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四條畷市立教育文化センター
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〒575-0021 大阪府四條畷市南野5丁目2-16

 



(全5回)
第5回 天龍寺、東寺
10月12日(木)
足利尊氏が後醍醐帝供養のため建立した天龍寺の庭、雲竜図
後醍醐天皇ゆかりの見返りの松に感激!


 
 2017バスで訪ねる正行ゆかりの世界、第三弾!」も、いよいよ最終回を迎えました。
 この日は、キャンセル待ちの方も含めて24名の参加となり、運転手、市職員、教文職員、そして私と、総勢28名、空席一つでの出発となりました。
 このバスツアーは5月の葛井寺、楠妣庵観音寺から始まりましたが、シリーズ5回連続参加は13人という事になりました。キャンセル待ちで、4回参加された方も2名おられました。
 最終回のこの日も、出発15分前には全員がそろい、出発となりました。
 出発後、恒例となりました私の車内講義となりましたが、今回は、向かう先の見どころを簡単に紹介した後、最終回という事もあり、バスツアーを総括する意味も含めて、「四條畷の合戦における楠正行の戦略」と題して、合戦前夜から合戦に至る経過、正行の描いた戦略についてお話しました。
 話の概要は以下の通りです。

           四條畷の合戦における楠正行の戦略
○はじめに
 延元元年1336、桜井の駅で父、正成と別れ河内東条に帰った正行は、父の遺訓をただ一筋に守り、楠一族を束ね、智謀、軍事力を磨き、正統な南朝吉野の宮の復権に持てる力すべてを注ぎ、励んだ。
 そして、興国4134312月になると奥州から逃げ帰った北畠親房は吉野に入り、公家トップに君臨し、足利尊氏打倒の執念を燃やした。

○四條畷の合戦の構図

 正行の和睦論と北畠親房の主戦論の確執
 この二人に戦略の違い
  南朝の宮復権の正行
   武家による新しい政治の時代認識で一致していた正行と尊氏
  武家政治=尊氏打倒の親房
   背景に公家優越・武家蔑視論

○正行の12年間
 第1期戦乱の時代
  湊川の戦(延元元年6月)~後醍醐帝崩御(延元4年8月)の約3年間
  足利軍との攻防に明け暮れるも、史料に、正行の名前は登場せず!
 正行、河内・和泉 平和の時代
  後村上帝即位(延元4年8月)~正平元年の約8年間
  正行、官途に付き吉野の宮を守りながら、勢力伸張一筋の時代
 第2期戦乱の時代
  隅田城攻め(正平2年8月)~四條畷の合戦(正平3年1月)の半年
  和睦への願い空しく、戦いを決意

○正行、和睦論の推計資料
 ・辞世の文章
   ~ 観心寺で学んだ仏教の教え、特に四恩の教えと人生観
 ・宝筐院に並び立つ二つの墓
   ~ 敵からも畏敬を受けた正行の生きざま
 ・渡辺橋の美談
   ~ 戦いやむなし。しかし、敵兵を救う思いの持ち主 平和主義者
     領土拡大・軍忠目的の戦いではなく、天下国家のための戦いが故
 ・残る国宣と書状
   ~ 一途に政治を担った姿残る、また御仏を大切にする姿も
     戦い前夜の緊迫した状況下、正平2年12月15日に国宣

○四條畷の戦い前夜
 正行~南朝復権のためには、足利尊氏との和睦も視野に勢力伸張を図る
 そして、尊氏による楠討伐の為の南進令を受け、先に動いた正行
 正平2年8月、隅田攻め、池尻攻め、9月、八尾城攻撃、藤井寺の戦い、
 そして11月、住吉天王寺の戦いに打ち勝ち
 尊氏に対し、正行=南朝の力を誇示し、和睦への過程・環境を作るも
 親房の主戦論の前に、南朝=吉野の宮、和睦に動かず
 一方、
 正行を義詮の後見役にとの思いもあったが
 直義・師直の主戦論に押し切られる形で、両面作戦の尊氏、正行との決戦に動く
 和睦論の破たんを悟った正行
 討死覚悟の四條畷の戦いを前に、吉野へ詣でる

 ◆辞世の歌 ~ 過去帳に143名の名を記し、討死覚悟
   「かゑらじとかねておもヘハ梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」

 辞世の文章 ~ 私は先に逝くが、みんなが来るのを待っているよ。同じ志をも
          って生きた 仲間のお前たちと、あの世でも一緒に住もうぞ。
 「各留半座乗花臺 待我閻浮同行人
  さきだたばおくるゝ人を待ちやせん ひとつ蓮のうちを残して
  願以此功徳平等施一切 同發菩堤心往生安楽国


○四條畷の戦い
 ◆往生院に本陣 ~ 黙庵禅師
   正行軍 3000人の内
   前衛 正行、正時を中心に600人
   後衛 大塚惟正を大将に、賢秀ら400人 結果、参陣した兵は1000人!
   東条留守部隊
    正儀、橋本正茂ら1500人  ~ 父、正成同様 正行死後の勢力を温存!
    槇尾山本営 300人
    吉野護衛  200人
 ◆枚岡神社で戦勝祈願
   ~ 今も残る「首洗いの井戸」
 ◆野崎で最初の衝突
   巳の刻 午前10時開戦
   縣下野の守率いる白旗隊 3200人 飯盛山を馳せ下る
   縣下野の守、身に傷を受け、敗走
 ◆北条(十念寺・北条神社付近)で第2期衝突(古戦田)
   武田伊豆の守信武 1000騎と大激戦の末、敵兵700騎を全滅
   小旗一揆衆、長崎彦九郎ら屈強の48騎、駆け下り、前面を遮断
   飯盛山中より佐々木道誉3000騎、正行軍を分断
    ~ 後衛の大塚惟正隊、敗れる
 ◆南野で第3期衝突
   第一陣 細川清氏、仁木頼章、千葉貞胤ら5700騎
       三度の交戦で、退却させる
    正行隊 ~ 田の畔で、背中を押しあて、兵糧食を摂る
   第二陣 細川頼春、今川範国、佐々木氏頼ら7100騎
       全面衝突回避 各隊、5~60騎失い、潰走
   第三陣 南宗継、松田盛綱、萩野朝忠ら6100騎
       正行軍槍隊、和田賢秀の薙刀に、破れ崩れ、散り尻になって退散
    正行、愛馬「初霜」、足と胴に矢を受け、下馬
 ◆中野で第4期衝突(古戦田)
   四條畷保健所東一帯
   正行、師直本陣5300騎に、その距離半町まで迫る
   ~ 上山六郎座衛門高元の偽首騒動!
 ◆雁屋で第5期の衝突(古戦田)
   小楠公墓所東一帯
   九州の住人、須々木四郎の強弓に射たてられる
    正行、左右の膝頭3カ所、右の頬、左の目尻を射られる
    正時、眉間と喉の脇を射られる
 ◆津の辺で討死(ハラキリ)
   JR四条畷駅、南の信号機北側付近
   「敵の手にかかるな」と、正行、正時、刺し違えて討死 自余の兵32人も自決
 ◆エピローグ
   薙刀を杖代わりに、賢秀、師直本陣に潜入
   幕府方に投降した湯浅本宮太郎左衛門に見破られ、賢秀、湯浅を睨みつけながら
   落命
   大塚惟正、いったん落ち延びるが、正行討死の報を受け、取って返し、討死

○正行の墓

 四條畷市小楠公墓
 東大阪市往生院、東大阪市山手町、宇治市正行寺、京都市嵯峨野宝筐院
 そして遠く鹿児島県の甑島にも(正行の落人伝説の地)


<参考>
 朱舜水作の楠正行像賛
 朱舜水の正成像賛と正行像賛
  加賀藩主前田綱紀公が狩野探幽に書かせた『楠公父子別れ図』
  明から長崎に亡命・投下し、安東省菴のもとに居た朱舜水に賛文依頼
  朱舜水、10年の歳月をかけて賛文完成
  徳川光圀が建立した湊川「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑陰に刻まれたことで有名に
  そして、
  朱舜水は、正行にも像賛1首を残していた
   明治45年刊の「稲葉君山編」 通称『稲葉本』
   貞享元年1684年刊の「三忠傳」
   正徳51715年刊の「舜水先生文集巻17」 通称『水戸本』
   平成27年3月16日、扇谷、国立国会図書館関西館で発見

【朱舜水作・楠正行像賛】

禮曰君父之仇不興共戴天齊襄復九世之讐春秋大之設㠯小報大弱復彊益又難矣豫譲不能得志於襄子申胥所㠯藉手於闔閭公乃能建義旗攻鳴鼓巻甲倍道潜師入都使所報者身踰垣而逃弟穴地而竄陥刄於其妻亦足㠯落姦雄之膽矣斯無媿於枕戈之志可㠯下報其父臨歿數言是父是子雖青年賷志芳名至今詩曰人生自古誰無死留取丹心照汗青其然其然

(釈文)
 礼に曰く、君父の仇、共に天を戴くにあずからずと。斎の嚢、九世の讐を復す。春秋これを大とす。もし小をもって大に報い、弱にして彊に報いるは、ますます又難し。豫譲の志を襄子に得る能わず、申胥の闔閭において藉手するゆえんなり。
 公はすなわち能く義の旗を建て、鳴鼓をおさめる。甲を巻いて道を倍にし、師を潜めて都に入る。報ゆる所の者は、身垣をこえて逃げ、弟は地に穴してもぐり逃れ、刃をして其の妻におちせしめる。亦もって姦雄のきもを落すに足るなり。
 これ枕戈の志にはづる無く、以下其の父の臨歿の数言に報ゆる可く、是の父にして、是の子なり。青年志をするといえども、芳名は今に至る。詩に曰く、人生古より誰か死無からん。丹心を留取して、汗青を照らす。其れ然り其れ然り。
(略解文)
 礼記に曰く、王や父の仇とは同じ天のもとに命ながらえず、と。 かつて、斉の襄公は紀の国を滅ぼし、九世前の復讐を成し遂げた偉大な人物と、孔子はその歴史書、春秋の中でこれを褒めたたえた。しかし、小国が大国に仕返しをするのはもちろん、勢力の弱いものが強いものに仕返しをすることは極めて難しい。戦国時代の晋の豫譲は、主君の仇を討とうと体に漆を塗ってすさまじい姿になり、炭を呑んでおしとなって子を刺そうと諮ったが捕えられの身となり自殺した。だから、春秋時代の楚の申包胥は、呉の王闔閭の侵攻に対して秦の助けを得て破ったのである。
 正行公は義を貫き、仇を討つという旗を高々と掲げ、尊氏の罪を挙げて責めたてた。鎧をしまい、昼夜いそぎ二日路を一日で走り、兵をひそかに移動させ都に入った。しかし、尊氏は自ら垣根を乗り越えて逃げ、足利直義は地に穴を掘ってもぐり逃れ、尊氏の妻は自刃に及んだ。悪知恵にたけた尊氏らの肝を冷やしたことは間違いない。
 正行公は矛を枕にして安眠せず常に武器を身から離さず、片時も国の事や父母の仇を忘れず、強い義の志を持ち続けて生き、正成公が桜井の駅で遺訓として残した忠孝両全の言に報いる生き方をした。偉大な正成公あって、偉大な正行公が生まれたのである。
 正行公は、四條畷の合戦で討死をすることで、死後も帝そして父の仇を取るという志、義を示した。 その名声は、今も多くの人が知る。南宋の義士、文天祥が謳った詩にいわく。人間生まれたからにはみんな死にいくものである。どうせ死ぬのなら、至誠忠義の心をしっかりと世に残し、長く歴史に輝かしたいものだ、と。元に最後まで屈しなかった文天祥。南朝復権という至誠忠義を貫いた正行。その生きざまはまさに同じである。


        天龍寺、二つの雲竜図、圧巻!
 私の話が終わるころには嵯峨野・渡月橋まで約5分という場所にバスは向かっており、一路保津川沿いに天竜寺へと。
 天龍寺境内の駐車場に着いた一行は、早速、拝観へ。
 天龍寺での拝観は、約1時間30分をあて、自由散策としました。

 最初に入る大方丈の襖絵に飾られる蘇我蕭白筆の「雲龍図」は、アメリカ合衆国のボストン美術館所蔵の原図をデジタルカメラで撮影した高精細の複製品で、高さ165センチ、幅10メートルという大作に圧倒されます。
 そして、その大方丈の廊下から眺める曹源池は、嵐山を背景に取り込み、自然と調和した圧巻の風景。多くの人が、この廊下に座り込み、私もじっくりと眺めました。
 大方丈・層源池を堪能した後は、法堂に移り、天上に描かれた加山又造画伯による「雲龍図」を鑑賞。
 この雲龍図は、天上中央の直径9メートルの円相の中に、躍動する龍が描かれており、厚さ3センチの杉板159枚を張り合わせ、全画に漆を塗り、更に白土を塗った上に直接墨色で「八方睨み」の龍として描かれています。
 八方睨みとは、どこから見ても見る人の方をにらんでいることを云い、この描かれた龍の顔全体を見ながら円に沿って堂内を歩いて回ると、ずっと龍に睨まれているように見えます。(写真:二つの雲竜図は天竜寺案内パンフレットより転載)


渡月橋近辺河原で、正行弁当
 天龍寺の拝観を終えた一行は、各自まさつら弁当を受け取り、保津川の渡月橋近辺に移動し、河原周辺に適当な場所を選んで昼食をとりました。
 「扇谷さん。素晴らしい庭や絵を楽しんだ後、この自然の中で昼食を取るのも、本当にのんびりとして、良いものですね。」と、喜んでいただいたようです。
 これも天候に恵まれた故のことで、実は、雨だったらどうしようかと悩んでいたところ、今年のバスツアーも全て好天候に恵まれました。この日も、雨が心配されましたが、バス車中では雨が降るのですが、不思議とバスを降りる頃には傘が不要という状態で、『これも、参加者の日ごろの精進か』と、自画自賛。
 昼食を終えた一行は、当初行く予定だった等持院が現在修復中で、お目当ての足利歴代将軍の木像が九州の博物館に貸し出し中とのことで割愛し、一路、東寺に向かいました。
 バス車中では、このツアーも3年続けてきて、今年も5回目の最後ということで、私から、この3年間に訪れたゆかりの地を回顧しながらのお話をさせていただきました。
 この3年間に訪れた場所は以下の通りです。


楠正行ゆかりの地を訪ねるバスツアーで訪れた小楠公関連史跡








建水分神社       千早赤阪村       大鳥居扁額の裏書        
2 楠公誕生地 千早赤阪村  
3 千早赤阪村郷土資料館  千早赤阪村
4 観心寺 河内長野市 訶梨帝母天堂・中院
後村上天皇陵 河内長野市  
6 如意輪寺 吉野町 本堂辞世の扉・小楠公髻塚・弁の内侍詩情塚 
7 後醍醐天皇塔尾陵 吉野町 北面
8 吉水神社 吉野町 楠氏系図
9 吉野朝宮跡 吉野町 南朝妙宝殿
10 蔵王堂金峯山寺 吉野町 大塔の宮戦陣跡
11 賀名生旧皇居 五條市 吉村虎太郎扁額・南朝4代行在所
12 賀名生の里歴史民俗資料館   五條市
13 北畠親房墓 五條市
14 隅田城址 橋本市 正平2年、正行最初の戦い
15 隅田八幡神社 橋本市
16 小楠公墓所 四條畷市 樹齢600年のクスノキ
17 和田賢秀墓 四條畷市 歯噛みさん
18 四條畷神社 四條畷市 明治23年創建・昭和7年甲可村改め四條畷村   
19 御妣神社 四條畷市 大正14年創建
20 渡辺橋・小楠公義戦之跡碑  大阪市 天王寺の合戦渡辺橋の美談
21 櫻井駅跡 島本町 桜井の訣別
22 島本町歴史文化資料館 島本町
23 宝筐院 京都市 正行首塚と足利義詮墓
24 正行寺 宇治市 正行と正時の墓







25 湊川神社 神戸市 嗚呼忠臣楠子之墓・正成自刃の地
26 笠置寺 笠置町 磨崖仏(弥勒菩薩)・後醍醐天皇行在所跡
27 金剛寺 河内長野市 楠木正成自筆書状・南北両朝同座
28 千早城址 千早赤阪村 680段の階段・楠正儀の墓
29 千早神社 千早赤阪村
30 寄せ手塚・見方塚 千早赤阪村 建武新政後、正成建立 森屋惣墓
31 如意輪寺 吉野町








32 葛井寺 藤井寺市 旗掛けの松
33 楠妣庵観音寺 富田林市 楠公母子像・久子の方草庵
34 渡辺橋・小楠公義戦之跡碑 大阪市
35 四天王寺 大阪市 四天王寺縁起後醍醐天皇真筆本
36 住吉大社 大阪市
37 住吉正印殿跡 大阪市 後村上天皇行在所跡
38 朝護孫子寺 平群町 菊水の旌旗・南朝年号(正平8年)石室仏
39 光雲禅寺 高取町 越智氏累代の墓
40 下鴨神社 京都市 建武2年京都市街戦・みたらし池
41 大楠公戦陣跡碑 京都市 一条寺下がり松
42 延暦寺 大津市 西塔釈迦堂・東塔護良親王御遺跡碑
43 天龍寺 京都市 足利尊氏創建
44 東寺 京都市 見返りの松

     多数の国宝の仏像による立体曼荼羅に、一同大感激
 そして、いよいよ最後の訪問地、東寺に到着です。(写真:立体曼荼羅は東寺案内パンフレットより転載)
 東寺は、何よりも、後醍醐天皇ゆかりの「見返りの松」を見ることが第一の目的でした。
 後醍醐天皇は、元弘3年(1333)の6月、隠岐を脱出した後船上山から京都還幸を目指して兵庫に入り、ここからは正成先導のもと京の都を目指します。そして、都に入った後醍醐天皇は東寺に一泊します。
 この時、後醍醐天皇は御影堂の小子坊という建物に泊まったようですが、この地にあった松の木について質問をするのです。
 東寺の長者、頼意は、この質問に答え、「うえをきし 昔やかねて 契りけむ けふの御幸を 松風の声」、必ずや天皇の京都還幸があるものと思って植えておいた松の木が、大変喜んでいますと、後醍醐天皇の帰京を喜ぶ歌を詠んだと伝わる「見返りの松」が、今も残っているのです。
 この見返りの松は、現在、御影堂のそばにありますが、その東側の一角には、平成天皇お手植えの松、五葉の松も植わっています。
 この見返りの松は、江戸時代の「都名所風俗図会」にも、ほぼ同じ場所に描かれているとのことですが、この幹を見る限り、代替わりをしているものと思いました。周辺には、見返りの松を表す案内がありませんので、訪れた人も、この松を探すのは至難の業です。宝物殿の関係者やこの日案内していただいた東寺案内係の方も、この見返りの松のことはご存じありませんでした。
 しかし、東寺発行の書物にも、この見返りの松がしっかりと紹介されています。東寺を訪れる多くの人は、講堂や金堂に安置される国宝や重要文化財級の多くの仏像、そして五重塔などに目を向けているようですが、御影堂のそばでひっそりと建つこの見返りの松にスポットが当たることを強く願っています。(写真上:平成天皇お手植えの五葉の松の前で、写真下:後醍醐天皇ゆかりの見返りの松の前で)


      観智院、宮本武蔵の描いた鷲の図に釘づけ
 この日、最後に訪れたのは東寺塔頭の一つ、観智院です。
 観智院では、立派な庭を鑑賞した後、桃山時代書院造の客殿(国宝)の床の間に描かれた鷲の図に見入りました。

 一乗寺下がり松で勝利した宮本武蔵は、吉岡道場の追手を逃れて、この観智院に入ったといわれています。そして、客殿には、二羽の鷲が今にも飛び掛からんとする様を描いた「鷲の図」、竹が恰も交差する二刀流のように張りつめた緊張感で描かれた襖画「竹林の図」がそれぞれあり、参加者は、先月訪れた一乗寺下がり松の余韻さめやらない様子で、観智院スタッフの説明に食い入るように聞き入り、眺めていました。
 また、観智院には、一味趣の変わった仏像が安置されています。
 五大虚空蔵菩薩像で、唐の都の長安の青龍寺金堂の本尊であったものを、847年、入唐した僧、慶運が請来したものです。仏様の顔立ちに特色があり、日本で見る仏像とは、大きくかけ離れた顔立ちをしており、5つの知恵を表したものとか。
 天龍寺、東寺と堪能した一行は、帰途バス乗車前に、誰ともなく、東寺境内で販売されていたソフトクリームをほおばる姿が、一人、二人と、ついには約半数の方が買い求めたようです。(写真:東寺五重塔を背景に全員で記念写真)
 何をかくそう、この私が先陣を切って買い求めたのです・・・。

 帰途のバス車中は、東寺を出て間もなく高速に乗ると、ほぼ全員がすやすやと眠りにつき、40分足らずで四條畷市役所に、無事戻りました。
 ご参加の皆様、全5回のバスツアー、大変お疲れ様でした。
                           (2017.10.16 扇谷記)


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