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令和2年度 開催のイベント


四條畷 楠正行の会 第68回例会

日時 令和3年2月9日(火) 午後1時30分より3時
場所 教育文化センター 2階 会議室1

●扇谷、講談調「足利直義」に挑戦!
 
今月の例会は、初めての試み「講談」です。
 今までの例会では、資料に基づき、解説するという形式での授業に近いスタイルを続けてきましたが、今少し、気楽に楽しく聞いていただこうと、講談調で「足利直義」を語りました。
 約1時間の講談調?!でしたが、何とか無事終えることができました。
 脚本もアップしていますので、ご参考にしてください。


                     2月例会の様子

楠正行通信 第123号 29日発行

   尊氏に翻弄され、義満の傀儡、北朝の天皇たち
   廃位・幽閉の憂き目の中、後小松時代に皇位継承
   北朝天皇関係年表
楠正行通信 第124号 29日発行
   北朝1代、光源天皇の味わった地獄変
   光源嫡流・崇光系と、庶流・後光源系の対立と確執
   今に続く皇統は、後花園天皇の末裔
   南北朝時代前後の皇統の流れ

●講談「足利直義」

 1) プロローグ
 2) 序章 ― 直義プロフイール
 3) ― 直義登場
 4) ― 二頭政治の時代!
 5) ― 観応の擾乱
 6) ― 鎮魂と供養
 7) 終章 ― 政治と宗教の巨人

≪足利直義の生涯≫
  建武新政期  兄、尊氏を支え、鎌倉の地で幕府政治の基礎固め
  二頭政治期  天下執権人として室町幕府の政務を取り仕切る
  観応擾乱期  師直との対立に端を発し、兄尊氏、その嫡子義詮との確執・対立劇
         鎌倉で死去~「鎌倉」的時代の終焉
  鎮魂と供養  死後6年にして贈従二位・贈正二位
         その4年後、勧請 奉大蔵宮 ~神格化

資料① 足利直義年表



資料② 講談「足利直義」脚本
 【四條畷楠正行の会 2021.2月例会 資料】

                  講 談 「 足 利 直 義」


原作 森 (しげ)(あき)  角川選書
    「足利直義~兄尊氏との対立と理想国家構想」
参考 峰岸純夫  吉川弘文館「足利尊氏と直義」
    山家浩樹  山川出版社「足利尊氏と足利直義」
脚本 扇谷 昭

 ― プロローグ

 皆さんこんにちは。
 私たちの四條畷楠正行の会ですが、平成2611月に発足しましたが、以来、6年と4か月を経て、68回目の例会を迎えました。
 正行だけを学んでいては、この会はすぐに終わってしまうと、この間、後醍醐天皇を皮切りに、歴史上、何らかの形で正行とゆかりやかかわりのある人物を学ぼうと、今年1月までに実に43名の歴史上の人物を取り上げてきました。
 高山右近やシーボルト、和田義盛、新海上人などが印象に残っています。
 毎月毎月、硬いお話にお付き合いをいただき、感謝に堪えません。
 しかし、この1月、北朝の天皇たちを取り上げたことで、今までになかった気づきと反省がありました。
 私たちは、楠一族の悲哀を口にし、楠氏目線で歴史を見てきました。しかし、楠氏と対立した相手方の目線で同じ歴史を見ますと、全く違った様相が見えることに気づきました。
 実は、楠氏が支えようとした吉野朝の悲哀以上に、対立した北朝にも、一筋縄では捉えられない対立や確執、やるせなさ、悲嘆の様なものがあったと思うわけであります。
 そして、そのことは今月の足利直義、そして来月の児島高徳を繙く中から、その思いをさらに強くしました。
 楠氏を考えるとき、同時代に生き、活躍した人物でありながら、立場を変えるだけで、これほど人知れず、脚光も浴びず、しかし、いわば歴史の裏部隊で大きな功績を残した人物たちがいたということへの驚きです。
 おそらく、このような思いが1月に芽生えていたのでしょう。
 だから、『2月は講談で・・・』などと口走ってしまいましたが、今までの例会とは違った切り口での例会もまた楽しいのではないか、と思った次第です。
 口走った以上は、講談をと、今日のお話を準備しました。
 なんせ、初めての試みですので、果たして、どのような講談になるか、まったくもって予測も何もあったものではありませんが、一つお気楽にお付き合いのほど、よろしくお願い申し上げます。

 ― 序章 直義プロフイール

 戦国時代、歴代将軍・執事などの経歴を記録した「公武補任(ぶにん)次第」がございまして、その書に「大樹の御代(おんだい)として、御下知をなされ(おわ)んぬ。」と記され、将軍尊氏に代わって下知をなしたという、室町幕府政治を強力にけん引した人物がいました。
 何を隠そう、この人物こそ、本日の主人公「足利直義」その人であります。
 足利氏は、北関東を流れる利根川水系の支流、渡良瀬川を境界として、上野(こうずけの)(こく)と接する下野(しもつけの)(くに)は足利荘、現在の栃木県を根拠地とし、義康を祖とする一族で、代々北条氏一門から妻を迎えてきました。直義は、兄、尊氏と2歳違いの弟で、父、貞氏、母、上杉清子(せいし)を同じくする同母兄弟であります。この二人の兄弟が、やがて骨肉の争いを展開しようとは、誰も予測できなかったのであります。
 その人物像を申し上げれば、兄、尊氏は、包容力があり、清濁併せ呑むといった敵・味方に対して寛大な底抜けに明るい性格と云えます。対して、弟、直義は、几帳面で誠実、清濁併せ呑むという尊氏とは対照的に、理非曲直をきちんと正し、道理に基づいて行動するタイプでありました。が故に、直義の性格を見抜いていた尊氏は、直義を政務につかせ、武家・公家を合わせた政治の舞台に臨ませたのであります。
 そして、尊氏の期待通り、直義は、兄、尊氏とともに縦横無尽の活躍で幕府の政治を切り盛りし、鎌倉幕府に次ぐ、第二の武家政権たる室町幕府、尊氏と直義の「二頭政治」の基礎を築いた人物であります。
 しかし、理想に燃えて、平和国家の樹立を目指す直義に立ちはだかりましたのが、武家の急進派急先鋒であった高師直・師泰の兄弟でありました。直義は、世に観応の擾乱と呼ばれる熾烈な対立・抗争を繰り返しますが、その最後は、京の都を脱出し、北国を経て、鎌倉への退去を余儀なくされたのであります。
 直義は、観応31352226日、兄、尊氏によって毒殺されたと伝わっています。
 享年46歳、非業の死を遂げた人物であります。
 しかし、直義暗殺の代償は実に大きかったのであります。直義の怨霊は、その後の室町幕府の行く手に暗い影を落とし、幕府運営を極めて不安定にしました。
 鎮魂の動きは直ちに始まり、直義没後6年にして「従二位」が贈られ、次いで、時を置くことなく「正二位」までもが、矢継ぎ早に贈られました。また、その4年後には「大倉の宮」として神格化されるのであります。天竜寺の(かたわ)らに「大倉の宮」を祀る寺まで作られています。
 そして、直義怨霊の(たた)りは相当に強かったのでしょう。足利2代将軍義詮や3代将軍義満、そして6代将軍義教(よしのり)までもが、直義の年忌法要をせっせと務めたのであります。
 足利政権の誕生に、尊氏を支えて歴史舞台に登場した直義でありましたが、将軍にとって代わろうとする野望と、観応の擾乱に敗れた失意が故にもたらした怨霊、その根強さが計り知れなかったことを暗示させる、鎮魂であったといえます。
 そして、追憶の中の直義は、室町将軍らの評伝を記した「満済准(まんさいじゅ)(こう)日記」に、その名が全く登場しません。室町幕府は、宗門を隆盛に導いた恩義ある巨人の一人、直義が背負う歴史を「不吉」なものとして封印したに相違ありません。
 直義という人物の、特異な立ち位置が、ここから見えてきます。
 では、お待ちかね、直義の軌跡を詳しくたどる旅を始めましょう。

 ― 直義登場!

 頼朝の命により義兼が北条時政の娘を娶ったことに始まる、尊氏まで七代続きで北条一門から正室を迎えたことによる北条氏よりの厚遇によって、足利氏の地位は安定はしていたものの、鎌倉幕府が得宗専制体制への傾斜を強めたことでその地位は低下し、鎌倉末期に閉塞状態にあった足利氏が、起死回生のチャンスをうかがっていたことは想像に難くはありません。
 元弘の乱の最終局面で、尊氏が、幕府側から後醍醐・倒幕側に寝返ったのは、決して突発的な行動ではなく、北条氏に対する雌伏の時代を考えれば、当然でさえあったのです。
 尊氏の祖父、家時は、「三代の後、即ち尊氏時代に、天下を取る」という悲願をかけて、自刃したと伝わるのも、その由縁であります。
 北条高時に六波羅探題救援のため京に迎えとの命を受けますが、父、貞氏臨終まじかで辞退する尊氏でしたが、高時の執拗な叱咤を受け、しぶしぶ兵を進めた尊氏は、足利氏の飛び領、丹波国篠村に兵をとどめました。
 「ここ篠村八幡宮は足利家の崇める神ぞ。」
と願い文を捧げたのです。この時、尊氏が奉じた願文(がんもん)は、今も篠村八幡宮に伝わっております。
 「敬白、立願の事。今や、後醍醐天皇の勅を奉じ、民のため、世のため義兵を挙げた。」と、鏑矢一筋をとって願文を神殿にささげ、後醍醐側に建つことを鮮明にして、六波羅に向かったのであります。
 その倒幕思考に火をつけ、篠村で取って返し、元弘の乱で軍事指揮をとったのは、すべて、兄、尊氏でありました。この時はまだ、直義は兄の影のような存在でしかなかったのであります。
 京都・東寺に入った尊氏は、武者受付所を開設し、全国から参集する武家に対し、「我こそ、武家の棟梁」との行動を起こしています。この頃の正成は、河内の一豪族であることから、こういった武家への対応には気づかず、天皇のお供をして入京したことに大きな満足を得ていたものでしょう。この差が、後の二人の行動を分けることになるのです。
 後醍醐の建武政権が誕生しますと、恩賞の筆頭、尊氏には武蔵・常陸・下野の三か国が与えられ、一方、直義には遠江国が与えられ、直義は、(なり)(よし)親王を奉じて、鎌倉将軍府執権として関東・鎌倉に下向し、その頭角を現すことになるのであります。
 この時、直義は、従四位下、(さま)馬頭(のかみ)・相模守となって、鎌倉に参りますが、これは、後醍醐の皇子を奉じた地方統治の第二弾でありまして、この二ケ月前には、(のり)(よし)親王を奉じ、北畠親房・顕家が陸奥国に赴いていたのであります。
 そして、直義は、後醍醐の思いとは裏腹に、建武政権内に幕府再生の目論見を、鎌倉の地で営々と築いていくことになります。直義、鎌倉時代に、鎌倉執権として発給した文書や下知状、寄進状を見ると、さながら鎌倉幕府の再現ともいえる様相が見えてきます。
 また、鎌倉には、幕府滅亡後、尊氏の嫡子千寿王、後の義詮でありますが、家臣とともに支配の基盤を築いておりましたので、直義の鎌倉将軍府はその上に乗っかる形となり、いわば後に誕生する足利政権の原型になったとお思い下さい。
 後醍醐にすれば、地方の出先機関に過ぎなかった鎌倉将軍府でありましたが、直義から見れば、鎌倉将軍府は武家勢力結集の核であり、第二の武家政権樹立の胎動、萌芽が、ここから始まっていたのであります。そして、この背景には、関東武士たちの建武政権への不平・不満、更には天皇親政・公家政治を目指す建武政権とは真逆の、武家政権への回帰志向のあったことは見逃せません。
 このように歴史とは、実に微妙なものであります。政治というものは、一寸先は闇である、と言います。光秀、本能寺の変しかりであり、秀吉、中国大返し然りであります。
 武家政権回帰への動きを加速させたのが、建武21335に勃発した北条残党、高時の遺児、時行の起こした中先代の乱でありました。
 迎え撃った直義でありましたが、敗戦を重ね、終に鎌倉を去り、(なり)(よし)親王、尊氏嫡子義詮とともに逃れて、矢作の宿に留まることとなりました。そして、尊氏の援軍出動によって、時行は鎌倉を撤退することになり、この中先代の乱の結末の出来事は、結果として、尊氏を鎌倉に呼び寄せ、京の後醍醐に対する鎌倉の尊氏との構図を明らかにさせ、南北朝時代の確執と抗争を演出する、大きな転換点になったといえます。
 そして、予期しない、そのあおりを食ったのが護良親王でありました。
 「鎌倉は、時行の軍であふれかえった。大塔宮を刺殺せよ。」
 「直義様。その儀は平にご容赦を・・・。」
 「相手は大軍ぞ。我らの兵力では戦にならぬ。鎌倉奪還に、大塔宮は足利の災いとなることは必定ぞ。分かるか。」
 「しかし…。宮を刺殺とは…。」
 「大塔宮が時行の手に落ちればどうなる。大塔宮を頭目に担がれるようなことにでもなれば、我らに勝利はないぞ。」
 「はい。」
 「ここは、宮の命を奪うしかない。殺せ!」
 護良親王は、楠正成とともに倒幕の立役者の一人でありながら、父、後醍醐、その寵妃阿野廉子、尊氏との水面下の三者間権力闘争に敗れ、京で拉致され、流罪を得てその身柄は直義のもとにあり、建武213357月、殺害されるに至るのであります。直義毒殺説はあるものの、信用するに足る証拠や資料が残るわけではありません。
 中先代の乱の結果、武門の棟梁、尊氏を関東に向かわせ、関東に渦巻いていた武士たちの政治的要求を、一挙に満たすこととなったのであります。
 さあ、後醍醐の建武政権に、風前の灯火が着く発端となったわけであります。

 ― 二頭政治の時代!
 
 いよいよ、云うことを聞かない尊氏に業を煮やした後醍醐は、足利氏と因縁浅からぬ複雑な確執を抱える新田義貞に、尊氏討伐を命じ、建武2133512月、出陣した新田勢は伊豆箱根の竹の下で尊氏軍と激突を致します。
 しかし、この時、後醍醐に対する思いからか、腰を挙げず、蟄居の姿勢を崩さなかったのが尊氏でありました。一方、直義は112日を皮切りに、義貞誅伐の軍勢催促状を何通も発し、素早く軍事的な対応策をとるという、尊氏とは真逆の行動を起こしています。
 兄尊氏に先んじて行動を起こしたのが直義であります。
 揺れ動いた尊氏の心の葛藤が「梅松論」は、後醍醐に対する、偽らざるこころの内を描くとともに、「政務を下御所(直義)に御譲り有りて」と、すでにこの時点で、尊氏の直義への「政務」譲渡の意向が表明されており、尊氏による直義評価が梅松論に見て取ることができます。
 新田勢の進軍の報せにも動こうとしない尊氏の思いとは、このようなものでありました。
 ― 今や、尊氏は征夷大将軍に上り詰め、従二位も授かった。この事は尊氏の功績

  ではあるが、帝の恩なくしてはあり得ぬこと。恩を受けながら、帝に背き兵を出すこと
  などできるものではない。もし帝のお咎めが解けぬとあれば、髪を下すまで。
 ここでも直義による護良親王殺害に躊躇のあった尊氏が見てとれます。
 さて、続く延元元年1336は、実に、波乱万丈の1年でありました。
 尊氏軍入京に伴い、正月、後醍醐が京の都から比叡山に逃げたことに始まり、京の都は足利軍と後醍醐軍の戦の舞台となって、兵火に見舞われました。しかし、2月、北畠顕家や楠正成らの活躍で、京都市街戦で敗れた尊氏・直義は九州に下ることになります。が、大宰府に入った尊氏は、急激に勢力を盛り返し、九州を支配下に置きます。再び東征に転じた尊氏は海路を、直義は陸路を進み、5月、兵庫湊川に楠正成を破り、早や6月には光源上皇を奉じて入京するのであります。
 8月には光明天皇が践祚し、北朝が成立すると、10月、尊氏の諫言を信じた後醍醐は、花山院幽閉の憂き目にあい、軟禁状態でありましたが、終に12月、正行の手引きで吉野に逃れました。
 「帝に翻意を持つなど滅相なことです。尊氏は、義貞の反逆を懲らしめんがために、戦いを仕掛けましたが、帝にはぜひ京の都にお戻し致し、内裏にお入りいただきたいと願うのみです。」
 「朕を内裏に迎えるとな。では、二人の親王を義貞をつけ、北国に逃すといたそう。」
 しかし、尊氏に後醍醐を奉じる思いなどあろうはずもなく、花山院に幽閉される憂き目となる後醍醐でありました。
 結果、後醍醐の吉野潜幸は、南北朝時代に突入の瞬間でありました。
 一方、時を同じくして、室町幕府の政治の要となる、建武の式目の制定がまさにこの時行われるのであります。
 この建武式目は、幕府所在地の選定と政策指針の二編からなり、尊氏の諮問に応えた法曹官人の手による17か条とされますが、事実上の立案者は、ほかならぬ足利直義でありました。足利幕府の政務は、直義によって始められたことが、この一事によっても分かります。
 尊氏・直義の二頭政治の始まりは、延元31338、8月といわれます。
 しかし、このころすでに尊氏の軍勢催促状が激減するのに対し、直義のそれは逆に激増し、尊氏は軍事指揮権まで直義に移譲して、二頭政治が始まったといえます。そして二頭政治を象徴するように、延元31338、8月11日、尊氏は正二位・将軍に任じられます。そして同時に、直義も同日、従四位上・左兵衛督に昇任しました。
 太平記は、この様子を、「兄弟一時に相揃って大樹・武将に備わること、古今未だその例を聞かず」と、驚きを隠さず記しています。
 いよいよ直義の政治思想に基づいた、理想国家の建設事業が開始されたのであります。
 尊氏は「弓矢の将軍」として君臨し、直義は「政道」を一身に担い、将軍権力の二分化現象、言い換えれば二頭政治は順調に滑り出したのであります。
 梅松論は、「三条殿は六十六か国に寺を一宇づつ建立し、各安国寺と号し、同塔婆一基を造立して所願を寄せられ、」と記しています。これは直義が仏教思想を踏まえて国土を平和にし、民を安んじようという事業を企画し、安国寺と利生塔を建立するという、いわば仏国土建設を推進しようとしたことが分かります。
 下し分、下知状、御教書、軍勢催促状、所領安堵状、官途推挙状、院宣一見状等の、ありとあらゆる発給状況をつぶさに見ますと、尊氏に圧倒的に少なく、直義に数多く残ることからして、二頭政治の中心は直義にあった、言い換えれば、政務は尊氏から直義に任されていたことがうかがい知れます。
 また、直義が鎌倉幕府の政治を踏襲したことが分かります。
 平安から鎌倉にかけて、天皇臨幸の下、朝廷が行った行事の一つに「弓場始め」がありますが、直義もこの「弓場始め」行い、また訴訟機関や議決機関の「引付・評定の制度」を取り入れています。これらのことから、直義の「鎌倉」的要素が感じられ、直義の政治的思考が、鎌倉幕府的なそれからいまだ抜けきっていない一面を物語っているといえるでしょう。急進的で、バサラの異名を持つ高師直・師泰とは、相いれなかったことがよくわかります。
 このように尊氏のもと、直義との二頭政治は順調に事を運びましたが、直義には決定的な権限の欠如がありました。
 それは守護職の任免権です。守護職の任免権は、二頭政治の時期も含めて、一貫して将軍、尊氏の手にあり、直義はこれには関与できませんでした。「天下執権人」直義の、最大の弱点・限界がここにありました。
 
― 観応の擾乱

 観応の擾乱は、なぜ、起こったのでしょうか。
 一言にして言えば、室町幕府内部における、新旧両勢力の政治的対立にありました。
 具体的には、惣領・高い家格の一門を中心に、旧鎌倉幕府の官僚と足利一門の有力武将、東国や九州など族的結合の強い、後進地域の武士たち、守旧派が直義派を形成しました。
 一方、その対極に位置する、庶子・比較的低い家格の一門で、合戦で功成りを遂げた、畿内先進地域周辺の反荘園的な新興武士層、将軍尊氏の執事・高師直に連なる急進派が形成されました。
 この両派の確執・対立抗争劇が、観応の擾乱の構図であります。
 要は、秩序を重んじる直義一派と、強ければ良しとする師直バサラ派の対立であります。そして、この対立の構図は、〈直義―師直〉の対立から、〈尊氏・師直―直義・上杉氏〉の対立に発展し、やがて〈尊氏の子、義詮―直義の養子、直冬〉の対立へと変わっていくのであります。
 また、観応の擾乱を予兆させる太平記の記述、巻二十五の「宮方の怨霊六本杉に会する事」の件も有名であります。
 ここの件は、ある禅僧が仁和寺の六本杉で雨宿りをしたとき、六本杉の(こずえ)に集う人々の会話を聞いたという設定であります。
 その謀議とは、護良親王は足利直義の子となって生まれ出で、知教上人は上杉重能(しげよし)、畠山直宗に乗り移り高師直・師泰兄弟を亡き者にし、忠円僧正は高師直・師泰の心に入れ替わって上杉・畠山を滅ぼす。これによって、尊氏・直義兄弟の仲が悪くなって、天下大乱となり、その結果として怨念が晴らせる、と。
 峰岸純夫は、その著「足利尊氏と直義」の中で、ちょうどこのころは南朝方が一挙に衰勢となったころで、太平記の作者は、その物語性を盛り上げるために、非業な最期を遂げた南朝方の怨霊が足利方の面々に乗り移って、内部対立・抗争を引き起こしたと説明している、と書いています。
 南北朝時代は、怨霊も登場し、だまし合いの、疑心暗鬼の時代でなかったかと暗示させてくれます。このように考えれば、当時の楠氏の存在、果たした役割、義一筋の生き方は極めて稀有なものであったのではないでしょうか。当時から今に至るまで、正成、正行の人気が衰えない理由に大いに納得するのであります。
 この両派の対立に輪を掛け、その構図をより複雑にしたのが、直義の嫡子、如意王の突然ともいえる誕生と、尊氏後継の義詮の登場であります。
 貞和3年1347、6月8日、41歳という高齢の直義夫人に男子が授かります。この頃、得意の絶頂にあった直義にとって、男子の誕生は大きな喜びでありました。しかし、この直義に男子誕生の慶事は、思わぬ方向に歯車を狂わせ、2頭政治の安定的な運営に、大きな不安要因となったのであります。
 まさに、思わぬ嫡子誕生が、直義に権力者としての野望を抱かせたのであります。
 政道を担う自分の地位・立場をわが子に継がせたい、という願望が彷彿として湧いてきたことは、疑うに足りません。おそらく、これが観応の擾乱の、根本原因の一つであったことは間違いないと云えます。
 今、歴史の中で過去の権力者の姿を見るとき、後継者に苦労し、悩まされた歴史上の人物は数知れません。世継ぎに不安を残した豊臣秀吉しかり、本能寺の変で思わぬ最期を遂げた織田信長しかりであります。そして、武家政権にあって、その壁を乗り越えるすべを作ったのが徳川であります。宗家を補佐する徳川三家の創設によって、宗家の安定と、適宜な緊張・均衡関係、そして宗家まさかの時の準備を構築した、家康のなせる業が、徳川政権15代、250年の武家政権繁栄をもたらしといえるでしょう。
 さて、観応の擾乱の顛末に話を戻しましょう。
 先制攻撃は直義が仕掛けました。貞和513496月、高師直は執事の職を解かれます。しかし師直も巻き返しを図り、クーデターを起こします。不意を突かれた直義は、兄、尊氏の館に逃れました。
 この時、襲撃を受けた直義は、女装して尊氏邸に駆け込み、島津時久、和泉忠頼が“垣根を乗り越えて”飲食を届けた、と島津家家臣によって書かれた山田聖栄自記に載っているそうであります。
 皆さん。「垣根を乗り越えて」の件に思い当たる節はありませんか。
 そうです。朱舜水作の楠正行像賛に、全く同じ表現が出てきます。
 正行像賛には、「使報者身踰垣而逃。弟穴地而竄。」(報ゆる所の者は、身垣をこえて逃げ、弟は地に穴してもぐり逃れ)とあります。この意は、「尊氏は自ら垣根を乗り越えて逃げ、足利直義は地に穴を掘ってもぐり逃れ、」であります。
 朱舜水は、島津家に伝わる山田聖栄自記を見て、この表現を使ったのでしょうか。この脚本作成にあたって、“垣根を乗り越えて”との件を見た瞬間、正行像賛148文字を思い描いたところです。
 正行の会で、足利直義について学びましょう、となったが故の出会いであり、発見であり、嬉しい限りです。今回、直義と正行の接点は全く出てきませんが、奇しくも、朱舜水が教えてくれる正行と直義の関係の一コマでした。
 さて、直義の話に戻りましょう。
 「尊氏殿。邸内の直義殿に謀反の疑いあり。速やかに差し出されよ。」
 「直義。ここは一歩譲って和睦を結べ。」
 「謀反とは片腹痛い。されど、兄じゃ。ここは何卒よろしく。」
 「あいや。分かった。」
 この時の和睦交渉で、直義は大幅な譲歩を迫られました。しかし、ここで見落としてはいけないのが、尊氏と師直の内通によって、関東統治を任としてきた義詮を上洛させるという一項が入っていたことであります。尊氏の、後継者・義詮を上洛させるために仕組まれた尊氏と師直の猿芝居に、直義は、まんまと乗せられてしまったのであります。
 このようにして、和議の2か月後、義詮が入京します。
 義詮が、直義が退去した三条坊門邸に入ると、執政の地位が直義から義詮に移ったことを、世間に知らしめることとなったのであります。尊氏の心中的中といったところでしょうか。
 かつて、2頭政治における直義権力の中核であった裁許権、そして所領給付権も義詮に移りました。貞和5年1349、9月、直義は左兵衛督を辞しています。失脚した直義の発給文書は、それ以降、全く残っていません。
 しかし、観応元年1350、直義は反撃に転じます。
 直義は、京を逃れ、大和興福寺に入り、戦いの“のろし”を上げるのです。そして、奇想天外の策、吉野朝に降伏を申し入れ、是を許されるのであります。プライドの高い直義が、吉野朝年号をわざわざ使い「吉野朝天皇の勅命に任せて、忠節を致します」と返書に記しました。
 しかし、吉野朝に帰参したはずの直義は、その後の文書に観応の年号を使い、吉野朝とともに動いた形跡もなく、この吉野朝降下は一時の、便宜的なものでありました。それは直義の意外なしたたかさを見せる一面でもありました。
 観応2年1351、2月、激戦の末、宿敵、師直・師泰を打ち破ります。しかし、この時、尊氏は自分に忠節を尽くした高一族を守れなかったことに痛恨の思いを抱き、直義への報復を心中で決意したことでしょう。
 ここでもまた発見がありました。
 尊氏・直義の母、上杉清子の兄弟に重憲がおり、なんと「扇谷上杉」とあるではないですか。関東に、上杉の一流、扇谷と書いてオウギガヤツと呼ぶオウギガヤツ上杉家のあることは知っておりましたが、直義とこれほど近しい関係とは知りませんでした。
 扇谷をオウギガヤツと呼ぶいわれは、今も鎌倉市の一角に「扇ガ谷」という地名があり、この地名が故に、オウギガヤツ上杉と名乗ったとのことであります。私とは、直接、何のかかわりもありませんが、オウギガヤツ上杉氏の存在は、私が上杉氏に親近感を持たせてくれるものです。地名や氏名を同じウすると、妙に親近感を持つのは、万人が認める所でしょう。
 さて、直義は尊氏と和睦して幕政に復帰するのですが、この激しい戦いのさなか、直義最大の悲劇が起こりました。
 2月25日夜の愛児、如意王の他界であります。
 直義は、愛児を失ったことで、将来に向けての希望の星、そして人生の大きな目標を見失い、その落胆のほどは、想像を絶するものであったと思われます。
 幕政に復帰した直義は、尊氏の嫡子、義詮と二人で幕府の政務を見ることになります。が、あくまでも政務担当の中心は義詮であり、直義は補佐する立場にしかありませんでした。養子、直冬の鎮西探題就任という、いわば直義にとって戦利品といえる戦果もあったものの、上杉重能(しげのう)の仇を討った(よし)(のり)が流罪に処されるなど、戦後処理は直義に極めて不利でした。
 叔父直義と打ち解けようとしない、義詮の敵対心もありますが、愛児の夭逝(ようせい)によって受けた直義の打撃は計り知れず、帰京後の無気力さには目を覆うものがありました。意欲と張りを失ってしまった直義の周辺から、ポツリポツリと武士たちが消え、孤独に身を打ちひしがれている直義の姿が思い浮かびます。
 さて、この時期、直義に対する攻撃の主導権は、尊氏から義詮に代わりました。事態はいよいよ核心に迫り、直義対義詮の対決となっていくのであります。
 観応2年1351、8月1日の丑の刻(午前2時ごろ)、失意にあった直義はその一党を引き連れ、急遽、京を脱し、北国に向かったのであります。この後、栄華を極めた直義が、再び京の地を踏むことはなく、この北国落ちは直義没落の始まりでありました。
 尊氏は、直義追討を決意し、この年10月には、吉野朝後村上と和議を結び、正平の一統がなると、吉野朝から直義追討の綸旨を得て、仁木頼章、畠山国清、今川範国、武田信武らを率いて関東に出陣をします。
 1213日、尊氏と直義の天下分け目の合戦、(さつたやま)合戦に突入します。
 尊氏は、駿河湾を東に臨む標高244メートルの山、薩埵山に3000騎の軍勢を布陣します。一方、直義は、薩埵山北東の大手・由井に上杉憲顕軍、搦め手・宇都部(うつぶ)()に石堂義房軍、そして自らはその背後、三島に本陣を構えました。
 薩埵山と三島の間は約36キロ、沿道には直義軍が充満し、尊氏軍の劣勢は明らかでありました。しかし、下野(しもつけ)からの尊氏の援軍、宇都宮氏綱は途中直義に通じる武将を次々と打ち破り、3万騎に膨れ上がったうえ、小山氏政も着陣、直義軍は夥しい後詰の軍勢に圧倒され逃亡者が続出、直義は山中に逃れたのであります。
 伊豆山中にあった直義は、尊氏の和議を受け入れ、翌年16日、鎌倉に戻りましたが、この時の直義には政界復帰の気力は失せていました。
 そして、直義の使った花押の変遷に、直義の浮沈がはっきり見て取れます。得意の絶頂期の花押は、幅10.5センチもある、この時代最大といえる巨大花押ですが、観応元年1350以降に使われた花押は、以前使った小さい花押に近似し、線も細く”もはや昔日の生気を失った“ものに戻っているのです。
 巨大花押は、直義をめぐる権力の激しい変転の中で、短期間に限って開花した「あだ花」に例えることができると云えるでしょう。
 山合戦で直義に勝利した尊氏は、吉野朝との和議を解消しましたので、吉野朝は再び尊氏打倒を鮮明にします。
 観応3年閏2月、北畠親房は、東西同時蜂起の作戦を展開します。
 関東では、宗義親王を奉じる義貞の遺児、義宗・義興と上杉憲顕連合軍を武蔵の地に投入する一方、西国では、北畠顕能、千草顕経、楠正儀らが、尊氏の留守を守る義詮に向かわせたのであります。
 東西とも、当初、足利方が劣勢を強いられます。しかし、利根川の渡河に成功し、軍勢を再結集した尊氏は、小手指(こてさし)(はら)笛吹(うずしき)峠の戦いで新田・上杉軍を撃破し、俗に武蔵野合戦といわれるこの戦いの勝利によって、尊氏は、反対勢力を一掃し、関東の支配をゆるぎないものにしたのであります。
 この合戦の折、宗義親王が残した和歌があります。
 ― 君がため世のため何か惜しからん 捨てて甲斐ある命なりせば
 この歌は、第二次世界大戦中、国民の精神を鼓舞する歌として盛んに活用されたといいます。ここで、直義の養子、直冬に触れておきましょう。
 直冬は、尊氏の庶長子で、尊氏嫡子義詮の兄にあたる人物ですが、尊氏との親子関係が築かれないまま、当時長子のいなかった直義の養子となります。尊氏に認知されなかった直冬は、生涯、尊氏を恨むこととなるのです。
 幕府が観応の擾乱に突入すると、当然のように直冬は直義側の武将として行動し、実父尊氏に刃向かいました。直冬が肥後に逃れ、九州において猛威を振るい、尊氏を苦境に陥れたことは、誰もが良く知るところです。また、この実子直冬に対する尊氏の憎しみも、尋常ではなかったようです。その証左の一つとして、尊氏と直義が和睦した際でも、直冬については「先の命令通り、誅伐せよ」と指令しているので、尊氏にとって、直冬への憎しみは、直義のそれよりも更に深いということになります。親子が故の、濃い血がなせる業だったのでしょうか。
 いずれにしても、観応の擾乱と呼ばれる室町幕府の内訌は、嫡子誕生を機に、直義が「あわよくば」と、幕府の首領の座を得ようとしたところに、その発端があったのではないかと思われます。
 往時の名九州探題今川了俊は、その晩年の著「難太平記」の記述に、観応の擾乱についての核心に迫る証言を綴っています。
 『尊氏の思いは、将軍の地位を嫡子義詮に着実に継承することであった。弟、直義は、あっぱれなる志の持ち主で、捨てがたい人材であったことから、何かと配慮を怠らなかった。がそれも、将軍ポストを、義詮にすんなり渡すためだった。』と。
 言い得て妙なる記述かな。大変、意味深長な証言と云えるでしょう。

 ― 鎮魂と供養
 
 直義が亡くなった2年後、尊氏は病の床に就きます。

 そして、この尊氏の病は、直義の怨霊の仕業とされたのです。
 病の床に就いた尊氏は、その怨霊を追い払い、慰撫しようと、直義に従二位を授かります。しかし、この贈位のことは、当時右大臣の地位にあった近衛道嗣(みちつぐ)さえ、「その故を知らず」と記す如く、あまりにも唐突な、幕府からの要請であったようです。さらに年月は不明ですが、続けざまに正二位が追贈されています。
 贈従二位の効果が宜しくないので、間髪を入れず贈正二位という、二の矢を放ったのでしょう。しかし、直義の怨霊は、贈位程度では収まる気配にはありませんでした。
 尊氏死後の康安2年1362、7月、遂に、直義の霊が勧請神となり、「大倉宮」と号されるに至るのです。加えて(じん)()、寺を、天竜寺の傍に構え、直義の霊には「大倉二位明神」の神号が与えられました。直義は、遂に神格化までされたのです。
 しかし、直義の怨霊は、その後も室町幕府の前途に暗い影を落とし続けます。その後の足利将軍の年忌法要は、嘉吉元年1441、直義没後90年の時を経ても、まだ行われています。そして、直義供養はこれで終わったわけではなく、室町幕府が続く限り、相当長い期間続きました。
 権力トップの、兄弟、骨肉の争いが故でしょうか。おお、恐ろしい哉。

 ― 終章 政治と宗教の巨人

 今日の主人公、足利直義は、観応3年1352、2月26日に死去しています。
 多くの天皇に仕え、正平の一統では北朝の交渉役をも務めた洞院公賢は、その著「園太暦」に、「直義が死去したことで、天下静謐のための基礎となれば、それは神妙なことである。但し、何事も凡人の考えの及ぶところではない。これからどうなるか分からない。」と記し、直義が、天下の静謐を乱す張本人とみなしていたことを書き残しています。そして直義の政治面における存在の大きさが、この園太暦のこの言葉の中に如実にうかがうことができます。
 また、宗教的な観点から見ると、幕府の宗教行為が、直義にもっぱら担われていたことを考慮するとき、夢窓派の法流の拡大発展にとって、夢想流に教義上の疑義をさしはさむ直義の存在は、大きな障壁であったに違いありません。直義が観応の擾乱によって放逐されたことは、目の上の瘤が取れたようなもので、夢窓派には望外の幸運であったと云えるでしょう。
 一方、尊氏はと云えば、直義が京を出奔した直後、「夢窓疎石を開山とする天竜寺に対し、足利氏の子孫及び一族家人は、末永く同寺に帰依し、同寺()()の策を(もっぱ)らにするよう」言い置いた書状(自筆置文)を遺しています。これは将来の夢想流の発展を予告する事実であって、北山文化の時代に夢窓派の禅傑が輩出し、一世を風靡する隆盛を誇りましたが、その原点はこの書状にあったといえるでしょう。
 直義が親近感を示した宋朝禅は、鎌倉幕府的な臭いが強いことから見れば、夢窓の和風禅のその後の隆盛もまた、「鎌倉幕府的秩序」の衰退とみることができるのではないでしょうか。
 さて、太平記に直義の名前が登場する回数は、決して少なくありません。
 直義の登場場面を繙いてみると、「建武元年1334、権力闘争に敗れた護良親王の身柄を鎌倉で受け取り、土牢に閉じ込めたあげく、翌2年7月、中先代の乱のどさくさに護良を殺害させたこと」に始まります。
 そして、「建武2年1335、11月、中先代の乱鎮定後、尊氏が出家しようとした時、尊氏・直義追討を命じる内容の後醍醐帝の綸旨を偽作し、尊氏の決起を促したこと」が続き、「延元2年1337、3月、越前金ケ崎城陥落のさい、捕らえた(つね)(よし)(なり)(よし)の両親王を毒殺したこと」「暦応元年1338、春、直義が邪気に侵された時、光源上皇が平癒を祈って、石清水八幡宮に願い文を納め、ために直義が快癒したこと」「仁和寺六本杉のくだりで、護良親王の霊が、直義の内室の腹に男子として生まれ、観応の擾乱のきっかけをつくったこと」「貞和5年1349の直義と高師直・師泰との確執の顛末」「観応元年1350、10月以降の直義の反撃から、同3年2月鎌倉で殺害されるまでの、尊氏・義詮との抗争の次第」と続き、全部で7か所あります。
 この中で、最も注目されるのは、何と言っても吉野朝皇子らの殺害であって、この事により直義は、因果応報的に不遇な最期を遂げるという形で、太平記の描写が行われているのです。
 太平記は、直義が、吉野朝皇子殺害という悪事すべてを、一人で担うという形になっており、直義のまさに真骨頂というべき「政道」については、意図的と思えるほど、触れる所がありません。
 直義は、前代の鎌倉幕府的な要素を一心に漂わせているのです。
 直義は、生涯の最後、鎌倉に入り、尊氏によって殺害されるのですが、この事自体が直義の真からの鎌倉志向と、もっとも鎌倉的なものの終焉を象徴している、とみることができるのではないでしょうか。
 直義の、鎌倉に目を向けた歴史との関わりを考えるとき、「鎌倉」的時代の終焉は、鎌倉幕府の滅亡ではなく、実は、直義がこの世を去った観応3年1352である、とする見方も成り立つのではないかと思います。
 直義の生涯は、楠氏に見られない、足利氏の一員であるが故の、波乱万丈に満ちた生涯でありました。
 己の信じる義を貫き、きれいすぎるともいえる、潔い死を遂げた正成、正行の生涯。
 一方、それに引き換え、あまりにも立ち位置が揺らぎ、儚い野望を抱き、失意のうちに閉じた直義の生涯。
 対極にあたるともいえる両者の最期ですが、生前、正行と、直義はいったいどの様な会話を交わしたでしょうか。
 もしかすると、「正行よ。わしとともに、兄、尊氏を討とうではないか。」と、伝えたやも・・・。
 時間が来たようでございます。
 講談「足利直義」、一巻の終わりでございます。
 ご清聴、ありがとうございました。
                                     (おわり)


●電通大・社会プロジェクト実習 5年目 決定!
   
「畷の歴史・文化をゲームに 第2弾!」
   昨年の成果を踏まえて、より完成度・クオリティの高いゲームを制作する。
   今年は、テーマを6つに絞り込む。
   ・弥生時代~稲作文化
   ・古墳時代~馬文化発祥のまち
   ・南北朝時代~四條畷の合戦
   ・戦国時代~河内キリシタン
   ・江戸時代~街道文化
   ・近世~水車産業
   *正行ゲームは制作必須
  予定スケジュール(正行の会関係分)
   428日 学生との対面
   512日 扇谷講義①
   519日 扇谷講義②
   526日 現地学習/案内
   714日 テーマ発表会
        夏休み集中講義
   106日 中間発表プレゼンテーション
   1110日 デモプレイ
   12月4日 市民ゲーム大会/総合センター・展示ホール

●発足以来の活動の記録

平成2611月~令和32




次回例会
       日時 39日(火)、1330分~1500分
       場所 四條畷市立教育文化センター2階・会議室1
       内容 講談「児島高徳」
           その他
傍聴、入会大歓迎!

  郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階 会議室1を覗いてください。お待ちしております。


正行通信 第123号はコチラからも(PDF)

正行通信 第124号はコチラからも(PDF)



四條畷 楠正行の会 第67回例会

日時 令和3年1月12日(火) 午後1時30分より3時
場所 教育文化センター 2階 会議室1

●四條畷、今年初めての雪景色
 
令和3年最初の例会は、四條畷でも雪景色となり、非常に寒い中での開催となった。
 しかし、一人二人と集まり、暖房を入れながら、東西の窓を開け、ソーシャルディスタンスをとり、全員マスク着用での例会となった。

●まだまだ、新しい発見が・・・。
 今月は「北朝の天皇」を取り上げ、2月「足利直義」、3月「児島高徳」と、今までと少し違った角度から正行が生きた南北朝時代を繙く予定だが、事前の資料準備の段階で、今まで気づくことのなかった当時の舞台裏を極めて強く感じている。
 北朝の天皇たちが、いかに時代に翻弄されたか、また希望の頂点と失意のどん底を体験しながら、北朝内部でし烈な皇統の争いがあったことは新しい発見であった。
 足利幕府も足利直義の目から見ると、今までとは全く違った人間模様が見えてくる。また、児島高徳の生きざまを詳細にみれば、吉野朝でも脚光を浴びなかった多くの武将がいたことが分かるし、そこに脈々と流れる「義を貫く」精神を感じる。
 そして、それらの人物像が、錯綜しながら、スポットを浴びる様々な出来事の裏にしられざる動きがあったこともわかる。
 今年も、新たな発見も含めて、楽しい学びがスタートした。


                     1月例会の様子

楠正行通信第122号(112日発行)

 ・清水寺成就院で勤王の公武を結んだ月照上人
 ・安政の大獄を逃れ、錦江湾で西郷と入水
 ・弟、信海上人が遺した正行への思い~正行辞世の歌からの本歌取り

 
■北朝の天皇と正行
 配布資料 ①北朝天皇と楠正行
      ②北朝の天皇の動向
      ③南北朝時代前後の皇統の流れ
 北朝の天皇 光源・光明・崇光・後光源・後円融・後小松
 (総括)
 *足利尊氏に翻弄され、義満に実権を握られた天皇たち
 *幕府と吉野朝=楠氏の対立抗争の中にあって、行在所定まらず、廃位・幽閉の憂き目に
 *大覚寺統と持明院統の対立と同時に、光源の嫡流(崇光)と庶流(後光源)の対立抗争も
 *義満時代、北朝庶流:後光源系に皇統一本化
 *しかし、称光に皇子生まれず、嫡流崇高後衛伏見の宮・後深草嫡流の後花園に
 *結果、南北朝時代の大覚寺統・吉野朝、北朝主流・後光源系はともに断絶した
 *なお、正行活躍時代の北朝天皇は光明のみ
   延元元年1336から正平31348までの12年間は
   正行、河内東条平和の時代が長く続いたが
   北朝にあっても比較的穏やかで、光明治世に大きな変化はなかった

資料① 北朝天皇と楠正行

1・北朝天皇の流れ
北① 光源天皇 即位18歳 在位2年間
    尊氏に翻弄される!

   = 建武の新政 = ~後醍醐天皇の親政 ~
    後伏見・花園上皇捕らえられる
    皇統を主張できない3人の天皇
北② 光明天皇 即位14歳 在位12年間
    ※三種の神器なし
北③ 崇光天皇 即位14歳 在位3年間
    正平の一統崩れ、足利氏吉野朝に降伏後
    ☛ 3上皇らは吉野朝に幽閉 そして、金剛寺で1年を過ごす
北④ 後光源天皇 即位14歳 在位19年間
    ※群臣議立(継体天皇の例)
    三種の神器も、上皇の詔もないまま、幕府によって擁立された
    義満の影響!

    ※度々の逃避行  実権は義満に
北⑤ 後円融天皇 即位12歳 在位11年間
    持明院統の嫡流・崇光上皇と、庶流・後光源上皇の確執と皇位継承問題
 100
 後小松天皇 即位6歳 在位30年間
    義満、准后に

    室町殿(義満邸)で執務~義満の補佐
   16歳のとき、南北朝合一
    明から日本国王の称号
    ☛ 三種の神器:皇統を継承

2.北朝の天皇
*足利尊氏に翻弄され、足利義満に実権を握られた天皇たち
*行在所も定まらず、三種の神器もなく、正式な皇統とは言えない状況
*幽閉の憂き目にも~3上皇、一時、金剛寺で吉野朝・後村上天皇と同居
 正行との関係
 ☛ 正行の活躍時代、北朝の天皇は光明天皇だけ
*北朝の天皇に、皇統の証はなく、足利氏の傀儡天皇
 南北朝時代というが、現実は、「足利幕府」と、「吉野朝」=楠氏、対立抗争の時代
 正行の知りうる天皇は、光源と光明の二人 しかし、
 接点もなく、無縁の存在であったと思われる
 正行が仕えた天皇は、後醍醐と後村上で
 吉野朝を支える武将は、正行時代、ほぼ唯一一人の状態であった
 ☛ 「物」「心」両面で支え続けた正行

3.石原比伊呂著「北朝の天皇」中公新より
*承久の乱と皇統の分裂
 古代 壬申の乱(672)後、天智系と天武系の分裂
 中世 保元の乱(1156)後、後白河天皇と崇徳上皇の対立
     承久の乱(1221)後、混乱を収束していく中でキーマン後嵯峨天皇の登場
     ☛ 鎌倉幕府と良好関係築く:公武協調の朝廷政治
*後嵯峨の継承者
 後深草と亀山の対立、伏見天皇即位によって、後深草は治天の君に
 この後、亀山を祖とする大覚寺統と、後深草を祖とする持明院統の対立が構造化される
 幕府:後深草流~持明院統が存続するよう措置
     ~ 固定化に働いた武家の意向の影響 
 ・持明院統 琵琶  手続き重視=鎌倉幕府の訴訟制度の特性~幕府に寄り添う傾向
 ・大覚寺統 笛   聖断重視:天皇や上皇の決断が最も重要
*後二条天皇の即位
 この時、5人の上皇と法皇~空前絶後の事態
  大覚寺統:亀山法皇、後宇多法皇          =八条院領
  持明院統:後深草法皇、伏見上皇、後伏見上皇 =長講堂領
*後醍醐、倒幕への道
  後醍醐は所詮、中継ぎ「一代の主」という立場
  1 後宇多(実父)の死 皇位を自らの子孫に伝える障壁・重しが取れる
  2 東宮、邦良の死~2枚目の障壁
  3 幕府、持明院統の量仁(のちの光源天皇)を立太子させた
   ☛ 後醍醐に焦り・焦燥感
    ≪鎌倉幕府こそが最も高くて厚い障壁であることが明確に≫
     ~ 後醍醐、新興勢力の登用に走り、成功 ~
*後醍醐の過ち
*足利氏の立場
  頼朝は源義家の嫡子、義親の子孫
  が、足利家は、義家の庶子、義国の子孫という血統上の弱点
  ☛ 元弘没収地返付令と、持明院統の担ぎ出し
    「足利軍は、『北朝の軍隊』である」という認識の社会的定着
*正平の一統破綻と北朝天皇の幽閉
  光源上皇、光明上皇、崇光上皇と直仁親王の拉致
  ☛ 推戴すべき北朝の人物がいなくなった
    強引な解決策:拉致を逃れた崇光の弟、後光源天皇の擁立
   ☛ 崇光の系統と後光源の系統が、二分裂
       3上皇の復帰後、嫡流としての崇光に天皇家財産の処分権
      =潤沢な経済基盤:長講堂領を背景に、
       崇光上皇は北朝本来の正統としての存在感を示し続ける
       が、足利義満は、崇光の所領を取り上げ、後小松の所管に移した
       この後、崇光院流は京都南郊の伏見で隠棲同然の日々を過ごし、
       「伏見宮家」と称されるようになる ・・・ 後花園で復権!
*光源天皇の地獄変
 ① 鎌倉幕府の滅亡~後醍醐によって、皇位にあったという事実を抹消される
 ② 吉野という見知らぬ土地・山奥での軟禁生活
 足利直義との「君臣合体」の関係
 ~ 天皇と将軍の関係の萌芽
    崇光への譲位と直仁(花園天皇皇子)の立太子は、直義・光源・花園の合議で確認
    /園大暦
*後光源天皇践祚
 「群臣議立」という異例な形での即位
 ☛ 前天皇らが吉野・河内に幽閉の身となり、治天の君の譲位院宣ができない状態
    三種の神器がない
    奇策=継体天皇の洗礼に倣う群臣議立
        ~ 臣下たちが一致団結して新たな天皇を即位させること ~
 足利二代将軍義詮の全面的バックアップ
*後円融天皇
 細川頼之率いる幕府のバックアップで、目も止まらぬ早業で即位
 ~崇光院支持派を粛正=後光源院流擁立が幕是化~これ以降の既定路線に
*南北朝合一
 義満時代の最大のトピック
 南北合一の3条件
 ① 三種の神器を後亀山から後小松に引き継ぐ
 ② 今後は、後亀山の子孫と後光源の子孫で皇位を継承する
 ③ 天皇家の資産の内、諸国国衙領は後亀山系に、長講堂領は後光源系が引き継ぐ
 義満には全く3条件遵守の思いなし
 結果、先祖代々の拠点、大覚寺に入った後、後亀山は姿をくらます。
 ☛ 山奥に逼塞した後亀山は、伝承上の人物に~反幕府勢力の旗頭に:後南朝へと続く
    南朝から皇位回復の可能性を奪い去った義満
   同時に、長講堂領以下の所領を、崇光院系から取り上げ後小松に移す
   後光源系を正統として支持
*後円融天皇
 義満と不仲で、孤立化招く
 義満による後光源仏事の妨害
 ~ 後円融の院政排除
*後小松天皇
 6歳で即位、16歳の時、南北合一
 義満の全面バックアップ、そして義満の法皇化~公卿化
 父権者たる義満に頼り切った後小松

4.吉野朝主流、北朝主流は、共に絶え、今に続く皇統は北朝庶流の後花園の末裔

大覚寺統(後嵯峨天皇の第3皇子・亀山天皇)と持明院統(後嵯峨天皇の第2皇子・後深草天皇)の確執

 両統の対立は、亀山天皇に譲位後、後嵯峨上皇が崩御すると、後深草上皇は皇位継承をめぐって、亀山天皇と対立したことに始まる。
 この対立は、南北朝の対立という悲劇を生む。
 兄、後二条天皇の遺児・邦良親王が成人するまでの一代限りとの条件のもと即位した後醍醐天皇は、朱子学に傾倒し、天皇親政を目指し倒幕の道へと進み建武の新政を始めるが、新政の挫折によって国を二分することになる。
 吉野に開いた朝廷は、後村上天皇(後醍醐天皇の第7皇子)、長慶天皇(後村上天皇の第1皇子)、後亀山天皇(後村上天皇の第2皇子)と引き継がれるが、足利義満によって南北朝が合一され後亀山天皇から後小松天皇に皇統が移ると、吉野朝・後醍醐天皇の血筋は消えた。
足利幕府傀儡の北朝にもまた皇位継承をめぐる対立が
 元弘の乱で、後醍醐天皇が三首の神器をもって出京したため、幕府によって立てられたのが北朝第1代光源天皇。
 光源天皇は、沖を脱出した後醍醐天皇によって廃位させられる運命をたどるも、建武の新政の失敗後、光源天皇の弟光明天皇が即位する。しかし、正平の一統で後村上天皇が京を奪還した際、光明・光源・崇光は吉野に幽閉の憂き目にあう。
 この時、幕府は崇光の弟、後光源天皇を擁立した。そして、この後後円融・後小松・称光と弟の後光源天皇系が続くが、兄、崇光との皇位継承をめぐる確執・対立が残った。
 南北朝は、大覚寺統と持明院統の対立が言われるが、持明院統=北朝の中でも、足利幕府傀儡として翻弄されながら、光源の嫡流(崇光)と庶流(後光源)があったことに留意すべきである。
 そして、歴史はこの対立について、嫡流に軍配を挙げている。
 生来病弱であった称光天皇に皇子は生まれず、崇光天皇の後衛伏見の宮、即ち、後深草(持明院統)の嫡流・後花園天皇が即位する。
 今に続く皇統は、後花園天皇の後衛になる。
 結果、南北朝時代の北朝主流・吉野朝とも、断絶したともいえる。








■第8回楠正行シンポジウムの開催について
  再び延期し、710日に開催・決定!
 ・1/7 公民館神本館長・森職員と打ち合わせ
  昨年3月開催を本年313日に延期した開催日程の取扱いについて
  (協議の結果)
  昨今のコロナ感染状況を受け、現在、公民館は新規受付中止中。
  首都圏での緊急事態宣言、大阪府での感染状況の増加傾向を見据え、受付
  緩和は難しい局面。
  開催の有無に関する再周知のためには、2月広報掲載(118日原稿締切)
  タイムリミット。
  結果、313日開催の再延期を決定。
  夏場に入り、一定の収束を見込む。
  
  新たな開催日程を決定
   ●日時 令和3710()、午後2時~午後4
   ●場所 市民総合センター1階展示ホール
   ●内容 1部 楠正行論文表彰式
       2部 ライブペインティング「楠正行」
   ●周知 四條畷広報誌5月号掲載

  第12回日経小説大賞「利正の人 尊氏と正成」 天津佳之
  2月出版予定/日本経済新聞出版より
  ~ 利生とは・・・衆生に神仏の利益をもたらすこと ~

  ☟ 日経新聞より




次回例会
     日時  29日(火)、1330分~1500分
     場所  四條畷市立教育文化センター2階・会議室1
     内容  足利直義と楠正行
          その他
傍聴、入会大歓迎!
  郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学 びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
  お気軽に、教育文化センターの2階を覗いてください。お待ちしております。


正行通信 第122号はコチラからも(PDF)




四條畷 楠正行の会 第66回例会

日時 令和2年12月8日(火) 午後1時30分より3時
場所 教育文化センター 2階 会議室1

●特別展・市民ゲーム大会、ご参加の皆様ありがとうございました。
 
特別展・市民ゲーム大会は、おかげをもちましてコロナ禍の間隙を縫って、無事実施でき、盛会裏に終了しました。
アンケート等で頂きましたご提言やご提案を参考に、今後の活動に反映させていただきます。

●若い女性の傍聴者を迎え、華やかな教室に

 特別展にご来場いただいた方が、傍聴に来てくださいました。
 久方ぶりの会員の参加もあり、市民ゲーム大会と特別展が無事終わったからか、会員一人一人に心地よい疲れと満足感が感じ取れる例会となりました。
 これら取り組みの反省と総括の上、月照上人について学びました。
 また、八幡市の四条隆資卿研究会からの情報提供と、令和3年度楠氏を取り上げ学ぶ際の協力依頼の報告をしましたが、私たちの取り組みの一歩一歩づつの広がりに手ごたえを感じ取ることができました。
 サプライズは、月照上人の学びの中で、真木さんと辻さんのお二人による西郷南洲作「月照墓前作」の合吟披露をしていただきましたが、教室から拍手万来となりました。


                   12月例会の様子

楠正行通信第120号(128日発行)

・正行の会と電通大のコラボ第4弾 歴史と文化のゲーム制作
・27名の子どもが参加してゲームを楽しむ
・「四條畷のことが学べてよかった」とうれしい感想
楠正行通信第121号(128日発行)
・四條畷市制施行50周年記念協力事業・特別展「しじょうなわてと楠正行」開催
4回の展示解説に100人を超える参加
・アンケート:印象に残った展示NO1は“四條畷の戦い”

□特別展「しじょうなわてと楠正行」について
 日時 11月16日(月)~29日(日)2週間
 場所 四條畷市市民総合センター1
    ロビー・コミュニティスペース、展示ホール
 受付簿記入  土・日 94
        平日   5
 大河ドラマ署名    149
 アンケート      63
 ●集計結果(一部抜粋・グラフで提供)は以下のとおり。
  「何で知りましたか」 1位産経新聞30.2%、2位広報誌19.0%、
             3位口コミ11.1%
  「正行の会を知ってますか」 1位知ってる44.4%、2位知らない31.7
                3位知らなかったが参加してもよい17.5
  「性別」 男性49.2%、女性34.9%、無記入15.9
  「年代」 20歳未満3.2%、50歳未満28.6%、51歳以上66.7
  「住所」 市内33.3%、市外大阪府内50.8%、他府県6.3










(自由記入欄)
 ・おめでとうございます。/活動を祈る。
 ・生駒孝臣さんを招いたイベント
 ・講演会、展示会を続けてほしい。/またあれば参加します。
 ・何か行事があれば案内ください。
 ・いつもありがとうございます。多くの人に見てほしいですね。
 ・史跡巡り
 ・解説は非常に分かりやすかった。歌のうまさに感動した。
 ・楠公父子は再評価されなければならないと思います。
 ・若い世代に公を引き継いでほしい
 ・友人が正行の会に入っている
 ・地域で詩吟の指導をしている。楠公の生き方について再度、発表したい
 ・新聞報道があったから来た。扁額は千早赤阪の展示を見た。
 ・正行巡りツアー
 ・久子の方の生きざまを知りたい。扇谷の解説と歌大変感動しました

 □市民ゲーム大会について
  日時 1128日(土)午後130分~午後4
  場所 四條畷市民総合センター・展示ホール
  参加 子ども     27
     保護者     15
     四條畷市    東市長以下5
     教育委員会   植田教育長以下6
     正行の会    6
     電通大     木子・由良&広報
     学生      45
     計       107

□楠正行と月照上人

【清水寺】



 開創は778年。
 観音霊場として、奈良で修業を積んだ賢心が音羽山の滝で行叡居士と出会い、草庵と観音霊地を護ったことに始まる。征夷大将軍坂上田村麻呂公が十一面四十二臂(ひ)千手観音を本尊に、地蔵菩薩・毘沙門天を左右両脇士として安置した。
 京都東、音羽山の中腹に広がる13万㎡の境内には、国宝と重要文化財を含む30以上の伽藍や碑が建ち並び、大きな慈悲を象徴する観音様の霊場として多くの人に親しまれてきた。
 「清水の舞台から飛び降りる」ということわざは、切り立った断崖に張り出している清水寺本堂の舞台から飛び降りるほどの覚悟で物事を実行する決意を表した言葉で、今も昔も知らない人はいない名所といえる。



【成就院】
 仁王門を通り山肌の「千体石仏群」(1868年に発布された神仏分離令にによる廃仏毀釈運動によって行き場を失った地蔵菩薩を中心とする石仏が運び込まれたもの)を見ながら進むと「月の庭」で人気の高い成就院にたどり着く。
 成就院は、応仁の乱で全焼した清水寺を立て直すために願阿上人の住坊として建てられた本願院が前身。堂々とした佇まいと幽閑な風趣を併せ持つ。
 廊下が鴬張りだったせいか、ここは、安心して尊王攘夷派の志士たちと月照や信海らが密儀を重ねた場所でもある。そのメンバーは、左大臣近衛忠煕、青蓮院宮門跡尊融法親王、西郷隆盛、鷹司たかつかさ家家臣、水戸藩士らであった。

          

●人物叢書「月照」友松圓諦著より
【月照とは…】 写真上:月照上人 下:善通寺市に建つ二人の立像
文化101813 医師、玉井宗江の子として出生
文政21819 月照の師、叔父にあたる蔵海、清水寺・成就院の住職となる。この時43歳。
天保61835 蔵海死、月照、住職に。23歳。
天保10年、東寺参詣始める 19年間に17回
天保14年、北野天満宮月参始まる 6年間に11回
安政21855ごろから、陽明殿・近衛忠煕月次歌会に積極的に参加
月照の歌に読み取れる“ひたむきな献身の性格””月参不断の性格“
 「国のため法のためには露の生命 今この時ぞ捨てどころなる」
 「弓矢とるみにはあらねど一筋に 立てし心の末はかはらじ」

嘉永31850 5月、異国船近海に出没。祈祷の命を受ける。
嘉永41851 34月、隠居願提出~却下される
          ~ 月照の戒律主義、山内の貴族主義と調和せず
          この頃から月照の住所、不安となる
嘉永57月、寺を出奔
嘉永61853 高野山に越年
嘉永71854 2月、境外隠居の処分を受け、成就院住職を弟、信海に譲り、自由の身となる
 この年、近衛家から歌道入門が許可される
 近衛家等の歌会のみならず、自分の閑居等で歌会を持つ
 ☛ 幕末の志士たちと接触の機会となる~近衛家、王事参画の原因にも
安政31856 この年5回の転居
 じっと一所に留まることのできない苛立ち
 自分を更新しようとする内的努力が重要であったか
 世俗を離れた閑居こそ、志士と謀議するに適したのでは
 ~ 月照、境外隠居にもかかわらず、宮から病気理由の猶予願い申し出
   ☛ 月照の勤皇運動の表面化はこの頃か
安政51858 勤皇運動の総本陣は青蓮院の宮、後の中川の宮
 中川宮は、叔父の一条院宮尊常法親王の弟子
 一条院は成就院のご支配
 中川宮と月照に長い厚誼の原点
 ~安政の大獄が激しくなる中、追手がかかり、九州・薩摩へ逃れるが・・・

【月照をめぐる人物たち】

青蓮院宮 中川宮

 興福寺の塔頭・一条院に帰属し門主
   ~ 一条院は成就院の支配下にあるという関係からの厚誼
  高野山の山王院でご祈祷修行~五大護摩:勤皇運動との関わり
  ☛ 月照が高野山と青蓮院宮を仲立ちしたのではないか
  日米修好通商条約の勅許に反対し、家定将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持し、
  安政の大獄で蟄居を命じられる
  桜田門外の変で井伊直弼失脚後復権し、朝政に参画、中川宮を名乗る。
  公武合体派

近衛忠煕 ただひろ
  従一位 島津藩篤姫を養女とする
   安政の大獄で失脚。文久2年1862に復権
   月照は近衛忠煕の黒頭巾(≒黒子)
    背景 近衛は月照の和歌の師匠
        近衛の島津との縁戚関係
   祈檀という寺院中心から、歌道入門を通じて個人関係に浄化
   月照は、近衛家と勤王の志士との仲立ち役
   ☛ 幕府からの嫌疑が厳しくなる要素

小林良典 よしすけ
  鷹司家(5摂家)の諸大夫
    諸大夫=公家に次ぐ身分を持ち、昇殿を許された殿上人を除いた人

      ≒地下人
   正四位下民部権大輔 筑前の守
    鷹司家の奥方は水戸の出
    長い交友関係は資料で確認できるが、勤皇との関係は不詳
    一橋派の譲位論者

西郷隆盛

  成就院は各藩との交渉が多かった
   ☛ 公武の両面に広い祈壇を持つ成就院の特殊性の故か
     = 月照の役割を有効に!
      Ex. 近衛家と薩摩/水戸藩と近衛家/水戸藩と薩摩
   特に、月照の薩摩藩との深い因縁!
   安政5年の資料(日記関係)がない
    ~ 月照と隆盛の具体的な動きは分からない
   二人の出会いの場所は、東福寺の即宗院と思われる
   ☛ 即宗院:薩摩氏久(南北朝時代の守護大名・島津家6代当主)の菩提寺
            月照が居にしたところ
安政5年1858
9月11日 西郷隆盛、近衛家から月照上人護衛の役を引き受け、有村俊斎も
        江戸から有馬新七も合流
9月23日 大坂を出発
10月1日 下関到着
11月7日 薩摩領内に入る
1110日 夜、鹿児島城下に入る
       ☛ 西郷は月照を助けようと薩摩藩への助力嘆願の努力をするも、島津斉彬
         死後の薩摩藩の考え方・空気は一変していた
         そして、月照の引き渡しを求める追手が薩摩に迫る中
1115日 月照に城下立ち退き令が出る
 ☛ この夜、いずれ処刑される運命と悟った西郷隆盛は、月照の隠れ家を訪れ、
  用意した船で錦江湾に漕ぎ出し、相約して抱き合いながら入水した。
  これは、追い詰められた西郷が月照に示す唯一の誠意であった
  救助の甲斐あって西郷は息を吹き返したが、月照は帰らぬ身となった。
月照辞世の歌
  大君のためにはなにか惜しからむ 薩摩の迫門に身は沈むとも


原田才輔経允つねのぶ

 近衛家にかかわる勤皇者 薩摩出身
 西郷隆盛と月照をつないだと思われる人物
 月照の歌集に最も多く登場する 月照に与えた影響の大きさか
 篤姫を近衛忠煕の養女として家定の室とすることについて、江戸出府し、幾島も同道している

 楠木一族の名字をめぐって/堀内和明論文
 ~西村朋子さん提供

 楠公ツーリズム推進協議会製作「眼からウロコの楠木一家」
 
 声優朗読劇「楠木正成」
 220日(土)1500分開演
 すばるホール/河内長野市
 全席指定・当日券4500円/予約チケット4000

次回例会

 日時 112日(火)、1330分~1500分
  場所 四條畷市立教育文化センター2階 会議室1
  内容 北朝の天皇と楠正行
      第8回楠正行シンポジウム・論文表彰式について
      その他
傍聴、入会大歓迎!

 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に
 学びませんか。
  例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。

 お気軽に、教育文化センターの2階会議室1を覗いてください。お待ちしております。

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教文 親子体操教室で「絵本の読み聞かせ」と石焼き芋つくり!

日時 令和2年11月19日(木) 午前10時より11時30分
場所 教育文化センター ホール・会議室1・芝生広場
イベント内容 絵本は読書の秋、焼き芋は食欲の秋です。。
共に楽しく出来ました◎




四條畷 楠正行の会 第65回例会

日時 令和2年11月10日(火) 午後1時30分より3時
場所 教育文化センター 2階 会議室1

●令和3年、人物シリーズ続編に決定
 
令和2年は、コロナ禍で影響を受け、休会も続きましたが、人物シリーズをいったん止め、正行の出自・軍団・四條畷の合戦などを再検証しました。
 今回の特別展で一区切りも付きますので、令和3年は、人物シリーズに戻り、今まで取り上げてこなかった正行関連の歴史上の人物にスポットを当て、検証を続けることになりました。
 取り上げる人物(予定)は、「例会」欄に列記しています。
 ご関心のある方は、ぜひ、覗いてください。


●特別展「しじょうなわてと楠正行」111629日、ご来場お待ちしています。

 小楠公一代記・小楠公真筆集・ゆかりの史跡・朱舜水作正行像賛・拓本・掛け軸等、A1
 パネル43枚、一挙公開!


特別展示、次々と増える!  
 黒岩淡哉作「小楠公像」に加え、清水寺森清範貫主揮毫の信海上人辞世の歌「色紙」も

 四條畷市制施行50周年記念協力事業「特別展・しじょうなわてと楠正行」は、1116日(月)から1129日(日)までの2週間市民総合センターで開催します。
 サプライズ展示「小楠公像」も加わりました。
 更にうれしいニュースがあります。
 清水寺の信海上人の辞世の歌、この一首は楠正行の辞世の歌「かゑらじとかねて思えハ梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」を本歌取りしたもので、「西の海あつまのそらとかはれども こころはおなじ君が代のため」と歌ったもので、清水寺森清範貫主の揮毫による色紙を、初日の1116日に、妙見宗河楠教会の小西正純主管がお届けくださるとのことです。
 なお、1116日は、信海上人の兄で、西郷隆盛と錦江湾の龍ケ水沖で入水し、西郷は蘇生しましたが、その時最期を向えた月照上人の命日にあたる日です。
 是非、期間中に市民総合センターを訪れていただき、四條畷ゆかりの人物、楠正行に想いを馳せていただければと願っています。
 多くの皆様のご来場、お待ちしています。


                     11月例会の様子

楠正行通信第119号(1110日発行)

・昭和15年発刊の赤十字読本に、「正行の渡辺橋の美談は誰もが知る」と載る 
・明治20年の第4回赤十字国際会議で、日本政府委員「戦時傷兵に対する歴史実例
 」演説
・渡辺橋の美談紹介によって、日本の国際赤十字加盟がなったとの伝承に、確証
 の事実
特別展「しじょうなわてと楠正行」

 日時 1116日(月)~29日(日) 2週間
 場所 四條畷市市民総合センター1
    ロビー・コミュニティスペース、展示ホール
 日程
    1116日(月) 午前9時 展示開設 午前10時オープン

    1121日(土) 午前10時~
                グッズ販売・特別展示(瓦、掛け軸)
    1122日(日) 午前10時~
            グッズ販売・特別展示(瓦、掛け軸)
                   展示解説/扇谷 午前10時と午後2時の2
    1128日(土) 午前10時~
                グッズ販売・特別展示(瓦、掛け軸)
    1129日(日)  午前9時 展示開設 午前10時オープン
                グッズ販売・特別展示(瓦、掛け軸)
                   展示解説/扇谷 午前10時と午後2時の2回
                   
午後4時 閉会/展示撤収

当日販売する正行グッズ
 「くすのきまさつら」かるた 1,500
 ・正行像賛扇子         2,500
 ・論文集「小楠公」         500
 ・小説「楠正行」         1,700
 CD「楠正行」          1,000

令和3年活動計画について

 人物シリーズで、今までに取り上げていない人物を掘り下げる。
 (予定)
 1月 北朝天皇と正行
 2月 足利直義と正行
 3月 児島高徳と正行
 4月 新井白石と正行
 5月 勝海舟と正行
 6月 西郷隆盛と正行
 7月 福沢諭吉と正行
 8月 お休み
 9月 森有礼と正行
 10月 林羅山と正行
 11月 現地学習/清水寺
 12月 忘年懇親会

大阪電気通信大学令和2年度社会プロジェクト実習授業
 四條畷の歴史・文化をゲームに! 8つのゲーム完成!
 
1111日 デモ・プレイ
  電通大学キャンパス・10号館102教室で開催 午後450分~
 ・1128日(土) 市民ゲーム大会 午後130分~330
 「キリシタン鬼ごっこゲーム」「キング馬師ゲーム」「コメ収穫ゲーム」
 「舟運すごろくゲーム」「民話詰め合わせトランプ」「なわて巡りゲーム」

 ゲーム好き少年・少女、集まれ!
 ゲームに勝って、景品をゲットしよう!

次回例会
 日時  12月8日(火)、12時~
 場所  かごの屋(予定)
 内容  懇親忘年会兼特別展打ち上げ
 注意: 12月例会は教育文化センターで開催しませんので、ご注意ください。

傍聴、入会大歓迎!

 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。お待ちしております。

正行通信 第119号はコチラからも(PDF)


教文で絵本の読み聞かせ

日時 令和2年11月6日(金) 午前10時30分より11時
場所 教育文化センター 和室 
イベント内容 読書の秋 こども☆スタンプラリーを開催しました。
スタンプを2つ集めて景品を貰おう。


教文
親子体操教室「もうすぐハロウィン!」

日時 令和2年10月29日(木) 午前10時より11時30分
場所 教育文化センター・会議室1 
イベント内容 今日は、みんなでハロウィンの準備をしました。
変身して、マントを羽織って、
大変上手に出来ました。◎




教文
親子体操教室「”みんなの運動会”」

日時 令和2年10月22日(木) 午前10時より11時30分
場所 教育文化センター 芝生広場 
イベント内容 今日はお待ちかねの運動会です。
みんなでいっしょうけんめい頑張りました。
プログラムは以下の通りです。
1・どんぐりのお歌
2・入場行進
3・いっとうしょうたいそう
4・でんしゃじどうしゃ
5・かけっこヨーイドン
6・たまいれ
7・バナナ君体操
8・サーキットあそび
9・台風の目
10・あひるのダンス
11・パラバルーンで遊びましょう(強風中止)
12・全員リレー
13・ピカピカブー
14・記念撮影






教文
親子体操教室で「秋の遠足」

日時 令和2年10月15日(木) 午前10時より11時30分
場所 教育文化センター 
イベント内容 秋晴れの今日はみんなで「さとやま」へ出かけました。
広い公園でドングリを集めて写真を撮ってお弁当を食べました。







四條畷 楠正行の会 第64回例会

   日 時  令和2年10月13日(火) 午後1時30分~午後3時
   場 所 四條畷市立教育文化センター 2階 会議室1 

●楠正行通信118号をご覧ください。うれしいニュースがあります.

 10月に入り、ビッグニュースが飛び込んできました。
 詳細は、楠正行通信118号に掲載していますが、枚方市在住の駒村裕史様から、
駒村家に伝わる黒岩淡哉作の小楠公像をご寄贈いただきました。
 今まで、四條畷には、四條畷高校とJR四条畷駅にそれぞれ黒岩淡哉作の小楠公像がありますが、これで3体目ということになりました。
 今月の例会は、この小楠公像をめぐって大変盛り上がりました。「どこに展示すればよいだろうか」「長年庭に飾られてきたことで、その風雪が偲ばれるが、磨いた方が良いのだろうか」「磨くにしても、素人にできるのか」「いや、かえって今の姿を見てもらう方が良いのでは」「置台はどうしようか」等々、嬉しい談議に花が咲きました。
 この小楠公像に関しては、11月の特別展の展示を終えた段階で、市とも相談の上、適切な場所に常設展示する方向で検討します。
 駒村様、貴重な駒村家のお宝をご寄贈いただき、ありがとうございました。
 今後は、楠正行顕彰に資するよう、大切に保存・管理・展示等をさせていただきます。

●特別展「しじょうなわてと楠正行」111629日、ご来場お待ちしています.

四條畷市制施行50周年記念協力事業「特別展・しじょうなわてと楠正行」は、1116日(月)から1129日(日)までの2週間、市民総合センターで開催します.
 サプライズ展示「小楠公像」も加わりました。
是非、期間中に市民総合センターを訪れていただき、四條畷ゆかりの人物、楠正行に想いを馳せていただければと願っています。
 多くの皆様のご来場、お待ちしています。



               
               10月例会の様子

楠正行通信第117号(1013日発行)

・正平3年(1348)1月5日、楠正行の四條畷合戦
・巳の刻午前10時から申の刻午後4時までの激闘の6時間
・窮地にあっても、上山の偽首を丁重に扱うことのできた心の持ち主

楠正行通信第118号(1013日発行)

・朗報! 黒岩淡哉作「小楠公像」、枚方市在住の駒村氏より寄贈受ける
・これで、四條畷高校、JR四条畷駅に次いで、四條畷に3体目
・総高さ88センチ、幅40センチ、奥行き51センチの銅像

昭和15年発行「赤十字読本」に、正行、渡辺橋の美談が
 
 正行の事績、渡辺橋の美談を国民周知のこととして記述

*昭和155月 印刷・発行 「赤十字読本」より
 前編「日本の赤十字」 第1章「日本人の博愛」
 (本文・前略)
 日本は尚武の国であり、国民は勇敢であります。何れの国民にも断じて負けません。
 けれども武勇の一面にはいつも優しい慈悲心を持って居ます。だから戦場で敵に背を見せることを恥とするとともに、捕虜を虐待したり、敵の負傷者を苦しめたりすることを武士の第一の恥辱としていました。
八幡太郎は敵の大将宗任を家来とし、楠正儀は自分を親の仇と狙う熊王丸を身近く召し使って恩義に感激させその害心を失くさせました。楠正行が渡辺の戦いで敵の溺れる者数百名を救ったことは皆さんもよく知っていましょう。
 朱雀天皇は天暦元年、将門、純友の天慶の乱に命を落とした官軍・賊軍の兵士たちを憐ませられ延暦寺で千僧供養を営まれ「官軍も賊軍も共にわが王民である。怨親平等に冥福を祈る」という意味の願い文をお読みになりました。
 楠正成は赤坂に味方塚と並んで、敵方の戦死者のために寄手塚を建ててその冥福を祈りました。織田信長は桶狭間で今川義元を討ちとったがその首を鄭重に桶に納め駿府へ送り届け、桶狭間における今川勢の戦死者を手厚く葬り義元塚と呼びました。
 徳川家康もまた長篠の戦で戦死した味方の者と敵武田方の者との塚を築いて弔いました。味方の方の歯小さいから小塚、敵方のほうのは大きいから大塚と呼びました。大塚はまた信玄塚とも呼ばれています。
 島原の乱で戦没した耶蘇教徒の冥福を祈るために幕府では長崎・原城・富岡の三か所に合葬して、石碑を建て、また供養のために東向寺を建立しました。かかる例は枚挙に遑がありません。
 (以下、略)
☛ 赤十字読本の該当項






 川でおぼれる敵兵を救出する楠正行が描かれた絵ハガキ
   元になった絵は戦前に焼失している。(日本赤十字看護大所蔵)
朱雀天皇は天暦元年、将門、純友の天慶の乱に命を落とした官軍・賊軍の兵士たちを憐ませられ延暦寺で千僧供養を営まれ「官軍も賊軍も共にわが王民である。怨親平等に冥福を祈る」という意味の願い文をお読みになりました。この絵は産経新聞ホームページ 令和元年628日付け オピニオン面より転載

赤十字国際会議で、正行の美談が紹介された史料はないが、政府委員の「戦時傷兵に対する歴史実例」演説で紹介した可能性は
ある。この時の通訳は森鴎外。

  産経新聞紙面から
 敵を救出した正行の行動が欧米人に感動を与え、日本の国際赤十字加盟を容易にした、と伝わるが、それを裏付ける史料はない。
 しかし、「明治20年、第4回赤十字国際会議で、政府委員の石黒忠應が『戦時傷兵に対する歴史実例』を演説しました。その際、正行の話を紹介した可能性があります。ちなみに通訳は森鴎外でした。」
 と日本赤十字大学元職員の吉川龍子さんの談を紹介しています。

40数点のA1パネルを準備しています。
 是非、ご来場ください。

特別展・しじょうなわてと楠正行
展示資料一覧
 NO.  項目 内容 
 1  小楠公一代記  表紙
 2  小楠公一代記  1 桜井の別れ
 3  小楠公一代記  2 持仏堂での訓戒
 4  小楠公一代記  3 弁の内侍を救う
 5  小楠公一代記  4 渡辺橋の美談
 6  小楠公一代記  5 後村上天皇との別れ
 7  小楠公一代記  6 如意輪堂に辞世の歌
 8  小楠公一代記  7 四條畷の合戦
 9  南游紀行  挿入図/正行墳
 10  小楠公真筆集  原典・略解・読み下し文
 11  小楠公真筆集  1340 国宣 観心寺
 12  小楠公真筆集  1341 書状 土橋家
 13  小楠公真筆集  1342 国宣 観心寺
 14  小楠公真筆集  1343 廰宣 金剛寺
 15  小楠公真筆集  1344 書状 観心寺
 16  小楠公真筆集  1344 書状 観心寺
 17  小楠公真筆集  1347 国宣 観心寺
 18  河内名所図会  楠正行墳
 19  ゆかりの史跡  地図
 20  ゆかりの史跡  四條畷神社・小楠公墓所・和田賢秀墓
 21  ゆかりの史跡 櫻井駅跡 
 22  ゆかりの史跡  宝筐院
 23  ゆかりの史跡  如意輪寺
 24  ゆかりの史跡  渡辺橋
 25  ゆかりの史跡  建水分神社
 26  四條畷の合戦  合戦要図
 27  四條畷の合戦  激闘6時間
 28  正行通信  6号 表 歌・桜井決別
 29  正行通信  6行 裏 歌・四条畷
 30  正行通信  100号 表 正行ポスター
 31  正行通信  100号 裏 正行ポスター
 32  CD  歌・楠正行
 33  読売新聞  中世史の十字路 田辺聖子
 34  朱舜水作正行像賛  九思先生揮毫
 35  朱舜水作正行像賛  原典
 36  朱舜水作正行像賛  略解・読み下し
 37  拓本  如意輪寺・辞世の扉
 38  拓本  正四位下検非違使兼河内の守楠公碑
 39    楠公碑 銘・釈文
 40  掛け軸  狩野探幽画 桜井決別図
 41  四條畷合戦  四條畷市小字図
 42    楠正行かるた
 43  産経新聞  6回楠正行シンポジウム

☆特別展示 11/21 11/22 11/28 11/29 の4日間
 正四位下検非違使兼河内の守楠公碑拓本掛け軸
 小楠公委墓所社務所逆菊水家紋入り瓦

☆展示解説 11/22 11/29 の2日間 展示物を展示ホールに移動
 午前10時と、午後2時の2回、計4
 扇谷による展示解説(約1時間を予定)

☆正行グッズ販売 特別展示する4日間 AM10:00PM400 
 正行かるた・正行像賛扇子・論文集「小楠公」
 小説「楠正行」・CD「楠正行」

次回例会
  日時 1110日(火)、午後130分~3時
  場所 教育文化センター 2階 会議室1
    内容 特別展、MYゲーム制作、楠正行シンポジウム等打ち合わ
       令和3年度の取り組みついて他

傍聴、入会大歓迎! 
  郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
 例会は、毎月・第2火曜日の午後130分から3時までです。
 お気軽に、教育文化センターの会議室1を覗いてください。お待ちしております。


正行通信 第117号はコチラからも(PDF)


正行通信 第118号はコチラからも(PDF)

 

教文 親子体操教室で「おだんごを作りました」

日時 令和2年10月1日(木) 午前10時より11時30分
場所 教育文化センター ホール・会議室1
イベント内容 今日はお月見のお団子づくりをしました。
お手手を消毒してエプロンと三角巾を付け準備万端です。
コメ粉やモチ粉をコネコネして、色々な形を作り広場で頂きました。
とても楽しく出来ました。

   
   
   

教文 親子体操教室で「初めてのお絵描き」

日時 令和2年9月17日(木) 午前10時より11時30分
場所 教育文化センター ホール・会議室1
イベント内容 今日は体操の後でお絵描きをしました。
白い画用紙にクレヨンや絵の具で綺麗に塗りました。
お名前と作品名を書いて「初めての手形」を押しました。◎

   
   

四條畷 楠正行の会 第63回例会

   日 時  令和2年9月8日(火) 午後1時30分~午後3時
   場 所 四條畷市立教育文化センター 2階 会議室1 

●ススキ野原の四條畷を想像しながらの四條畷の合戦、激闘の一日を振り返る

 8月お休みでしたので、2か月ぶりの例会です。
 今回は、改めて、四條畷の合戦16時間の激闘を振り返りました。
 高師直5道・15国の35,450騎に、吉野朝・宮軍10,600騎のうち、中軍を構成する楠正行軍1,000騎は、正平3年(134815日、四條畷の地で、巳の刻(午前10時)から申の刻(午後4時)までの1日の死闘を繰り広げました。

 当時の状況を示す史料は残っていません。
 しかし、江戸期につくられた河内名所図会や、近代の四條畷を映す市民総合センターの緞帳、写真類等の存在を確認しながら、人家がほとんどなく、飯盛山と深野池の間約2キロメートルの狭隘な地を貫く大道=東高野街道周辺を覆っていたであろうススキ野原を想像しながらの四條畷の合戦の振り返りとなりました。
 楠正行の活躍が故に「四條畷神社」が創建され、神社創建を受けて、公共施設に四條畷の冠がかぶせら命名された背景のもとに、昭和7年、甲可村改め四條畷村と改名された事実を抑えながら、四條畷の合戦の主人公、楠正行が市名の生みの親となったことなど、多くのことを再確認しました。

●特別展「しじょうなわてと楠正行」111629日、ご来場お待ちしています。

 四條畷市制施行50周年記念協力事業「特別展・しじょうなわてと楠正行」は、1116日(月)から1129日(日)までの2週間、市民総合センターで開催します。
 この日、展示予定のA1パネル43枚のうち、完成した「小楠公一代記」8枚を持ち込み、会員に披露しました。
 会員からは、「とても張り合わせたパネルとは思えない出来ですね。」と、及第点をもらい、ひとまず安ど。
 パネルも手作り、カラープリントも張り合わせの手作り、しかし、思いだけは外注に負けない制作物と自負しています。
 期間中、市内外からたくさんの方が来場されることをお待ちしています。
 詳しくは、楠正行通信116号・別途チラシ等をご覧ください。
 なお、この日、以前何度かオブザーバー参加された方から、某すし店に伝わる「菊水家紋と楠の文字入りの大風呂敷」2枚の寄贈を受けました。今後、展示会やシンポジウム等の「のれん」等として活用させていただきます。
 ありがとうございました。



                  9月例会の様子
楠正行通信第116号
                


四條畷市制施行50周年記念協力事業特別展「しじょうなわてと楠正行」
・期間 111629 会場 四條畷市市民総合センター
・小楠公一代記・小楠公真筆集・楠正行像賛揮毫・楠公碑拓本・辞世の扉
 拓本他一挙公開


改めて確認! 正行最期の戦い「四條畷の合戦、激闘の1日」
  四條畷の合戦、正平315日、激闘の1
  1期衝突から第5期衝突、そして正行の最期
  1日、どのような経路をたどり、どこで、誰を相手にどのような戦いが繰り
  広げられたか
  正行隊1000騎の逆寄せ・消耗戦
  高師直35450騎の中身
  四條畷の合戦をしのぶことのできる資料は残っているのか
  この頃の四條畷の地勢・形状は
 (当日資料・一部抜粋)

            楠正行、四條畷合戦
       正平3年1月5日 巳の刻(午前10時)~
       申の刻(夕方4時)の激闘6時間 
                                       2020.09.01 扇谷作成
第1期    早朝、楠軍1000騎、本陣往生院から四條畷に向け進撃開始 
野崎 辺り 飯盛山に布陣していた懸下野の守、白旗隊3200騎、馳せ下って、
両軍最初の激戦。懸下野の守、身に傷を受け、敗走 
 第2期   十念寺西辺り 十念寺西方の武田伊豆の守信武1000騎と大激戦の末、武田軍700騎を
全滅させる 
 北条神社附近   小旗一揆衆、長崎彦九郎ら48騎、北条神社小松原より駆け下り、正行軍の前面を遮断
第3期         飯盛山の佐々木道誉3000騎、かけ下り 正行軍分断。
大塚正率いる正行軍の後陣敗れて、残るは前陣の300余騎となる
南野附近        細川相模守清氏550騎、仁木左京大夫頼章1800騎、千葉介貞2700騎・宇都宮遠江入道貞泰650騎と三度交戦し、退却させる
 細川讃岐守頼春1900騎、今川五郎入道範国2100騎、佐々木六角判官
氏頼3100騎は正行との全面衝突を避ける
 正行軍、千葉らとの交戦で100騎が討たれる
 正行軍、田の畔を見つけて、背中を押しあて、兵糧食を摂り、英気を養い態勢を整える
 備中守護、南遠江守宗継2200騎、重臣、南次郎左衛門尉、正行軍の槍隊の前に崩れる
備前守護、松田備前守盛網2300騎、重臣、松田次郎左衛門、和田賢秀の薙刀に倒れる 
萩野尾張守朝忠700騎、土岐周雀と明智三郎900騎、散り尻になって退散 
四條畷保健所東一帯    正行の乗馬「初霜」、足と胴に矢を受け、下馬を決心
第4期    正行軍、高師直本陣5300騎に肉薄し、その距離半町(約55メートル)に迫る
高師直の身代わり、上山六郎左衛門高元、「高武蔵の守師直是にあり」と名乗る 
 賢秀、良円、刑部、行忠、正家ら偽師直を取り囲み落馬させ、正行喉を刺し、「敵将高師直討取ったり」と絶叫するも、偽首と分かり、ぬか喜びする間に後退を余儀なくされる
第5期    小楠公 墓所東    高刑部太夫輔師兼、四周に弓矢隊を配置し、正行めがけて一斉に弓を弾く
 弓矢隊の中心九州の住人、須々木四郎に強弓を射たてられ、残兵ことごとく重傷を負う
 正行、須々木四郎の放った矢で左右の膝頭を三か所、右の頬、左の眼尻を射られる
 正時、同じく須々木四郎の放った矢に眉間と喉の脇を射られる
最期の地   JR四条畷駅南信号機辺り  「敵手にかかるな!」と正行、正時刺し違えて、討死。
自余の兵32人も腹掻き切って自決する
エピローグ   師直本陣   賢秀、薙刀をつえ代わりに、師直陣に入り込むが、湯浅本宮太郎左衛門に見破られる。賢秀は湯浅をにらみつけたまま落命 
 大塚掃部助惟正は落ち延びたが、正行の討死を聞き、取って返し、切りあって討死
 和田新兵衛正朝は、逃げ帰るが安保肥前の守忠実に追いつかれ、首を討ち取られる

●特別資料・西村朋子リポート
「二上山の石切場で何が作られたか ―太子町楠木石切り場跡―」
【講演】 二上山の石切場で何が作られたか―太子町楠木石切り場跡-
講師:公益財団法人大阪府文化財センター 井上智博/当日配布資料から抜粋


〇二上山周辺の石材利用の歴史
 ・サヌカイト 旧石器時代から弥生時代にかけて打製石器の素材として使用された
  ~西日本のかなり遠くからも二上山のサヌカイトが出る。
  (扇谷補注)
  四條畷市からも二上山のサヌカイト製石器が出ている。
 ☆讃良川川床遺跡出土サヌカイト製ナイフ形石器~2万年前の旧石器時代
  長さ6センチほどのナイフ形石器
  今から2万年ほど前から使用されていたと考えられている。
 ☆岡山南遺跡出土サヌカイト製木葉形石槍~14000年ほど前の旧石器時代
 ☆南山下遺跡出土サヌカイト製有舌尖頭器
  長さ11センチ、先は鋭く両面は丁寧に加工された立派な槍先
  ~旧石器から縄文時代早期のものと思われる
 ・凝灰岩
 ・金剛砂 →奈良時代?~近現代 研磨剤として利用。川砂をふるいにかけて採取

〇楠木石切り場跡の調査結果
・採石坑だけでなく、直下の谷も含めて調査
 →石切り場の空間構造が明らかにされた
・操業時期
 →大きく、
 古墳時代後期~平安時代前半(6世紀~9世紀前半)
 平安時代後半~鎌倉時代(12世紀後半~14世紀前半)
 13世紀中ごろに、採石の中断期がある ・・・ 焼き畑?によるソバの栽培がおこなわ
れた

 →つくられたものは
 古墳時代後期~平安時代前半(6世紀~9世紀前半):組み合わせ式石棺、基壇化粧石?
 平安時代後半~鎌倉時代(12世紀後半~14世紀前半):五輪塔を主体とする石塔
 (扇谷補注)
 寄手塚・身方塚の石材は、楠木石切り場から掘り出されたものではなさそう
 寄手塚 182センチの大型石造五輪塔
      → 石英閃緑岩 14世紀初めの作か
 身方塚 137.3センチの石造五輪塔
      → 黒雲母花崗岩 室町時代初期のものと考えられている
〇楠木石切り場と楠氏の関係
 ・講師説
  楠木石切り場跡の土地は、奈良大和の永福寺の所有地であり、楠氏とは直接関係ないものと思われる
 ・しかし、この土地が明治や大正期に、楠氏にちなんでつけられた楠木地名ではなく、古くからあった小字名によるものと思われる。
 ・また、周辺も含めて、この石切り場の使用時期が楠氏の活動時期とも重なっているのは事実。

□楠木石切り場跡周辺地図(脚注は西村朋子氏)



〇コラム
西村さんの疑問:橋本正督は正行の遺児との説があるが?!

扇谷の見解~
・藤田精一は、和泉義軍の随一者たる土丸城の橋本宮内少輔正督と記している
・小川信は、橋本正督のことを、紀伊を本拠とした和泉の土丸城に立てこもっていた南軍の将、と書いている。
・太平記に橋本正督という人物は登場しない。
・系図上も不祥。
以上のことから、正行の遺児ではなく、紀伊守護職の任にあった武将と考えるのが至当ではないか。

●特別展「しじょうなわてと楠正行」
 日時 1116日(月)~29日(日) 2週間
 場所 四條畷市市民総合センター1階 ロビー・コミュニティスペース、展示
    ホール
 内容 展示・特別展示・展示解説・正行グッズ販売
 【展示予定資料一覧】
 
 特別展・しじょうなわてと楠正行
展示資料一覧
 NO.  項目 内容 
 1  小楠公一代記  表紙
 2  小楠公一代記  1 桜井の別れ
 3  小楠公一代記  2 持仏堂での訓戒
 4  小楠公一代記  3 弁の内侍を救う
 5  小楠公一代記  4 渡辺橋の美談
 6  小楠公一代記  5 後村上天皇との別れ
 7  小楠公一代記  6 如意輪堂に辞世の歌
 8  小楠公一代記  7 四條畷の合戦
 9  南游紀行  挿入図/正行墳
 10  小楠公真筆集  原典・略解・読み下し文
 11  小楠公真筆集  1340 国宣 観心寺
 12  小楠公真筆集  1341 書状 土橋家
 13  小楠公真筆集  1342 国宣 観心寺
 14  小楠公真筆集  1343 廰宣 金剛寺
 15  小楠公真筆集  1344 書状 観心寺
 16  小楠公真筆集  1344 書状 観心寺
 17  小楠公真筆集  1347 国宣 観心寺
 18  河内名所図会  楠正行墳
 19  ゆかりの史跡  地図
 20  ゆかりの史跡  四條畷神社・小楠公墓所・和田賢秀墓
 21  ゆかりの史跡 櫻井駅跡 
 22  ゆかりの史跡  宝筐院
 23  ゆかりの史跡  如意輪寺
 24  ゆかりの史跡  渡辺橋
 25  ゆかりの史跡  建水分神社
 26  四條畷の合戦  合戦要図
 27  四條畷の合戦  激闘6時間
 28  正行通信  6号 表 歌・桜井決別
 29  正行通信  6行 裏 歌・四条畷
 30  正行通信  100号 表 正行ポスター
 31  正行通信  100号 裏 正行ポスター
 32  CD  歌・楠正行
 33  読売新聞  中世史の十字路 田辺聖子
 34  朱舜水作正行像賛  九思先生揮毫
 35  朱舜水作正行像賛  原典
 36  朱舜水作正行像賛  略解・読み下し
 37  拓本  如意輪寺・辞世の扉
 38  拓本  正四位下検非違使兼河内の守楠公碑
 39    楠公碑 銘・釈文
 40  掛け軸  狩野探幽画 桜井決別図
 41  四條畷合戦  四條畷市小字図
 42    楠正行かるた
 43  産経新聞  6回楠正行シンポジウム

☆特別展示 11/21 11/22 11/28 11/29 の4日間

 正四位下検非違使兼河内の守楠公碑拓本掛け軸
 小楠公委墓所社務所逆菊水家紋入り瓦

☆展示解説 11/22 11/29 の2日間 展示物を展示ホールに移動