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             市民教養大学
          
  (全5回)


第5回 市民教養大学「楠正行研究」


 「埋もれていた正行像賛 発見の感動物語!!」

日時:平成28年3月8日 午後1時30分~3時00分
場所:四條畷市立教育文化センター2階ホール
講師:扇谷昭
   (元・四條畷市産業振興アドバイザー 現・四條畷楠正行の会代表)

〈講義の概要〉
朱舜水の楠正行賛文148文字を読み解く
 本講座も、いよいよ最終回を迎えました。
 その存在すら、ほとんど知られていない、朱舜水の残した楠正行賛文を読み解きました。

楠正行賛文の原典確認 
 まず、扇谷が原典で確認した3つの原典の漢文比較です。
 明治45年刊の「朱舜水全集」稲葉君山編・貞享元年刊の「三忠傳巻之下」安東省菴・正徳5年刊の「舜水先生文集」徳川光圀輯の漢文は以下の通りです。
 赤文字は、3つの原典に異動のある文字です。大意に影響はないと思います。
●朱舜水全集 稲葉君山編 東京文會堂書店
明治四十五年四月十七日発行
禮曰君父之仇不興共戴天齊襄復九世之讐春秋大之設㠯小報大弱復益又難矣豫譲不能得志於襄子申胥所㠯藉手於闔閭公乃能建義旗攻鳴鼓巻甲倍道潜師入都使所報者身踰垣而逃弟穴地而竄陥刄於其妻亦足㠯落姦雄之膽矣斯無媿於枕戈之志可㠯下報其父臨歿數言是父是子雖年賷志芳名至今詩曰人生自古誰無死取丹心其然其然
●柳川文化資料集成第二集 安東省菴集影印編Ⅰ 三忠傳巻之下
貞享元年(一六八四)
禮曰君父之仇不興共戴天齊襄復九世之讐春秋大之設㠯小報大弱復益又難矣豫譲不能得志於襄子申胥所㠯藉手於闔閭公乃能建義旗攻鳴鼓巻甲倍道潜師入都使所報者身踰垣而逃弟穴地而竄陥刄於其妻亦足㠯落姦雄之膽矣斯無媿於枕戈之志可㠯下報其父臨歿數言是父是子雖年賷志芳名至今詩曰人生自古誰無死取丹心其然其然
●舜水先生文集 京兆書舗柳枝軒

正徳五年(一七一五)
禮曰君父之仇不興共戴天齊襄復九世之讐春秋大之設㠯小報大弱復益又難矣豫譲不能得志於襄子申胥所㠯藉手於闔閭公乃能建義旗攻鳴鼓巻甲倍道潜師入都使所報者身踰垣而逃弟穴地而竄陥刄於其妻亦足㠯落姦雄之膽矣斯無媿於枕戈之志可㠯下報其父臨歿數言是父是子雖年賷志芳名至今詩曰人生自古誰無死取丹心其然其然

朱舜水作楠正行賛文を読み解く

 以下に、扇谷が講座で受講生に配布しました資料を掲載します。

 ◆朱舜水全集 稲葉君山編 東京文會堂書店
  明治四十五年四月十七日発行
  朱舜水先生文集巻之十七
   門人 権中納言従三位西山源光圀 輯
      男權中納言従三位  綱條 校
 (平成二七年三月一六日 国立国会図書館関西館にて原本より複写)
 ◆釈文 木下英明氏(茨城県立歴史館・元主席研究員)
 ◆注記 上同
 ◆略解 扇谷昭

 禮曰。君父之仇。不興共戴一レ天。
(木下釈文)
礼に曰く、君父の仇、共に天をいただくにあづからずと。

(木下注記)
礼は礼記
(扇谷略解)
礼記に曰く、王や父の仇とは同じ天のもとに命ながらえず、と。

 齊襄復九世之讐。春秋大之。
(木下釈文)
齊の(のう)、九世の讐を復す。春秋これを大とす。
(木下注記)
齊は周代の諸侯の一つ。
襄は齊の襄公。
九世の讐を復すは、九代以前の仇を討つ。
春秋は孔子の著わした魯国の歴史書。
(扇谷略解)
かつて、斉の襄公は紀の国を滅ぼし、九世前の復讐を成し遂げた偉大な人物と、孔子はその歴史書、春秋の中でこれを褒めたたえた。

 設㠯小報大。弱復彊。益又難矣。
(木下釈文)
もし小をもって大に報い、弱にして(きょう)にむくいるは、ますます又難し。
(扇谷略解)
しかし、小国が大国に仕返しをするのはもちろん、勢力の弱いものが強いものに仕返しをすることは極めて難しい。
(扇谷注記)
㠯=イ 以の本字

 豫譲不志於襄子
(木下釈文)
()(じょう)の志を襄子(じょうし)に得る能わず、
(木下注記)
豫譲は戦国時代の晋の人で、主君の知(智)伯が趙の襄子に滅ぼされてしまう。
豫譲は体に漆を塗って(れい)となり、炭を呑んで啞となって襄子を刺さんと謀るも襄子の為めに獲られて自殺する。

(扇谷略解)
戦国時代の晋の豫譲は、主君の仇を討とうと体に漆を塗ってすさまじい姿になり、炭を呑んでおしとなって囊子を刺そうと諮ったが捕えられの身となり自殺した。

 申胥所㠯藉手於闔閭
(木下釈文)
申胥(しんしょ)闔閭(こうりょ)において藉手(しゃしゅ)するゆえんなり。
(木下注記)
申胥は申包胥で、春秋時代の楚の人。呉の王の闔閭(盧)の侵攻に対して、申胥は秦の助けを得て破った。
(扇谷略解)
だから、春秋時代の楚の申包胥は、呉の王闔閭の侵攻に対して秦の助けを得て破ったのである。
(扇谷注記)
藉=シャ セキ 敷く、借りる、貸す 口実にする「藉口」 いたわる 乱れる 踏みにじる「狼藉」


 公乃能建義旗。攻鳴鼓。巻甲倍道。潜師入都。
(木下釈文)
公はすなわち能く義旗を建て、()(づみ)をおさめる。甲を巻いて道を倍にし、師を潜めて都に入る。
(木下注記)
鳴鼓はつづみを打ちならすこと。転じて罪をならして責めたてる。
巻甲はよろいをしまう。
倍道は昼夜いそぐ、二日路を一日で行く。
潜師は兵をひそかに、こっそりと移動させる。

(扇谷略解)
正行公は義を貫き、仇を討つという旗を高々と掲げ、尊氏の罪を挙げて責めたてた。鎧をしまい、昼夜いそぎ二日路を一日で走り、兵をひそかに移動させ都に入った。
(扇谷注記)
義とは
漢文に於いて、義とは、以下の遂行義務をいう
道義:人としてせねばならない行為
忠義:果たさねばならない忠節
信義:守らねばならない信用
節義:持たねばならない節度


 使報者身踰垣而逃。弟穴地而竄。陥刄於其妻
(木下釈文)
報ゆる所の者は、身垣をこえて逃げ、弟は地に穴してもぐり逃れ、刃をして其の妻におちせしめる。
(木下注記)
報ゆる所の者は足利高氏。
弟は足利直義。
竄はもぐり、のがれる。
其の妻は高氏の妻。

(扇谷略解)
しかし、尊氏は自ら垣根を乗り越えて逃げ、足利直義は地に穴を掘ってもぐり逃れ、尊氏の妻は自刃に及んだ。
(扇谷注記)
竄=サン ザン かくれる 逃れる
  鼠が穴に隠れる様から、一般に、隠れるの意味を表す


 亦足㠯落姦雄之膽矣。
(木下釈文)
亦もって(かん)(ゆう)のきもを落すに足るなり。
(木下注記)

(扇谷略解)
悪知恵にたけた尊氏らの肝を冷やしたことは間違いない。
(扇谷注記)
姦雄=カンユウ わる知恵にたけた者
膽=タン 肝 肝臓をひさしのようにして位置する器官、きもの意を表す
胆は膽の俗字


 斯無媿於枕戈之志
(木下釈文)
これ枕戈(ほこをまくらに)の志にはづる無く、
(木下注記)
枕戈の志はほこを枕にすること。心を軍国に存して安眠しない。
(扇谷略解)
正行公は矛を枕にして安眠せず常に武器を身から離さず、片時も国の事や父母の仇を忘れず、強い義の志を持ち続けて生き、
(扇谷注記)
媿=キ 愧と同字 はじる 平常ではないの意味 心中に平常でないものを感じる

 㠯下報其父臨歿數言。是父是子。
(木下釈文)
以下其の父の臨歿(りんぼつ)の数言に報ゆる可く、是の父にして、是の子なり。
(扇谷略解)
正成公が桜井の駅で遺訓として残した忠孝両全の言に報いる生き方をした。
偉大な正成公あって、偉大な正行公が生まれたのである。


靑年賷一レ志。芳名至今。 
(木下釈文)
青年志を(せい)するといえども、芳名は今に至る。
(木下注記)
賷は齎で、齎志は死後まで志をもちつづけること。
(扇谷略解)
正行公は、四條畷の合戦で討死をすることで、死後も帝そして父の仇を取るという志、義を示した。その名声は、今も多くの人が知る。

詩曰。人生自古誰無死。留取丹心汗靑。其然其然。 
(木下釈文)
詩に曰く、人生古より誰か死無からん。丹心を留取して、汗青を照らす。
其れ然り其れ然り。

(木下注記)
詩は詩経。
留取丹心、照汗靑は、忠誠の誉れが書物の上にのこること。

(扇谷略解)
南宋の義士、文天祥が謳った詩にいわく。人間生まれたからにはみんな死にいくものである。どうせ死ぬのなら、至誠忠義の心をしっかりと世に残し、長く歴史に輝かしたいものだ、と。
元に最後まで屈しなかった文天祥。南朝復権という至誠忠義を貫いた正行。
その生きざまはまさに同じである。

(扇谷注記)
汗靑=汗簡 油を抜いた竹の札 紙や帛(きぬ)のなかった時代に、
   竹を火にあぶり、青みを去り油を抜いて、それに漆で字を書いた
   文書、書籍、歴史書などの意


人生自古誰無死。留取丹心汗靑
この句は、南宋の義士、文天祥(一二三六~一二八二)の七言律詩「零丁洋を過ぐ」の一節

 過零丁洋    零丁(れいてい)(よう)()
 辛苦遭逢起一経 辛苦(しんく)遭逢(そうほう)一経(いっけい)より起こる
 干戈落落四周星 干戈(かんか)落落(らくらく)たり四周(ししゅう)(せい)
 山河破砕風漂絮 山河破砕(さんがはさい)して(かぜ)(じょ)(ただよ)わし
 身世浮沈雨打萍 身世浮沈(しんせいふちん)して(あめ)(ひょう)()
 皇恐灘頭説皇恐 皇恐灘頭(こうきょうだんとう)皇恐(こうきょう)を説き
 零丁洋裏歎零丁 零丁洋裏(れいていようり)零丁(れいてい)(なげ)
 人生自古誰無死 人生(じんせい)(いにしえ)(より)(たれ)か死()からん
 留取丹心照汗靑 丹心(たんしん)(りゅう)(しゅ)して汗靑(かんせい)(てら)さん
*文意
 経書を修めて仕官し、国難にあたっていろいろな辛苦艱難にあい、たてやほこを取って元軍と戦ったが、失敗の連続で早や四年も過ぎた。国土は元軍に蹂躙され、柳の花が風に乱れ漂うようであり、また、自分の身も四方に流浪して、雨に打たれている浮草のようである。皇恐灘のほとりでは、国家滅亡の罪を恐れて説き、零丁洋を渡っては、身の零落を嘆くばかりである。人間生まれたからにはみんな死にいくものである。どうせ死ぬのなら、至誠忠義の心をしっかりと世に残し、長く歴史に輝かしたいものである。
*解説
 文天祥を語る時、中国の科挙制度に触れないわけにはいかない。
 科挙は、六〇〇年ごろから一九〇五年までの間、約一三〇〇年にわたって続いた、世界に例を見ない官吏任用制度である。
 受験生は、地方で行われる「解試」、礼部で行われる「省試」を突破すると、皇帝から出される出題に臨む「殿試」を受け、合格者に順位が付けられ発表される。成績順に、第一甲から第五甲に分けられ、第一甲首席は「状元」、二番目は「榜眼」、三番目は「探花」と呼んで、その栄誉を顕彰した。
 一二五六年の殿試合格者は六〇一名、そのなかの主席、第一甲状元として、その名が最初に読み上げられたのが二一歳の文天祥であった。
 文天祥の生涯を貫いたのは、状元としての誇りがもたらす責任と不屈の精神であり、状元宰相が故の硬直した原理・原則主義であった。
 元の総攻撃が始まると、義勇軍を指揮して臨安に入った文天祥は、宰相となって講話の使者に立つ。しかし、軟禁され、元への投下を迫られる。大都に連行途上、脱出に成功。逃避行の後、何とか亡命政権として持ちこたえていた南宋の副総理になるが、端宗が十歳の生涯を閉じると元軍はほぼ中国全域を手中に収め、文天祥は捕縛される。
 そして、元の張弘範は、一二七八年、文天祥を厓山に伴い、宋の残党、張世傑に降伏を説得させようと試みたとき、その返事として送ったのがこの詩。
 大都に連行され、幽閉された文天祥の変身を辛抱強くじっと待ったフビライ。
 牢獄での生活は三年の長きにわたり、いよいよフビライと直接対面した文天祥は、フビライから「宰相に!」と請われるが断り、「願わくば、死の一字を賜わん」と応え、その翌日、処刑された。
 文天祥のこの句は、中国において、千年にわたって名句となっている。

(扇谷略解全文)
礼記に曰く、王や父の仇とは同じ天のもとに命ながらえず、と。
かつて、斉の襄公は紀の国を滅ぼし、九世前の復讐を成し遂げた偉大な人物と、孔子はその歴史書、春秋の中でこれを褒めたたえた。
しかし、小国が大国に仕返しをするのはもちろん、勢力の弱いものが強いものに仕返しをすることは極めて難しい。
戦国時代の晋の豫譲は、主君の仇を討とうと体に漆を塗ってすさまじい姿になり、炭を呑んでおしとなって囊子を刺そうと諮ったが捕えられの身となり自殺した。
だから、春秋時代の楚の申包胥は、呉の王闔閭の侵攻に対して秦の助けを得て破ったのである。
正行公は義を貫き、仇を討つという旗を高々と掲げ、尊氏の罪を挙げて責めたてた。鎧をしまい、昼夜いそぎ二日路を一日で走り、兵をひそかに移動させ都に入った。
しかし、尊氏は自ら垣根を乗り越えて逃げ、足利直義は地に穴を掘ってもぐり逃れ、尊氏の妻は自刃に及んだ。
悪知恵にたけた尊氏らの肝を冷やしたことは間違いない。
正行公は矛を枕にして安眠せず常に武器を身から離さず、片時も国の事や父母の仇を忘れず、強い義の志を持ち続けて生き、
正成公が桜井の駅で遺訓として残した忠孝両全の言に報いる生き方をした。
偉大な正成公あって、偉大な正行公が生まれたのである。
正行公は、四條畷の合戦で討死をすることで、死後も帝そして父の仇を取るという志、義を示した。その名声は、今も多くの人が知る。
南宋の義士、文天祥が謳った詩にいわく。人間生まれたからにはみんな死にいくものである。どうせ死ぬのなら、至誠忠義の心をしっかりと世に残し、長く歴史に輝かしたいものだ、と。
元に最後まで屈しなかった文天祥。南朝復権という至誠忠義を貫いた正行。
その生きざまはまさに同じである。


朱舜水賛文の情報源となった安東省菴の三忠傳
 賛文を読み解いた後、三忠傳の正行に関する部分の読み下し文を見ながら、賛文が、三忠傳から六ヶ所引用されていることを確認しました。
 そして、今一つ、南宋の義士、文天祥の「過零丁洋」七言律詩からの転用です。
 朱舜水は、安東省菴の三忠傳を読み、正行の生き様と、元に屈しなかった南宋の文天祥の生き様を重ねたものと思われます。

〈講義を終わるにあたって〉
楠正行研究を終わるにあたって

●今回の講座を振り返って
第1回 加賀藩、前田綱紀の楠公父子訣別図誕生の背景と太平記読みによる
    正成の指導者像としての広がり
第2回 水戸藩、徳川光圀の大日本史編纂と正成墓建墓、徳川幕藩体制の秘事と
    赤穂討ち入り事件と正成
第3回 朱舜水の残した正行賛文との感動の出会いと朱舜水について
第4回 神戸湊川「嗚呼忠臣楠子之墓」碑陰の大楠公賛文を読み解く
第5回 稲葉君山編朱舜水全集の正行賛文の読解 安東省菴の三忠傳と文天祥の
    七言律詩からの引用の確認


●朱舜水の正行公賛文の流布で、言挙げを!
 楠氏研究にあたって、最も残念なことは、その確実な史料があまりにも少ないことです。
 このことについては、朱舜水その人も、正成公賛文に「惜乎、載筆者無考信、不揚其盛美大徳耳。」と、記しています。
 しかし、四條畷神社を有し、歴史上、四條畷市と最もゆかりのある人物として名前の挙がる楠正行です。
 第1回市民教養講座「楠正行の人間像に迫る」では正行が生きた時代の歴史的検証によって、その人間像をあぶり出し、昨年の「楠正行ゆかりの地を訪ねるバスツアー」では、正行ゆかりの地を訪ね、残る遺跡に直接触れ、ゆかりの地関係者の生の声を聴くことで正行像を深めました。
 そして、今回の自主大学講座によって、南北朝期以降、江戸期を経て幕末にかけて明治維新を切り拓く、まさにその原点に正成・正行の生き様が大きく横たわっていたことを確認しました。
 そして、貴重な史料の一つといえる朱舜水の正行賛文148文字発見の感動を皆さんにお伝えしました。
 今から10年前、読売新聞に、田辺聖子は「正行はロマンチックで、気持ちの真っ直ぐな誇るべき人。戦後60年も過ぎ、もうそろそろ“やっぱり正行さんは素敵よね”と、言挙げしてあげても良いのではないか」と、読者にメッセージを送っています。
 楠正行、終焉の地となった、わがまち、四條畷です。
 この地から、全国、世界に向けて、正行公の言挙げの一つとして、朱舜水が残した正行公賛文148文字を広め、伝えたいと思います。
 できることなら、形に残して後世に伝えたい、と願ってやみません。

御清聴ありがとうございました。


〈卒業論文から〉
●受講生から卒業論文の提出

 今回は、市民教養大学と銘打っての自主講座でしたので、最後に卒業論文を提出していただきました。
 全員から、素晴らしい卒業論文の提出がありましたが、ここに2点紹介させていただきます。

Kさん
 日本人として誇るべき武士道のもとになった精神が楠親子より始まっていることを感じられた。
 現在、なまっている日本人の魂にぜひ必要と思います。
 郷土の誇りとして伝えるべきです。
 小・中の学校教育において、一昨年から副読本がやっとできたと聞き、子どもの時からの道徳教育の中に入れるべきと思います。
 楽しい学び、ありがとうございました。

Kさん
 今回の講座を受講するまで、私の楠正成、正行、父子のイメージは、昭和5年生まれの今年81歳になる母からのものが強かった。
 軍国少女で育ち、高等女学校で終戦を迎え、大変な苦労をして戦後を過ごしたものにとって、戦争に利用されたような正成・正行像を持っていた。故に、私も一族引き連れて死に行く正行の死は、無駄死にではないかと感じていた。
 しかし、義を貫けたのは、大いなる志と先を見据えた先見性があったということが分かった。
 中世という時代では、はっきりとしたモラルのない時代であったはずなのに、なぜ、正成、正行親子がそういう心を持てたのか。それは、受けた教育ではないか。観心寺や金剛寺でどういう学問をしたのか。母親の教育はどんなものだったのか。調べてみる価値があると思う。
 また、外に向けて発信する一番の方法は、やはり、大河ドラマに取り上げてもらうことではないか、と思う。
 とても感動する毎回の講義でした。
 本当にありがとうございました。



↓第5回講義の様子

講師の扇谷
講師の扇谷

受講生のみなさん
講師の説明を受け、資料に目をやる受講生

卒業論文をお願いする
卒業論文の提出をお願いする上山職員

卒業論文を書く受講生
真剣な表情で卒業論文を書く受講生



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