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四條畷歴史人物伝
第3回バスツアー
「後村上帝、そして光源帝ら、南北両朝が同座した金剛寺を訪ねる
」
南北朝期、戦乱の渦に巻き込まれた金剛寺の悲劇
数百人、数千人の供奉する公卿、殿上、地下、随身、雑色等の同宿
開山以来の滅亡とも取れる衝撃残す禅恵の奥書
日時
平成28年8月24日(水曜日) 第3回バスツアー
行先
金剛寺とすだれ資料館&あまの酒酒蔵見学
●車中、金剛寺の歴史を振り返りながら、見どころを紹介
この日も定刻
15
分前に参加者全員がそろい、午前
8
時
30
分に出発。
蔀屋交差点を右折し、大阪外環状線に入ったところで、バスツアー恒例の扇谷によるバス講話が始まった。
「皆さん、今日向かいます金剛寺に行かれたことはありますか・?」との問いに、手を挙げられたのは数人。
金剛寺は、楠家ゆかりであると同時に、南北両朝が同座した稀有なお寺で、なおかつ湊川の戦以降、足利方と楠方が抗争を繰り広げる一つの舞台となった場所で、寺全体が要塞と化し、また時には戦いによって焼亡した歴史を持っている。
寺境内の中央を南北に、かつて街道が走っていたという地勢が示しているように、天野山金剛寺は、吉野と河内東条の中継基地の位置を占め、東西・南北の街道が一点に集まる交通の要衝の地であった。
扇谷は、四條畷楠正行の会が発行する楠正行通信第
22
号を手に、本日向かう金剛寺の見どころとして、宝物殿に残る楠木正成直筆の書状(重要文化財)、そして北朝御座所となった奥殿の写真を基に簡単に説明した。
ただし、今回、一つ残念なことは、南朝、後村上天皇の行在所となった塔頭の一つ、摩尼院は修復のため、拝観ができないことで、またの機会にぜひ訪れてほしいと訴えた。この摩尼院には、後村上天皇の御座所が残り、ここにある書院は、慶長年間(
1596
〜
1614
)のもので、昭和
40
年に重要文化財に指定されている。そして、蔵には楠木正成が湊川の合戦で使ったとされる軍旗(鞣し革製で、非理法権天と織り込まれている)や、楠木正成が笠置山で後醍醐帝から授かったとされる銀鞘竜紋の守り刀(子別れの短刀)等、多くの寺宝がある。
●金剛寺と南北朝との関わり、禅恵の活躍
続いて、金剛寺の歴史や南北朝期に戦乱の渦に巻き込まれた金剛寺の悲劇について、説明をした。
金剛寺は、地理的には、河内長野を起点として、東西南北の四方に交通網が開ける交通の要衝の地にあること。そして、奈良時代に、聖武天皇の勅願によって、行基が草創した寺で、中興の租は、阿観上人。
1198
年には、仁和寺北院の末寺となっている。
1330
年ごろ、楠木正成の登場によって、悪党らの寺領横暴に困っていた金剛寺は正成を支持するようになる。
そして、南北朝期、金剛寺を守り抜いたのが僧禅恵。
禅恵は、文観の弟子で、東大寺東南院に遊学したことがあり、後醍醐帝の笠置遷幸を指揮した僧、聖尋との交誼もあった。
延元
2
年(
1337
)
10
月、宮里城を本拠とする足利軍と、槇尾山施福寺に拠る楠軍の戦いは、和泉横山合戦を経て河内天野合戦に移る。この時、金剛寺は、吉野と河内東条間の中継基地として、境内坊舎を廓として城郭化を図り、戦乱の渦に巻き込まれていくが、この時、禅恵が残した奥書には南北両朝の年号が同時に使われており、禅恵が後醍醐の動きに確たる信頼を寄せる心境には至っておらず、両朝への中立的姿勢があったと思われる。
そして、金剛寺を否が応でも、南北朝の混乱の渦の中に巻き込んでいく事件が起こる。北朝三院、光源・光明・崇光の金剛寺行幸である。
正平
6
年(
1351
)から正平
9
年(
1354
)にかけて、足利尊氏が南朝に下り正平一統が成ったり、楠正儀が京に突入し、足利義詮が近江に逃れ正平一統が瓦解したり、混乱が続く中で、南朝方は北朝の三院を八幡に拉致し、東条に移す。そして、足利方が京を回復し、八幡が陥落すると、北朝の三院は賀名生に移され、その後も、南朝と北朝の一進一退が続く中、正平
9
年
3
月、後村上天皇を賀名生に残したまま、北朝の三院が金剛寺に行幸することとなる。これは、南朝方が、この三院を盾に、合体交渉を有利に展開しようと模索した結果と思われる。この時、金剛寺は、南朝の本営の賀名生と前線基地の河内東条を結ぶ中継基地の役割を与えられることになる。
しかし、この年
10
月になると、後村上天皇が賀名生から金剛寺に移り、金剛寺は、南朝の中継基地から本営に格上げされることとなり、この後、北朝による天野攻撃の記録は残っておらず、一定の成果を上げたものと思われる。
しかし、南北両朝が同座した金剛寺は、想像を絶する経済的・精神的負担を強いられることになる。
供奉する公卿、殿上(公卿を除いた
4
位以下のもの)、地下(官位を持たない名主、庶民ら)、随身(貴族の外出時、警護に就いた近衛府の官人)、雑色(蔵人の職位の一つで、天皇の警護にあたった兵士や僧兵)等の同宿で、数百人、いや数千人に上ったのではないかと思われる。
警護に当たる地侍や僧兵、を含め、堂塔伽藍、坊舎は余すところなく宿所に当てられ、金剛寺警護のための南軍宿所は遠く国境付近まで設営され、寺周辺の村々も要塞化され、その範囲は南北
6
キロ、東西
3
キロと伝わっている。
当時の金剛寺の惨状を物語る禅恵の奥書が残る。
「山林皆切失、坊舎仏閣悉損亡」
〜
70
を超える坊舎が殿舎に改造・城郭的機能が強化されたことを物語る。
「山木悉切払、坊舎皆破損」「為皇居之間、山林坊舎悉損失」〜
寺院たる金剛寺は皇居建設によって破壊されたことを物語る。
「寺僧逃失、学文能芸無稽古」
〜宗教的機能の廃絶を憂う。
そして、正平
12
年(
1357
)、南朝による京都回復は難しく、北朝三院の人質はむしろ重荷になったか、光源、光明、崇光の三院は京に帰る。そして、正平
14
年(
1359
)になると、北朝の天野攻撃を予測した正儀らの強引な勧奨により、後村上天皇は観心寺に移ることとなるが、金剛寺には、翌年
3
月、畠山国清の乱入という不測の事態が待ち受けていた。
宮方の主力が河内東条、観心寺に移動し、ほとんど無抵抗の金剛寺は、その坊舎が次々と焼き討ちされ、金剛寺は開山以来の滅亡とも取れる衝撃に襲われ、禅恵は、その様子を
「本願已来当山滅亡」
と、奥書に残している。
しかし、禅恵は、早くもその
1
年後、
4
月には自坊(無量寿院)を再建、
7
月に造営の落慶にこぎつけ、驚異的な生命力を示している。その禅恵は、正平
19
年(
1364
)、享年
81
歳で入寂した。
金剛寺は、
70
の塔頭を誇った全盛時代の面影を残していないものの、南北朝時代を生き抜いた禅恵の軌跡の余韻を残しながら、悠然と、伽藍配置が佇んでいる。
蜂須賀小六の子、家正によってつくられたという庭園。正成公の直筆書状等を展示する宝物殿。北朝行在所となった観蔵院。後村上天皇の行在所となった摩尼院、そして政務をとったといわれる食堂。
後村上天皇の行在所となっていた摩尼院と、政務をとった食堂は、廊下でつながっていたようで、食堂の北側にはその痕跡が、今も残っている。このような痕跡は、訪れなければ分からないものである。
●後村上天皇、その波乱万丈の生涯
この
後、後村上天皇の波乱万丈の生涯を振り返り、奥州多賀城に赴き、北畠顕家と共に行動した幼年時代、楠正行と行動を共にした天皇即位後の約10年、そして楠正儀と共に行動した晩年の約20年という、在位29年間に、実に8か所の行在所を転々とし、最後、大阪住吉に崩御する人生を振り返った。
バス講話の最後に、北朝3院のおさらいもした。
後醍醐天皇は、31歳で即位し52歳のとき崩御している。光源天皇は18歳、光明天皇と崇光天皇はそれぞれ14歳で即位している。10代の天皇に、実際の政務はとれなかったと思える一方、後醍醐天皇が、いかに満を持して自らの政治を直球で行おうとしたか、その年齢を見ることでもわかる。
歴代の天皇な中でも、自ら先頭に立って天皇親政を行おうとした天皇は、後醍醐天皇を置いて他になかったのではないか、と講話を締めくくった。
●金剛寺到着後、すだれ資料館、あまの酒酒蔵見学で一日を過ごす。
この日は、金剛寺を訪れ、河内長野観光ボランティアクラブの皆様にご案内いただいた。
そして、昼食後、井上スダレ株式会社の「すだれ資料館」を訪れ、展示されている様々なすだれを堪能。最後は、京都御所に献上した楠木正成をはじめ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら、多くの武将らが愛飲したあまの酒の酒蔵見学で、西條合資会社を訪れた。
歴史と繊細な伝統工芸、そして幻の酒を楽しんだ一日となった。
↑
金剛寺駐車場で、河内長野観光ボランティアガイドクラブの皆さんの出迎えを受ける
↑金剛寺の楼門
↑蜂須賀小六の子、家正が作ったといわれる庭園
↑北朝行在所(奥殿)
↑金剛寺南大門前で記念撮影
↑この後訪れたすだれ資料館に飾られる文字すだれ
↑東高野街道沿いにある酒蔵「あまの酒」を訪れる一行
↑お酒に使う山田錦の稲穂(左)とふつうのお米の稲穂(右)
↑清酒をねかす部屋は全体が冷蔵庫(
7
度c)
次回第4回は、9月21日(水)、千早城址、千早神社見学です。乞う、ご期待!
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