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四條畷市立教育文化センター
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〒575-0021 大阪府四條畷市南野5丁目2-16

 



第4回バスツアー
 「小楠公墓所、和田賢秀墓、四條畷神社、渡辺橋義戦の跡碑

正行終焉の地、四條畷に残る小楠公墓所、四條畷神社
日本の国際赤十字加盟を可能にしたといわれる渡辺橋の美談


日時 平成27年 7月 9日(木曜日)
行先 小楠公墓所、和田賢秀墓、四條畷神社(以上、四條畷市)
渡辺橋義戦の跡碑(大阪市)


小楠公墓所
 
大型台風が三つも日本を伺い、雨雲が張り出し、今日は雨天止むを得ずと覚悟をして集まった参加者も、出発前に雨が収まり、車中は多くの歓声の中で市役所を出発しました。
 今回は、まず市内散策ということから、10分もすると目的地の「小楠公墓所」に到着しました。
 きれいに掃き清められた墓所と幹回り12メートルにも及ぶ大樹のくすのき(大阪府指定天然記念物)が私たちを迎えてくれました。
 講師の扇谷は、「河内名所図会」に掲載されている2枚の絵「四條縄手合戦 楠正行討死」と「楠正行墳 雁塚」の拡大コピーを手に、四條畷の合戦が行われた正平3年(134815日当時のこの地の様子を想像してください″と、切り出しました。
 今はこのあたりは住宅に囲まれていますが、今から667年前のこの地は、2枚の絵から想像して、おそらく東に飯盛山、西に深野池とその周辺の湿原状態で、人家もほとんどなく、このあたりは湿地に生える葦などの植物が覆っていたものと思われます。
 正行はわずか1千騎で、高師直4万の大軍とこの四條畷の地で会いまみえ、6時間にも及ぶ激闘の末、衆寡敵せず、弟正時とともに、「敵の手にかかるな」と23歳の若さで無念の死を遂げたのです。
 正行の遺体は、討死後、直ちに当時深野池の堤防であった現在地に移され、南無権現と書いた小碑が建てられ、「楠塚」と呼ばれる供養塚が作られました。
 その後、82年たって、2本のくすのきの若木が植えられ、年を経て一株のごとく和した楠は、この小碑を包み込み、大木に成長しました。
 
 墓地の北側に建つ石碑は、総高さ7メートル50センチの大石で、明治8年、大東市の竜間から切り出し、運搬、建碑に2年と3カ月をかけ、明治11年に建てられたものです。今もまっすぐ立っているのは、基礎がしっかりしているからで、5メートル四方を4メートル50センチ掘り下げ、地底に松の生グイ250本を打ち込み、その上に松の生板を敷き詰め、更にその上を大石650個と砂礫500駄、石灰200俵を混ぜ固めています。
 石碑には、大久保利通が「贈従三位楠正行朝臣之墓」と刻んでいます。

和田賢秀墓
 
楠正行の従兄弟、和田賢秀(源秀ともいう)は、正行討死後も、ただ一人高師直の本陣に迫り、切り倒そうとしましたが、敵に見破られ斬られてしまいます。
 この時、あまりの悔しさに、賢秀は怒りの姿のまま歯を食いしばり、目を見開き、敵をにらみつけて、首に噛み付いたまま死後も離れようとしませんでした。敵は、賢秀の恐ろしい顔が浮かんできて、7日後にはとうとう死んでしまったと伝わっています。
 このようなことから、この強い歯にあやかって、歯が丈夫になる、歯痛が治る、「歯神さん」として、この地は地域の人々に篤い信仰を受けてきました。
 現在の墓碑は、天保2年(1831)、大阪の永田友之が建てたもので、位牌型・高さ1メートル20センチ、正面に『和田源秀戦士墓』、背面に『むかし問へは すすき尾花の あらし吹く』と刻まれています。南朝に殉じた和田賢秀の墓に来てみれば、一面にススキが生い茂り、秋風が吹きぬけてゆくばかりで、人生のはかなさ、無常さを嘆く嵐の音が聞こえるような気がする、の意と解されています。
 昭和43年、四條畷カントリークラブ(ゴルフ場)の造成工事中に、小松寺跡地から、舟型一石五輪塔の和田賢秀墓が発見されました。
 死者を葬った場所は比較的短期間だけ祀りをして、その後近寄らず、祀りをするための墓地を離れた場所に設ける風を「両墓制」と呼び、四條畷、とりわけ田原の地にこの両墓制の形態が残っています。第一次墓地を『オバカ』、第二次墓地を『マイリバカ』等と呼びますが、小松寺の墓石は供養塚、マイリバカと思われます。

四條畷神社
 
四條畷神社では、中島禰宜の出迎えを受け、正式参拝をさせていただきました。
 正式参拝後、中島禰宜から、四條畷神社創建に関わる歴史やエピソードを詳しく聞かせていただきました。
 湊川神社には、楠木正成はもちろんのこと、正行、久子の方も祀られていたことから、住吉平田神社の神主、三牧文吾を中心に熱心に神社創建を願い出たものの、なかなか勅許が下りなかった、とのことです。しかし、地域の人々の熱心な願いが聞き届けられ、明治22年にその勅許がおり、明治2345日に御鎮座祭を挙げることができました。
 また、本殿の西側には、久子の方を祀る御妣神社が、大正1410月に鎮座されました。
 神社会館に移動して、四條畷の合戦の講話

 その後、中島禰宜の計らいで神社会館に移動し、中島禰宜を交えた懇談会を開き、続けて、講師の扇谷から四條畷の合戦、激闘の6時間、巳の刻(午前10時)から申の刻(夕方4時)にかけて、時を追って、詳しく解説しました。
 四條畷市史に掲載されている四條畷合戦想定図に、扇谷が加筆・訂正した四條畷合戦想定図は、第1期から第5期にわたる衝突位置、武将配置等を事細かに落とし込んだもので、参加者は時を追って書かれた記録とこの想定図を見ながら、熱心に聞き入りました。四條畷合戦激闘の6時間(PDF) 四條畷合戦想定図(PDF)
 四條畷の合戦の位置については、四條畷市史をもとに、大東市の十念寺に残る再建時の勧進帳木版や、古戦場を伝える小字名の「古戦田」「ハラキリ」が十念寺一帯、小楠公墓地のある一角、旧四條畷法務局から現四條畷保健所に掛けた一帯をさすことなどを根拠にしています。
 講話の後、同所で昼食をいただきました。
 サプライズの合吟

 バスツアー参加者のおひとり、真木さんから放吟のお申し出をいただき、ひそかに、準備を進めていたもので、突然のサプライズ、放吟に一同大喜びでした。
 合吟してくださったのは、真木さん(写真右)と、中島さん(写真中央)、大角さん(写真左)の三人で、この日、神社会館には楠一族を思う余韻が響き渡りました。
 題目は、以下の三題でした。なお、大楠公は中島さんお一人による放吟でした。
 @ 小楠公の墓を弔う 作:杉孫七郎
 A 小楠公の母を詠ず 作:本宮三香
 B 大楠公      作:河野天籟

車中の講話
 
四條畷神社を後に、マイクロバスで、天満橋に向かう途中、車中で、扇谷から、別格官幣社について説明がありました。
 別格官幣社は、全国に28社あり、明治5年に創建された湊川神社が第1号です。
 南朝関係では、霊山神社(福島・北畠親房、北畠顕家)、藤島神社(福井・新田義貞)、結城神社(三重・結城宗弘)、北畠神社(三重・北畠顕能)、阿倍野神社(大阪・北畠親房、北畠顕家)、四條畷神社(大阪・楠正行)、湊川神社(兵庫・楠木正成)、名和神社(鳥取・名和長年)、菊池神社(熊本・菊池武時)があります。


渡辺橋、小楠公義戦の跡碑
 小楠公義戦の跡碑は、天満橋駅(京阪・地下鉄)の西側、川の駅「はちけんや」の一角に建っています。
 この碑は、昭和15年に建てられたものです。 楠正行は、正平2年(13471116日、住吉・天王寺の戦いで、山名時氏、細川顕氏と戦いますが、大手の山名軍が総崩れとなって退却し、その退却する山名勢が細川軍を巻き込む形で、多くの敵が我先と後退して、渡辺橋に殺到します。
 その渡辺橋では、退却する兵がさばききれず、多くの兵が大川に投げ出されました。
 この時、正行は『敵兵を救え。』と、寒天に凍え奮える多くの兵に衣食を与え、薬を窮して、京へ帰させたのです。
 いわゆる、渡辺橋の美談です。
 この行為が故に、日本が国際赤十字に加盟することを可能にしたといわれています。敵・味方なく傷ついた兵を救ったことで有名なナイチンゲールに先立つこと、500年前のことであります。

 この日の研修はここで終え、参加者は、川の駅『八軒家』の散策をしました。
 この日も淀川を行き来する観光船が通り、浪花名所図会で有名な歌川広重の描いた「八軒家着船の図」の載ったパンフレットを手に、川面の風景を楽しみました。
 

 次回、910日は、バスツアーの最終回です。
 桜井の駅跡(島本町)、宝筐院(京都市)、正行寺(宇治市)を訪れます。



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