植えたとのことですが、室町幕府に気遣って「埋める」を「梅」にかけたのではないか、とのお話に、また一同感心しました。
 そして、この殉節の地の前には多くの燈籠等が奉納されていますが、そこには伊藤博文や佐賀藩の江藤新平、大隈重信などの名前がありました。明治維新の関係者がこぞってこの地に思いをもっていたことが分かりました。
 湊川神社では、岡村権禰宜をはじめ、多くの方に歓待を受け、成果の多い現地学習となりました。ありがとうございました。
 次回例会は、朱舜水が残した楠正行像賛を、稲葉本・三忠傳・水戸本の原典で確認します。

楠正行通信12号、13号はコチラ



6月例会 湊川神社現地学習の様子

↓湊川神社表神門
湊川神社表神門

↓正式参拝のため拝殿に向かう
正式参拝のため拝殿に向かう

↓楠木正成公御墓所「嗚呼忠臣楠子之墓」
楠木正成公御墓所「嗚呼忠臣楠子之墓」

↓楠木正成公御墓所の前で岡村権禰宜の説明を受ける
楠木正成公御墓所の前で岡村権禰宜の説明を受ける 

↓社務所一室での例会風景
社務所一室での例会風景

↓湊川神社社殿前で記念撮影
湊川神社社殿前で記念撮影


↓楠木正成公殉節地で岡村権禰宜の説明を聞く

楠木正成公殉節地で岡村権禰宜の説明を聞く





「さつま芋の苗を植え付けました」

日時 平成27年5月14日
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 教文の裏庭に畝をつくり、なると金時の苗を植えました。
みんなでお水をあげて、大切に育てましょう。
秋には芋掘りをします。

さつま芋の植え付けの様子
さつま芋植え付けの様子
さつま芋植え付け後
秋の芋掘りが楽しみです



四條畷楠正行の会 第7回例会「朱舜水正行像賛を読み解く」

日時 平成27年5月13日(水曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室
対象 会員
イベント内容  先月例会のおさらいは、「楠親子に脈々と息づく武士道の精神と究極としての散り際の潔さ」(扇谷作成資料)、「正成、正行に四恩の教えを説いた瀧覚坊」そして「朱舜水が残した148文字からなる正行像賛」の発見です。これらについては、楠正行通信9号、10号、11号に掲載しました。
 そして、今月のテーマ「朱舜水正行像賛を読み解く」で、稲葉君山編「朱舜水全集」及び安東省菴「三忠傳」をもとに、朱舜水が残した楠正行の賛文の略解を試みました。
 6回例会で既報の通り、賛文の略解については、元茨城県立歴史館主席研究員の木下英明氏にご指導・ご助言をいただいた「釈文」及び「注記」をベースに、文章化を試みました。
 また、正徳5年(1715)に出された徳川光圀輯・徳川綱條校「舜水先生文集」(いわゆる水戸本)に掲載されている正行像賛についても、四條畷市立図書館の協力を得て関西大学総合図書館で閲覧がかない、原典を確認・複写しました。同書は、貞享年間(16841688)に京都で開業した柳枝軒(出版社)から出版された和装本で、厳重に管理されているものの、相当の虫食い状態でした。
 


朱舜水が残した148文字からなる楠正行賛文の略解は難解を極めましたが、何とか文章にすることができ、会員一同、感激の例会となりました。
 四條畷楠正行の会では、極めて残された史料の少ない楠正行ですが、この朱舜水の残した正行賛文のさらなる研究と、市内外に向けた情報発信を申し合わせました。
 
次回、69日(火)は、現地学習(湊川神社)を予定していますので、7月の例会で、これら「舜水先生文集」(1715年、水戸本)、「朱舜水全集」(1912年、稲葉本)、「三忠傳」(1684年、影印本)の比較・検証をする予定です。
楠正行通信9号、10号、11号はコチラ

例会での意見交換の様子
5月例会の様子
例会での意見交換の様子
会員の皆様で様々な意見交換をしました



「教文 子どものつどい」

日時 平成27年5月7日(木)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 幼児と保護者
イベント内容 子ども読書週間に因み、大型絵本の読み聞かせ・エプロンシアター・リズム体操・体育あそびを行いました。


絵本の読み聞かせ
 大型絵本の読み聞かせ
エプロンシアター
エプロンから何が出るかな~



「教文 おたのしみ会」

日時 平成27年4月22日(水)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 幼児と保護者
イベント内容 子ども読書週間に因み、絵本の読み聞かせ・エプロンシアター・紙芝居・オカリナの演奏・おもちゃ遊びを行いました。


紙芝居
 紙芝居
手作りおもちゃで遊ぶ子どもたち
手作りおもちゃは楽しいな



四條畷楠正行の会 第6回例会 「滝覚坊と楠正行」「朱舜水賛文」

日時 平成27年4月14日(火曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室
対象 会員
イベント内容  今月も、新たな会員(女性一人)が加わりました。
 先月のおさらいですが、湊川神社から送っていただきました「大楠公御碑銘賛」(銘 徳川光圀・賛 朱舜水)の拓本を掲示し、朱舜水の大楠公賛文に触れました。そして、徳川光圀によって採択された狩野探幽作「櫻井駅訣別図」の写し(「朱舜水全集」掲載)でもその賛文を再確認しました。

今月のテーマは「滝覚坊と楠正行」でしたが、朱舜水全集(稲葉君山編・東京文會堂)に楠木正成公の賛文3首と、楠正行公賛文1首のあることが分かり、急きょ、テーマを「朱舜水賛文との出会い」に代え、その読み方等を学びました
 湊川神社の「嗚呼忠臣楠氏の墓」裏面に刻まれる朱舜水作の正成公賛文はあまりにも有名ですが、朱舜水がこの賛文を書くのに23年もの月日を費やしたことや、狩野探幽の櫻井訣別図に載せる賛文が故に、正成公のみならず正行公の賛文も残されていたことを知り、一同感激の例会となりました。
 朱舜水全集稲葉本に載る楠正行像賛は、148文字からなる短文ですが、楠正行に関わる史料が大変少ない中で、貴重な一文との出会いに、この日の例会は大変盛り上がりました。扇谷転載(一部現代文字)文は以下の通りです。
 なお、この日会員の真木さんが「非理法権天」書を持参してくださいました。以下に紹介します。
 次回、512日(火)は、この楠正行像賛の略解に取り組む予定です。
楠正行通信7号、8号はコチラ



●朱舜水全集・稲葉君山編(扇谷転載文・一部現代文字使用)

 



●「非理法権天」書 真木修(四條畷楠正行の会会員)






市民講座「親子で楽しむコンサート

日時 平成27年3月12日(木曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 子どもと一緒に生の楽器の音色を楽しむコンサートを開催しました。
お馴染みの楽曲をライブで見た子ども達はノリノリでした。


生演奏の模様
生演奏とアンパンマン



四條畷楠正行の会 第5回例会「護良親王と楠正行

日時 平成27年3月10日(火曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室
対象 会員
イベント内容  この日の例会は、新たな会員3名、そして傍聴1名、合わせて4名の女性が加わり、会議室が手狭になり嬉しい悲鳴の中、始まりました。
 前回のおさらいとして、楠正行に関わる歌として残る「四條畷」と「青葉茂れる桜井の」の2曲を、全員で合唱しました。2曲とも、真木さんの歌に合わせて3番まで唱和しました。「四條畷」は、四條畷の合戦を、また「青葉茂れる桜井の」は、桜井の決別から湊川の戦までを歌ったものですが、この2曲は、義に生きた正成、正行のあまりにも真っすぐな生き様、悲壮感を漂わせています。
 護良親王は、正行と同時期に歴史の表舞台に登場しませんが、後醍醐天皇の建武の政務を実現させた立役者が、護良親王と楠木正成ではなかったかと思われます。その意味で、正行は父、正成を通して護良親王の影響を大きく受けたものと思われます。
 奈良県五條市に大塔町という地名があります。護良親王を助けた史実を郷土の誉れとするこの地は、明治22年、村名を大塔村とするのですが、「だいとうむら」では恐れ多いと、読みを「おおとうむら」にしたと伝わっているそうです。(五條市ホームページより)
 次回、414日(火)は、龍覚坊と楠正行の関わりについて意見交換します。
 楠正行通信6号はコチラよりご覧いただけます。



四條畷楠正行の会 第4回例会「
四条隆資と楠正行

日時 平成27年2月10日(火曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室
対象 会員
イベント内容  前回のおさらいとして、「正行の生きざまに影響を与えた北畠親房の神皇正統記、結城親朝宛書簡に見る武家観・家門意識」と「関城書を貫く北畠親房の熱烈な心情」を横井金男著・北畠親房文書輯考で、再確認しました。この二つは、楠正行通信第4号と第5号に掲載しています。
 正行に影響を与えた人物の一人に四条隆資がいます。しかし、彼に関する史実や史料はほとんど残っていません。
 新葉和歌集に残る彼の三首、そして、官位に見る公家と武士の身分差、更にその武士にも歴然たる官位格差のあることを学びました
 四條畷の合戦後、四条隆資は権中納言から権大納言に、そして息子の、四条隆俊は、従三位から正三位に昇格しました。討死した正行、片や早期戦線離脱にもかかわらず昇格した公家。従五位下の正行から見れば、正二位権中納言の四条隆資は雲の上の人だったのでしょう
 正成は従五位上・贈正一位、正行は従五位下・贈従二位。しかし、正儀は従四位下まで上がりますが、明治政府からの贈位はありませんでした。
 一方、南北朝を比較すると、南朝方、正成・新田義貞に贈正一位、名和長年に贈従一位が送られていますが、北朝の尊氏・義詮は贈従一位、直義は贈従二位となっています。南北朝以降、上り詰めたのは秀忠・秀吉の従一位、ともに贈正一位が贈られています。
 また、この日、会員の石崎さんから、詩吟『赤坂のはらから』(楠公父子物語)のDVDが全員に、同じく山﨑さんから「四條畷」(大和田建樹)と「青葉茂れる桜井の」「楠公の歌」(いずれも落合直文)3曲の歌詞カードが提供されました。
 次回、310日(火)は、護良親王と楠正行の関わりについて意見交換します。
楠正行通信4号・5号はコチラよりご覧いただけます。



新春ミニ・コンサート

日時 平成27年1月25日(日曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 教文恒例の新春ミニ・コンサートを開催しました。
女性四重唱、男声二重唱、フルート演奏などで大変盛り上がりました。


女性ヨンジュウショウ
フルート演奏



子ども体験教室 親子体操

日時 平成26年12月4日 ~ 平成27年1月29日
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 おおむね2歳~4歳児と保護者
イベント内容 お母さんと一緒に楽しく運動あそびをしました。
音楽に合わせて、跳んだり跳ねたり、楽しい運動です。
マット運動・トランポリンなどもしました。


トランポリンをするこども
 上手にトランポリンできたかな?
大きなバルーンの上で飛び跳ねる子どもたち
おおきなバルーンの上で子どもたちは
  跳んだり、跳ねたり。


体験教室 ヴィーナスフィットネス

日時 平成26年12月3日 ~ 平成27年1月28日
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 16歳以上の市民
イベント内容 エアロコリオとコアトレーニング(体幹)、ストレッチを組み合わせたフィットネスです。
良い汗をかいて、健康で若々しい体を保ちましょう。


ビーナスフィットネス
  日頃のストレスを発散し、
      気分もリフレッシュ!




四條畷楠正行の会 第3回例会

日時 平成27年1月13日(火曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室
対象 会員
イベント内容  四條畷楠正行の会 第3回例会 「北畠親房と楠正行」
 会員全員の新年の抱負に続いて、第2回例会のおさらいとして、吉野朝そして正行の悲哀を「新葉和歌集の序」「如意輪寺に残る楠左衛門尉髻塚碑文」に再確認しました。この二つは、楠正行通信第3号に掲載しています。
 北畠親房は、後醍醐帝に仕えた後、世良親王の死去に伴い出家し、陸奥に入り東国経営を目指しますが、失敗し、興国4年吉野に戻ります。そして、正行との確執が始まり、結果として、正行を四條畷の戦い、死地に追いやることになります。
 正行の生きざまに影響を与えた人物の筆頭格ともいえるのが北畠親房ではないでしょうか。
 例会では、北畠親房という人物について、結城親朝にあてた70通もの書簡から彼の武家観を繙き、又彼が記した「神皇正統記」はいったい誰に向けて書かれたものであったのかに焦点を絞り、北畠親房の家門意識を探り、楠正行との関係を分析しました。北畠親房は、神皇正統記の中で、「トイウモノ」を書き分け、序列を明確にしています。公家は「ト云人」、望ましい武士は「ト云者」、好ましからざる武士は「ト云物」と。正行の悲哀がここにも垣間見ることができます。
 次回、210日(火)は、四条隆資と楠正行の関わりについて意見交換します。楠正行通信はコチラ

せきじょうしの図
出典 日本の名著9 慈円・北畠親房より
東国の南朝拠点
出典 日本の名著9 慈円・北畠親房より



平成26年開催のイベント


四條畷楠正行の会 第2回例会

日時 平成26年12月9日(火曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室
対象 会員
イベント内容  南朝の哀史を感じさせる吉野山等に残る後醍醐天皇の御製、そして伊丹市・本泉寺に残る小楠公の墓の発見で、楠正行の墓は全国に7か所あること等、第1回のおさらいをしました。
 「急いで兵庫へ下向し、義貞と力を合わせて戦うように」と正成を死地に追いやった後醍醐天皇、「そなたは最も頼りとする臣下である。命を全うするように」と、生還を期待して四條畷に正行を送り出した後村上天皇。7歳から戦いに明け暮れた後村上天皇ですが、正行とともにあった吉野行在所の約十年が最も落ち着いた時期ではなかったでしょうか。
 次回は、北畠親房と楠正行の関わりについて意見交換します。
四條畷楠正行の会は、楠正行通信を発行します。次をクリックしていただきますと楠正行通信をご覧いただけます。楠正行通信はコチラ

例会での意見交換の様子
第2回例会の様子
例会での意見交換の様子
会員の皆様で様々な意見交換をしました



教文 ”クリスマス会”

日時 平成26年12月5日(金曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 ちょっと気のはやいサンタさんが教文に来ましたよ。今年はクリスマスツリーへの飾り付け、 人形劇の上演、手遊びやフルートの演奏、サンタさんからお菓子のプレゼント、記念撮影と楽しいクリスマス会になりました。

サンタさんから子どもたちにお菓子のプレゼント
 サンタさんから子どもたちにお菓子の
 プレゼント
サンタさんに子どもたちも興味津々
サンタさんに子どもたちも興味津々


教文で石焼きいもを食べよう

日時 平成26年11月13日(木曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生ひろば
対象 市民
イベント内容 四條畷市教育文化センターで落ち葉や薪を燃やし、窯に入れた石を温めて、本格的な石焼きいも(鳴門金時種)づくりに挑戦しました。とても甘くておいしかったよ。

やきいもが焼けました
うまく焼けました
やきいもが焼けました
熱いから気をつけてね



四條畷楠正行の会 第1回例会

日時 平成26年11月11日(火曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 第2会議室
対象 会員
イベント内容 教育文化センター市民教養講座「楠正行の人間像に迫る!」の講師・受講者有志で
立ち上げた同会は、今後、楠正行について学び、顕彰していくこととなりました。
第1回は、楠正行と後醍醐天皇の関わりについて意見交換しました。
次回は、楠正行と後村上天皇のかかわりについて意見交換する予定です。

くすのきまさつら像のイラスト
      楠正行
(四條畷楠公まつり公式WEBサイトより)
楠正行四條畷忠戦之図
楠正行四條畷忠戦之図
(四條畷市勢要覧平成17年版より)


教文でさつま芋を掘ろう

日時 平成26年10月9日(木曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 5月に植えたさつま芋(なると金時)を収穫しました。
色々な大きさと形がありますが、共に「実りの秋」となりました。

掘った芋を見せる子ども
きれいに掘れました!
たくさん掘れた芋
おいしそう!!


教文 第22回教文利用サークル合同サークル展

日時 平成26年9月21日(日曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 全館
対象 市民
イベント内容 教育文化センターで活動されているサークルが、作品展示・舞台発表に分かれ、日頃の成果を発表しました。
舞台でコーラスを披露する皆さん
大盛況!
子育てサークル、初めてのおえかき
子育てサークル作品「初めてのお絵かき」


教文 みんなの運動会

日時 平成26年9月21日(日曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 芝生ひろば
対象 市民 (乳幼児~幼児~ご兄弟~ご家族)
イベント内容 教文の芝生ひろばで、楽しい運動会を開催しました。プログラムを紹介します。
1・入場行進 2・体操♪いっとうしょうたいそう 3・かけっこヨーイドン 4・♪しまうまDance 5・わたって回って、くぐって飛んで 6・♪みんなでカーニバル 7・たまいれ 8・大玉ころがし 9・お父さんと遊ぼう♪ここは遊園地 10・アヒルのDance 11・全員リレー 12・♪アンパンマン体操
芝生広場でたのしい運動会
楽しい運動会
ちびっこたち皆で集合写真
この秋一番のお天気!


市民教養講座  郷土、四條畷ゆかりの人物シリーズ 楠正行の人間像に迫る!
                              (最終回)

日時 平成26年9月18日(木曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 第4回のテーマは 「四條畷の戦いを前に吉野・如意輪寺に詣でた正行の心中」
~ 和睦の道を探りつつも叶わず、死地に向かわざるを得なかった悲劇 ~
 ~ 講師 扇谷 昭氏
「楠正行」に焦点をあてた今回のシリーズ最終回でしたが、大盛況のうちに終わりました。
講座の様子
受講の様子
講座の様子
満員の会場


教文 遊びの広場

日時 平成26年8月28日(木曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 全館
対象 市民
イベント内容 大学の実習生が中心となり、運動や手遊び、英語遊びなどを行いました。
今年はザリガニ釣りにもチャレンジしました。
運動遊びの様子
運動遊び
親子でザリガニ釣り
アメリカザリガニ釣り



市民教養講座  郷土、四條畷ゆかりの人物シリーズ 楠正行の人間像に迫る!
                             (第3回目)

日時 平成26年8月21日(木曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 第3回目のテーマは 「自ら正しいと信じる道を貫き通した生き様」 ~ 散り際の潔さで後世に名を残し、日本近代史を切り拓く明治維新を成功に導いた
 ~ 講師 扇谷 昭氏
芝生広場で踊るダンスチームの子どもたち
大盛況!
芝生広場で踊るダンスチームの子どもたち
受講の様子


教文 夏の集い

日時 平成26年7月18日(金曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 全館
対象 市民
イベント内容 各サークルがお菓子やアイスクリーム、ゲーム、あてものなどの模擬店を出店しました。またダンスチームのお披露目やマジックショー、似顔絵などを行い最後に花火大会で締めくくりました。
芝生広場で踊るダンスチームの子どもたち
ダンスチーム
マジックショー
恒例のマジックショー


市民教養講座  郷土、四條畷ゆかりの人物シリーズ 楠正行の人間像に迫る!
                             (第2回目)

日時 平成26年7月17日(木曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 第2回目のテーマは「父、正成が目指した新しい国づくり、そして、子、正行への遺訓~11歳という若さで楠家を継ぎ、一族を束ね、おまけに南朝の実質大将という重責も~ 講師 扇谷 昭氏
第2回目講座の様子
第2回目講座の様子
2階ホールは参加者の皆様でいっぱい
ホールは参加者の皆様でいっぱいでした


市民教養講座  郷土、四條畷ゆかりの人物シリーズ 楠正行の人間像に迫る!
                             (第1回目)

日時 平成26年6月19日(木曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 明治23年、楠正行を祀る四條畷神社が創建されたことで、昭和6年、甲可村が四條畷村に改称されました。私たちの住む町の名前を変えるほど、当時、広く知られていたのが楠正行、いわゆる小楠公です。四條畷の合戦で散っていった若き武将の人間像に迫ります.第1回のテーマは「四條畷市と切っても切れない縁のある楠正行」 ~正行を祀る四條畷神社の創建に始まる四條畷市の名称起源~ と題し、元四條畷市産業振興アドバイザー扇谷 昭氏の解説で行いました。(全4回講座の第1回目)
当初は2階会議室で行う予定でしたが、予想以上に応募者が殺到したので、2階ホールに開催場所を変え開催しました。
第1回目講座の様子
第1回目講座の様子
熱心に講座を聴く参加者
熱心に講義を聴く参加者の皆様


 「教文 踊りの広場

日時 平成26年5月17日(土曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 芝生広場でやぐらを囲み皆で踊りました。
櫓を囲んで踊る人々
櫓を囲んで踊る市民
櫓を囲んで踊る人々
櫓を囲んで踊る市民




 「教文 子どものつどい

日時 平成26年4月26日(日曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民(子ども)
イベント内容 絵本の読み聞かせと人形劇を上演しました。
4月19日(土曜日)~5月10日(土曜日)は子ども読書週間です。
スタンプラリーに参加してプレゼントをもらおう!
絵本の読み聞かせに集まった子どもたちとお母さん
絵本の読み聞かせ
人形劇を見る子どもたちとお母さん
人形劇



平成25年開催のイベント

 「第19回 新春ミニ・コンサート

日時 平成26年1月26日(日曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター 2階ホール
対象 市民
イベント内容 コーラスや、四重唱、独唱などで新春を奏でる音楽会。
出演:ひまわりコーラス 他
コーラスで歌う4人組
コーラス
独唱を聞くたくさんの人々
たくさんの方が来られました。


 「教文 “クリスマス会”

日時 平成25年12月6日(金曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民(子ども)
イベント内容 クリスマスツリーを飾りつけし、サンタからは子どもにプレゼント。舞台では人形劇を上演しました。
また、サンタさんとの記念撮影もありました。
サンタさんからプレゼントを受け取る子ども
 サンタさんからプレゼントを受け取る
 子ども。
クリスマス会に集まった子どもたち
クリスマス会の様子。


 「教文でスナッグゴルフをしよう

日時 平成25年10月6日(日曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民(子ども)
イベント内容 芝生広場でスナッグゴルフを体験しました。
スナッグゴルフで遊ぶ男の子と女の子
的に当たるとボールがくっ付きます。
スナッグゴルフで遊ぶ子どもたち
初めてのスナッグゴルフ体験。


 「教文 みんなの運動会

日時 平成25年9月29日(日曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 芝生広場で幼児を中心に、駆けっこや玉入れなどを行いました。
玉入れを競う子どもたち
玉入れ
駆けっこする子どもたち
駆けっこ


 「教文 合同サークル展

日時 平成25年9月15日(日曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 会議室・和室などでは各サークルの皆さんの作品を展示、2階ホールでは、活動の模様を舞台で披露してもらいました。
合同サークル展での展示物の様子
展示物
合同サークル展での舞台発表の様子
舞台発表


 「教文 遊びの広場

日時 平成25年8月22日(木曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民(子ども)
イベント内容 学生が中心となり、絵本の読み聞かせ、紙芝居、外遊びなどを行う。
水遊びする子どもたち
水遊びいろいろ
外のプールで水遊びをする子どもたち
水遊びいろいろ


 「教文 夏の集い

日時 平成25年7月19日(金曜日)
場所 四條畷市立教育文化センター
対象 市民
イベント内容 子どもたちが楽しめるゲームや夜店・手品ショー、噴出し花火など。
手品ショーでの様子
手品ショー
噴出し花火
噴出し花火



四條畷市立教育文化センター四條畷市立教育文化センター



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