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             市民教養大学
          
  (全5回)


第3回 市民教養大学「楠正行研究」


 「埋もれていた正行像賛 発見の感動物語!!」

日時:平成28年1月12日 午後1時30分〜3時
場所:四條畷市立教育文化センター2階ホール
講師:扇谷昭
   (元・四條畷市産業振興アドバイザー 現・四條畷楠正行の会代表)

〈講義の前に〉
新たに、箕面市からの受講者も
 3回は、年始早々の開催となりましたので、欠席者が多いのではないかと思っていましたが、開会30分前には数人の方がお見えになり、定刻にはほぼ会場が埋まる状況での開講となりました。
 また、この日から、新たに箕面市からのご参加の方もあり、うれしい限りでした。

〈講義の概要〉
父、正成の賛文がるのであれば、子、正行の賛文もあるのでは・・・
 
3回は、扇谷の正行賛文との出会いについて語りました。
 神戸湊川の「嗚呼忠臣楠子之墓」碑陰に刻まれる朱舜水作の楠正成像賛文は、徳川光圀の南朝事績、更には明治維新を切り拓いた幕末の志士たちがこぞって参ったことから、多くの人に知られています。
 しかし、その発端となった、加賀藩・前田綱紀公が狩野探幽に書かせた「楠公父子別れの図」に同賛文が載ることを知っている人は数少なく、まして、正行の賛文が残されていることは、今まで一部研究者のみが知るところでした。
 扇谷は、楠公父子別れの図に載せる賛文であれば、父、正成のみならず、子、正行にも残されているのではないかと、探し始めました。

木下英明氏の論文に、正行像賛があるとの記述 
 ネットで発見した論文が、次の二つです。
 一つは、台湾大学教授・京都大学人文研外国人研究員の徐興慶が記した「東アジアの視野から見た朱舜水研究」です。
 この論文の冒頭には、日本における朱舜水関係資料整理の経過が載っていました。
 貞享元年1684、五十川剛伯編輯「明朱徴君集」10巻、いわゆる「加賀本」と云われるもので、未完に終わっています。
 正徳51715、徳川綱條編輯「舜水先生文集」、徳川光圀が編輯した朱舜水の書簡が中心の、いわゆる「水戸本」と呼ばれるものです。
 明治451912、稲葉君山編「朱舜水全集」、加賀本と水戸本を合巻した内容で、後藤新平の序文が載り、いわゆる「稲葉本」と呼ばれるものです。
 この論文のおかげで、朱舜水が残したであろう正行の賛文を探す手立てが手に入りました。
 そして、今一つが元・茨城県立歴史館主席研究員の木下英明氏が講演された記録をまとめた「朱舜水の楠正成像賛三首について」です。
 この論文は、正成像賛三首の出典とその三首の略解が詳細に掲載されています。
 そして、“舜水先生文集には、楠正成像賛三首と、正行についての「楠正行像賛」も載る”とあったのです。

木下英明氏の指導を得て朱舜水作正行賛文148文字の略解を完成
 朱舜水が正行賛文を残したことを知った扇谷は、朱舜水の全集・文集を探し、「稲葉本」「水戸本」そして九州・柳川の儒者、安東省菴が記した「三忠傳」を入手(すべて原典の複写あるいは影印本)し、そこに載る正行賛文を目の当たりにした喜びと感動を、受講者一人一人に語りました。
 。
 また、148文字からなる漢文の読解にあたっては、大変苦労し、茨城県立歴史館を通じ、木下英明氏と連絡が取れたときの喜び、更に、その木下英明氏に懇切・丁寧な「釈文」「注記」のご教示・ご提供を受け、扇谷の正行賛文の略解が完成した時の喜び等を語りました。
 いよいよ、次回以降、この正成の賛文と正行の賛文の読解に進みます。
 なお、扇谷の略解はすでにこのホームページに公開済みですので、「楠正行通信12号」をご覧ください。


↓第3回講義の様子

開会の辞
         ↑司会の上山から開会の辞

ほぼ全員が参加して講義開始
         ↑第3回もほぼ満員の盛況

新たに箕面市からの参加者も
  ↑新たに箕面市からの参加も得て、熱心に聞き入る受講生


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