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高齢者・子どもたちの笑顔あふれる街 四條畷市立教育文化センターは

四條畷市立教育文化センター
お問い合わせはTEL.072-878-0020

〒575-0021 大阪府四條畷市南野5丁目2-16

 

過去のイベント紹介

四條畷楠正行の会 第48回例会 細川頼之と楠正行

日時 平成30年12月11日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター2階 ホール
<例会の様子>
まさつらカルタの話題で持ちきり/室町幕府管領、細川頼之に利用されたか楠正儀
 今月の例会は、お孫さんご誕生で大忙しの2名と業務多忙と体調不良による欠席が重なり、9名での開催となった
 それでも、128日の「市民かるた大会」の興奮冷めやらないのか、教室(2階ホール)に入ってくる会員が異口同音に、「代表、今日、かるたは頂けるんですか?」「わたし、友人にも配りたいので、5セット欲しい。」と、楠正行かるたの話題でもちきり。
 ホール内のボードに、「絵札」「字札」「解説」を“あ行”から順番にカラー・プリントしたA3用紙を張り出していたが、それぞれ思い思いに覗き込み、改めてかるたの出来栄えの良さを喜んでいる様子。
 人数は少ないが、活気にあふれた、和やかな例会となった。
 今月は、楠正儀北朝降下に大きくかかわった室町幕管領の細川頼之を取り上げたが、頼之の視点から吉野朝・正儀を見ると、頼之にとって正儀は一つのコマにしかすぎず、頼之は南北合一よりも幕府の基礎構築が第一で、正儀の北朝降下は失敗であった、そして正儀は結果として楠氏の生き方に一つの汚点を残した、といえるのではないかと思う。


↑ 今月は細川頼之について学ぶ


↑ 黒板にまさつらカルタの絵札・字札・解説文の一覧を張り出す

<第48回例会の内容>
47回例会のおさらい
 ◇楠正行通信80号(1211日発行)
 現地学習 池田氏菩提寺・大廣寺と池田城址公園
 ・正行、遺腹の子 池田教正ゆかりの地を訪ねて
 ・池田城はいつ、どこにできたのか
 ・山裾、まちなかに接する池田城の謎
 ◇楠正行通信81号(1211日発行)
 12.511絵札原画展開催
 ・12.8 市民かるた大会開催
 ・
楠正行くすのきまさつらかるた販売開始!

●細川頼之と正行
・「細川氏略系図に見る頼之の位置」(下図参照)
 正行と全面対決した細川顕氏、一方、正儀を誘降させた細川頼之
 父、頼春は足利尊氏旗揚げ時からの側近
 頼之は、義満を補佐し、将軍の権威を高め、室町幕府の基礎を構築
 一旦政争に敗れ四国に退去するも、分国経営に専念し、一族繁栄の基盤構築

 南北朝内乱と共に生き、南北和合を見ずして生涯を閉じる
 頼之は、正儀を利用し、宮方を弱体化し、義満政権を不動に




・「細川頼之略年表」(下表参照)
 貞治061367 義詮の枕元に呼ばれ、義満後見を託され、管領に
         ~ この後ほぼ10年、管領の座に
         後村上天皇崩御を受け、講和主義の正儀、宮方で苦境に

         正儀、秘かに幕府に誼を通じる
 応安021369 頼之、正儀に帰参を認める義満の御教書を与える
         ~ 頼之の権勢強まる
           ↸ 正儀降下に、南軍(宮方)の反発 北軍、頼之への反発、強
           まる

         ~ 北軍内で、頼之支持派と反頼之派の軋轢激化
 永和041378 宮方、橋本正督に幕府軍破れる
         ↸ 将軍、義満怒り 和泉の守楠正儀、紀伊の守細川業秀を罷免
 康暦元年1379  康暦の政変 京極高秀、土岐直氏ら、義満に頼之追放を強要
         ↸ 義満、頼之に京都退出を命令
           ⇒ 頼之、失脚し、四国に下る
             ~ 一族こぞって四国に 四国の軍事的支配を拡大強化
               赦免の運動/河野氏と和解、政界復帰への道を開く
 暦応元年1389 将軍、義満厳島参詣 頼之、100余艇の船を提供
 明徳021391 頼之、入京し復権する
         将軍、義満 頼元(頼之の弟)に管領を命じ、頼之に後見を託す
         明徳の乱(山名清氏挙兵)、頼之、鎮定 ⇒ 将軍、義満の権威発揚
 明徳031392 32日、頼之死去(64歳)
         10月、南北和議成立 南北朝合一





(3)平成31年活動予定
  例会&現地学習 電通大  その他
1 新年会 木子班、全学発表
会で報告
 
各地で、カルタ大会 
2 第7回正行シンポ準備    各地で、カルタ大会 
3 7回正行シンポ反省     3/9 第7
楠正行シンポ
 
4 足利義満と楠氏  3期、産学連携
事業スタート 
 
5 現地学習/建水分神社
正式参拝と千早赤阪村の
楠氏史跡を訪ねて
 
  5月以降、 
近畿かるた大会
6 長慶天皇と楠氏     
7 後亀山天皇と楠氏     
8 お休み/通信のみ発行     
9 藤氏一揆と楠正行    9/27 如意輪寺・
後醍醐天皇正辰祭
 
10 現地学習/吉野朝行在所、
賀名生旧皇居(堀家住宅)
を訪ねて
 
   
11 興良親王と楠正行     
12 楠正家と楠正行     

●第7回楠正行シンポジウムについて
 39日、開催!
 以下、チラシ参照
 お申し込みは、四條畷市立教育文化センターまで
 多くの皆様のご参加をお待ちしております。
 楠正行の新しい情報満載です。

 →第7回楠正行シンポジウムチラシ(PDF) 

●くすのきまさつらカルタ
・四條畷市、学校・各施設に寄贈!
・入荷次第、順次、販売します。¥1,500円(税込)
 販売委託先
 □教育文化センター □福助堂書店(楠公通り商店街) □くるみ書店(忍ケ丘駅前)

 □宮脇書店生駒北店(山口川バス停前) □楠公ツーリズム推進協議会加盟寺社に販売協力要請
・楠氏ゆかり自治体でのカルタ大会について
 四條畷市教育委員会を通じて、協力要請中
  13月にかけて、現地小学校3年生対象に、正行かるた大会の開催協力をお願いし、
  楠氏・楠正行を次世代に継承する取り組みを展開する。

  □河内長野市 1128 島田課長に協力依頼済み 日程調整中
  □千早赤阪村 1207 矢倉教育長・吉光学芸員に協力依頼済み、
              松本村長表敬訪問
  □島本町   1218 生涯学習課長 南田氏訪問予定
  □吉野町   1220 教育委員会 山本氏訪問予定


 →くすのきまさつらかるた(PDF)

楠公ツーリズム推進協議会 入会要請を受け、1025日付入会
会員
観心寺・天野山金剛寺・四條畷神社・葛井寺・湊川神社・如意輪寺・石清水八幡宮・南海電気鉄道・産業経済新聞社・ジエイコムウエスト・河内長野市観光協会・社団法人大阪観光局・社団法人神戸観光局・河内長野青葉台郵便局・大阪南農業協同組合・楠公さん大河ドラマ誘致協議会・朝護孫子寺・建水分神社・葛木神社・笠置寺・観音寺・千早神社・久米田寺・四條畷楠正行の会・アドバンスワードサポート・廣田勇介写真事務所 以上26団体

平成30.31年度事業計画
・楠公さんの認知拡大を通じてその魅力を広め、NHK大河ドラマ化を目指して地域の活性化を図るために、観光庁の補助金事業として、観光による地方誘客事業実施に向けて取り組む。
 ・基本方針:楠公認知の拡大
 ・楠公ネットワークを繋ぐSMS〔フェースブック〕を立ち上げる
 ・楠公イベント〔冠事業〕の実施
 ・マーケティング調査の実施(大阪観光局)
 ・1028 楠公ダンボール 子ども甲冑武者行列 in 高野街道祭


次回1月例会/新年懇親会のため、教室での例会はお休みします。 

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。
 お待ちしております

 2月例会は、212日(火)に開催します。内容は、39日に予定している「第7回楠正行シンポジウム」の打ち合わせ・準備作業です。

正行通信80・81号はコチラからも(PDF)




「教文 クリスマス会」

日時 平成30年12月7日(金) 午前10時より11時30分
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 今日は、ちょっと早めのクリスマス会を行いました。
クリスマスツリーへの飾り付けから始まり、楽しいフルート演奏があり、人形劇を上演しました。そして2人のサンタさんからお菓子のプレゼントがあり、一緒に写真を撮りました。






「教文親子体操教室」で石焼き芋!

日時 平成30年11月15日(木) 午前11時30分より
場所 教育文化センター 
イベント内容 最初にお芋を洗い、アルミホイールに包んで名前を書きました。
大きな窯に並べて、色々な石を入れ、蓋をしました。
さあ、美味しく出来上がりました。





四條畷楠正行の会 第47回例会 現地学習・大広寺

日時 平成30年11月13日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 現地学習
「楠正行、遺腹の子、池田教正ゆかりの地を訪ねて」
 大広寺・池田城址公園(池田市)
<例会の様子>
●第2代池田城主は、正行、遺腹の子、池田教正
 今日は、現地学習で池田市を訪れるので、午前9時、総合センターに集合して、3台の車に分乗して向かうことに
 近畿道を使う予定であったが、交通事故のため渋滞が発生しているとの情報があり、一般道を使う事になり、出発したが、思いのほか渋滞もなく、午前1030分に、目的地の池田市、大広寺に到着した。
 塩増山大広寺略記には、以下記されている。
- 池田城は大広寺山下の細い杉ヶ谷川の谷を隔てた丘陵の上に、建武の昔、池田教依が築き北朝の足利氏に属していた。二代目の城主は南朝の楠正行遺腹の子、池田教正である。
 これは正行が河内四條畷で討ち死に後、その妻の父、能勢の野間城主、内藤伊賀の守満幸が足利方に変節したので、正行の妻は当寺懐妊していたが離縁され、教依に再婚して子が無く、教依は正行の子、教正を養うて池田城を継がしめた。
 しかし、教正は後年その子、佐正に城を譲り、遠く安芸の五日市へ去って彼の地で城を築き、南朝方に属したのである。
 なお、序でに述べるが、池田筑後の守充正(第5代城主)の弟、池田恒元の子、恒利が池田城を出て、その子孫代々備前岡山の藩主となった。即ち備前の池田氏は池田城主池田氏の分家にあたる。(扇谷:言い換えれば、備前の池田氏は、楠正行の末裔にあたる、といえる。)


●大広寺に残る血天井
 楠正行の史料はほとんどないといってよい。
 正行ゆかりの施設も、また数少ない。
 私たちは、四條畷ゆかりの楠正行を学び、顕彰することを目的に活動しているので、正行本人ではないものの、正行の遺児が生まれ、育った地に足を踏み入れただけでも、肌に感じ、ワクワク感が漂う。
 大広寺には多くの歴史的遺産が残るが、なかでも正行ゆかりの地ならではの遺物が残る。それは「血天井」である。
 塩増山大広寺のチラシ「当山境内と故事」に、以下記されている。
- 血天井
 永正5年(1508)、管領細川澄元を細川高国が攻めた時、近畿の多くの城はすべて高国に降伏したが、池田城主池田筑後の守貞正はただ一人、澄元のため高国の大軍を恐れず戦い、ついに力尽きて城に火を放ち、腹を切って自害した。
 当時の人々は池田城主の忠義と武勇を称え、その美談を後世に伝えるため、血の付いた板を天上に使用し供養したのである。

 この血天井は、大広寺境内中央にある本堂の玄関の天井に今も残っている。下からこの天井を見上げると、血らしき跡が、何枚かの板に飛び散った様子を思わせる跡が見える。
 自刃したときの地が天井にまで、このように広く飛びちるものかと疑問を持ったが、元々廊下の板を天井板に使ったものと分かり、一同、納得。
 楠氏は吉野朝一筋、正統な天皇を支え続けた一族で、利害得失では決して動かなかったが、池田貞正もまた同じく忠義と武勇の人であったことを示す痕跡が今も残ることに感慨ひとしおである。

●山門に円形の額、白龍の摩訶不思議
 今一つ、全員が釘付けになった場所がある。
 それは、山門の内側の上に掲げられている、直径120センチメートルほどの円形の額で、とぐろを巻いて白く小さい龍が描かれている「白龍」である。
 これも塩増山大広寺のチラシ「当山境内と故事」に、以下記されている。
- 白龍(山門裏側上の白い額)
 この白龍が本堂西側の弁天池の水を毎晩飲みに行くので、時の住職が眼の玉を白く塗りつぶすと、龍は水を飲みに行かなくなったという。
 またこの弁天池はどんな旱魃にも涸れることはない。
 直下の六角石に龍の爪の痕というのが今も残っている。

 この白い龍は、今にも天に向かって飛び立とうとする姿が立体的に浮き彫りにされているもので、恐らく漆喰で塗り上げられたものと思われるが、めったに見られない逸品である。
 また、山門直下に六角の石があり、無造作にえぐられたような跡があり、これはいったいどういう意味があるのかと疑問に思ったが、この説明書きを読み、「ああ、そうなんだ。でも、本当に・・・。」と、納得半分、不思議半分だった。

●今の池田城跡に建っていた池田城は、何時つくられたものか
 大広寺を後に、池田城址公園に向かったが、入り口に、「火曜日休園」の案内とともに、門は閉じられている。
 せっかく来たのに残念と、暫く入り口付近で躊躇しながら、引き返そうとした所、公園管理の池田市の職員の方が来園され、訪問の主旨をお話したところ「四條畷市からせっかくお見えでしたら、どうぞ、ご覧下さい。」と、中に入れていただくことになった。全員、ラッキー!と大喜び。
 この池田城址公園は、櫓を中心に、日本庭園、枯山水、空堀散策路、花菖蒲園、茶室、管理棟等が整備された素晴らしい公園で、遠く池田の町も遠望でき、眺めも素晴らしいものである。
 「扇谷さん。この城は何時つくられたのでしょうね。」と、楠野さんに尋ねられ、私は調べていなかったので、「四條畷の合戦の後すぐの時代のことですから、1300年代には建っていたのではないでしょうか。」と答えた。
 このことについて、池田城址公園のリーフレットが以下、触れているので紹介する。関連部分のみ抜粋。
・池田城の名が登場する最古の史料は、建武3年(1336)「平国茂軍忠状」で、南北朝時代に池田城が存在していたのではないか、と言われている。
・この場合、果たして、現在、城山町の台地上にある池田城跡を指しているのか、以下の点で疑問がある。
・南北朝時代の城は、山深い、しかも山頂や尾根伝いに築かれるものが多く、街道や集落に接し、簡単にその存在が認識できる場所に築かれる例はほとんど見られない。
・平国茂軍忠状に載る、軍勢が夜詰をしたというのであれば、ある程度の面積と防御機能が必要となるが、池田城の城域が拡大され、防御機能が高められたのは発掘調査によって1500年代になってからと推定されていること。
・結果、建武3年の軍忠状に載る池田城は、この池田城跡ではなく、五月山山頂のどこかに城が築かれていたのではないか。
・池田氏は、勝尾寺(箕面市)蔵「勝尾寺文書」によれば1200年代前半に檀家衆土豪30数人の一人として現れ、勝尾寺文書の永享8年(1436)「歳末巻数賦日記」では10人程度に固定化され、池田氏も国人として成長しその一人に残っていることから、1400年代の前半には、現在の池田城跡の場所に館を築いたのではないかと推定される。


●南北朝時代の城なのに、山麓のまちに接して建つ疑問
 楠野さんは、「扇谷さん。この城は、この狭間(さま:防御用の穴や窓。銃眼、砲門とも。)の形から見て、間違いなく鉄砲伝来前の城ですよ。」と指摘されたが、リーフレットに載っている結論と一致した。すごい!
 狭間の形も、弓の時代から鉄砲の時代、大砲の時代に代わり、大きさも形も変化をしたとのこと。
 しかし、南北朝時代の城址を見てきたものにとって、この池田城の位置はどうしても疑問が残る。
 大広寺の裏には五月山があるにもかかわらず、その菩提寺である大広寺よりも下の、それも平地に近いまちなかに接する場所に城が建っていることの疑問である。
 リーフレットにも触れているが、後方からは丸見えの城であり、こもって戦う城とは到底思えない。
 楠氏については史料も少なく、分からないことが多くあるが、この池田城についても同様のようである。
 櫓の前で記念撮影をし、職員の方に声をかけて池田城址公園を後にした。
 この後、食事をとり、阪急電鉄グループの創始者、小林一三記念館を訪れ、帰途に就いた。
 (写真:いずれも「大広寺」リーフレットと小冊子(逸話編)、並びに池田城跡公園のリーフレットからの転載)

<第47回例会の内容>
46回例会のおさらい
 ◇楠正行通信第77
 ・明治維新の青写真を描いた男、横井小楠
 ・幕末の英傑たちに絶大な影響
 ・正成、正行そして水戸学を篤く信奉した小楠
 ◇楠正行通信第78
 ・「正四位下検非違使兼河内守楠公碑」拓本掛軸
 ・明治36年以前に制作された貴重な資料
 ・四條畷楠正行の会に寄贈いただきました!

 ◇楠正行通信第79
 ・「カルタ大会は楽しかったから、もっと正行のことを知ろうと思った。」
 ・楠正行くすのきまさつらかるた 完成!
 ・大阪電気通信大学制作 絵札・字札・栞・地図・箱

 ・10/26 くすのき小学校でカルタ大会

(↑ 10月27日付産経新聞夕刊より)

 次回例会 
 日時 1211日(火)午後130分~午後3
 場所 四條畷市立教育文化センター2階ホール
 案件 細川頼之と楠正行
    楠正行くすのきまさつらかるたの制作・販売について
    3.97回楠正行シンポジウムについて


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信77・78・79号はコチラからも(PDF)




「教文親子体操教室」で落ち葉遊びをしました。

日時 平成30年11月8日(木) 午前10時より
場所 教育文化センター 
イベント内容 紅葉した桜の葉っぱを集め、カンムリを作りました。







「教文親子体操教室」で遠足に行きました。

日時 平成30年11月1日(木) 午前10時より
場所 教育文化センター 
イベント内容 秋の遠足は「里山」へ登りました。
皆さん頑張りましたね-






「教文 親子体操教室でお芋掘り!!」

日時 平成30年10月25日(木) 午前12時より
場所 教育文化センター 
イベント内容 春先に植え付けた苗がこんなに大~きく育ちました。
お芋さんは出てくるかな-






「教文 みんなの運動会」

日時 平成30年10月18日(木) 午前10時より12時
場所 教育文化センター 芝生広場 
イベント内容 順延により、待ちに待った運動会を開催しました。
プログラムは以下のとおり
1・入場行進 2・♪一等賞体操 3・駆けっこ よーいドン 4・お母さんお父さんと♪あひるのダンス 5・たまいれ 6・サーキット遊び 7・ダンス♪バナナくん体操 8・台風の目 9・つなひき 10・パラバルーンで遊びましょう 11・全員リレー 12♪わ~お     以上
皆さん大変上手に出来ました。









「教文 親子体操教室」

日時 平成30年10月11日(木) 午前10時より12時
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 今日は雨により「みんなの運動会」が順延になりました。
来週に向けての予行演習とテルテル坊主を作りました。





四條畷楠正行の会 第46回例会

日時 平成30年10月9日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
<例会の様子>
●待望「正四位下検非違使兼河内守楠公碑」拓本掛け軸に歓喜!
 今日の例会は、別途緊急の会議が入り、扇谷は開会5分前に会場に入りました
 すでに、多くの会員が集まり、「代表が遅い。」と語り合っているところでしたが、入室すると、国府さんが待ち構えていたように語りかけてきました。
「扇谷さん。これで良いでしょうか。みてください。」と、手づくりの「軸箱」のふたを開けて中を見せてくれるではありませんか。
 期待はしていましたが、まさか出来上がっているとは思わず、びっくり仰天の例会スタートとなりました。
 この日の超目玉として、私たちの会に寄贈いただいた「正四位下検非違使兼河内守楠公碑」拓本掛け軸の披露を予定していましたが、長年元の所有者の自宅の床の間にかけられていたため、いただいた時に軸箱がなかったのです。
 貴重な掛け軸で、保存や持ち出しの関係上、軸箱の制作をお願いしていたところ、国府さんが超特急で作ってくれました。本当にうれしい思いいっぱいで例会が始まりました。
 また、この日からは川口さんが復帰されました。


「正四位下検非違使兼河内守楠公碑」拓本掛け軸を前に


拓本掛け軸を前に、扇谷の説明を熱心に聞き入る会員


<第46回例会の内容>
45回例会のおさらい
 ◇楠正行通信第76
 ・楠正虎、楠正成11代末裔を名乗る/血統上は無縁の北伊勢・楠(クス)氏
 ・永禄21559 正親町天皇から楠氏赦免の綸旨を受ける
 ・近世、楠氏復活の大立役者=楠正虎

●横井小楠と正行
 *楠公、小楠公そして水戸学を厚く信奉した小楠
  「国是三論」 富国論/強兵論/士道論
  「国是七条」 春嶽を通じて提出した幕政改革の切り札
  「国是十二条」 福井藩に提出した建策
  ~ これらの主張・建策は、龍馬の船中八策、由利公正の五か条のご誓文等に影響
    を及ぼし、小楠こそ「維新の青写真を描いた男」と呼ぶべき人物であった。

             明治維新の青写真を描いた男
           - 幕末の英傑たちに絶大な影響 -

<「横井小楠~維新の青写真を描いた男」徳永洋著・新潮社より>
横井小楠とは
 文化6年1809~明治2年1869
 幕末維新期の思想家・政治家。熊本藩士。藩校『時習館』に学び、藩命で江戸に遊学。藤田東湖や川路聖謨(としあきら)らと交わり、帰国して実学党を結成、藩政改革を試みるが、藩内主流派の反撃を受け失敗。私塾「小楠堂」を開く。酒の失敗などもあり熊本藩では用いられず、二十余藩を遊歴。吉田松陰、橋本佐内らと交わり、福井藩の藩主・松平春嶽(慶永)に招かれ政治顧問となる。
 万延元年1860、「国是三論」を著わし、開国通商・殖産興業による富国強兵を提唱。春嶽が幕府の政治総裁職に就くと、そのブレーンとして幕政改革や公武合体の推進に手腕を発揮した。後に失脚し、熊本での閑居を余儀なくされるが、その間も坂本龍馬らの訪問を受けるなど、多くの志士たちに影響を与えた。維新後には新政府の参与となるが、共和制論者、キリスト教主義者と誤解され、明治2年1869、京都で暗殺された。
 要は、「熊本では認められず、福井藩主・松平春嶽の参謀として公武合体推進期に活躍した開国論者」という事なのだが、小楠はその見識の高さと交友の広さで、勝海舟などの幕臣から薩長の討幕派に至るまで、幅広く影響を与えた。
 小楠の主張は、「今の徳川幕府の政治は、徳川家ご一家の便利私営のための政治であるから、これを止めさせ、まず公武合体を実現して、更に諸大名、諸藩士の有能な人物を登用し、それを朝廷で統治する。政治は朝廷から出て日本国中共和一致の平和な国家にしなければならない」というもの。
 ここでいう「共和一致」とは、いわゆる「共和制」ではなく、議会主義といった意味であり、平たく言えば『天皇の下に国家を統一し、人材を広く登用し、議会政治を実現する」というものであった。

●交流のあったものの横井感
○勝海舟
 「俺は、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ」
 「横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配していたに、果たして西郷は出てきたわい」
○西郷隆盛
 「小楠が諸国遊歴した際、人材であるといった人で、その後、名を挙げなかった者はいなかった。」
 「一度この策(横井の策)を用いたら、いつまでも共和政治をやり通さなければならない」(大久保利通にあてた手紙の中で)
○坂本竜馬
 「西郷や大久保たちがする芝居を見物されるとよいでしょう。大久保たちが行き詰ったりしたら、その時、ちょっと指示してやってください」
○吉田松陰
 「先生の東遊の節は、是非萩に立ち寄って藩の君臣を指導してほしい」
○高杉晋作
 「小楠を長州藩の学頭兼兵制相談役に招きたい」(久坂玄瑞に相談)

国是七条 → 国是十二条 → 薩摩・福井藩への提言 → 船中八策(龍馬) → 新政府綱領八策(龍馬) → 新政について春嶽に提言 → 五箇条のご誓文(公正)


 このように、幕末維新の英傑たちが、こぞって小楠に一目置き、龍馬、松陰、高杉に至っては師と仰いでいたのである。
 実際、龍馬が作成した有名な「船中八策」と「新政府綱領八策」は、小楠が幕府に提出した「国是七条」と福井藩に提出した「国是十二条」をそれぞれ下書きにしているし、また、由利公正が起草した「五か条のご誓文」にも、小楠の「国是十二条」の影響が色濃い。
 華々しい”革命家”たちの陰に隠れて目立たないが、その構想力、影響力から言えば、小楠こそ、まさしく「維新の青写真を描いた男」と呼ぶべき人物だったのである。

●「小楠」という号の由来
 小楠は、実名は時在、通称平四郎、号は小楠。
 号の由来は、楠正行、小楠公の人となりを慕ってつけたものである。
 小楠が江戸遊学のため熊本を出発したのは天保10年1839、3月であった。
 鶴崎から出船して、周防灘、播磨灘を過ぎて天保山より大坂に上陸するまでに、小楠は「舟中雑詩」十首を作っている。
 その中に、兵庫の湊川を過ぎるときに読んだ、江戸初期に水戸藩の徳川光圀が建立した楠公の碑を拝する詩があった。この事から小楠が楠公や水戸学を厚く信奉していたことが伺い知ることができる。

国是三論

①富国論
 立派な政治を行っている西洋諸国が日本にやって来て、公共の道をもって日本の鎖国を開こうとするとき、日本がなお鎖国を固守し続け、徳川ご一家や各大名一家のための私営の政治を求めて、「交易」の原理を知らないとすれば愚と云うべきである。
 したがって天徳にのっとり、聖教に拠って、世界各国の実情を知り、大いに利用厚生の道を開き、国内の政治や教育を一新して、富国強兵の成果を上げ、外国の侮りを受けないように努力しなければならない。
②強兵論

 今日のように航海が大いに開けて、海外の諸国をも相手にしなければならない時勢では、孤島の日本を守るには海軍を強くするほかに道はない。
 その軍制を定め国威を示せば、外国を恐れる必要がないだけでなく、機会を見て日本から海外諸国に渡航して、我が義勇をもって諸国の争いを仲裁してやれば、数年もたたないうちに諸外国が反って我が国の仁義の風を慕ってくるようになるだろう。

③士道論
 忠孝の道をつくそうとする天性を、特性に基づき道理に従って正しく導くのが文の道であり、その心を治め胆を練り、これを武術や政治で試してみるのが武の道である。
 したがって、君臣共に文武の道を二つに分けずに文武の教えを政治組織によって実行していけば、本当の文武の治教を達成することが出来て、風俗は淳厚質実となり、人材もここから生まれるであろうことは疑いない。

●「国是七条」
 春嶽が幕政改革の切り札として提出した小楠の建策(原文は漢文)
①将軍は上洛して、朝廷にこれまでの無礼を詫びる
②大名の参勤を止めて述職とする
③大名の妻を国元に帰す
④外様、譜代の区別なく有能な人物を登用する
⑤大いに言論の道を開いて天下とともに公共の政を行う
⑥海軍を起こし兵威を強くする
⑦相対(自由)貿易を止めて官貿易とする

●「国是十二条」
 慶応3年1867、正月11日起草。小楠が福井藩に提出した建策(原文は漢文)
①天下の治乱に関わらず、一国(一藩)の独立を基となせ
②天朝を尊び、幕府を敬え
③風俗を正せ
④賢才を挙げ、不肖を退けよ
⑤言路を開き、上下の情を通ぜよ
⑥学校を興せ
⑦士民をいつくしめ
⑧信賞必罰
⑨富国
⑩強兵
⑪列藩に親しめ
⑫外国と交われ

●『楠』か『楠木』か
  兵藤裕巳著「後醍醐天皇」(岩波新書)より
  太平記を筆頭に、多くの小説・記録・文書に残る「楠」
  明治期、大日本史見直し過程で出された川田の「楠木」説~学界公認に

  ~ 両説が混在することに
    兵藤は、「楠」説に軍配、そして採用
楠説 楠木説 
太平記 巻第三の1
後醍醐天皇の夢の事、付けたり楠正成のこと
〈帝〉

「木に南と書けば楠だ。この辺りに楠と云う武士はいないか。」
〈律〉
「河内の金剛山の西に楠多門兵衛正成という武芸において名高いものがおります。」

臨川寺領等目録(天龍寺文書)
 正慶元年1332 「楠兵衛尉」の記載
玉英 一条経通の日記
園大暦 洞院公賢の日記
梅松論

大日本史 水戸藩編纂
日本外史 頼山陽

明治10年代
修史館における「大日本史」見直しによる国史の編纂作業が行われる
 
川田剛(かわだたけし)
「正成の家号に必ず木の字を加うべき」

 ~約20種の「旧記古文書」を根拠に「楠」略表記と主張
 この考えは、修史館の後身である帝国大学史料編纂掛(現在の東京大学史料編纂所)に受け継がれ、学界公認の説となる。
 結果、学校教科書や一般書の類も楠木と表記されるようになる。

増鏡





著者・兵藤の結論
 『楠』説を採用!
・川田が「楠木」説の根拠として挙げた「旧記古文書」の多くは、鎌倉幕府側の記録文書で、クスと呼ばれるのを避けて、「楠木」と表記した可能性も考えられ、実証はされていない。
・川田説よりも以前に『楠』説は流布していた。
・「太平記」の圧倒的な影響下にかかれた近世の史書・史論の類は、すべて『楠』である。
 

●楠公碑、拓本掛軸の寄贈を受けて
 918日 掛軸の寄贈を受ける
 寄贈者 岩﨑清人氏 宇都宮共和大学非常勤講師
 京都大学付属図書館
  品川弥二郎が創設した尊攘堂旧蔵の維新資料コレクションの一つ
  明治366月寄贈の軸物約300点の一品/昭和469月 所蔵品として正式登録。旧所有者では、少なくとも昭和30年代には手許にあった
   ~ 明治36年前に制作されていたことが分かる
 ・「村瀬栲亭撰 正四位下検非違使兼河内の守楠公碑」銘
   原文 200文字/2000文字超のうち、約1800字は長文の序
◇村瀬栲亭撰
《碑》
正四位下検非違使兼河内守楠公碑
《銘》

哉楠公 克世厥勲 奉若遺訓 乃義乃仁 社稷安危 依頼一人
人倫大節 負荷一身 延元已降 天歩滋艱 車駕南巡 皇統如線
豺虎猖獗 海宇麻乱 劇賊漫淫 釁寇邊 維公出奇 神化鬼變
挫鋭誉田 逐北瓜生 虜軍土崩 棄兵霧散 江北震驚 悉衆來攻
公據孤城 抗節彌堅 發誓宗社 致命王廷 精貫白日 氣烈秋霜
三千一心 敗八萬衆 電發龍驤 斬獲如菅 賊酋頽靡 殆授其元
甲血淋漓 馬斃兵殫 豈戰之罪 天耶其命 昆弟伏劍 不辱其名
史策所記 炳然猶新 誠忠至孝 孰如公全 千載之下 日月爭光

爰以堅石 于甲可南 以来者 弔古於焉

(略解~扇谷文責)
嗚呼良くも、正しいかな大楠公。国家、王室のため世に尽くした功績は極めて大きい。
遺訓を残す。義を尊び、仁を尽くせと。
朝廷の興亡、一人嫡子正行公に託す。
人としての道、それは国家、主君に対する大きな節操と、正行公、父の遺訓を継いでその任に応える。
湊川で正成が倒れた後、天下の形勢は非常に困難な状況にある。
後醍醐天皇は吉野に入ったが、皇統は岩穴から一筋湧き出るいずみのようなひとすじのように衰えている。
尊氏ら賊軍は激しく暴れ回り、海、山、天、空などしびれるほど乱れてしまった。
勢いの激しい尊氏ら賊軍は、ほしいままに巷にあふれ、争いの糸口を探しながら辺境を奪い取ろうとしている。
しかし、正行公は優れており、まるで神のように不思議な変化、策を繰り出す。
藤井寺の戦い教興寺に細川顕氏の精鋭を夜襲で破り、住吉天王寺の戦いでは山名時氏、細川顕氏の大軍を瓜生野から火を放ち大川・渡辺橋に潰走させた。
敵の軍は土が崩れ落ちるように一挙に崩れ、大川に溺れる兵を見捨て都に向けて一目散に敗走した。
尊氏ら足利勢は連戦連敗に震え驚き、全国からことごとく兵を集め京の都を発進した。
正行公は河内東条に全軍を集め、皇統のために尽くすという志を固く守って変えずに、ますますその志を高々と掲げた。
その誓いを宗廟と社稷、すなわち国家に示し、乃ち死を覚悟して正統な皇統に尽くすと。
正行公らの誠心は輝く太陽をも貫き、その覚悟のほどは厳しい秋の霜をも凌駕する程である。
正行軍3千の精兵は心・思いを一つにして戦いに臨み、八万の敵の軍を次々と撃破した。
その勇敢な戦いぶりは、龍が天に上る如く威勢に優れ、稲妻のように電光石火出撃し、敵兵がまるで原野に咲く茅の如く、ことごとく討ち取った。
敵将、高師直は正行公の勢いに怖れ逃げ隠れ、討ち漏らしはしたものの、賊軍の頭はいただいたのも同然である。
鎧を付けた兵士は誰もが血滴り、多くの兵馬は倒れ、悉く尽きてしまった。
戦のもたらす罪は大きい。しかし、天下のため、命を捧げたものである。
正行公、正時の兄弟は、刀折れ、矢尽き破れたが、その名声を決して汚してはいない。
歴史上の記録によれば、明らかに新しい時代の先駆けとなった。
正行公の示した天子への忠義、父、正成公への孝行、いったい他に誰がこの忠孝両全を成し遂げることが出来た者がいたか。
正行公は、千年の歴史を経てもなお今、太陽そして月とその光を競う輝かしい誇らしい存在である。
ここにおいて正行公をしのび、銘を刻み石柱を建てる。その地は甲可村、雁屋の地である。
四條畷を訪れ、正行公の事績を顕彰し、弔おうとする者は、ここ、小楠公墓所に参られよ。


●くすのきまさつらカルタ
 10月26日(金)
 くすのき小学校カルタ大会
 時間 1330分~1435
 場所 体育館
 参加 3年生児童72名と保護者72名 計144
    学生約20名 正行の会 教育委員会4名 市役所3
    2回に分けて10組づつカルタ取り。
    各班トップ1名の中から上位5名を、12月総合センターに招待
 12月5日(水)~11日(火)  総合センターで原画展
 12月8日(土)午後1時~4  総合センターでカルタ大会
 □最終データ受け取り、業者発注 1000セット

●第7回楠正行シンポジウム

 以下のとおり決定。開催に向け、関係機関等調整に入る。
 事業実施要綱(案)

 □日時 平成3139日(土)午後2時~午後4
 □場所 四條畷市立教育文化センター・2階ホール
      〒575-0021 四條畷市南野5丁目216

             電話&FAX 072-878-0020
 □内容 1部 基調講演
       「くすのきまさつらカルタの制作意義と果たす役割」
         木子 香(大阪電気通信大学総合情報学部・准教授)

     2部 対談
       「今、蘇る楠正行ワールドをあつく語る

        加島裕和(如意輪寺副住職)×扇谷 昭

      NHK大河ドラマ誘致実現に向け楠氏をあつく語る
     如意輪寺、143名の過去帳再現プロジェクト始動!
      史実と伝承を基に、次々と蘇る確かなストーリー

 電通大・社会プロジェクト実習と四條畷楠正行の会コラボ第2弾、「くすのきまさつらカルタ」が完成しました。基調講演は、電通大木子香准教授を迎え、カルタ制作の意義と、今後、カルタが次世代への楠正行顕彰に果たす役割について講演頂きます。
 正平21227日、吉野山如意輪寺を訪れた楠正行は、後村上天皇に別れの挨拶をし、後醍醐天皇塔尾陵に詣った後、本堂に詣で、付き従う143名の武将の名前と辞世の文章を過去帳に記し、板塀に「かゑらじとかねて思えハ梓弓 なき数にいる名をぞとどむる」と辞世の歌を鏃で刻み、決死の覚悟で吉野を出で、四條畷へと向かいます。

 翌正平315日、本陣を構える河内往生院を早朝に発した楠正行千騎は、途中枚岡神社で身を浄め戦勝祈願をした上、巳の刻、野崎で戦端を開くことに。
 この時、正行に従った143名の武将、果たしてそれはいったい誰等であったのか。また、どのような場所でどのような戦いをしたのか。

 如意輪寺では、この過去帳再現プロジェクトを立ち上げ、始動しています。
 また、四條畷楠正行の会は、平成2611月発足以来、楠正行が生きた時代、そして楠正行の生涯に影響を与えた人物や正行の影響を受けた人物等の検証を通じ、楠正行の事績を掘り下げ、繙いてきました。朱舜水作楠正行像賛の発見はその最大の成果です。そして、大人は勿論の事、次代を担う若い世代への継承を目的に、スクリーン映像紙芝居の制作、正行像賛扇子の制作、絵本制作、カルタ制作、構成吟の発表等の事業を続けています。
 そして、今年、思いがけず「正四位下楠公碑」の拓本掛け軸の寄贈を受けました。碑文は江戸末期の儒学者村瀬栲亭の撰で、1800余文字の長文の序と、銘200字が綴られています。会場にはこの掛軸を展示するとともに、銘の略解も発表します。
 143名の過去帳再現プロジェクトの仕掛け人、如意輪寺加島裕和副住職を迎え、四條畷楠正行の会代表扇谷との対談で、今蘇る新たな楠正行ワールドを熱く語り合います。乞う、ご期待!


 展示 正四位下楠公碑拓本掛軸、楠公碑銘略解、四條畷市の小字一覧図他
 定員 100名(先着申込制:電話・FAXEメール・はがき)
              /氏名・住所・〒・年齢・電話番号
 会費 500
 広報 ・ポスター、チラシと関係者等案内状発送

    ・教育文化センターHP、四條畷市HP、四條畷市広報誌2月号
 販売 正行像賛扇子・楠正行カルタ・小説「楠正行」・楠正行CD
 主催 四條畷楠正行の会
 後援 四條畷市・四條畷市教育委員会
    四條畷市立教育文化センター・四條畷神社・産経新聞社
 協力 御妣会・小楠公偲ぶ会

 (お断り:後援、協力の団体名につきましては、現段階ですべてご承諾をいただいているものではありません。)

□「なにわ大坂を作った100人」出版
 古代~15世紀編 1800円+税
 楠木正成・楠正行
 継体天皇、行基、菅原道真、法然、後鳥羽上皇、北畠顕家、一休宗純他
 ・楠正行の項
   四條畷神社の主神 忠義・孝行共に全うした若き武将
   フイールドノート
    今も各地に残る小楠公の足跡
     ~ 教育文化センター・楠正行資料室の紹介記事も 写真と共に
    渡辺橋、河内往生院、四條畷神社、如意輪寺
    正行の墓所/額田首塚・宝筐院首塚・正行寺・小楠公墓所・甑島・
    往生院胴塚
    東高野街道、四条畷駅、楠妣庵観音寺
   参考文献/太平記、田中俊資「楠正行」、扇谷昭「楠正行」他


□楠木検定解答解説会
 日時 107日(日)午後1時~午後230
 場所 産経新聞大阪本社
 内容 1部 特級・1級表彰式
    2部 解答解説会
       講師 安本寿久(産経新聞編集委員)・扇谷昭
 結果 最高得点 90点/1人 特級認定
    1級    80点以上/15
    2級    70点以上/19
    平均点  67.9点/扇谷出題22問 正答率55.0

□後醍醐天皇塔尾陵正辰祭と如意輪寺御忌法要
 日時 927
 参加 扇谷、国府、木村、広木
 内容 正辰祭 塔尾陵に参拝し、陵内で拝礼
    御忌  本堂で法要 散花之儀、献楽之儀、厳修、焼香
        後醍醐天皇座像・玉座・地下衆装束等 新調
 出席 五條元滋(五條頼元24世末裔)、永島全教(観心寺住職)等


 次回例会/現地学習のため教室での例会はお休みします。 
 日時 1113日(火)
 集合 総合センター駐車場 午前900分集合・出発
 行先 大廣寺(池田市)
     正行の遺児を迎えた池田家城主の菩提寺


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信76号はコチラからも(PDF)




「教文でスナッグゴルフ」

日時 平成30年10月8日(月) 午前10時より12時
場所 教育文化センター 芝生広場 
イベント内容 スポーツの秋、ぬける様な好天のもと、スナッグゴルフを楽しみました。



第25回「教育文化センター利用サークル合同サークル展」

日時 平成30年9月16日(日) 午前10時より午後4時
場所 教育文化センター 全館 
イベント内容  教育文化センターを利用するサークルが、日頃の活動成果を存分に発表しました。

楠正行資料室

楠正行資料室





初めてのお絵かき





四條畷楠正行の会 第45回例会

日時 平成30年9月11日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
<例会の様子>
●四條畷市小字図で「古戦田」字地を確認
 今日の例会は、多くの会員で色々な用事が重なり、7人での、やや寂しい開催となりました。しかし、8月傍聴された内藤さんが正式に入会され、また一人新しい仲間を迎えました。
 国府さんから、21号台風による近隣の被災について報告を受けると、安井さんから「四條畷神社境内の木が倒れた」と、扇谷からも「田原住吉神社の直径70センチほどの大木2本が根元から倒れた」等、四條畷の歴史的遺産にも大きな被害が出たとの話題で始まりました
 全国、多くの被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、北海道地震で亡くなられた方々と被災にあわれた方々にもお悔みとお見舞いを申し上げます。


↑村田正志著作集「楠氏の研究」を読み込む


↑ホワイトボードに四條畷市小字図を張り出し、「古戦田」字地を確認



<第45回例会の内容>
楠正行通信第73号(87日発行)
・頼山陽、日本外史で正行の正四位下記す
・楠氏の大節は山河と並び存し、と称賛/日本外史は名分論の武士歴史書
・渡辺橋~袖を断って首をつつみ/足利氏、源氏より罪が重い


楠正行通信第74号(87日発行)
 ・電通大『まさつらカルタ』制作、いよいよ佳境
 ・企画運営・記録班 四條畷市に協力求め表敬訪問
 ・絵札・字札等の制作始まる/21人の学生6班で/講義・現地学習/四條畷市4人の課長、協力約束/くすのき小学校も訪問/記録班・通信発行


楠正行通信第75
 ・823 電通大「まさつらカルタ」集中講義でプレゼン!
 ・「絵札」「字札」「箱」「しおり」の試作発表
 ・正行の会、市職員ら16名参加/くすのき小と総合センターでカルタ大会開催/字札の裏に「逆菊水家紋」/45枚の絵札に大きな拍手/字札・解説文にもルビを打つ/箱のデザインに楠木の花/まさつらカルタ通信第2号発行
 ・学生に、史実との過誤に最大の注意を、と要請!

●楠正虎と正行
 楠(大饗)正虎 永正171520~慶長元年1596

           正成と無縁の正虎、
    正親町天皇から楠氏に対する朝敵赦免の綸旨得る

 元中91392、南北朝が統一され、室町幕府が本格始動すると、楠氏は逆賊として暗黒時代を迎え、その末裔たちは全国へ散ることになる。
 永正17年、血統上は楠氏と全く無縁の楠(クス)正虎が誕生する。
 楠(クス)氏は流浪して河内の大饗に土着したことから大饗と名乗るが、正虎に至り楠(クス)の本姓に帰る。
 楠(クス)は楠(クスノキ)に通じることから、太平記を発信源とする当時の世相=楠正成に対する尊敬心が生まれ、次いで崇拝の念が起き、正成の誠忠が世人に認められる世相を敏感に察知し、正虎は自らを楠(クスノキ)正成の11代末裔を名乗る。
 正虎は筆蹟に巧みであったので、松永久秀に取り入って朝廷に近づき、正親町天皇の皇子皇孫に書道を授け、天文221533、信貴山に、正成の修羅闘争の苦慮と自分の武運増長を、所願するに至る。
 そして遂に、永禄215591120日、正親町天皇から楠氏に対する朝敵赦免の綸旨を得る。更に同年1219日、河内の守に任じられ、永禄61563、従四位下に叙される。

(綸旨)


 建武の頃、先祖正成朝敵たるにより、勅勘せられ、一流己に沈滞し訖(おわん)ぬ。然れども今其の苗裔(びょうえい)として先非を悔い、恩免の事歎(なげ)き申入るるの旨聞こし食さるるものなり。弥奉公の忠功を柚(ぬき)んづべきの由、天気かくの如し。これを悉(つ)くせ、以て状す。
  永禄21120
                   右中弁(花押)万里小路輔房


 楠河内守殿

 これらの文書は香川県の楠家に伝来するといわれる。村田正志によると、疑うべからざる当時の原本とのこと。
 ここに驚くべき時代変化の反映が読み取れる。近世正親町天皇の代に至って、初めて正成以来の楠家一門の朝敵たることが勅免となった。
 楠正虎は、楠氏復活の大立役者といえる。

        近世、楠氏復活の大立役者、正虎
 楠正虎は、松永久秀の祐筆として仕え、久秀没後、織田信長に祐筆として仕える。天正315758月ごろから長諳筆による信長の発給文書が多数みられるという。
 天正101582519日、安土摠見寺で行われた信長による家康もてなしの宴に参列した記録も残る。
 本能寺の変後は、豊臣秀吉に従い祐筆を務める。秀吉時代は文書を筆記することは少なく、和歌や記録の清書を主任務としていたといわれる。
 このように、巧みな処世術と卓越した才能によって、楠正虎は松永久秀、織田信長、豊臣秀吉に仕え、また徳川家康とも交誼を持ったことが分かる。
 このように天下人や有力武将に仕えた楠正虎の存在が、楠氏復活に道を開き、太平記流布等に影響を及ぼし、いわば太平記読みの時代到来に点火をする役割を果たしたものと思われる。
 楠正虎は、慶長元年1596111日に77歳で没するが、世は徳川家康の時代を迎え、太平記読みの世界が広がると、楠公精神の高揚が高まり、万治31660、加賀藩主前田綱紀の命によって狩野探幽が「楠公父子訣別図」を描くことになり、天和元年1681、安東省菴は南朝を正統とする「日本史畧」を著わし、元禄51692、徳川光圀が神戸湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立、同年室鳩巣が理想的な指導者像は楠正成と「明君家訓」を記すなど、一挙に、楠公精神は表舞台に頭角を現してくるのである。
 そして、明治元年1868、明治維新によって日本近代化の幕が切って落とされ、その中心に楠公精神は大きく開花した。
 このように考えると、近世、楠公精神復活の大立役者は、正親町天皇から赦免の綸旨を得た楠正虎によるところ、誠に大と言わざるを得ない。

  江戸期の楠公顕彰を可能にした楠正虎の事績、今再評価を
 後醍醐天皇の目指した天皇親政は、公家社会にほころびが見え、武家社会が台頭する中で時期尚早であった。
 しかし、後醍醐天皇が仕掛け、まいた種は、楠公精神として一君万民国家形成に向けた潜在能力として生き続け、やがて幕末、西欧に学んだ多くの若き獅子たちによって明治維新として開花する。
 南北朝以降、室町、戦国の世を経て、織豊期から江戸初期、楠公精神が復活し、顕在化することになる。
 この顕在化の契機を考えるとき、当時賊軍であった楠氏であったが、楠正虎によって、正親町天皇の赦免の綸旨を得、かつ従四位下の官位、そして河内の守の官職を得た事績は、楠氏復活の一大出発点になったことを、今、再評価すべきではないか。

↓当日の配布資料(扇谷作成)


●楠正行カルタプロジェクト
<今後の予定>
9月広報誌掲載
103日 最終確認(扇谷)~史実との過誤チエック
1010日 電通大学学内大会
       販売用カルタ発注
1026日 くすのき小学校3年生によるカルタ大会
125日~9日 原画展(総合センター)
 128日 総合センターでのカルタ発表とカルタ大会
       販売用カルタ納品・配布・販売開始
 311月 図書館のカルタ大会に出品
311月以降 正行ゆかりの地でのカルタ大会(予定)

●第7回楠正行シンポジウムの開催について
 来年3月、教育文化センターで開催!
 詳細は、10月例会後に発表! 乞う、ご期待!


 <今後の予定>
  09月 実施要項(案)検討
  10月 実施要項決定
  11月 関係者、後援・協力要請
  01月 広報誌原稿・ポスター・チラシ作成
  02月 広報掲載・ポスター・チラシ掲示
  0309日(予定) シンポジウム開催

●門真納税協会会報誌「税と繁栄」8月号に紹介記事載る
 四條畷楠正行の会代表、扇谷が見開き2ページの特集ページで紹介されました。

●各地で「楠公さん」NHK大河ドラマ誘致、署名活動始まる
 四條畷市や河内長野市、千早赤阪村等で組織された誘致協議会の呼びかけで始まった署名活動が広がっています。
 東大阪市では、すべての自治会参加のもと、積極的に署名活動が進められています。
 多くの人々の参加のもと、「楠公父子物語」大河ドラマの実現に期待が高まっています。

●南朝ゆかりの自治体による日本遺産登録を目指す協議会事業に協力
 ワーキンググループに参加要請!

 現在、吉野町が呼びかけ自治体となって、南朝ゆかりの事績、特に各地に残る山城城塞群や数々の南朝文化遺産の日本遺産登録を目指す活動が展開されています。
 この協議会には、全国、九州から東北まで20を超える南朝ゆかりの自治体が集まり、日本遺産登録によるネットワークの構築と観光客誘致で町おこしを図ろうとするものです。
 この協議会では、日本遺産登録後の実行部隊の立ち上げを企画しており、各自治体で参加する団体をワーキンググループとして募っており、四條畷市から四條畷楠正行の会にも参加要請を受けました。

●小字地図で四條畷の合戦の地「古戦田」字地を確認

 山口博氏が作成された四條畷市全域の小字を書き込んだ手書き地図の複写を入手することができました。
 この小字地図には、四條畷の合戦が行われたと推定できる「古戦田」字地が2か所(四條畷保健所から旧法務局跡地にかけた中野一帯、小楠公墓所の前辺り)記されています。
 この日は、参加者全員で、しっかりとその場所を確認しました。
 なお、この小字図には、貝原益軒が南遊紀行に記した「城ムラ」や「茶屋」が、南野から川崎にかけて「城」「茶屋前」小字としてはっきり残っていることが分かります。そして、上田原には、何故か「死人川」の字地が見えます。扇谷は、この地は上田原山中であることから、田原キリシタン弾圧との関係ではないか、と推察しています。
 小字は、まさに地域の歴史そのものを感じさせてくれます。また、なぞをも感じさせてくれます。

 次回例会 
 日時 10月9日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 横井小楠と正行
    電通大学正行カルタプロジェクトについて
    7回楠正行シンポジウムについて

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信73号・74号・75号はコチラからも(PDF)




教文「夏祭り」

日時 平成30年8月25日(土) 午後3時より午後8時
場所 教育文化センター 全館 
イベント内容  芝生広場では、ウォータータイムとダンスチームの発表に加え、井上恵一さんのライブ演奏を行い大変盛り上がりました。その後に花火を行い、本館2階では段ボール迷路や模擬店が並び、楽しく過ごせました。














四條畷楠正行の会 (平成30年8月8日)




       残暑お見舞い申し上げます。
                 



 8月の例会はお休みです。

 7月最初からの猛暑・酷暑に悩まされ、疲れる日々が続きます。8月例会は、このように猛暑という事もあり、またお盆と重なることから休会としました。

 但し、楠正行通信は発行しましたのでどうぞご覧下さい。




●くすのきまさつらカルタ制作、順調に進む
 大阪電気通信大学とのコラボで制作中の「くすのきまさつらカルタ」は順調に取り組みが進んでいます。725日、試作段階の絵札4枚と字札10数枚等を見ましたが、予想以上の仕上がりと喜んでいます。
 823日の集中講義の授業で、私たちの会と四條畷市関係部署の職員に対し、各班から試作のプレゼンテーションを受ける予定です。
 ここでの意見集約を受けて、学生は最終制作に取り掛かります。
 完成は9月いっぱいを予定しています。
 乞う、お楽しみ!


●産経新聞社主催「楠木検定」、大阪、東京で100人挑戦!
 85日(日)、産経新聞社主催の楠木検定が、大阪と東京の会場で行われ、約100人の受験性が挑戦したとのこと。
 新聞報道によると、受験生の一人は、「成行」さんという方で、「名前が成行なので、正成公・正行公に親近感がある。70点はいくかも」と話された、とある。
 全国で100名の受験とは少しさびしい気持ちもあるが、このような機会が増え、更に楠氏、そして正行公の顕彰の取り組みが進むことを願っている。
 受験生の皆様、お疲れ様でした。


❖❖❖❖❖ 楠正行通信 ❖❖❖❖❖

*楠正行通信第73号
 ・頼山陽、日本外史で正行の「正四位下」記す
 ・楠氏の大節は山河と並び存し、と頼山陽称賛
 ・渡辺橋の美談~正行、袖を断って首を包み

*楠正行通信第74号
 ・電通大「くすのきまさつらカルタ」制作、いよいよ佳境
 ・企画運営と記録両班、四條畷市に協力求め表敬訪問
 ・76日付産経新聞朝刊紙面で大きく取り上げられる


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次回例会 
 日時 9月11日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 大饗正虎と正行
    電通大学正行カルタプロジェクトについて
    その他

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信73・74号はコチラからも(PDF)




四條畷楠正行の会 第44回例会

日時 平成30年7月10日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
嬉しい3名の傍聴者の参加
 今日の例会は、3名の傍聴を迎え、急きょ机を1台追加しての例会となりました
 国府世話人から、この度の西日本各地を襲った大雨による災害で被災された方へのお見舞いの言葉で例会は始まりましたが、改めて、被災し亡くなられた方にお悔やみ申し上げますとともに、安否不明の方の捜索が一日も早く進むことを願っています。
 また、建物倒壊や浸水被害にあわれました皆様にお見舞い申し上げます。


うれしい傍聴3人が加わり、机1台増えた例会

↑頼山陽の関係図書を手に説明する扇谷
例会の
内容
*楠正行通信第72号
構成吟 楠正行~志貫き通し義に生きた なわての誇り楠正行

明治維新150年/小楠公登場/この母ありて/楠正行6時間の激闘/四條畷神社 創建/芳野山に残る正行の足跡/平和主義者楠正行

■頼山陽と正行
頼山陽
 安永91780~天保31832
 江戸初期の歴史家、書家、詩人
 「日本外史」
  ~ 幕末から戦時中までのベストセラー
    武家時代の政治の歴史 漢文体の通史
    朱子学的名分論


●日本外史
*巻の五 新田氏前記 楠氏
〔吉野の行宮〕
 正四位下
 …帝、正成の王事に死せしを思ひ、正三位左近衛中将を追贈し、正行を正四位下に叙して、帯刀となし遂に父の官を襲(つ)ぎ、検非違使・左衛門尉に任じ、河内の守を兼ねしむ。
〔正行の北撃〕
 渡辺橋の美談
 …顕氏の軍乱れ走り、渡辺を過ぎて、溺るる者無数なり。京畿(けいき)震駭(しんがい)す。正行、溺卒五百人を援(すく)ひ、衣甲を与へ、礼してこれを遣(や)る。留まり仕えんと願ふ者多し。
〔四條畷の戦い〕
 偽首の件
 …「嗚呼、汝もまた無双の国賊なり」と。己にして曰く、「その勇は嘉(よみ)すべきなり」と。自ら袖を断って首(こうべ)をつつみ、隴上(ろうじょう)に置き、復た進んで師直を索(もと)む。
〔楠氏論賛〕
 頼山陽、楠氏無ければ建武の新政はなかった、と楠氏絶賛!
 …楠氏あらずんば、三器ありと雖も、将(は)た安(いず)くに託して、以って四方の望みを繋がんや。
 …而してその大節は毅然として山河と並び存し、以って世道人心を万古の下に維持するに足る。これを姦雄迭(互い)に起こり、僅かに数百年に伝ふる者に比すれば、その得失果たして如何ぞや。

*巻の九 足利氏正記 足利氏
〔足利氏論賛〕
 頼山陽、足利氏は源氏よりも罪が重い、と酷評!
 …源氏は王土を偸(ぬす)み、以って王臣を捿(ひ)く者なり。足利氏は王土を奪ひ、以って王臣を役する者なり。故に足利氏の罪を論ずれば、源氏に浮(す)ぐ。


頼山陽の漢詩より
*桜井訣別
*謁楠河洲讃有作

●正行カルタプロジェクトについて
613
  講義③  字札の句発表
629
 企画運営部会・記録部会メンバーと市関係部門課長との顔合わせ
 出席:産業振興課長・生涯学習課長・魅力創造室課長・公民館長
76
 企画運営部会・記録部会メンバーとくすのき小学校香村校長顔合わせ


(今後の予定)
725日 各部進捗の確認と調整(扇谷授業出席)
823日 集中講義
      楠正行の会へのプレゼンと質疑応答
      注意 当初予定の824日から変更
      午前10時~正午/講義終了後、学食で学生と昼食会
      出席12
10月以降 くすのき小学校でのカルタ大会
      総合センターでのカルタ発表会・原画点とカルタ大会

311月以降 正行ゆかりの地でのカルタ大会の開催

●小原君絵本、四條畷市教育委員会教育長に贈呈
●産経新聞取材班「教科書が教えない楠木正成」出版!
 楠木正成考「公」を忘れた日本人へ 第1部~第19部 総集編
□楠木検定
 ・『楠木検定』実行委員会主催
 ・開催日 85日(日) 13001500

 ・受験料 ¥3,500
 ・会場 四條畷市/神戸市/河内長野市/大阪市/千早赤阪村/東京都千代田区
 ・50100問/80点以上2級 90点以上1級 上位3人マイスター
 ・9月 解答解説会・表彰式開催
●内藤さんからの情報提供

 四條畷高校卒業生
 昭和16年 大阪府立四條畷中学校発行「太平記鈔・日本外史鈔」
  ~ 正四位下検非違使兼河内の守楠公碑 全文掲載
  ~ 正行奮戦之図 別紙
●小説に四條畷の合戦登場!
 小説「昭和時代にタイムスリップ 原風景 北條」
 推敲に協力依頼有/近々、発行予定
  ~ 四條畷の合戦場所等に見解求められる
●「楠公碑」掛け軸拓本の寄贈申し出
 立川市在住/ご主人が四條畷にご縁
 「正四位下検非違使兼河内の守楠公碑」掛軸拓本を所蔵
 寄贈の申し出を受ける
●隅田城址を訪れる

 ・日時 6月17日
 ・参加 如意輪寺加島住職夫人、広木双葉東京支部長

■隅田八幡神社
 貞観元年859 欽明天皇により八幡宮勧請
 後に石清水八幡宮の社領となり、「隅田の別宮」と称した
 鎌倉時代、隅田党が社務を司る俗別当職、隅田荘の荘官である公文職を務め、隅田党の氏神となる
 永禄31560 松永弾正によって焼かれるが、慶長年間15961614に再建
 江戸時代に入ると隅田荘16か村の産土神として繁栄
 社殿は文政21819に焼失するが、同5年再建されたもの
《文化財》
 国宝「人物画象鏡(じんぶつがぞうきょう)」
■隅田城址

(出典 2015.06.16 橋本市教育委員会 大岡氏取材)
隅田城址≒岩倉城址
 史実の上からは隅田城は特定されていない
 少なくとも南北朝期にはなかったのではないか
 周辺の岩倉城や霜山城などの全体を指すのではないか
②隅田氏
 隅田氏という一族が続いていたものではない
 岩倉氏、葛原氏、霜山氏、山内氏などの一族を総称して、隅田党を組織したものと思われる
 天文年間(15321555
  伝三郎という人物、垂井村に移る→(あたらし)倶氏 同一人物
  「新伝三郎倶氏之碑」
  裏面:永禄三年庚申二月 松永弾正兵火のため隅田八幡宮並岩倉城焼亡際討死
 新倶氏の子、市兵衛 隅田の一老となり、隅田氏を名乗る
 近世の初めに、隅田を名乗ったもの

隅田の西に銭坂城
 坂上田村麻呂の末裔
 伊澄 伊都郡司となり楠木正成の妹を妻にする
    この縁にて正成の旗下に属して軍功を立てる
    この頃、生地と名乗る
    「銭坂城は、生地氏の城跡なり」
 隅田一党はそう簡単には楠攻めに動けない状況
正行、正平2810日の隅田城攻め
・後顧の憂いを絶つというよりも
・生地氏助力の意味から動いたものではないかとの推測も成り立つ(大岡氏)
■利生護国寺~隅田一党の菩提寺

 聖武天皇が行基に創建させたお寺
 鎌倉時代に再興
 本堂は国の重要文化財に指定されている
 史料は全く残っていない 墓は移したもので、特定できる石碑はない
■五条散策

・五條市民俗資料館~天誅組の歴史
・桜井寺~天誅組本陣跡/石手水鉢・刀傷の残る柱(住職説明受ける)
・共同墓地~五條代官墓所・森田文庵の墓(森田節斎の父)
・まちなみ伝承館
・赤屋根半七宅跡

□広木情報
・大廣寺~池田家菩提寺 略記より
 5代池田城主 池田筑後の守充正が帰依、伽藍諸堂を再建

 池田城~大廣寺の下に、池田教依が築城 北朝、足利氏に属していた
 2代目城主は、楠正行遺腹の子、教正
 教正は、後年、子佐正に城を譲り、安芸の五日市に築城、南朝に従った
 充正の弟、恒元の子、恒利が池田城を出て備前岡山の藩主となった。
菊池契月画
 小楠公弟兄
 描かれた二人は楠木正成の長男・正行と次男・正時である。
 本作は、色違いの衣装を身にまとい、溌剌とし精気みなぎる若き兄弟の姿を描いている。
CD楠木正成・楠正行・嗚呼大楠公

 75日 四條畷神社米村宮司表敬訪問
         炭谷(作曲)、扇谷(作詞)

       吉野町・如意輪寺表敬訪問
         炭谷
 ・キャラバンカー
  ボディ3面に全面ペインティング
  建水分神社秋祭り、南河内地区各地区盆踊り等に出演決定!
□インフォーメーション
 ・平成30年度「なわて学」前期講座
  第4回 818日(土)午後2時~ 総合センター
       「小字名で繙く四條畷の地勢とその歴史」

        講師 野島稔・扇谷昭
  第5回 915日(土)午後2時~ 総合センター
       「四條畷ゆかりの人物を繙くパネルディスカッション」
        講師 河井秀夫・藤岡巧一・毎田佑佳

その他
連絡等
次回例会/8月例会はお休み 
 日時 9月11日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 大饗正虎と正行
    電通大学正行カルタプロジェクトについて
    その他

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信72号はコチラからも(PDF)



四條畷楠正行の会 第43回例会

日時 平成30年6月12日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
●アクシデントに見舞われた6/9現地学習
 そして、いよいよ正行カルタ字札44句の決定!

 69日に実施した大阪電気通信大学・正行カルタプロジェクトの現地学習(渡辺橋・四條畷神社・小楠公墓所・和田賢秀墓)は、JR学研都市線の野崎駅付近で起こった人身事故の影響をまともに受け、集合地の天満橋駅に向かえない中、出発地の四条畷駅に参加予定者全員が集合してきた。
 JRの発表では、午後3時までの回復は難しいとのアナウンスがあり、急きょ、予定を変更して、天満橋に集合をかけていた学生たちに京阪電車(天満橋~大和田)とバス(大和田駅~四条畷駅)を使って四条畷駅に戻ってもらうこととし、それまでの間、正行の会のメンバーは臨時ミーティングをすることに。
 市役所から参加の魅力創造室と産業振興課の女性職員を含め、8人で、正行談議に花を咲かせ、四條畷高校の前に移動して、四條畷の合戦の行われた地を示す「古戦田」字地について再確認をした。
 しかし、早めの判断が功を奏し、午後248分に四条畷駅で合流でき、若干遅れはしたものの予定通り、四條畷神社、和田賢秀墓、小楠公墓所と現地学習をすることができた。
 この日の例会は、アクシデントに見舞われた現地学習の話題もちきりといった中で始まった。


↑総勢14人の参加で行われた6月例会

↑扇谷が発表する正行カルタ44句の原案に目を通す会員
例会の
内容
*楠正行通信第70号
古武士的武将型、乃木希典は楠精神の信奉者

楠兵法・山鹿流兵学の師範、玉木文之進(吉田松陰の叔父)に師事
・乃木が座右の書とした山鹿素行の『中朝事実』
 ~万世一系の皇統と、日本の歴史・武士道精神の意義を説く~
*楠正行通信第71号
大阪電気通信大学正行カルタプロジェクト
 613日、字札44枚の句を発表

正行カルタ、第2回講義(523日)で構成吟を披露
真木さん、辻さん、迫力たっぷりに吟じる
 構成吟『楠正行』
  ~志貫き通し義に生きた なわての誇り楠正行~

   〔7場面構成と吟題〕
    明治維新150年    :楠公詠史   藤田東湖
    小楠公、登場      :桜井訣別   頼山陽
    この母ありて      :詠小楠公母  本宮三香
    楠正行、6時間の激闘  :十念寺    宮崎東明
    四條畷神社創建     :河内路上   菊池溪琴
    芳野山に残る正行の足跡 :芳野懐古   梁川星巌
    平和主義者、楠正行   :楠帯刀の歌  元田永孚


正行カルタ44句について
 この日、大阪電気通信大学とのコラボで制作を進めている正行カルタの字句(案)を発表した。
 字句案は、多くの会員から215件が寄せられた。
 この字句案は、楠正行の生涯について、幼少期から四條畷の合戦で討死する23歳までの事績を、字札セレクションとして55場面設定し、それぞれの場面ごとに字句案を考え、提出していただいたもの。
 字札セレクションの例を上げると、「桜井の訣別」「正成の首級、届く」「龍覚坊に学ぶ」「渡辺橋の美談」「板塀に辞世の歌」「津野辺、ハラキリ字地で自刃」「宝筐院に並ぶ二つの墓」「高山右近、日本訣別の書」「千騎対四万、四條畷の戦い」「朱舜水の正行像賛」など。
 当初の55場面になかった、「明治の正行」と「平成の正行」の2場面を追加し、57場面=字札セレクションから、44句を決定することにした。
 扇谷が配布した一覧を見ながら、「あ」から順次字札の句(案)を読み上げ、発表したが、ほぼ会員の思いに叶ったのか、頷いたり、どよめいたりと、和やかな雰囲気の中での意見交換・検討となった。
 検討の結果、「還幸」を「還る」に、「奉納」を「納める」に改めるなど、より子ども達にも理解が進むように数句について修正を加えた。
 また、楠の姓の表記について、「楠木」と「楠」が混在する中、私たちが正成には「楠木」の二文字を使い、正行には「楠」の一文字を使っていることをしっかり伝えてはどうかとの楠野さんの意見が出され、急きょ、「ん」の札を作ることに満場一致決定した。
 「ん 正成は楠木 正行は楠?」
 正行カルタ字札 最終45句 決定!
 最後に、これら45句を、6月13日、大阪電気通信大学の学生(正行カルタプロジェクト)に提案することとした。

如意輪寺過去帳再現プロジェクトスタート
 楠正行は、四條畷の合戦に向かう前、同寺を訪れて正行とともに143名の武将の名を過去帳にしたため、その過去帳を如意輪堂本堂に奉納したと伝わる。
 しかし、現在、その過去帳は如意輪寺には残っていない。
 如意輪寺では、この過去帳の再現プロジェクトを始動した。
 正行ゆかりの地の関係機関や研究者等の支援を受け、四條畷の合戦に従った143名の武将の名前を明らかにしようという壮大なプロジェクトである。
 加島裕和副住職は、「毎年、一人、二人でもよい。何年かけても、143名の武将の名前を明らかにし、過去帳を再現したい。」と、熱く語る。
 5月22日(火)、過去帳再現プロジェクトの始動ともいえる加島裕和副住職の四條畷訪問があり、扇谷代表がご案内した。
 この日、加島副住職は、扇谷の案内で、<四条畷駅~教育文化センター(楠
 正行資料室見学)~市役所(市長・教育長等表敬訪問)~福寿司(昼食)~
 小楠公墓所~四條畷神社(米村宮司表敬訪問)~和田賢秀墓~田原図書館
 (職員懇談・まさつら絵本閲覧)~飯盛山の小楠公像~四条畷駅>と、精力
 的に回った。
 この日、加島副住職は、如意輪寺に残る26名の位牌に記された名簿を持参し、扇谷に調査を依頼。今後、四條畷神社や関係者の皆さんの協力を得て、調査を進める予定。
 扇谷があずかった如意輪寺の位牌に残る26名の名簿と、四條畷市史に記されている24名の名簿との照合作業を開始。


如意輪寺の位牌に残る26名と、四條畷市史に載る24名の武将
如意輪寺の位牌  四條畷市史 
楠次郎正時
楠左将監正家
同人子息
和田新発意賢秀
和田新兵衛
和田紀六左衛門
同人子息二人
野田四郎
同人子息二人
橘五郎兵衛義親
金岸某
同人舎弟
良圓
同人子息
三輪西阿
同人子息
河邉石掬丸
譽田某
阿間了願
大塚掃介惟久
畠山與三職俊
畠山
青屋刑部
西河父子
 
楠次郎正時
楠左将監正家
同人子息
和田新発意賢秀
和田新兵衛
和田紀六左衛門
同人子息二人
野田四郎
同人子息二人

金岸某
同人舎弟一人
良圓
同人子息
三輪西阿
同人子息
河邉石掬丸
譽田某
阿間了願
大塚掃介惟久
畠山與三職俊
畠山
青屋刑部

 

教育文化センター子ども学習講座「まさつらくん」
 5月19日、6月2日の2回にわたって教育文化センター主催・子ども学習講座「まさつらくん」が開催され、扇谷・川口が講師として出席した。
 19日には、5名の小学生と保護者が、また、62日(土)には、 4名の小学生と3名の就学前児童とその保護者が参加した。
 第1部の絵本読み聞かせは、大阪電気通信大学が制作した6巻本の「楠正行」をスクリーンに映し出し、朗読ボランティア「あけぼの」の方の読み聞かせで行われた。
 大きいスクリーンに映し出される絵本の映像を見ながら、楠正行という人物の生涯や人となりなどが少しは想像できたのではないだろうか。
 第2部、19日は、映像紙芝居を大きなスクリーンに映して、子どもバージョンに吹き替えた脚本を使っての扇谷のナレーションと、川口さんのピアノ演奏(桜井訣別や四條畷などの歌)で実施。
 また2日は、如意輪寺や湊川神社等発行の絵ハガキ・小冊子等の映像をスクリーンに映し出し、これも子どもバージョンに吹き替えた脚本を使って正行絵物語を、扇谷のナレーションと川口さんのピアノ演奏で届けた。
 場面場面に合わせたピアノ演奏が非常に効果的で、「目」と「耳」から入ってくる情報に、子どもたちも食い入るようにスクリーンを見つめていた。
 2日の講座終了後、扇谷が1年生の男の子に声をかけると、「楽しかった。」の一言が返ってきた。
 少なくとも、退屈はしなかったようである。
 また、小学4年生の女の子は、「3年生の時、楠正行を習った。」と、四條畷市の郷土学習で副読本を使った教育がしっかりと行われていることも分かった。郷土ゆかりの偉人、楠正行の顕彰が一歩一歩ではあるが、着実に進んでいるようだ。
 なお、この日のサプライズとして、扇谷から、正行の肖像画と絵本の一コマをデザインした、手作りの名刺型修了証をプレゼントした。

楠岩五郎-河内のすもんとり-
 出典:「大阪春秋」平成26年秋号(NO.156)≪木村さん提供≫
・谷風、小野川、雷電が活躍した18世紀末の江戸期に活躍した河内力士がいた
・その河内力士の名前は、二本松岩之助改め楠岩五郎/小野川部屋所属
・天明5年(1785)、21歳、大阪本場所幕下35枚目で登場
・寛政元年(1789)、江戸11月場所、横綱小野川の土俵入りで太刀持ちを務める
・寛政3年(1791)、江戸春場所で、楠岩五郎と改名
 ~江戸城吹上苑での上覧相撲で、中入り前の29番目に登場し、江戸の荒馬に
  押し切りで勝利。楠岩五郎として初名乗りを受ける。
  『楠』の名乗りは、出身地・讃良郡深野村の近くの「楠正行墓」に因むと
  いう。
・慈眼寺旧墓地に「楠岩五郎」の墓がある。

四條畷市ふるさと納税楠正行特別バスツアー『講話集』発行
 四條畷市と四條畷楠正行の会が共催して、424日、26日と2回にわたって実施した楠正行特別バスツアー。
 講話いただいたのは以下の5名の方々。
 建水分神社/岡山禰宜、観心寺/永島名誉住職、如意輪寺/加島住職、
 宝筐院/吹田住職、正行寺/和田住職

 以上5人の方の講話を扇谷が採録し、楠妣庵観音寺・桜井の駅跡・東寺の
 グラビアページを加えて、講話集冊子を発行した。
 523日発行
 5月中に、参加者に郵送を終えた。

64日、お一人からお礼状届く〉
 大切な宝の冊子となりました
・講話集お送りくださりありがとうございました。大切な宝の冊子となりました。いろいろ楽しい素晴らしい思い出が出来まして幸せです。

小津安二郎監督作品「彼岸花」1958年公開で、笠智衆の詩吟登場!
 映画の一場面、同窓会の宿で、独吟を披露する笠智衆
 吟題は
  楠正行如意輪堂の壁板に辞世を書するの図に題す
 ~ 吟を聞き、「いいなあ。」「やっぱりいいなあ。」と頷く
   出演者一同
   そして、この後「桜井の訣別」を誰ともなく合唱する場面に
 ≪DVDは真木さん提供≫

小原君の作品「くすのきまさつらものがたり」製本完成!
 大阪電気通信大学在学時に小原君が卒業制作した「くすのきまさつらものがたり」の製本化を、扇谷が出版者となって進めてきたが、このほど完成。
 この日、四條畷楠正行の会でのお披露目の後、四條畷市教育委員会を通じ、「四條畷図書館」と「田原図書館」2つの図書館に寄贈の予定。
 この絵本は、1冊1巻本で、正行の生涯をしっかりしたタッチで描いていている。
 是非、2つの図書館でご覧ください。

その他
連絡等
次回例会 
 日時 7月10日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 頼山陽と正行
    電通大学正行カルタプロジェクトについて
    その他

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信70号・71号はコチラからも(PDF)




教文児童学習講座「親子で学ぶ!くすのきまさつら くん

日時 平成30年6月2日(土) 午後1時30分~午後2時15分
場所 教育文化センター 2階 ホール
イベントの
様子
スクリーン投影による絵本読み聞かせと紙芝居・絵物語
 教育文化センターでは、四條畷の合戦で若くして討死し、四條畷神社に祀られ、小楠公墓所に葬られている楠正行について、広く子ども達にも学んでもらおうと、「教文児童学習講座―親子で学ぶ!『くすのきまさつらくん』」を企画・開催しました
 この企画は、この度、四條畷楠正行の会が大阪電気通信大学総合情報学部に制作を依頼して完成した絵本「くすのきまさつら」6分冊1巻本を使って、この絵本データを大型スクリーンに映しながら、読み聞かせを行うものです。
 また、今一つは、四條畷楠正行の会が過去に作られた紙芝居を補作・補正・カラー映像化して制作した映像スクリーン「正成、正行の生涯」と、湊川神社(神戸市)・楠妣庵観音寺(富田林市)・如意輪寺(吉野町)がそれぞれ発行している小冊子・絵葉書の映像スクリーンを使って楠正行の生涯を、映像を通じて学ぶものです。
 519日(土)/第1回と62日(土)/第2回の2回にわたって実施したもので、第1回には5人の小学生と保護者が、また第2回には4人の小学生と3人の就学前児童と保護者が、それぞれ参加しました。
(写真宇:上/開会であいさつする奥田所長、下/つじのさんによる絵本読み聞かせ)

6冊の絵本を読むと正行の人間像が子ども達におぼろげなく分かる
 講師として、絵本朗読では「ボランティアあけぼの」のつじのさん、映像スクリーンでは四條畷楠正行の会の扇谷代表と川口敦子さん(ピアノ演奏)の3人を迎えました。
 絵本は、「正行の学び「正行の友」「正行の大志」「正行の恋」「正行の情け」「正行の最期」の6分冊で、子ども達が、正行の成長の様子を身近に感じられるようになっています。
 正行の学びでは、立派な武将になるためには、剣術や読み書きだけではなく、裁縫もできなければならないと、全人格的教育を受けた様子を盛り込んでいます。また、正行の友では、従兄弟の和田賢秀と相撲やコマ回し、竹馬などを通じてケンカしながらも立派に成長し、友情を深めていった様子が分かるようになっています。
 正行の情けでは、住吉・天王寺の戦いで敵兵が大川に落ち、おぼれた時「戦いを止め!溺れる兵を助けよ。」と、敵の兵を助けるという、優しい平和主義者であった正行の側面が分かるようになっています。
 両日とも、ボランティアあけぼののつじのさんの読みかせを、子ども達は、スクリーンを見ながら熱心に聞き入っていました。
(写真:スクリーンに移された映像に合わせて読み聞かせるつじのさん)

スクリーンに写した絵葉書等に合わせて正行のことをわかりやすく伝える
 2部のスクリーン映像は、大人向けの紙芝居や学生向けの絵葉書を使った絵物語を子どもバージョンに脚本を書き換え、ピアノ演奏を交えて上演しました。
 「桜井の駅」や「四條畷」のピアノ演奏を担当する川口さんは、扇谷代表のナレーションに合わせて巧みに演奏し、会場全体が、一つになって正行の世界に浸りました。
 62日の映像スクリーンの最後には、ピアノ演奏に合わせた川口さんの独唱も披露され、子ども達も余韻を楽しんだ様子でした。
 2回の講座に出席した子ども達には修了証と記念品を授与しました。
 講師の扇谷代表からも、正行の肖像画(佐野喜美作)と絵本の一こまをデザインした名刺型の修了証がプレゼントされるというサプライズがあり、子どもたちも大喜びの様子でした。
 終了後、参加した小学1年生の男の子は、「今日は楽しかった。」と満足げに語ってくれました。
 教育文化センターでは、この児童学習講座を継続して企画・開催の予定です
(写真:ナレーションを担当する扇谷代表とピアノ演奏をする川口さん)




教文児童学習講座「親子で学ぶ!くすのきまさつら くん

日時 平成30年5月19日(土) 午後1時30分より2時15分
場所 教育文化センター 2階ホール 
イベント内容 教文では小学3~4年生を対象にした歴史学習会を行いました。
第1部では新しく制作された楠正行の絵本6冊をスクリーンに映し出し、楽しく解り易い読み聞かせ会を開催しました。
第2部では楠正行のマンガ映像をピアノ演奏と共に上映しました。
次回は6月2日(土)午後1時30分より開催します。





「教文 親子体操教室」でお芋を植えました。

日時 平成30年5月10日(木) 午前11時より
場所 教育文化センター 
イベント内容 今日は「なると金時」の苗をみんなで植え付け、お水をあげました。
大きく育ちますように。






四條畷楠正行の会 第42回例会

日時 平成30年5月8日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
関西・大阪21世紀協会、「なにわ大坂を作った100人」に楠正行!
 今日は、例会に先立ち、午後1時から来客があった
 公益財団法人「関西・大阪21世紀協会」アドバイザーの江並さんという方で、現在、同財団の公式ホームページにアップしている「なにわ大坂を作った100人~足跡を訪ねて~」の73話、74話で楠木正成・正行を取り上げるため、取材を受けた。
 このシリーズは、取り上げた人物の本論と、ゆかりの地や史跡を訪ねたフイールドノートの2部構成で、拝見すると、時間をかけてゆかりの地を回っておられることが分かる。
 嬉しいことに、既に私たちの会の事務局を置いている四條畷市立教育文化センターの「楠正行資料室」にもお越しいただいていた。そして、この「なにわ大坂を作った100人」シリーズは、順次、書籍化され刊行が進んでおり、この73話・74話は、直近発刊の第2刷に収録されるとのこと。
 このように、正成・正行の顕彰が様々な方面・方々によって広がりを見せていることはうれしい限りである。
●例会は、国府世話人の「ふるさと納税楠正行特別バスツー」の報告で始まる

 例会は、会員13人と、関西・大阪21世紀協会の江並さんが出席しての開会となった。
 冒頭、国府世話人から424日、26日の2日間にわたって行われた四條畷市ふるさと納税『楠正行特別バスツアー』の様子が報告された
 行く先々で、施設関係者の皆さんの歓待を受け、普段見られないところにご案内いただいたり、バスツアーのために「楠正行公670年忌法要」を営んで頂いたりと、特別観満載のツアーであったことを興奮気味に報告。
 扇谷からは、現在、このバスツアーで講話いただいた皆さんの講話集の採録中で、連休に文字起しを終え、この後パソコン入力の上、仕上げに入るとのアナウンスをした。
 この特別バスツアーは、四條畷市主催事業を、四條畷楠正行の会が協力要請を受けて共催実施したもので、企画・コーディネート・講師派遣を行った。とりまとめ予定の講話集は、招待者等関係者に配布の予定。


↑乃木希典と正行について語る扇谷


昭和40年、小林幸子が湊川神社楠公武者行列で小楠公にふんしたこと、合わせて、古賀政男作曲・西沢爽作詞「小楠公」を披露したことを扇谷から伝え、小林幸子8歳の武者姿のカラー写真に見入る会員

↑昭和40年、武者行列で小楠公にふんした小林幸子(神戸市湊川神社提供)

例会の
内容
*楠正行通信第68号
90歳の長寿を生き、9代の南北両朝に仕えた父、宣房

後醍醐帝に諫言するも聞き入れられず出家した子、藤房
・太平記『駿馬献上のこと』に藤房の人物像
*楠正行通信第69号
楠正行絵本6巻本、二つの図書館で閲覧はじまる
読後感想ノートに綴られた嬉しい反応~「正行の事に興味がわいてきた」
ふるさと納税~特別バスツアー、2日にわたって開催
電通大学、社会プロジェクト実習第二弾は、「正行カルタ」
談山神社、春のけまり祭に招待受ける

乃木希典と楠正行
乃木はどうして国民の記憶に残る武将になったのか
 人物叢書「乃木希典」の中で、松下芳男は乃木希典について以下の通り記している。
― 明治建軍から昭和解隊までの75年間において、陸軍大将の高官に登ったものは、実に134名の多数であるが、このうちの幾たりが、今日なお国民の記憶に残っているであろうか。・・・著名な大将でも、大部分は国民の記憶から泡沫のように消え失せて、わずかに残る者は、西郷隆盛、大山巌、それに乃木希典ぐらいではあるまいか。
 西郷・大山はしばらく置き、乃木希典はどうしてかくも国民の記憶に残る武将になっているのであろうか。
 近代日本史にエポックを画した日露戦争において、世界戦史に特筆される旅順攻略戦に首将であったという事にもあろうが、しかしそれよりも、国民の古武士的武将型の理想像を、彼においてみたからではあるまいか。
 忠節・忠恕(ちゅうじょ)廉恥(れんち)廉潔(れんけつ)・誠実・質素・仁慈(じんじ)克己(こっき)という徳を備え、崇高な人格の輝く古武士的武将であったからではあるまいか。

●乃木は楠精神の信奉者であった

 この乃木が、楠精神の信奉者であったことが、「乃木希典 高貴なる明治」の中で岡田幹彦が綴っている。
― 乃木は楠木正成を深く崇敬した。乃木の一家をあげての尽忠報国は楠公を見習ったものである。
 乃木は楠公に関する書物をできる限り集め、極力これを考究し、その忠烈をしのび、その言行を学んだ。 乃木は楠公に関する書物をできる限り集め、極力これを考究し、その忠烈をしのび、その言行を学んだ。
 楠公が正行と別れた桜井の駅には、今日、乃木の筆になる「楠公父子訣別之所」という大石碑が建っている。この石碑が建てられる時、関係者より、乃木は碑文の文字を書くべき最適の人物として依頼を受けた。
 はじめ乃木はこれを固辞していった。
 「楠公は我が国無双の忠臣なり。かかる(たっと)き遺蹟に私が揮毫するは僭越の謗りを(おそ)る」
 だが、乃木以外に頼むべき人物はいないとする関係者の懇請を断りきれず、これに応じた。乃木は楠公につき次の歌を詠んでいる。

いたずらに立ち茂りなば楠の木も いかでかほりを世にとどむべき
根も幹も枝ものこらず朽ち果てし (くす)の薫りの高くもあるかな


写真:旅順陥落後、水師営で乃木とステッセルの歴史的会見が行われた。この時、乃木はあえてステッセルに帯剣のままでの降伏調印を許し、広く世界にその「武士道精神」を讃えられたことは有名な話。

●乃木希典、玉木文之進門下、山鹿流兵学=楠兵法
 「嗚呼至誠の人 乃木希典将軍」を書いた吉河寅二郎は、同書の中で、玉木文之進と吉田松陰と乃木希典はともに姻戚関係にあたり、一本の縦糸のようなものである、と以下綴っている。
― まず、玉木文之進は、吉田松陰の叔父にあたる。すなわち、松陰の実父は、杉百合之助(杉家の長男)、その弟が吉田大助であり、大助の弟が玉木文之進である。
 松陰は、5歳の時に、子どものなかった吉田家の養子となった。松陰は、兄の杉梅太郎と一緒に叔父の玉木文之進に訓育され、松陰は、13歳の時に、文之進の家学(山鹿流兵学)の後見者となる。
 山鹿流兵学は江戸初期の山鹿素行によって始まり、山鹿家を本流とし、松陰の養家先の吉田家にも受け継がれた。吉田大助は、吉田家の第七代にあたり、松陰は第八代目に当たる。吉田家としては、山鹿流兵学の指南役として、どうしても血統を絶つことはできなかったので、松陰を養子にとったものと思われる。この時代の山鹿流兵学の免許皆伝は、玉木文之進のほかに林真人、石津兵七等、錚々たる人がいた。
 玉木文之進と妻達子との間に実子彦助が生まれたが、若くして亡くなったため乃木希典の弟正誼が玉木家の養子となった。
 希典と正誼の間に妹のキネ、正誼と周作との間にイネという妹があり、それぞれ小笠原家と長谷川家に嫁いでいる。
 玉木家を継いだ正誼は、後に松陰の兄、杉良太郎の長女豊子と結婚している。
 このように玉木家、杉家、吉田家、乃木家は、互いに深い姻戚関係にあった。


乃木希典と山鹿素行著『中朝事実』
 乃木希典は、山鹿素行の著『中朝事実』を座右の書としていた。
 乃木希典は、明治天皇の大喪を目前に、910日、皇太子殿下(昭和天皇)の下を訪れ、自費で出版した『中朝事実』に自ら要点に朱を入れ、献上し、「将来、天皇につかれた時のご参考になりましょう」と言ったと伝えられる。
 「山鹿素行 中朝実を読む」の著者、新井桂は、現代に通じる『中朝事実』の教えと称し、”中朝事実の核となる部分は端的に申し上げれば、日本書紀などの歴史書や多くの古典を基にして万世一系の皇統と、それを基盤にした日本の歴史、武士道精神の意義を説いたことにある”と記しています。
 そして、山鹿素行の思いは、中朝事実の自序に総括されてのべられているとも記しています。
 すなわち、山鹿素行は、自分は若いころ、外朝と言われた支那の国の人物を敬慕してきた。今はそのことを後悔し、最後には「最も素晴らしいのは日本だ」と民族的な自覚に回帰していった―――そういう素行の心の変遷がよく分かります、と。
 学問によって日本人としての自覚と誇りを呼び覚まされ、日本に生まれたことに無上の喜びを感じたことがこの著述となっていったのでしょう、と。

 (大意)
 常に大海原の極まりなく広いのを見ているものは、その広大なことに気付かず、常にあれ野原の限りなく広い中に住む者は、その拡がりを意識しない。
 それは長い間にすっかり慣れ親しんでしまったからである。
 このことは、海や野原について言えるだけではない。
 私もまた、中華文明の日本に生まれていながら、その優美なことに気付かず、もっぱら外来の経典を好み、得意になってその聖賢を慕ってきた。
  何と心をほしいままにしたことか、何と志を失ってしまったことか。まるで奇を好み、異を尚(とうと)ぶようである。
 そもそも、中華文明の日本の海も国土も、万国に優れ、国民は世界の中の精秀といえる。
 それゆえに、その精神も洋々としており、聖天子の優れた統治も永続している。その文化も輝くばかりである。武徳も勢い盛んであって、天地の偉大さにも匹敵すると云えよう。
 冬1124日、皇統の小冊子を編纂して、青少年に読ませ、この国の本を忘れないようにした。
(「山鹿素行『中朝事実』を読む」荒井桂著より転載)

☆正行カルタプロジェクトについて
*今後の日程
 原則:水曜日の第5限 450分~620
    場所 10号館1階 103教室
 (前回より変更有)
 512日 学外学習① 吉野山如意輪寺
 523日 講義①   楠正行年表を使って正行の事績をたどる/扇谷
 530日 講義②   太平記に見る正行の生涯をスクリーン映像
            詩吟/変更!
 609日 学外学習② 渡辺橋、四條畷神社、小楠公墓所、和田賢秀墓
 613日 講義③   字札発表/
 824日 集中講義  楠正行の会へのプレゼンと質疑応答(時間未定)
*字札の句(案)の提出につい/進捗報告

☆報告事項、その他

CD/「楠木正成・楠正行・嗚呼大楠公」について
 推薦 河内長野市長、千早赤阪村長、四條畷市長、島本町長、富田林市長
    吉野町長 決定!
    観心寺、建水分神社、金剛寺、四條畷神社、湊川神社、如意輪寺、
    千早神社 楠妣庵観音寺 決定!


□教育文化センター子ども学習講座「まさつらくん」
 519日(土) 1330分~1415
 62日(土)  1330分~1415
 ・絵本読み聞かせ   ~ 図書館職員
 ・正行映像スクリーン/子どもバージョンに吹き替え
   ~扇谷、川口(ピアノ演奏)

5月現地学習
 526日(土)湊川神社・楠公祭~武者行列観覧
 815分 四条畷駅:改札口集合
 823分発 新三田行乗車 尼崎乗り換え 神戸駅着 924
 940  湊川神社「発輿祭」
      高速神戸駅から湊川駅へ地下鉄で移動
 1100  湊川公園「御旅所祭」~舞楽『湊川』奉納
      神戸駅に地下鉄で移動
 1315  神戸駅周辺で昼食
 1600頃 四条畷駅着:解散

□小林幸子、小楠公について新たな情報!
 小林幸子の「小楠公」は、昭和40年、湊川神社楠公祭で3000人の前で披露された!
 この年、湊川神社楠公まつり武者行列に小楠公に小林幸子登場!
 昭和41年の楠公祭にも、2年連続で、小林幸子「小楠公」歌謡


◆湊川神社社報「湊川」より(湊川神社提供)
↓昭和40年、小楠公にふんした小林幸子にファン殺到の様子を伝える社報記事


3000人の聴衆の中には多くの子ども達も参加


↓昭和41年、2年続けて出演し、「小楠公」を歌唱した小林幸子を伝える社報


その他
連絡等
次回例会 
 日時 6月12日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 北條一族と正行
    電通大学正行カルタプロジェクト/字句について
    その他

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信68号・69号はコチラからも(PDF)



教文「親子広場」

日時 平成30年5月3日(木) 午前11時15分より正午
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 子ども読書週間にちなみ、絵本の読み聞かせと体育遊び、ゲーム等を行いました。
また、スタンプラリーのスタンプも貯まりました。








教文「子ども広場」

日時 平成30年4月25日(水) 午前10時30分より11時45分
場所 教育文化センター ホール 
イベント内容 子ども読書週間にちなみ、絵本の読み聞かせとエプロンシアター、手作りおもちゃ遊びを行いました。






四條畷楠正行の会 第41回例会

日時 平成30年4月10日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
 今月は、いつもの例会とは異なる、若い力を感じる例会となった。
 「こんにちは。見学させていただいてもよろしいですか。」と入ってきたのは、何と20代の若者で、私たちの会にとっては初めての若い世代の参加となり、会場には一気に活気がみなぎる事に。
 今月は体調不良等で欠席者が多く、淋しい例会となるところ、飛び入り参加で元気をいただき、加えて、国府さんが準備してくれた「お菓子」と「コーヒー」が出され、和やかな雰囲気の中で例会は始まった。


↑正面黒板、3.19正行考シンポジウムを伝える329日付産経新聞を掲示

例会には若い人が加わり活気が
例会の
内容
3月例会のおさらい
楠正行通信第66号
3.19楠正行シンポジウム、盛大に開催
扇谷、正行顕彰の取り組み、魅力を発信
・東儀さんの特別講演でスタート、続いて四條畷楠正行の会の活動報告
・パネルディスカッション、扇谷、正行は平和主義者・教養人と伝える
*楠正行通信第67号
32324 上北山村・四位殿神社を訪ねる現地学習
四條畷・金剛山・吉野山・上北山村をつなぐ正行
如意輪寺の加島副住職、東京から広木支部長も参加
龍川寺の後、四位殿神社では中岡神職の祝詞奏上と全員の拝礼
白川の里お宮様の十一面観音に対面、公民館で歴史講座
龍川寺、林泉寺そして熊野路荘で温かいおもてなしを受ける

3.19楠正行シンポジウムについて
329日付産経新聞朝刊見開き2面の特集記事参照
 展示・販売

 扇谷/小説「楠正行」21冊、正行像賛扇子6本、cd楠正行14

現地学習/上北山村、楠正行を祀る四位殿神社他を訪ねて
*参加 扇谷、国府、国府文、木村、森山、土井、加島副住職、広木
*会計報告 別紙
*お礼状発送 中垣内教育長、中岡さん、熊野路荘
 5月 上北山村から四條畷訪問予定とのこと

●正行と藤原宣房&藤房について
資料① 藤原氏(萬里小路家)略系図


資料② 萬里小路宣房について
人物叢書「金沢貞顕」(永井晋著)より 萬里小路宣房に付いて
金沢貞顕とは…
 鎌倉時代の末期、北条高時政権を支えた有能な保守本流の政治家。
 霜月騒動に連座して不遇の幼少期を送るが、得宗家の信頼を得て六波羅探題・連署となり、病弱な執権北条高時を支えた。15代執権に就任するが、政争の激化により辞任、幕府の滅亡に殉じた。膨大な貞顕書状から、高時政権を再評価し、称名寺造営や金沢文庫本の充実から、鎌倉の武家文化に足跡を残した権力者。
正中の変
 919日、後醍醐天皇の討幕計画が露見した。

 六波羅探題北条範貞は、関東(もうし)(つぎ)西園寺実衝の北山邸に小田時知と二階堂行兼を派遣して民部卿日野資朝と少納言日野俊基の引き渡しを求め、また小串範行と山本時綱を派遣して討幕計画に与した土岐頼員(よりかず)と多治見国長を討った。六波羅探題の使者が鎌倉に到着したのは、923日の事である。
 101日、六波羅の訊問に、日野資朝が白状したことが伝えられた。
 この事態を受けて、後醍醐天皇は105日に萬里小路宣房(までのこうじのぶふさ)を弁明の使者として鎌倉に派遣した。京都の人々は宣房の鎌倉下向を忠臣として褒めそやしたが、鎌倉では安達時顕・長崎高綱の訊問に困惑することも多く、安達時顕を恐れる様は嘲弄を招いたという(「花園天皇宸記」)。
後醍醐挙兵

 814日、後醍醐天皇は「疫疾(えきしつ)」を理由に「元徳」を改元して「元弘」と改めた。
 その10日後の824日、六波羅探題北方北条仲時は後醍醐天皇が御所を脱出したことを察知し、関東申次西園寺公宗(きんむね)にそのことを申し入れた。25日、六波羅探題は萬里小路宣房をはじめとした後醍醐天皇の側近を捕縛した。

 827日、後醍醐天皇は笠置寺に入ったが、六波羅探題は後醍醐天皇が延暦寺に登ったとの風聞から在京人佐々木時信以下の軍勢を差し向けた。この軍勢は唐崎で比叡山の僧兵と合戦し、海東左近将監忠元が討死した。持明院統の後伏見・花園両上皇、東宮(かず)(ひと)親王は、この合戦で六波羅方が破れたことにより、六波羅北殿に潜幸した。
 その後、比叡山に登った後醍醐天皇が替え玉であることが分かると、上林房阿闍梨(ごう)()は大塔の宮護良親王の側近、(ちょう)(しゅん)を捕えて六波羅探題に渡した。
 829日、後醍醐天皇挙兵を伝える六波羅の使者が鎌倉に到着した。91日、六波羅探題南北の検断頭人糟屋宗秋・隅田(すだ)通治率いる軍勢が、後醍醐天皇のこもった笠置寺に向かって進発した。

資料③ 萬里小路藤房について
萬里小路藤房とは
 藤房は、後醍醐帝の政治に諫言・苦言を呈するも聞き入れられず、突然出家する。
 以下太平記の件のその主張、出家の様子が載る。

太平記巻第十三 駿馬献上の事より
 首までの高さが43寸ある月毛の駿馬が佐々木塩谷判官高貞から帝に献上された。
 洞院公賢は、「何にも勝る瑞祥でございます。この駿馬が現れたことは、仏法と帝の政治や法が栄え、皇位は長久であるとの喜ばしい前兆でございましょう。」と、吉兆と答えた。
 しかし、萬里小路藤房は、
 「これは決して吉事ではありません。
 今は、大乱の後で民は貧窮し、誰もが苦しんでおり、天下はまだ平穏ではありません。
 「史記」に言うように、政治に携わる者はたとえ食事中で口の中に食べものがあろうと、それを吐き出してでも先に人の訴えを聞き、帝に誤りがある時、臣下は帝に文書をたてまつってそれをお諫めすべきです。しかし、諸役人は楽しみにふけるばかりです。
 世の中が静まった今、手柄を立て、恩賞を望む武者たちが幾千万ともしれず存在するのです。ところが、公家や官職にある人以外はまだ恩賞を賜った者はいません。
 まず武士たちの勲功に報いてその恨みを解消すべき所を、何よりも大内裏の造営が必要だとして、諸国の地頭から収益の二十分の一を徴収なさったりすれば、戦乱で出費が大きかった上にこの課税で、さぞや嘆いておりましょう。
 また、諸国では守護が威力を失い、国司が権力を強めています。官職もない、身分の低い代官などが荘園を横領し、度を超えた勢力を持つようになっています。
 長年にわたって定着している武家の名称である諸国の御家人の称号を廃止なさいましたので、早くも大名や高家といった名門までもが平民同様です。
 恩賞を与えるのなら皆に等しく与え、官位も同じにすべきを、赤松円心だけはわずかにもとからの所領一か所の存続をお認めになったのみで、恩賞として守護に任じてお与えになった国を召し返されたとは、その咎はいったい何なのでございますか。
 手柄にふさわしい恩賞が与えられれば、忠義の志あるものが増え、罪にふさわしい跋を与えれば、罪を犯す者は減ると申します。嘆かわしいことです。

 ・・・今はただ珍しいものをもてあそぶのはおやめになって、仁政の恩恵を世に広められるのが何よりでございます。」と、凶兆と答えた。

 藤房はその後も諫言し続けたが、遂に後醍醐天皇はそれを聞き入れようとせず、大内裏造営の計画を中止することもなかった。
 藤房は、「わたしとしては臣下たる者の道を尽くした。今となっては身を退けるに越したことはない」と、意を決した(出家する)。
 後醍醐帝の命(藤房を呼び戻せ)を受け、宣房は藤房の下を泣きながら訪ねた。
 宣房が悲嘆の涙を押こらえて藤房が泊まっていた庵室へ行ってみると、誰に読ませようと思って書き残したのか、破れた障子の上に歌を一首残してあった。
住み捨つる 山を憂き世の 人問わば 嵐や庭の 松にこたえん

(私が立ち去ろうとしているこの僧坊を憂き世の人が訪ねてくれば、吹き渡る風が庭の松を鳴らして答えるばかりでしょう。)
 また、()恩人(おんにん)無為(むい)真実(しんじつ)報恩者(ほうおんしゃ)五山文学の詩人義堂周信編纂の『貞和類聚祖苑聯(じょうわるいじゅうそえんれん)(ぽう)集』にある()文で、恩ある人を見捨てて出家するという事は、真実を以って恩に報いるという事だ、の意)という文の下に、

 白 頭ニシテミ 断 万 重 山     白頭にして望み絶つ(ばん)(ちょう)の山

 曠 劫ノ  恩 波 尽シテヲ     曠劫(こうごう)の音波底を尽くして乾く

 三 是 胸 中ニ スニアラ五 逆  これ胸中に五逆を(かく)すにあらず

 出 家 端 的ニ ズルコト ニ    出家端的に親に報ずること難し

(白髪頭の年になって、宮中での望みは絶った。底の地面まであらわにして波が引いていくように、広大無辺の親の恩を顧みることなく去っていく。これは胸中に主人や親に対する反逆臣を隠し持っているからではない。しかし、出家するこの気持ちを明確に親に告げることは難しい。)
 と、唐の黄檗禅寺が、あとを追う母親が川でおぼれているのを見捨てて出家した、という大義の渡りと題する、仏を讃えた古い詩の一節を書いてあった。
 宣房はそれを読んで、これではたとえどこの山に居ようと、藤房に生きて再会するすることはできまいと、息子を失った悲しみの涙にむせんで、空しく京へ帰って行ったのだった。

●ふるさと納税~正行特別バスツアーへのご招待事業について
*実施 424日(火)、26日(木)の2回 845出発
 (スタッフ 815集合)
  四條畷市委託事業として実施
*参加 講師/扇谷 世話人/国府
*下見 南ルート 418日 藤岡、鈴木
    北ルート 420日 山本、中西
    参加のしおり、昼食手配、最終参加者について ~ 行政で対応
    配布資料、保険加入等について ~ 扇谷
●正行カルタプロジェクトについて
*授業スケジュール
 原則:水曜日の第5限 450分~620
    場所 10号館1階 103教室
 425日 クライアント紹介~カルタ大会/四條畷郷土史かるた
 512日 学外学習① 吉野山如意輪寺
 523日 講義①   楠正行年表を使って正行の事績をたどる
 530日 講義②   太平記に見る正行の生涯スクリーン映像絵物語
 609日 学外学習② 渡辺橋、四條畷神社、小楠公墓所、和田賢秀墓
 613日 講義③   詩吟の世界で正行堪能
 620日 字札発表  /この後、役割分担に基づきカルタ制作にかかる
 824日 集中講義  楠正行の会へのプレゼンと質疑応答
 926日 確認    楠正行の会による確認
 10月17日 カルタ学内発表
 10月   カルタ学外発表/くすのき小学校と日程等調整
 1021日 カルタ正式発表/市民の集い:カルタ大会の開催と原画展
*字札について
  530日〆切 ☛ 620日発表!

●報告事項、その他
 □産経新聞『楠木正成考特集』第20部≪正行の忠孝両全≫
  以下に掲載







 □CD/「楠木正成・楠正行・嗚呼大楠公」について

 □談山神社「春のけまり祭」のご案内
  429日 午前11時~
       雨天決行・直会:多武峰観光ホテル

 □楠公研究会発足1周年記念総会祝賀会のご案内
  425日 湊川神社にて

 □『楠公さん』大河ドラマ誘致協議会について
  410日 誘致協議会発足 事務局:河内長野市
   構成団体  観心寺、四條畷神社等17団体
   構成自治体 河内長野市、千早赤阪村、四條畷市、島本町など23
  411日 NHK(東京)に陳情のため上京/絵本持参:データも提供
  520日 楠公ツーリズム推進協議会発足 代表団体:観心寺
       呼びかけを受け、四條畷楠正行の会として加盟予定

 電通大・小原君の絵本製本化について
  3冊発注!
  四條畷図書館、田原図書館、電通大学に寄贈

 □教育文化センター子ども学習講座「まさつらくん」
  519日(土) 1330分~1415
  62日(土)  1330分~1415
  ・絵本読み聞かせ   ~ 図書館職員
  ・正行映像スクリーン ~ 扇谷、川口(ピアノ演奏)

 □5月現地学習
  詳細については5月例会で確認
  526日(土)湊川神社・楠公祭~武者行列観覧

  815分 四条畷駅:改札口集合
        会費 交通費920円×2 & 昼食 =約4000
  823分発 新三田行乗車 尼崎乗り換え 神戸駅着 924
  940  湊川神社「発輿祭」
       高速神戸駅から湊川駅へ地下鉄で移動
  1100  湊川公園「御旅所祭」~舞楽『湊川』奉納
       神戸駅に地下鉄で移動
  1315  神戸駅周辺で昼食
  1600頃 四条畷駅着:解散

その他
連絡等
次回例会 
 日時 5月8日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 乃木希典と正行
    電通大学正行カルタプロジェクトについて
    5月現地学習「湊川神社楠公まつり」について

傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信66号・67号はコチラからも(PDF)




教文市民講座「子ども体験教室 親子体操」修了式

日時 平成30年3月22日(木) 午前11時より11時45分
場所 教育文化センター ホール・会議室1 
イベント内容 教育文化センター主催の市民講座「子ども体験教室 親子体操」では第6期を終え、修了式を行いました。
皆様、おめでとうございます。






四條畷楠正行の会 第40回例会

日時 平成30年3月13日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
 今月の例会は、32日に、産経新聞に見開き2ページで大きく楠正行が取り上げられたことや、319に迫った楠正行シンポジウム、323日と24日と実施する現地学習(吉野郡上北山村)の話題等で大いに盛り上がりを見せた。
 また、扇谷が作詞した「楠正行」のCDが完成し、この日、初のお披露目となった。パソコンを持ち込み、例会のはじまる前に流したが、意外とシックなメロディーにおおむね好評の反応があった。
 楠木正成と楠正行2曲の構成で、1番から3番までが父、正成、そして4番から6番が子、正行を詠ったもの。このCDは、今後、楠氏ゆかりの地を中心に、正成・正行の顕彰を目的に、販売していく。(頒布価格1000円)


正面右、扇谷代表 左、国府世話人

今月の出席は14
例会の
内容
2月例会のおさらい
楠正行通信第64号
四條畷市ふるさと納税で、限定20名様をご招待
42426 楠正行を訪ねる特別バスツアー/四條畷市委託事業
・建水分神社正式参拝、観心寺中院で講話と昼食、如意輪寺正行公670年忌法要、宝筐院義詮墓・正行墳の前で講話、正行寺本堂で講話他
・扇谷、講師としてバスに同乗/39日、受け付け締め切り
・電通大・小原君、絵本「楠正行物語」制作・発表/会員から「素晴らしい!」と称賛の声

*楠正行通信第65号
伊賀説を主張する梅原、昭和の創作と言い切る表
果たして観阿弥は楠正成の甥か/正行と観阿弥
上島家文書の評価をめぐり真っ向から対立する意見
「観阿弥と正成」で伊賀説を主張した梅原猛
表章「昭和の創作・伊賀観世系譜」で伊賀説否定
上島家文書、文学界に大きな影響

(1)3.19楠正行シンポジウムについて
*申し込み状況/35日締め切り
 応募総数1450

 公募一般席 850
 招待者席  100 計950(1階800 2階150
*シャトルバス・ダイヤ
 ○忍ケ丘駅前発 → コナミホール行
  1130,33,37,41,45,50,55

  1200,05,08,10,12,16,20,24,28,32,36,40,50
 ○グリーンホール田原発 → コナミホール行

  1100,30
  1200,30
 ○講演終了後は、バスが満席になり次第、随時運行
*会場
 1階 受け付け、楠公祭募金、生き物王国、正行絵本展示
 2階 展示・販売ブース:産経、扇谷、東儀、商工、文化観光協議会
     販売 商工会/お土産コーナー
        四條畷郷土史かるた
        産経新聞社冊子関係/ヤマトタケル冊子、楠正成考他
        東儀氏cd/日本の歌、世界の歌他
        扇谷/小説「楠正行」、正行像賛扇子、cd楠正行
*プログラム
 1230 開場/開場前に来場者があれば、前倒しで受付開始
 1300 開会・挨拶・来賓紹介
 1310 第1部 東儀氏講演と演奏
 1350 第2部 扇谷活動報告・木子絵本報告・学生発表・絵本贈呈式
 1450 休憩
 1505 第3部 パネルディスカッション/東・寺井・扇谷:安本
 1620 閉会


(2)電通大2018プロジェクト『楠正行カルタ』の制作
*詳細スケジュール等は、4月例会で

*字札(案)の提出/第1回
      二人から提出有。

(3)現地学習/上北山村、楠正行祀る四位殿神社を訪ねて
*日時 323日(金)~24日(土)の12
*集合 JR四条畷駅・改札口前 午前820
*出欠 最終確認 8人参加。


(4)ふるさと納税~正行特別バスツアーへのご招待事業について
*実施 424日(火)、26日(木)の2回 845出発
 (スタッフ 815集合)

 四條畷市委託事業として実施
参加 講師/扇谷 世話人/国府
 速報! 申し込み少なし。
     313日、ラジオ大阪の放送で、産経新聞安本編集委員、「素晴らしい企画です。ぜひ、多くの方ご参加ください。」と呼びかけ!

(5)
報告、その他
□教文児童学習講座について
  「親子で学ぶ! くすのき まさつらくん」
  ~ まさつらくんて知ってる!?
開催日時 519日(土)、62日(土) 午後130分より45
スタンプラリーを実施し、賞状と景品「正行像賛扇子」をプレゼント
  ピアノ演奏/川口
CD/「楠木正成・楠正行・嗚呼大楠公」の制作・販売について

  ・制作・販売
   瀬戸木和男音楽事務所瀬戸木和男音楽事務所
  ・扇谷    楠正行 作詞

  楠正行
   作詞 扇谷 昭

   作曲 瀬戸木和夫
 
 一 西国街道 櫻井の駅
    汝は帰れと 残した遺訓

    父と共にと はやる心に
    湊川河内へと 父子の訣別

 二 吉野の山に 後村上天皇
    汝は股肱の臣 決して死ぬな

   父の命今こそ その時二十三
    百四十三名と 楠正行

    如意輪堂の板塀に 鏃で残した和歌一首
    かえらじとかねて思えば梓弓
    なき数に入る名をぞとどむる

 三 河内街道 決死の行軍
    正平三年一月 ここ四條畷

    師直四万めがけて 馬懸ける千騎
    覚悟の自刃 小楠公


□産経新聞正行特集
32日、見開き2ページ特集
 「正成は後世に何を引き継いだか」
  楠三代~正成、正行、正儀
☆産経新聞/戦後73年『楠木正成考』第20
 「正行絵本とその生涯」5回シリーズ
 319日から5日連続掲載(予定)/乞う、ご期待!


電通大・小原君の絵本製本化について
 安価な業者(例えば、ヨドバシカメラ等)を探し、検討する

その他
連絡等
次回例会 
 日時 4月10日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 藤原宣房・藤房と正行
    電通大学正行カルタプロジェクトについて
    3.19正行シンポジウム(感想)
    3.23-24現地学習(上北山村)を振り返って、他


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信64号・65号はコチラからも(PDF)




「芝生広場の更新作業」

日時 平成30年3月12日(月) 午前8時45分より11時30分
場所 教育文化センター 芝生広場 
イベント内容 教育文化センターでは、より勢いのある芝生に育つ様、春の芝生更新作業を行いました。
《手順紹介》
1.芝地に無数のコア抜き(穴開け)を施し、通気を良くし、古い根を取り除きます。
2.次に地中から出た土を綺麗に取り除きます。
3.そして新たに用意した目砂を均等に散布し、丹念に埋め戻します。
4.次に粒子の細やかな肥料を施肥、仕上げの灌水で完成です。
(施行:株式会社ガーデン・ナビ)







教文市民講座「親子で楽しむコンサート」

日時 平成30年3月2日(金) 午前10時30分より11時15分
場所 教育文化センター 全館 
イベント内容 教文では、Largoさん演奏の軽快な曲に合わせ、歌って踊れる楽しいコンサートを開催しました。
また、お子様には打楽器体験なども有り大変盛り上がりました。
プログラムは以下のとおり

さんぽ・楽器紹介・アンパンマンマーチ・崖の上のポニョ・エビカニクス・ゆうきりんりん・夢をかなえてドラえもん・童謡メドレー・アンコール

出演:Mama’S Wind Orchestra Largo さん








四條畷楠正行の会 第39回例会

日時 平成30年2月13日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
極寒にも関わらず全員出席 新たに仲間も。
 今月の例会は、「観阿弥と正行」がテーマで、観阿弥伊賀説に立つと観阿弥の母は正成の姉(もしくは妹)で、観阿弥は正成の甥という事になるので、正行と観阿弥は従兄弟同士という事になる
 ところが、観阿弥には大和説も有力で、観阿弥と正成の関係を否定する研究者もいる。
 今回は、この伊賀説の急先鋒者梅原猛と、伊賀説を昭和の創作と言いきり大和説に立つ表章の論争を取り上げ、「果たして観阿弥は楠正成の甥か」とタイトルをつけてリポートした。
 そのため、関係書籍も多くなり、手荷物いっぱいに、教育文化センター2階ホールの入り口に立つと、まだ1時を過ぎたばかりというのに、既に5人の会員が座っている。より正確に言えば、4人と新しい会員一人だったのだが。
 寒い日が続き、インフルエンザも流行していることから、欠席者も多いのではないかと思っていたが、この日は何と会員全員が集まった
 加えて、新しい仲間が一人加わり、休会を除く16人での例会となった。


↑例会の様子(久々の会員全員出席)

↑例会の様子(最近は、座る位置もほぼ決まってきた)
例会の
内容
1月例会のおさらい
楠正行通信第62号/山鹿素行と正行
・軍法とは士法に在り、と断じた山鹿素行
・兵法はわが心を治め、家を整え、国を平らかにする
・素行学に一貫する特質は、実学的傾向である
・楠木父子万世忠孝の鑑
・孝道は百行の本 忠孝は武士の励む最たる徳
・建武中興・楠木正成を真似るな~反駁的尊王を戒めるが故

*楠正行通信第63号/楠正行正四位下に叙されていた
・文化6年、小楠公墓所敷地内に正行顕彰碑建立
・正四位下検非違使兼河内の守楠公碑
・公諱は正行、帯刀左衛門尉と称せり
・正四位下の事、1967四條畷町勢要覧に載る
 大阪府全志、四條畷市史にも
・今も、小楠公墓地樟樹の南に静かに立つ
・京都大学ネット公開の拓本は四條畷神社の提供

●観阿弥と正行
□産経新聞「戦後72年楠木正成考」第14
  『楠公さんを生んだ兵庫・神戸』


 ― 以下、新聞記事より
 神能殿(湊川神社)で紹介されている系譜は、観阿弥の父方の実家、伊賀の上島家の古文書から発見された『観世福田系図』と兵庫県揖保川町の豪農、永富家の古文書で裏付けられた。
<楠家と観世家の関係略図>


 正成には妹がおり、伊賀の服部家に嫁いで能の始祖・観阿弥を生んだことを示すものだ
 観阿弥は服部家に連なる永富家から嫁をもらい、世阿弥、そして観世家へとつながる家系となった。
 永富家は現在のゼネコン「鹿島」の創業家へとつながる。
 この縁で、神能殿は鹿島が建てた。

□果たして観阿弥は楠正成の甥か
 上島家文書の評価をめぐり真っ向から意見対立 梅原対表
☆上島家文書を評価し、伊賀説を主張する梅原猛/「観阿弥と正成」
 この伊賀説に立てば、観阿弥の母は、楠正成と姉弟で、観阿弥は正成の甥
 文学界への影響は大きく、吉川英治を筆頭に、伊賀説採用の小説多数輩出
☆上島家文書を昭和の創作と伊賀説否定する表章/「昭和の創作『伊賀観世系譜』梅原猛の挑発に応えて」
 伊賀説観世系譜は明治42年刊「世阿弥十六部集」からの引用明らかで、少なくとも同年以降の編纂。
 昭和13年刊「能楽源流考」等の影響は確実で、昭和20年直前の編纂である可能性も


       果たして観阿弥は楠正成の甥か
    上島家文書の評価をめぐり真っ向から意見対立

「観阿弥と正成」で伊賀説を主張した梅原猛

 能楽研究者の「上嶋家文書」に対する拒否と沈黙は、このような「上嶋家文書」に記載された衝撃の事実をどう受け止めてよいのか唖然としている状態から生じたことであるとみてよかろう。
 私は、この二つの事実を認めたら、観阿弥・世阿弥解釈ひいては能楽解釈のコペルニクス的転回を行わざるを得ないと思う。
 私は全面的に表氏に論争を仕掛けたいと思う。表氏の伊賀説の否定は、観阿弥・世阿弥を正しく捉える道を閉ざしてしまうものである。
 明治42年、吉田東伍氏「世阿弥十六部集」以来この伊賀説は疑われ、能勢朝次氏の「能楽源流考」において、観阿弥の本拠を伊賀ではなく大和とする説が定着した。そして昭和49年、香西精氏の「観阿弥生国論再検」と表氏のその説の全面的支持によって、伊賀説は完全に息の根を止められてしまったのである。
 私はここで、じっくり香西氏、そしてこの香西氏の論を支持する表氏に反論したいと思う。


    表章「昭和の創作・伊賀観世系譜」で伊賀説否定

 観阿弥が故郷を奪われたというのは、香西精や私が観阿弥伊賀出身説や伊賀創座説を否定したことを意味しており、それを批判して観阿弥伊賀出身説を蘇生させることが本書(「観阿弥と正成」梅原著)の主眼であることを暗示している。
 あからさまな挑発を受けながら何の返答もしないのでは、梅原の意見に表が屈したかのように感じる人が出ないとは限らない。能楽研究者全体への侮辱とも聞こえる発言が含まれているのを放置するのも、仲間内では屈指の古株となった身として無責任のように思われる。何らかの形で「観阿弥と正成」の梅原説が空論に過ぎないことを明らかにしておく方がいいだろうと、考えを改めた。
 伊賀観世系譜が後代作成のいわば偽文書であることを明らかにすれば、そんな文書を信用し、最重視し、誇大評価して話を展開している「観阿弥と正成」の内容がいかに空疎であるか、梅原の「画期的芸能論」なるものの実質の詭弱さがおのずと暴露されると考えたからである。
 伊賀観世系譜が創作されたのは、のちに本論で論述する事ながら、昭和10年代になってからの可能性が高い。
 楠正成が観阿弥と叔父・甥の関係であるとする楠・観世縁戚説や、鹿島守之助氏の生家たる播磨永富家と観世家が縁戚だとの説、が、これまた近年の創作に過ぎないことにも詳しく論究するであろう。

◆梅原猛の伊賀説/「観阿弥と正成」より
上野市浅宇田(あそうだ)地区の旧家、上嶋家所蔵の文書
出典 「観阿弥出生に関する一考察」(昭和3211月 国語国文に発表)
「『観世福田系図』をめぐる諸問題―伊賀国浅宇田村上嶋家文書」
(昭和355月 国語と国文学に発表)
いずれも久保文雄氏論文
「観世系図」と「観世福田系図」の発見
<今までの能楽論に根本的に改変を迫る情報>
 世阿弥が愛した息子、観世元雅は足利義教の家臣である斯波兵衛三郎というものによって殺された。
 この元雅の死について、世阿弥は自分の能の道は終わったというほど深く嘆いているが、元雅が殺されたという事は口にしていないし、今までの世阿弥の研究者で元雅が殺されたと考えた人もいなかった。

② 世阿弥の父、観阿弥の母は、楠正成と姉弟で、観阿弥は正成の甥にあたる。
 観阿弥が、戦前には無二の忠臣とされ、戦後には悪党とされた正成と縁戚関係にあるとは、今までの能楽研究者にとっては想像もできない説である。
③ 伊賀上野市八幡町の上島良久家において、播磨国揖保庄永富家についての記載ある系図文書、すなわち観世福田系図が発見され、世阿弥の長子・元次の子に元国がおり、その元国の子に元定とう者があって、その元定について「播磨国揖保庄永富播磨入道の預かり人、母世良田木興介信貞の女」という記述があって、更にその子清隆は「永富氏 六郎左衛門」とある。播磨の永富氏(鹿島守之助の生家)は世阿弥の長子の系譜に在り、伊賀の服部、河内の楠、播磨の永富、以上三つの家には結縁が深かった。


<小説家の直感―文学の中の真実 ~ 上島家文書の文学界等への影響>
 □杉本苑子 「華の碑文」昭和39
 □白洲正子 「世阿弥の歩いた道」(エッセイ)
 □林家辰三郎「南北朝」(創元歴史選書)昭和32
 □平泉澄  「楠公 その忠烈と余香」昭和48
         ~ 正遠は正成の父ではなく、正成の一門の人物
 □吉川英治 「私本太平記」昭和34
         ~ 観阿弥伊賀説採用の最初の小説

◆表章の大和説/「昭和の創作『伊賀観世系譜』より

「世阿弥の生涯をめぐる諸問題」(「文学」昭和381月号)
 上島家文書はほとんど文化・文政以後の作成筆写であり、事に系図は、上嶋家やその縁者を観世大夫家と関連付けようとする意図のもとに、「申楽談儀」の観世祖先に関する記事や、世阿弥伝書の歴史関係の記事、後世の観世家伝説、金春家系図等を参照しながら、巧みに組み立てられたものとみなさざるを得ない。
*少なくとも明治42年以降の創作である。
 伊賀観世系譜両系図は、「申楽談儀」第23条に現れる多くの固有名詞を共有している。

 出版された最初の「申楽談儀」は、明治41年、吉田東伍校注の『世子六十以後申楽談儀』だが、会員用に少部数刷られただけで、一般には入手困難だった。
 一般人が入手可能なものは、翌明治42年に同じ吉田・池内が発行した「世阿弥十六部集」に含まれる「申楽談儀」だった。
 固有名詞の共有を詳細に見ていくと、伊賀観世系譜は吉田本を参照し、それも取り入れて系図を編んだもので、その時期はどんなに早くても明治42年以後であると主張できよう。
*伊賀観世系譜は昭和以降の編纂
・四座役者目録の利用
 観世大夫の四・五世の名を正盛・祐賢の形に並べる奇異な形が観世大夫家系譜としては「四座役者目録」独特であり、それを伊賀観世系譜は継承しているのである。
 さて、この「四座役者目録」はむかしから著名な能楽史料ではなく、重要な本で、能役者の間で珍重はされたものの、能界以外ではほとんど知られていなかった。
 この本の片山家本が、『観世』昭和510月から69月号に翻刻されて能楽研究家が注目するようになった史料で、それ以前に「四座役者目録」を利用した研究は皆無のはずである。
・能楽源流考の利用
 伊賀観世系譜は、室生家系譜からの借用の可能性が高い。
 この室生家系譜は孤立性の強い江戸期編纂の資料で、昭和4年の雑誌「室生」を読むか、昭和13年発行の「能楽源流考」(能勢浅次博士著)を読むかして、その翻印を使用する以外に利用するすべはないはずである。198

・世阿弥・元雅父子は、南朝と縁を持っていたとする野々村戒三の影響
 「世阿弥父子の失脚」(「文学」昭和114月号)~最初の論考
 「世阿弥父子の晩年」(「能楽史話」所収・昭和19年刊)~広く流布
 ― 戦後、能や世阿弥を題材とした文学作品には、世阿弥父子を南朝寄りの立場に設定したものが少なくなかったが、その源は野々村氏の推測説だった。
(結論)
 伊賀観世系譜は、明治42年発行の吉田東伍校注「世阿弥十六部集」を利用していることが確実であり、どんなに早くとも同年以降の編纂である。また、昭和初期に学会に紹介された「四座役者目録」を利用している上に、昭和13年発行の能勢朝次博士著「能楽源流考」やそれに前後する頃の野々村戒三氏の著書の影響を被っていることの確実な記事を含んでいるから、昭和20年ごろまで近接した時期になっての編纂である可能性が極めて高い

その他の資料から
☆名張市役所ホームページ
 

 観阿弥は妻の出生地である名張市小波田で初めて猿楽座(後の観世座)を建てました。
 観阿弥は田楽や猿楽という歌舞が唯一の娯楽であった時代に生きた猿楽師の一人で、元弘3年(1333)伊賀の国に生まれました。(但し、大和盆地南部を本拠とする山田猿楽の出身との説もあります
 幼名は観世丸、本名は清次といいます。伊賀の人という説ですが、伊賀のどこで生まれたかははっきりしません。
 学界でも問題になっている、上野の上島家の文書によれば、観阿弥は伊賀国阿蘇田(現在は名阪国道、上のインターチエンジ付近)の豪族、服部元成という人の三男として生まれ、母は河内国玉櫛庄楠正成の兄姉という事です。父の元成は上嶋家に生まれ、服部家を継いだので、観阿弥の本名は、服部三郎清次になっています。
☆人物叢書「世阿弥」(今泉淑夫著)
 
観阿弥の出身については「申楽談儀」第
22条の、能面と面作者について記した部分に、「翁は日光打、弥勒、打手也、この座の翁は弥勒打也、伊賀小波多にて、座を建て始められし時、伊賀にて尋ね出だしたてまつし面也」という記事がある。ここから、観世は伊賀において座を建立し、貞治2年(1363)の頃に観阿弥が伊賀から大和に進出して、結崎に一座を建てたとする説が成立したことがある。
 これに対して、香西精『伊賀小波多』は、その説は史料の誤読で、「伊賀小波多にて」は観世座の名手弥勒の打った翁面を伊賀小波多で探し出したことを指していて、伊賀に座を創設したことを示す傍証がないこと、興福寺・春日神社などの猿楽座の有力な本所のある大和ではなくて伊賀の僻地に座を創設するのは考えられないことを挙げて、伊賀説を否定した。
 室町中期の禅僧景徐周麟の「観世小次郎信光画像賛」に観世が伊賀服部氏の出自であるとするのは誤りとされ、観世の伊賀生国説を支持する「観世福田系図」等の史料についても、香西精「観阿弥国再検」は、旧説に伊賀国山田とするのは誤りで、大和国山田(奈良県桜井市山田)であると訂正して、これが通説となっている。


●この日の例会の他の議題は以下の通り。
□大阪電気通信大学2018社会プロジェクト実習
 「楠正行カルタ」の制作について
 四條畷市・四條畷市教育委員会の後援正式決定!
□現地学習/上北山村・楠正行を祀る四位殿神社を訪ねて

 日時 323日(金)、24日(土)の12
 この日、参加のしおりを配布し、2日間の行程確認、そして出欠を確認
 10名の参加
319日開催「楠正行シンポジウム」について

 タイムスケジュールの確認/以下の通り
 *日時 319日(月)
      1230分 開場
      1300分 開会あいさつ/四條畷市長
      1310分 第1部/東儀秀樹特別公演
      1350分 第2部/活動報告/扇谷、木子、絵本贈呈式
      1450分 休憩
      1505分 第3部/パネルディスカッション
           「小楠公と四條畷市~正行公の生き方と魅力」

           登壇者/東、寺井、扇谷:安本記者
      1615分 閉会あいさつ/産経新聞社齋藤副社長
 *場所 大阪電気通信大学コナミホール950人収容(850人募集)
     忍ケ丘駅とグリーンホール田原から無料シャトルバス運行

正行シンポジウム成功に向けて

 四條畷市サポート寄附(ふるさと納税)お礼品
 楠正行をたずねる特別バスツアー
 四條畷市と四條畷楠正行の会の共催で実施! ほぼ決定!
 424日(火)、26日(木)の2回実施予定
 ふるさと納税いただいた方を、限定20名様日帰りバスツアーにご招待!
 詳細は、四條畷市から近日中に発表予定。乞う、ご期待!
□教育文化センター児童学習講座に協力
 小学生とその保護者<祖父母含む>を対象に、郷土ゆかりの人物楠正行について、絵本読み聞かせや映像スクリーン紙芝居等を通じて、楽しく学ぶ講座を開講。52回開講予定。近日発表。
 扇谷は講師として協力。
□ふるさと納税お礼品「正行像賛扇子」について
 10月に1本/大東市
 11月に1本/東京都
526日開催、湊川神社・楠公武者行列について
 現地学習として観覧することに決定
421日開催、湊川神社「明治維新と楠公崇系」シンポジウム

 会として希望者出席

その他
連絡等
次回例会 
 日時 3月13日(火)、午後1時30分~3時
 場所 教育文化センター 2階ホール
 内容 3.19楠正行シンポジウムについて
    3月現地学習・上北山村について
    電通大学正行カルタプロジェクトについて、他


傍聴、入会大歓迎! 
 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターを覗いてください。お待ちしております


正行通信62号・63号はコチラからも(PDF)




教文「第二十三回 新春ミニ・コンサート」

日時 平成30年1月21日(日) 午後1時より3時30分
場所 教育文化センター 全館 
イベント内容 教文ホールでは恒例の音楽会が行われ、女声四重唱、二重唱、フルート演奏、バイオリン演奏、ピアノ演奏、ひまわりコーラスなど、早春にふさわしい楽曲が奏でられ、癒されました。






四條畷楠正行の会 第38回例会

日時 平成30年1月9日(火) 午後1時30分~午後3時00分
場所 教育文化センター 2階 ホール
例会の
様子
久しぶりの田中さん交えて和やかに例会
 この日は雨交じりの天候となりましたが、教育文化センターに着くと、奥田所長から、開口一番「本年もよろしくお願いします。正行像賛扇子の申し込みがありました。」との嬉しい知らせでのスタートとなりました。
 会員が次々と集まる中、少し体調を崩し休会中であった田中さんのお顔が見え、うれしい新年最初の例会となりました。
 今回も盛りだくさんの内容となりましたが、和やかな雰囲気の中、国府幹事が準備してくれたコーヒーとケーキをいただく“コーヒータイム”もあり、新年らしい例会となりました。


↑例会の様子(インフルエンザ等で3名欠席)

↑例会の様子(なぜか、今月も女性は一方に集中?!)
例会の
内容
12月例会のおさらい
楠正行通信第60号/佐々木道誉と正行
78歳という、当時ではずば抜けた長寿の佐々木道誉
・南北朝動乱時代、文武両道に通じたバサラ大名
・四條畷の戦い、楠正行に甚大な被害与える
・単なるバサラ大名ではなかった
・後醍醐帝の隠岐配流を警固
・元弘33月には尊氏と密約
・妙法院焼き打ち事件は計算の内
・義詮の信任を得て、権力獲得
・幕府の危機にこつ然と登場する真骨頂
☆勝楽寺に眠る佐々木道誉

3月現地学習現地下見報告
日時 1214日(木)/扇谷・国府
行先 白川八幡神社、恩智のさと、林泉寺、木和田の里、四位殿神社、
   木和田墓地、龍泉寺、道の駅、熊野路荘、教育委員会、村役場
上北山村でお会いした方々
   中岡孝之氏(元教育長)、中垣内壽美教育長、
   村教委東職員他、山村潔村長(表敬訪問)

*楠正行通信第61号/上北山村現地学習下見報告
・楠氏ゆかりの地、上北山村を訪ねて
・正行を祀る四位殿神社が建つ木和田の里
・白川・お宮様の祭りには恩地左近の幟ばたが立つ
・現地学習の下見で北山村へ
・白川、八幡神社とお宮様
・天誅組の悲哀伝える林泉寺
・墓石に彫られた菊水紋
・北山宮による皇位要求運動の地

□現地学習について
 近鉄特急で大和上市駅まで行き、貸切バスで上北山村に入り、1泊する
 決定日時 323日(金)~324日(土)
  行程等詳細は、上北山村と打ち合わせの上、2月例会で報告

●山鹿素行と正行
 □山鹿素行、楠正成一巻の書序文を読む

 楠正成一巻の書序
「身を立て、道を行い、後世に於て名を挙げ、以って父母を顕すは孝の(つい)なり。終とは、孝道を全くするを云えり。孝は百行(ひゃくぎょう)(もと)にして、未だ父母に孝にして君に忠ならず、君に忠にして父母に孝ならざる者はあらじ。忠孝に(みち)なくその徳(いつ)なり。嗚呼忠孝は士の(こころがけ)て励むべき所なり。然れども其の(じつ)()み、その全きをあらわす、これ(かた)し。(ひと)楠公父子万世(ばんせい)忠孝の(かがみ)として、その徳、古今に貫徹す。()れ君に忠を致さんと欲する者は、治世に(らん)を忘れず。亂を忘れざるは、功を(たつ)る。忠の大いなるものにして兵学の勤むべき所なり。

 此の書、楠公の遺訓、兵家の亀鑑、忠孝に志す士は、拳々(けんけん)服膺(ふくよう)注①して読まずんばあるべからず。これ身を立て、名を挙げるの韜略(とうりゃく)注②なり。
 久しく余が家に(おさ)むいえども、忠孝は天下の(たつ)(とう)注③、楠公は万世の明鑑(めいかん)注④なるを以って、敢えてこれを秘せず、ここに梓注⑤に壽して、四方に達し、後世に照らさん。これを庶幾(しょき)す。故に謹んで此の(こと)を序とす。
 貞応三歳甲午十一月既望
                  後學  山鹿甚五左衛門平貞直


注① 拳々服膺 常に心中に銘記し、忘れないこと
注② 韜略 兵法の書である「六韜」と「三略」の略
       兵法、兵略、戦略

注③ 達道 いかなる場合もにも行われるべき人間の道
       古今東西を通じて一般に行われるべき道徳
       君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の5つの道

注④ 明鑑 曇りのない鏡
       物の姿を明らかに移す鏡
       物の真実を見通す力

注⑤ 梓  古くアズサの木を用いたことから、印刷用の版木

(解説)
         素行32歳の時の書
 この序は貞応3年(1654)に書かれたもので、元和8年(1622)生まれの山鹿素行、32歳の時の書である。
 また山鹿素行は、21歳の時に書いた杏庵の序文には「その門葉に姓は藤、氏は山鹿、名は義(もち)(あざな)()(けい)なるものあり」と藤姓が用いられ、35歳の時に書いた「部教全書」の自序には平姓を用い、54歳の時の「家譜」にはまた藤姓が用いられている。素行の時代に、山鹿家の系譜はもう分からなくなっていたということではないか。
 素行は、名はしばしば改めて貞直、義(もち)、義(もち)高興(たかおき)、高(すけ)、義(のり)などと称し、字は子敬、通称は甚五左衛門、号は初め(じゃく)(せつ)(さい)(るい)(くう)(さい)(にょ)(うん)と称し、21歳ごろから素行を主用したとある。


(文意)
               孝道は百行の本
           忠孝は武士の励む最たる徳

 素行は、「終とは、孝道を全くするを云えり」と、孝を尽くすことは百行のもとと云う。
 忠孝は武士の励む最たる徳で、非常に難しいが、歴史上もっとも忠孝を尽くしたのは楠正成・正行親子しかいない。
 この書は楠公の遺訓であり、兵家が目指す鏡である。心して、常に心中に銘記し、忘れなければ、立身出世は間違いない。
 山鹿家に秘伝として伝わってきたが、忠孝を尽くすことは人の道として当然の事であれば、楠正成は歴史上最たる模範の鑑であることから、書物にして後世に残すことにした。


残る二つの肖像画
 山鹿素行の肖像画には、平戸・津軽の両系統がある。
 写真上は、平戸系で、写真下は、津軽系のもの。
 山鹿素行は、平戸藩第4代藩主、松浦重信と親しかった。また、弘前藩第4代藩主、津軽政信に「大星伝」を授け、同じく弘前藩家老、津軽玄播にも「大星伝」を授けている。そして、山鹿素行の子、雅実は弘前藩・津軽政信に仕え、のちに家老職を務めている。
 

山鹿素行の武士道論は、実践的兵学

 日本近世史専門の早稲田大学教授、谷口眞子は、「武士道と士道~山鹿素行の武士道論をめぐって」(論文)の中で、山鹿素行の武士道論を次のように述べている。

 ――― 素行は「武教全書」第一巻上で、優れた人材を   登用し適材適所に配置する方法、軍令・軍法などに触れた後、第一巻下からは具体的な戦争を想定して斥候の使い方、行軍や駐留の方法、築城術、攻城戦・籠城戦や相手の軍勢と数に開きがある時の戦法、騎馬戦・徒歩戦、水軍による戦法など、様々な戦争の形態について解説している。
 まさに実践的兵学である。
 その視点は、軍隊を掌握する総大将・総司令官としての立場から書かれており、想定している対象は大名クラスと考えられる。
 対照的に「武教小学」は、ここの武士は如何に生きるべきかを説いたもので、日常生活で実践すべき事柄を分かりやすく説明している。
 ・・・序文では、武士が三民(農・工・商)の長たりうるのは「能く身を修め心を正し、しこうして国を治め天下を平らぐ」からであり、おどろ髪で肘をいからして剣を振り回すかぶき者や、長衣を着て詩文を読み暗誦するだけで満足している中国風の士大夫風情の者を批判している。
 ・・・
 山鹿素行は、「書斎の学問」は認めず、修身にはじまり、人としての道を尽くし、世界を治めるための学問は、実践性を具えている実学でなければならない、と考えていた。
 したがって、朱子学をはじめ老荘思想や仏教を、実用や実社会への影響力という観点から批判することになる。中国と異なる本朝(日本)としてのアイデンティティーを支えるのが、日本独自の「武」「武士」であると論じた『中朝事実』は、吉田松陰、乃木希典が称賛するところとなった。
 ・・・
 さて「山鹿語類」「士道篇」の冒頭では、武士は文武の徳を兼ね備え、三民の上に立つ人倫の模範たることが職分であると述べられている。素行の士道論の根本をなす考え方を表現したもので、よく知られた部分である。この職分論は、当時確立しつつあった身分制社会における、武士の存在理由を明確に述べている。
 素行は、近世の武士は単なる軍人でも役人でもないと考えていた。一事一物に至るまですべては天地の法則によっており、「聖人の道」を日常の生活で実践することが、君子・大丈夫たる者の職分であると明言したのである。
 素行は「士道篇」を前半と後半に分け、前半部分では内面的自覚に関する事柄を、後半部分では外面的威儀に関わる事柄を取り上げているが、この双方を武士一人一人が実践することを求めた。
 ・・・
 素行にとって武士とは、官僚的・役人的存在ではない。
 「武」国の礎として、武力を担っていることを自覚して武芸にいそしむとともに、主君を支えて自らも道徳を身に着け、人としての模範たるべき職分をもった人間である。


素行学の意義
 人物叢書「山鹿素行」堀勇雄著は、素行の思想的成長発展段階は六つに分けられるとするなど、素行が自らの思想的な行きづまりに対して絶えず全力を以ってぶつかり、生涯を通して、学問的進歩に精進したことが分かる。
 非常に難しい山鹿素行の思想について、人物叢書「山鹿素行」は、素行学の本質・特徴として、以下六点に分けて述べているので、その骨子を紹介する。
①実学的傾向

 素行学に一貫する特質で、日用事物の上に役立たぬという実践的要求を以って、国学・歌学・老荘・仏教・陽明学・朱子学等を次々に批判し、揚棄した。
②武士道理論の樹立
 実学的傾向の帰結であり、武士として日常役立つべき教養知識を体系化すること、現実の武士生活における規範を立てることが素行学の目的であった。
 素行の士道論
*君臣関係を天地自然の儀則で不滅のものと考え、封建的主従関係を絶対視して人倫の大綱、道徳の基本とし、この上に士道論を構成し、士農工商の身分制度の固定化に努めた。
*封建的主従関係を絶対視し、武教主義を強調する結果、徳川幕府の礼讃となり、王朝政治〔王政復古〕を否定し、反駁的尊王論に反対した。
*奉公と恩賞との交換関係であった戦国武士道を、義の精神を中核として純化し(義利の弁によって奉公と恩賞との、連携を打破し)、近世武士道を確立した。
*素行の婦人論は、封建家父長制的・女大学式的隷属を強制するもので、男女・夫婦の別は、君臣の別に準ずべきとした。子孫断絶を防ぐためには、妾も必要と説いた。
武士は道徳的に優れているから、三民(農工商)の上に立つのだと説いた。
*農民を商工の下に置き、あらゆる拘束・収取を加え、食うや食わずの境涯に置くことを以って、民を愛する所以であると強説した。
素行学は、あまりに武士階級本位の武断主義を強調して、人民大衆の真の幸福、或は権利・自由を認めず、経済的には消費者・遊民であった武士階級の、生産階級たる農工商に対する搾取・抑圧を合理化するものであった。
③山鹿流兵学を完成
 素行学は本質的に兵学である。しかし、素行以後、ほとんど見るべき発展はなく、特に経学の領域においては停滞のみならず、退歩さえ感じられる状態であった。
 山鹿流兵学の最も優れた継承者は吉田松陰である。しかし、松陰は山鹿流をもって任じながら、客観的には山鹿流を超脱していた。
④古学唱導の先駆
 古学唱導の先駆者として、日本儒学史上重要な地位を占めるが、中国古典学の研究家としては仁斎・徂徠に及ばない。
⑤日本中朝主義

 中国ではなく日本を以って中華・中朝とする日本中朝主義は、素行によってはじめて主張された。しかし、先駆的意義はあっても、素行学としての独自性はない。
⑥武教主義

 日本国体の優越性を強調し、尊王の必要を説きながらも、公家政治の道に違えるを難じ、武家政治の撥乱反正の功を讃えて、覇道を認め徳川幕府の政治を正当視し、王朝復古論・反駁的尊王論に反対した。
 『中朝事実』には、「夫れ天下の本は国家に在り。国家の本は民にあり。民の本は君にあり。」とあり、「民の本は君に在り」は素行の創見である。
 素行の国体観念は武教主義を本質とするもので、「皇室(天皇)中心主義」ではない。
建武中興・楠木正成を真似るな
 「山鹿語類」巻第十五、臣道に、「士の出処・去就」に関し、以下の通り記述があり、反駁的尊王を厳に戒めている
 朝廷を重んじて武家を軽んずるは、往古の式、君臣の礼たり。
 然れども末世に及んで、朝廷は名のみにして武家のはからひに任す。
 ここを以って食録・官位に至るまで、皆武家の心に任せれば、往古に相かなわずといえども、世々皆是れを例とす。
 今又改むべきに便りなし。
 あるべきことにあらざれども、当時(楠木)正成が依頼の如くならんことありとも、更に正成を以って準拠すべからざる也