平成25年 | 平成26年 | 平成27年 | 平成28年 | 平成29年 | 平成30年 | 令和元年 | 令和2年 |
令和3年① | 令和3年② | 令和4年① |
楠正行の会 第71回例会
日時 | 令和3年7月13日(火) 午後1時30分より3時 |
場所 | 教育文化センター 2階 会議室1 |
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日 時 |
タイトル |
主な事績 |
① |
9月14日(火) |
正行の幼年時代 |
正成の千早攻防戦、建武の新政、法華経奥書、桜井決別、湊川の戦 0~11歳 |
② |
10月12日(火) |
第1期戦乱の時代 |
足利との攻防~河内天野の合戦、後醍醐天皇吉野潜幸、北畠親房の東航作戦 11~13歳 |
③ |
11月9日(火) |
河内東条、平和の時代 |
建水分神社に扁額奉納、藤氏一揆の誘い、北畠親房の吉野帰還、正行の発した国宣 13~21歳 |
④ |
12月14日(火) |
第2期戦乱の時代 |
隅田城の戦い・藤井寺合戦・住吉天王寺合戦、渡辺橋の美談、吉野詣で・後村上天皇との別れ 22歳 |
⑤ |
1月11日(火) |
四條畷の合戦 |
正平3年1月5日・6時間の激闘、5期の衝突、残る字地「古戦田」「ハラキリ」、正儀の時代 23歳 |
⑥ |
2月8日(火) |
現地学習 |
四條畷神社・小楠公墓所・和田賢秀墓 |
⑦ |
3月8日(火) |
江戸期の正行 |
狩野探幽画桜井決別図・朱舜水の楠正行像賛、高山右近日本訣別の書、太平記読みと楠氏、楠一巻書、貝原益軒の南遊紀行 |
⑧ |
4月12日(火) |
近代の正行 |
小楠公墓所の拡幅・改修、従二位追贈、四條畷神社創建、逆菊水家紋入り瓦、四條畷中学校の創立、四條畷村の誕生 |
⑨ |
5月10日(火) |
現代の正行 |
子供向け副読本発刊、小楠公像、観光可視化戦略、NHK大河ドラマ誘致活動、宝塚桜嵐記 |
⑩ |
6月14日(火) |
私と正行 |
感想文の発表 |
【定員】
10名/窓口&電話で受け付け・申し込み先着順
氏名・住所・年齢・電話番号をお伝えください。
【申込】
四條畷市立教育文化センター
〒575-0021 四條畷市南野5丁目2番16号
☏ 072-878-0020
又は 扇谷のメール・電話 090-3034-8288 a-oogitani@syd.odn.ne.jp
【参加費】
300円/各回、教室受付で徴収します。
別途 資料代実費負担 「小楠公」第1号 ¥300円
【主催】
四條畷楠正行の会
【後援】
四條畷市立教育文化センター 指定管理者・阪奈エンタープライズ㈱
講談「楠正行」
原作 扇谷「楠正行」文芸社
脚本 扇谷
講談 扇谷
― 序章
「正時はいるか。」
「兄上。正時は、ここに。」
「師直の首を挙げるか、我らが首を獲られるか。
二つに一つの戦いであったが、もはやこれまでか・・・。」
「兄上。正時は、兄上とともに、吉野朝復権という義の戦いに生きることができ、本望です。」「正時。よくぞ申した。今までこの兄についてきてくれた。礼を言うぞ。
しかし、いよいよ最期のときを迎えたようだ。河内東条に生まれ育ち、文武に励んだ日々が走馬灯のように浮かんでくる。
…正時、さらばじゃ。」
「兄上。正時も共に・・・。」
今から六百七十数年前の正平3年、1348年、1月5日、正行、正時は四條畷の地で最期を迎えた。正行、享年、23歳であった。
― 桜井の別れ
皆さん。ようこそ、講談「楠正行」にお越しくださいました。
楠正成の嫡男、正行は、23歳の若さで四條畷の合戦に散り、弟、正時と相刺し違えて討ち死にしました。
今、四條畷雁屋の小楠公墓所に眠り、四條畷神社に祀られています。
しかし、その生涯や人間像は意外と知られていません。
本日は、私が、平成28年に文芸社から出版しました小説「楠正行」を原作に、講談「楠正行」として脚本化してお届けを致します。
さあ、講談「楠正行」をお楽しみください。
さて、時は、遡って延元元年、1336年5月、桜井の駅、楠正行が歴史の表舞台に登場したときに戻ります。
ここは河内国、千早赤阪村は河内東条の楠館。
父、正成の湊川下向に合流する正行と、母、久子の会話の件です。
「多聞丸。此度の戦は父上にとって、朝廷への献策を退けられ、覚悟の出陣と存じます。父上に会うたら、存念を承り、父上の命に従うのですよ。」
「母上。多聞丸は、楠家の嫡男として父上とともに、見事その務めを果たしてまいります。
そして、必ずや帝に敵する足利尊氏殿を討ち取ってまいります。ご安心下さい。」
「しかし、そなたはまだまだ武芸においては未熟なのです
母は、心配でなりません。」
「母上、多聞丸も十一歳になりました。
初陣こそまだですが、武芸にもいささかの鍛錬を重ね、今では、水分の地で、私の右に出るものはおりません。どうぞ、ご安心下さい。」
「分かりました。母は観心寺にこもり、父上とそなたの武運を祈ります。
決して、その命を粗末にしてはいけませんよ。」
舞台は移って、西国街道は摂津国の桜井の駅。
正行は、櫻井の駅で、父、正成の軍と合流すると、初めての戦いを前に、身震いを抑えながら、戦の準備に従っていました。
正成の本陣に呼び出された正行は、父、正成と対面します。
「多聞丸、そちは何歳になった。」
「はい。多聞丸は、十一歳になりました。」
「そうであったか。父は、後醍醐帝の政に参画し、帝を奉り新しい国づくりを目指してまいった。しかし、帝の政への武士の不満は募るばかりで、此度、足利殿を迎え撃つべく湊川へ下る仕儀と相成った。
新しい国づくりに、公家の理解を得ることは至難であった。父が予想した如く尊氏殿の東上が現実のこととなり、兵庫に赴くこととなった。
今、天下の形勢は、帝の政にはあらず、武家の頭領・足利殿にあることは明白である。
父は、此度の戦を最期の戦と考え、自らの『死』を持って、自らが正しいと信じた義の道を貫き通す覚悟である。」
「父上、私もぜひ此度の戦にお加え下さい。」
「多聞丸。本日、ただ今より名を改めよ。正行と名乗るが良い。正しく生きるの意ぞ、良いな。」
「ありがとうございます。多聞丸、本日、ただ今より、正行と名を改めます。」
「正行、ここからが肝心の話だ。しっかり聞くが良い。
獅子は子を産んで三日たつと、その子を数千丈の断崖から投げ捨てるといわれている。その子に獅子としての器量が備わっておれば、何も教えなくとも宙返りをして、死ぬことはないそうな。
正行、良いか。そちは既に十一歳になった。
父の話が分からぬはずはないな。」
「はい。」
「では、これから述べる父の教訓に決してそむくではないぞ。
事ここに及んでは、此度の戦は宮方と武家方の天下分け目の一戦になることは必定。この世で、そなたの顔を見るのもこれが最後と思う。」
「父上の死なぞ、考えることが出来ません。父上が討死覚悟といわれるなら、私もいっしょに戦いとうございます。」
「いや、それはならん。
よいか。此度の戦で父が討死となれば、天下は、足利尊氏殿のものとなることは間違いない。だが、ここが肝心ぞ。足利尊氏殿の天下になっても、決して、楠家が仕えてきた帝への忠節を忘れて、足利尊氏殿に降参することがあってはならん。
何よりも大切なことは、義に生きることぞ。
良いか、正行。
わが楠一族や若い家来衆の一人でも生き残っておれば、父が地の利と頼んだ金剛山中に籠もり、敵が攻め寄せてきたならば、命を懸けて戦い、帝に忠節を尽くすのだ。これが、そなたの行う第一に孝行と心得よ。良いな。」
「父上とともに、との覚悟で参りましたが、分かりました。
正行は河内に戻ります。」
「正行、良くぞ申した。
この短刀は、後醍醐帝よりお召しがあり、父が笠置に参上した折、帝から賜った銀鞘龍紋の名刀である。この短刀を、父の形見としてそちに授ける。
さあ、受け取るが良い。」
「はい。」
「恩智左近。良くぞ、今まで、この正行を引き立て、補佐してくれた。この正成、改めて礼を申す。
さて、正行を河内に返す。わしは七百騎を率い兵庫に向う。正行には、二千二百の兵をつける。ついては、そちにその供を命じる。良いな。」
「お館様の目指された戦いは、此度が最後ではなく、まだまだこれからも続くということですね。分かりました。左近、正行様のお供をさせていただきます。
そして、正行様をお助け申し、必ずや立派な楠の頭領にお育て申し上げます。どうぞ、ご安心くだされ。」
「正行、直ちに出立の準備を整え、左近とともに発て。」
「はい、父上。ご武運をお祈りいたします。」
― 父、正成の首級届く
湊川の戦後の数日たったある日、ここは、楠氏の菩提寺、河内長野の観心寺中院。
「正行様。ただ今、本坊に足利尊氏殿からの使いの者が参った、との知らせです。」
「なに、足利殿の・・・。」
「正行様に、直接お目にかかりたいとのこと。」
「分かった。すぐ、参る。」
正行が、本坊の勅使門に行くと、そこには変わり果てた父、正成の首級が置かれていた。
母、久子も、呆然と立ち尽くしていた。
正行は、今も、あのとき、桜井の駅での父の姿を忘れることは出来ない。櫻井の駅で別れたときの姿とは、似ても似つかぬ姿で、凛とした態度で遺訓を残された姿とは、全く別人であった。
さぞ、ご無念であられたことか・・・。
正行は、父の変わり果てた姿を見た瞬間、櫻井の駅で賜った遺訓を忘れてしまい、湊川に供しなかったことを悔い、とっさに中院の持仏堂に駆け込んだ。
何も考えることはなかった。父の後を追わねば・・・。
との思い一心で、櫻井の駅で父から賜った短刀を右手に抜き持ち、腹を切ろうとした、まさにその時、母、久子があわてて部屋に入ってきたのである。
正行殿。一体、なにを血迷われたのですか。」
「母上、お許し下さい。正行は父上のお供を仕りとうございます。」
「切腹など、なりませぬ。そなたは、もう十分道理が分かるはずです。櫻井の駅で、もし、父に万一のことがあれば、後を追え、とおっしゃったのですか。
そうではありますまい。そなたは河内に戻り、一族を養い、束ね、必ずや再び合戦に及び、敵方・足利尊氏を滅ぼし、帝に安寧をもたらすことが勤め、と仰せのはず。
そなたは、父上の遺訓を直接聞き、理解し、私にその旨教えてくれたではないですか。忘れてしまったのですか。」
「母上・・・。」
「正行殿。今、父上の後を追うことはたやすいことでしょう。かえって、父の遺訓を守ることのほうが苦難の道となるはずです。
しかし、その苦難の道を進むことこそ、楠の嫡男としてのそなたの務めですぞ。
分かりますか。しっかりしなされ。」
「母上。お許し下さい。正行が間違っておりました・・・。」
と、正行は、その場に泣き崩れてしまったのであります。
母も、その正行に覆いかぶさるように泣き崩れていたのであります。
この時の正行の心の動揺は、正行の人生最大のものであったと思われます。
― 父上、私は大きな間違いを起こすところでした。櫻井の駅で賜った遺訓の本当の意味を分かっていませんでした。お許し下さい。
父上。私は、もう、今後一切涙しません。
先ずは守りを固め、力をつけ、帝の安寧と父上の目指された新しい政治、義の戦いのため、心を鬼にして、これから生きてまいります。
正行の、この後の人生を生きる覚悟の決まった瞬間でもありました。
― 吉野警護の日々始まる
さて、湊川の戦のあった延元元年、1336年の12月、幽閉されていた花山院から吉野山に入った後醍醐帝は、吉水院を行在所とされ、蔵王堂南方に吉野の宮を置かれ、ここで執務を執られたのであります。
世にいう南北朝時代の始まりであります。
正行は、攻め来る足利軍と対峙するため、河内と吉野を結ぶ交通の要衝である紀見峠や大沢峠を背後から脅かす敵方の宮里城の攻略に重きを置き、大塚惟正を大将に岸和田治氏ら一党諸将を配しました。
また、河内と京都を結ぶ位置にある八尾城、丹下城の攻略については、楠党の北軍、橋本正茂を大将に高木遠盛らを充てました。
そして、正行のもう一つ大きな任務であった吉野の警護は、楠正家、恩地左近ら楠党の本隊で担うこととしたのであります。
「吉野出仕の命が今朝ほど届いた。先ずは、正行自身が吉野に参上し、ご安心いただくことが何よりと考える。
明日、早朝に出立しようと思うが、正時、同道するか。」
「兄上、足利方の動きが気になります。此度は、正時、東条に残ります。」
「正時、残ってくれるか。」
「はい。」
「此度、東条には正家殿も残し、恩智左近殿にも詰めてもらうとしよう。
正時、留守を頼むぞ。
行忠と正信は連れて行くとして、新発意、いや賢秀であったな。賢秀も連れて行くこととしよう。約束だからな。」
「では、明朝出立のこと、伝えてまいります。」
「正時、頼む。」
正行の吉野警護の日々は、このように始まったのであります。
― 官途に就き、建水分神社に扁額奉納
延元元年から延元3年1338年まで続く、正行第一期戦乱の時代、正行が登場する史料はほとんど残っていません。
しかし、和田文書として残る数多くの軍忠状を繙くことで、湊川の戦後押し寄せた足利勢を、この間、岸和田一党や高木遠盛らの活躍で押し返したことが分かります。
この頃、正行、正時や賢秀らは、戦線に出ることなく、河内東条で武術に励んでいたものと思われます。
さて、興国元年1340,15歳になった正行は、後村上帝から「左衛門少尉」「検非違使」を仰せつかり、「河内守」に任じられ、正式に官途につくこととなりました。
吉野を訪れた正行は、吉野朝廷で最も信頼する四条隆資卿を訪ねました。
「正行殿、此度の左衛門少尉、検非違使のお役目、よろしくお願いします。
帝が頼りにされるは、正行殿が率いられる楠・和田の武士団であり、正行殿には大きな期待をかけておられます。」
「四条隆資様.
この正行は、願わくば京との和睦によって吉野の宮の復権がなれば、と思っております。しかし、京都の朝廷は形ばかりのことで、実質は、足利殿の意のままに動かされているのが実態。あくまでも、足利殿との和睦がなってこそ、京都と吉野の朝廷の統一が可能になるものと存じます。そのためには、吉野の宮に仕える武士団がいかに有利な状況を作り出せるかが肝要と心得ます。」
「正行殿。今日、吉野の宮がこのように維持できているのは、ひとえに正行殿のお支えがあってのことと感謝しております。」
「何を、もったいないお言葉。」
「此度のお役目に加え、河内守として帝の政を進めてもらうことになりますが、帝の御ため、忠勤に励んで下さい。」
「はい。さて、四条隆資様。一つお願いがございます。」
「正行殿。どのようなことかな。」
「去る延元の二年、先帝から私ども楠家の産土神社であります建水分神社に正一位を賜り、先帝真筆の『正一位 水分大明神』扁額を賜りました。
此度、国に戻りましたら、この扁額を建水分神社の鳥居に奉納いたしたく、帝にこの旨、お許しをいただきたいのですが。」
「正行殿。その旨、私から帝にお願いしましょう。」
「ありがとうございます。楠一族の産土神社に先帝のご真筆による扁額が奉納されれば、さぞ、領民は喜ぶことでしょう。われら、これからも吉野の宮のために存分に働かせていただきます。」
「正行殿。今の言葉、帝にお伝えいたしましょう。」
河内に戻った正行は、この年の四月八日、先帝ご真筆の表面「正一位 水分大明神」扁額の裏に、「延元貮年丁丑四月廿七日被奉授御位記 同五年庚辰卯月八日 題草創之額 左衛門少尉橘正行」と記し、建水分神社の大鳥居に奉納しました。
この扁額は木額で、墨書きに漆を施したものですが、風雪に耐え、後世ながく掲げられてほしい、と祈りつつ正行は筆を進めたのであります。
この木額扁額は、今も、建水分神社の社務所に社宝として保存されています。
680年を経た今日、扁額裏に残る正行直筆の文字に接するとき、誰しもが感動で身震いを覚えること、間違い有りません。達筆で、熟練された筆跡に、正行の文化素養、教養の高さを肌で感じることができます。
ぜひ、建水分神社を訪れ、岡山禰宜にお願いして、この扁額を鑑賞してください。突然は駄目ですよ。事前に連絡を入れ、了解をとってくださいよ。
― 足利尊氏と対談
官途に就いた正行は、いわば河内東条平和の時代、吉野朝廷を支え、宿願成就のため産業を振興し、武力の増強に励んだものと思われます。
またこの頃、近衛経忠が画策した吉野朝分派行動、藤氏一揆への誘いに困惑したものと想像されます。
藤氏一揆は、奥州に下った主戦派の北畠親房を追い落とし、和睦派を取りまとめ吉野朝を藤原氏中心に牛耳ろうとするものでしたが、頼りとする奥州の小山一族らが劣勢を強いられる中、この藤氏一揆は近衛経忠の失脚で幕を閉じています。
さて、藤氏一揆に翻弄されながらも、正行は徐々に力をつけ、実質、吉野朝の主力武将としての地位を固めていきます。
興国3年、1342年の年が暮れようとする師走のある日、黙庵禅師から使いの者が河内、東条に入りました。
使いの者の口上によれば、後醍醐帝に仕え、今は、尊氏に近侍する夢窓疎石が、尊氏と正行の接触は事態の打開につながる大きな一歩になると、ひそかに足利尊氏と正行の対談を画策したのであります。
「正時、行忠。このことは、我ら三人のみの秘事である。他の誰にもこの事を漏らしてはならん。
「明朝ですか。それはまた急な…。」
「まず、いったん往生院に入り、しばらくここにとどまり、夢窓疎石様からのご連絡を待って、京に向かう。京に向かう日は、とんぼ返りで、その日のうちに、河内に取って返すことになると思う。正時。しばらく留守にするが、よいな。頼むぞ。」
「兄上。分かりました。留守居のことは心配ご無用。
行忠、兄上が尊氏と会うとなれば、何が起こるやもしれん。くれぐれも頼んだぞ。」
「はい、正時様。」
往生院に入った三日後、夢窓疎石から連絡が入り、正行は直ちに京の南禅寺を目指した。
正行は、南禅寺に着くと、勅使門をくぐり、天下竜門と称される立派な山門をくぐると、人目を避けるように、本坊の一角にしつらえられた書院に通されたのである。
そこで待つこと半時、
「お待たせいたしました。」
と、夢窓疎石と足利尊氏が入室してきた。
初めて見る尊氏は正面に着座した。
頭から背後に延びる髪、そして黒々とした口髭とあご髭、全体に大きく広い顔で、太い眉、鼻筋が通り、高い頬骨と、見るものを引き付けるような顔立ちであった。
「楠殿。よくぞ参られた。予が足利尊氏である。」
「はじめてお目にかかります。楠正成が嫡男、正行にございます。」
「正行殿。片ぐるしい挨拶は抜きとしよう。
予は、父上、正成殿のことをよく覚えておる。そして、何よりも建武の新政を開いた第一の功労者と心得ておる。千早城での戦いがあったればこそ、六波羅を落とし、北条を倒せたものよ。そして、都に入られた武将の中では、正成殿は抜きんでた武将で、いろいろと教えていただいたものよ。」
「父と尊氏様は、ともに政務をとることはなかったと聞いていますが…。」
「故あって、予は建武政府の中には入らなんだ。しかし、吉野の先帝にお仕えする身として、父上と親しくさせていただいたものよ。」
「父も尊氏様を高く評価しておりました。湊川の戦を前に、帝のご政道に異議を唱え、新田殿を切り、尊氏様と和睦をすることが、建武政府の唯一の延命策と、身体を張っての訴えを致しましたが、お聞き入れられず、湊川で尊氏様に敗れたのです。」
「余は、何度も正成殿に助けられた。叶うことなら、戦いを避け、正成殿と一緒に新しい世を作りたかったものよ。
湊川で相まみえることとなったが、まことに残念なことであった。」
「尊氏様。今のお話をお聞きし、父の首級を河内にお戻しくださった思いを知ることができました。」
「正行殿。頼朝公の開幕以来百五十年、武家政治は庶民の生活に根を下ろし、しっかりとした体制となっておる。力を無くした公家衆が、この体制をもとに戻そうとしても、もはや戻る道理がござらん。
帝は直接『政』を担うのではなく、武家政治の上に立って、我らの政治を見守ってくだされば、それでよいのよ。
しかし、帝を担ぎ、権限を持って、政に関わろうとする公家衆がいるから、困ったものよ。
・・・のう、正行殿。予に力を貸してはくれまいか…。」
「尊氏様が描かれる政に異存はございません。この正行も、武家が力を持ってこそ、帝を支える政ができるものと思っております。
しかし、その際、かつぐ帝は正統な帝でなければなりません。尊氏様は吉野の宮がおわすにもかかわらず、京都に新たに宮を立てられました。私は、吉野の宮が唯一の宮と思っております。」
「正行殿。予も好き好んで京の宮を立てたのではない。吉野の宮をそのままにして、武家政治を進めることはできなかったのだ。・・・分かってくれ。」
「父は申しました。天下は尊氏様のものとなると。しかし、その尊氏様に組みしてはならないとも。それは、正統な帝をお守りすることこそ、我ら楠の勤めと心得よ、との仰せと肝に銘じています。
しかし、父が去って六年の歳月が流れ、河内でも戦乱の時代を乗り越え、今比較的穏やかな平和な暮らしが続いています。父の遺訓はあるものの、ともに武家が中心となる新しい世を認めるのであれば、吉野の宮を支えながら、尊氏様と和睦の道はないものか・・・、と。」
「正行殿。予とて同じこと。
・・・が、吉野の宮を復権となれば、話は変わる。
吉野の宮の復権では、公家政治への逆戻りとなってしまう。これは断じて容認できない。
正成殿が身体を張ってなされた献策に耳を傾けることのなかった公家衆。今や、その公家衆の頂点に立つ親房に、建武政府失敗の反省の色はみじんも見えない。
正行殿。心致されよ。
正行殿が心血を注がれようとしている吉野の宮の復権だが、親房同様、公家優越、武家蔑視の考えは公家衆の皆が持っておることを。」
「仰せのことは承知しております。しかし、親房様は身分が高く、天皇親政、それも公家政治に相当の執念をお持ちの方ですから…。」
「そこよ。一筋縄ではいくまい。
正行殿が目指す吉野の宮の復権とは、いささか違うと存ずるが…。」
「尊氏様のお話、肝に銘じておきとうございます。」
「正行殿。予に、吉野の宮を廃する考えはござらん。が故に、吉野の宮を支えておられる正行殿と誼を通じたいと申しておるのよ。
今、予と正行殿が手を結べば、戦乱の芽は直ちに摘める。」
「尊氏様が吉野の宮を廃する考えをお持ちでないこと、そのお気持ちが分かっただけでも、本日、ここに参りました甲斐があったというものです。
この正行も、できれば戦いを避け、安定した武家政治の樹立と、吉野の宮の復権を成し遂げることができれば、と存じます。」
「今日初めて会い、手を握ろうとは、あまりにも唐突であった。しかし、さすが、正成殿のご嫡男。これだけのお覚悟を胸に秘め、吉野の宮を支えておる。
予のもとには、弟の直義、そして執事の高師直の二人の重臣がおる。
心配は、義詮よ。
予は、正成殿と手を結べなかったことを悔やんでおる。正行殿が義詮を補佐してくだされば、武家政治は盤石となり、ともに願う『政』ができると存ずるのだが…。」
「尊氏様といえば、源氏の嫡流。全国の武士が、その頭領と仰がれるお方。一方、楠は田舎河内の土豪上がり。身分に天と地の開きがございます。それを補佐役などと…。」
「正行殿。なにを卑下なさる。正成殿あって北条幕府を倒せたのであり、正成殿あって建武の新政が開かれたもので、この尊氏は正成殿にあやかって、今日があるのだから・・・。」
「尊氏様。今はともかく、和睦の条件が整うようであれば、今一度お会いしたいと存じます。」
「正行殿。約束はできん。しかし、予が正行殿と手を結びたい、また、義詮の補佐役に、と申したは偽りのないこと。
まずは、奥州を抑え、わが幕府の体制を盤石にしたうえで、正行殿と再び会う機会が生まれるやもしれん。正行殿もしっかりとお勤めを果たされよ。」
「仰せのとおり。奥州の成り行きが、今後の政に大きく影響することとなるでしょう。正行は、河内にあって、尊氏様との和睦の道、そして吉野の宮の復権の道、この二つの道がうまくできないか、探ってまいります。」
「今日は、正行殿と語らうことができ、予は満足。
では、正行殿。予が先にお暇する。くれぐれも気を付けて河内に帰られよ。では、さらばじゃ。」
― 弁の内侍との出会い
この後、奥州は高師冬の攻勢が強まり、北畠親房が何度も書状を送り合力を望んだ結城親朝が北朝に帰順すると、奥州の吉野朝勢力はほぼ壊滅状態となり、興国4年1343年の12月、興良親王、北畠親房は命からがら吉野に戻ったのであります。
藤氏一揆を仕掛けた和睦派の近衛経忠も失脚、吉野に入った北畠親房は朝廷トップに君臨し、持論の主戦論を展開、吉野朝廷を大きく主戦論に動かし始めるのであります。
翌興国5年には、最初の全国開戦令が発せられるとともに、九州大宰府でも、宇治惟時に「立つべし」との綸旨を送っています。
そして、興国6年夏、征西将軍宮・懐良親王が、宇治惟時に「近畿の宮軍と呼応して立て」と臨書を与えていたころ、正行に思わぬ出来事が起こります。
この頃、何度かの吉野警護の任務に就いた正行でしたが、ある時、高師直の手の者が京から吉野に向けて南に向かったとの情報を得たのであります。
この頃、正行が吉野に向かう道は、水分越え、千早越えで吉野川に降り、吉野川に沿って吉野に入るか、賀名生から山伝いに入るかの、いずれかでありました。
しかし、高師直の手のものが南に向かったとの情報を得、この時は、吉野警護の帰途、これらの道を使わず、これら峠の更に北方にあたる竹内峠を目指したのであります。
竹内峠を越える竹内街道は、丹比道と称し、日本最古の国道として、奈良県の当麻から河内、千早の北方、古市につながる道でありました。
「正行様。」
「おう、太吉か。高師直の手のものの動きはつかんだか。」
「正行様。今、竹内峠を西に向かう輿に、何やら不穏の気配がございます。身分の高い方が乗られる輿と見受けますが、前後に、この輿を護りながら、ただ事ではない殺気を感じさせる侍どもが控えているのです。」
「何。立派な輿とな。」
「正行様。私の見立てでは、あの侍どもはこの辺では見かけたことのない者ども。おそらくは師直の手のものと考えます。殺気から察しますに、要人を警護しているというよりは、周りからの攻撃に備えていると見えました。」
「太吉。お前の申すことに間違いがなければ、おそらく高師直の手のものであろう。輿の人物は、吉野の宮につながる方かも知れん。
皆の者。急ごう!高師直の手のものとすれば、逃すわけにはまいらん。
太吉。案内せよ。皆の者、我に続け。」
急ぎ駆けつけると、立派な輿と、その前後を固める二十数名足らずの侍一行に追いつくことができた。
「待たれよ! どなたの輿か。また、どこに向かわれるのか。」
「・・・。」
「返事のないところを見ると、高師直の手のものか。」
「・・・。」
侍どもの返事のないまま、殺気を漲らせてきた。
「予は左衛門少尉楠正行である。高師直の手のものとあれば、このまま返す訳にはまいらん。皆の者、この者どもを一人残らず捕えよ。そして、輿を護るのじゃ。かかれ!」
「ご安心くだされ。賊は一人残らず召し取りました。」
「正行様。お助けいただきありがとうございました
私は吉野の宮で、帝にお仕えしております弁内侍でございます。帝のお使いに出かけ、吉野への帰途、高師直の手のものに襲われ、京へ連れて行かれるところでした。諦めておりましたが、助けていただき、お礼の申しあげようもございません。本当にありがとうございます。」
「弁内侍様でしたか・・・。確か、日野俊基公のご息女と伺っております。
高師直の手のものが吉野方面に向かったとの情報があり、急ぎ、この峠に駆けつけてまいりました。もはやご安心ください。この正行が、吉野までお送りいたします。」
「正行様。ありがとうございます。」
正行は、弁の内侍を吉野の宮に送り届け、帝からねぎらいを頂戴することになりました。
この弁の内侍との出会いは、この後の正行に待っている幾多の戦いを前に、その心のよりどころとなる出来事でありました。
この正行と弁の内侍の件は、太平記には描かれていません。
吉野朝の説話を収録した室町時代の説話集「吉野拾遺」の上巻9話に載っています。
弁の内侍を救った正行に、後村上天皇は「弁の内侍を妻に」と薦めますが、正行は、『とても世にながらふべくもあらぬ身の 仮の契りをいかで結ばん』と近づく決戦を前に断ります。
そして、四條畷の合戦で正行の討ち死にを知った弁の内侍は、追慕の情断ちがたく、如意輪寺で黒髪を下し、吉野山を下り、山口村の西蓮華台院に庵を結び、正行の菩提を弔いました。
この時、弁の内侍は『大君に仕えまつるも今日よりは 心にそむる墨染の袖』と、出家詠草の歌を遺しています。
宝塚歌劇、月組の桜嵐記でも上演された正行と弁の内侍の儚い恋物語でした。
― 直義の南進命令、隅田城攻略
正平元年1347年を迎えるころになると、主戦論の北畠親房と、和睦論の正行が、吉野で行われる軍議で、ことごとく対立激化の様相を呈し始めます。
北畠親房は、なかなか動かない正行に業を煮やし、正行と和田一族の分断策まで画策するに及びます。加えて、九州の吉野朝勢力が各地の水軍を動員し、積極的な薩摩上陸作戦に動き出すと、足利尊氏は、九州での宮方の攻勢に神経をとがらせていたのです。
特に、幕府の基盤固めを急ごうとする直義には、尊氏、師直以上の危機感がありました。
『楠が武具の調達に動いておる。』―このような情報が届くに及び、直義は尊氏に楠討伐を申し出たのであります。
八月九日、足利直義は使いを送り、細川顕氏と畠山国清に、楠討伐に向け南進を命じます。
そして、この直義の南進命令の情報は、その日のうちに正行のもとにもたらされたのであります。
いよいよ、正行、破竹の快進撃の開始で、四條畷の合戦に連なる正行第2期戦乱時代への突入です。❕
正行は、八月九日の夕刻、水分の館に本隊を集め、直ちに出陣しました。
しかし、事は隠密裏に、敵に悟られぬことが大事でした。
隅田一党二十五人衆の長たちは、その日の早朝、楠が南に向かったことを知り、これは一大事と続々と隅田城に駆けつけました。しかし、結果は明らかでした。宮方と足利方に組みする一族が拮抗しており、直ちに楠と一戦交えるという状況にはなかったのであります。
隅田二十五人衆の結論は開城に決まります。
正行は、この後続く戦いの初戦を、無血開城という、最も良い形で収めることができたのであります。吉野との連絡路を確保し、後顧の憂いを断って前面の敵に集中できる体制が整ったのでした。
藤井寺の合戦
その後の、池尻、八尾の戦いは、正行と細川顕氏の正面対決ではなかったが、幕府内では敗れた細川に対する非難、攻撃の動きはすぐに広まりました。
尊氏に願い出、楠討伐のための南進命令を下した直義にとって、このまま放置できなかったのです。直義は、細川顕氏を呼び出し、直ちに兵を整え、河内東条に兵をすすめよ、と命じました。
正行は、九月十四日、楠館に軍議を招集します。
「此度の戦いは、幕府軍との正面対決を想定しての前哨戦であったが、いよいよ幕府のおしりに火をつけたようだ。直義は、細川顕氏の讃岐の兵は無論のこと、赤松の摂津の兵、佐々木の近江の兵に出陣を命じたようだ。既に河内東条に向かっているとのことだ。」
「正行様。細川、赤松、佐々木の三軍ですか・・・。
此度、敵の軍勢は如何ほどに・・・。」
「惟正殿。報告では、細川の主力部隊が千七百、赤松が七百、佐々木が五百ということだ。」
「二千九百ですか・・・。」
「三千の兵か。これは手ごわいぞ。」
「賢秀。三千か、五千か、といった兵の数が問題ではない。もともと大軍相手の戦いはわかっていたこと。いかに戦うか、が大切なのじゃ。」
「正家殿。これはうかつなことを申し上げた。お許しくだされ。」
「正行様。して、どのような策を・・・。」
「惟正殿。いや、皆の者。
此度は、敵が油断しているところへ夜討ちをかけようと存ずる。細川顕氏の本隊をできるだけひきつけ、八尾、藤井寺あたりで本陣を構えた、まさにその夜、奇襲をかけることとする。
わが方の陣は、敵に悟られないように山沿いを進み、敵陣の背後から、一気に攻めかかり、細川顕氏大将の首一つをめがけて突撃する。よいな。」
「正行様。して二千九百の敵に対し、我らは如何ほどで出陣を。」
「正茂殿。此度は、ほぼ全軍を一か所に集中し、山陰に何隊にも分けて伏せ、合図とともに出撃をする。本隊は、この正行を先頭に、惟正殿、正茂殿、そして正時、行忠、賢秀らの兵六百五十騎とする。
正武には、百騎の兵で和泉方面に布陣し、堺浦から攻め上がってくる赤松に対する陽動部隊を勤めてもらう。助氏には、八尾城の搦め手に回ってもらう。
おそらく、敵は数日後に八尾、藤井寺に到着するであろう。早ければ明日、遅くとも明後日の内に八尾付近の山陰に移動を完了させねばならん。直ちに出陣の準備に取り掛かれ。」
幕府軍は、正行の見立て通り、十六日夕刻、八尾藤井寺に入ったのです。
かねての手筈通り、正行軍は、何隊にも分かれて誉田八幡宮の背後の山陰に本隊を隠し、夜陰を待ったのであります。
この藤井寺の戦いでは、正行軍の策が見事はまり、突然、山陰に放ったおびただしい松明の明かりとともに、敵兵の寝こみざまを襲った夜襲に、大軍襲来と慌てふためく敵兵は烏合の衆と化し、たちまち総崩れとなりました。
大将の細川顕氏は、命からがら天王寺から京都に逃げ帰ることとなり、赤松隊も堺浦から摂津へ逃げ帰ったのであります。
そして、この時の合戦では、佐々木氏頼の弟、佐々木氏泰を討ち取っています。
正行は、藤井寺の勝利の余勢をかって、八尾城そして丹下城をことごとく破壊したのであります。
― 正行の吉野詣で
この頃、京の都では、足利方の中で、直義派と師直派のさや当てが続いていました。
藤井寺の合戦で敗れた細川そして直義を攻め、なじる高師直と、一方、細川の敗戦の汚名ばんかいと、新たな陣立てを急ごうとする直義であった。
直義は、兄、尊氏に願い出て、河内守細川顕氏とともに、伊豆守山名時氏の二人を大将に据え、再び河内東条に向けて発向させることとしました。
直義は、細川軍の四千と山名軍の三千を主力に、応援部隊として、赤松の摂津、播磨の兵千、佐々木、土岐、明智の連合軍千四百、合わせて九千四百と、藤井寺の戦いのほぼ三倍の兵力を差し向けることとしたのであります。
この年、十一月、ある日、正行は、迫りくる決戦を見通しながら、吉野に向かいました。
四条隆資公から、急ぎ吉野の宮に上がるようにと使いが来たこともありましたが、和睦への誘導に向けて、吉野の宮との地ならしをしておく必要があったのであります。
吉野に上がると、まずは帝のもとへ参内しました。
「左衛門少尉正行。隅田城、池尻、八尾城そして藤井寺と、見事な戦いと聞いておる。身体は大事無いか。」
「吉野の宮のお心安らかを祈り、精進を重ねておりますゆえ、ご安心ください。」
「先の軍議で決まったとはいえ、幕府との戦いを、一人左衛門少尉正行に頼らざるを得ない吉野の在り様。申し訳なく思う。
体を大切に、これからも良しなにな。」
「ありがたいお言葉を頂戴し、まことに恐れ入ります。今後も、吉野の宮のため、誠心誠意お勤めいたしますゆえ、何卒、心安らかにお過ごしください。」
「さて、今日呼んだは、ほかでもない。予に仕える弁の内侍を救ってくれたこと、改めて礼を申す。二、三日、ここ吉野でゆるりと過ごすがよい。」
「ありがたきお言葉、まことに恐れ入ります。」
翌日、四条隆資公から、「お茶の会を催すゆえ、如意輪寺に参られたい。」との使いがありました。
如意輪寺につくと、若い僧の案内で、一室に通されると、正行はびっくりしました。
「左衛門少尉正行様。吉野の宮にお仕え致します弁の内侍でございます。先ごろは、私の危ういところをお救い下さり、ありがとうございました。今日は、帝のおぼしめしで、正行様にお茶を差し上げ、お礼を申し上げよとのお許しを賜りました。どうぞ、ゆるりとお過ごしください。」
「弁の内侍様。四条隆資様から、弁の内侍様がお健やかにお過ごしとお聞きし、正行、安堵しておりました。」
「戦でお疲れのことと思いますが、帝にこのような時間を作っていただき、私もうれしく思います。
今や、吉野の宮の運命は、正行様の双肩にかかっておると申す者ばかりでございます。そのように大切な方を、私一人が独占できる喜びでいっぱいでございます。」
「弁の内侍様。この正行とて、同じこと。戦いは、これからが本番を迎えます。このように佳境の時に、今日のような時が持て、この正行、生涯の喜びでございます。」
「正行様。今日は、お会いでき、大変うれしゅうございます。」
「弁の内侍様。この後も戦いは続きます。しかし、必ずや吉野の宮に安寧をもたらす思いでおりますれば、どうぞ、ご安心くだされ。」
「正行様。吉野の宮のため、いや・・・。どうぞ、お体を大切にお過ごしください。」
「弁の内侍様も。今日は、馳走になりました。では、ご免…。」
「正行殿。弁の内侍様のご様子はいかがでしたか。」
「隆資様。帝の思し召しで、弁の内侍様とひと時の安らぎの時間が持てましたこと、戦いの中にある、この正行にとりまして、思いもよらぬことと感謝しております。」
「それは上々。お二人が安らぎの時を持たれたとは嬉しい限りです。
此度の、正行殿の吉野入りは、帝が強く望まれたことです。そして、帝の思し召しがありますので、お伝えいたします。」
「帝から、私へのおぼしめしですと…。」
「正行殿。帝は、正行殿の妻に弁の内侍を、とのおぼしめしです。」
「弁の内侍様を、私の妻に・・・。」
「そうです。帝は、二人は似合いの夫婦になるとおぼしめしです。」
「隆資様。このお話は弁の内侍様はご存知でしょうか。」
「弁の内侍様は、いまだご存じありません。帝は、今日のお二人のことをお聞きの上で、弁の内侍様にお話しされるおつもりでしょう。」
「この正行、妻をめとるなど考えもしておりませんでした。弁の内侍様は素晴らしいお方です。私ごときの妻にとは、あまりにももったいないお話と存じます。日野俊基公のご息女などと、高貴なお方を・・・。」
「正行殿。なにも、そのように卑下することはない。今や、正行殿は吉野の宮にとって欠くことのできない大切なお方です。昇殿をも許され、軍議の席では、帝はいつも正行殿のご意見をお聞きになるほどです。
どうか、帝の思し召しをありがたくお受けなされ。」
「いや。その儀ばかりは・・・。」
「正行殿。帝には、私から良しなにお伝えいたしましょう。
弁の内侍様のご様子からは、おそらくは異存はないものと心得ます。」
住吉天王寺の合戦
ここは、正行が吉野から河内東条に戻った、楠館。
「正時。太吉からの連絡によると、今日、直義が山名、細川らを集めて軍議を開き、明後日の二十五日に布陣を終えるようにとの命があったとのこと。
知らせでは、搦め手の山名軍は住吉に、大手の細川軍は天王寺に、そして陽動部隊として赤松と佐々木の二軍が堺方面と阿倍野方面に向かうとのことだ。
ほぼ、今までに入ってきた情報通りの動きのようだ。
二十五日着陣とあれば、時をおかず、二十六日早朝に手筈通り攻撃を仕掛けることとする。
この旨、わが軍に知らせよ。そして、直ちに出陣できる体制を整え、下知を待てと急ぎ伝えよ。」
「兄上。分かりました。全軍にこの旨知らせます。我らの策に乗って、敵を瓜生野に向かわせれば、おのずと勝利は間違いないでしょう。」
「正時。油断するではない。
瓜生野におびき寄せ、一気に攻撃を仕掛けるのは我らの一番の策であるが、それよりも大事なことは、戦いの場を分散化させてはならないことと肝に命じよ。
住吉、天王寺に陣を構えられ、長期戦になると神仏に向かって弓矢をかけるという思わぬ事態になるやもしれん。瓜生野から一気に押し出し、敵方を一本の線で追い込むことが必要と心得よ。第一陣を蹴散らし、その敗走兵が敵軍の中央を折り返すような形にすることが、此度の戦いに勝利を収める策と心得よ。」
「兄上が申されたとおり、敵の雑兵には目もくれず、大将めがけて一目散に攻め上がること、この事ですね。」
「そうだ。敵の大将、山名時氏、そして細川顕氏を、縦串に突き刺すように攻め上がるものと心得よ。そこに必ずや勝機が生まれる。」
「この旨、合わせて全軍に伝えます。では、ごめん。」
二十六日早朝、石津周辺に火の手が上がり、戦いは始まりました。
戦いは正行の読み通りの展開となったのです。
天王寺に構えていた細川軍は攻撃を仕掛けるいとまもなく、正行の放った火勢の勢いに押され、退却する山名軍、赤松軍、そして佐々木連合軍で極度の混乱に陥り、楠軍手ごわしの風聞も加わり、退却せざるを得ない事態に陥ったのであります。
戦いは、まさに正行の想定した通り、赤松、山名、佐々木、細川各陣が瓜生野、住吉・阿倍野、天王寺と縦串のようになって、渡辺橋に一直線に退却、集中したのであります。
大川にかかる渡辺橋は騒然となりました。我先に京の都へ逃げ帰ろうと渡辺橋に集まった敵兵は、統率は全く取れず、正行軍の攻撃を背に、逃げ惑うこととなり、勢い多くの兵は大川に落ちることとなり、その数はおびただしいものでした。
「攻撃を止めよ。」❕
「お館さま。一網打尽の好機、なぜに、攻撃を止めるのですか・・・。」
「向かってくる敵に攻撃を仕掛けるは戦いの習わし。しかし、今、目の前で大川に落ち、おぼれる兵に戦意はない。このような兵に追い打ちをかけるは、武士にとってあるまじき行為と心得よ。
おぼれる兵に手を差し延べ、川から救い出せ。そして、火を焚くのだ。暖を取らせ、衣服を与えよ。傷の手当てもするのだ。急げ!」
「分かりました。」
川におぼれた多くの敵兵は、手を差し伸べられ、急場しつらえの救護所で、傷の手当てを受け、衣服を与えられ、暖を取り、回復を図ったのです。
「楠の大将、正行様は慈悲深い方だ。敵の我らをお助け下さった。」
「ありがたいことだ。我先に、と逃げてしまった我らの大将とは大違いではないか。」
「そうよ。細川様は、真っ先に船で脱出された。」
「なに。大将が真っ先に船で脱出したと…。何ということか。」
「楠の兵は、我らと動きが違う。大将の下知に従い、攻めるときは一目散に攻め、引くときには功を焦らず、全員が一斉に引く。そして、此度のように敵、味方なく手を差し伸べるときには、武器を置き、ひたすらに手厚く介護される。
わしはこの恩義を忘れんぞ。何とか、恩返しがしたい。」
「わしとて、同じじゃ。」
「わしもじゃ。」
「どうじゃ。楠の大将、正行様にお詫びのうえ配下にお加えいただくようお願いしては。」
「わしは、もう京には戻らん。一糸乱れぬ、楠の兵の戦いぶりは、我らをお助け下さった大将、正行様によほどの信頼があるのであろう。
此度の恩に報い、この先を生きることこそ、わしの誉れと決めた。
誰の為でもない。わしは、わしのために、楠の大将殿についていく。配下にお加えいただけずとも、恩に報いる方法はあるはず。」
「わしも、決めた。」
「わしもじゃ。」
渡辺橋で川におぼれる敵兵を救った正行にとって、思わぬ再会がやってこようとは、この時は想像もしなかったのであります。
弁の内侍に文
住吉天王寺の圧倒的な勝利で、軍事的優位を示した正行は、かねてからの和睦の機到来と期待しましたが、和睦への動きを見せることなく、吉野朝は正行の勝利に酔い、一層、親房の主戦論が力を増したのでありました。
戦い数日後のある日、ここは楠館。
「皆の者。四条隆資公からはなんの知らせもない。そして、吉野の宮から軍議の招集があった。
おそらく、この間の我らの勝利をよいことに、親房公の主戦論のみが走り出しておるものと存ずる。既に、足利方は五万近い兵がこの河内、東条に向かうとの知らせが入っておる。
共に総力戦を避けられるものではない。この正行も義の戦いを収めるつもりはない。此度足利方をこの河内、大和に誘い込み、くぎ付けにし、戦うことで、和睦が整うのであれば、我らにとっては大きな収穫となる。
足利方にひるむことのない宮軍総出動と、吉野の宮復権を勝ち取る和睦の動き、この二つの作戦を同時に進めることが大切なのだ。今を置いてない機会ぞ。我らの戦いは、この時の為に進めてきたのだ。
明日の軍議には、この二つの作戦を進めるという強い決意で臨みたいと存ずる。」
「正行様。我ら一同、もとより正行様のお考えに、誰ひとり異論をはさむものはおりません。のお、皆の者。」
大塚惟正の発言に、居並ぶ全員が、「おー!」と、応えた。
この夜、私は一通の書状をしたためた。
正行の本貫は、ひとえに父、正成の遺訓を守り、吉野の宮の復権を成就することにございます。
桜井の駅で父、正成と別れ、早や十一年の歳月が過ぎ去りました。しかし、父の遺訓を護り、ただひたすらに力を蓄え、帝の政をお支え申し上げ、好機到来を待っておりましたが、今、そのことが成就できる一歩手前までたどり着くことができました。
八月隅田城攻略以来続けてまいりました義の戦いは、足利尊氏殿に吉野の宮強しとの思いを抱かせるに十分の戦果を挙げ、吉野の宮復権のための環境が整いつつあります。
しかし、吉野の宮復権の為には、吉野の宮方が思いを一つにして、総力を挙げて足利尊氏殿に立ち向かわなければ、戦力の差は如何ともしがたく、雌雄を決する戦いに突入してしまえば、父、正成同様湊川の二の舞となることでしょう。
今、吉野の宮をお支え申し上げ、楠そして和田一族を束ねるこの正行が総仕上げをする時機到来と心得ています。
吉野軍議の知らせが届き、この文とほぼ時同じくして正行は吉野の宮に参内を致します。吉野の宮に参りましても、お会いすることがかなわないものと心得、この文をしたためました。正行は、吉野の宮、そして内侍様の安寧を心から願っております。
とても世にながろうべくもあらぬ身の 仮の契りをいかで結ばん
正平
楠正行
弁の内侍様
帝に別れの挨拶、そして如意輪堂に辞世の句
師走も押し迫った十二月二十五日、高師直は手勢七千騎を率いて、八幡に着陣したのであります。
そして、この師直の着陣に合わせて八幡、山崎、樟葉、真木、桜井、水無瀬、神崎と、京から尼崎に通じる一帯に敵方四万の兵が満ち溢れたのであります。
正行は、いよいよ決戦到来と、十二月二十七日、吉野の宮に参内しました。
そして、正行は四条隆資公を通じ、帝にお別れの挨拶をします。
― 父、正成は、たとえ一族が一人になろうとも、金剛山に籠り、力を蓄え、朝敵を滅ぼし、正統なる帝を京にお戻しするのだ、とこの正行に桜井の駅で遺訓を残し湊川に散りました。
今、正行は壮年に達しました。この度の戦いは、すべての力を出し切って戦う場と心得ます。そのことが、父、正成の遺訓に応えることになり、また一方では吉野の宮に組みする武将の望むところと心得ます。
其れゆえに、此度の戦いは、我が身命をかけて戦い、高師直、師泰の首を討ち取るか、はたまたこの正行の首を討ち取られてしまうか、いずれかで合戦の勝敗を決することとなるでしょう。
既に、高師直、師泰は京を発し、河内に迫ろうとしています。年明け早々にも戦いの時を迎えることとなるため、この世において、今一度帝のお顔を拝せんがため、ここに参内いたしました。
四条隆資公が正行のお別れの挨拶を奏上し終える間もなく、帝は御簾を高く巻き上げさせ、正行以下うちならんで付した楠の兵をご覧くださり、正行をおそば近く呼び寄せ、次のように仰せられたのであります。
― 藤井寺、住吉天王子の戦いは見事であった。そなたの父、正成から親子二代にわたる手柄で、感心である。足利軍は全軍を挙げて攻め寄せてくるそうであるから、次なる戦いは天下分け目の戦いとなるであろう。
軍勢の進退は、時機に応じて対処するのが勇士の心するところであるので、次なる戦いでも私が命令を下すことはないと思う。しかし、好機を逃さないため進むという判断も、退くという判断も、いずれも後の勝利を確実にするためである。
私にとって、そなたは、私の手足のごとく最も頼りとする臣下である。
進退の判断を正しくして、命を全うするように。
父、正成は、身体を張っての献策にもかかわらず、「急ぎ兵庫に下るべし」と先帝の命を受け、「君の戦破るべし」と、負け戦・討死覚悟の兵庫下向となりましたが、正行は、帝から「私の手足のごとく最も頼りとする臣下」とのお言葉に加え、「命を全うするように」と、生きて還れとのお言葉まで賜ったのであります。
これにすぐる喜びはありません。が、正行の決意も、また揺るぎのないものでありました。
正行は、続いて、この日同道した正時、賢秀らを従え、先帝の御陵に参拝しました。
先帝の御陵を下った後、如意輪寺の如意輪堂に向かいました。
そして、過去帳に、楠一族百四十三名の名を書き連ね、最後に以下の文をしたためたのであります。
各留半座乗花臺 待我閻浮同行人
さきだたばおくるゝ人を待ちやせん ひとつ蓮のうちを残して
願以此功徳平等施一切 同發菩堤心往生安楽国
この文の意は、「私が先に浄土に生まれましたら、後から浄土に来られる貴方のために、蓮の台を整えてお迎えいたしましょう。同じ志をもって生きてきた仲間のお前たちより先にあの世に行くが、この世と同じように一つ屋根の下で住もう。そして、何よりも、自らを信じ、その信じている喜びを多くの人に伝え、人として生まれてきてよかったと言いあえるような生きざまをしようではないか」と、義の戦い一筋に生きてきた正行の思いを綴ったものでありますが、同時に、弁の内侍への思いをも込めて記したものでもありました。
正行は、過去帳を書き終えると本堂に納め、如意輪堂の板塀の前に立ちます。
―もう、ここに戻ることはない。それは、ここにおるものすべて一緒。よくぞ、ここまで、この正行についてきてくれた。礼を申す。
と念じつつ、鏃を以って、板塀にこの思い其のままに刻んだのであります。
かゑらじとかねておもヘハ梓弓 なき数に入る名をぞとどむる
二度と生きて還るまいと決めた覚悟。その覚悟を決め、死にゆく者の名をここに書き記す、と刻み込み、居並ぶ者全員が、正行の刻んだ文字をかみしめ、決意を不動のものにしたのであります。❕
そして、正行を先頭に全員が髻を切って仏前に投げ入れました。
如意輪堂を後に、正行は吉野を発ちましたが、弁の内侍がひそかに書院から見送っていたことを知る由もなかったのであります。
正行、河内往生院に着陣
吉野から河内、東条に戻ると、矢継ぎ早に情報が飛び込んできました。
八幡に着陣した高師直は、自らは動かず、四條畷を主戦場に想定し、飯盛山から生駒山にかけて、大手軍を進めてきたのであります。
生駒山、飯盛山を手中に収めることが、この戦を有利に進める条件でありましたが、平群から生駒山、飯盛山に向かう右軍の大将は四条隆資公で、しかもその部隊は伊勢、大和、紀伊の混成部隊でした。後れを取っていることは明らかでしたが、正行にはどうすることもできなかったのであります。
正平三年元旦、この日穏やかな年明けでありましたが、それとは裏腹に心中は覚悟の年明けでありました。
「母上。いよいよ父の遺訓を実現するための大戦に臨みます。
此度の戦いは、藤井寺、住吉天王寺の戦いとは異なり、敵将高師直、師泰を討ち取るか、この正行が討ち取られるかの、いずれかで決することでしょう。
万が一、私が討死とお聞きになられても、決して悲しまないでください。父の遺訓、そして私の思いは、正儀に託してあります。父亡き後、母上の庇護のもとこの正行が楠を率い、今日を迎えましたように、正儀のことをよろしくお願いします。
先帝、そして帝にお別れを申し上げ此度の戦に臨む覚悟は如意輪寺に刻んでまいりました。
只今より、出陣します。」
「正行殿。母は、もはや何も申しますまい。ただ、ご武運をお祈りします。」
まず弓隊の百、そして槍隊の百が出発。
続いて、正行を先頭に、正時、正家、正信、助氏、良円、西阿、了願、刑部、忠能ら楠勢を主体にした前陣の騎馬隊四百が出発。
最後に、惟正を先頭に、惟久、正連、行忠、賢秀ら和田勢を主体にした後陣の騎馬隊四百が一糸乱れぬ隊列を組んで進んだのであります。
――― 兄上。必ずや勝利してくだされ。河内、東条はこの正儀が必ずや死守いたします。
正儀を先頭に、正行の部隊を見送る留守居の兵、そして集まった多くの河内、東条の民、百姓等は、いつまでも見送り続けてくれました。
そして、母は 『もしや。これが最期か。』 と、一人泣き伏していたのであります。
縣下野の守と野崎あたりで戦端開く
正平三年一月五日、正行にとって、人生最後となる最も長い一日が明けました。
「正行様。我らは、昨年十一月、住吉天王寺の合戦において、渡辺橋でお助けいただいたものにございます。あの時の御恩は忘れるものではございません。
此度、正行様の天下分け目の戦いとお聞きし、何としてもその一員にお加えいただきたく参上しました。」
見れば、百名を超える兵がひれ伏しているではないか。
渡辺橋で助けた兵百余名が加わり、いやが上でも士気が上がる中での出陣となったのであります。
正行の率いる前陣を先頭に、ややおいて惟正率いる後陣と続き、この日、千百余名の部隊は整然と、河内往生院から出陣をしたのであります。
生駒の峰に布陣した佐々木道誉は、正行らの動きを見るも動かず、生駒の峰に布陣したままとどまっていました。
最初の衝突は、往生院からほぼ二里の距離にある野崎の東方に陣した縣下野守率いる白旗隊三千二百でした。
ここでは、我が方の兵もほとんど失うことなく勝利しました。そして生駒の峰の佐々木道誉も動かず、背後に対する備えを万全にしながら、兵を大道に沿って北に進めたのであります。
十念寺西方で武田伊豆の守と激戦、半数の兵失う
正行そして正時を先頭に、十町近く大道を北へ進んだところで、敵兵の姿を捉えました。
飯盛山の真西に当たる北条辺りまで来ると、小旗部隊の精鋭、四十八騎が北条神社付近の小松原から松木立をかき分けるように駆け下り、飯盛山を背後にしながら、楠の兵の前面、北方を遮断するように陣したのであります。
正行は、この時、まさに虚を突かれてしまいました。
この好機を佐々木道誉が見逃すはずはありませんでした。
生駒の峰に陣し、動く好機を探っていた佐々木道誉率いる三千の兵が、急遽、山道を返し、三手にわかれて楠の兵の背後に迫ってきたのであります。
正行も慌てたが、最も慌てたのは惟正でした。
武田勢との激突に加え、新たな小旗衆の襲来に気を取られ、佐々木道誉の背後からの襲撃に十分態勢を整えることができず、集中的に反復攻撃を受ける羽目になってしまったのです。惟正率いる後陣は総崩れとなり、その大半の兵を失うこととなってしまいました。
正行の率いる前陣部隊も、敵将、長崎彦九郎や松田小次郎ら、屈強な四十八騎の攻撃に加え、佐々木道誉の部隊も加わり、虚を突かれた不利な要素もあり、攻めあぐね、力を出し切れず、ほぼ半数近くの兵を失う結果となってしまったのです。
南野一帯で楠兵法駆使するも衆寡敵せず
巳の刻(午前十時)、野崎あたりで始まった衝突は、午の刻(正午)を過ぎ、北へ十町ほどの北条、南野に移っていました。
ここでも正行の策は的中する形となり、第一陣の一番手、細川相模守清氏五百五十騎を破り、二番手、仁木左京太夫頼章千八百騎を蹴散らし、三番手の千葉介貞胤、宇都宮遠江入道貞泰合わせて三千三百五十騎とは、押しつ引きつ三度の戦いを繰り返し、ようやくにして退却をさせることができました。
しかし、三番手の千葉介貞胤の兵との交戦で、正行の兵も百騎を失う結果となってしまいました。まだまだ精鋭ぞろいとはいうものの、残る兵は大よそ二百騎余りになったのであります。
正行は、早朝より続いている合戦の疲れも相当な様子の兵を見、また、第二陣に構える敵兵の動きを探る意味からも、兵を一時休ませることとしました。
「正時。権現川の南手に、兵が休める田間を見つけよ。少し休息をとるがよい。そして、皆に兵糧食、水を与えよ。」
「兄上、分りました。」
束の間でしたが、田間で休息を取り、兵糧食を口にした兵たちは、英気を養い、態勢を整えることができたのであります。
敵の第三陣は、高師直の本陣と、もう目の前ともいえる中野の地に布陣していました。
師直本陣目前の中野、偽首に諮られる
巳の刻に戦端を開始したこの日の戦いは、幾度となく衝突を繰り返しながら、未の刻を過ぎようとしていました。
野崎から北条、南野、中野と四條畷の地を北に前進を続けてきた正行は、南北に走る大道、東高野街道と東西に交差する清滝道の手前までたどり着くことができました。
この間、二万を超える敵兵を蹴散らしたものの、楠の兵も多くを失い、百騎余りとなっていたのであります。
「正時。いよいよ師直の本陣も近い。よくぞ、ここまで来られたものよ。多くの兵を失いはしたが、目指すは師直の首一つ。抜かるではないぞ。」
「兄上。もとより。」
「わずかの兵となった今、もはや、策を講じることは難しい。
体力の残る精鋭を前に出し、この正行を先頭に、一丸となって師直の本陣を突くこととする。よいな。」
「兄上、承知。
残っております槍隊を前に出し、わずかですが弓隊をその後ろにおいて、兄上の命のもと、一塊になって師直に臨みましょう。」
しかし、この後すぐ、敵の放った矢が初霜の足と胴に突き刺さり、正行は下馬を強いられることとなり、一塊となった楠の兵は全員が歩いて前進しました。
ついに、師直の本陣まで約半町のところまで迫った、その時であります。
「楠の兵よ。あっぱれな戦いぶりであった。我こそは、武功天下に顕れたる高武蔵守師直なり。いざ、決戦!
正行をはじめ、楠の兵はこの叫びに色めきたちました。
長年、宿敵とその首を討ち取ろうとしてきた足利の執事、高師直が眼前に現れたのであります。
正時、賢秀、刑部、行忠、正家ら楠の重臣が馬上の師直を取り囲み、落馬をさせたので、正行は、師直ののどを刺し、「敵将、師直の首、討ち取ったり!」❕
と、絶叫したのであります。
正行の絶叫に合わせるように、
「おおー!」と、楠の兵は一斉に勝鬨を挙げました。
正行は、師直の打ち首を槍にさし、頭上高く掲げました。
「正行様。これは師直の首ではございません。」
「なに!」
「これは、上山六郎左衛門の首にございます。」
「なに、さては諮られたか。偽首とな・・・。師直の首と見たは誤りであったか。
しかし、敵ながらあっぱれであった。見事な最後であった。師直のもとにもこのように志ある勇敢な武士がおったとは。
上山。そちの首は皆と一緒にせず、丁寧に弔うぞ。」
と、正行は自らの小袖を破り、上山の首を丁寧に包み、清滝川堤の上に差し置いたのであります。
博愛精神あふれる、武士道の人、正行、面目躍如の一場面であります。❕
敵はこの一瞬を逃すはずもなかったのです。
束の間のぬか喜びに浮沈する楠の兵に、師直の本陣から高師冬の兵数百騎が襲いかかってきたのであります。
正行は、高師冬の兵を迎え撃ち、最後の力を振り絞り、退散をさせると、直ちに、雁屋方面に向かってススキの中を南に退いたのであります。この頃には、正行の兵は五十騎ばかりに激減をしていました。
雁屋で、須々木四郎の放った矢を膝頭、頬、目じりに受ける
「正時。師直の首が偽首とは不覚であった。」
「兄上。しかし、にっくき師直は目と鼻の先です。今一度、態勢を立て直し、師直と相まみえましょう。」
「正時。もちろん。このススキ野の中で、これだけの小人数ともなれば、敵もそう簡単には我らを見つけることはできまい。どこか、適当な場所を見つけて、手当ての必要な者には手当を施し、武具を整えることといたそう。」
と、雁屋のほぼ中心、田間のススキ野原に差し掛かった時、楠の兵に向けて一斉に矢が放たれて飛んできたのであります。
敵もさるもので、高師兼の献策を受けた師直は、正行らの行く手を囲むようにススキ野に弓隊を配置し終え、一斉に弓を引いてきたのであります。
敵の弓隊の中心、須々木四郎は、九州の武士で、素早く多くの矢を射ることのできる名手と謳われていましたが、この須々木四郎のいる強弓は、次々と楠の兵を射とめていったのであります。
早朝からの戦いで、楠兵の鎧は破れたり、体温で暖まって伸びきったりして、いたるところに隙間ができており、須々木四郎の放つ矢はことごとく兵の身体深くまで突き刺さったのであります。
楠の残兵は、ことごとく重傷を負うこととなりました。
正時は、須々木四郎の放った矢で、眉間と喉の脇を射られました。
正行も、この須々木四郎の放った多くの矢が身体に突き刺さり、左右の膝頭を三か所、右の頬、左の目じりを射られてしまったのであります。
正行、最期の地は津の辺
正行は、
「敵の手にかかるな!」
と、叫びながら、最後の力を振り絞って、権現川沿いの堤の上、津の辺辺りまでたどり着くと、「正時はいるか。」
「兄上、正時はここに。」
と、正時の声をかすかに耳にすると、
「もはや、これまでか。」
「兄上。この正時、兄上の目指された義の戦いを共に戦う事ができ、本望にございます。」
「正時。よくぞ申した。
何としても吉野の宮の復権をと、師直の首一つめがけて臨んだ、ここ四條畷での戦いであったが、もはやこれまでのようだ。
敵の手にかかるまい。
共に、父上が待っておられる所に参ろうぞ。」
「兄上。共に。」
と、正行と正時は相刺し違えて、命を絶ちました。
時に、正平三年一月五日、申の刻になろうとしていました。
享年、正行23歳、正時21歳でした。
今、正行は、四條畷市雁屋の小楠公墓所に眠っています。そして、四條畷神社に祀られています。
明の儒臣、朱舜水は、吉野朝復権ただ一筋に生き抜いた正行を、中国千年の英雄、元に屈しなかった南宋の義士、文天祥になぞらえ、称賛した正行像賛を遺しています。
最後の一節を紹介しましょう。
人生古より誰か死なからん。丹心を留取し、汗青を照らす。
どうせ死ぬのなら、至誠忠義の心をしっかりと世に残し、長く歴史に輝かしたいものだと、元に最後まで屈しなかった文天祥と吉野朝復権という至誠忠義を貫いた正行の生きざまは、まさに同じであると称賛しています。
郷土、四條畷が誇る武士道の人、楠正行の生涯、一巻の終わりでございます。
ご清聴、ありがとうございました。
(了)
●次回例会
日時 9月14日(火)、13時30分~15時00分
場所 四條畷市立教育文化センター2階・会議室
内容 公開講座「楠正行の生涯を学ぶ」第1回
~正行の幼年時代~
●傍聴、入会大歓迎!
郷土、四條畷の歴史、そして四條畷神社に祀られる楠正行に関心をお持ちの方、一緒に学びませんか。
例会は、毎月・第2火曜日の午後1時30分から3時までです。
お気軽に、教育文化センターの2階ホールを覗いてください。お待ちしております。
正行通信 第131号はコチラからも(PDF)
楠正行の会 6月の例会はお休み
●緊急事態宣言下、教育文化センター閉館のため、例会は5月に続き休会
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令和3年5月11日(火)●緊急事態宣言下、教育文化センター閉館のため、例会は休止 |
日時 | 令和3年4月13日(火) 午後1時30分より3時 |
場所 | 教育文化センター 2階 会議室1 |