平成25年 | 平成26年 | 平成27年 | 平成28年 | 平成29年 | 平成30年 | 令和元年 | 令和2年 |
令和3年① | 令和3年② | 令和4年① | 令和5年① | 令和5年楠正行の会 | 令和6年 |
日時 | 平成27年12月17日(木) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 2階ホール |
対象 | 親子体操受講の皆さま |
イベント内容 | 楽しいクリスマスを前に、みんなで工作をしました。 |
上手に出来ました
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日時 | 平成27年12月15日(火曜日)午後1時30分~午後3時 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室 |
対象 | 会員 |
イベント内容 | ◆後醍醐天皇が範とした醍醐天皇、延喜の治とは 正成、正行父子に大きな影響を与えた後醍醐天皇。 では、その後醍醐天皇が範とし、目指したとされる醍醐天皇の治、延喜の治とはいったいどのような政治だったのか、勉強しようということになりました。 まず、文献探しが始まりました。 後醍醐天皇に関する文献はかなり流布していますが、醍醐天皇に関する文献はほとんど見当たりません。 そのような中、國史大辞典に載る参考文献の一つ、古代学協会編「延喜天暦時代の研究」(吉川弘文館 昭和14年刊)を入手しました。 今月の例会は、この本に載る3つの論文を読み解きながら、醍醐天皇の治=延喜の治を検証しました。 ◆醍醐・村上天皇の時代について 59代 宇多天皇 仁和3年887―寛平9年897 在位10年 承平元年没 退位後34年の生涯 寛平の治 菅原道真の登用 上皇時代を経て、法王(歴代最初の出家)に 醍醐天皇に与えた天皇の心得書「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」 60代 醍醐天皇 寛平9年897―延長8年930 没 在位33年 延喜の治 左大臣 藤原時平 右大臣 菅原道真 天皇と時平による策謀? 延喜元年901 道真、大宰府遠流 時平は、関白にはならなかったが・・・ 39歳時平、21歳皇太子、5歳皇太孫~早死に → 時平死後 道真を右大臣に復位 忠平、摂政に 930年 清涼殿に落雷の大惨事 延喜の治と云われる国家的事業とは *荘園整理令 *法令集「延喜格式」の撰進 *正史「日本三大実録」の編纂 *「古今和歌集」の編纂を紀貫之に命じる 61代 朱雀天皇 延長8年930―天慶9年946 天暦6年952 仁和寺で没 在位16年(8歳~24歳) 8歳で即位 宇多法王の影響力残る 摂政 藤原忠平(時平の弟) ~ 摂関政治の基礎を構築≒律令制の解体進む! 承平5年935 関東~平将門の乱 瀬戸~藤原澄友挙兵 ~ 承平天慶の乱 承平7年937 富士山噴火他・・・道真の祟り? 62代 村上天皇 天慶9年946―康保4年967 在位21年 天暦の治 関白 藤原忠平 天暦3年949 没 → 天皇親政 左大臣 藤原実頼 右大臣 藤原師輔(909―960)~忠平の子 →子供たちの代で摂関家嫡流になる *倹約の奨励 *歌集「後撰集」の編纂を命ず 男女19人の子 具平親王の末裔が村上源氏として、後の宮廷政治に台頭 → この一人に北畠親房がいる ◆「宇多上皇の院と国政」目崎徳衛論文より 寛平期:皇室権力の強化が図られた最後の時期 → 延喜天暦の治、聖代はその幻想に過ぎない! 律令体制=天皇の個性を抑制する官僚機構による政 → 律令体制の弛緩化に宇多上皇の強烈な宮廷主義と文化主義的意欲が加わった政=延喜天暦の政治~いわば体制の枠からはみ出させた 34年の長きにわたる宇多上皇の生活を徴視的に眺めると 藤原氏の権門化 そして 皇室における権門化の兆候 が明らかに認められる。 そして、宇多上皇の個性によって著しく促進されることに 宇多上皇の国政への関与 ①譲位より道真左遷まで ~901 頗る積極的に国政に関与した時期 道 真を筆頭に多くの腹心を置き、彼らは朝廷における上皇の代理人の役割 を演じた ②道真左遷から時平死去までの時期 ~909 宇多上皇が仁和寺に籠り、ひたすら仏道修行に専念した時期 国政への影響力はほとんど絶たれた ③時平死後より醍醐天皇崩御までの時期 忠平を媒介者として宇多上皇と朝廷の関係は至極温和であった 直接間接に上皇自身の信仰や院の経営に関係する発言はあるものの、その効力に限界があるもので、第1期の皇位継承等まで含めて国政全般を遠隔操作しようとした強大な権力とは全く異質であったといえる 典型的な院宮権門的活動(今風に言えば圧力団体的活動)に他ならなかった ④醍醐天皇崩御より宇多上皇崩御までの時期 930~931 醍醐天皇崩御後、10か月間、宇多上皇は頗る活発に国政を指揮した 1)醍醐天皇葬送に関する指示 2)斎王入京の指示 3)除目延引の報告 4)諸寺別当補任についての報告 5)府生・土者についての指示 等 ~ 上皇はしきりに消息を遣して摂政忠平に国政に関する指示を与えた そして、忠平は忠実に上皇の意を体した 結論 醍醐天皇と摂政忠平の存在にもかかわらず、これを駆使するより以上の権威として宇多上皇が存在したことが、延喜の治の実態 在位の天皇の権威を解体に導く契機としての太政天皇の存在 ~摂関政治の性格を考える際にも想起すべき事である ◆「所謂『延喜天暦聖代説』の成立」林陸朗論文より この二代の治世は、後世、称賛されるほどの顕著な政治の実は挙げていない 具体には、 ①政治の形式化 ②政令の不徹底 ③治安の紊乱(びんらん) ④民力の疲弊 ~ 律令体制の解体・国家統制力の弛緩 延喜天暦の治 = 儒教的政治思想の観念上の所産 ある時期の、ある人による 特定の視点による作為的な理想化 延喜天暦の治は、摂関政治と対立する概念ではない 延喜天暦聖代説は、学者文人の間に唱えられ始めた その文化的事績から、詩文礼楽が重んじられ、文運が興隆した世として理想化されたもの → 延喜天暦聖代説は、学者文人層の処世術・昇進術から出た観念 この事を一層展開したのが大江匡衛(おおえのまさひら) 大江は、一生、自己の栄達・江家の繁栄を切望し続け、主張し続けた 延喜天暦聖代説を表現した文人たちの申状 天禄4年973 藤原篤茂の申状 ~ 文人 従五位下 天元3年980 源順(みなもとのしたごう)の申状 ~倭名類聚抄(日本最初の辞典)の作者 一流の学者文人 従五位下 正暦4年993 大江匡衛の申状 長徳2年996 大江匡衛の申状 長徳3年997 源為憲の申状 ~ 代表的文人 源順とほぼ同様の申状 長徳3年997 大江匡衛の申状 ◆「延喜・天暦の政治」 戸田秀典論文より 5世紀ごろの天皇の統治権 ①神々に対する祭祀権 ②国・地方官に対する任命権 ③栄典の授与 ④諸氏族に対する租税の賦課権 ⑤大陸半島との外交大権 ⑥兵力を動員しうる権限 ⑦諸氏族に対する裁判権 etc 今と違う事=立法措置を欠いていて、その中間の橋渡しをする律令制度 律令制 本来、天皇が毎日、大極殿に出御し、「朝政」を本義とした しかし、「平座」(天皇が出御せず、宣揚殿で行う)が普通に 結果、代行政治が進み、天皇中心から朝臣本位に転ずる しかし、その官政すら衰えて、「外記政」が盛行する → 外記政とは、 官政の略儀で、大臣以下が外記庁において政を聴く法式 この外記政すら、平安中期に、等閑 具体には ①構成員の遅参、欠席が多い ②公卿等の無届欠勤 ③大切な行事の遅延 等 → 延喜天暦の治は、文運の隆盛と朝儀の振作にほかならず、 本来の政治は弛廃! ~ 摂関政治の側から言えば、この間 藤氏の野望は消滅したのではなく、一層強力な後期摂関政治を準備していた時期と見ることができる 次回は1月19日、現地学習を行います。 行先は、河内長野市の摩尼院と金剛寺です。 摩尼院は、金剛寺の塔頭の一つで、南北朝時代、賀名生の地から移られた後、村上天皇が6年間、仮の宮を置かれたところです。 金剛寺は、南北朝の争乱期、後村上天皇が食堂を正殿とされた一方、北朝の光源・光明・崇高の三上皇も御座所とされたため、南北両朝が同座することとなったところです。 この2寺には、今も、楠家ゆかりの品が多く残ります。 楠正行通信20号はコチラよりご覧いただけます。(PDF) |
日時 | 平成27年12月4日(金) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 2階ホール |
対象 | 市民 |
イベント内容 | 教文で少し早めのクリスマス会を開きました。 ツリーへの飾り付けや、人形劇の上演、サンタさんからのプレゼントなど、大変楽しい催しとなりました。 |
お名前呼びますョ はぁーい!
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楽しい人形劇
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教文の Big クリスマスツリー
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日時 | 平成27年11月19日(木) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 芝生広場 |
対象 | 市民 |
イベント内容 | 教文の大きな窯で石焼き芋をつくりました。 お芋を洗ってアルミホィールに包んで名前を書きました。 さあ、おいしく出来ました。 |
熱いから気をつけてね
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名前を書きました
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焼けたかな?
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日時 | 平成27年11月17日(火曜日)午後1時30分~午後3時 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室 |
対象 | 会員 |
イベント内容 | ◆頼山陽、「日本外史」で足利氏をこき下ろし 10月例会では、正行と足利尊氏の関わりについて勉強しました。 江戸期のベストセラーといわれる頼山陽の「日本外史」。 鎌倉時代から江戸期に至る武士の歴史を、頼山陽の目線、即ち徹底した「名分論」で一刀両断のもとに切り刻んだ表現で書かれています。そこには、足利氏は源氏よりもタチが悪いし、罪が重い、と書いています。 建武の中興を横取りした足利尊氏に正義はない、と断罪しています。 正行はこの尊氏と全面対峙し、正成の遺訓に忠実に生きようとしたもので、正行の悲哀、無念を改めて感じます。 ◆「墓」と「塚」の違い 宝筐院に並び立つ正行の首塚と義詮の墓。 塚と墓はどう違うのか。全員に宿題となっていましたが、数人から報告があり、「塚」は目印で土を盛ったところ、「墓」は遺体や遺骨を葬ってあるところ、どちらかといえば、塚が広義の解釈、墓は狭義の解釈となるのではないか、ということになりました。 國史大辞典によると、「首塚」は、「戦死者の首や処刑者の首などを埋めた塚」とありました。 宝筐院に並び立つ二人の墓も、「墓」と「塚」の区別が残されていることに、いまさらながらに正行の置かれた立場を感じさせられます。並び立ってはいても、扱いは、まったく違うのです。 ◆今月のテーマは、「楠正行と細川顕氏」です。 細川顕氏は、正平2年9月、藤井寺の戦いにおいて、また同年11月、住吉天王寺の戦いにおいて、正行に敗れ、河内・和泉の守護を罷免されます。しかし、義に生きた正行は四條畷に散りますが、家名のために生きた顕氏は、その後足利直義に依ったり、足利尊氏に依ったりと処世術を使いながら、正平7年4月、男山に入った後村上帝攻めでは幕府軍の総大将となって陥れています。忠孝、そして己が信じる義を貫き、23歳の若さで命を絶った正行。一方、その正行に2度も大敗しながら、生きながらえ、逆に家名を挙げる功名も成し遂げた細川顕氏。そして、その末裔は肥後の国熊本藩主として江戸期は外様雄藩として明治維新に至り、平成の世には内閣総理大臣を輩出した細川家です。改めて、楠一族が歴史に果たした役割、刹那に生きた様を思わざるを得ません。 資料 「細川氏」はコチラ。(PDF) 正平2年9月、藤井寺の戦いにおいて、また同年11月、住吉天王寺の戦いにおいて、正行に敗れ、河内・和泉の守護を罷免されます。しかし、義に生きた正行は四條畷に散りますが、家名のために生きた顕氏は、その後足利直義に依ったり、足利尊氏に依ったりと処世術を使いながら、正平7年4月、男山に入った後村上帝攻めでは幕府軍の総大将となって陥れています。忠孝、そして己が信じる義を貫き、23歳の若さで命を絶った正行。一方、その正行に2度も大敗しながら、生きながらえ、逆に家名を挙げる功名も成し遂げた細川顕氏。そして、その末裔は肥後の国熊本藩主として江戸期は外様雄藩として明治維新に至り、平成の世には内閣総理大臣を輩出した細川家です。改めて、楠一族が歴史に果たした役割、刹那に生きた様を思わざるを得ません。 ◆朱舜水先生終焉の地(朱舜水記念碑)訪問報告 会員の国府さんご夫妻が東京に行かれた折、東京大学農学部構内にある朱舜水先生終焉の地を訪れてこられました。 朱舜水は、水戸家、江戸中屋敷で17年余りを過ごしました。江戸中屋敷は現在の東京大学農学部構内の南東側にあったとされています。また、すぐ近くには加賀・前田藩の江戸屋敷もあったようで、朱舜水を中心に水戸藩・加賀藩の儒臣者らが行き交いした光景が浮かんできます。 ↓「朱舜水先生終焉の地」碑の脇に立つ現地説明版(国府撮影) ◆飯盛山山頂に立つ小楠公像 会員の安井さんから「飯盛山山頂に立つ小楠公像と黒岩淡哉」の資料を提供いただきました。 資料によると大要以下の通りです。 昭和10年1935楠正行(小楠公)の銅像建立の機運高まり、小楠公会が設立されます。 建立の経費は、北河内郡内の小学校児童約2万人による「1日1銭献金」や北河内郡以外の小学校や中学校の児童・生徒、教員、府民有志ら延べ22万人から総額1万5962円22銭が寄せられます。 黒岩淡哉に製作が依頼され、銅像の原型が完成したのは、昭和12年1937の2月でした。銅像は、正行が四條畷の戦いへの出陣に際し、吉野山如意輪寺の板戸に辞世の句を認め、その筆跡を見つめる姿を写したもので、高さ1丈2尺(一説には1丈3尺とも:約3m60cm~4m)、総重量約600貫(約2250kg)です。 正行像は、2台の牛車を使い、毎日30人余りの作業員と郡内の各小学校の児童50人ずつが作業に従事し、ウインチでジリジリと少しずつ引き上げました。 礎石の下には日蓮宗楠公庵尼僧(伊藤妙信尼)の法華経の写経(八万余文字)の一部が納入され、昭和12年9月23日、除幕式が行われました。 しかし、戦争が激化する中、昭和18年1943に台座を残して銅像は回収されます。 現在立っている銅像は、昭和47年1972に再建されたものです。 なお、昭和58年1983にはJR四条畷駅にも小楠公像が寄贈されました。また、昭和42年1967には、小楠公像のミニチュア像が四條畷高校同窓会に寄贈されています。 ↓第12回例会風景 次回は、12月15日。「醍醐天皇と村上天皇」について学ぶ予定です。 楠正行通信19号はコチラよりご覧いただけます。(PDF) |
日時 | 平成27年11月10日(火) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 2階ホール |
イベント内容 | 平成27年11月から平成28年3月まで、毎月1回(第2火曜日)開講。 今回は、その第1回目の講座を開講しました。。 詳しい内容は、画面左の 市民教養大学「楠正行研究」ロゴをクリック! |
36名の受講者が出席
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講師の扇谷氏
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日時 | 平成27年10月15日(木) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 芝生広場 |
対象 | 市民 |
イベント内容 | 教文の裏庭に薩摩芋の苗を植えたのは5月でした。みんなでお水を与え、大きくなるよう育てました。さあ、いよいよ収穫です。 |
芋掘りの様子
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たくさん出てきました。
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じょうずに掘れました。
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日時 | 平成27年10月13日(火曜日)午後1時30分~午後3時 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室 |
対象 | 会員 |
イベント内容 | ◆9月20日、サークル展に出展(反省) 今月の例会は、9月に出展した教育文化センターサークル展の反省から始まりました。 会場には、「楠正行の会」と大書きしたパネルに、過去に発行した「楠正行通信」、「楠木正成賛文」(朱舜水作・嗚呼忠臣楠子之墓碑陰の拓本コピー)、「楠正行賛文」(舜水先生文集・水戸本コピー)、「四條畷の合戦の経過と想定図」「例会風景」「現地学習の様子」等を掲示しました。 30名近くの入場者があり、関心を寄せる市民も多くあり、正行通信を配布し、参加を呼びかけました。 反省では、畳の間(和室)よりも廊下等(土足のまま)の方が見てもらいやすいのではないか、などの意見が出ました。 会場の展示の様子は、次の写真の通りです。 ◆人物研究は足利尊氏 夢窓疎石の尊氏論を議論しました。 夢窓疎石は、足利尊氏の三徳と称して、①畏怖の心がない、②慈悲深く多くの敵を許した、③心が広く物惜しみしない、と評しています。 このことは、裏返せば、足利尊氏は決断力が乏しく、気が弱くて甘い人、分かりにくい行動が多い、野放図で締まりがなく、包容力のある性格、とでもいえるのでしょうか。 しかし、建武の新政を横取りしたのが足利尊氏であり、尊氏は生涯にわたって後醍醐帝を代表する建武の新政の立役者に引け目を感じていたのではないでしょうか。 足利尊氏は、1336年8月17日、幕府樹立後すぐに、自分の後生と弟直義の果報を願って、願文を清水寺に収めています。此の辺の行動にも、分かりにくい一面をのぞかせています。 ◆11月10日開講の「市民教養大学」の案内 今回の講座は、江戸期、太平記読みや各藩の儒臣らのネットワークを通じて正成が再評価された歴史的背景を検証し、明治維新の導火線・起爆剤となった流れを明らかにします。 今まで、楠木正成、正行に焦点を当て、南北朝時代から明治維新につながる歴史を検証する、ということは行われていなかったのではないでしょうか。 今回の講座の視点そのものが大変新鮮味のある内容となります。 加賀 藩主前田綱紀が楠公父子訣別図を描かせた背景、更には水戸藩主徳川光圀が嗚呼忠臣楠子之墓を建立した背景を探り、正成、正行の果たした役割を分析します。 乞う、ご期待! ◆例会開催日を11月から第3火曜日に変更します 11月から、例会の開催曜日を第2火曜日から第3火曜日に変更します。 また、年に2回程度の現地学習を行うことを決め、当面、1月に実施することとなりました。 候補地は、河内長野金剛寺と摩尼院です。 ↓10月例会風景 楠正行通信18号はコチラよりご覧いただけます。(PDF) |
日時 | 平成27年10月4日(日) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 芝生広場 |
対象 | 市民 |
イベント内容 | スポーツの秋。秋晴れの中、芝生広場でスナッグゴルフを楽しみました。 |
さぁアドレス中です
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狙いを定めて~
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用具紹介
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日時 | 平成27年9月20日(日曜日) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 全館 |
対象 | 市民 |
イベント内容 | 教育文化センターで活動されているサークルが、作品展示・舞台発表に分かれ、日頃の成果を発表しました。 |
コーラスサークルの発表
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木彫りサークルの展示
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水墨画サークルの展示
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絹布絵の展示
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はじめてのお絵かき
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天の川にて
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日時 | 平成27年9月19日(土曜日) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 芝生ひろば |
対象 | 市民 |
イベント内容 | 教文の芝生ひろばで、楽しい運動会を開催しました。 かけっこや、玉入れ、障害物競走など、たのしい1日でした。 |
楽しい運動会
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じょうずに渡れました。
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日時 | 平成27年9月8日(火曜日)午後1時30分~午後3時 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室 |
対象 | 会員 |
イベント内容 | ◆代表、四條畷市詩吟連盟主催吟詠大会に出席、講演 9月例会では、8月30日の四條畷市詩吟連盟主催第53回吟詠大会に招待を受け、講演を行った扇谷から、詩吟の世界でも小楠公を含む楠関係の吟詩が多くあることなどを紹介しました。そのうち、4題について楠正行通信17号に掲載しました。 今月取り上げたテーマの「楠正行と黙庵禅師」については、残っている史料が少ない中で、黙庵禅師が京都嵯峨野の宝筐院と東大阪、河内往生院の2か所の正行墓に関わっていることについて検討しました。 残っている伝承によると、黙庵禅師は、正行から後事を託されていたとして、宝筐院には正行の首級を、また往生院には正行の遺骸(胴)をそれぞれ葬ったとされています。 後醍醐天皇そして足利尊氏とも深い関係にあった夢窓礎石の高弟であった黙庵禅師と観心寺の龍覚坊を通して交誼をもったと思われる正行は、黙庵禅師を通じて、京の足利方とのパイプを築いたものと思われます。 ◆教育文化センター合同サークル展に出展 9月20日に開催される同展に四條畷楠正行の会も出展いたします。 主な展示内容は、楠正行通信(第1号~第17号)、朱舜水作楠正成賛文(湊川神社墓陰拓本のコピー)、朱舜水作楠正行賛文(今年3月に発見・原典コピー)、四條畷の合戦~激闘の6時間、四條畷の合戦想定図、現地学習風景等の予定です。 ◆例会開催日を11月から第3火曜日に変更します 10月例会は、13日(第2火曜日)、午後1時30分より、「楠正行と足利尊氏」について勉強します。 楠正行通信17号はコチラよりご覧いただけます。(PDF) |
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日時 | 平成27年8月29日 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター |
対象 | 市民 |
イベント内容 | 大学生25名が指導者になり、手遊び・サーキット遊び・ボーリング遊び・水遊び・英語遊び・紙芝居など楽しく遊びました。 |
スプリンクラーとプール遊び
楽しくサーキット遊び
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日時 | 平成27年8月26日 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター |
対象 | 市民 |
イベント内容 | 教育文化センターの芝生広場で花火大会を行いました。 噴き出し花火を中心に仕掛け花火、おもしろ花火、打ち上げ花火と楽しいひと時でした。 |
盛り上がりました。
仕掛け花火は、ナイアガラの滝。
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日時 | 平成27年8月 例会はお休み |
場所 | |
対象 | |
イベント内容 |
8月の例会はお休みにしました。 7月の例会では、朱舜水が正行像賛を残した背景を確認しました。今月、例会は開いていませんが、扇谷が「楠正行像賛の成立の過程と歴史的背景」をまとめましたので、そのことを踏まえて楠正行通信16号を発行しました。 九州、柳川の儒学者・安東省菴が誰よりも先に正成を評価したこと、そして、水戸藩徳川光圀、加賀藩前田綱紀と朱舜水、安東省菴、貝原益軒、木下順庵等を結ぶネットワークによって、南朝正統を明確にするとともに、朱舜水が楠公父子賛文を残した経過が見て取れます。 「楠正行楠正成・正行像賛の成立の過程と歴史的背景」(PDF) 「楠正行通信16号」はコチラ(PDF) |
日時 | 平成27年8月7日 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 2階ホール |
対象 | 市民 |
イベント内容 | 木製の小物入れに筆や綿棒、爪楊枝などを使い、ドライヤーで乾かせながら、順番 に着色していきました。 |
上手に制作中
きれいに出来上がりました。
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日時 | 平成27年7月30日 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター |
対象 | 親子体操参加者 |
イベント内容 | 暑い時期に水遊びをしました。 青い芝生も喜んでいる様子です。 |
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日時 | 平成27年6月3日 ~ 平成27年7月22日 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 2階ホール |
対象 | 16歳以上の市民 |
イベント内容 | エアロコリオとコアトレーニング(体幹)、ストレッチを組み合わせたフィットネスです。 6月3日~7月22日、計8回開催いたしました。 |
日頃のストレスを発散し、
気分もリフレッシュ! |
日時 | 平成27年7月17日(金曜日)午後4時~午後8時 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 全館 |
対象 | 市民 |
イベント内容 | ダンス発表チーム、ROV・チームS・チームK・TWINK・JJKIDS・サグラブ・PEPINE・Macuryなど多数出演しカッコいいダンスを披露しました。模擬店に於いては、似顔絵、クジ引き、ネイルアート、段ボール迷路など楽しい集いとなりました。 |
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日時 | 平成27年7月14日(火曜日)午後1時30分~午後3時 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室 |
対象 | 会員 |
イベント内容 |
四條畷楠正行の会 第9回例会 「朱舜水正行像賛を原典に繙く」 今月は、会場を1階から2階のホールに移して開きました。広々とした会場で、開放的な気分で始まりました。そして、今回新たな会員が加わりました。欠席者もありますが、会員が一人二人と増えていることはうれしい限りです。 先月例会のおさらいは、現地学習で訪れた湊川神社に残る墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」裏面の朱舜水作正成公賛文や、太平記に残る正成、正行の件等について再確認しました。正行通信第14号、第15号に掲載しています。 そして、産経新聞社が平成13年に発刊した「親と子の日本史」は、歴史上有名な親と子が織りなす日本史をまとめたものですが、その最初に「楠木正成と正行」が取り上げられていることを紹介しました。改めて、正成と正行は日本を代表する親子であることを再認識しました。因みに、2番目以降は、「和泉式部と小式部」「親鸞と善鸞」「伊達政宗と秀宗」「藤原為時と紫式部」「観阿弥と世阿弥」…と続いています。 また、昨年度から副読本として四條畷市内の小学生(3年生全員)に配布された「わたしたちの四條畷」の歴史編に、「楠正行と四條畷の合戦」が掲載されていることも紹介しました。 現在、小学校の教科書には正行は載っていませんが、これで、四條畷の子ども達も、全員が楠正行の事を知るようになるでしょう。まず、子ども達に教えなければ、何も伝わりません。一歩前進です。 朱舜水作「楠正行像賛」の発信を申し合わせ 本日の例会ですが、「朱舜水作、楠正行像賛を原典に繙く」と題し、「稲葉君山編 朱舜水全集」(稲葉本)、「安東省菴 三忠傳」、「徳川光圀輯 舜水先生文集」(水戸本)の3つの原典の比較・検証作業をしました。 そして、朱舜水が正行像賛を残した背景として、加賀藩主の前田綱紀公が狩野探幽に楠公父子訣別図を書かせるに当たり、その賛文を朱舜水に依頼したことがきっかけで、明から来た朱舜水が安東省菴に楠公の伝を書かせ、それを百読し、自身が楠公父子にほれ込み、正成像賛三首、正行像賛一首を作ったこと、を確認。そのうちの一首が楠公父子訣別図に賛文として載せられ、その賛文を、徳川光圀公が湊川に建立した「嗚呼忠臣楠子之墓」墓碑の裏面に刻んだことで、広く後世に伝わったことを、合わせて確認しました。 四條畷楠正行の会としては、朱舜水が、世に広く知られる楠正成像賛以外に、正行像賛を残していたことを踏まえ、この正行像賛を広く世に伝えることを申し合わせました。そして合わせて、3つの原典の内、正徳5年(1715)、京兆書舗柳枝軒刊「舜水先生文集」徳川光圀輯、いわゆる水戸本に掲載された楠木正行像賛の148文字からなる文章を、市内外に向けて発信することを確認しました。 9月の教文センターサークル展に出展決定! その第一弾として、9月20日に開催される「教育文化センター・サークル展」に、展示コーナーを出展することとし、楠正行像賛も展示予定です。 このホームページをご覧の方も、ぜひ、9月20日(日)に四條畷市立教育文化センターで開催される同展にお越しください。私たちの会の活動の紹介、そして湊川神社「嗚呼忠臣楠子之墓」裏面の楠正成像賛の拓本(コピー)と楠正行像賛の水戸本(コピー)を展示予定です。 「楠正行像賛の原典(コピー)」 楠正行通信14号、15号はコチラ |
2階のホールで開いた例会の様子
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日時 | 平成27年6月25日 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター ホール |
対象 | 市民 |
イベント内容 | 教文体操の後、七夕にちなんだ作品を作りました。 教文のホールに展示しています。 ご家庭でも楽しんで下さい。 |
笹飾りを作りました
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願い事を書きました
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上手にできました○
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天の川にて
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日時 | 平成27年6月9日(火曜日) |
場所 | 湊川神社現地学習(神戸市中央区多門通り3-1-1) |
対象 | 会員 |
イベント内容 |
今月は、会発足後、初めての現地学習を行いました。訪れる場所は、楠木正成を祀る湊川神社です。 会員11名は、JR四条畷駅に集合の上、四条畷駅始発の各駅停車で神戸市駅に向かい、車中はさながら遠足気分で話に花が咲きました。 湊川神社につきますと、宝物殿主任専門員・学芸員の岡村光浩権禰宜が出迎えてくださり、正式参拝をさせていただきました。 現在の社殿は、戦災により焼失したものを、昭和27年に復興された権現造に似た新しい神社建築様式(鉄筋コンクリート造り)で建てられたもので、拝殿には全国の著明画家により奉納された花鳥風月の天上絵が描かれています。 正式参拝は、修祓の儀を受けた後、宮司が祝詞を奏上され、巫女による神楽の舞の奉納に続いて、玉串拝礼、そして最後は直会と、緊張感漂う厳かな雰囲気の中で執り行われました。 正式参拝後、岡村権禰宜の案内で宝物殿に入りました。 最初に、ジオラマで見る「大楠公御一代記」の説明を受け、その後、昭和10年、大楠公600年祭にあたって奉納された横山大観の力作「大楠公像」や大楠公真筆で楷書で書かれた「法華経奥書」(重要文化財)、更には大楠公着用と伝わる「段威腹巻」(重要文化財)等、数々の宝物を見学させていただきました。 続いて、大楠公御墓所(国指定文化財史蹟)にご案内いただきました。 この碑石は、元禄5年(1692)、徳川光圀が建立したもので、表面には徳川光圀による「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字が描かれ、裏面には、明の遺臣朱舜水による楠木正成像賛文が岡村元春の書によって刻まれています。 この墓碑は三層からなり、上段の黒っぽい石は和泉石(大阪)、中段の白い石は白川石(京都)、下段の黄色っぽい石は御影石(神戸)と、楠木正成の送った一生(河内に生まれ、建武の新政で京に上り、最後、湊川・神戸に散った)を表したものではないか、との岡村権禰宜の説明に一同感心しきりでした。 また、上段の碑石の下にある中段の石は、亀に似た贔屓(ひいき)の姿を型どったもので、この贔屓と云う動物は、重たいものを持つのが好きな動物といわれており、上段の碑石を未来永劫ずーっと支え続けてほしいとの願いを込めたものではないか、とのお話でした。 徳川光圀が建立された楠木正成の墓碑にこれだけの思いが込められていることを知り、楠親子の生きざまに学び、後世に引き継ごうとの強い思いを感じました。 その後、社務所の一室をお借りして昼食を取らせていただき、例会も開催させていただきました。 そして、最後に、楠木正成戦没の地「殉節地」(国指定文化財史蹟)を訪れました。 境内西北隅に位置する殉節の地は、うっそうとした木々に囲まれていました。昔、地域の人が「松」と「梅」の木を植えたとのことですが、室町幕府に気遣って「埋める」を「梅」にかけたのではないか、とのお話に、また一同感心しました。 そして、この殉節の地の前には多くの燈籠等が奉納されていますが、そこには伊藤博文や佐賀藩の江藤新平、大隈重信などの名前がありました。明治維新の関係者がこぞってこの地に思いをもっていたことが分かりました。 湊川神社では、岡村権禰宜をはじめ、多くの方に歓待を受け、成果の多い現地学習となりました。ありがとうございました。 次回例会は、朱舜水が残した楠正行像賛を、稲葉本・三忠傳・水戸本の原典で確認します。 楠正行通信12号、13号はコチラ 6月例会 湊川神社現地学習の様子 ↓湊川神社表神門 ↓正式参拝のため拝殿に向かう ↓楠木正成公御墓所「嗚呼忠臣楠子之墓」 ↓楠木正成公御墓所の前で岡村権禰宜の説明を受ける ↓社務所一室での例会風景 ↓湊川神社社殿前で記念撮影 ↓楠木正成公殉節地で岡村権禰宜の説明を聞く |
日時 | 平成27年5月14日 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター |
対象 | 市民 |
イベント内容 | 教文の裏庭に畝をつくり、なると金時の苗を植えました。 みんなでお水をあげて、大切に育てましょう。 秋には芋掘りをします。 |
さつま芋植え付けの様子
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秋の芋掘りが楽しみです
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日時 | 平成27年5月13日(水曜日) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室 |
対象 | 会員 |
イベント内容 |
先月例会のおさらいは、「楠親子に脈々と息づく武士道の精神と究極としての散り際の潔さ」(扇谷作成資料)、「正成、正行に四恩の教えを説いた瀧覚坊」そして「朱舜水が残した148文字からなる正行像賛」の発見です。これらについては、楠正行通信9号、10号、11号に掲載しました。
そして、今月のテーマ「朱舜水正行像賛を読み解く」で、稲葉君山編「朱舜水全集」及び安東省菴「三忠傳」をもとに、朱舜水が残した楠正行の賛文の略解を試みました。 第6回例会で既報の通り、賛文の略解については、元茨城県立歴史館主席研究員の木下英明氏にご指導・ご助言をいただいた「釈文」及び「注記」をベースに、文章化を試みました。 また、正徳5年(1715)に出された徳川光圀輯・徳川綱條校「舜水先生文集」(いわゆる水戸本)に掲載されている正行像賛についても、四條畷市立図書館の協力を得て関西大学総合図書館で閲覧がかない、原典を確認・複写しました。同書は、貞享年間(1684~1688)に京都で開業した柳枝軒(出版社)から出版された和装本で、厳重に管理されているものの、相当の虫食い状態でした。 朱舜水が残した148文字からなる楠正行賛文の略解は難解を極めましたが、何とか文章にすることができ、会員一同、感激の例会となりました。 四條畷楠正行の会では、極めて残された史料の少ない楠正行ですが、この朱舜水の残した正行賛文のさらなる研究と、市内外に向けた情報発信を申し合わせました。 次回、6月9日(火)は、現地学習(湊川神社)を予定していますので、7月の例会で、これら「舜水先生文集」(1715年、水戸本)、「朱舜水全集」(1912年、稲葉本)、「三忠傳」(1684年、影印本)の比較・検証をする予定です。 楠正行通信9号、10号、11号はコチラ |
5月例会の様子
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会員の皆様で様々な意見交換をしました
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日時 | 平成27年5月7日(木) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 2階ホール |
対象 | 幼児と保護者 |
イベント内容 | 子ども読書週間に因み、大型絵本の読み聞かせ・エプロンシアター・リズム体操・体育あそびを行いました。 |
大型絵本の読み聞かせ
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エプロンから何が出るかな~
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日時 | 平成27年4月22日(水) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 2階ホール |
対象 | 幼児と保護者 |
イベント内容 | 子ども読書週間に因み、絵本の読み聞かせ・エプロンシアター・紙芝居・オカリナの演奏・おもちゃ遊びを行いました。 |
紙芝居
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手作りおもちゃは楽しいな
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日時 | 平成27年4月14日(火曜日) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室 |
対象 | 会員 |
イベント内容 | 今月も、新たな会員(女性一人)が加わりました。 先月のおさらいですが、湊川神社から送っていただきました「大楠公御碑銘賛」(銘 徳川光圀・賛 朱舜水)の拓本を掲示し、朱舜水の大楠公賛文に触れました。そして、徳川光圀によって採択された狩野探幽作「櫻井駅訣別図」の写し(「朱舜水全集」掲載)でもその賛文を再確認しました。 「今月のテーマは「滝覚坊と楠正行」でしたが、朱舜水全集(稲葉君山編・東京文會堂)に楠木正成公の賛文3首と、楠正行公賛文1首のあることが分かり、急きょ、テーマを「朱舜水賛文との出会い」に代え、その読み方等を学びました。 湊川神社の「嗚呼忠臣楠氏の墓」裏面に刻まれる朱舜水作の正成公賛文はあまりにも有名ですが、朱舜水がこの賛文を書くのに23年もの月日を費やしたことや、狩野探幽の櫻井訣別図に載せる賛文が故に、正成公のみならず正行公の賛文も残されていたことを知り、一同感激の例会となりました。 朱舜水全集稲葉本に載る楠正行像賛は、148文字からなる短文ですが、楠正行に関わる史料が大変少ない中で、貴重な一文との出会いに、この日の例会は大変盛り上がりました。扇谷転載(一部現代文字)文は以下の通りです。 なお、この日会員の真木さんが「非理法権天」書を持参してくださいました。以下に紹介します。 次回、5月12日(火)は、この楠正行像賛の略解に取り組む予定です。楠正行通信7号、8号はコチラ |
●朱舜水全集・稲葉君山編(扇谷転載文・一部現代文字使用) |
●「非理法権天」書 真木修(四條畷楠正行の会会員) |
日時 | 平成27年3月12日(木曜日) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 2階ホール |
対象 | 市民 |
イベント内容 | 子どもと一緒に生の楽器の音色を楽しむコンサートを開催しました。 お馴染みの楽曲をライブで見た子ども達はノリノリでした。 |
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日時 | 平成27年3月10日(火曜日) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室 |
対象 | 会員 |
イベント内容 | この日の例会は、新たな会員3名、そして傍聴1名、合わせて4名の女性が加わり、会議室が手狭になり嬉しい悲鳴の中、始まりました。 前回のおさらいとして、楠正行に関わる歌として残る「四條畷」と「青葉茂れる桜井の」の2曲を、全員で合唱しました。2曲とも、真木さんの歌に合わせて3番まで唱和しました。「四條畷」は、四條畷の合戦を、また「青葉茂れる桜井の」は、桜井の決別から湊川の戦までを歌ったものですが、この2曲は、義に生きた正成、正行のあまりにも真っすぐな生き様、悲壮感を漂わせています。 護良親王は、正行と同時期に歴史の表舞台に登場しませんが、後醍醐天皇の建武の政務を実現させた立役者が、護良親王と楠木正成ではなかったかと思われます。その意味で、正行は父、正成を通して護良親王の影響を大きく受けたものと思われます。 奈良県五條市に大塔町という地名があります。護良親王を助けた史実を郷土の誉れとするこの地は、明治22年、村名を大塔村とするのですが、「だいとうむら」では恐れ多いと、読みを「おおとうむら」にしたと伝わっているそうです。(五條市ホームページより) 次回、4月14日(火)は、龍覚坊と楠正行の関わりについて意見交換します。 楠正行通信6号はコチラよりご覧いただけます。 |
日時 | 平成27年2月10日(火曜日) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室 |
対象 | 会員 |
イベント内容 | 前回のおさらいとして、「正行の生きざまに影響を与えた北畠親房の神皇正統記、結城親朝宛書簡に見る武家観・家門意識」と「関城書を貫く北畠親房の熱烈な心情」を横井金男著・北畠親房文書輯考で、再確認しました。この二つは、楠正行通信第4号と第5号に掲載しています。 正行に影響を与えた人物の一人に四条隆資がいます。しかし、彼に関する史実や史料はほとんど残っていません。 新葉和歌集に残る彼の三首、そして、官位に見る公家と武士の身分差、更にその武士にも歴然たる官位格差のあることを学びました。 四條畷の合戦後、四条隆資は権中納言から権大納言に、そして息子の、四条隆俊は、従三位から正三位に昇格しました。討死した正行、片や早期戦線離脱にもかかわらず昇格した公家。従五位下の正行から見れば、正二位権中納言の四条隆資は雲の上の人だったのでしょう。 正成は従五位上・贈正一位、正行は従五位下・贈従二位。しかし、正儀は従四位下まで上がりますが、明治政府からの贈位はありませんでした。 一方、南北朝を比較すると、南朝方、正成・新田義貞に贈正一位、名和長年に贈従一位が送られていますが、北朝の尊氏・義詮は贈従一位、直義は贈従二位となっています。南北朝以降、上り詰めたのは秀忠・秀吉の従一位、ともに贈正一位が贈られています。 また、この日、会員の石崎さんから、詩吟『赤坂のはらから』(楠公父子物語)のDVDが全員に、同じく山﨑さんから「四條畷」(大和田建樹)と「青葉茂れる桜井の」「楠公の歌」(いずれも落合直文)3曲の歌詞カードが提供されました。 次回、3月10日(火)は、護良親王と楠正行の関わりについて意見交換します。楠正行通信4号・5号はコチラよりご覧いただけます。 |
日時 | 平成27年1月25日(日曜日) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 2階ホール |
対象 | 市民 |
イベント内容 | 教文恒例の新春ミニ・コンサートを開催しました。 女性四重唱、男声二重唱、フルート演奏などで大変盛り上がりました。 |
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日時 | 平成26年12月4日 ~ 平成27年1月29日 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 2階ホール |
対象 | おおむね2歳~4歳児と保護者 |
イベント内容 | お母さんと一緒に楽しく運動あそびをしました。 音楽に合わせて、跳んだり跳ねたり、楽しい運動です。 マット運動・トランポリンなどもしました。 |
上手にトランポリンできたかな?
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おおきなバルーンの上で子どもたちは
跳んだり、跳ねたり。 |
日時 | 平成26年12月3日 ~ 平成27年1月28日 |
場所 | 四條畷市立教育文化センター 2階ホール |
対象 | 16歳以上の市民 |
イベント内容 | エアロコリオとコアトレーニング(体幹)、ストレッチを組み合わせたフィットネスです。 良い汗をかいて、健康で若々しい体を保ちましょう。 |
日頃のストレスを発散し、
気分もリフレッシュ! |
日時 | 平成27年1月13日(火曜日) |
場所 | 四條畷市立教育文化センター1階 第2会議室 |
対象 | 会員 |
イベント内容 | 四條畷楠正行の会 第3回例会 「北畠親房と楠正行」 会員全員の新年の抱負に続いて、第2回例会のおさらいとして、吉野朝そして正行の悲哀を「新葉和歌集の序」「如意輪寺に残る楠左衛門尉髻塚碑文」に再確認しました。この二つは、楠正行通信第3号に掲載しています。 北畠親房は、後醍醐帝に仕えた後、世良親王の死去に伴い出家し、陸奥に入り東国経営を目指しますが、失敗し、興国4年吉野に戻ります。そして、正行との確執が始まり、結果として、正行を四條畷の戦い、死地に追いやることになります。 正行の生きざまに影響を与えた人物の筆頭格ともいえるのが北畠親房ではないでしょうか。 例会では、北畠親房という人物について、結城親朝にあてた70通もの書簡から彼の武家観を繙き、又彼が記した「神皇正統記」はいったい誰に向けて書かれたものであったのかに焦点を絞り、北畠親房の家門意識を探り、楠正行との関係を分析しました。北畠親房は、神皇正統記の中で、「トイウモノ」を書き分け、序列を明確にしています。公家は「ト云人」、望ましい武士は「ト云者」、好ましからざる武士は「ト云物」と。正行の悲哀がここにも垣間見ることができます。 次回、2月10日(火)は、四条隆資と楠正行の関わりについて意見交換します。楠正行通信はコチラ |
出典 日本の名著9 慈円・北畠親房より
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出典 日本の名著9 慈円・北畠親房より
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