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高齢者・子どもたちの笑顔あふれる街 四條畷市立教育文化センターは

四條畷市立教育文化センター
お問い合わせはTEL.072-878-0020

〒575-0021 大阪府四條畷市南野5丁目2-16
 






楠公訣児之処碑、楠公父子訣別之所碑、明治天皇御製碑等建ち並ぶ桜井の駅跡、
歴史資料館、正行に遺訓した場所が描かれた山崎通分間延絵図を展示、

正行と足利義詮の墓石が並び立つ宝筐院

安間了意が正行の遺骸を葬ったとされる正行寺



日時 平成27年9月10日(木曜日)
行先  島本町歴史文化資料館、桜井の駅跡(島本町)、
宝筐院(京都市嵯峨野)、
正行寺(宇治市)


島本町歴史文化資料館
 
この日、栃木県に大雨特別警報が出され、鬼怒川等の決壊によって多くの方が被災されましたこと、心よりお見舞い申し上げます。そして、その後も被災地域が広がり、さらに多くの方が被災されましたこと、また川の氾濫によって濁流水、泥水が地域を襲った結果、電気や水道のインフラが復旧せず、多くの方が避難所生活を余儀なくされていることに、重ねて心よりお見舞い申し上げます。
 この日、第5回目、最後のバスツアーを実施できることに感謝し、バスは市役所を出発しました。
 最初の訪問地、島本町歴史文化資料館では、北野館長がお出迎え下さいました。
 同資料館は、昭和16年(1941)、楠公父子の忠孝に感激した大阪財界の重鎮、一之瀬粂吉が史跡櫻井跡の拡張整備事業に尽力し、建設された建物で、「麗天館」と呼ばれていました。 同資料館には、島本の歴史や文化をはじめ、麗天館を中心に近畿一円の楠公ゆかりの地を描いたパノラマ図(写真)が展示してあります。一瀬粂吉氏の依頼を受け、当時活躍していたパノラマ画家、吉田初三郎氏が描いたものです。
 
また、同資料館には、楠木正成がその子正行に遺訓したところと云われる坂口八幡社跡(矢納八幡)が描かれた「山崎通分間延絵図(やまさきみちぶんけんのべえず)」も展示され、同絵図には「楠正成 矢納(やおさめ)八幡」と記され、東面した鳥居と小詞が描かれており、西国街道に面して高札が立っている様子も分かります。

 ↓北野館長の説明を聞く参加者



桜井駅跡
 
同資料館の見学を終え、徒歩3分の地にある桜井駅跡に移りました。
 桜井駅跡では、ふるさと島本案内ボランティアの会の方4人から説明をいただきました。楠公訣児の処碑(裏面にイギリス公使、ハリー・S・パークスの英文が刻まれている)、楠公父子訣別之所碑、明治天皇御製碑(「子別れの松のしつくに袖ぬれて 昔をしのぶさくらゐの里」)、楠公子別れの石像(台座に「滅私奉公」と刻む)と、説明を受け、最後に「桜井の訣別」を全員で合唱しました。

 
楠公父子像の前でふるさと島本案内ボランティアの会のガイドを受ける

 楠公父子別れの石像は、三代目に当たり、一代目は青銅製の騎馬像(戦争時に供出)、二代目はコンクリート製(破損、劣化)、そして今の三代目は石造で、平成16年、寄贈を受けたものだそうです。







宝筐院
 
次に向かったのが京都市嵯峨野です。
 嵐山の渡月橋近辺で昼食の予定でしたが、あいにくの雨に遭い、バス車中での昼食をとり、清凉寺(浄土宗の元祖法然上人が開いた寺で、釈迦堂の名前で親しまれている)の散策を楽しんだ後、宝筐院にむかいました。
 宝筐院は、平安時代、白河天皇の勅願寺として建てられ、もともとは善入寺と云われましたが、南北朝時代に夢窓国師の高弟黙庵周瑜禅師が入寺し、衰退していた寺を復興させ、これ以後は臨済宗のお寺となりました。
 足利義詮が没すると、善入寺はその菩提寺となり、後に義詮の院号の宝筐院にちなみ、寺名を宝筐院と改めました。
 黙庵禅師は、楠正行と交誼があり、正行から後事を託されます。
 正平315日、正行は四條畷の合戦で、高師直率いる北朝軍と戦って討死しますと、黙庵禅師は、生前の厚誼により、正行の首級を善入寺に葬りました。
 後にこの話を黙庵から聞いた足利義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分も死後その傍らに葬るように頼んだといいます。
 ですから、宝筐院の境内には、楠正行の五輪塔と足利義詮の三層石塔が並び、建立されています。
 
この日、体調がすぐれない中で、わざわざ門前に出て出迎えてくださった吹田住職は、私たち一行を二つの墓が並ぶ墓前にお連れ下さり、詳しいご説明をしていただきました。

 正行と義詮の墓石前で吹田住職の講話をお聞きする


 管理の行き届いたお庭は、多くのモミジの木と手入れの行き届いた苔で覆われており、紅葉のシーズンには観光客でにぎわうとのお話でした。しかし、正行・義詮の墓が並び立つことを知る人は少ないとのことで、残念に思いました。
 本堂に上がらせていただいた私たちのために、三方の障子をすべて開けてくださり、本堂から庭を楽しむことができました。
  本堂正面の左右の壁面には、黙庵禅師と楠木正行図と正行四條畷合戦図が掲げられてあり、正行公ゆかりの寺であることが一目でわかります。


本堂に飾られている黙庵禅師と正行を描いた絵


本堂に飾られている正行公四條畷合戦を描いた絵


宝筐院門前で記念撮影


正行寺
 
宝筐院を後に、5回シリーズのバスツアー、いよいよ最後の地、宇治市の正行寺を目指しました。
 
正行寺に着くと、和田住職は、普段マイカーを停めておられる駐車スペースを私たちのために開けてくださり、お出迎え下さいました。
 正行寺は、浄土真宗本願寺派のお寺で、安間了願の創立開基と伝わります。正平315日、四條畷の合戦で高師直に敗れた正行は、「わが首を敵にとらしむ勿れ」と、随臣の安間了意に遺命していました。安間了意は、遺命を受け、正行の首級を携え、吉野に向かいましたが、足利軍の兵に道を遮られ、逃れ逃れて山城の国木幡に至り、六地蔵の荘内に首級を埋葬し、隠れ住んだといわれています。
 当初、北朝に憚り、また探索から逃れるため了願時と命名されましたが、南北朝の和解なった後、正行公の諱をもって正行寺(しょうぎょうじ)と改称されました。
 到着した私たちは、先ず本堂にご案内いただき、和田住職の講話をお聞きしました。ユーモアたっぷりに正行寺の縁起や正行首塚を寺の本堂床下の場所から庭に移した経緯等についてお話しくださいました。

 本殿床下から庭に移された正行墓


 かつては、寺を訪れた方に、その都度本堂の床を挙げて正行の塚を拝んでいただいたそうですが、歴女ブームや古刹を訪れる人が増えたことで正行寺を訪れる人も増え、本堂の建て替えと同時に、庭に移し替えたとのことです。
 この時、遺骨などは見えなかったものの、当時の短刀が出土したとか。色めき立って鑑定に出されたそうですが、父正成から賜ったとされる短刀ではなかったとか。
 講話の後、一人一人、正行の墓に詣りました。
 そして、再び本堂で、お茶とお菓子の心温まる接待を受け、最後に、本堂前で住職も交えて記念写真を撮りました。


本堂前で記念撮影(最前列、向かって右から2番目が和田住職)


車中の講話とアンケートより
 
この日、車中では、バスツアーも最後と云うことで、講師の扇谷から正行の心情について総括的な話がありました。
 また、帰途、正行寺を出た後、正行検定の第5回目を実施しました。各回10問、全5回で50問のテストでしたが、参加者全員が真剣に取り組んで頂きました。「難しい。」との声もありましたが、楽しく解答合わせができ、車中は和やかな雰囲気に包まれました。
 ご参加いただいた皆様には毎回アンケートのご協力を願いしましたが、最後のアンケートから、いくつかご紹介します。
 「ゆかりの地
18か所を回ることができ、四條畷に住む者として、楠正行のことを少しでも知ることができ、非常に満足しております。」
 「全体を通じて、涙、涙でした。私は涙に弱いので困りました。非常に良かった。感激です。」
 「知らなかったことを知るという新しい発見があるのがとても良かったです。座学よりも実地研修は特に良いです。また、考えてください。ありがとうございました。」
 「毎回、先生の説明、職員さんのご親切に感心。四條畷の歴史に少しづつ近づけました。充実しました。ありがとうございました。次の企画、待っています。お知り合いも増え、良かったです。」
 「すべての段取りと内容に大満足でした。ありがとうございました。」
 「楽しく一日を過ごしながら、内容の深い説明を聞けましたことが、大変良かったです。」
 毎回定員いっぱいの参加者で、窮屈な車中でしたが、ご協力ありがとうございました。また、井上運転手さんには安全運転に努めていただき、楽しいバスツアーとなりましたこと、感謝します。ありがとうございました。
 なお、この日同行してくれたのは四條畷市教育委員会の学芸員、村上課長代理でした。写真を撮っていただきました。お疲れ様でした。

 
(扇谷 記)


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