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第3回バスツアー
 「賀名生旧皇居、賀名生の里歴史民俗資料館、北畠親房の墓、
 隅田城跡

花山院脱出後、後醍醐帝が実質南朝をスタートさせた賀名生堀家住宅
父、正成も正行も、なぜ、戦いの前に隅田を攻めたのか?


日時 平成27年 6月 25日(木曜日)
行先 賀名生旧皇居、賀名生の里歴史民俗資料館・北畠親房墓(以上、五条市)、
隅田城址・隅田八幡神社(以上、橋本市)


◆車中での講話
 
賀名生旧皇居
 
奈良県下有数の梅林として知られる賀名生梅林は、南朝の悲しい史話を帯びて、雅やかな梅の花の色合いが、堀家住宅=賀名生旧皇居のほとりを流れる丹生川の支流に恰も南朝のロマンを映しているようです
 
足利尊氏に追われた後醍醐帝は、1336年、京を脱出し吉野に皇居を写す途中、賀名生の堀家に滞在し、その後、賀名生の地は南朝のゆかり深い地となります。
 維新黎明の露と消えた天誅組は、19歳の若き公家中山忠光を総帥に義軍を起こし、五条代官所に攻め込みますが、京都で公武合体派によって政変が起こされ、天誅組義挙のきっかけとなった天皇の大和行幸も中止が決まり、天誅組は反乱軍と化し、幕府軍に追われる運命をたどりました。
 堀家住宅の冠木門にかかる扁額「賀名生皇居跡」は、天誅組の総裁の一人、吉村虎太郎の筆によるものです。(本物は「賀名生の里歴史民俗資料館」に展示)
 
後醍醐帝の花山院救出作戦
 花山院を脱出し、吉野に入った後醍醐帝の先導を勤めたのは楠正行で、そのことは太平記に登場します。
 そして、昭和
138月に発行された嬉野米一郎の「楠正行公忠勤記 前篇」の一節に、「楠正行公、後醍醐帝の救出作戦の件」があります。
 
車中では、このくだりを扇谷が解説しました。
 正行は、後醍醐帝の勤番を勤める越智伊賀の守に、「帝の傍にあって、今まさに英雄といえる存在でありながら、尊氏に膝を屈し、正道に背く尊氏を支えていることは理解に苦しむ。尊氏とたもとを分かち、帝を護り、吉野に行幸していただけると信じる。帝の吉野行幸が成功すれば、あなたは建国の祖、中興の祖と讃えられる偉業となるでしょう。」と、恩智左近に書状を託します。
 正行の書状、恩智の諫言に、越智伊賀の守は「雲霞の晴れたるが如し」と、神文に血判し、越智伊賀の守の助成を得て、正行の仕掛けた救出劇は成功します。

 隅田城址について
 隅田家(橋本市隅田町垂井)の裏山に廓、土塁、空堀が良好な状態で残る岩倉城址。この岩倉城址が隅田城址であることは、史実の上からは特定されていません。地元では、岩倉城や隅田八幡神社附近にあったとされる霜山城などの全体を指して隅田城といわれていたのではないか、と云います。
 紀伊続風土記の「野村」の項には、村中に周囲三百五十間の空堀があり、生地(おんじ)氏の城跡なりと、錢坂(ぜにさか)城跡が載っています。
 続けて紀伊続風土記は、この生地氏は、もともと坂上田村麻呂の末裔で、南北朝期、楠木正成の妹が嫁いでおり、その縁で、楠木正成の旗下に屈して軍功を立て、この頃、姓を生地と改めた、とあります。

 この記述によれば、岩倉城や霜山城のすぐ西にある錢坂城は楠木と通じていたもので、隅田一党はそう簡単に楠木攻めに動ける状況にはなかったのではないか、との推測が成り立ちます。
 扇谷は、今までは、正成、正行とも、京を目指すにあたって、後顧の憂いを断つということから隅田攻めをしたのではないかと、思っていましたが、隅田一党の勢力争いの中で、生地氏助力の意味から動いたのではないか、との説も成り立つようです。
 バスツアーを仕掛け、下見や下調べの結果、このように新たな発見があり、正成・正行を取り巻く歴史が少しずつ明らかになり、広がるのはうれしい限りです。

 今回は、高速道路を使ったため、扇谷のバス車中での講話の終わるころには、五条に到着し、目指す西吉野町賀名生に入りました。

賀名生の里歴史民俗資料館を見学
 
45分も早く到着したため、予定を変更し、先に賀名生の里歴史民俗資料館を訪れました。職員の
鍵本さんの説明で、堀家に伝わる宝物、後醍醐天皇から賜った中央に赤色の日の丸が表された幟旗(しき)、後醍醐天皇御賜とされた一節切笛(縦笛)・天目、正行が陣鐘としたという古鐘などを見学した後、映像シアターで、賀名生の里を舞台とした天皇と里人とのロマンに満ちた物語「賀名生行宮物語」の上映を観ました。(写真:伝承館前に掲げていただいた歓迎の看板)



賀名生旧皇居に到着
 
堀家住宅では、堀昭子様(当主・堀元夫氏ご夫人)から懇切・丁寧なご説明をいただきました。
堀家住宅は、左半分が土間で、手前から「伴(とも)部屋」「味噌部屋」「カマドの部屋」とあり、右半分が座敷で、前部に正式玄関と上り框、押入れがあり、その奥に八畳の間が田の字型に四つと四畳の間、六畳の間、計6つの畳の間で構成されています。カマドは大小7基あり、太閤検地でも残されたカマドは今も奥様が使っておられるとのことでした。しかし、かまどが大きいため、初めチョロチョロ中パッパ“がうまくいかず、ごはんは上手に炊けないとか…。

  



 堀家住宅は、平成7年(1995)から平成11年(1999)にかけて解体・修復工事が行われ、過去に火災にあったことが柱の焼け焦げから判判明し、茅葺は江戸時代初期のものと断定されました。
 
また、大黒柱は、1階部分、2階部分、3階部分と上にいくに従って細くなっており、この建建築様式は、堀家住宅と金閣寺に残るのみとの、の、奥様の説明に参加者一同感嘆しきりでした。
堀家は、中古36歌仙の一人に数えられる藤原実方を初代とする家系で、六代目の湛全が承久の乱に参戦し、鎌倉方に敗れたため、堀に姓を変えたことや、堀信増孫太郎の代に後醍醐帝を堀家にお迎えし、この頃、楠木正成や正行と関わることになった、等のお話を聞かせていただきました。
 
また、この堀家住宅の冠木門には天誅組総裁の吉村虎太郎筆による扁額「南朝 賀名生 皇居の跡」(本物は隣接する賀名生の里歴史民俗資料館で展示)を残していることや、幕末から明治の幕臣、山岡鉄舟が山岡鉄太郎名で書を残すなど、訪れた多くの人の漢詩等がふすまに描かれていました。(写真 上より、賀名生旧皇居の冠木門、奥様から庭で説明を受ける、7基のかまど、座敷で奥様の講話をお聞きする)





北畠親房の墓
 賀名生の里歴史民俗資料館の伝承館で昼食をいただき、堀家住宅の裏山にねむる北畠親房公の墓に参りました。
 
訪れる人が少ないのか、ひっそりとたたずんでいましたが、墓地は八角形で、墓碑の正面に鳥居が立つ、極めて珍しい墓所でした。(写真 北畠親房公募の前で)



隅田城址
 
賀名生を後に、国道168号、同24号を使い橋本市垂井に移動、隅田家の裏山に残る隅田城址(岩倉城跡)に向かいました。
 隅田城址(岩倉城跡)を所有・管理しておられる隅田伸子様の出迎えを受け、約100メートルほどの距離を上ると岩倉城跡に到着。



 
ここでは、四條畷市教育委員会の村上学芸員の中世山城の構造等の説明を聞き、今、私たちが思い描く天守閣のある城(平城)とは全く違う、おそらく砦のような建物であったことを知り、参加者一同がうなずく場面もありました。



 
今回のバスツアーで、千早赤坂、隅田、賀名生と回ったことで、当時の地形(位置関係)がよくわかったと、参加者にも喜んでいただきました。(写真 上から、本丸跡に上る参加者、手前の本丸跡の前に空堀とその向こうに土塁と思われる跡が残る、本丸跡で扇谷と村上学芸員から説明を受ける参加者)


隅田八幡神社
 最後に、隅田一党の氏神である隅田八幡神社を訪れました。石清水八幡宮の社領で、「隅田の別宮」と称され、国宝の「人物画象鏡(じんぶつがぞうきょう)」があることで知られています。突然の訪問でしたが、寺本禰宜から手厚いご説明をいただきました。(写真 境内に建つ「国宝人物画象鏡」の説明版、寺本禰宜の説明を聞く参加者)



 次回は、79日(木)、小楠公墓所、和田賢秀墓、四條畷神社、渡辺橋・小楠公義戦の跡を訪れる予定です。



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