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四條畷歴史人物伝 


第2回バスツアー「後醍醐帝と正成出会いの場、笠置寺を訪れる
人は皆一列、平等と云う弥勒信仰の山、笠置山
平和・平安の世を目指す後醍醐、再起をかけて笠置山に入った
千早では楠公さんと云うが、笠置では正成公と呼ぶ
日時 平成28年7月20日(水曜日) 第2回バスツアー
行先 笠置寺と福寿園CHA遊学センター・茶摘み体験


●定刻15分前に出発

 このバスツアーは午前845分出発となっているが、第1回バスツアー以来、いつも参加者の方は早くから市役所に駆けつけて下さり、定刻前の全員集合が慣例のようになっているが、この日も、830分には全員集合・出発した
 車中では、恒例の扇谷によるバス講話が始まった。

●車内講話その@ 正成が笠置山に召しだされた経過の真実は・・・
 今回の車中での講話は、第1回アンケートに応える形で進められた。
 この日向う笠置山、笠置寺は、四條畷市ゆかりの人物楠正行を含め、楠一族の生きざまを大きく左右することとなった後醍醐帝と楠木正成の運命的な出会いの場である。
 太平記では、「木に南と書けば楠だ。このあたりに楠という武士はいるか」と、夢のお告げに基づいて楠木正成を召し出し、そして駆けつけた正成は、「正成だけはまだ生きている、とお聞きになれたら、帝のご運は必ず開かれるものとお考えくださいますように」と啖呵を切って千早に帰り、挙兵する有名なくだりがある。
 しかし、誰しもが描く疑問だが、「果たして、正成が笠置山に召し出された経過は、その真実は…」との質問が出された。
 扇谷は、この件はあくまでも太平記が、後醍醐帝と正成の関係を神がかりにする文学的な装飾といえるとして、実際は、正中の変以前から、護良親王や日野資朝、日野俊基らは正成と接触を重ねており、後醍醐帝の内意を伝え、討幕計画への参画を要請していたことは、ほぼ疑いのないところ。正成は、この頃、余剰農産物や金剛山の辰砂等を取り扱う運輸流通業を取り仕切る長として、大和、摂津、河内、和泉はもちろんのこと京の都に出向いていたことは間違いない。後醍醐帝に連なる多くの公家とも接触をしていただろう。また、信心深い正成は、後醍醐帝と近しい僧、文観とも観心寺や金剛寺を通じ交誼があったと考えられる。
 記録に残る「悪党楠兵衛尉」の兵衛尉という官職は、天皇方の公家や僧を通じて、後醍醐帝によって与えられたものと推測でき、若松壮の押妨もクーデターに向けた兵粮調達のため、後醍醐帝の了解のもとの行動と読み取れる。

●車内講話そのA 笠置に布陣した後醍醐の兵の実態は・・・
 次の質問は、「ところで、笠置に布陣した後醍醐の兵の実態は…? また、笠置山に布陣可能な兵数は・・・?」というもの。
 太平記では、宮方3000余人、幕府方75600余騎とある。
 しかし、後醍醐帝に従った武者を詳細にみると、公家や僧が大半で、武者としての活躍は足助次郎重範ただ一人。そして、笠置山は北、東、西は急峻ながけで、南が山伝いに柳生に連なるのみ。幕府の大軍が一斉に攻撃を仕掛けることは無理であり、結果、928日夜、台風下の50騎による奇襲攻撃によって陥落する。この笠置山の頂上には平地が少なく、極めて限られた数カ所にしか兵を置くことはできず、数百騎も入れば満杯の状態。
 笠置寺の小林前住職は、幕府方は笠置山を取り巻いてとあり、宇治に本陣を置いた幕府方の兵は、宇治から笠置山にかけて布陣し、笠置山を中心として、広い範囲の中で、ここそこで合戦が行われたのではないか、と云う。
 宮方の兵も、急な寄せ集めの兵であったことを考えれば、あちこちで、10騎、20騎が統率のとれないまま戦ったと考えられる。


↑笠置寺に着き、本堂に向う一行


↑本堂で講話される笠置寺前住職・小林慶範氏

     
↑吉川英治著(私本太平記)挿絵より


↑高さ15メートルもある笠置寺の本尊磨崖仏(弥勒石仏

●笠置寺、小林前住職の講話に聞き入る
 なぜか、このバスツアーは天候に恵まれ、また交通事情にも恵まれることが多い。
 この日も、順調にバスが走り、笠置寺には予定を大きく上回って早く到着した。そして、早速に笠置寺を訪ね、本堂で小林前住職の講話をお聞きしたが、30分ぐらいでお願いしますと打ち合わせていたところ、1時間を超えてお話し下さった。
 そして、話の核心は、「京を脱出した後醍醐帝は、何故、笠置山に入ったのか」というものであった。

 紙面の都合で詳しくは報告できないが、そのエキスだけお伝えすると、以下のとおりである。
 第一の理由は、これは誰もが言うことであるがと前置きされ、笠置山は守りやすく、攻めにくい場所である、ということ。
 そして、小林前住職の考える第二の理由は、治承4年(1180)の平家による南都焼き打ち事件があったこと、という。すなわち、戦いになれば戦場は焼土と化すことは必定。東大寺の復興に23年も要した南都焼き打ちの二の舞を起こしてはならない、という戒めがあったのではないか。だから、いったん入った東大寺東南院を出たのではないか、という。
 そして、小林前住職の考える第三の理由、これが最大の理由ともおっしゃるが、それは、笠置山は弥勒信仰の山であること、だと。
 弥勒信仰は、すべての人々が一列で、上も下もなく、全員が幸せになれる平和な世を目指すというもので、その弥勒の仏は、笠置山に下りてくると。実際、笠置山の弥勒菩薩は、大きく(背丈50尺≒15メートル)、岩でできており未来永劫無くならない、天皇が彫った仏、というかけがえのないもの。
 突然の逃避行の中での行在所探しに消耗していた後醍醐帝も、笠置山を目指すと聞かれた時、『よしー!』と思われたのではないか、と力説された。
 笠置寺のご住職(今は引退しておられるが)ならではの、説得力のある説に、参加者は前のめりに聞き入っていた。


●弥勒信仰の磨崖仏をはじめ、笠置山行場めぐり
 その後、全山史跡名勝の指定を受けている頂上を一周する形で、行場めぐりをした。
 大きな磨崖仏に度肝を抜かれて出発、滝で打たれる代わりに岩をくぐる「胎内くぐり」、ゆるぎ石、平等石と、木津川を眼下に絶景を堪能、行在所跡を回り、宝蔵坊後のモミジ公園で昼食をとり、帰途についた。
 岩場で、アップダウンもきつく、参加者の中には大変苦労された方も多数おられたと思うが、どなたからも苦情をお聞きすることなく、良かったとおっしゃっていただき安堵。


↑一人でも動かせる揺るぎ石


↑揺るぎ石から見下ろす眼下の木津川


↑笠置山頂上に位置する後醍醐天皇行在所跡

●福寿園の茶畑で「茶摘み体験」を楽しむ
 帰路、木津川市相楽台にある福寿園の「CHA遊学パーク」を訪れ、お茶の歴史や文化を学び、最後に、茶摘み体験をして、バスに乗りこんだ。
 摘んだオチャッパは、その日のうちに、蒸し、乾燥させ、揉み、緑茶か紅茶にとのお話だったが、疲れた面々、ほとんどの人が「天ぷら」にして食されたのではないか、と勝手に想像する。
 笠置寺の小林前住職、ありがとうございました。そして、ご参加の皆様、お疲れ様でした。


ロシア茶コーナーで説明を聞く一行(福寿園CHA遊学センター館内見学)


福寿園職員の方の指導を受けて茶摘みする参加者


茶摘み体験で全員集合

 

次回第3回は、8月24日(水)、金剛寺と天野酒酒蔵見学です。乞う、ご期待!




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