四條畷市立教育文化センター
お問い合わせはTEL.072-878-0020
〒575-0021 大阪府四條畷市南野5丁目2-16
平成26年 | 平成27年 | 平成28年 | 平成29年 | 平成30年 | 令和元年 | 令和2年 | 令和3年 |
日時 | 令和3年2月9日(火) 午後1時30分より3時 |
場所 | 教育文化センター 2階 会議室1 |
ではあるが、帝の恩なくしてはあり得ぬこと。恩を受けながら、帝に背き兵を出すこと
などできるものではない。もし帝のお咎めが解けぬとあれば、髪を下すまで。
ここでも直義による護良親王殺害に躊躇のあった尊氏が見てとれます。
さて、続く延元元年1336は、実に、波乱万丈の1年でありました。
尊氏軍入京に伴い、正月、後醍醐が京の都から比叡山に逃げたことに始まり、京の都は足利軍と後醍醐軍の戦の舞台となって、兵火に見舞われました。しかし、2月、北畠顕家や楠正成らの活躍で、京都市街戦で敗れた尊氏・直義は九州に下ることになります。が、大宰府に入った尊氏は、急激に勢力を盛り返し、九州を支配下に置きます。再び東征に転じた尊氏は海路を、直義は陸路を進み、5月、兵庫湊川に楠正成を破り、早や6月には光源上皇を奉じて入京するのであります。
8月には光明天皇が践祚し、北朝が成立すると、10月、尊氏の諫言を信じた後醍醐は、花山院幽閉の憂き目にあい、軟禁状態でありましたが、終に12月、正行の手引きで吉野に逃れました。
「帝に翻意を持つなど滅相なことです。尊氏は、義貞の反逆を懲らしめんがために、戦いを仕掛けましたが、帝にはぜひ京の都にお戻し致し、内裏にお入りいただきたいと願うのみです。」
「朕を内裏に迎えるとな。では、二人の親王を義貞をつけ、北国に逃すといたそう。」
しかし、尊氏に後醍醐を奉じる思いなどあろうはずもなく、花山院に幽閉される憂き目となる後醍醐でありました。
結果、後醍醐の吉野潜幸は、南北朝時代に突入の瞬間でありました。
一方、時を同じくして、室町幕府の政治の要となる、建武の式目の制定がまさにこの時行われるのであります。
この建武式目は、幕府所在地の選定と政策指針の二編からなり、尊氏の諮問に応えた法曹官人の手による17か条とされますが、事実上の立案者は、ほかならぬ足利直義でありました。足利幕府の政務は、直義によって始められたことが、この一事によっても分かります。
尊氏・直義の二頭政治の始まりは、延元3年1338、8月といわれます。
しかし、このころすでに尊氏の軍勢催促状が激減するのに対し、直義のそれは逆に激増し、尊氏は軍事指揮権まで直義に移譲して、二頭政治が始まったといえます。そして二頭政治を象徴するように、延元3年1338、8月11日、尊氏は正二位・将軍に任じられます。そして同時に、直義も同日、従四位上・左兵衛督に昇任しました。
太平記は、この様子を、「兄弟一時に相揃って大樹・武将に備わること、古今未だその例を聞かず」と、驚きを隠さず記しています。
いよいよ直義の政治思想に基づいた、理想国家の建設事業が開始されたのであります。
尊氏は「弓矢の将軍」として君臨し、直義は「政道」を一身に担い、将軍権力の二分化現象、言い換えれば二頭政治は順調に滑り出したのであります。
梅松論は、「三条殿は六十六か国に寺を一宇づつ建立し、各安国寺と号し、同塔婆一基を造立して所願を寄せられ、」と記しています。これは直義が仏教思想を踏まえて国土を平和にし、民を安んじようという事業を企画し、安国寺と利生塔を建立するという、いわば仏国土建設を推進しようとしたことが分かります。
下し分、下知状、御教書、軍勢催促状、所領安堵状、官途推挙状、院宣一見状等の、ありとあらゆる発給状況をつぶさに見ますと、尊氏に圧倒的に少なく、直義に数多く残ることからして、二頭政治の中心は直義にあった、言い換えれば、政務は尊氏から直義に任されていたことがうかがい知れます。
また、直義が鎌倉幕府の政治を踏襲したことが分かります。
平安から鎌倉にかけて、天皇臨幸の下、朝廷が行った行事の一つに「弓場始め」がありますが、直義もこの「弓場始め」行い、また訴訟機関や議決機関の「引付・評定の制度」を取り入れています。これらのことから、直義の「鎌倉」的要素が感じられ、直義の政治的思考が、鎌倉幕府的なそれからいまだ抜けきっていない一面を物語っているといえるでしょう。急進的で、バサラの異名を持つ高師直・師泰とは、相いれなかったことがよくわかります。
このように尊氏のもと、直義との二頭政治は順調に事を運びましたが、直義には決定的な権限の欠如がありました。
それは守護職の任免権です。守護職の任免権は、二頭政治の時期も含めて、一貫して将軍、尊氏の手にあり、直義はこれには関与できませんでした。「天下執権人」直義の、最大の弱点・限界がここにありました。
― 観応の擾乱
観応の擾乱は、なぜ、起こったのでしょうか。
一言にして言えば、室町幕府内部における、新旧両勢力の政治的対立にありました。
具体的には、惣領・高い家格の一門を中心に、旧鎌倉幕府の官僚と足利一門の有力武将、東国や九州など族的結合の強い、後進地域の武士たち、守旧派が直義派を形成しました。
一方、その対極に位置する、庶子・比較的低い家格の一門で、合戦で功成りを遂げた、畿内先進地域周辺の反荘園的な新興武士層、将軍尊氏の執事・高師直に連なる急進派が形成されました。
この両派の確執・対立抗争劇が、観応の擾乱の構図であります。
要は、秩序を重んじる直義一派と、強ければ良しとする師直バサラ派の対立であります。そして、この対立の構図は、〈直義―師直〉の対立から、〈尊氏・師直―直義・上杉氏〉の対立に発展し、やがて〈尊氏の子、義詮―直義の養子、直冬〉の対立へと変わっていくのであります。
また、観応の擾乱を予兆させる太平記の記述、巻二十五の「宮方の怨霊六本杉に会する事」の件も有名であります。
ここの件は、ある禅僧が仁和寺の六本杉で雨宿りをしたとき、六本杉の
その謀議とは、護良親王は足利直義の子となって生まれ出で、知教上人は上杉
峰岸純夫は、その著「足利尊氏と直義」の中で、ちょうどこのころは南朝方が一挙に衰勢となったころで、太平記の作者は、その物語性を盛り上げるために、非業な最期を遂げた南朝方の怨霊が足利方の面々に乗り移って、内部対立・抗争を引き起こしたと説明している、と書いています。
南北朝時代は、怨霊も登場し、だまし合いの、疑心暗鬼の時代でなかったかと暗示させてくれます。このように考えれば、当時の楠氏の存在、果たした役割、義一筋の生き方は極めて稀有なものであったのではないでしょうか。当時から今に至るまで、正成、正行の人気が衰えない理由に大いに納得するのであります。
この両派の対立に輪を掛け、その構図をより複雑にしたのが、直義の嫡子、如意王の突然ともいえる誕生と、尊氏後継の義詮の登場であります。
貞和3年1347、6月8日、41歳という高齢の直義夫人に男子が授かります。この頃、得意の絶頂にあった直義にとって、男子の誕生は大きな喜びでありました。しかし、この直義に男子誕生の慶事は、思わぬ方向に歯車を狂わせ、2頭政治の安定的な運営に、大きな不安要因となったのであります。
まさに、思わぬ嫡子誕生が、直義に権力者としての野望を抱かせたのであります。
政道を担う自分の地位・立場をわが子に継がせたい、という願望が彷彿として湧いてきたことは、疑うに足りません。おそらく、これが観応の擾乱の、根本原因の一つであったことは間違いないと云えます。
今、歴史の中で過去の権力者の姿を見るとき、後継者に苦労し、悩まされた歴史上の人物は数知れません。世継ぎに不安を残した豊臣秀吉しかり、本能寺の変で思わぬ最期を遂げた織田信長しかりであります。そして、武家政権にあって、その壁を乗り越えるすべを作ったのが徳川であります。宗家を補佐する徳川三家の創設によって、宗家の安定と、適宜な緊張・均衡関係、そして宗家まさかの時の準備を構築した、家康のなせる業が、徳川政権15代、250年の武家政権繁栄をもたらしといえるでしょう。
さて、観応の擾乱の顛末に話を戻しましょう。
先制攻撃は直義が仕掛けました。貞和5年1349、6月、高師直は執事の職を解かれます。しかし師直も巻き返しを図り、クーデターを起こします。不意を突かれた直義は、兄、尊氏の館に逃れました。
この時、襲撃を受けた直義は、女装して尊氏邸に駆け込み、島津時久、和泉忠頼が“垣根を乗り越えて”飲食を届けた、と島津家家臣によって書かれた山田聖栄自記に載っているそうであります。
皆さん。「垣根を乗り越えて」の件に思い当たる節はありませんか。
そうです。朱舜水作の楠正行像賛に、全く同じ表現が出てきます。
正行像賛には、「使三所レ報者身踰レ垣而逃。弟穴レ地而竄。」(報ゆる所の者は、身垣をこえて逃げ、弟は地に穴してもぐり逃れ)とあります。この意は、「尊氏は自ら垣根を乗り越えて逃げ、足利直義は地に穴を掘ってもぐり逃れ、」であります。
朱舜水は、島津家に伝わる山田聖栄自記を見て、この表現を使ったのでしょうか。この脚本作成にあたって、“垣根を乗り越えて”との件を見た瞬間、正行像賛148文字を思い描いたところです。
正行の会で、足利直義について学びましょう、となったが故の出会いであり、発見であり、嬉しい限りです。今回、直義と正行の接点は全く出てきませんが、奇しくも、朱舜水が教えてくれる正行と直義の関係の一コマでした。
さて、直義の話に戻りましょう。
「尊氏殿。邸内の直義殿に謀反の疑いあり。速やかに差し出されよ。」
「直義。ここは一歩譲って和睦を結べ。」
「謀反とは片腹痛い。されど、兄じゃ。ここは何卒よろしく。」
「あいや。分かった。」
この時の和睦交渉で、直義は大幅な譲歩を迫られました。しかし、ここで見落としてはいけないのが、尊氏と師直の内通によって、関東統治を任としてきた義詮を上洛させるという一項が入っていたことであります。尊氏の、後継者・義詮を上洛させるために仕組まれた尊氏と師直の猿芝居に、直義は、まんまと乗せられてしまったのであります。
このようにして、和議の2か月後、義詮が入京します。
義詮が、直義が退去した三条坊門邸に入ると、執政の地位が直義から義詮に移ったことを、世間に知らしめることとなったのであります。尊氏の心中的中といったところでしょうか。
かつて、2頭政治における直義権力の中核であった裁許権、そして所領給付権も義詮に移りました。貞和5年1349、9月、直義は左兵衛督を辞しています。失脚した直義の発給文書は、それ以降、全く残っていません。
しかし、観応元年1350、直義は反撃に転じます。
直義は、京を逃れ、大和興福寺に入り、戦いの“のろし”を上げるのです。そして、奇想天外の策、吉野朝に降伏を申し入れ、是を許されるのであります。プライドの高い直義が、吉野朝年号をわざわざ使い「吉野朝天皇の勅命に任せて、忠節を致します」と返書に記しました。
しかし、吉野朝に帰参したはずの直義は、その後の文書に観応の年号を使い、吉野朝とともに動いた形跡もなく、この吉野朝降下は一時の、便宜的なものでありました。それは直義の意外なしたたかさを見せる一面でもありました。
観応2年1351、2月、激戦の末、宿敵、師直・師泰を打ち破ります。しかし、この時、尊氏は自分に忠節を尽くした高一族を守れなかったことに痛恨の思いを抱き、直義への報復を心中で決意したことでしょう。
ここでもまた発見がありました。
尊氏・直義の母、上杉清子の兄弟に重憲がおり、なんと「扇谷上杉」とあるではないですか。関東に、上杉の一流、扇谷と書いてオウギガヤツと呼ぶオウギガヤツ上杉家のあることは知っておりましたが、直義とこれほど近しい関係とは知りませんでした。
扇谷をオウギガヤツと呼ぶいわれは、今も鎌倉市の一角に「扇ガ谷」という地名があり、この地名が故に、オウギガヤツ上杉と名乗ったとのことであります。私とは、直接、何のかかわりもありませんが、オウギガヤツ上杉氏の存在は、私が上杉氏に親近感を持たせてくれるものです。地名や氏名を同じウすると、妙に親近感を持つのは、万人が認める所でしょう。
さて、直義は尊氏と和睦して幕政に復帰するのですが、この激しい戦いのさなか、直義最大の悲劇が起こりました。
2月25日夜の愛児、如意王の他界であります。
直義は、愛児を失ったことで、将来に向けての希望の星、そして人生の大きな目標を見失い、その落胆のほどは、想像を絶するものであったと思われます。
幕政に復帰した直義は、尊氏の嫡子、義詮と二人で幕府の政務を見ることになります。が、あくまでも政務担当の中心は義詮であり、直義は補佐する立場にしかありませんでした。養子、直冬の鎮西探題就任という、いわば直義にとって戦利品といえる戦果もあったものの、上杉
叔父直義と打ち解けようとしない、義詮の敵対心もありますが、愛児の
さて、この時期、直義に対する攻撃の主導権は、尊氏から義詮に代わりました。事態はいよいよ核心に迫り、直義対義詮の対決となっていくのであります。
観応2年1351、8月1日の丑の刻(午前2時ごろ)、失意にあった直義はその一党を引き連れ、急遽、京を脱し、北国に向かったのであります。この後、栄華を極めた直義が、再び京の地を踏むことはなく、この北国落ちは直義没落の始まりでありました。
尊氏は、直義追討を決意し、この年10月には、吉野朝後村上と和議を結び、正平の一統がなると、吉野朝から直義追討の綸旨を得て、仁木頼章、畠山国清、今川範国、武田信武らを率いて関東に出陣をします。
12月13日、尊氏と直義の天下分け目の合戦、薩埵山合戦に突入します。
尊氏は、駿河湾を東に臨む標高244メートルの山、薩埵山に3000騎の軍勢を布陣します。一方、直義は、薩埵山北東の大手・由井に上杉憲顕軍、搦め手・
薩埵山と三島の間は約36キロ、沿道には直義軍が充満し、尊氏軍の劣勢は明らかでありました。しかし、
伊豆山中にあった直義は、尊氏の和議を受け入れ、翌年1月6日、鎌倉に戻りましたが、この時の直義には政界復帰の気力は失せていました。
そして、直義の使った花押の変遷に、直義の浮沈がはっきり見て取れます。得意の絶頂期の花押は、幅10.5センチもある、この時代最大といえる巨大花押ですが、観応元年1350以降に使われた花押は、以前使った小さい花押に近似し、線も細く”もはや昔日の生気を失った“ものに戻っているのです。
巨大花押は、直義をめぐる権力の激しい変転の中で、短期間に限って開花した「あだ花」に例えることができると云えるでしょう。
薩埵山合戦で直義に勝利した尊氏は、吉野朝との和議を解消しましたので、吉野朝は再び尊氏打倒を鮮明にします。
観応3年閏2月、北畠親房は、東西同時蜂起の作戦を展開します。
関東では、宗義親王を奉じる義貞の遺児、義宗・義興と上杉憲顕連合軍を武蔵の地に投入する一方、西国では、北畠顕能、千草顕経、楠正儀らが、尊氏の留守を守る義詮に向かわせたのであります。
東西とも、当初、足利方が劣勢を強いられます。しかし、利根川の渡河に成功し、軍勢を再結集した尊氏は、
この合戦の折、宗義親王が残した和歌があります。
― 君がため世のため何か惜しからん 捨てて甲斐ある命なりせば
この歌は、第二次世界大戦中、国民の精神を鼓舞する歌として盛んに活用されたといいます。ここで、直義の養子、直冬に触れておきましょう。
直冬は、尊氏の庶長子で、尊氏嫡子義詮の兄にあたる人物ですが、尊氏との親子関係が築かれないまま、当時長子のいなかった直義の養子となります。尊氏に認知されなかった直冬は、生涯、尊氏を恨むこととなるのです。
幕府が観応の擾乱に突入すると、当然のように直冬は直義側の武将として行動し、実父尊氏に刃向かいました。直冬が肥後に逃れ、九州において猛威を振るい、尊氏を苦境に陥れたことは、誰もが良く知るところです。また、この実子直冬に対する尊氏の憎しみも、尋常ではなかったようです。その証左の一つとして、尊氏と直義が和睦した際でも、直冬については「先の命令通り、誅伐せよ」と指令しているので、尊氏にとって、直冬への憎しみは、直義のそれよりも更に深いということになります。親子が故の、濃い血がなせる業だったのでしょうか。
いずれにしても、観応の擾乱と呼ばれる室町幕府の内訌は、嫡子誕生を機に、直義が「あわよくば」と、幕府の首領の座を得ようとしたところに、その発端があったのではないかと思われます。
往時の名九州探題今川了俊は、その晩年の著「難太平記」の記述に、観応の擾乱についての核心に迫る証言を綴っています。
『尊氏の思いは、将軍の地位を嫡子義詮に着実に継承することであった。弟、直義は、あっぱれなる志の持ち主で、捨てがたい人材であったことから、何かと配慮を怠らなかった。がそれも、将軍ポストを、義詮にすんなり渡すためだった。』と。
言い得て妙なる記述かな。大変、意味深長な証言と云えるでしょう。
― 鎮魂と供養
直義が亡くなった2年後、尊氏は病の床に就きます。
そして、この尊氏の病は、直義の怨霊の仕業とされたのです。
病の床に就いた尊氏は、その怨霊を追い払い、慰撫しようと、直義に従二位を授かります。しかし、この贈位のことは、当時右大臣の地位にあった近衛
贈従二位の効果が宜しくないので、間髪を入れず贈正二位という、二の矢を放ったのでしょう。しかし、直義の怨霊は、贈位程度では収まる気配にはありませんでした。
尊氏死後の康安2年1362、7月、遂に、直義の霊が勧請神となり、「大倉宮」と号されるに至るのです。加えて
しかし、直義の怨霊は、その後も室町幕府の前途に暗い影を落とし続けます。その後の足利将軍の年忌法要は、嘉吉元年1441、直義没後90年の時を経ても、まだ行われています。そして、直義供養はこれで終わったわけではなく、室町幕府が続く限り、相当長い期間続きました。
権力トップの、兄弟、骨肉の争いが故でしょうか。おお、恐ろしい哉。
― 終章 政治と宗教の巨人
今日の主人公、足利直義は、観応3年1352、2月26日に死去しています。
多くの天皇に仕え、正平の一統では北朝の交渉役をも務めた洞院公賢は、その著「園太暦」に、「直義が死去したことで、天下静謐のための基礎となれば、それは神妙なことである。但し、何事も凡人の考えの及ぶところではない。これからどうなるか分からない。」と記し、直義が、天下の静謐を乱す張本人とみなしていたことを書き残しています。そして直義の政治面における存在の大きさが、この園太暦のこの言葉の中に如実にうかがうことができます。
また、宗教的な観点から見ると、幕府の宗教行為が、直義にもっぱら担われていたことを考慮するとき、夢窓派の法流の拡大発展にとって、夢想流に教義上の疑義をさしはさむ直義の存在は、大きな障壁であったに違いありません。直義が観応の擾乱によって放逐されたことは、目の上の瘤が取れたようなもので、夢窓派には望外の幸運であったと云えるでしょう。
一方、尊氏はと云えば、直義が京を出奔した直後、「夢窓疎石を開山とする天竜寺に対し、足利氏の子孫及び一族家人は、末永く同寺に帰依し、同寺
直義が親近感を示した宋朝禅は、鎌倉幕府的な臭いが強いことから見れば、夢窓の和風禅のその後の隆盛もまた、「鎌倉幕府的秩序」の衰退とみることができるのではないでしょうか。
さて、太平記に直義の名前が登場する回数は、決して少なくありません。
直義の登場場面を繙いてみると、「建武元年1334、権力闘争に敗れた護良親王の身柄を鎌倉で受け取り、土牢に閉じ込めたあげく、翌2年7月、中先代の乱のどさくさに護良を殺害させたこと」に始まります。
そして、「建武2年1335、11月、中先代の乱鎮定後、尊氏が出家しようとした時、尊氏・直義追討を命じる内容の後醍醐帝の綸旨を偽作し、尊氏の決起を促したこと」が続き、「延元2年1337、3月、越前金ケ崎城陥落のさい、捕らえた
この中で、最も注目されるのは、何と言っても吉野朝皇子らの殺害であって、この事により直義は、因果応報的に不遇な最期を遂げるという形で、太平記の描写が行われているのです。
太平記は、直義が、吉野朝皇子殺害という悪事すべてを、一人で担うという形になっており、直義のまさに真骨頂というべき「政道」については、意図的と思えるほど、触れる所がありません。
直義は、前代の鎌倉幕府的な要素を一心に漂わせているのです。
直義は、生涯の最後、鎌倉に入り、尊氏によって殺害されるのですが、この事自体が直義の真からの鎌倉志向と、もっとも鎌倉的なものの終焉を象徴している、とみることができるのではないでしょうか。
直義の、鎌倉に目を向けた歴史との関わりを考えるとき、「鎌倉」的時代の終焉は、鎌倉幕府の滅亡ではなく、実は、直義がこの世を去った観応3年1352である、とする見方も成り立つのではないかと思います。
直義の生涯は、楠氏に見られない、足利氏の一員であるが故の、波乱万丈に満ちた生涯でありました。
己の信じる義を貫き、きれいすぎるともいえる、潔い死を遂げた正成、正行の生涯。
一方、それに引き換え、あまりにも立ち位置が揺らぎ、儚い野望を抱き、失意のうちに閉じた直義の生涯。
対極にあたるともいえる両者の最期ですが、生前、正行と、直義はいったいどの様な会話を交わしたでしょうか。
もしかすると、「正行よ。わしとともに、兄、尊氏を討とうではないか。」と、伝えたやも・・・。
時間が来たようでございます。
講談「足利直義」、一巻の終わりでございます。
ご清聴、ありがとうございました。
(おわり)
●電通大・社会プロジェクト実習 5年目 決定!
「畷の歴史・文化をゲームに 第2弾!」
昨年の成果を踏まえて、より完成度・クオリティの高いゲームを制作する。
今年は、テーマを6つに絞り込む。
・弥生時代~稲作文化
・古墳時代~馬文化発祥のまち
・南北朝時代~四條畷の合戦
・戦国時代~河内キリシタン
・江戸時代~街道文化
・近世~水車産業
*正行ゲームは制作必須
予定スケジュール(正行の会関係分)
4月28日 学生との対面
5月12日 扇谷講義①
5月19日 扇谷講義②
5月26日 現地学習/案内
7月14日 テーマ発表会
夏休み集中講義
10月6日 中間発表プレゼンテーション
11月10日 デモプレイ
12月4日 市民ゲーム大会/総合センター・展示ホール
●発足以来の活動の記録
平成26年11月~令和3年2月
●次回例会
日時 3月9日(火)、13時30分~15時00分
場所 四條畷市立教育文化センター2階・会議室1
内容 講談「児島高徳」
その他
●傍聴、入会大歓迎!
郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
例会は、毎月・第2火曜日の午後1時30分から3時までです。
お気軽に、教育文化センターの2階 会議室1を覗いてください。お待ちしております。
正行通信 第123号はコチラからも(PDF)
正行通信 第124号はコチラからも(PDF)
四條畷 楠正行の会 第67回例会
日時 | 令和3年1月12日(火) 午後1時30分より3時 |
場所 | 教育文化センター 2階 会議室1 |
日時 | 令和2年12月8日(火) 午後1時30分より3時 |
場所 | 教育文化センター 2階 会議室1 |
日時 | 令和2年11月19日(木) 午前10時より11時30分 |
場所 | 教育文化センター ホール・会議室1・芝生広場 |
イベント内容 | 絵本は読書の秋、焼き芋は食欲の秋です。。 共に楽しく出来ました◎ |
日時 | 令和2年11月10日(火) 午後1時30分より3時 |
場所 | 教育文化センター 2階 会議室1 |
日時 | 令和2年11月6日(金) 午前10時30分より11時 |
場所 | 教育文化センター 和室 |
イベント内容 | 読書の秋 こども☆スタンプラリーを開催しました。 スタンプを2つ集めて景品を貰おう。 |
日時 | 令和2年10月29日(木) 午前10時より11時30分 |
場所 | 教育文化センター・会議室1 |
イベント内容 | 今日は、みんなでハロウィンの準備をしました。 変身して、マントを羽織って、大変上手に出来ました。◎ |
日時 | 令和2年10月22日(木) 午前10時より11時30分 |
場所 | 教育文化センター 芝生広場 |
イベント内容 | 今日はお待ちかねの運動会です。 みんなでいっしょうけんめい頑張りました。 プログラムは以下の通りです。 1・どんぐりのお歌 2・入場行進 3・いっとうしょうたいそう 4・でんしゃじどうしゃ 5・かけっこヨーイドン 6・たまいれ 7・バナナ君体操 8・サーキットあそび 9・台風の目 10・あひるのダンス 11・パラバルーンで遊びましょう(強風中止) 12・全員リレー 13・ピカピカブー 14・記念撮影 |
日時 | 令和2年10月15日(木) 午前10時より11時30分 |
場所 | 教育文化センター |
イベント内容 | 秋晴れの今日はみんなで「さとやま」へ出かけました。 広い公園でドングリを集めて写真を撮ってお弁当を食べました。 |
日 時 | 令和2年10月13日(火) 午後1時30分~午後3時 |
場 所 | 四條畷市立教育文化センター 2階 会議室1 |
●楠正行通信118号をご覧ください。うれしいニュースがあります. 10月に入り、ビッグニュースが飛び込んできました。 詳細は、楠正行通信118号に掲載していますが、枚方市在住の駒村裕史様から、 駒村家に伝わる黒岩淡哉作の小楠公像をご寄贈いただきました。 今まで、四條畷には、四條畷高校とJR四条畷駅にそれぞれ黒岩淡哉作の小楠公像がありますが、これで3体目ということになりました。 今月の例会は、この小楠公像をめぐって大変盛り上がりました。「どこに展示すればよいだろうか」「長年庭に飾られてきたことで、その風雪が偲ばれるが、磨いた方が良いのだろうか」「磨くにしても、素人にできるのか」「いや、かえって今の姿を見てもらう方が良いのでは」「置台はどうしようか」等々、嬉しい談議に花が咲きました。 この小楠公像に関しては、11月の特別展の展示を終えた段階で、市とも相談の上、適切な場所に常設展示する方向で検討します。 駒村様、貴重な駒村家のお宝をご寄贈いただき、ありがとうございました。 今後は、楠正行顕彰に資するよう、大切に保存・管理・展示等をさせていただきます。 ●特別展「しじょうなわてと楠正行」11月16~29日、ご来場お待ちしています. 四條畷市制施行50周年記念協力事業「特別展・しじょうなわてと楠正行」は、11月16日(月)から11月29日(日)までの2週間、市民総合センターで開催します. サプライズ展示「小楠公像」も加わりました。 是非、期間中に市民総合センターを訪れていただき、四條畷ゆかりの人物、楠正行に想いを馳せていただければと願っています。 多くの皆様のご来場、お待ちしています。 ![]() ![]() 10月例会の様子 *楠正行通信第117号(10月13日発行) ・正平3年(1348)1月5日、楠正行の四條畷合戦 ・巳の刻午前10時から申の刻午後4時までの激闘の6時間 ・窮地にあっても、上山の偽首を丁重に扱うことのできた心の持ち主 *楠正行通信第118号(10月13日発行) ・朗報! 黒岩淡哉作「小楠公像」、枚方市在住の駒村氏より寄贈受ける ・これで、四條畷高校、JR四条畷駅に次いで、四條畷に3体目 ・総高さ88センチ、幅40センチ、奥行き51センチの銅像 ●昭和15年発行「赤十字読本」に、正行、渡辺橋の美談が 正行の事績、渡辺橋の美談を国民周知のこととして記述 *昭和15年5月 印刷・発行 「赤十字読本」より 前編「日本の赤十字」 第1章「日本人の博愛」 (本文・前略) 日本は尚武の国であり、国民は勇敢であります。何れの国民にも断じて負けません。 けれども武勇の一面にはいつも優しい慈悲心を持って居ます。だから戦場で敵に背を見せることを恥とするとともに、捕虜を虐待したり、敵の負傷者を苦しめたりすることを武士の第一の恥辱としていました。 八幡太郎は敵の大将宗任を家来とし、楠正儀は自分を親の仇と狙う熊王丸を身近く召し使って恩義に感激させその害心を失くさせました。楠正行が渡辺の戦いで敵の溺れる者数百名を救ったことは皆さんもよく知っていましょう。 朱雀天皇は天暦元年、将門、純友の天慶の乱に命を落とした官軍・賊軍の兵士たちを憐ませられ延暦寺で千僧供養を営まれ「官軍も賊軍も共にわが王民である。怨親平等に冥福を祈る」という意味の願い文をお読みになりました。 楠正成は赤坂に味方塚と並んで、敵方の戦死者のために寄手塚を建ててその冥福を祈りました。織田信長は桶狭間で今川義元を討ちとったがその首を鄭重に桶に納め駿府へ送り届け、桶狭間における今川勢の戦死者を手厚く葬り義元塚と呼びました。 徳川家康もまた長篠の戦で戦死した味方の者と敵武田方の者との塚を築いて弔いました。味方の方の歯小さいから小塚、敵方のほうのは大きいから大塚と呼びました。大塚はまた信玄塚とも呼ばれています。 島原の乱で戦没した耶蘇教徒の冥福を祈るために幕府では長崎・原城・富岡の三か所に合葬して、石碑を建て、また供養のために東向寺を建立しました。かかる例は枚挙に遑がありません。 (以下、略) ☛ 赤十字読本の該当項 ![]() ![]() ☝ 川でおぼれる敵兵を救出する楠正行が描かれた絵ハガキ 元になった絵は戦前に焼失している。(日本赤十字看護大所蔵) 朱雀天皇は天暦元年、将門、純友の天慶の乱に命を落とした官軍・賊軍の兵士たちを憐ませられ延暦寺で千僧供養を営まれ「官軍も賊軍も共にわが王民である。怨親平等に冥福を祈る」という意味の願い文をお読みになりました。この絵は産経新聞ホームページ 令和元年6月28日付け オピニオン面より転載 赤十字国際会議で、正行の美談が紹介された史料はないが、政府委員の「戦時傷兵に対する歴史実例」演説で紹介した可能性はある。この時の通訳は森鴎外。 産経新聞紙面から 敵を救出した正行の行動が欧米人に感動を与え、日本の国際赤十字加盟を容易にした、と伝わるが、それを裏付ける史料はない。 しかし、「明治20年、第4回赤十字国際会議で、政府委員の石黒忠應が『戦時傷兵に対する歴史実例』を演説しました。その際、正行の話を紹介した可能性があります。ちなみに通訳は森鴎外でした。」 と日本赤十字大学元職員の吉川龍子さんの談を紹介しています。 ■40数点のA1パネルを準備しています。 是非、ご来場ください。 特別展・しじょうなわてと楠正行 展示資料一覧
☆特別展示 11/21 11/22 11/28 11/29 の4日間 正四位下検非違使兼河内の守楠公碑拓本掛け軸 小楠公委墓所社務所逆菊水家紋入り瓦 ☆展示解説 11/22 11/29 の2日間 展示物を展示ホールに移動 午前10時と、午後2時の2回、計4回 扇谷による展示解説(約1時間を予定) ☆正行グッズ販売 特別展示する4日間 AM10:00~PM4:00 正行かるた・正行像賛扇子・論文集「小楠公」 小説「楠正行」・CD「楠正行」 ●次回例会 日時 11月10日(火)、午後1時30分~3時 場所 教育文化センター 2階 会議室1 内容 特別展、MYゲーム制作、楠正行シンポジウム等打ち合わせ 令和3年度の取り組みついて他 ●傍聴、入会大歓迎! 郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。 例会は、毎月・第2火曜日の午後1時30分から3時までです。 お気軽に、教育文化センターの会議室1を覗いてください。お待ちしております。 正行通信 第117号はコチラからも(PDF) |
日時 | 令和2年10月1日(木) 午前10時より11時30分 |
場所 | 教育文化センター ホール・会議室1 |
イベント内容 | 今日はお月見のお団子づくりをしました。 お手手を消毒してエプロンと三角巾を付け準備万端です。 コメ粉やモチ粉をコネコネして、色々な形を作り広場で頂きました。 とても楽しく出来ました。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
日時 | 令和2年9月17日(木) 午前10時より11時30分 |
場所 | 教育文化センター ホール・会議室1 |
イベント内容 | 今日は体操の後でお絵描きをしました。 白い画用紙にクレヨンや絵の具で綺麗に塗りました。 お名前と作品名を書いて「初めての手形」を押しました。◎ |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
日 時 | 令和2年9月8日(火) 午後1時30分~午後3時 |
場 所 | 四條畷市立教育文化センター 2階 会議室1 |
●ススキ野原の四條畷を想像しながらの四條畷の合戦、激闘の一日を振り返る 今回は、改めて、四條畷の合戦1日6時間の激闘を振り返りました。 高師直5道・15国の35,450騎に、吉野朝・宮軍10,600騎のうち、中軍を構成する楠正行軍1,000騎は、正平3年(1348)1月5日、四條畷の地で、巳の刻(午前10時)から申の刻(午後4時)までの1日の死闘を繰り広げました。 当時の状況を示す史料は残っていません。 しかし、江戸期につくられた河内名所図会や、近代の四條畷を映す市民総合センターの緞帳、写真類等の存在を確認しながら、人家がほとんどなく、飯盛山と深野池の間約2キロメートルの狭隘な地を貫く大道=東高野街道周辺を覆っていたであろうススキ野原を想像しながらの四條畷の合戦の振り返りとなりました。 楠正行の活躍が故に「四條畷神社」が創建され、神社創建を受けて、公共施設に四條畷の冠がかぶせら命名された背景のもとに、昭和7年、甲可村改め四條畷村と改名された事実を抑えながら、四條畷の合戦の主人公、楠正行が市名の生みの親となったことなど、多くのことを再確認しました。 ●特別展「しじょうなわてと楠正行」11月16~29日、ご来場お待ちしています。 四條畷市制施行50周年記念協力事業「特別展・しじょうなわてと楠正行」は、11月16日(月)から11月29日(日)までの2週間、市民総合センターで開催します。 この日、展示予定のA1パネル43枚のうち、完成した「小楠公一代記」8枚を持ち込み、会員に披露しました。 会員からは、「とても張り合わせたパネルとは思えない出来ですね。」と、及第点をもらい、ひとまず安ど。 パネルも手作り、カラープリントも張り合わせの手作り、しかし、思いだけは外注に負けない制作物と自負しています。 期間中、市内外からたくさんの方が来場されることをお待ちしています。 詳しくは、楠正行通信116号・別途チラシ等をご覧ください。 なお、この日、以前何度かオブザーバー参加された方から、某すし店に伝わる「菊水家紋と楠の文字入りの大風呂敷」2枚の寄贈を受けました。今後、展示会やシンポジウム等の「のれん」等として活用させていただきます。 ありがとうございました。 ![]() ![]() 9月例会の様子 *楠正行通信第116号 ・四條畷市制施行50周年記念協力事業特別展「しじょうなわてと楠正行」 ・期間 11/16~29 会場 四條畷市市民総合センター ・小楠公一代記・小楠公真筆集・楠正行像賛揮毫・楠公碑拓本・辞世の扉 拓本他一挙公開 ●改めて確認! 正行最期の戦い「四條畷の合戦、激闘の1日」 四條畷の合戦、正平3年1月5日、激闘の1日 第1期衝突から第5期衝突、そして正行の最期 1日、どのような経路をたどり、どこで、誰を相手にどのような戦いが繰り 広げられたか 正行隊1000騎の逆寄せ・消耗戦 高師直35450騎の中身 四條畷の合戦をしのぶことのできる資料は残っているのか この頃の四條畷の地勢・形状は (当日資料・一部抜粋)
●特別資料・西村朋子リポート 「二上山の石切場で何が作られたか ―太子町楠木石切り場跡―」 【講演】 二上山の石切場で何が作られたか―太子町楠木石切り場跡- 講師:公益財団法人大阪府文化財センター 井上智博/当日配布資料から抜粋 〇二上山周辺の石材利用の歴史 ・サヌカイト 旧石器時代から弥生時代にかけて打製石器の素材として使用された ~西日本のかなり遠くからも二上山のサヌカイトが出る。 (扇谷補注) 四條畷市からも二上山のサヌカイト製石器が出ている。 ☆讃良川川床遺跡出土サヌカイト製ナイフ形石器~2万年前の旧石器時代 長さ6センチほどのナイフ形石器 今から2万年ほど前から使用されていたと考えられている。 ☆岡山南遺跡出土サヌカイト製木葉形石槍~14000年ほど前の旧石器時代 ☆南山下遺跡出土サヌカイト製有舌尖頭器 長さ11センチ、先は鋭く両面は丁寧に加工された立派な槍先 ~旧石器から縄文時代早期のものと思われる ・凝灰岩 ・金剛砂 →奈良時代?~近現代 研磨剤として利用。川砂をふるいにかけて採取 〇楠木石切り場跡の調査結果 ・採石坑だけでなく、直下の谷も含めて調査 →石切り場の空間構造が明らかにされた ・操業時期 →大きく、 古墳時代後期~平安時代前半(6世紀~9世紀前半) 平安時代後半~鎌倉時代(12世紀後半~14世紀前半) 13世紀中ごろに、採石の中断期がある ・・・ 焼き畑?によるソバの栽培がおこなわ れた →つくられたものは 古墳時代後期~平安時代前半(6世紀~9世紀前半):組み合わせ式石棺、基壇化粧石? 平安時代後半~鎌倉時代(12世紀後半~14世紀前半):五輪塔を主体とする石塔 (扇谷補注) 寄手塚・身方塚の石材は、楠木石切り場から掘り出されたものではなさそう 寄手塚 182センチの大型石造五輪塔 → 石英閃緑岩 14世紀初めの作か 身方塚 137.3センチの石造五輪塔 → 黒雲母花崗岩 室町時代初期のものと考えられている 〇楠木石切り場と楠氏の関係 ・講師説 楠木石切り場跡の土地は、奈良大和の永福寺の所有地であり、楠氏とは直接関係ないものと思われる ・しかし、この土地が明治や大正期に、楠氏にちなんでつけられた楠木地名ではなく、古くからあった小字名によるものと思われる。 ・また、周辺も含めて、この石切り場の使用時期が楠氏の活動時期とも重なっているのは事実。 □楠木石切り場跡周辺地図(脚注は西村朋子氏) ![]() 〇コラム 西村さんの疑問:橋本正督は正行の遺児との説があるが?! 扇谷の見解~ ・藤田精一は、和泉義軍の随一者たる土丸城の橋本宮内少輔正督と記している ・小川信は、橋本正督のことを、紀伊を本拠とした和泉の土丸城に立てこもっていた南軍の将、と書いている。 ・太平記に橋本正督という人物は登場しない。 ・系図上も不祥。 以上のことから、正行の遺児ではなく、紀伊守護職の任にあった武将と考えるのが至当ではないか。 ●特別展「しじょうなわてと楠正行」 日時 11月16日(月)~29日(日) 2週間 場所 四條畷市市民総合センター1階 ロビー・コミュニティスペース、展示 ホール 内容 展示・特別展示・展示解説・正行グッズ販売 【展示予定資料一覧】 特別展・しじょうなわてと楠正行 展示資料一覧
☆特別展示 11/21 11/22 11/28 11/29 の4日間 正四位下検非違使兼河内の守楠公碑拓本掛け軸 小楠公委墓所社務所逆菊水家紋入り瓦 ☆展示解説 11/22 11/29 の2日間 展示物を展示ホールに移動 |