
 第2回のまず向かったのは渡辺橋(現在は、天満橋の八軒家浜船着き場の一角)
第2回のまず向かったのは渡辺橋(現在は、天満橋の八軒家浜船着き場の一角) 衣服を与え、傷を治療し、亰に変える兵に馬まで与えたという逸話の残る場所。
衣服を与え、傷を治療し、亰に変える兵に馬まで与えたという逸話の残る場所。| 小楠公義戦の跡 碑 転載及び文責:扇谷 昭 大阪は今と昔と地勢が全く変わっており、昔はこの大川の幅も広く、橋がただ一つ架かってありました。その位置は判然としてはいませんが、今の天満と天神の二つの橋の中ほどだろうといわれています。これを渡辺橋または大江橋と云いました。 この渡辺橋は楠公父子の戦蹟であります。 大楠公は元弘二年(一三三二)に北條方の兵をここで敗られました。 小楠公は後村上天皇の正平二年(一三四七)瓜生野の戦いに足利の将山名時氏、細川顕氏を敗り、逃げる敵をこの川辺に追い詰められ、敵はわれ先と橋を争い、川に落ちて流される者五百人を越えました。公は部下に命じてこれを救わせ、その上十一月二十六日の寒天に凍え震えておるのを衣食を与え、薬を給して京へ帰されました。 公は翌年正月五日に四條畷で戦死せられましたが、この時の恩に感じて帰順した兵どもも皆討死したのでありました。 公は忠孝の二つながら全うし、しかもかく勇気と仁愛とを備えられた、これこそ日本精神の化身と云うべきであります。 我らは、天や地や山や川は何時までも変わらぬものと思うておりますが、この天地山川も昔のままではなく、当時の橋も岸も皆変わっており、その功を立てた小楠公も再び見ることはできません。 ただ公の敵をも愛しまれたこのゆかしい心のみはいつまでも我が士道の華として我らの心を動かし、さらに欧米の人をも感じさせて、ために我が国が赤十字社に加盟することを容易ならしめたのであります。 今や皇紀二千六百年にあい窮なき幸運を仰ぎ、またこの碑にむかい、公のこの心を想うとき、我らもまた正しく大きい心を修めて、この精華を培うことを勉めようではありませんか。 藤澤 章 誌す | 
 次に向かった場所は、四天王寺。
次に向かった場所は、四天王寺。 四天王寺縁起は、四天王寺創建の由来や創建時の建築や寺域を示した四天王寺の縁起資材帳である。
四天王寺縁起は、四天王寺創建の由来や創建時の建築や寺域を示した四天王寺の縁起資材帳である。 四天王寺で昼食をとり、一行は、最後の訪問地の住吉大社を訪れた。
四天王寺で昼食をとり、一行は、最後の訪問地の住吉大社を訪れた。 、どこへ行くのだろうか』とひそひそ話をしながら、歩くこと、約10分で正印殿趾の碑が立つ前に到着した。
、どこへ行くのだろうか』とひそひそ話をしながら、歩くこと、約10分で正印殿趾の碑が立つ前に到着した。 住吉大社である。
住吉大社である。 そんな地に位置する住吉大社が、正平7年、最初の後村上帝の行幸を迎えた神主が津守国夏である。
 そんな地に位置する住吉大社が、正平7年、最初の後村上帝の行幸を迎えた神主が津守国夏である。 南面して立ち、南方一帯の庭園には、紀伊和歌の浦より運んだ大小の石をもって築き、泉石の布置はすこぶる典雅であったといわれる。
南面して立ち、南方一帯の庭園には、紀伊和歌の浦より運んだ大小の石をもって築き、泉石の布置はすこぶる典雅であったといわれる。