第1回 葛井寺(藤井寺市)と楠妣庵観音寺(富田林市)
5月11日(木)
小林幸子、デビュー当時の「小楠公」にびっくり!
この日、好天に恵まれ、四條畷市役所東別館前の駐車場に参加者は続々と集まってきた。
市のマイクロバスがほぼいっぱいになりかけた頃、東市長が激励に来てくださり、車中でご挨拶をいただいた。
過去のバスツアーもそうであったが、今回も、定刻前に全員がそろい、市職員、教育文化センター職員、講師と参加する市民25人、ドライバー合わせて定員いっぱいの29人をのせて、市役所を出発。
往路のバス車中では、講師の扇谷から、珍しい歌を吹き込んだ録音テープを流した。
「菊水の旗風に哭く 青葉の里の夕間暮れ 別れを惜しむ父と子の 思いは如何にホトトギス 思いは如何に小楠公」の一番で始まる、この歌に、車中全員が興味津々。
しかし、誰一人、どの歌手が歌っているかわからなかった。
「皆さん、この歌は、昭和40年、小林幸子が8歳のときに吹き込んだデビュー5曲目のシングル・レコード盤、小楠公です。作詞は西澤爽、作曲は古賀政男です。」のアナウンスに、「よく、こんなテープが手に入りましたね。」と、和やかにツアーは出発。
この後、大和田建樹作詞「四條畷」と、落合直文作詞「桜井の訣別」を流し、車中での大合唱となった。
まず向かう先は、葛井寺。
扇谷から、太平記に載る「藤井寺合戦のこと」の件について説明。以下に配布資料掲載。
〔資料‐①〕 平成二十九年 バスで訪ねる正行ゆかりの世界 第三弾!
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太平記より
巻第二十五 三 藤井寺合戦のこと
楠帯刀正行は、父、正成が先年湊川へ下った時、
〈正成〉「私は思うところがあるので、今度の合戦で必ず討死するつもりだ。そなたは河内の国に戻って、後醍醐天皇のこれからがどのようにおなりになるか、その行く末を見届けよ」と諭されたので、その教訓を忘れずに、以来十余年、わが身の生い育つ時を期し、湊川で討ち死にした臣下たちの子孫を養い育てながら、「何としても父の仇を討ち滅ぼし、天皇の憤りをお鎮めしよう」と、明けても暮れても胸のえぐられるような思いで月日を過ごしました。
時の過ぎゆくのは早いもので、正行も年齢を重ねてすでに二十五歳、今年は特に父、正成の十三回忌に当たったので、仏への供養、僧への布施など、その善行を念願通りに果たした。父の法要を終えた今となっては、この命など惜しいとは思わぬと、正行は五百余騎を率いて、住吉大社や天王寺周辺に兵を出すことしばしば、中の島の民家を少々焼き払って、幕府の軍勢が攻め寄せてくるかと待ち構えていた。
将軍、足利尊氏は、これをお聞きになって、
〈尊〉「楠の軍勢など取るに足るまい。ただ、彼らに都の周辺部を侵略されては、京中が混乱状態に陥ってしまう。そうなっては我ら幕府方は天下の笑い者、武将の恥辱である。急ぎ馳せ向かって楠軍を撃退せよ」
という事で、細川陸奥の守顕氏注①を大将に、宇都宮三河入道貞綱注②、佐々木六角判官氏頼注③、長の左衛門、松田次郎左衛門注④、赤松信濃の守範資注⑤、その弟の筑前の守範貞、村田、奈良崎、坂西、坂東の勢、菅家の一族ら、総勢三千余騎が河内の国へ派遣された。この幕府軍は、八月十四日の正午頃藤井寺に到着したのだった。
この藤井寺の陣から楠の館までは七里の距離があったので、たとえ橘軍注⑥が急襲を掛けるとしても、それは明日か明後日ぐらいのものだろうと、幕府軍は油断して、ある者は鎧兜を外して休み、またある者は馬から鞍を下して休んでいた。そうしているところに、誉田八幡宮注⑦の背後の山陰に、楠の菊水の旗一本がわずかに見えて、完全武装の兵七百余騎が、しずしずと馬を進めてやって来たのだ。これを見た幕府軍は、
(幕)「やっ、敵が押し寄せてきたぞ。はやく馬に鞍を置け、みな武装せよ」
と慌てふためいているところへ、正行が先頭になって、叫び声をあげて幕府軍の陣中に突入した。
幕府軍の大将、顕氏は、鎧を肩にかけたものの、まだ鎧をしめる上帯もつけられず、太刀を腰に差す余裕もない状態でいたため、村田一族の六人が軽装備のまま、誰の馬ともなくてんでにまたがって、雲霞のように群がりひかえている楠軍の中へ駆け入って、火花を散らして戦っていた。しかし、彼らに続く味方もなく、大勢の中に取り囲まれた村田の六人は、全員同じ所で討たれてしまった。
その間に、やっと顕氏の武装も整い、馬にまたがって、百余騎の兵を従えてしばし抗戦した。楠軍は小勢で、幕府軍は大勢である。たとえ進軍して楠方に攻撃を加えるまでのことはなくとも、退却する兵さえいなかったならば、この合戦は幕府軍側が決して負けるはずはなかった。ところが、四国、中国地方から寄せ集めた雑兵らは、味方が前陣で戦っているにも拘らず、後陣では馬に鞭を打って引き退いた。こうなっては、大将も、勇猛な兵たちも同様に退却するしかなかった。
楠軍はこの機に乗じて、鬨の声を挙げながら、馬を進めて幕府軍を追撃したため、大将、顕氏は天王寺や渡辺付近で危うい状況にあった。これを見た佐々木氏頼の弟、氏泰は引き返して交戦したが、楠軍に討たれてしまった。また、赤松範資注⑧、範貞注⑨兄弟ら三百余騎が自らの命を武士の名誉と引き換えに討死しようととっては返しとっては返して、七、八度踏みとどまって戦ったのだが、同族の家臣である奈良崎とともに三人が討たれた。粟生田小太郎も馬を射られて討死してしまった。これら赤松軍の度々の抗戦があったので、楠軍は幕府軍を必要以上に深追いしなかった。そのため、大将の顕氏も、他の兵たちも、危ういところを命拾いして、京に帰ったのであった。
勉誠出版「完訳太平記」より転載(扇谷)
注① 細川陸奥の守顕氏=讃岐(香川県)、河内(大阪府)、和泉(大阪府)の守護
注② 宇都宮三河入道貞綱=三河の守(愛知県)、下野の守(栃木県)、備前権の守 (岡山県)
注③ 佐々木六角判官氏頼=近江の国(滋賀県)守護 妻は佐々木道誉の娘
注④ 松田次郎左衛門=越前(福井県)
注⑤ 赤松信濃の守範資=摂津の国(大阪府北部・兵庫県東南部)、播磨の国(兵庫
県西部)守護
赤松円心の嫡子
注⑥ 橘軍=楠氏は橘姓を名乗っている。
橘氏は、源氏・平氏・藤原氏と並び「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)
四姓と総称される。
飛鳥時代末、県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)が元明天皇か
ら「橘 宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜り、その子・葛城王
が橘諸兄と改名した後、諸兄の子孫は橘氏を称した。諸兄は初め「橘宿
禰」の姓を受け、その後「橘朝臣」の姓を賜与された。平安時代に入る
と、橘氏の多くは「橘朝臣」を称した。
小楠公墓所の碑銘は「贈従三位楠正行朝臣之墓」とある。
注⑦ 誉田八幡宮=応神天皇陵完成後、6世紀半ばに、欽明天皇の勅願によって建立
された。
源氏の氏神が八幡であったことから、源頼朝は神輿(国宝)など
数々の宝物を寄進。室町幕府6代将軍足利義教も誉田宗庿縁起(
こんだそうびょうえんぎ・重要文化財)などを寄進。
藤井寺との距離、およそ1.5キロ。
注⑧ 赤松範資=赤松円心の嫡男
弟、貞範とともに、長洲(尼崎)に居住。
円心亡き後、室町幕府から摂津守護に任じられる。
注⑨ 赤松範貞=正しくは「貞範」。
赤松円心の二男。
1320年代に、兄、範資とともに、長洲(尼崎)に居住。代官。
長洲は、市が立ち、京の都への経済・流通の要衝であった。
尊氏の鎌倉下野に従い、箱根竹之下の戦いでは新田義貞を破る
1346年に、姫路城の築城に着手し、1349年に完成させている。
次に、葛井寺について説明。以下に配布資料掲載。
(資料‐②) 平成29年 バスで訪ねる正行ゆかりの世界 第三弾!
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葛井寺
◆楠氏ゆかりの寺 旗掛けの松
南北朝時代には、後醍醐・後村上両天皇も帰依された。
楠正行は、正平2年9月の藤井寺の合戦の時には、自軍七百余騎を率いて葛井寺に屯し、細川顕氏七千の兵を破っている。この時、正行は、般若心経六百巻を書写して、守り刀一振り、非理法権天の菊水旗を奉納し、戦勝祈願を行った、といわれる。
また、同じく藤井寺の戦いの折、境内の松の木に「非理法権天」の旗を掛け、正行・正時・正儀は秘策を練り、楠軍の十倍の細川顕氏勢に大勝した。是より、この松のことを「旗掛けの松」と呼ぶようになり、この松からは珍しい三葉松が現れた。このことから、三人が力を合わせて固く一致団結すれば、どのような困難にも打ち勝つ不思議な力が授かると云われるようになり、今も珍重されている。松の木の植わるところは、後世移し替えられている。
◆国宝千手観音菩薩座像
本尊の千手観音は、乾漆造りの中でも保存状態が良好で、大阪府下で唯一の天平時代の仏像として、国宝に指定されている。
8世紀中ごろの製作と推定されるこの仏像は、脱活乾漆造りの技法によってつくられたもので、本体の像高が144.2㎝、台座を含めた総高が246.0㎝ある。
脱活乾漆造りとは、粘土で像の原形を造り、この上に麻布を張り、漆で固め、漆に木屑を混ぜたもので、細かい造形を施す仏像の製作方法。原形となった粘土は抜き取られるので軽い仏像が出来上がり、しかも細かい表現が可能なので、奈良時代には盛んに採用された。
しかし、金銅製の仏像に比べると湿気や乾燥にデリケートで、もちろんのこと火災にも弱く、現在まで残った仏像はわずかになってしまった。
千手観音は、正しくは「千手千眼観世音菩薩」といい、千の眼を持って人々を導き、千の手で人々を救う慈悲を示す仏様と云われている。ところが、実際に千の手を持つ千手観音像は極めて少なく、現存するのは、唐招提寺(奈良市)、寿宝寺(京田辺市)、葛井寺の三か所だけ。しかし、学術的調査によって、実際に1000本以上の手があることを確認されているのは、葛井寺だけである。
葛井寺の千手観音は、小脇手だけで1001本、中脇手40本、合掌する大手本、全部で1043本の手を持っている。脇手のすべての手のひらには、一つづつの眼が彫られている。
その理知的な表情と写実的な表現は、唐招提寺の観音と並び、大変優れた千手観音菩薩像と讃えられている。
そして、予定より早く楠妣庵観音寺に到着した。
この日、午前と午後、2つの法要の入っているお忙しい加藤住職にご無理を申し上げていたところ、到着早々に、本堂で講話をしていただいた。
講和後、境内で昼食をとり、午後は扇谷による施設案内となった。
施設案内に使った配布資料を、以下掲載する。
写真は、いずれも楠妣庵観音寺で、本堂の前と楠公母子像の前で説明する扇谷。
(資料‐③) 平成29年 バスで訪ねる正行ゆかりの世界 第三弾!
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楠妣庵観音寺
◆大楠公夫人遺跡 楠妣庵
*甘南備に生まれ、隠棲
富田林市甘南備の豪族の家に生を受けた久子は、元享3年(1323)20歳のとき、楠木正成に嫁ぐ。
正行・正時・正儀・正秀・正平・朝成注①の6子をもうけた。
夫、正成を湊川の戦で、また子、正行・正時を四條畷の戦いで亡くした後、敗鏡尼と称し、なき正成、正行ら一族郎党の菩提を弔わんがため、生まれ故郷の甘南備に隠棲し、寂蓼(心が満ち足りず物寂しいこと。さみしさが空気のように辺りを虚しく包む感覚)の余生を過ごした。この庵を称して楠妣庵(妣:生前は母、死後は妣という)という。
*久子の方の遺跡
楠妣庵は、楠氏の没落とともに廃滅に近いまで荒廃していたが、大正期に入り、篤志家、岐阜県金山の人、加藤鎮之助注②によって再興されるにいたった。
草庵は、大正6年5月に再建・建立。観音堂は、夫人の念持仏たる十一面観世音を奉祀し、草庵とともに再建・建立された。夫人常用泉は、境内の一隅で、今も清泉がわき出て、参詣者の喉を潤している。
注① この記述は、「宗教法人楠妣庵観音寺」と題する、同寺発行の「大楠公夫人遺
跡 楠妣庵」の項の説明文本文に記載されている。
正行、正時、正儀は正成の子として、定説化している。
しかし、正秀、正平は正成の子どもではなく、正儀の子ども、正成の孫との説
が有力となっている。また、朝成については、楠妣庵の記載以外に、その名前
は出てこない。(扇谷注)
注② 加藤鎮之助 明治2年(1869年)~昭和12年(1927年)
下原(岐阜県下呂市)生まれ。号は桂山。加藤武精(名:四郎兵衛、加藤素毛の
弟)の長男。岐阜中卒。東京に出て農本(「農」は国の本とする考え方。農
業を中心とした社会の構築=農村振興)の奨励に意を注ぎ、除虫液で害虫駆除に尽
力し、雑誌「大農園」を発刊。 大正2年養老(濃尾平野にある養老の滝 水=酒伝
説)に孝子(孝行息子)源丞内(げんじょうない)の公聴碑を、また
大正5年に孝子門原左近(かどはらさこん 下呂市の屏風岩 孝子池伝説)の碑
を建立し、忠誠孝悌(忠:権力者に忠誠を尽くす 孝:親に従う 悌
:兄に従う これら従属者の徳目)の顕彰に心を注ぐ。
大正4年1月、大阪府富田林市にある楠公夫人の楠家香華寺(こうげじ=菩提寺)
の再建を発願し、約30年をかけて楠妣庵観音寺を建立した。享年69歳。墓は楠
妣庵観音寺にある。― ブログ「南飛騨からこんにちは」より転載
◆楠家一族の菩提寺 観音寺
*藤原藤房卿の遺跡
後醍醐天皇崩御後、正行は、同天皇の念持仏であった千手観音を安置し、観音殿と称した。敗鏡尼入寂後、正儀は観音殿を改め観音寺とし、楠氏一族の菩提寺として不二房(藤原藤房注③卿)を住まわせた。
楠妣庵とともに久しく廃滅していたが、大正11年、楠妣庵の再興に続いて本堂が完成、昭和3年書院も落成した。
*楠母子の像
昭和10年、大楠公600年祭に竣工。久子の方が正行を持仏堂で訓戒の銅像注⑤。
*山門
山梨県恵林寺注④の塔頭、青松軒に建っていた門を、昭和39年、楠公夫人600年祭に移築したもの。
栗材による四脚門である。
注③ 藤原藤房(万里小路藤房)
後醍醐天皇の側近として、倒幕運動に参画し、建武の新政では要職を担う。し
かし、建武政権に失望して、出家する。安東省菴によって、平重盛、楠木正
成とともに日本三忠臣(三忠傳)に数えられる。
元弘の変では、笠置に逃れた後醍醐天皇に従い、正成召し出しの勅使を務めた
とされる。建武政権下では、出雲の塩谷高貞から駿馬が献上された際、
洞院公賢は吉兆としたのに対し、凶兆と論じた。
また、為政者が諫言を聞き入れない、恩賞が不平等、内裏造営のための税の
徴収に反対、赤松円心に恩賞が少ないなど、政権に諫言を呈するも天皇に
聞き入れられないまま、岩倉で出家したとされる。
その後、各地に伝承が残る。
注④ 恵林寺
夢窓国師開祖の、臨済宗妙心寺派の寺。
武田信玄の菩提寺。武田家滅亡後、天正10年(1582)信長の焼打ちにあうが、
快川国師(かいせんこくし)は、「心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」と
言葉を残し、100人以上とも云われる僧等と火に包まれた。
信長没後、家康の手で復興され、綱吉時代に柳沢吉保の庇護で寺運は
発展した。吉保は菩提寺として、霊廟も設けた。
四脚門(赤門:国の重要文化財)、武田信玄公墓所、柳沢吉保公墓所・霊廟等
がある。
注⑤ 楠母子像
楠母子像は、四條畷神社境内にも立つ。楠妣庵観音寺のレプリカ。
また、六甲アイランド高校の敷地内にも立つ。ここの母子像は、大楠公夫人を
讃え、昭和11年(1936)神戸市立第一高等女学校に建てられたものが、合
併、校名変更等を繰り返し、この学校に引き継がれたもの。
特に、昭和23年(1948)、戦後にも拘らず、大倉山女学院を吸収合併し、校名
を神戸市立湊川高校と改称した際の校章は「菊水」を使用。昭和44年(1969)
神戸市立赤塚山高等学校に改称。
楠妣庵観音寺の母子像(昭和10年)と同じもの。
◆岐阜県山県市伊自良長滝に残る久子の墓とその伝承
*甘南美寺
山県市長滝27-11
臨済宗妙心寺派・本尊は先手観世音菩薩像
*甘南備神社
甘南美寺の奥の院が甘南備神社と書かれている。
久子は、晩年、日本中の神奈備(神の棲むところの意)という地を旅し、この伊自良の地が気に入り、甘南備神社(甘南美寺の奥の院)に籠って地域の人々の尊信を得て、各所に自身の郷里の地名(平井、長滝、掛、松尾等)を与えた、との伝承が残る。
主神:美努王(みののおおかみ)
美努王は、葛城王(橘諸兄)の父。橘諸兄は、楠氏の家祖とされる。
この神社が、楠氏の先祖を祀った神社であれば、久子が入ったことも説明がつくのでは、といわれている。
なお、久子が入寂後、その生地が故、「甘南備神社」と命名されたのではないか、といわれる。
*八王子宮
長滝地区の一番奥、伊自良湖に登る道の麓(七社神社の横)に、「八王子宮」と書かれた久子の墓と伝わる碑が残る。
この八王子宮とは、神仏習合下の両部神道に由来するもので、千手観音(久子の念持仏)を祀る、との意もある。また、この墓碑の横には、稲荷大明神の石碑も建つ。
*湊川神社の摂社、甘南備神社も
湊川神社の摂社にも甘南備神社があり、久子の方の命日である7月17日に由来し、月例祭は17日に行われる。
伊自良の甘南備神社も同様、17日に月例祭がおこなわれている、とのこと。
また、湊川神社の境内にも、末社の楠本稲荷神社があり、この楠本稲荷神社は湊川神社創建前から鎮座していたことが、湊川神社ホームページに記されている。
~ 岐阜の人、加藤鎮之助が楠妣庵観音寺再興のため甘南備に入ったのは、郷里の近くに伊自良の久子の墓があったこととのつながり故か。
鉄道唱歌《関西編》は南朝ゆかりの地めぐり
楠妣庵観音寺を後に帰途に就いた一行は、引き続き、扇谷が準備したカセットテープを聞くことに。ここで流した曲は、鉄道唱歌の関西編。長い歌だが、よく聞いてみると、四條畷、笠置、吉野などと南朝ゆかりの地を紹介していることが分かる。
バスに揺れながら、鉄道唱歌を子守歌代わりに聞いた一行は、すやすや眠りにつく人、また話題が尽きず四條畷に帰るまで話し込んだ人と、それぞれ楽しい一日を過ごしたようだ。
以上