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四條畷歴史人物伝
第4回バスツアー
「建武の新政を切り拓いた千早城、100年の籠城戦、難攻不落の城、千早城址を訪ねる
」
周囲を北谷、風呂谷、妙見谷に囲まれ絶壁
標高673b、比高175bの山城 急な斜面地形に「なるほど」と納得
日時
平成28年9月21日(水曜日) 第4回バスツアー
行先
千早城址、楠公誕生地、楠公産湯の井戸、奇手塚・身方塚
●車中、千早城にまつわる歴史的背景を学ぶ
前日、大型台風が
本土に上陸し、風雨が激しく、順調に来た昨年
5
回、今年
5
回のうち
4
回、計
9
回にわたるバスツアーで初めての中止・キャンセルかと覚悟したが、まさに台風一過、暑くもなし、寒くもなしの天候の下、出発を迎えた。
今回は、千早城址に上るとあって、急な石段があることを事前アナウンスし、体調管理と足元等に気を付けて参加してほしいと何度もお願いしたことや数日前からの台風襲来の影響か、キャンセルがたくさん出て、キャンセル待ちを入れても定員を割り、ツアー初めて補助席を使わずに出発となった。
そして、恒例となった現地に向かうバス車中での扇谷の講話。
今回のバスツアーで最も難所となる千早城址に向かうバス車中は、いささか緊張気味。
しかし、楠木正成は
1
年間行方をくらまし、金剛山に下赤坂(奪還)・上赤坂・千早の
3
つの城と、
20
近い砦群を構築し、金剛山要塞化作戦を進め、難攻不落の千早城で
100
日を超える籠城戦を戦ったが故に、建武の新政を導くこととなり、今ある日本の歴史を導いた、まさにその城を訪れる。
車中、扇谷は、千早城について説明。
最初に、千早城の全体像をイメージしてもらおうと、
河内千破城図(湊川神社蔵)
で、正成館、下赤坂城、上赤坂城、千早城の位置を説明。金剛山の西側一帯を要塞化した状況を目で確認してもらった。
次に、
千早赤阪村観光協会発行のウオーキングマップのラミネート版
を片手に、この日訪れる千早赤坂村立郷土資料館、楠公誕生地、楠公産湯の井戸、千早城址、千早神社、寄手塚・身方塚の位置を改めて確認し、金剛山から流れ出す水越川・千早川に囲まれた天然要害の地形、更には二つの川が合流し東条川となって北に流れる千早赤坂の中心地との距離感を頭に描いてもらった。
まさに、金剛山の西側斜面一帯を、
3
つの城と
20
余りの砦群で要塞化した様子をイメージしてもらいながら、太平記によると
100
万ともいわれる幕府軍が押し寄せたにもかかわらず、様々な作戦を駆使して
100
日の籠城戦を戦い抜くことができたのは何故か、それぞれの目で、今日確かめてくださいと扇谷からアナウンスした。
そして、
大阪大学大学院教授・村田修三氏作成の千早城址縄張図・千早城の説明資料
を使い、千早城の説明に移った。
まず、千早城築城の歴史的背景を再確認。
元弘元年(
1331
)、
8
月 正成、後醍醐帝に拝謁
9
月 正成、赤阪で挙兵
10
月
21
日 下赤坂城落城〜正成、消息を絶つ この後、ほぼ
1
年間をかけて、正成、金剛山要塞化作戦を決行した。
翌、元弘
2
年(
1332
)、
4
月 正成、下赤坂城を奪回
10
月 正成、隅田攻め
11
月 千早城築城・完成させた。
元弘
3
年(
1333
)、
1
月 幕府軍、全勢力を千早赤坂に向ける
2
月 上赤坂城落城〜平野将監降伏 水源を絶たれる 〜 正成、千早城で
100
日の籠城戦 〜
5
月
2
日 高氏、帝に帰順
5
月
7
日 高氏、六波羅探題を攻略
6
月
4
日 後醍醐帝、東寺に帰京と続く。
千早城、
100
日の籠城戦が、建武の新政を開く基礎となった。
前半が赤坂の戦い、準備不足もあり、正成は兵糧も底をついたことから、城をいったん落城させて退却する、消息を絶つという奇策に出る。
金剛山要塞化作戦を完成させた正成は、再び挙兵する。下赤坂城、上赤坂城は落城の憂き目にあうが、千早城は難攻不落、押し寄せる幕府軍を相手に、大石を投げ下ろして矢を射る奇策、藁人形で敵を欺き攻め上ってきた幕府軍を一網打尽、幕府のはしご作戦には火矢を放ち、油を注ぎ、兵ごと梯子を谷に落としてしまう奇策を次々と繰り出し、籠城戦は
100
日に及んだ。
この正成の籠城戦が導火線となって、新田義貞が戦線を離脱、足利高氏が参戦、名和長年が船上山に蜂起と続き、鎌倉幕府は滅亡の道をたどった。
この後、現在の、千早城址記念碑そして千早神社の様子を写真で確認。扇谷からは、バスツアー第
1
回で訪れた湊川神社・岡村権禰宜の話を紹介しながら、石玉垣(昭和
13
年 住友家
1
万円奉納 今の値打で
400
万円ぐらいか?)について触れ、「皆さん。この石玉垣を探してください!」と宿題を出した。
また、
7
月
6
日付産経新聞に掲載された「正成公御兵糧米」(
150
グラム
1000
円)〜棚田で獲れたお米を販売・“不落千早城”・・・落ちない千早城:難攻不落:就活生・受験生に人気! の記事を紹介。
記事本文中に、「兵糧米を通じて正成公の名声が広まってくれるのは、うれしいことです」との販売業者の話が載っていたが、正行公を身近に感じることのできるグッズ・ツール・商品開発を、四條畷でも急ごうと呼びかけた。
車中講話の最後に、
千早城址上り口に立つ朱舜水作・正成賛文の一節を刻んだ石柱
を、写真を示しながら説明。
↑早城址上り口左右に建つ石柱
この石柱の存在はあまり知られていません。
扇谷が、朱舜水作の正行賛文を探し求めていた時、茨城県立歴史館の元主席研究員の木下英明氏の論文で知ったことを紹介しながら、千早城址に上る前に、必ずしっかりと見て、確認してほしいと呼びかけた。
左右に建つ
2
本の石柱には、
審強弱之勢於幾先
(向かって右側)、
決成敗之機於呼吸
(向かって左側)と刻まれている。これは、正成賛文の一節、
「大抵公之用
レ
兵、審
二
強弱之勢於幾先
一
、決
二
成敗之機於呼吸
一
。」
からの引用で、「
大抵公
(
たいていこう
)
の
兵
(
へい
)
を
用
(
もち
)
ふるや、
強弱
(
きょうじゃく
)
の
勢
(
せい
)
を
幾先
(
きせん
)
に
審
(
つまびら
)
かにし、
成敗
(
せいばい
)
の
機
(
き
)
を
呼吸
(
こきゅう
)
に
決
(
けっ
)
す。」と、そしてまた、「
大
(
たけ
)
きを
抵
(
あつ
)
むるに
公
(
きみ
)
の
兵
(
つわもの
)
を用ふるや、強きと弱き
之
(
こ
)
れ
勢
(
いきおい
)
を
幾
(
ちか
)
くすると
先
(
すす
)
めるとを
審
(
つまびら
)
かにし、
成
(
たいら
)
ぐと
敗
(
やぶ
)
らるとの
機
(
はたらき
)
を
呼吸
(
いきするうち
)
に
決
(
わか
)
ち。」と読む。
この意味は、湊川神社発行『大楠公御碑銘賛』によると、「その楠公の
用兵
(
ようへい
)
の
方法は、
大体
(
だいたい
)
、敵、味方の強弱の状態を戦ひの前に細かく調べ、勝敗については
機微
(
きび
)
の
問
(
かん
)
の、ほんの一呼吸に決するといふ、まさに戦ひの
妙
(
みょう
)
に
長
(
た
)
けてゐたのである。」とある。
木下さんは、論文の中で『文中の「審
二
強弱之勢於幾先
一
、決
二
成敗之機於呼吸
一
。」ですが、楠木正成の千早城での戦術・戦法の妙なるものの表現でしょう。なお、この語句は、千早城への上り口の両側に立つ大きな石柱に刻まれています。千早城跡には千早神社が祀られており、その参道の石段に、祭神でもある楠木正成の千早城での奮戦を伝えるにふさわしい文言として刻まれたものと思います。』と記している、と紹介していると、バスは、千早赤阪に入った。
●千早赤阪村の観光ガイドのお二人と合流
千早赤阪村立郷土資料館に到着し、お二人の観光ガイドさんと合流。
↑
楠公誕生地の碑の前
↑
楠公産湯の井戸では正成公実感
郷土資料館を見学の後、楠公誕生地、楠公産湯の井戸にご案内いただいた。その後、郷土資料館からバスで移動、二人のガイドさんもバスに乗り込み、千早城址登山口に到着。
千早城址にはトイレ施設がないことから、必ずトイレは済ませてくださいとアナウンスの上、
2
本の石柱の建つ千早城址入口石段前に移動した。
↑登山口から千早城址に向けて急な石段を登り始める
石柱を見る余裕よりも、急な石段に圧倒される参加者。
560
段ともいわれる石段のぼりが、いよいよ始まった。
標高差
100
メートル強を
560
段の石段で上ることに。一段が
30
センチを上回る石段もあり、参加者には相当こたえた様子。途中、一回の休憩を取り、汗だくになりながら、全員、無事三の丸に到着。ここで歓声が上がる。
↑
さすが
1
万円の石玉垣、一基特別扱い
二の丸を経て、本丸に就くと、正面に千早神社が建つ。
↑
千早神社の奥が本丸跡ではないか、といわれている
参加者の一人真木さんが石段の数を数えたところ、出発地から千早神社まで、合計
640
段の石段があったという事。
↑
千早神社前で全員そろって記念撮影
千早神社参拝後、全員そろって記念撮影をし、昼食場所の東屋に移動。
東方に金剛山を仰ぎ、南方には千早谷を見下ろす絶景に感激しながら、石段を登り切った安堵感とお弁当で満たされたお腹のせいか、参加者一同の顔の表情から達成感が感じられる。
東屋を出発すると、狭い山道を難儀しながら北に向かって歩くと、金剛山登山道の脇にある楠正儀の墓に到着。
↑
金剛山登山道の脇に建つ楠正儀の墓
金剛山の登山道を少しそれたところに建つこの墓は、ハイカーにはあまり知られていないようで、誰もが通り過ぎてゆく。一抹の寂しさを感じながら、順番に、お墓にまいった。
ここからは金剛山の登山道を下る事になり、のぼりの石段とは好対照に、それぞれ余裕の表情。
↑
千早城址からの帰途は登山道を下りる
しばらくすると、昔ながらの製法にこだわった「山の豆腐」のお店、「豆腐」の“まつまさ”が見えてきた。金剛山から湧き出た山水の恩恵に浴しながら、おいしい豆腐作りが続いているようだ。
待ちきれずトイレに駆け込む参加者もある中、無事、金剛山登山口に帰参できた。
●奇手塚・身方塚に向う
登山口に到着した一行は、再びバスに乗車して、寄手塚・身方塚のある村のほぼ中心部、森屋惣墓に向かった。
この二つの石塔(墓)は、楠木正成の人間性を象徴する歴史的遺産の一つと云える。
楠木正成は、赤阪の戦い、千早の戦いで戦死した兵を弔うためにこの石塔を建てた。二つの石塔は、敵(幕府軍)と味方(楠軍)のそれぞれ兵の霊を弔うもので、「敵」と云う表現を使わず「寄せ手」とし、更に、身方塚よりも寄手塚を大きくしているところに、正成の心情、”敵も味方も皆同じ”と云う、奥ゆかしさが感じられる。
↑
森屋惣墓でもひときわ目立つ寄手塚
寄手塚は、総高
182
pの石造五輪塔で、五輪塔の下は井戸のような穴が開いているが、その用途は不明とか。金剛葛城山麓で産出する石英閃緑岩が使われており、
1315
年前後の造立と伝わり、千早赤阪村最古の五輪塔である。
↑
身方塚は大阪府重要美術品に指定されている
一方、身方塚は、総高
137.3
pの石造五輪塔で、地面にそのまま建っている。使われている石は、同じく金剛葛城山麓で産出する黒雲母花崗岩で、室町時代初期の造立と考えられている。
なお、寄手塚は昭和
45
年、大阪府有形文化財に、また身方塚は昭和
22
年、大阪府重要美術品に指定されている。
楠正行も、住吉天王寺の戦いで、渡辺橋におぼれる兵を救う美談を残しているが、楠一族の戦いが、一族繁栄・家門隆盛の為ならず、天下国家・正統な帝復権という義のためであったことが窺い知れる。
今回のバスツアーは、千早城址を体感するとともに、正成の心情に迫るものであった。
帰途、道の駅「河南」に立ち寄り、トイレ休憩をかねて、お土産の購入タイムとしたが、あいにく大半の商品が売れてしまい、陳列棚は閑散といった状況に、参加者は落胆。食べ物や野菜、果物が中心のようで、午後には商品の追加がないようである。道の駅は一日
24
時間営業がうたい文句と聞くので、期待をしていたが、淋しい休憩タイムとなったようである。
次回第5回(最終回)は、いよいよ楠正行ゆかりの地を訪ねるバスツアー第二弾の最終回、10月19日(水)、如意輪寺、吉野朝跡です。乞う、ご期待!
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